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目次
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第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
最後に
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化け物祭考 ー「マレビト信仰」との関連からー

第一章・「マレビト信仰」とは

 「化け物祭」と「マレビト信仰」との関係を考察する前に、この「マレビト信仰」とはいったいどのようなものであるのかを定義しておく必要があるだろう。
 異人、客人、稀人など様々な呼び方で、古くは折口信夫から、最近では赤坂憲雄、小松和彦など、多くの研究者たちによって様々に論じられているものだが、これらの先生方の著書を読みかじった受け売りを含めて、私なりの考えを述べて、ここでの「マレビト信仰」を定義したいと思う。
 
 一言で言ってしまうと、「マレビト」とは共同体の外からやってくる見知らぬ「もの」のことである。
 日本列島に稲作が伝わり、それまでの狩猟採集が主体の非定住型から、農耕中心の定住型へと生活様式が変化し、しばらくたったくらいの時代のことを考えてみてほしい。共に田を耕し生活を快適にしようと協力する村落内の人々は、ひとつの緊密な共同体を形成している。古代であれば、ひとつひとつの村落の構成員は少人数であったろうし、行き来できる範囲にある別の村落もゆるい枠で囲われた同じ共同体と言っていいだろうと思う。
 要するに、顔を見て「どこのなに某」とわかる者が同じ共同体の人間ということだ。
 そこへ、どこの誰ともわからない「もの」がやってくる。
 人々は自分たちの生活している共同体の内部、または当時の交通手段で行って帰ってこられる範囲以外のことを知らないのだ。
 
 交通・通信手段の発達した今では、地球上の人類のことはほぼ全て把握され、鬼も神も雪男も現実にはいないであろうことは、ある程度皆が理解しているが、宇宙人に関してはどうだろうか。太陽系の外に行って帰ってくる手段を未だ持たない我々にとって、地球外生物は想像の産物でしかない。アルファケンタウリにいるかもしれない宇宙人は、どのような姿をしているのか、文化レベルはどれくらいなのか、地球の人間達に対して友好的なのか敵対するものなのか… すべては想像するしかなく、それゆえ様々なSF小説が書かれている。そこでは宇宙人はモンスターとして描かれることもあれば、神として描かれることもある。実際に、宇宙には神様がいると言って信仰の対象にしている人々もいる。
 古代の人々にとって、交流のないよその土地の人間は、今でいう宇宙人のようなものだったのではないだろうか。越えて行くことができない川や険しい山の向こうには、何ものかが居る気配がする。しかし、それが何なのかはわからない。遠目に姿を垣間見たり、山中でたまたま遭遇したりすることがあっても、言葉や身なりや習慣の違いから、それは自分たちとは違う世界のもの達であると語り伝えられる。
 自分たちの生活圏の外には現実の世界とは異なる「異界」が存在し、そこには何ものかがいる。そして、その「異界」から稀に人がやってくる。
 それが、「マレビト」である。
 古代におけるある共同体の人々にとって、外からやってくるものは「異界」からの「マレビト」であるが、実際は遠く離れた別の土地からやってきたただの人間に過ぎない。しかし、その人間は高い確率で、その共同体にはそれまでなかったものを持ってやってきたであろう。それは便利な道具であったかもしれないし、その土地では採れない珍しい石や作物の種、または治水や建築の技術だったかもしれない。
 それら、自分たちの生活によいことをもたらすものを「福」とし、それを持ってやってきた「マレビト」を福の神として歓待したであろうことは想像に難くない。ところが、その福の神は同時に「災い」をもたらすものでもあるのだ。生活の道具や知恵や新しい作物を持ってやってきた人間は、その交換条件としてその土地の作物や知恵を差し出すように言ったかもしれない。また、川に橋を架ける技術を伝授する代わりにその川沿いの肥沃な土地をもらう、ということも言い出したかもしれない。
 発展途上の小さな共同体にとって、入ってくる「福」はいくらあってもかまわないが、内部のものが出ていくことは「災い」である。また、なにかを貰っていくと言わずに「福」だけ置いて、手ぶらで帰ろうとするものもあったかもしれない。しかし、未知の土地からやってきたものを帰してしまっては、こちらにとっては未知の人間達との間にルートができてしまうのである。そこから、大勢の兵隊達がやってきて自分たちの土地が脅かされるかもしれない。要するに、形のない情報でさえも渡したくはないのだ。
 同じ人間同士の取り引きであれば、もらうものがあれば差し出すものもあるという等価交換が当然のことであるのは、古代の人間であっても認識していたであろう。自分の故郷へ帰るという人間を帰さないというのも、同じ人間として考えればよくないことであるということも分かっていたと思う。
 しかし、その相手が人間ではなかったらどうだろうか。
 そこで「異界」の登場である。
 「マレビト」はただやってきただけなら、福の神でも災いの元でもないただの「ヒト」だ。単なる流れ者として共同体の新しい構成員に迎え入れ、その後の生活を共にしたかもしれない。しかし、その「ヒト」がなんらかの取り引きを持ちかけてきたとき、そしてその取り引きに共同体の人々が応じられないと思ったときは、旅の「ヒト」は、「異界」からの「マレビト」と認識されるのだ。
 「異界」は、自分たちの世界とは違う論理で構成されている世界であり、こちらの常識も通じないと考えられる。従って、なにか貰うものがあれば差し出すものが必要であるという、こちらの常識を適用しなくともよいという結論になったとは考えられないだろうか。
 
 「猿婿入り」という昔話がある。
 ある時、畑仕事をしていた爺が、仕事のあまりの辛さに「この仕事をやってくれる者がいたら、娘を嫁にくれてもよい」とつぶやいてしまう。すると、それを聞きつけた猿が出てきて仕事を片づけ、約束だから娘を嫁にくれと言う。爺の3番目の娘は嫁に行くことを承知するが、嫁入りするときに「里帰りするときに親に餅をついて持ってきてやりたい」と言って、重い臼と米を猿に背負わせる。嫁入りの途中、娘は谷川のそばの花を猿にせがむ。猿はその花を取りに木に登るが、重い荷物のために木の枝が折れて川に落ち、死んでしまう。そこで娘は喜んで家に帰り、親の元で幸せに暮らしたという。
 
 語られる土地によって、猿は河童だったり蛇だったり狐だったりといろいろで、彼が背負わされる荷物も様々だが、そこで語られていることは、人間とは違うなにものかが人間と取り引きをしようと持ちかけたが、人間の知恵でもって撃退された、ということである。
 そこに、今日の我々が感ずるような「猿がかわいそう」という概念は入り込む隙がない。強いて言えば、娘が親孝行であったということを強調する語り方がされているようだが、これも、中世以降の儒教、仏教の影響ではないかと思われる。ここで語られているのは、猿の強引な取り引きを人間の知恵で反古にできて「よかった」ということなのである。
 これが人間同士の取り引きであれば、仕事を片づけてもらった対価として約束の娘を嫁にやらないのは契約違反となり、悪いのは爺や娘の側となる。しかし、相手は猿である。猿に人間同士の約束事を適用できるはずはないから、賢い人間の知恵で殺してしまえば、それでお話はめでたしめでたしなのだ。
 
 この猿がすなわち「マレビト」である。「マレビト」は、共同体に「福」をもたらすものであるが、同時になんらかの「災い」ももたらす。しかし、その「マレビト」は人間とは違う常識で成り立っている「異界」からの訪問者であるから、取り引きを反古にして殺してしまっても契約違反とはならない。
 かつて小さな共同体を守るために人々は、そのように考えたのではないだろうか。遠い昔に本当にそのような「マレビト殺し」があったかどうかは重要ではない。共同体内部の人々が共通の認識として、そのように考えていたということが重要なのである。
 そのように信じる人々の中から「マレビト信仰」が生まれてくる。
 
 ところで、自分たちが属する共同体を守るとは、一体どういうことだろうか。
 原初、茫漠と広がる自然のままだった土地に境界を定め、内と外を分けて混沌を外に追いやり、内側には一定の安定した環境を保つ。毎年の季節が巡るごとに同じように成長し実をつける作物を互いに協力して育て、それを分配して生活している人々にとっては、共同体内部の秩序が、こうと決めた形で保たれていることこそ、第一に重要なことだったであろう。その秩序を保つために、外からやってくる異質な力やものを様々な仕掛けで排除する。それがすなわち、共同体を守るということであり、農耕定住民の場合、その仕掛けこそが文化や信仰として発展していく。
 現代においてもそれは基本的には変わらない。現代は人間個人の属する共同体が、たとえば、家、会社、地域、友人関係などと多層化し、また複雑に重なり合っているために、ひとつの共同体にとっての異質なものを排除すればそれで解決するというものではなくなっている。しかし、一人の人間に対してひとつの共同体、というふうに単純化して考えた場合は、境界の内側の秩序を保つことが(物質的にも精神的にも)安定した生活を送るために必要であるという考えは十分に当てはまると思われる。
 「猿婿入り伝説」で語られる、猿が村の娘を嫁にもらっていくということは、明らかに共同体内部の秩序の乱れであり、娘が猿を殺して親の元に無事戻ってくることは秩序の回復にほかならない。
 元々は秩序が乱されたことによって、それを回復するために猿(マレビト)は殺されたわけで、そこでは因果関係は一対一で対応しているのであるが、その共同体内の秩序の回復ということに重点が置かれたとき、その一対一の対応関係は崩れていき、「共同体内の秩序の乱れ」対「マレビト殺し」と捉え方がシフトしていったとは考えられないだろうか。
 共同体の内部になんらかの秩序の乱れがあったとき、それは隣人同士の争いであったかもしれないし、作物の不作、流行病、といったことであったかもしれないが、その秩序の乱れは「マレビト」を殺すことで回復できる、という思考の飛躍がそこにあったのではないだろうか。
 「マレビト」は「福」を持って共同体の外からやってきて、殺されてしまうことによってその「マレビト」自身が持ち込んだ「災い」と共に、共同体内部にいわば自然発生的に生じていた「災い」も排除してくれる。一石二鳥または三鳥でもある存在となったのだ。
 
 すなわち「マレビト信仰」とは、生活圏の外にある異界よりやってくる「マレビト」が福をもたらし、そしてその「マレビト」を殺すことによって共同体内部の秩序を回復することができる、と信じられていた(いる)信仰のことである。これが、多くの側面を持ち、多様な発展をしてきた「マレビト信仰」の、少なくともひとつの形ではないだろうか。
 
 様々に異論があることだろうが、ここでは、「マレビト信仰」を以上のように定義づけたいと思う。



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