ひとりでやっている小さな出版社です。自社発行の本をネット販売しています。

目次
目次
序章
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
最後に
参考文献

鶴岡って、どんなとこ?
鶴岡関連のリンクです。
鶴岡市観光連盟
庄内を遊ぼう
庄内シティ

「稀人舎」発行の本の紹介
未入籍別居婚
飲んだくれてふる里

化け物祭考 ー「マレビト信仰」との関連からー

第三章・定例祭への発展

 現在、毎年5月25日に「化け物祭」が行われている山形県鶴岡市は、東北地方の日本海に面した平野にあり、昔から多くの人が住んでいた。縄文時代からの遺跡も多く出土している。
 先住民族であったであろう蝦夷と中央政府との抗争もあり、他の土地からの農民の移住なども行われ、古代律令制下では、出羽郡、田川郡として中央に統治されていた。
 平安時代頃には荘園も設置され、今の鶴岡市のあたりは大泉庄と呼ばれていた。おそらく、それまでの小さな共同体がいくつかまとめられ、そこを一人の地頭が治めるようになったのだと思われる。
 以前の小さな共同体から発展し人口も増え、行き来できる範囲とはいえ、かなり広い地域が、いわばひとつの地方自治体となったとき、その中の住民みんなが顔見知りだったとは考えにくい。
 「顔を見て、どこの何某と分かる人間がひとつの共同体の構成員」という関係は、この段階では、あり得なくなってきている。もちろん、その自治体の中はさらに細分化され、村、郷、という単位では、以前の顔見知り同士の共同体がまだ存在していたであろうが、その小さな共同体をいくつも束ねて一括で統治しようとした場合、その統治者は、それまでは見知らぬ者同士であった人々を、ひとつの国の同じ国民であるという意識下に置かなければならないのだ。
 小さな共同体では、住民たちの中から自然に生まれ出ていた安定を図るための様々な行為を、今度は、統治者の側から提示していかなければならない。この土地にいれば安定した生活が保たれ、守られているのだ、ということを統治者は、被統治者たちに印象づけるのだ。
 ただ、すべての人間が顔見知りで構成されていた以前の小さな共同体でのように、なんらかの秩序の乱れが起こったときに、その秩序の回復のために祭祀を催す、という臨機応変な対応は、共同体が大きくなるに連れ、難しくなってくる。
 もちろん、飢饉や災害など、住民すべてが認識できるような災厄であれば、その都度、雨乞いや厄払いなどの祭祀を行い、それはかえって「これこのように、この土地では緊急の場合にも対応しているので安心ですよ」とアピールすることもできたであろうが、そうではなく、もっと日常的なレベルでの秩序の乱れや個人的な災厄に関しては、いちいちに統治者が対応するわけにはいかない。
 そこで、季節の巡りに合わせた定例祭が行われることになる。毎年決まった時期に祭礼を行い、神に祈って、災厄を祓い、これで後一年は内部の秩序が保たれるとしたのである。
 「化け物祭」の場合、前述の「マレビト信仰」による祭祀を応用し、定例祭としての体裁を整えていったのではないだろうか。
 それまでは、共同体内部の秩序の乱れが生じたときに必要に応じて行われていた、「マレビト」を呼び込み、そして殺してしまう、という祭祀を、毎年春の田植え前の時期に行うことで、それまでの秩序の乱れの回復とその年の安定した生活を祈願したのだ。
 現在では5月25日に行われている「化け物祭」だが、江戸時代以前は旧暦の3月、今の4月頃に行われていたという記録がある。雪国である当地ではまさにこれから今年が始まる、という時期である。
 定例祭という形で祭祀が行われるようになったのは、荘園が置かれる前だったであろうが、その時は、いくつかの共同体の集まりの中から自然発生的に生まれた、シャーマン的な性格を併せ持った土地の一族なり、その中の一人の長が取り仕切っていただろうと思われる。そこに、中央政府から派遣された純粋に政治的な統治者が地頭としてやってきて、その役目を引き継いだのだ。その時点で、祭の最後に「マレビト」を殺して災いを祓うという儀式は取り止めになったのではないかと思われる。
 大昔から「マレビト信仰」という精神的な結びつきのある土地の人々の、いわば「言わなくても分かる」部分で行われていた祭を、よそ者である統治者が仕切る場合、それまでの精神世界での内部の秩序回復や安定を祈願するということよりも、もっと誰にでもわかりやすい、五穀豊穣、災難、海難避けなどの祈願に重点が置かれていくだろう。
 福をもたらした「マレビト」を殺すことによって、共同体内部の秩序を回復できるという認識には、第一章で解説したように、ある種思考の飛躍がある。先祖からの同じ記憶を共有している土地の人々同士であれば、なんの不思議もないことでも、よそからやってきた者にとっては入り込めない共同幻想のようなものだ。一方で、仏教思想の広まりによって、異界からの「マレビト」という概念が、一般的にわかりにくくなってきたということもあるだろう。「マレビト」であろうとも人殺しは悪であるという仏教の影響で、福をもたらすという「マレビト」の善の面だけが強調されるようになってきたとも考えられる。
 しかも、中央から任ぜられてよその土地からやってきた地頭は、その者自身が「マレビト」なのである。よそからやってきて、建前としては土地の者に恩恵を与えようとしている統治者こそ「マレビト」として殺されるのに適した者はいない。むしろ「マレビト殺し」の重要性を理解できるが故に、毎年の定例祭として行うにあたって、祭祀の最後に「マレビト」を殺してサイノカミに捧げるという儀礼は省かれていったのかもしれない。
 平安時代や中世頃まで、サイノカミや土地神に人身御供が捧げられたという記録は各地にあるようだが、それはあくまでも水害を治めるときや橋を架ける等の緊急の場合であり、毎年の祭礼に実際に人を殺すことがあったという記録はないように思う。むしろ、昔は毎年人身御供を捧げていたが、ある理由から行われなくなったという由来が語られていることが多い。
 鶴岡市の隣、大山町という所に「犬まつり」という祭がある。この祭の由来を語る伝説は全国に分布しているメッケ犬伝説の系列のものだが、昔、毎年村の娘を人身御供に要求していた入道(むじな?)を、犬を連れた旅の六部が退治した、というものである。
 この由来は、昔は人身御供を捧げる祭祀を行っていたのを、よそからやってきてこの土地を支配し始めた統治者が止めさせた、ということを言い伝えているのではないだろうか。
 また、統治者の権力をもって、自分ではなく昔ながらの山の民や漂泊民を「マレビト」とみなすということもできたであろうが、それも時代が下るに従って難しくなってくる。
 昔の小さな共同体での祭祀の場合、人身御供は共同体の外の人間をそれに当てればよかったし、共同体が小さく緊密であれば、内と外が厳密に分かれていて「外の人間」という存在も、さほど悩むことなく特定できたであろうが、それまでより大きなくくりで共同体を捉えなければならなくなると、誰が内側の者で誰が外部の者なのかは、はっきりとしなくなってくる。ここからここまでの「土地」がひとつの共同体である、と規定した場合、その中にいるいわゆる山の民や漂泊民は、住民なのか、そうではないのか、統治者にとっては難しいところだ。
 漂泊民は、漂泊民であるが故に、この土地にとどまっていればいずれ殺されるかもしれないとなれば、よそに流れていってしまうこともある。統治者にとっては、漂泊民であっても統治下におき、支配できることが、内外にその力を示す上でも重要であった。
 以上のことから、「マレビト」を呼び込んでの祭祀を定例祭として取り込んでいく過程で、実際の「マレビト殺し」はなくなったと考えられる。
 「マレビト」である「化け物」は、祭の間だけ町の中を福(酒)を振る舞って歩き回り、最後はサイノカミのもとに集まって姿を消す。現在では、「化け物」に扮した者が必ず天神様に参らなければならないという決まりはないようだが、今も言われている「3年、正体を見破られずにお参りできれば願いが叶う」という言い伝えから推測するに、「化け物」は、福をもたらした後はサイノカミを祀った社など、決まった場所に行くのが決まりだったのではないだろうか。そこで、サイノカミに捧げるなんらかの儀礼を行って祭の終了としたのである。

 同じ「マレビト信仰」から発しているようだとはいえ、他の土地の「マレビト」がその存在を神に祭り上げられ、そのものが信仰の対象となっていったのに対し、「化け物祭」の「化け物」は、あくまでもサイノカミに捧げられる人身御供としての「マレビト」のまま、定例祭に取り込まれていった。実際に殺されることはなくなっても、「化け物」は神へのささげものとして祭の間だけ呼び込まれる存在であったのだ。
 そのため、「化け物祭」の「化け物」は、秋田のナマハゲや北陸地方の歳神などと違って、どこから来てどこに帰る、という伝説が語られることは一切ない。普通、祭礼に現れる異形の者は、普段は山の上や海の向こうにいる神であり、祭の時にだけやってきて福をもたらし、またいつもの居場所に帰っていくということが語られるが、「化け物」は、祭のときにだけ現れ、祭が終わると忽然と消えてしまうのである。祭以外の時はどこでどうしているのかを説明されることはない。
 その代わりに、「道真公を太宰府に見送るときに顔を隠して…」という由来があるわけだが、先に述べたように、どうもその説は後でとってつけた説明としか思えない。
 実家の父母に聞いても「ああ、アレはほんとのことじゃないだろうなあ」という答が返ってくる。じゃあ本当はなんなのかと聞くが、「さあなあ…」と言うばかりで特にそれ以上考える風ではない。
 「化け物」が、実際は殺さないが本当は人身御供であるということを、人々が意識の底ででも認識しているうちは問題がなかっただろうが、時代が下り、祭が儀礼化して意味が失われ変質していったとき、あの「化け物」とは、一体なんなのか、という疑問が生まれる。
 そこで、その疑問に答える形で、天神信仰との関係を、ある意味無理矢理に説明付けたのである。
 人々は、何かが違うと思いながらも、自分たちが昔、人身御供という名の元に人殺しをしていたという説よりも受け入れやすい、その由来を受け入れ、「化け物祭」を「天神祭」としたのではないだろうか。それは、当時の支配者たちが、地元に根を下ろし、元からの住民たちと共にこの土地を守っていくために必要なことでもあったのだ。

 今の鶴岡市に天神信仰を持ち込んだのは、鎌倉時代に大泉庄に地頭としてこの土地にやってきた武藤氏という武士の一族である。



▼ご意見・ご感想は「稀人舎」まで