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目次
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序章
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
最後に
参考文献

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化け物祭考 ー「マレビト信仰」との関連からー

第四章・天満宮との関係

 平安時代末期、東北地方全域で強大な権力を誇っていた奥州藤原氏は、出羽の国ににもその力を広げ、鶴岡の辺りは藤原氏の一族である田川氏が支配していた。その奥州藤原氏を源頼朝がうち敗り、今の鶴岡である大泉庄には、頼朝の家人であった武藤氏を地頭として送り込んだ。
 武藤氏は、土地の名を取って大泉氏とも名乗り、のちの鶴ヶ岡城である大宝寺城を居城として、近隣の最上氏や上杉氏と抗争を繰り返しながらも、以来400年に渡りこの土地の豪族として支配を続けた。
 この武藤氏が、1470〜1480年頃に、城内天神として勧請したのが、鶴ヶ岡天満宮の始まりであるといわれる。
 このころ、全国的に武士の間で天神信仰が流行していたらしい。室町から戦国時代へ移ろうとしていたころで、武士が支配階級としての地位を確立した時代だったろうから、国を治めるためには武力だけではなく、学問も大切だと思われていた、ということだろうか。
 いずれにしても、城内天神ということであるから、武士だけが参拝することのできる社であっただろう。天神様は雷神としての性格も併せ持つことから、天候を司る神としての信仰も集めていたとも言われるが、武士たちが五穀豊穣や海難除けの祈祷をするとは考えにくい。やはり最初は学問の神として勧請されたと考えるのが妥当と思われる。
 そのころの城内天神での祭礼では、武士たちが顔を隠し、簡単な仮装をして、酒を献じ、社の廻りを3回まわって、天神様のお流れの酒を頂戴したという。その、「仮装をした」という点と「お流れの酒を頂戴した」という点が、今の「化け物祭」の仮装した「化け物」が酒を振る舞って歩く、ということに発展したのだという説もある。しかし、武士の簡単な仮装は、祭礼の際に身分の上下をなくして天神の前では皆等しく拝礼をするという意味であったろうと思われるし、酒を云々に至っては、全く逆である。天神様に振る舞われる側であった者が、なぜ人々に振る舞うようになったのかの説明はどこにもない。
 おそらく、室町、戦国時代を通じて武士たちの間で信仰されていた天神の祭礼では、上のような作法がなんらかの由来によって行われていたのだろう。そして一方、城下では古代から続く「化け物祭」が民衆によって、まったく別の祭として毎年行われていたと思われる。そのころの「化け物」の仮装がどのようなものだったかは、想像するしかないが、「マレビト」の徴である簑笠を身につけ、なにかで顔を隠した姿だったのではないだろうか。その、お参りする者が「顔を隠す」という共通項から、天神様の祭礼と「化け物祭」が、後に習合していくことになったのではないだろうか。
 
 武藤氏が最上氏との抗争に敗れて1580年代に滅亡し、その後、大泉庄は、豊臣の時代に一旦上杉氏の支配下に置かれるが、1600年の関ヶ原の戦いの後は最上氏の領地となる。その後、最上氏がお家騒動により改易となり、最上52万石は分割され、今の鶴岡市のある辺りは庄内藩14万石として、それまで信州にあった酒井氏が藩主となり、江戸時代の終わりまで酒井氏の支配が続く。
 城内天神であった天満宮は、最上義光が大宝寺城を鶴ヶ岡城と改め改築する際、1603年に、城下の五日町に移され、さらに酒井氏の代になってからの1674年、現在の地である神明町に遷宮された。
 
 おそらく、城内から城下に移されたときに、「化け物祭」を行っていた氏神(サイノカミ)を天満宮に取り込んだのではないだろうか。民間で古くから信仰されていた氏神を、武士の神である天神に取り込むことで、領主である最上氏や酒井氏は、政治的な面だけでなく、精神的な面からも城下を支配しようとしたのだ。
 城下に移された後、1619年に渡海無事の祈願を行った記録が見え、その後、1742年から1766年まで25年間に渡って海難除けの祈願が行われている。また、雨乞いの祈願や、領主家の奥方の当病平癒、参勤交代の際の道中無事祈願なども行われており、天満宮は、学問の神としてより、土地の氏神として、領主からも頼られ、または利用されていたものと思われる。
 これは、日本の支配者たちが古代から行ってきた方法と同じだ。土着の神を、自分たちの持ち込んだ神と同等か、それよりも上座に置くことで、先住民族たちを従えてきたのだ。出雲の大国主命や、大和の三輪山の大物主の神などがその例である。現在の天満宮の境内に、天満宮の石碑と猿田彦神の石碑が並んで立ててあるも象徴的だ。
 その天満宮で催される祭では、当初、「化け物祭」は従来通りにサイノカミへの祭祀として、農民、町人が中心となって行われ、天神への祭礼は、武士が中心となってこれも城内にあったときと同じようにと、別々に行われていたのではないだろうか。
 それが、徐々に「サイノカミ」という名が忘れられ、祭の際の天狗舞も天神様に奉納するものだと思われるようになり、それまでの氏神である「サイノカミ」が天神様にその座を譲り渡していったのだ。
 その一方で、江戸時代も半ばを過ぎるころになると、学問が町民の間でも盛んになり、学問の神としての天神様を町人たちも信仰するようになる。そうなると、今度は町人と一緒に天神様にお参りすることをよくないとした武士たちが、顔を隠し仮装して祭に参加するようになり、それが「化け物」の仮装の始まりともいわれる。世の中が平和になり、武士と町人の垣根が低くなった結果だろうか。武士も町人も同じ仮装をして、城下を歩き天満宮にお参りしたのである。
 顔を隠した仮装ということで、特に武士にとっては、祭の日は無礼講となった。遊女屋から直接祭に繰り出す者もあり、その遊女の派手な柄の襦袢を着て仮装としたのが、今の「化け物」の格好の始まりだとする説もある。
 また、顔を隠したまま、かねてより思いを寄せていた娘の家に上がり込み、思いを遂げる者もあったという昔話もあり、これなどは、近代まで各地で行われていた、その晩だけはフリーセックスという村祭の要素も含んでいるようだ。
 
 ・城内天神であったころに武士たちが顔を隠してお参りしたこと
 ・町人たちと一緒にお参りできずに、武士が仮装をしたこと
 ・遊女屋からそのまま祭に参加したために、
  遊女の襦袢を着て仮装したこと
 ・顔を隠してフリーセックスという村祭から発展したこと
 などなど、どれが正しく、どれが間違いということはなく、長い江戸時代の間に上記のような様々な要素が加わり変化して、今の「化け物祭」の形式が整っていったと思われる。
 ただ、これらの要素だけでは、無言で酒を振る舞って歩くという、他の土地では見られない一種不気味な「化け物」が生まれた理由には弱い。上のような経緯だけで「化け物」が生まれたなら、「化け物」は自分たちで酒を飲み、陽気に踊りながら町を練り歩いてもいいのだ。そこで、これらを結びつけるものとして、古代から続く「マレビト信仰」があったのではないかと考えられる。祭の時には、顔を隠し、笠をかぶった異形のものが現れる、という素地があったからこそ、そこに様々な要素が加わって、「天神祭」での「化け物」ができあがっていったのではないだろうか。
 
 天神信仰が盛んだったのは、江戸時代の後半1800年以降のことだったという。そのころには「化け物」の格好や、無言で酒を振る舞うという決まり事も今のように定まっていたことだろう。様々な変遷を経てそのように定まった祭の形式だったが、城下町という、古代の小さな共同体とは違う生活空間で暮らしていた人々には、「マレビト信仰」からの繋がりを「化け物」に見いだすことはもはや難しかった。そこで、あの「化け物」とは何か、と問われたときに、天満宮の祭であるということから説明をしようと、当時の知識人が考え出したのが、「道真公が太宰府に流される時に、顔を隠して酒を酌み交わし、見送った故事にちなんだ祭である」という由来だったのではないだろうか。
 それは多分、統治者である藩主に近い所から発せられた言葉であったのだ。人々は、その説明はなにかが違うと感じながらも、自分たちの大昔からの祭をよその土地からきた殿様も、それで認めてくれたのだと解釈して受け入れたのだ。
 また、鶴岡市のある山形県庄内地方というのは、鶴岡の隣町、酒田の港を玄関として昔から京都と交易があり、京文化の影響が濃い。言葉も京言葉の影響を受けたと思われるものも多いし、正月に食べる餅も東日本には珍しい丸餅である。そしてこれら、京都の文化と通じているということを誇りにするような雰囲気が庄内地方にはある。従って、昔から続いている土着の祭の由来が京都にあるという説は、人々に喜ばれたことだろう。もともとの京都にすらも、もはや残っていない習俗が、遠く離れた東北の地に伝わっているという不思議さも、人々の心を捉えたのかもしれない。京都で廃れてしまったものを、自分たちが受け継いでいるのだという誇りもあったと思われる。
 こうして、「マレビト信仰」という、受け継いできた自分たちでさえ言葉にするのは難しくなってしまった祭が、全国の誰にでも説明のできる由来を得て、「天神祭」として定着していったのだ。



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