SCENE.1



 朝陽がまぶしい。


 ふんわりとした陽射しが、まぶた越しの視界を、できたてトーストのようにこんがりと灼いている。さくらは、朝に弱い。目をしぱしぱさせながら、ふわ…とちいさなあくびを漏らした。
 漏らしてしまってから、我に返ったように、あわてて左右に目を走らせた。
 早朝の往来は、しんと静かで、人気はすくない。さいわいにも、少女の寝ぼけ顔を目撃した人は誰もいないみたいだった。さくらは、頬を赤らめて、ほっと安堵した。今ので、すこしだけ目が醒めたかも。


 小鳥のさえずり。
 まっしろな太陽の光。
 朝の大気には、きらきらとした生命の活気が溢れている。
 少女は、ん…と微かな声を漏らしながら、深呼吸をした。ちょっと控えめな胸が、初夏の空を仰ぐ。すがすがしい空気のなかに溢れる生気を、体いっぱいに吸収するように、おおきく息を吸う。

 そして。
 胸いっぱいに空気を吸いこんだ少女は、まだとろんと眠そうなまなこに、満足そうな微笑を浮かべた。




 通学路のまんなかのあたりに公園がある。
 そこの入り口に、大きな桜の樹が立っている。
 薄桃色の花びらが、風に舞うなかを歩くのは、とても気持ちがいいけれど、すこしだけ寂しくもある。散りゆくものの最期を、わたしたちはあと何回見届けなくてはならないのだろう。
 その樹のしたは、いつのまにか約束の場所になっていた。
 ふたりのうちのどちらが決めたわけでもないのだけど、いつのまにか、なんとなく。
 さくらは、髪に降りかかるしろい花びらを小さな手ですすっと払いよけた。
 もう、さっきまでの眠気は消えていた。


 腕時計をちらっと見て、さくらはまっすぐ顔を上げた。
 たぶん、あと二分くらい。
 そうしたら、あの交差点の向こうから、たったったと走ってくる音が聞こえる。
 そして、この桜のしたへと駆けてきて、息を切らしながらこう言うのだ。
「さくら、おはよう」、と。
 だから、さくらもおなじようにこう答える。
「おはようございます……先輩」、と。
 自然に溢れてくる、あたたかな笑顔と一緒に。
 さくらは薄桃色の唇を微かに開いて、誰にも聞こえないくらいの声でカウントダウンをはじめる。
 五…四…三…二……一。



「さくら、おはよう!」
 今日も、さくらの一日がはじまる。





SCENE.2



 綺堂さくらは三年生になっていた。
 もともと物静かで大人びた雰囲気があったから、さくらの見ためはほとんど変わっていない。けれど見ようによっては、ちょっとだけ三年生の風格みたいなものが漂うようになったかもしれない。全然自覚は沸かないのだけれども。

 あれから二年が過ぎた。
 さくらが「先輩」と呼ぶ相川真一郎はもう風芽丘学園を卒業しているのだけど、さくらは今も「先輩」と呼んでいる。
 さくらはたまに、そろそろ新しい呼びかたを検討します、と思い出したように言うものの、いつのまにかうやむやになってしまっている。
 本当は「先輩」という呼びかたに、ちょっと愛着があるのだ。だから呼ばれる真一郎も、もうしばらくはこのままでいいと思っている。

 季節は、春と夏の狭間。
 眠っていた命の息吹きが、青々と輝きはじめる、そんな季節。
 会える時間は減ってしまったけど、こうして毎朝、途中まで一緒に登校している。

 そんな、ある朝のこと。



「吸血鬼?」
「……はい」
 さくらは、心なし目を伏せて頷いた。いつもなら、たわいもない会話ではじまる朝が、今日は違った。もちろん理由は、真一郎にもわかっている。その「噂」は、ふたりにとって見逃すことのできないものだった。
「ここんとこ、夜道で通行人が何人も貧血を起こして倒れてるっていう、あれ?」
「はい……先輩も知ってましたか」
「街中で噂だからな」

 噂。深夜の街で、一晩に何人もの通行人が、貧血を起こして倒れた。
 噂。被害者の首筋には小さな歯形がふたつ穿たれていた。
 噂。被害者は証言する。走り去っていく、小さな人影をたしかに見たと。
 誰からというわけでもなく、事件はこう呼ばれるようになっていた。
 いわく、「吸血鬼事件」。


 普通なら、吸血鬼なんてありえないと思うのだろう。
 でも、真一郎にも、さくらにも、それがただの噂だとは言いきれなかった。
 ふたりは、本物の吸血鬼を知っている。

「……もしかしたら、同族の仕業かもしれないです」
 さくらはうつむいた。
 そう―――
 このさくらが、本物の吸血鬼なのだ。
「それって二年前みたいに?」
「はい……」
 二年前に、ちょうど今噂になってるような事件が、風芽丘学園で起きた。
 そのときの騒動を解決したのは、ほかでもないさくらと真一郎たちだ。
 真一郎にとっては、騒動そのものより、さくらのことを誤解して、さくらとケンカをしてしまったことのほうが、記憶に残っている。
 ちょっとだけ、苦い思い出。



「できれば……ただの噂だといいんですが」
 さくらは不安を押し殺すように言った。
 もし、さくらとおなじ一族が、この事件を起こしてるとしたら。じぶんが悪いわけではないことはわかっている。でも、さくらは責任を感じずにはいられなかった。
 真一郎はそんなさくらの頭にてぺっと手を乗せて、撫でた。
 なでなで。
「先輩………?」
「みんなそれほどひどい貧血じゃなかったていうし」
 なでなで。
 さくらの髪は、やわらかくて撫で心地がいい。
「はやく原因がわかるといいね」
 さくらは、
「………はい」
と頬を染めながら、そっと頷いた。


「それはそうと……先輩、今夜お邪魔してもいいですか?」
「ん?いいけど……あ」
「はい…」
 さくらは遠慮がちに言葉を切った。
「そういえば、今週に入ってから栄養補給してなかったね」
「はい……いいですか?」
「いいよ」
 さくらは、定期的に血を摂取しないと生きていけない。
 血を分け与えるのは、いつも真一郎の役割だ。
 さくらはときどき申し訳ない気持ちになるけど、ごめんなさいはあまり言わないようにしている。
 真一郎がさくらを大切に想ってくれているから、その気持ちには「ごめんなさい」ではなく「ありがとう」で応えよう、そう思っていた。



 そして―――その夜。
 窓からは、仄かに白い月の光が差しこんでいる。
 その光が、さくらの透きとおるようなからだを煌々と照らしている。
 さくらの背中からは、狐のそれを思わせる尻尾がすらりと天を仰いでた。そして、いつもヘアバンドで隠している頭からは、ふさふさの耳がふたつ、髪のあいだからぴょこんと出ている。
 これがさくらの本当の姿。
 さくらは吸血鬼と人狼のハーフなのだ。

 真一郎の首筋に、さくらの手がそっと触れた。さくらは首筋をいとおしいそうにすすっと撫でた。
 ぞくぞく、と鳥肌が立つような快感が、背中からつま先へと走りぬけた。
「……では、失礼します」
 さくらは目を閉じて、かすかに開いた口を、ゆっくりと首筋に近づける。
 そして。

 微かな痛み。
 血液が抜きとられていく、生暖かい感触。
 さくらの白い喉が、赤い液体を嚥下する音。
 脳が痺れるような感覚のなかで、さくらの体温を感じた。




SCENE.3



 それから一週間ほど経ち、事態は急展開した。
「うむぅ……」
 真一郎は今、じぶんの部屋で、何度目かの唸り声をあげている。
 そして、今日はひどくゆっくりと進んでいる時計を、焦れた様子で見上げた。それも、もう何度目だろう。
「さくらー………」
 さくらから電話があってから三時間くらい。
 時計は深夜一時を回ろうとしていた。



 急を告げたのは、さくらからの電話だった。
「同族の気配を感じたんです」
 平静さを保とうとはしているが、その声から、張りつめた気配までは隠せなかった。
「やはりこの事件は、夜の一族に関係しているみたい。私………」
 さくらはちょっと言いにくそうに、言葉を切った。
「犯人を捕まえにいきます」
 さくらは、迷っていた。
 真一郎に話せば、きっと真一郎は一緒にいくと言う。でもさくらは真一郎を危険な目に遭わせたくはない。
 真一郎に内緒で捜しに出るという選択肢がさくらの頭をよぎったが、それは―――
 きっと真一郎を一番心配させることだから、さくらは、ちゃんと話すことに決めた。

 真一郎は、一緒にいく、という言葉を、喉元で押しとどめた。さくらがじぶんを頼りにしていないなんて、そんなくだらない疑いは微塵も抱いていない。ただ、夜の一族同士の戦いに、じぶんの居場所はない。さくらのためにできることはひとつ。ただ、さくらの帰る場所を、作ってあげることだけだった。
「私はかならず帰ってきますから…」
「うん……待ってる」
 すぐにでもさくらのところへ飛んでいきたい気持ちを抑えて。電話のむこうのさくらに、最後に一言だけ、伝えた。
「無理は、しないでね」
「…はい」
 さくらは、すこしだけ明るい声になって、しっかりと頷いた。





 それは、月の綺麗な夜だった。
 さくらは真一郎と待ち合わせをするいつもの公園に来ていた。桜の樹が、黒々とした影を地面に落としている。
 公園のなかには、街灯が等間隔に並び、小道を照らしている。
 けれども、その灯りは、まるで生気を抜かれたかのように昏い。
 いつもの公園とは違う。それが物理的な昏さではなく霊的な昏さであることは、さくらにはすぐに判った。
 意思によって作り出された暗闇が、公園を閉ざしているのだ。
「……いる…」
 さくらは小さく呟いた。
 一歩歩くたびに、空気がチリチリと肌を刺す。凍りついた闇が世界を固定している。
 感覚を研ぎ澄ませる。ふさふさの耳が、すべての気配を感じとるために、ピンと緊張して立ちあがる。
 つめたい暗闇の奥から、流れこんでくる気配。
 はげしい敵意と―――
 そして、これは恐怖―――?
 それから―――

 同族の、匂い。

「……ふっ…!」
 呼吸と同時に、つよくアスファルトを蹴り、跳躍した。
 ほとんど同時に、さくらが立っていた地面がガリッという音とともに抉りとられた。アスファルトの飛沫が飛び散り、さくらの頬に当たる。
 五メートルほど間合いをとったところに、さくらはゆっくりと着地した。
 アスファルトを削った犯人は、腰をかがめ、両腕をだらりと垂れた姿勢のまま、らんと輝く瞳だけをさくらのほうへ向ける。
 猫科の動物を連想させる前傾姿勢。
 それは、いつでも獲物に襲いかかることができる臨戦の構えだ。

 やはり、同族。
 さくらの予想は当たっていた。
 体躯は、―――さくらよりひとまわりほど小さい。
 猫のような耳と、キラリと光る鋭い爪を備えた、―――少女?

「…来るっ」
とさくらが読んだのと、どちらが早かっただろう。その影はアスファルトを蹴った。
「ニャアアア…ッ!」
 鋭い爪の一閃が、さくらめがけて突きたてられる。五メートルの間合いでさえ、その獰猛な猫にとっては一度の跳躍で縮めることが可能な距離だった。

 決着は、一瞬。
 まばたきさえ許されない刹那。
 一陣の風が舞い、闇が消える。  さくらは、月の光を浴びたまま、ただそこに立ち、やさしい夜風のように、ふっと微笑んだ。



「つかまえた……」
 すべてが終わったとき、
「いい子……落ちついて………ね?」
 ソレは、さくらにしっかりと両腕を掴まれて、ぽすんとさくらの胸のなかに抱えられていた。
「フゥゥッ……!」
 身を捩って、拘束から逃れようと試みるが、さくらによって抑えつけられた手足は動くことさえ叶わない。いったいさくらの細いうでのどこにそんな力が秘められているのがわからないが、さくらは、穏やかな表情を湛えたまま、そっとソレの頭を撫でた。
「にゃっ……」
 さくらに似たやわらかな長い髪。
 ぴょこんと覗いたふさふさの耳。
「にゃあ………」
 さくらよりも一回りほど小さなからだが、最後に一度、ささやかな反抗を試みようとビクッと振れた。そしてそれっきり、ソレは大人しくなった。
「いい子……」
 さくらが髪を梳いてあげると、
「…にゃあ………」
 少女はさくらの胸のなかで、仔猫のように鳴いた。





「やっぱりさくらと一緒に行けばよかった〜!」
 真一郎はベッドのうえでじたばたと足を上下させながら、はぁ〜と大きく息を吐いた。
 時計はもう二時をまわっている。
 不安はとっくに頂点だ。
 そのとき。
 コンコン、とガラス窓がノックされる音がした。
 ここは、二階、だけど?―――
 疑問に答えが出るよりさきに、からだが動いていた。

「窓から失礼します…見られないように屋根を伝ってきたので……」
「怪我は?」
「うん、平気です…」
 そのとたんに、さくらは真一郎の腕のなかに抱きすくめていた。
 不安でくしゃくしゃになった顔を見られたくなかったし、さくらのからだの温かさを、今は感じていたかったから。
「先輩……」
「………ん?」
「……遅くなりました」
「うん……おかえり」
 さくらは、真一郎の胸に頭をすりつけて、そっと、目を閉じた。





SCENE.4



「それで、あの子はどうなったの?」
 夏へと向かう、朝の光景。
 並んで靴音を響かせながら、さくらと真一郎は五月晴れの空のしたを歩く。
「はい、さざなみ寮のみなさんが、ひきとり先を世話してくださるそうです」
「そっか、じゃあ安心だね」
「はい……」
 吸血鬼事件を引き起こした猫少女は、さくらがしばらく匿っていた。
 さざなみ寮には、こういうことに理解がある人が多いうえ、その筋の人脈も豊富だから、きっともう心配はないだろう。

 あの少女は―――
 さくらとおなじ夜の一族の、傍流の血をひいていたそうだ。
 さくらが人狼とのハーフであるのに対して、少女には猫系の妖怪の血が混ざっていた。
 そういった出生の事情もあって小さい頃から、―――迫害を、受けていたらしい。
 施設に送られる途中で脱走し、偶然この街に流れ着いたとのことだった。

「大丈夫かな、あの子」
「それは、これから決まることですね……」
 さくらはすこし目を伏せた。
「ずっと独りで生きていたんですから……誰にも受け入れられずに、ずっと……」
「うん……」
「でも、もう独りぼっちではないから、きっと、これから、です………」
「うん、そうだね」

 じぶんを好きだと言ってくれる人がいる。
 じぶんをいつでも待ってくれる人がいる。
 そのことが、どれほど力を与えてくれるか―――
 さくらは、身をもって知っている。



「先輩……卒業してから、すこしおとなっぽくなりました?」
「え、そうかなー?」
「はい…」
 さくらは、穏やかに、すこし寂しげに、微笑んだ。

 散りゆく桜と、ひとの寿命が異なるように、夜の一族であるさくらは、真一郎とおなじ時間を生きられない。
 いつか、ふたりの歳の差はもっともっと開いていくだろう。さくらに、見届けることはできるだろうか。
 けれども、せめて今は―――

「ひとの本質なんて、そんなに変わるものじゃないし。俺はまだ今でも、さくらに電話してもらわないと起きられないぞ」
「先輩、そういうところはそのままですね……」
 さくらは、ふふっと笑った。

 一緒にいられるひとつひとつの時間を、大切に生きていこう。
 変わりゆくもののなかに、たしかに存在する永遠を抱きしめながら―――

「でも……それよりも一番変わったところ、ありますよ」
 さくらは綿毛のように微笑んだ。
 愛するひとのすべてを、やさしく包みこむような、まなざしで。



「私が、先輩のこと、もっともっと好きになりました」



 朝の街には、きらきらとした生命が溢れている。
 まっしろな太陽の光を浴びながら、大好きなひとと一緒に。

 今日も、さくらの一日がはじまる。





「そして、つづいてゆく物語…」


-FIN-