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刹那 |
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武蔵の乗った小舟が舟島に着いたのは巳の刻に近く、すでに日は中天にかかろうとしていた。
柿色の手拭いで向う鉢巻をすると、武蔵は木刀だけを手に素足で舟から降り立った。舟を洲崎に停め置いたまま、波打ち際を砂浜に向かって数十歩。
小次郎は武蔵の姿を見るや床机を蹴って立ち上がり、まだ武蔵の足が水中にあるうちにとらえんと、愛刀の「物干竿」備前長光を片手に走り寄った。
水際、武蔵まで一間の距離にて大喝する。
「貴殿約定を違え遅参すること甚だし。我が名に臆せしか」
武蔵は答えず、水際から上がった。
木刀は下段に構え切先は後方に向けている。木太刀の長さを悟られぬためである。
小次郎は物干竿を抜刀するや、鞘を海中に放った。武蔵は笑みを浮かべて言う。
「汝負けたり」
小次郎は憤然として、
「なにゆえに」
「勝つ気なれば鞘は捨てまいに」
小次郎の満面を怒気がおおうと、長剣が高々と上段に舞いあがった。武蔵は眼を細めて小次郎を注視したまま、ゆっくりと右に移動していく。
二人の距離が間境いを越えた瞬間、小次郎の大剣が武蔵の眉間を襲った。
そのすさまじい太刀風を、武蔵は見切った。
いや、見切ったのは小次郎か。
備前長光は武蔵の鉢巻の結び目のみを切り裂くと、転瞬、その軌跡の末端で逆に跳ね上がった。
秘剣「燕反し」。あまたの剣客を倒してきた剣光が武蔵を襲う。
が、そのとき武蔵の体は空中にあった。
小次郎の初太刀を見切った刹那、巨躯を躍らせ、右猿臂を伸ばして片手撃ちに木刀を振り下ろした。
四尺余の木太刀は小次郎の額を砕き、物干竿は空を切った。
小次郎は倒れながらも、太刀を払ったがとどかず、わずかに武蔵の袴を切り裂いたのみ。
武蔵の二の太刀を脇腹に受け、肋骨を砕かれ絶息した。
享年二十九歳。
武蔵は小次郎の気息を確かめると、遥かに試合を見守っていた検使役に向かって一礼するや、待たせていた小舟まで走り、そのまま下関に帰り去った。
その後、武蔵は試合を斡旋してくれた細川家家老長岡佐渡守に丁重な礼状を送っている。
ついに武蔵は仕官することはなかったが、晩年、細川家に身を寄せ、その生を終える。
享年六十二歳。