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裏恋愛ゲーム学


第5講 恋愛ゲームの効能

──恋愛障害者たちの詩

99/04/24開講

1.強者と、弱者と

 一般に、人は思春期頃からしばらくアイデンティティの問題、自分の居場所探しに悩まされることが多い。すなわち、「自分は何のために生まれてきたのだろう、生きているのだろう」、あるいは「自分はここに居ていいのだろうか」、と言った具合である(※1)。ある程度年齢を重ねてしまうと、確立した自己が出来上がるのか、あるいは仕事で忙殺されてとりあえず生活していくことを迫られるためか、そうしたことを真剣に悩む機会は減るが、ちょうど恋愛ゲームユーザ層は、年代的にアイデンティティの危機に立たされているのである。「十分な愛情を受けずに育った」若者ならばなおさらのことだ。

 さて、ある競争や階級において強者あるいは弱者であるという事実または認識が、アイデンティティの強度を高め、自己内における存在意義を創出する上で、強者と弱者とが等価であるということは、しばしば指摘されていることである。つまり、自分が自分であるために、ある人は自ら進んで強者になり、また別の人は自ら進んで弱者になるのである。この理屈で行けば被支配者は自ら望んで被支配者であることを選択し(※2)、恋愛なら、極論を恐れずに言うなら、恋愛弱者は自ら望んで恋愛弱者であることを選択しているという訳である。差別問題となると話は違うだろうが、本来平等である集団の中におけるあらゆるクラス・カテゴリがそこへの帰属意識を生み出す可能性があり、そのコミュニティがマイナーであればあるほどその効果は強くなる。そしてこれは、前講の「恋愛障害者」というパッケージ化とレッテル張りにすら当てはまるかもしれないのである。

2.恋愛ゲームの「効能」

 恋愛ゲームもまた、(しばしばマイナーな)コミュニティの形成において相当強力に機能するし、インターネットの普及によってそれはより顕著に表れることとなった。恋愛ゲームのキャラクタの私設ファンクラブなどはその最たる例だろう。似た趣味の人が集まれば居心地がいいのは当然である。

 しかし、ひとつだけ、気を付けなければならないことがある。ひょっとして、それは「同病相憐れむ」という状態に陥っていないだろうか、と。傷の嘗め合いと、真のヒーリングを取り違えてないか、と。もちろんそういったコミュニティを否定するつもりは全くない(恋愛健常者ばかりの恋愛ゲームコミュニティだって存在するだろうし)。だが恋愛は1対1の関係が基本だ。ということはいつも、食うか食われるか(食うか食いそびれるか、か?(笑))の競争なのだ。分かり切ったことだが。時には他人を蹴落として行かなければならないこともあるだろう(まぁ友情と恋愛のどちらを取るか、ということはあるかもしれないが。もしそれが本当に友情だと言うなら。)。

 前講の繰り返しになるかもしれないが、すでに十分な心的成長を達成している人ならばこの場合も特に問題はない。そういう仲間ともつき合えるし、同時に、自分自身の恋愛活動を営んで行くことができる。しかし、心的成長が不十分な人にとって、周りがもし同じような恋愛障害者ばかりだったら、到底心的成長が望めるとは思えない。妙な連帯感や安心感など抱いてしまってはまるで逆効果だ。恋愛能力を高めようとするなら、むしろモテモテクンやナンパ王(笑)と一緒に居た方がよほど感化される、ということなのだ。(別に、恋愛至上主義を押しつける訳ではないから、彼自身が本当に幸せだと思ってるならいいのだが。それとも1のように、不幸である、ということを自ら選択しているのだろうか?)

 現実問題として、「恋愛障害者」というカテゴリによって、自分の居場所を見つけたとしても、何も嬉しくないだろう?(笑)もっとも、この世には色々な方面で常に「陰」でしか生きて行けない人々が存在するのも確かだから、そういう人たちを吸収していく空間も必要となるのだろうが……。

 このように、恋愛ゲームによって形成されるオリジナルコミュニティは、自分の居場所を見つけられる(気がする)点でその数少ない貴重な「効能」だと言ってよいと思われる。だが、それが果たして本当に自分の人間的成長にとって良い意味での効能であるのかどうかは、常々よく自問していかなければならないだろう。(笑)




※1、「エヴァ」の視聴者なら最終回のシンジの台詞、「僕はここに居ていいんだ」が印象深いことだろう。(笑)











※2、私の大好きなS.RPG「タクティクスオウガ」でも似たような一節があった。お気に入りだ。(笑)