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裏恋愛ゲーム学


第8講 「私」の中の「永遠」

──恋愛弱者的個人主義再考

00/01/02初筆、00/01/04開講

1.続・「恋愛障害」

 本シリーズは裏論という扱いになっているが、総論の執筆がすっかり止まってしまっていることから、先取りという形で本来総論で取り上げるはずだった内容も自然と入って来ざるを得ないことをご了承願う。

 前講で、「恋愛障害」という言葉があやふやになってしまったことを受けて、今回はよりはっきりした形で定義付けすることを考えたい。現代の、「もてない男たち」というのが、男性の魅力が減ったとか、男性が弱くなったとかいう表面的な説明では済まされないことはもはや明らかだろう。都市部やニュータウンで顕著に現れているように、現代日本の人間関係は極めて形骸化しており、表向きのつき合い術こそ長けてはいても(もちろんそれはそれで必要だろうが)、本当の意味でのコミュニケーション能力というのは、男女を問わず衰えていると言わざるを得ない。

 また、若い人たちのあらゆる行動の原点となっているのは、すでに以前にも触れているように、まず自らの満足と充実を第一に考えるということである。自身の充足した時間こそが各々の幸福観を象るものなのである。それをもって「自閉的」と呼ぶならばそうなのかもしれないし、その点ではコミュニケーション能力の減退と無関係ではないのかもしれないが。

 そしてこれらの精神構造の変容は恋愛にも少なからぬ影響を与えている。コミュニケーション能力の減退は恋愛関係の構築に向かう心的抵抗を増加させることになるし、また多様な趣味と価値観の創出により、「恋愛至上主義」と呼ぶべきものは崩壊し、「趣味の1つとしての」恋愛の意義は相対的に薄れることになる。昨今の恋愛事情では、「恋愛できない男たち」「恋愛しない女たち」というのを目にすることが珍しくないが、それは買い手市場か売り手市場かの違いなのであって(男性の方が依然として恋愛幻想に憑かれている人が多いということか)、むしろ同じことの表と裏というべきなのだろう。

 ここまで来ると初めに挙げた「恋愛障害」というのが見えてくる。すなわち、恋愛をする気がない人をして「恋愛障害」と呼ぶのはナンセンスであり、恋愛をしたくてしたくて仕方がないのに、その恋愛能力がおぼつかない人をこそ「恋愛障害」と呼ぶべきだということである。

 では、(前講の繰り返しになってしまうが)何が「障害」になっているのだろうか。これも以上の指摘からほぼ答えは出ている。以前にも書いたことがあるが、恋愛は(理想的には)互いに相手を尊重しながら変化する中で常に新しい関係性を再構築し育てていく過程と言うことができる(その意味では「永遠の愛」などと言うものがいかに空虚なものか)。しかし、自身の満足を追求する余りに、「私」の中の「永遠」に囚われ、変化することを拒めば、その関係が遮断されるのは当然だし、またそのような人に自分を歪めてまで合わせてくれる奇特な人が出てくるはずもない。

 とにかく愛情に飢えている恋愛障害者は、なるほど、昔はもてようとしてきっと懸命に努力したことだろう。だがもちろんそのうちに努力しても無駄なことであることに気づき、もてようという努力をやめることになる。確かにそのように変な努力をしても上手くいく見込みは薄いからそれは間違いではないが、外面的にせよ内面的にせよ磨くことを怠ればますます恋愛競争に置いて行かれることになるだろう。

 結果として、恋愛はしたいのだが、自分に自信を持てないから、そんな自分でも受け入れてくれる人、ありのままの自分を受け入れてくれる存在を、自然と希求することになる。だが、そういった幻想チックな願望が、この自身の充足を追求する現代において決して叶えられるはずもないのは火を見るより明らかだ。そんなことを相手に求めようものなら、いつかのTVのお見合い番組で言われていたように「そのままのあなたを愛してくれる人なんて母親しかいないと思って下さい」などという一発KO級のパンチをお見舞いされるのが関の山である。男性にとって恋愛というものが母親への依存から卒業し1人の個として立つ行為であり、またマザコンが恋愛障害の大きな要因の1つになっていることを考えるにつけ、余りにも重い一言と言わざるを得ない。

 まずは、結婚はもちろんだが、恋愛にしろセックスにしろ(それぞれ状況は異なるだろうが)、それをしなくてはならないんだという強迫観念から解放されることが必要ではないか。今の若い人ならかなり弱くなっているだろうからどれだけの人が未だにそういった観念に囚われているのか分からないが、強迫観念から解放され、そしてその後に、真に自身にとって幸福に繋がる関係性を求めていけば良いのではないだろうか。これまた繰り返しになるが、その関係性を求めていくという行為は、「永遠」の殻を破り、変化を押し進めていくことに他ならない。変化(古き女性観や恋愛観を捨て去ることを含めて)には必然的に心的抵抗と痛みを伴う。その痛みを受容してまでそれを求めていくのかどうかは、各自が「私」の中の「永遠」とよく相談して選択するべきことだろう。
※1、この文章を公開するに当たり、「永遠」の意味が分からない、また、唐突に使われているというご指摘を受けた。「ONE」を読んでいることを前提にした書き方に問題あるのでその点はお詫びしなければならない。ここでは上記ゲームに登場する「えいえんの世界」を元にしており、すなわち、then-d氏によれば「願望により構築された理想世界」であり、内的に固定化されたものと考えて頂きたい。人間は幻想なくしては生きられない生き物であるから、それは強度の差こそあれ誰しもが抱えていると言うべきであろう。