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恋愛ゲームの「社会性」
裏恋愛ゲーム学 第d講

0.概要

 恋愛ゲームがその非社会性を超えて持つ社会的側面に光を当てる。

2003/10/12初版、2003/10/19最終更新

1.「恋愛ゲーム脳」を考える

 昨年、「ゲーム脳の恐怖」という本が話題になったのは記憶に新しい。その科学性に対する疑問は斎藤環氏に聞くゲーム脳の恐怖が読みやすいが、むしろ、こういった主張は、マーケティング的に有効であれば良いのであって、科学的論拠の有無はあまり意味がないのだと考える。ビデオゲームが社会にとって有益なのかどうかということに教育者その他関心を持っている人がいて、理屈はもっともらしければそれでいいのである。

 そもそも何が有害であって何が無害であるかというのは何をもって「害」であり何をもって「益」とするか、ということが明確にならない限り意味を持たないが、社会の持続的な運営のために社会に出て生産的な活動を行うということが、「社会性」のある行為なのだとすればビデオゲームの立場は微妙だろう。現代は過度に分業化が進んだ社会であるため、1人で完結する仕事というものは限られ、社会に出てからはますます対人能力が要求される。内的な、あるいは精神的な豊かさよりも社交性や協調性が重視される時代である。息抜きや娯楽として問題がある訳ではない。ただ特に低年齢のうちに友人・地域の人々その他との大量のコミュニケーションに晒されていないのは将来の対人能力の基礎が欠落してしまうリスクを抱えることになるからだ(もっとも、高年齢化したユーザ層ではすでに終わっているところなのでどうにもならないが)。少なくとも、低年齢のうちに友人との話題の共有のための嗜みというレベルを超えてはまり込めば、それは社会から期待されている方向とは逆だろう。

 ともあれ、今回の趣旨は「ゲーム脳」ではない。恋愛ビデオ/アニメゲーム(以下単に恋愛ゲーム)におけるより局所的な「恋愛ゲーム脳」が対象である。

 結論から言えば、前記の社会性という観点からははっきりと「有害」である。loveless zeroが恋愛系以外の美少女ゲームを扱わないのはゲームとはいえ人と人との対等な関係を余りに無視した描写が嫌だからというシンプルな理由によるが、かと言って恋愛ゲームが本当に対等な関係を描けているかというと多くの場合そうはなっていない。一方の性別から見た都合の良いパートナとして描かれるのがほとんど(またそうでなければビジネスにならない)で、十分な恋愛能力を身に着ける前にこういった代替的な選択肢に慣れ親しんでしまうと、関係構築に対するリスク/コストバランス感覚が狂ってしまう危険性があることはこれまで書いてきた通りである(全ての恋愛ゲームがその意味において18禁であるべきだという考えは、ここから来ている)。恋愛ゲームはその社会的立場も一般的なビデオゲームよりずっと低く、むしろ底辺に近いため、話題の共有としても使えないというのも致命的だろう。ただし、それでは「恋愛ゲーム脳」が恐怖か、というと必ずしもそうではない。なぜならば恋愛ゲームをプレイしているユーザが、少なからぬ場合すでに恋愛シーンから疎外されたところに置かれているからだ。

2.恋愛ゲームとNPO

 現代日本は、「恋愛障害者」、より正確には「恋愛敗者」であることに意識的にならざるを得ない社会である。社会的な圧力による結婚制度が崩壊したことで、能動的に恋愛を選択しなければ、パートナを見つけることが難しくなっている。かと言って、全ての人が、相手を楽しませたりするトーク力や、相手の話を受け止めて安らぎを与えるカウンセリング力を鍛える場所および時期というのは限られており、折りしも相手が不快に感じた瞬間に成立する「セクハラ」に対する意識が高まったため、特に一旦社会に出てしまうと自らきっかけを作っていかない限り、どんどん悪循環にハマっていきかねない。

 1つの可能性としては公的な「恋愛訓練センター」のような1からコミュニケーション力を叩き直す研修所の開設が考えられるが、現実性は低いだろう。あくまで恋愛は「個人の自由意志」に基づいた選択であり、すでに恋愛能力の高いor恋愛に興味のない人にとって不公平感の強い政策は実現しないと思われる。一部の地方では、国の補助で自治体による「出会いパーティ」が催されていることもあるようだが、すでに十分に魅力的な人であれば自分で別の場所で見つけているのであって、全くもって的外れな政策であり、まともに機能する見込みは低いと言わざるを得ない。

 そこで、恋愛ゲームの出番となる。1998年に特定非営利活動促進法が制定され、公的機関がカバーしきれない多様な社会的機能を担うNPO(非営利団体)への関心が今ますます高まりつつある。当然ながら特定非営利活動促進法別表で示される活動に恋愛や恋愛ゲームに関する活動は含まれていない(「恋愛障害者」という「少数」の利益の増進にしか寄与しないこともある)が、一部の大手や経営幹部を除いて必ずしもおいしいとは言えない恋愛ゲームビジネスに携わるメーカは、公的機関では実現できない恋愛保障を擬似的にサポートするまさにNPO的な存在と言える。更には恋愛ゲームの歴史が長くなる中、かつてユーザだった層が作り手になる場合も多く、自己完結的な仕組みさえ備えつつある(本来は作り手は一定の恋愛経験があることが望ましいが)。恋愛によって、適正な社会的淘汰は働くものの、「恋愛障害者」が潤いのある人生をまっとうし、かつ健常者が安全に恋愛生活を営むために、一種の「サナトリウム」として恋愛ゲームが果たす役割は大きい(もちろん健常者も恋愛ゲームを楽しむことはできる。ただ、障害者には恋愛ゲームしかないというだけである)。人は恋愛のみで生きる訳ではないから、それ以外のところではしっかり社会に貢献して頂く必要があるからだ。そしてそれを可能にするのが他ならぬ「恋愛ゲーム脳」なのであり、そこではむしろ恋愛ゲームの中毒的な「有害さ」はプラスにさえ働く可能性がある。

 風俗産業が古くからこういった恋愛代替ニーズを満たして来たことは確かであるが、恋愛体験デーティングサービス「Lesson/One」開始のお知らせでも書いたように新たなタイプの「恋愛障害者」には既存の風俗産業では不十分である。最近ではmaidearが恋愛代替ではないものの、比較的近いサービスであろう(性風俗でないことが重要)。これにしても、ヴァーチャルが現実を模倣するのではなく、すでに常に現実がヴァーチャルを志向する時代である。

 恋愛ゲームは多くの恋愛能力保持者にとってしばしば生理的に理解し難い、非社会的な存在である。万が一多くの人が生身の人間より仮想に傾倒してしまったらその社会は維持できなくなるのだから、これは本能的に自然な感覚である。しかし今や恋愛ゲームはその非社会性を超えて、ある種の社会性を帯びてきているということが言える。


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