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自己の物語化及び物語の交錯論

 本論は「Departure」(Project Seraphim/「コミックマーケット61」(2001/12/30)にて頒布)に初出の原稿です。(2002/07/08)

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2002/07/08初版

目次

  1. MOON.
  2. ONE〜輝く季節へ〜
  3. Kanon 舞シナリオを中心に
  4. AIR
  5. CLANNAD
  6. 参考文献

1.序

 本論は、ほぼ共通したスタッフからなると目されるMOON.・ONE・Kanon・AIRを横断的に概観することでその作品中に通底する要素を探ること、及び作品毎にその要素がどう変化して現れているか、という観点によって考察を行ったものである。この方針により、考察は所謂麻枝系シナリオの部分に論点が集中することとなった。この点についてはご容赦願いたい。

 なお、本論考においては、過去に私自身が言及した作品及び論点については簡略にとどめもしくは省略し、これまで不十分であったMOON.とKanon舞シナリオを中心に検討を進めることとする。(注1

注1 MOON.における葉子と郁未の母の存在についての記述が不十分だが、その点について補筆を予定。(→戻る

2.MOON.

 この作品において様々な部分で強調されて現れているのは、郁未が常に母の存在を気に留めていることに見られる、「私を見ていてくれるものの存在」と、序盤から中盤に掛けて郁未は由依や晴香の過酷な出来事に触れ、「見ていることしかできなかった」、ということに打ちひしがれる場面との二つの相反する方向性である。

 この二つの方向性は、同じ「見る」という行為でありながら、片方は意志や力というものの原動力となり、もう片方はその対極にある無力感や諦念へと繋がる。

 まず、後者の関連として、現実受容の問題が現れる。由依や晴香が修行のメニューとして犯されていることを知り、郁未は同居の少年にその話をぶちまける。これに対して少年のは以下のように返す。

少年「現実とはいつもこんなふうに過酷なものだよ」
少年「でもいつか正視できるようになる。人とはうまく出来てるもんだ」
郁未「そんなもの…なのかしら…」
少年「そんなものだよ」
少年「過酷な現実に生きていたら、それ以上の過酷の存在も知る」
少年「するとそれが過酷であって、現実の過酷が普通になる」
少年「そういうことさ」
郁未「あなたの言っていることって理解できるけど、いつもなんか違う気がする…」
少年「疲れてるんだよ」
同じ言葉を繰り返した。
郁未「ひとつだけ聞かせて」
少年「うん」
郁未「あなたもあんな奴等と一緒のことをしてるの…?」
少年「………」
少し間があく。
少年「…違うよ」
郁未「…ほんとに?」
少年「うん」
少し安心した……ような気がした。
よくわからない。

このような悟りきった喋り方をする少年は、郁未と交わることによって、物理的には同じ事をしている。しかし、そこには高槻の言う

高槻「おまえ、アイツとヤッたんだろうが」
高槻「そんとき植え付けられたんだよ。アイツの分身をな」
高槻「力づくで襲ってやればいいのに、アイツは情に訴えかけて回りくどいやり方をするんだよ」
高槻「そういうのを楽しんでるんだな、アイツは。人間でもないくせに」

ということが加えられている。少年もそれは意図して郁未と交わっていることである。しかし、過去に交わった者と比較して、郁未に対して少年の思い入れは特に強く、

少年「だからね、僕はキミに賭けたんだよ」
少年「キミを最後の犠牲として、すべてを終えられたら、って思ってたんだよ」

という言葉のとおり、郁未を「最後の犠牲」という特別な存在として認める。ここには、先の少年の言葉による「過酷な現実」を受容し、慣れ、それ以上の存在を知り、それにまた慣れていくといった、過酷な現実のインフレーション的受容理論とは一線を画すものである。これ以上の堂々巡りを断ち切るため、特定の一つの存在に対して、特別な感情を持ち、それに対して「こうであったらいい、こうあってほしい」という願望を込める。このような現実受容の方法は、特に誰に言われるまでもなく、私たち自身も常に行っていることである。眼前の条件に対して、一つの物語を構築し、そうであって欲しい、そのように為したいと願い、そのように動きつつ、もしくは結局そのようにならないように行動しないという行動をとりつつ知ることである。

 現実の受容は、先に少年が郁未に対して言ったような、「正視する」「知る」といった受動的に行われる行為のみでは不可能で、自らが動きつつそのフィードバックを常に感じとりながら行われていくことなのである。そのフィードバックは、自分自身において感じ取られることなのだから、フィードバックそのものが自分自身によって改変されることがあるのも至極当然なことである。つまり、自己の中で自分自身に見合う形で現実は変容する。自分自身によって紡ぎ出される現実、それは自分自身で物語を生み出すことに等しい。これを物語化と呼ぶことができるだろう。これは郁未のみならず、少年自身も自分の行為に対して物語化を行っている。それを高槻は称して「情に訴えかけて回りくどいやり方をする」ことと言っているのだ。

 郁未が、理解できるが違う気がすると呟くのは、説明によって「知る」「理解させられる」ことと、自らがFARGO教団の中で動きつつ感じ取っていることのズレに違和感を感じ取っているからこそ、現出した言葉である。それは、少年に取っても同じことであり、あんな奴らとは違うと自己を規定することは、自己の行為に対して特別な意味を付与したいと願い、そうすべく「情に訴える」と形容される行為を取り、自らの想いを交わる他者に付与したいと願うことで、自己の物語化は行われている。違うと発するその言葉で安心する郁未も、少年に想いを重ねており、その結果は、少年と過ごす日常生活として、また一遍の物語を生み出すこととなっていく。

 これと全く正反対の観点から言及されているのが、文字どおりDOPELであるところのELPOD内においてである。選択を誤り、葉子を犯し自死させた後に、「もうひとりの私」に以下のように言われることである。

「…こんにちわ、自分のイヤラシさが祟って人を殺めてしまった愚かな郁未」
くっ…
「…でもあなたが殺めたのは、あなたが作り出した幻想」
「…現実でなくてよかったわね」
………。
「…でも現実でも起こりえた」

現実と幻想の境界は酷く曖昧で、自らが想起するものがいつ現出してもおかしくはないという指摘は、自己の物語化をそのまま映し出している。

 ELPODにおける経験は、教団の男達の言葉では「精神の鍛錬」という酷く薄っぺらな言葉で表現されている。また、最初にELPODに入ったとき、精神や心のという抽象的なレベルで留まっているものではなく、常に郁未の身体に直接的に関わる事柄が現れる。

 単に痛みを受け容れて、強くなって、不可視の力を得た葉子は、それこそ過酷な現実のインフレーション的受容理論を備えたのにすぎない。それは、母にも他者にも依存しない代わりに、教義への、理論への信を貫くところによる空虚な生の受容なのである。その証拠に、郁未との会話の中での以下のようなやりとりにより、当初から明らかにされてしまっている。

葉子「…不可視の力とは真実の探求の過程で得ることのできる付属物にすぎません」
郁未「真実の探求って?」
葉子「我々が求めるものです」
郁未「求めるものって…不可視の力でしょ?」
葉子「それは、探求の過程で得ることの出来る付属物です」
郁未「探求って…何を探すの?」
葉子「我々が求めるものです」
郁未「だから、それって不可視の力でしょ」
葉子「……」
郁未「……」
葉子「…あなたが心を入れ替えて精進すれば、自ずと答えは見えてきます」

葉子にも真実・求めるものという言葉の内実が見えているとは思えないこの禅問答のようなやりとりには、空虚なる生を受け容れて生きること、といった程度の格率で生きる姿しか浮かび上がってはこない。これは、後に郁未が達する「意志の力」とは対極に位置している。また、この状態は、ELPODにおいて当初「もうひとりの私」(よく「DOPEL郁未」などと呼ばれている)に

…あるときのあなたは痛みを背負って生きてる。
…そのときのあなたを客観的に見つめてみるの。
…とても可哀想。

…私はあなたよ。
…でもあなたじゃない。
…あなたは何人も存在しているんだもの。
…そのうちのひとり。
…あなたのうちのひとり。
でも、私なのね…?
…そう。全部あなた。
…これで意味がわかったでしょう。

…あなたは私を可哀想だと感じることができる。 …あなたが忘れてしまった痛みを背負う私を可哀想だと感じることができる。

と言われ、郁未自身も実践することとなった、自己を客観化することにより、自己を正視するという姿勢と同様である。これは少年の言う「過酷な現実の受容」と通底しており、この点において、教団の修行の一つは、自己の客観化・対象化を目的とすることが窺える。

 これは、確固とした自分及び自分の理解する自分が唯一の自己像ではないことへの方向付けへと繋がる。これは精神的強度を獲得していくものと教義では位置づけられるが、ELPODにおける郁未の経験においては、純粋にその方向性だけではない。例えば、陸上部の先輩に頼まれてペニスを舐めるシーンでは、

先輩は私の中では完璧だった…
いつだって優しく声をかけてくれて…
悩んでたときも、相談にのってくれて…
私の中では完璧だった…。
…そう。でもそれは他の部分を伏して、あなたが勝手に造り上げた偶像。
…伏してきたもの。それはなに?
先輩の……イヤな部分…。
…そう。それらを伏して、あなたは先輩を見てきた。
…それはすごく気楽なこと。
…表層のあなたの特権。
なにを言いたいのよ…。
…伏してきた、閉じこめてきたものと向かい合ってきた私たちだけ辛いの。
…だから聞けばいいの。
…声を聞けばいいの。
誰の…。
…あなたが憧れていた先輩の声を。
…声を聞けばいい。
(中略:卑しい男として表された先輩の心の声)
こんなの作り話だぁ…。
…その作り話も自分で作ったのよ。

ELPODでの自己言及は、自己の相対化・解体に向かっているようで、そうではない。自己の物語化によって、新たなる統合への道付けの方向が仄めかされている。上記の作り話という言及は、正しい選択肢を選んだ場合にのみ現れるため、ELPODでの過去のシーンも、そこで感じたことも、全て自分の中にあるということが明らかになる。つまり、ELPODで示される過酷な現実それ自身も、自分で作り上げられたものということである。

 それを、葉子のように単に受け容れることで至った境地というものは、自分自身に打ちひしがれている者それ自身であり、そこから生まれる不可視の力は、MOON.の設定における異星人それ自身から与えられたものそのものの姿でしかない。自分とは異なる異物を受容し、ただ容器となっているだけの姿と喩えることができるであろう。注記するが、自我のロストとは、そのように受容することを拒絶することで逆に異物に全てを侵食されてしまった者のことを言い、ここでの葉子の姿のことではない。

 これに対して、郁未の姿は異なる。物事を為すことができなかった絶望を経験し、一度は少年を敵として認識し、復讐を望むが彼が捉えられた姿で郁未の前に現れたことでその誤りを悟り、異物である者を拒絶する途から、受容へと向かい、自らの内部にある力として見出すこととなっている。このときの受容は、葉子のそれとは大きく異なる。

その受容の姿が現れているのが、少年を助けられず、全てに絶望して下水道で過ごす日々が続いた後、母の思い出に浸ろうとしてMINMESに入ったところで見た少年の姿である。

私ね…。
「なんだい」
おかあさんに会いにきたんだ。
でもあなただった。
ここに居たのは、あなただったのよ。
「邪魔だったかい…?」
ううん…。
そうじゃない。
気づいてたのよ…。
あなたをおかあさんと重ねて見ていた自分に。
私が会いたかったのは、確かにあなただったのよ。
「そう。そりゃ光栄だね」
私はあなたが居てくれたから頑張れたのよ。
あなたが見ていてくれたから、頑張れた。
だけど…今はもう……
「こうしてここで出会っているように、僕の存在は心の痛みでしかなくなったんだね」
そう…。
心の痛みでしかなくなったの…。
同じことの繰り返し。
悲しみを吹っ切ろうとして、強くなろうとして…
なのにまた私は自分の心の中に同じ深い澱みを作ってしまった。
また私はどこにも辿り着けなかった…。
「辿り着こうとしなかったんだね…」
え…?
「ここで僕と出会っているということは、すでに道は開けているんだよ」
どういうこと…?
「自分の体を抱きしめてみて」
………。
あ…。
温かい…。
体の奥が…温かい。
どうしてだろう…。
なんでだろう…。
「ありがとう。僕を受け入れてくれて」
そう…。
そういう意味だったの…。
「そう。そういう意味だよ」
ねぇ、私は……どうすればいいの?
「進めばいいんだよ」
どこへ…?
「キミの目的へ向かって」
(中略)
どうしてだろう…
あんなに絶望していたのに……今は違う…。
空虚だった心が満たされている…。
なにかを遂げようと憤っている…。
手のひらに力が籠もって、汗ばんでいる。
力…。
そう、これは力だ。
…あいつが残していってくれた。
それを私は制御している。
自分の力としている。
そうか…。
あいつと話せたんだ、私…。
きっとこの中で。
おかあさんに会いに来たはずなのに…
それでも私はあいつを探していたんだ…。
自分の中に。
そして受け取ったものは、希望だった。
私はありがとうを言ったんだろうか…。
言っておこう。
郁未「ありがとう」
郁未「名も知らぬ、少年」

 ここでMINMESの位置づけについて検討しておこう。MINMESは主に母との過去の記憶を呼び覚まし、その刻に過ごすものとして表現されるが、そこに向かうときに

一体私はここでなにを成そうとしているの…
帰りたいの…?
違う…
一時の懐古に安らぎを求めてるの…?
それも違う気がする…
私はなにを求めてここへきたのか…
わからない…
でも私は再び探すしかないのだ。
あの扉を。
私はその扉を見つけることができる。
なぜなら私はその向こうに帰りたいから。
それは感じるもの。
視覚的な情報など無意味なのだ。
私は盲目でありながら、全能なのだ。この世界では…。
帰りたい。
そうすれば光は誘う。
私はゆく。
そこへ。
帰りたい場所へ。

と郁未が独白する。「盲目でありながら、全能」という言葉に言い表されるように、この世界は単なる過去の出来事ではない。出来事それ自身は改変することはできないからだ。この世界はその最後に、

もしかしたら、これが現実なのかもしれない…。

なんて安らかなんだろう…。
おかあさんがずっとそばに居てくれる…。
いやな夢なんてもう忘れた…。

私はずっと居る。
お母さんとふたりで、暮らしてゆくんだ。
ここで…。

という、MINMES内に消えていく結末を迎えるか、

でも、次目覚めたら私は…
「また明日」
悲痛な現実に…
「おやすみ、いくみ」
戻って…
「おやすみ」

という結末を迎えるかは、ELPODにおける選択によって決まる。これは、郁未自身によって変えることができる郁未自身の世界であり、これもまた郁未自身によって綴られた一編の物語なのである。

 その物語世界において、少年と出逢う、ということは、どういうことなのだろうか。単に少年を求めたということではなく、母の代わりとして、異物でありかつ異星人である者を捉えるとは、どのようなことが起きているのだろうか。

 少年は自分が他者と交わるときには「情に訴えかけて回りくどいやり方をする」といったことを付随させるが、それにより、少年自身も交わる相手に対して働きかけ、物語を編み出していたということは前述のとおりである。そのような少年が、郁未の物語の中で立ち現れ、そこで自分の身体を抱いて温かさを感じたということは、ELPODにおける精神の鍛錬のような客観化の視点とは異なり、真に自らの血肉となったものという差異が存在する。この温かさは、絶望に陥る前、地下の奥深くにある、少年の足枷となっているものを除去しに向かったとき、

私は深く自分の体を抱え込む。
ぼろぼろの体を。
あいつの半身が宿る身を…。
郁未(あ…)
不思議な感覚…
自分を抱きしめたはずなのに…
郁未(これが……あなたなの…)
初めて実感した気がする。
確かに自分の中に存在する別の鼓動を…今私は抱きしめていたのだ。
郁未(知らなかった…)
郁未(ちゃんとあなただったんだ…)

と感じたことと同じものである。これを感じながらも、足枷である花畑を破壊し尽くすことはできずに、少年は死に至る。郁未が足枷への侵入が許されたのは、自己の中に他者があること、自己が自己自身で完結していないことを悟ったときである。そして、そのような者には完全性を破壊する力は持ち合わせていないことが露呈されるが、少年の最期まで彼女はそれに抗う。

 足枷が極めて美しい花畑であるという比喩は、完全なる美のヴィジョン・幻想こそ、我々を束縛するものであるということを示すものである。そのような幻想は我々自身が自己を物語る際にも往々にして現れるものであり、そのヴィジョンに到達できないが故に我々は絶望する。完全なるものに対する憧憬の破壊とまではいかなかったものの、郁未の行動は、完全性への追求を拒絶する姿勢を示したものであることは明らかである。ここで示される完全性とは、何か見えないものに対して自らの根を預け、固着させてしまうことであり、そうであるが故に、文字どおり花の根は引き抜くことができないのだ。

 そして、MINMESで出逢うときのこの温かさは、少年の生み出していた物語と郁未の物語が交錯し、新たな一遍の物語がここで生み出されたことを示すものである。これにより、郁未は少年との一体感を感じるのだが、そこに留まることは、母への想いに囚われ、MINMESの中に消えていくことと同じことになってしまう。そのため、少年は諭す。

また…会えるかな…。
「季節というのはね、巡ってゆくんだ」
「僕はいつまでもここにいる」
「でもキミは巡る季節の中に生きてゆくんだ」
「ずっと先ゆく季節を生きてゆくんだよ」
「こんなところで立ち止まってちゃいけないよ」
そう…
そうだね…。
「ずっと、遠くまでいくんだよ」
「この夏の終わりの季節が霞んで見えなくなる場所までね」
わかった。
そうする。
「じゃあ、さようなら」
さようなら。

交錯した物語自身は定着することなく流れ去り、後には力が残り、希望が託される。物語ることそれ自身が生み出す力と、物語を紡ぐことによる希望。それが少年と郁未との間で生まれたものであったのだ。

 そして、その力は、『声の主』と呼ばれるFARGOの創設者との戦いにおいては、『声の主』の持つ力と対置される。『声の主』は

…月。
…いつなんどきも、人間たちの悲しく、哀れな姿を見てきた。
…いわば悲劇の傍観者。
…私はそのものであるのだよ。

と自らを規定する。それはここまで示されてきた、葉子のように教義によって完全体へと至る途を示すものの延長にある。自らを客観化し、対象化することによって、世俗の行いの全てを傍観するもの、そして、全ての地上のものと触れ合わないことによってその完全性を維持するものである。月という形容は、太陽のように自ら光らず、常にその光の反射によって輝く。この関係も、自ら活動することなく他者の行動を「見る」立場ということをなぞるものとなっている。

 そのうえ、『声の主』は、郁未に対して直接的な攻撃を仕掛けることは結局最後までなく、意志の力を霧散させる言葉の介入によって、郁未をさかさまの世界(すのこワールドと呼ばれることもある)に閉じこめる。

 この世界は、ELPODの選択によって、もうひとりの私に目覚めさせられて『声の主』との対決に戻ることができるかが決定される。ELPOD前半で、まず自己の客観化・対象化が行えていること及び、後半で自己の抑制もしくは倫理的規制ができあがっていることが条件となっており、自己の世界に陥って、

世界はすでに回ることすらやめているのだ。
それならそれでいい。
時間は永遠。
(中略)
さ、終わることない追いかけっこの続きをしよう。
今日から今日へと。

という永久ループに陥らないためには、さかさまの世界に陥ったままの自己を正当化しないもうひとりの私の助けが必要になるという構造になっている。そのとき、もうひとりの私は、この世界についての定義を仄めかす。

「…いや、知らないんじゃなくて、そこまで詳細を決めていなかったのね」

「…ねぇ、あなた、自分の世界に閉じこもろうとしてるのよ」

「…時の証人なんてものだって、存在しないのよ」
「…ヤツが作り出した幻影」

この辺りの言葉を総合して考えると、『声の主』が作りだした世界に郁未自身が閉じこめられたというだけでは済まない。自分の世界に閉じこもろうとしているという言葉もあり、自らの望んだ世界という面もあった。自らが望んだ世界で自足し、永久ループの中に過ごすという点は、MINMESで母と暮らすことを望むことや、少年と同じ時に生きることを願うことと同様である。

 ここにもまた物語の固着化によって自らを閉ざしていく方向性が反復される。その点においては、この世界から脱した後に『声の主』が囁く

…狂いたかったのはキミ自身なのだよ。

という言葉は、実は正しい。ここで助けてくれるもうひとりの私が、ELPODにおいて「…その作り話も自分で作ったのよ。」と語ったように。しかし、正しさというものは、この戦いの場においては意味をなさない。この点により、自己規定は言葉の介入を拒絶する意志によって行われ、それによって郁未は『声の主』を消し去る。

意志によって『声の主』に勝利した郁未には、今度は慢心が満ちる。

勝者の余韻。
特別な人間であることの優越感。
一人くらい私にちょっかいをかけてくればいい。
そうすれば、不可視の力でその男の頭を吹き飛ばしてあげるのに。
夏の日の公園で、餌に向かって列を作る働き蟻の中心を靴で踏みにじるような快感が味わえるかもしれない。
そう思うと愉快でたまらなかった。
自分たちの研究していた力が、逆に自分たちの破滅を導いたんだ。
モルモットに喉仏を噛みちぎられる。
こんな楽しい皮肉はない。

郁未の内発的で純粋な意志は背後に隠れ、特別な人間・優越感といった、自己の特権化意識が生まれている。完全性を有するものをうち破ったという自己に酔い、自己こそ完全なる者という、これまでとは異なった位置で自己の固着化を図る。これもまた、一つの物語への萌芽であることには変わりはない。

 そんな郁未を客観化・対象化する存在として、最後に葉子が現れる。葉子は葉子との和解は結局意志の力ではなく、言葉によって交わされる。葉子との和解の過程は、郁未の中に葉子の所有する物語が流れ込むことによって始まる。それは、映像と言葉の両方から入ってくる意識映像というものだが、演出では言葉の断片がバラバラと示されるなか、それをたどり、再構成することにとよって葉子の物語を郁未が引き出すことに成功している、という流れとなっている。

 この点では、郁未が『声の主』との対決の場面で「言葉の介入を阻む」ことで対決に勝利したのと対極にある。郁未は、葉子に介入し、葉子の物語を引き出すことで、和解に至る。この場面は、『声の主』との対決と葉子との対決は対極にある。ここで示されていることは、物語とは自己の固着化を常に内包するものでありながら、しかし、他者との交通のためは、その物語を媒介として行うより他にないという認識を示すものである。

 最後に、他者として母に会いに行く場面及び、郁未と赤ん坊の未悠のところに少女がやってくる場面は、自己の中にある母という存在の客観化及び対象化という方向性と、最も近い他者との理解のための回路を保持するもの、という二つの意義を孕ませたものだと言えよう。

3.ONE〜輝く季節へ〜

 ここでは、次のKanonに繋げるため、その前段の確認として、以下の二点の指摘にとどめることとする。この点については、「ONE卒業文集」における雪駄氏の七瀬留美シナリオレビュー及び椎名繭シナリオレビューによるところが大きい。

 第一に、七瀬であるが、雪駄氏に指摘によれば、以下の数箇所により、

永遠の盟約、永遠を望んだ自分の心に対して、自分が王子になって七瀬を乙女にする、という夢で対抗しようとするのです。

夢を見たいなら、見てもいい。好きな人の夢なら、下らなくったって適えてあげたい。それは頼り、頼られという関係を肯定すること。

浩平と七瀬が王子様とお姫様の役割を踏襲する点、その形式的側面を称して、依存関係を肯定することと捉えている。

 第二に、繭であるが、

いろんなひとにありがとう。
そして、おかえり。
ずっとみまもってくれるひと。

という繭シナリオ最後の言葉について、雪駄氏は

 しかし、そういった理想的な後押しで大人への道を歩き出し、もう背中を押してあげる必要もなくなったというのに浩平は帰ってきます。
 そこにあるのは、単なる救い、救われという相互依存関係ではなくて、対等な関係での出会いです。
 そして繭もまたこの邂逅をそう感じています。
 支えてくれる人でもなく助けてくれるひとでもなく、救ってくれた人でもなく見守ってくれる人。
 それは浩平が繭に対等に接してくれたからこそ出てくる表現であり、同時に、繭もまた対等に彼を見ているということを示す表現です。

浩平と繭の関係が、繭のラストに込められたような「見守ってくれる人」と見守られる者の位置づけにあることの指摘、取り敢えずこの点のみを確認したうえで、次章に移りたい。

4.Kanon 舞シナリオを中心に

 舞シナリオにおいては、1年ほど前にも簡単に分析したところであるが、あまりにも簡略化しすぎた面及び思慮の足りない面があり、今回改めて検討を加える必要を感じている。参考のために、恥を忍んで以下のとおり引用する。

 舞シナリオにおいては、舞が時折見せる幼児的な行動は、共通の文化的認識・土台が年齢にしては不足しているということであろう。自己表現が不得手であるということも、表情・振る舞い・態度を他者から学ぶ機会が奪い去られていたということの現れである。これは、他者との交流の機会が少なく、自分の内的葛藤(魔物との対峙)で精一杯だったためであろう。また、他者からは魔女としての扱いを受け、文化的共同性の側面からも排除されていたため。そのため、他者からの庇護と理解によって、他者と交わり、自己を創設していくところから、改めて始めなければならない。「取り戻さなければいけないものは、十年という長い成長の時だ。」という言葉もあるとおり、他者と共に生き、自己を定位するための時間と環境が必要だということである。そのため、祐一は舞だけでなく佐祐理も含めた3人の家族的な環境を必要としたのだろう。舞シナリオにおいて、祐一や佐祐理が行ってきたのは、社会的にはずれた行為には、精一杯、舞とそのほかの人々の間を取り持つことによる庇護と、舞の突飛とも言える魔物との対峙にとことんつきあい、舞を信頼し身を預けるという理解によって、共生の条件を一つひとつ揃えていったことであるだろう。

 舞は、自己の内部で自らの持つ「力」と対峙するために、一時的であれある意味妄想的な一義的に縫合された世界を構築し、その一見自立的な世界の中で生きようとしていた。それは自己にとって強い世界を作り出したが、他者に対して、社会的には無防備な弱さをさらけ出すものであった。そのような舞と、一つひとつ経験を共同で、みんなで積み上げていこうという共生の意志が対としてではなく、3人という姿で現れたのであろう。

 ここで大きな問題となってくるのは、「ある意味妄想的な一義的に縫合された世界を構築し、その一見自立的な世界」というものの位置づけと、対と三人の立場の相違についての追求が不十分である点であろう。まず、後者については、先のONEにおける言及を援用して、改めて位置づけし直すこととしたい。

 祐一・舞・佐祐理という三者の関係について、舞と佐祐理の間柄については祐一の想像によって補填されるのだが、その初対面で、舞が犬に手を噛ませているところを見て、佐祐理が弁当を差し出す、というものがきっかけである、という。佐祐理シナリオにおいては、佐祐理の視点でこれが言い表されている。

人だかりの中心には同じ一年生の女の子がいて、そして犬に自分の手を噛ませていた。
おそらく犬はお腹を空かせていたのだろう。
にしても、異様な光景だった。自分の手をすすんで噛ませるなんて。
だが、気づいてしまえば、わたしはダメだった。
女の子はただ優しくて、その優しさを犬に与えていただけだったのだ。
不器用だったけど、そこに居た他のひとは誰も気づいていなかったけど、わたしにはわかった。
わたしは駆けずにはいられなかった。
その子と同じ、奇異の目を浴びたとしても構わなかった。
そばまで辿り着くと、お弁当を取り出して言った。
「あの、手じゃなくて…良かったら佐祐理のお弁当、食べさせてあげて…」
「……?」
しばらくわたしの顔を見つめた後、黙ってこくりと頷いた。
その子はとても不器用なので笑わなかったけど、それでも喜んでいるのがわかった。
犬も、わたしの手作り弁当を食べて、ご満悦の様子だった。

ここより前の部分に、佐祐理が自らの手首を切るシーンが存在し、舞が手を噛ませるという行為の特異さを鑑みるに、舞の行為を死の衝動と捉え、佐祐理も自殺未遂後であるが故に、その衝動に共感しているという捉え方も可能であろう。しかし、別の方法でこの部分を捉え直してみることはできないだろうか。

舞は自らが傷つくことをそれほど重要視していない。このある意味他律的な側面の理由は、夜の校舎において、自らの為すべきことこそ自己の本来の生き方であるという考えが根底にあり、それによって普段の生活が自らの本来的生とは異なり、それゆえある意味冷静でありながら、かつ自棄的な行動が可能となっていたのだと考えられる。これは校舎破壊等の行為にも同様に関係付けられる。これを物語化の観点から読み直すと、舞にとっての物語は、自ら作り上げた夜の校舎の物語世界が強固にできあがっていたため、普段の生活においてもその物語に引きずられることにより、逆に現実的な普段の生活における細々とした対処の方法や対人関係の表現法などが抜け落ち、舞の不器用な態度として現れてくる。

 佐祐理においてもこの視点は同様に示されている。一弥を幸せにするという物語に敗れた後の、自殺の場面で、

その頃のわたしは空虚だった。
本当の自分は、自分の体の中にはなく、その上を飛んでいたのだから。
自分の体の中に自分が居てこそ、感動や驚きはあるのだな、と実感した。
離れて見ていると、本当、客観的で、人ごとのように思えてならなかった。
手首を切るのも恐怖はなかった。
切ったらどう、と下の自分に呼びかけてみたら、下の自分がそうしただけだ。
「あ、本当にやっちゃうんだ」
そう思っただけだ。
結構深く切ったみたいだったけど、死ぬにはまだ幾らか足りないみたいだった。
今度やるときは、もっと深く切ろう。
そんな勉強になった出来事だった。

その頃、わたしは自分のことを佐祐理、と呼ぶようになった。
それは自分を慈しんでのことではない。
その逆で自分が他人のように、客観的にしか捉えられなくなったからだ。
ひとりであっても、一弥にあんなに辛く当たり続けた佐祐理だから、大丈夫ですよ、と別の自分が言っていたのだ。
ふわふわと、別の自分は上空を漂っていた。

このように明確に示され、現実において希薄な存在となりうるような原因と経験が存在する点で、舞と佐祐理は非常に近似している。ただし、佐祐理においては、一弥の死によって目的としていた物語の完遂はとうに奪われてしまっている。舞については、まだ夜の校舎での魔物は現に存在していると感じており、物語世界は続いている。その違いが、祐一と出会うこの時期において、舞の頑なな姿勢と、佐祐理のように、他者への関わりを始めた姿勢との違いに現れているだけなのだろう。佐祐理の場合は、新たな物語を舞の中に見出しているため、普段の生活の中において、他者と向き合おうとする方向が存在する。

 しかし、それは生徒会との関係の中で明らかにされたように、対処の方法としては無力で、純粋にすぎるものである。これを佐祐理自身は

【佐祐理】「佐祐理は普通の子よりちょっと頭の悪い、ただの女の子ですから」

と評するが、それは舞シナリオのラストの言葉と比較してみるならば、分かりやすい。

佐祐理自身は、「勇気を持って現実へと踏み出す者」という、自らの力でこの言葉における現実、つまり自らが作り上げた物語世界からの外部に踏み出した者であり、舞より一歩先をいく者である。しかし、それは、佐祐理自身の物語が、一弥の死によって完全に消滅し、自らに似た存在である舞に対して

彼らは知らない。この子の優しさを。
わたしは思った。
この子を幸せにしてみたい。
それは、一弥を失ってから、初めて抱いた他人に対する感情だった。
ずっと、他人になんて興味は湧かず、自分にすら冷めた目を向けていたというのに。
久しぶりに、胸の奥が温かくなった。
この子の学園生活はいきなりマイナススタートだったけど、それを本人はまったく気にしてはいないみたいだけど…
それでも、幸せにしてみたい。
そして、それは、わたし自身が幸せになる、ということだ。
温かな思いが胸に広がると、わたしは思い出していた。
ひとは、ひとを幸せにして、幸せになれる、ということを。
この学園での三年間の生活は、この子と一緒にいて、ふたりで幸せになろう。
それは、正しくなかった姉に一弥が教えてくれた、大切な『正しいこと』だったのだと思うから。
相手に幸せを与えて、みんなで一緒に幸せになる。
一生懸命に、幸せになろう。

という感興を抱く。これは、佐祐理自身が「ずっと、昔に求めてやまなかった光景。」と独白するように、一弥の物語の変奏として捉えていることが窺える。

 しかし、そのように舞に対して自らの物語を重ね合わせていた佐祐理だが、剣の練習で「これは遊びじゃない」と拒絶されることで、舞が所有する夜の校舎における物語への関与については拒否されてしまう。佐祐理はどんなに舞を想っていても、普段の学校生活内では祐一の言うように「どれだけ支えになっていたか」という位置にあったとしても、舞の佐祐理の傷に対する思いやり故に、夜の世界という舞の所有する物語への介入は拒否される。アリクイのぬいぐるみを持ってその世界に入り込んだ佐祐理は重傷を負ってしまう。

 ところが、彼女らの関係はそのような拒絶や事故によっても変わったわけではないように見られる。拒絶によって一気に自らを全ての関係から追い出しにかかる観鈴のような潔癖さと相対するように、佐祐理は一線を引かれながらも、卒業式のシーンでは以前と全く変わりなく振る舞い、与えられた条件内での共生の可能性を追求する姿勢を示す。それは上記のように考えるということで採られた立場というものではなく、自然に行えているところが、佐祐理の佐祐理たる所以なのだろう。そこには、佐祐理の独白どおり、失われた弟の代償を求める好意という側面はあったかもしれない。しかし、それを自覚して行う行為としては、あまりに無防備で、自らを省みない点がある。

 「一生懸命、幸せになろう」という言葉で示されるように、あくまで、自らの役割を果たし続ける佐祐理であるが、その姿勢は役割に縛られるというものではなく、むしろ自然と映る。そのような自然さをあるがままに受け容れられないような種の人間にとっては、この自然さは、逆に焦燥の原因となることも考えられるだろう。

 自己を役割へと埋没させることにより、他者の目的を自分の目的とを苦もなく同一化し、自らの願望を消去してしまうようなその態度は、ある意味長森に通じるところがある。もちろん、佐祐理が佐祐理自身の所謂「幸せ」に巡り会うためには、浩平と長森のように、一度絶対的な拒絶を味わうようなことが必要なのかもしれないが、そのような体験は、佐祐理自身にとっては弟との死別で済ませてしまったと達観してしまっているふしがある。これにより彼女自身は所謂「幸せ」を放棄してしまっているところがある。これは、佐祐理の地獄でもあり、また、自らの崩壊を省みずに夢を見続けることを完遂しようとする観鈴の地獄そのものであるのだ。

 他者との関係の取り方における佐祐理の立場は、もう自分など存在しないのだから積極的になれるという投げやりな行動に近い点がある。観鈴は逆に、「自分の中の別の自分が泣き出しちゃうの」という言葉にあるように、自己の錯綜性に敏感であるが故の諦念に打ちひしがれている。このように、発現の方向性は異なっているものの、自らの幸福を放棄して別のもののために身を捧げてしまうような点において、佐祐理と観鈴には近似点がある。

 観鈴との近似についてはさておき、佐祐理が3人の中でどう位置づけられているか見ると、それはやはり舞を見守る立場という点が大きい。舞と佐祐理の中に近似の物語が抱えられ、その意味ではある程度対等の位置にありながら、普段の日常生活では佐祐理が舞をリードする。この間柄は、ONEにおける浩平と繭との関係に相似点があることが浮かび上がる。浩平も、永遠の世界を抱えながら、繭をリードし、彼らは二人を恋人ごっこの関係に擬することで、普段の生活への足場を築こうとする。一つの出来事から親友という関係を築き、舞を普段の生活の中で幸せにしたいという佐祐理の意図とオーバーラップする点が多い。

 祐一と舞との関係ではどうだろうか。祐一においては、佐祐理ですら拒絶された、夜の校舎における舞の魔物と対峙する日々に唯一入り込むことを許された人間である。夜の学校では舞に守られ、足手まといであり、魔物を引き寄せる囮という存在である祐一は、明らかにこの場にふさわしくない。しかし、普段の学校生活では、祐一は佐祐理以上に他者との接点となり得る存在である。毎日の生活への対処という点では、佐祐理よりも長じており、生徒会との対立や、佐祐理を利用して反生徒会の象徴に仕立て上げていたことを察する点などということはすぐに理解する。

 近似の物語を共有しているような舞と佐祐理二人だけの中に祐一が入り込んだことは、生活への接点の確保という点では二人だけの世界にのめり込もうとしていたところから誘い出す者であり、かつ、舞にとっては多少心許ないながらも、自らの物語世界内では唯一許したパートナーとなる。このパートナーという立場は、卒業式の日の場面では、王子さまとお姫様、という役割に擬されており、祐一のエスコートにより舞は日々の生活を新しく歩み出すこととなる。

 しかし、既存の恋愛の姿と異なり、ここには佐祐理の存在がある。これまで佐祐理と舞の二人で閉じた世界に入り込みそうになっていたことから鑑みるに、祐一と舞のみでもその方向性は変わらないため、ここでは佐祐理という存在が新たな可能性として立ち現れている。この関係は、ONEにおいて浩平−七瀬及び浩平−繭の関係を同時に成立させるような関係を3人の中で併置しているという面が見られる。この間柄では、先述のとおり役柄に縛られるものであるのだが、舞シナリオにおいては、それが自然の過程で成立したような姿として表現され、その点において、恋愛という単一の側面に縛られない、新しい関係の模索がここに立ち現れている。その基盤となるのは、舞・佐祐理が所有する物語の存在である。これに付け加えるなら、祐一も、この街における過去の記憶を失っており、この点では失った物語の恢復を求めている姿が重なるという点で、彼女たちとの共通点があるのではないかと考えられる。

 さて、ここまでは3人の関係の置かれ方を中心に見ていたが、ここからは、舞の所有する物語の観点から検討をすることとしたい。彼女の所有する物語は、基本的に夜の校舎において魔物と対峙する日々を指すのであるが、全てを終わらせようとする日の1月30日における記述は、非常に錯綜した表現となっている。

 祐一が夜の校舎において、魔物との対峙以外の物語に直接触れることになるのは、舞が、佐祐理と同様に、祐一すら置いて残りの一体を討ちにいったらしいことに祐一が気づいた後の、以下のようなきっかけによる。

待て…意識が混濁してきた…
誰かが俺に何かを訴えている。
それがわかる。
だがその手段はあまりに強引だ。
俺の手には負えない。
つまり、その受け取るすべが俺のほうにないのだ。
それは俺を傷つける。人を傷つける。
鉄パイプを耳の穴に通すようなことはやめてくれ。
そんなものは通らないのだ!

これは後に、十年前の出来事として、麦畑で幼い舞と祐一が出逢っていたということを想起することのきっかけとなるのだが、過去の出来事の想起もしくは過去の記憶を思い出すという行為に比べ、「鉄パイプを耳の穴に通す」という表現には、何か強力な外部からの圧力が掛けられている印象が強い。その上、「受け取る手段」と表現していることにより、祐一の内部に存在するものでないものが注入されるという印象をより強めている。

 そして、この後十年前の少女との邂逅が示され、これがあゆや名雪との出会いのように、過去の歴史的事実のような根拠を持った表現で描写されているものとは異なってくる。舞の自刃及び祐一の夢見る未来のシーンが現れた後、再び少女が現れた場面において、突然以下のような言葉が突きつけられる。

…そう。だから祐一は、あの日にも現れたんだよ。
…訪れてもいなかった、この場所に。

祐一自身の想起によっても、「夕日の町中を歩いていると、いつしかその場所に辿りついていたのだ。」という言葉があり、この十年前の少女との邂逅という出来事は、その事実の存在に費やされた言葉の積み重ねられた量によらず、たった二言で歴史的事実という位置から滑り落ちてしまう。

 つまり、この麦畑における十年前の邂逅という出来事自身は、十年前の記憶であったとしても、舞と祐一との間において共有されている一遍の物語というレベルのものなのだ。これは、それまで夜の校舎で時間を共に過ごし、共に戦ってきた舞と祐一との間に生まれている、無条件の信により紡ぎ出されている物語であると言えよう。

 この点は、MOON.のELPODにおける「…その作り話も自分で作ったのよ。」と近似している。ただし、この場合、異物であるはずの他者の物語に対して、最初の「鉄パイプを耳の穴に通す」という感触を越えてしまうと、それまでの拒絶に反し、その後の受容過程は進んでいく。これは、これまでに夜の学校における物語の共有により、舞の物語を引き受けることについて充分な素地ができあがっていなければ、このような受容過程をとることは不可能であるはずだ。その証拠に、舞を信じて、戦うことより「よけることの大切さ」を理解している選択ことによって、この場面に至ることができる。さらに、戦って倒すことより、避けることで、結果的に過去の傷ついた舞の姿が浮かび上がってくるという点で、この選択肢の選ばせ方という点においても、舞の有する物語に対する理解を仕向けるという方向へ誘導されるような選択肢となっていることに留意すべきであろう。

 このようにして物語内の役割を祐一が十分に理解し、その役割を引き受けることにより、過去の舞という物語へといざなわれることになる。幼時の舞の物語に取り込まれた祐一は、その物語を信じ込まされる力は強制的であったにも関わらず、祐一はいぶかる節もなくその物語を所与の条件のように信じ、舞にたいしても、この物語を受容するように促す。

しかし、その物語を容易に受容することができなかったのは、逆に舞の方であった。

舞は、祐一との共同性によって生まれた物語よりも、自らが生み出した魔物との対峙という物語により強く囚われており、その世界における力の象徴たる剣によって、舞は自らの腹を突き、自刃してしまう。これは、これまでの自己の物語化による観点から見るならば、

【舞】「祐一のことは好きだから…」
【舞】「いつまでもずっと好きだから…」
【舞】「春の日も…」
【舞】「夏の日も…」
【舞】「秋の日も…」
【舞】「冬の日も…」
【舞】「ずっと私の思い出が…」
【舞】「佐祐理や…祐一と共にありますように」

という表現にあるように、舞・佐祐理・祐一の三人で暮らした世界を思い出として、一遍の物語として固着させるが故の選択だったと捉えられる。

 舞がこの選択を取ったことに呼応するように、祐一は、自らが描く、舞・佐祐理・祐一の三人で暮らす生活の姿を描き始める。その世界は

もう目は開けたくない。
自分の描く未来の中で、笑っている舞や佐祐理さんに囲まれて暮らしていたい。
そうしていれば幸せだ。
もう胸を引き裂かれるような現実も見ないで済む。
そう…。
春の日も、夏の日も、秋の日も、冬の日も、舞の思い出と暮らそう。
楽しかった思い出だけを連れて、いこう。
そうすれば、何も辛くない。
すべてはここで終わってしまったけど…
充分幸せな夢を見られるだけのものを築いてきたのだから、俺は。
だから本当、良かった。
舞や佐祐理さんと出会えて。
良かった。

という祐一の独白にあるように、祐一自身が、舞の自刃という悲惨な状況を正視できずに生み出しつつある、閉じた物語の破片であることが想起できる。そして、この物語が生まれだした背景には、舞が発した発言をそのままなぞる点があり、注目に値する。「春の日も、夏の日も、秋の日も、冬の日も」というのがそれである。これは、季節の変化は常に周期的にやってくるものであり、同じところへ必ず帰ってくる。その円環的時間の中で、固定化された時間を過ごしたい、どうどうめぐりであって構わない、という宣言と受け取ることができそうである。

 これにより、舞も祐一も、同じような夢を見ながら、同じような物語を紡ぎ出しながら、自らの内なる願望の世界へと二人は落ちてゆく。しかし、その中で、また先ほどの少女が現れ、舞と祐一との邂逅と、二人が共感し共鳴したことを肯定する。

…あたしは生まれてしまったから、純粋な祈りから生まれてしまったから…
…舞と居続けなければいけなかったから…
…だから、それは希望。
…あたしも含めた『自分』を好きになってくれるひとが、この世界のどこかに居るという希望。
でもすべてはそこからはじまって、今、終わってしまったんじゃないか…
…でも、そのときから、はじめることはできる。
…十年という時間は、今からでも取り戻すことができる。
…舞は今もあの日の少女のままだから。
………。
…だからよろしく。未来のまいを。
………。
…また会えれば、そのときも同じことを思うから。
…やっぱりこの人だ、って。

自刃してしまうような舞と、それでも同じ願望を抱き、似たような夢を見てしまう祐一を、自閉的だと切り捨てるのではなく、そのような自閉的願望を抱き、固着した物語を築き上げてしまいそうな人と、それと同じ物語を紡ぎ出す人がいて、彼らが共感し合うことにより、「そのときから、またはじめることはできる」という。このように、舞と祐一が同じ物語を抱え込んでいることにより、その物語の所有する「つよくつよくがんばって信じれば、叶う。」というところからやってくる力が解放され、舞・佐祐理はリセットされたようにけがから治癒し、卒業式の日を迎える。

 物語の固着化・自閉化を伴いながらも、同じ物語を夢見る者とのシンクロによって、自閉的世界観を相互に、肯定的に受容し合うことは、新たな世界を生む可能性を秘めているということが示される。この点においては、MOON.で示されたような一義的な対立軸から、より錯綜した物語の連関へと意識が向けられている。このような側面で見る限り、物語が複雑に絡み合う姿への模索の第一歩が、この舞シナリオによって始められていたのだ、ということが読みとれる。これは、自らを客観視しかできなかった者が、自らが主人公の物語の主人公であるという自己を同定していくことにも繋がる。この方法は、舞シナリオのラストで「そんな物知らずな物語のヒロイン」という言葉で、「来た道を振り返」っている祐一の感じ方として示されている。

 最後にまとめるが、Kanonにおいては、ONEで示された役割の踏襲による新たなる共生への志向を舞及び佐祐理によって示そうとした点が窺える。しかし、それは直線的繋がりによっては行われ得なかった。新たに導入されたのは、舞の持つ物語と、祐一が夢見た物語とが、その夢想の中で交わり、その交錯によって、新たなる物語が生まれたと見なされるようなエンディングを迎える舞シナリオの終幕においてである。

俺は来た道を振り返る。
もし夢の終わりに、勇気を持って現実へと踏み出す者がいるとしたら、
それは、傷つくことも知らない無垢な少女の旅立ちだ。
辛いことを知って、涙を流して、楽しいことを知って、心から笑って、
初めて見る日常の中を生きてゆく。
そして俺はその少女と共に旅路をゆくらしい。
まったく、佐祐理さん共々、とんだ巻き添えを喰らってしまったものである。
そんな物知らずな物語のヒロインが…
【祐一】「おいっ」
【舞】「……?」
こいつだ。

「来た道を振り返る」ことを否定しないその態度は、自らが生み出した物語を否定しない態度の比喩ともとれ、「物知らずな物語のヒロイン」という言辞には、やはり物語への拘泥が強く印象づけられる。お互いの物語が閉じていってしまうような関係の2つの物語が共振・共鳴することで、新たな物語が紡ぎ始められるというこの構造は、ONEにおいて一時的な役割への固執に頼って自らを恢復させようとする姿勢と通底しているだろう。

5.AIR

 DREAMにおける観鈴の夢見る物語は、個人的な妄想もしくは絵空事と思われかねないが、同様に思われかねない往人の物語と交錯することで、これらの物語が共有される可能性を孕みつつ、往人が消えてしまう。これは、往人の物語が、観鈴の物語に取り込まれたことをも意味している。

 AIR(編)においては、観鈴の夢見る物語と、往人の物語と、読者の中にあるDREAM及びSUMMERの物語の交錯する場として存在し、様々な物語が混在する場として描かれる。往人の物語はやはり観鈴に取り込まれ、観鈴は自己の内部に存在する物語を、夢を見続けることで完遂することを目指し、最終的にはその物語に侵食される形で死を迎える。最後の最後に残されるのは、ここまで読み継いできた読者の中に沈殿している物語たちである。

 しかも、この読者の物語たちは、AIR(作品)のなかで、そらという媒介者を通して間接的に関連づけられるのみである。これにより、Kanon舞シナリオにおける祐一のように、自らの信によって、舞との関係を築き直すというような試みが許されない。

 共生の可能性は最後の最後まで留保されながらも、結局それは儚くもぎ取られる。しかし、そうだとしても、それは想いとして引き継がれるのだ、ということもまた示している。その引き継がれた先が、読者(プレイヤー)自身であるという点が、AIR(作品)のもっとも特徴的な点である。物語が物語として自己完結しないための試みは、読者を巻き込み、読者自身をそらの視点に固定することで物語の当事者として位置づける。

 この方法は、むしろ共生の条件に対する追究に向かうのではなく、共生という幻想に寄りかかった物語、その不可能性への言及・指摘に向かっている。この点では、KanonよりAIR(作品)は物語ることの制約を強めた形となっている。

 恋愛における安易なる同一化願望・共依存へのアンチテーゼという形式に終始することで、役割をなぞることによって共依存も一時的に許容してきたこれまでの姿勢に比べて、AIR(作品)においてはそれを最終的に拒絶するという点で、従来の立場より大きく舵を切ったものである。それは、今までの物語の中で、役割に限定されて存在するものという留保によって生かされてきた関係が、読者によって、それ自体が本来的に求められてきた姿であるという、誤った受容がなされているからであるという印象をぬぐい去れない。そのため、一度受容する者に対するアンチテーゼをぶつけておかなければ気が済まなかったのであろうか。

自ら主体的に受容するために動くことも、自らが物語ることをも放棄することは、MOON.におけるFARGO教団の教義への依拠と同様であり、それを拒絶する姿勢としては、MOON.とAIR(作品)とに通底する点が見受けられる。

 これだけではなく、「そら」が飛び立つ意志を獲得するといった点においても、MOON.とAIR(作品)との共通点は見受けられる。様々に揺れ動きながらも、自らが紡ぎ出す物語が常に単線的構造を有していて、それが他の誰かの物語と1対1で交錯しあうという構造をとっていたMOON.と異なり、AIR(作品)においてとくにAIR(編)では、誰かの語った物語が他の誰かに取り込まれ、その状態でまた別の物語と交錯する、という物語の入れ語構造が見受けられ、錯綜したものとなっている。これは、「そら」の無力感と相まって、物語るという行為そのものに対する疑問を孕んでいる。

 この問題については、拙著のAIR論最終段で簡単に言及したところであるが、もう一段発展させるなら、自己の物語化という行為そのものに対する疑問を孕みつつも、否応なく自己は物語を編み出し続ける。更に、その自己の物語は他者の物語によって常に影響され、変質してしまうものであり、自己の存在が解体の危機にあってもなお自己の物語化は行われ続ける。同時に、自己の物語が失われようとしても、他者の物語に荷担したいという状況も同様に存在し、物語は相互に侵食しあって一つの流れに収斂するという面も受け取れる。そのような物語化の流れを収斂するものを「星の記憶」として集合化し、一掴みにしようとする表現も見て取れるのだが、結局は

あなたには、あなたの幸せを。
どうかその胸に、宿しますように。

という言葉によって、個別性への帰結が行われ、読者の視点は再びひとりの少年の地点に落ち着く。全体性への希求と、個別性への帰結。この大きな振り子運動の中で、我々は各々が物語るという行為を通して、生きながらえているのだ、ということが概観されるに至る。少年の記憶には、既に通過してきた物語への記憶が残っていることが示されるが、その物語とはもう二度と交錯することはなく、一期一会であるという意味を込めて、防波堤の上に並んで座る観鈴と往人とおぼしき男女に対して、彼は呟くのだ。「さようなら」という言葉を。

 このように検討を行う限り、Kanon舞シナリオのような、お互いの物語が閉じていってしまうような関係の2つの物語が共振・共鳴することで新たな物語が紡がれるという構造の行く末を追求し、そのままの状態が永続する筈はなく、つねに組み替えられ、変化し、重なり合い、取り込み合うという相互の物語の姿をAIR(作品)においては映し出す。更に、最後には固着化された関係に別れを告げるように「さようなら」という言葉が発せられる、という感触がもたらされる。

6.CLANNAD

 最後に、これまで展開してきたことをふまえ、次回作CLANNADにおいて、どのような道筋が付けられるのか、という点を簡単にまとめておきたい。

 プロローグの印象より、前作AIRにおいて全体性への希求と個別性への帰結を追求する運動としての物語が安易なる共同性を確保することに繋がらず、解体されてしまう点を指摘したが、もう一度立ち戻って共生の可能性を追究するところへ向かうのではないか、という印象を持つことができる。

 ヒロインである渚は、観鈴のある意味潔癖な点、拒否の姿勢をスタートラインに置きつつも、主人公・朋也によってその立場はいきなり相対化される。しかし、その主人公は悟り切っているようであっても、斜に構えた面も有し、真に自らの発言の位置に立つことができているわけではないだろう。

 無垢なときが「誰にでもある。」の言葉は主人公にも、プレイヤーにも係ってくるものではないだろうか。無垢なときのまま、自分の想いが周囲の状況とぴったりと重なり合い、全てが美しく見いだされるというような理想的な姿、そのような想いというものは、あくまでも「こころ、(のレベルで)あると、いいな」と想起するレベルのものであって、「確固として存在する」という代物ではない。むしろそれが確固として存在するという物語を生み出すとき、固着化をもたらしてしまう。この確固としたものを望む態度は、渚の言葉

「わたしはとってもとっても好きです。
 でも、なにもかも…変わらずにはいられないです。
楽しいこととか、うれしいこととか、ぜんぶ
…ぜんぶ、変わらずにはいられないです」
たどたどしく、ひとり言を続ける。
「それでも、この場所が好きでいられますか」

にそのまま代弁されている。しかし、それを唯一性によりかかることによる危険性を指摘し否定したMOON.やAIRの表現及びKanonにおいて祐一・舞・佐祐理と三人で過ごした世界に閉じていくこと(舞シナリオで、戦いながら死んでいくときのラスト)とは異なり、CLANNADでは、朋也の言葉によって

「見つければいいだけだろ」

「次の楽しいこととか、うれしいことを見つければいいだけだろ。
あんたの楽しいことや、うれしいことはひとつだけなのか? 違うだろ」

という言葉によって、固着化しそうな世界にぶっきらぼうながらも、優しく手をさしのべ、

「ほら、いこうぜ」
俺たちは登り始める。
長い、長い坂道を。

というように、共に歩み出す。このように優しく他者に関わり合おうとする姿勢がCLANNADには見られる。

 また、舞シナリオのラストシーンからも、CLANNADに直接通底するような点がある。

まず、さきの「無垢」という言葉であるが、ヒロインの独白は、まさに自己の存在条件を脅かすものである。私の居場所を、変化を拒絶することで極小へと追い込んでいくような危うさが存在しており、この点においては舞や観鈴と共通した特徴である。

 休学の後、改めて学校へ向かうヒロインの足取りは、そのまま舞の「勇気を持って現実へ踏み出す」という足取りそのものになりうる。その少女と共に旅路を行くのは、共に坂を上る主人公である.

 さらに、AIRからの関連で言えば、AIRにおけるような読者を巻き込む点及び物語への疑問・諦念といった点において、充分に毒を含ませたものであったが、その試みは成功しているかどうか、その点は受容者に物語が委ねられたため、かれらの今後の動きを見る必要があるのだが、状況はそう変わったとは思えない。AIRのような毒が、毒として有効に機能しているかどうかは、まさに読者によって物語化されたヴィジョンに影響を与えられるか否かにかかっているが、その点については一部に留まっているようだ。毒が毒として効かないような状況においては、当たり前のことこそが甘美な毒となる。CLANNADには、もしかしたらそういう条件が付与されているのかもしれない。

参考文献

(作品等)

MOON. Renewal (株)ネクストン/Tactics 1997/1998年
ONE〜輝く季節へ〜 (株)ネクストン/Tactics 1998年
Kanon (株)ビジュアルアーツ/Key 1999年
AIR (株)ビジュアルアーツ/Key 2000年
CLANNAD プロローグ http://key.visualarts.gr.jp/newsoft/ng_prologue.htm
CLANNAD キャラクター紹介 http://key.visualarts.gr.jp/newsoft/ng_character.htm

(評論)

ONE卒業文集 ONE卒業文集プロジェクト 2001年2月12日初版第一刷
身体的関係性と経験 Piece of Destiny seraphim's 「コミックマーケット58」頒布CD-R(http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/spe6.htmに全文を掲載)
私的AIR論 恋愛ゲームを遠く離れて far from... seraphim's「コミックマーケット59」頒布冊子(http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/spe8.htmに改稿後の全文を掲載)


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