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恋愛ゲーム学補講


第10講 恋愛ゲームヒーロー学2

99/03/01開講

1.「主人公死す」の笑(衝)撃

 「センチメンタルグラフティ2」の発表が「主人公死す」という言葉とともに大々的に行われ、その間抜けな響きに誰しもが笑いを堪えきれなかったことは記憶に新しい。確かにインパクト的には大きいのかもしれない。しかし、失ったものも決して少なくないだろう。騒ぎもひとまず収まった今、主人公を殺す意味について考えてみる。

 ある物語の展開・演出の中で人が死ぬことは決して珍しいことではない。「死」という究極の別れは否応なく人の感動や涙を呼ぶ。まさに伝家の宝刀だ。しかし、このところビデオゲームにおいてこの刀が振り回され過ぎているようだ。「Final Fantasy」シリーズでも、「FF5」は自己犠牲の連続だと言われている。最近では恋愛系ゲームでも珍しくない。「同級生2」の桜子の時は「恋愛ゲームでこれをやるか」と、ずいぶん新鮮だったが、それも日常的に使われると切れ味が悪くなってしまう。いい加減「死」や過去の(経験による)トラウマを使わずに感動を引き出すものを出してきて欲しい気がする。

 それでも、その「死」が上手く使われているなら、まだいいだろう。一番いけないのは使い方・使い所を誤ること、「死」を扱いながら何ら意味のある表現がなされていない場合である。「FF7」の最大の失敗はエアリスを殺したことだと私は考えている。重要なキャラクタ(「センチ2」の場合は最も重要であろう主人公)を殺すことで最終的に「何を伝えたいのか」が大切なのだ。

 確かに「主人公の死」だけで「センチ2」を否定してしまうことはできない。主人公を殺すことによって一体何を伝えてくれるのか、興味深いところだ。

2.ゲームは誰のものか

 しかし、それでも主人公を殺すことにおいては心情的に腑に落ちない部分がある。またRPGの話を持ち出してしまうが、私が大好きな「クロノトリガー」でも、主人公のクロノが死ぬ場面があるが、RPGというある意味プレーヤはパーティ全体と一体感を持つゲームでも、主人公が死ぬことについては何か分からないけども違和感のようなものを感じたことを覚えている。ましてや恋愛ゲームの場合、相手となるキャラクタたちに感情移入する場合もあるかもしれないが、基本的には主人公=プレーヤというスタンスで遊ぶ人が多いだろうから、それは違和感どころでは済まないだろう。

 しかも、クロノの場合は方法によっては復活するからまだ良いが、「センチ2」では真打ち(新主人公)が登場するという。これではプレーヤは一体誰に感情移入して良いのか分からない。旧主人公も新主人公も自分だというのだろうか。ギャルゲーでアイデンティティの危機を感じることになろうとは思いもよらなかった。(笑)「彼女たちを助けに来て下さい」なんて馬鹿言ってる場合ではない。「センチ」ほどファンによって支えられてきたゲームはないのに、制作者の方にはプレーヤの観点が完全に欠落しているようにしか思えない。それこそ「ゲームは誰のものか」という言葉ではないが、そのファン感情を無視し、置き去りにしてまで彼らは一体何を表現し、どこへ行こうとしているのだろうか。

 こうなったら、「お腹の中にあの人の命が託されているの…」ぐらいやって欲しいものだ。そうでもなければ死んでも死にきれないのだ。(笑)

#って2は種探しゲームかい。(笑)