第3講 恋に理由は必要か?

〜放課後恋愛クラブVSときめきメモリアル〜
97/11/12開講

1、恋に理由は必要ないのか?

放課後恋愛クラブ(Libido/1997)は「根拠がないのが恋だから」と歌い上げ、ときめきメモリアル(コナミ/1994)をはじめとしてそれまで人気を博していた、数多くの育成系恋愛ゲーム(と、そして恋愛至上主義)への一種の批判として登場しました。パラメータの上下に気をもまされる育成シミュレーションでは、「どこが恋愛なのか?」ということになるのも納得したくなる話です。

では本当に恋に理由は必要ないのでしょうか。
確かに、理由は分からないけど、無性に誰かが好きになってしまった、という経験を持つ人は少なくないでしょう。そしてまた、そういう自分に「どうして好きになったのか」という問うことはしないでしょうし、その必要もないでしょう。
しかし、その逆はどうでしょう?あなたは理由もなく誰かに好かれたことがありますか?それもあなたが理由もなく好きになった人に理由もなく好かれたことは?
もちろん、そういう人はいます。(自分では)よく分からないけどもてまくる人はもちろんいるはずです。が、全ての人がそうとは限らないでしょう。なぜなら、もしそうならば恋愛ゲームなんてジャンルが存在する余地などないのですから。……でしょう?(笑)

普通の人にとって現実はそう甘くはないのですし、そもそも恋愛そのものが相手に合わせて自己変革を遂げて互いに成長する過程だとすれば、その努力の抽象化として「育成シミュレーション」という形式が用いられたのはごく自然と考えるべきなのではないでしょうか。(かなり育成ゲームに優しく書いてますけど。(笑))

今のままの自分を受け入れてくれる人がいればそれは理想的でしょう。けれども、それでうまく行かなければ「自分に足りないものは何なのか」という自問と、何かしらの努力が必要になりませんか?その努力をしない人にはチャンスも巡ってこないでしょう?ほら、好かれるのには理由が必要じゃありませんか?(笑)

結論1:好きになるのに理由は必要ないが、好かれるのには理由が必要である。(笑)


恋愛ゲームの場合に限って考えてみましょう。もてまくりの主人公、というのもひとつの作り方なのですが、それこそ理由もなくもてまくりのゲームであなたは楽しいですか?いや、正確にはそこに恋愛を感じることができますか?空虚な優越感に浸ることが目的ではないでしょう?
主人公があるキャラが好きで、そのキャラも初めから主人公が好きだったら、そこですでに(ゲームとして)終わってしまっている訳で、そこに描ける恋愛は非常に限られたものになってしまうでしょう。
恋に「理由がない」のと「過程がない」というのは全く異なるものです。当たり前なのですが、それができてないゲームが意外と多い気がします。

ましてや、駄目な18禁恋愛ゲームに典型的に見られるように、よく分からないまま無理矢理短絡的にえっちシーンに持って行かれた日には目も当てられません。恋愛ゲームはオカズゲーとは違うのですから。(笑)
えっちシーンに関わらず、恋愛が育つ過程が描かれて初めてプレイヤーは心を打たれる(恋愛を感じる)ことができるのではないでしょうか。アドベンチャーであれシミュレーションであれ、形式はなんであってもいい訳で、恋愛の過程が表現できているかどうかこそが重要なことなのです。

何をもって「恋」というのかによっても話が全く別のものになってしまうので、冒頭の「恋に理由は必要か?」という問いにも、「放課後恋愛クラブとときめきメモリアルはどちらが正しいか?」という問いにも答えは出すことはしません。けれども、少なくとも確実に言えることはあるでしょう。
……そう、恋愛ゲームが真に恋愛ゲームであるために。

結論2:仮に恋に理由が必要なくても、プロセスは必要である。


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