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恋愛ゲームTomorrow


第10回 恋愛ゲームの定義と文法・中間報告

99/09/16掲載(99/09/12初筆)

 予定では今回はCSという考え方(3)のはずだったが、上がってきた文章の都合上今回は別の内容になることをご了承戴きたい。

 個人的なホームページを引き合いに出して恐縮だが、恋愛ゲームZEROではタイトル通り恋愛ゲームのみを扱い、他のギャルゲーや美少女ゲームには一切関知しない(美少女ゲームは個人的に触れることはあるが…(笑))というかなり偏った対応をしてきたため、恋愛ゲームと認定されるかされないかには大きな違いがあったのだが、現実にはこれらを区別しない人も多いし、何より恋愛ゲームZEROでもこのところ区別するのが困難になってきているという実状がある。

 というのも、こういった区別をするためには、「何をもってそれを恋愛ゲームと呼ぶのか」という定義が必要だが、その定義が次第に変わりつつあるからだ(あるいはすでに変わった、と言うべきか)。当初恋愛ゲームZEROの前身である恋愛ゲーム研究会が3年以上前に発足した時は、恋愛ゲームとは「恋愛をテーマとし、恋愛要素によりマルチキャラエンディングが存在するもの」であるとしていた。そこでは明らかに「ときめきメモリアル」「同級生2」といったゲームを意識していた。しかし、その後より柔軟に対応するために「エンディング」という言葉が除かれて「恋愛要素によりマルチキャラシナリオに分岐するもの」、次にメインキャラが1人のゲームにも対応するために「恋愛要素によりマルチシナリオに分岐するもの」と変遷する。そして、今年ぐらいからはついには分岐の必要性に疑問が投げかけられ、それすらも定義から外されることになった。すなわち、「恋愛をテーマとするもの」、ただそれだけだ。昔は恋愛ゲームの周辺に位置するゲームのために「準恋愛ゲーム」という言葉を割り当ててきたが、それはもうなくなり、敢えて言うなら全てを「恋愛系ゲーム」とだけ呼ぶようになっている。マルチキャラエンディングという形式的なものから、恋愛がどれだけ物語の中に織り込まれているかという中身を重視した定義に変わってきたということが分かるが、そうするということはそういったギャルゲーや美少女ゲームを実は余り遊ばない(遊ばなくなってしまった)私にとって(実際にプレイしてみないことにはシナリオは分からないため)判断がつきかねる状況をも生み出してしまった訳だ。

 それに加え、マルチキャラエンディングを有しながら、実は恋愛を(メイン)テーマとしない「ONE」のようなゲームの登場が更に問題を複雑化し、境界を曖昧なものにしている。実際あらゆる境界が薄れていく(もしくは意味を持たなくなる)というのが恐らく多くの人の見解であろう。

 さて、(恋愛ゲームZEROにおける)恋愛ゲームの定義は以上のような変化を遂げたが、現実的には、まだまだ多くの恋愛ゲームは特定の恋愛ゲームの「文法」に則って、いやむしろ縛られている、「制約」というべきものを感じている。そしてそれは、何のことはない、これまでに恋愛ゲームの定義から外されてきた要素、つまり、分岐、エンディング、そして18禁ゲームの場合はセックスである。

 セックスについては散々言われていることなのでもう改めて書くまでもないだろうから省略する。まずエンディングだが、恋愛ゲームではかなり分かりやすいエンディングが多い。それも主人公がヒロインと結ばれてめでたしめでたしなんていう分かりやす過ぎるエンディングを抱えているものがほとんどだ。これほど分かりやすいハッピーエンディングが用意されているというのは他の創作にはない。恋愛モノに限らないが、例えば小説では問題が何も解決しないまま終わるというのは日常茶飯事だ。というか、余韻を残すという意味で敢えて使われている場合も多い。「恋愛をテーマとする」という定義からすれば結ばれない2人や結局別れてしまう2人を描いてもいいはずだ。いや、私はそれらをも「恋愛ゲーム」と呼んでいいと思う。何故恋愛ゲームはハッピーエンディングを求めるのか。

 分岐については、「分岐がインタラクティブ性を生み出している訳ではない」という仮説は浸透しつつある(と思う)ものの、恋愛ゲームが攻略性やゲーム性を必要としないというのは納得しやすいが、恋愛ゲームにあらゆる分岐は必要ないというのは正直のところ私自身も馴染みにくかったりする。果たして恋愛ゲームに分岐は必要なのだろうか。複数キャラの物語を描きたいというのなら一番最初にキャラだけ選んでしまえば良いのではないか。

 どの(ほとんどの)キャラにもえっちシーンとハッピーエンディングが用意されるということについてだが、恋愛ゲームが少なくない場合恋愛敗者に向けられたものだからというのもない訳ではないかもしれないが(笑)、私が現在のところ考えているのは2つの理由である。1つは、前回も似たようなことを書いたが、恋愛ゲームが極めて消費性の高いものだから、ということだ。私も人の事は言えないのだが(笑)、やっていない積みゲーを山のように抱えている人も多いのではないだろうか。(笑)ビデオゲームはユーザにとっては決して安くない買い物だ(制作側の立場を考えると実は安いとも思うが)。それを次々とこなしていかなければならない(ってならない訳じゃないのだが(笑))そのためユーザは、1つのゲームをかなり短期間で納得のうちに自身の中でクローズし「消費」しなくてはならない。それがえっちシーンを拝んでハッピーエンディングを見れば何となくそのキャラとその物語を消費した気分になれるのではないか。(それでも収まらない場合には二次創作のような場で消費が試みられる…。)そして「終末の過ごし方」のように意図的に(だと好意的に解釈したいが(笑))最後まで書かない作品が否定的な印象を残してしまうことになる。それは簡単に消費されることを拒んでいたからではなかったか。

 そしてもう1つは、これは分岐が主に関連するが、恋愛ゲームが、やはり「ゲーム」だったということだ。自身で行動を選択したという感覚(錯覚)とクリアした達成感をどこかで求めていたからなのではないだろうか。あらゆる境界が融解する中でゲームもまた他の創作との差異を失いつつある今、ちょうど「ゲーム」を楽しめる可能性のある最後の世代が私たちだったという気がしている。これは恋愛ゲームというよりビデオゲームの問題であって私には手に負えないからこの辺りで止めて置くが。

 …何だかまとまりがつかなくなってしまったが、今後は決して奇をてらうことなく(これ重要)かつ既存の枠組みに囚われない自由な恋愛物語があってもいいと思うし、またそれを私自身も受け入れていきたいというところで今回のTomorrowを終わらせて頂くことにする。