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恋愛ゲームTomorrow


第11回 恋愛ゲームの「日常」

99/12/23掲載(99/12/19初筆)

 このところ、恋愛系のゲームで「日常」という言葉をしばしば見かけるし、言わゆる「日常系」「ほのぼの系」と呼ばれるゲームが目立つようになってきている。この傾向は、以前流行した「感動系」への反動として当然予想できたものであるし、またここぞというイベントをより盛り上げるための日常描写の大切さは、常々主張して来たことでもあるのでとりあえずは歓迎できる方向性だと言っていいだろう。

 そもそも「日常」という言葉が出てくること自体、すでに私たちの普段の現実生活から「日常」が欠落していること、言い換えれば日々の生活から彩度が抜け落ち、そこに充足した生の時間を見いだせなくなっていることの現れであるという指摘もできる(普段から充実した日常生活を送っている人にとってはそれが「日常」だということ自体を意識していないに違いない)だろうが、今回の趣旨からは外れるので深く言及することはやめる。

 話を戻して、そういったかけがえのない日常への回帰が声高に唱えられている(?)にも関わらず、その「日常」を上手く表現できているゲーム、またそれにより確かな反響を呼び起こしているゲームはそれほど多くないように思えるのは私だけだろうか。1999年前期の、私たちを大いに泣かせてくれた「大作」でさえ、制作者が何気ない日常を表現したかったと言う各キャラクタに配置された食べ物の話に、むしろ精神的な貧しさと幼稚さしか感じられなかったのも、その一例に過ぎない。一般的に、恋愛ゲームにおいて日常描写が退屈だとか、冗長だとか評されるのにはもちろんテキストの質、文章能力にも根本的な問題があるのだろうが、それだけではあるまい。

 恋愛ゲームの日常表現が難しくなっている原因は、いくつか考えられる。制作側で言えば、もちろん制作者の方も普段「日常」から離れているために、ゲームの日常表現が薄っぺらな、あるいはよそ行きのものになってしまい、ぎこちなさや不自然さを残してしまうということがあるのは容易に想像できる。まるで日常になっていない「日常」は見ていてこちらが辛くなってくる。

 ゲームという手法自体にも制限と言うべきだろうか、日常表現を困難にしていることがある。「一瞬で燃え上がる」恋もあるにはあるだろうが、普通恋愛の過程は、何週間、何ヶ月というスパンで進むが、恋愛ゲームでは、それをプレイ実時間にして、2〜3時間、長くても5〜6時間という濃縮された時間でプレーヤに提示しなければならない。恋愛ゲームではないが「Little Lovers」に見られるように、1年といった気の長いつきあい方をさせればそこから「日常」が滲み出してくることがあるかもしれないけども、極めて短い(プレイ)時間でそれを引き出させるのは簡単ではないだろう。

 しかし、もしかすると、最も大きな要因は受け手、つまりプレーヤ自身に帰着されるのかもしれない。社会人ともなればゲームにだけ時間を割いている訳にはいかないし、それでなくても1つのゲームにかける時間が短くなり、ゆっくりと楽しむ余裕が得てしてなくなりがちなこの頃では、そのゲームを買った意味を、そしてそれを遊んだ意味を時に短絡的に求めてしまうものであり、また対価に見合う何かを求めるのは消費者としてあるいは作品の受け手として自然なことでもある(求めるものは人によって違うが)。そしてそういった態度でゲームに臨むならば、真に「日常」を描こうとしたゲームが私たちの印象に残りにくいのは無理もないことだろう。だが本来「日常」と呼ぶべきものは、そこに何かを求めていた訳ではなく、ただそこに「あった」ものだったはずではなかったか。何らかの意味があるという訳ではないのだ。以前「初めて誰かを好きになった時を思い出して欲しい」という話を書いたことがあるが、そこには、「何故好きなのか」という問いに対して「好きだから好き」という理屈では語れない恋愛感情に通じるものを感じる。登場人物たちの、大味な感動的イベントとは違う心の機微を感じ取るためには、受け手にも相応の心のゆとりが不可欠なのだろう。もっとも、それを読むに足る物語がどれだけあるのかというのもあるが。

 日常の大切さに気づき始めた今だからこそ、恋愛ゲームの「日常」とは何なのか、そして私たちにとっての「日常」とは何なのかを、しばし立ち止まってもう一度見つめ直すことが必要であると言えないだろうか。


【お断り】以前予定していた「CSという考え方(3)」は個人的な都合によりGamers Life様への掲載を中止させて頂きましたことをご了承下さい。