Episode-01「スタートライン」
16
トントントントン。
…ジュワー…ジュウジュウ。
「よっと」
聞いているだけで食欲を刺激するような音が、朝の葛城邸を満たす。
続いて、眠っていた胃袋を目覚めさせる、なんともいい匂いが漂ってくる。
その音と匂いの発生源である朝食は、キッチンに立つシンジが作り出しているものだ。
シンジの手つきには、危なげなところなど欠片もない。
流れるようにまな板の上をすべる包丁。
軽やかなフライパンさばき。
菜箸で、器用に薄焼き卵を卵焼きに丸めていく手つきは、まさに芸術品だ。
「〜♪」
わずか14歳の少年の手によって、瞬く間に朝餉が出来上がっていく。
当のシンジは、鼻歌でも飛び出しそうな上機嫌で、からだ全体でリズムを取るように、一連の動作をこなしていく。
こうして料理をするのも久しぶりだ。
一昨日は、疲れていたので、ミサトのオールレトルトで済ませてしまったし、昨日はミサトが出かけていたし、シンジも忙しかったこともあり、外食で済ませてしまった。その前には、ネルフの病室で冷めたご飯を食べただけだ。
そして、その前は…。
最後にまともな食事をしたのは、いつだろう。
思い出せない。
それだけ、多くのことがあった。
そして、それ以上に…そんなことを考える余裕がなかったし、以前のシンジには、料理のおいしさ、食事の楽しさといったものに価値を見いだすことができなかった。
料理が、こんなに楽しいものだとは知らなかった。
いや、作る過程が楽しいのももちろんだが、誰かのために食事を作るということが、これほどシンジを幸せな気分にしてくれるとは、以前からは考えられないことだった。
今は、だらしない寝ぼけ顔で、そろそろ起き出して来るであろうミサトのために、朝食を作っている。
ミサトさん、おいしいって言ってくれるだろうか。
そして、平行して進められている、昼用の弁当の準備。
綾波…おいしいって言ってくれるかなぁ。
二人が食べているところを想像するシンジ。
少なくとも、ミサトがおいしそうに食べてくれるのは分かっている。以前もそうだった。
彼女の場合、かなりの味音痴ということもあり、食事はなんでもおいしく食べられるようだ。
でも、できるだけおいしいものを食べさせてあげたい、というのが、シンジの思いだった。
…アスカにも、早く食べさせてあげたいな。
ふと、アスカのことを思い浮かべるシンジ。
アスカは、食事にはうるさい方だった。…食事ばかりに限らないが。
前回も、シンジの料理の腕は、普通には文句のつけられないものだったが、それでもアスカはよく文句を付けた。
やれ、塩加減が甘いだの、やれ火加減が強すぎるだの…。
そうしたアスカの文句に対して、あの時のシンジは「やれやれ」といった感じであきれるだけだった。
でも、今は違う。
今ならきっと、アスカにもっとおいしい料理を食べさせてあげられるのに。
生きるために欠かすことの出来ない「食べる」という行為。
食べるものもなく、ただ、LCLを…すすって生きたこと。
苦すぎる経験を持つシンジは、痛切にそう思うのだった。
ガラッ。
「あふぁ〜ぁ〜あ……おはよう、シンちゃん」
その時、ようやく目を覚ましたミサトが、寝グセ、寝ぼけ眼で起き出してきた。
「おはようごさいます、ミサトさん!」
その声に気付いたシンジが、エプロンの前で、軽くすすいだ手を拭きながら、パタパタとスリッパの音を鳴らしてダイニングにやってくる。
そして、最高の笑顔でミサトに答える。
「う、うん」
その、眩しすぎる笑顔に、ミサトは一瞬にして目を覚まし、思わず動揺した顔を見られまいと、ごにょごにょと口ごもりながら、冷蔵庫を開ける。
中から一本、缶ビールを取り出すと、プシュッと栓を開けて、気付け代わりに一気に飲み干す。
な、なんでこんなにドキドキしてるのよ、あたしってば…。
シンジの笑顔の破壊力に、思わずアルコールのせいではなく、頬を赤くするミサト。当然、シンジはそれが自分のせいだとは気付いていない。
ミサトの喉が、やけっぱちのように動いてビールを飲み下していくのを、シンジは「しようがないな」という顔で見ていた。
「ぷっは〜〜〜〜〜っ…」
そうして、ようやく自分を落ち着けたミサトは、これまで見たことの無いような上機嫌のシンジを、横目で見た。
テーブルには、朝から手のかかった料理の数々が並んでいる。
「あら、すっごい…。なんか、やけに嬉しそうじゃない、シンちゃん」
「はい。久しぶりの学校ですからね」
「ふーん…」
久しぶり?
最後に学校に行ったのって、4日前じゃなかったっけ?
ミサトは、缶ビールを口に当てたまま、楽しそうに料理を盛りつけているシンジの顔をのぞき見た。
シンジ君、いつからそんなに学校が好きになったのかしら。
「…あれ?シンちゃん、いつもはパンじゃなかったっけ」
「え、そうでしたっけ?」
食卓に並べられた献立を見て、ミサトがおやっという顔をする。
自分のことがあるだけに人のことは言えないが(ビールだけで済ます時もあるくらいだ)、これまでシンジは、朝は手っ取り早く済ませられるトーストに、軽いおかずだけということが多かったように思ったが。
「でもほら、ミサトさんが言ってたじゃないですか。日本人は、朝は御飯におみそ汁だって。だからそうしてみたんですけど…」
そう言って、また微笑むシンジ。
「シンジ君…」
「ほら、ミサトさん早く顔を洗ってきてください。冷めちゃいますよ?」
ぽけーっと、シンジの顔を見ているミサトを促すシンジ。
「あっ、そ、そうね!」
ミサトはハッと我に返ると、慌てたように洗面所へと消えた。
「いっただっきまーす!」
「はい、どうぞ」
ミサトが手を合わせ、シンジが微笑んで応じる。
そして、最初の一口を食べたミサトは、あまりのうまさに目を瞠った。
「………お、おいしい」
ミサトが今食べたのは、シンジ特製の卵焼きだ。
ご飯にしても、みそ汁にしても、アジの開きにしても、見た目は普通なのに、それは驚くべき美味さだった。
「ホントですか?嬉しいなぁ」
そう言って、本当に嬉しそうな顔をするシンジ。
しかし、その美味さも当然だった。
たいした考えもなしに作っていた前回とは、ワケが違う。
「料理は愛情」
というが、それは間違いなく正しいのだった。
シンジは今や、細部にまで気を遣って料理をしている。
一日に必要な栄養バランス、ミサトの好み、そして、ビールばかり飲んでいるミサトのための、カロリー計算(泣かせる話である)まで。
ミサトは、「うまい、うまい」を連発しながら、瞬く間にその全てをたいらげたのだった。
「それじゃミサトさん、行って来ます」
「はい、いってらっしゃい」
「あ、お弁当。ちゃんと持っていってくださいね」
「分かったわ。わざわざありがと、シンちゃん」
「それじゃ!」
笑顔で手を振りながら、出ていくシンジの背中に、ミサトは手を振って応えた。
それにしても、シンジ君…急に明るくなったわよね。
何かふっきれたかのようなシンジの明るさに、ミサトは驚きとともに、安堵感を覚える。
一昨日、「一緒に寝てもいいですか」と言ってきた時には、どうしたものかと思ったが。
第5使徒との戦いで、シンジに何か転機が訪れたようにしか思えなかった。
しかし、その原因が何であるのか、ミサトにはまるで心当たりがない。
あれだけの恐怖を味わった後だ。一層、怯えるようになってしまったとしても、仕方のないところだが…。
だが、シンジが明るくなってくれるのならば、それに勝るものはない。
今のシンジは、無理して明るく振る舞ったりしているわけではなく、とても前向きに見える。
そしてそれは、ミサトの気分まで明るくさせられるようなものだった。
「さて…シンちゃんも頑張ってることだし、私も頑張ろうっと!」
ミサトは伸びを一つすると、仕事着に着替えるために、自分の部屋へと足を向けた。
17
朝のざわめき。
HR前の、どこか落ち着かない雑然とした雰囲気が、教室だけでなく、廊下にも漂っている。
他愛のないおしゃべり。
他愛のないひととき。
だが、シンジには、それがとても貴重で大切なものに思えた。
前回、まるで注意を払わなかった世界。学校生活。
ただ、なにをするでもなく、時間を浪費していた気がする。
もう、同じことは繰り返さない。
シンジは、校門を入り、懐かしい空気の中に身を置いた時から、ずっと考えていた。
こちらから歩み寄らなければ、物事は近づいてきてはくれない。
人間関係も、そして未来も…。
ここから、もう一度、歩き始めよう。
もう一度、スタートラインに立って。
ガラッ。
2-Aのドアを開けて、教室に一歩、足を踏み入れるシンジ。
ガヤガヤガヤ…。
耳に染みこんでくるさざめき。
飛び込んでくる懐かしい光景。
ふざけて取っ組み合いをしている男子生徒たち、ファッション雑誌を読みながら、髪をいじり合っている女生徒たち、S-DATを聴いている者、教科書に落書きしている者、T定規をギターに見立ててかき鳴らしている者――――――。
「おはよう!」
シンジは、無意識のうちに、彼ら全員に向けてあいさつしていた。
その声は、予想外に大きかったので、教室内の全員が、なんだなんだとシンジを振り向く。
シンジを見つめる顔、顔、顔…。
シンジは、そのひとつひとつを眺め回す。あきれたことに、名前も良く覚えていない生徒もいた。
……何をしていたんだろうな、僕は。
シンジは、そんな感傷をすぐさま頭の隅に追いやると、みんなの視線に応えるように、にっこりと笑った。
そして、もう一度。
「おはよう」
「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「 ……おはよう 」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」
惚けたような返事が、いくつか返ってきた。
が、女子生徒のほとんどは、目をポワンとさせて、シンジの極上の笑顔を見つめていた。
ミサトですら、思わず動揺してノックアウトされかけたアレだ。無理もない。
……よく見ると、男子生徒の一部にも、顔が緩んでいる者がいるが。
シンジは、そういった視線にはまったく気付かずに、教室を横切っていく。
(ど…どうしちゃったのかしら、碇君)
(こ、この胸の高鳴りは、なに?!)
(や、やだ…私ったら、へん)
(かっこいい…)
(何か、りりしいわ)
(やだ…あの笑顔…可愛い!)
その姿に釘付けの女子生徒たちが何名か。
シンジは、中性的な顔立ちであり、以前の性格からは、「かわいい」というよりも、どちらかといえば「頼りない」というイメージの方が先行した。
だが、顧みて現在のシンジはどうか。
新たなスタートを切ろうと、前向きでひたむきな瞳。
もう、誰も失いたくない、失わせたりしない、という強い意志。
それらが混じり合い、再構成された碇シンジは、柔らかな印象の顔と相まって、かなりの美少年に変貌を遂げていた。
…あくまで、周囲が受ける印象が、である。シンジ自身に、そんな意識はまるでない。
だが、その「自然体」こそが、そこらの顔だけいい男とは、一線を画すものであった。
シンジは再スタートを切った途端に、女子生徒たちのハートを鷲掴みにしてしまったようである。
自分の席に着いたシンジは、自然な笑みを口元に浮かべながら、かばんの中身を机に移し替えていく。
と、ちょうどその時、教室の後ろのドアから、登校してきたトウジとケンスケが、前のドアからは、お手洗いに行っていた洞木ヒカリが戻ってきた。
「よう、碇」
「おはようさん!なんやシンジ、やけに機嫌良さそうやのぅ。何かいいコトでもあったんか?」
のーてんきな声で、シンジにあいさつする男二人。
その声に気付いて、ヒカリが顔を上げてトウジの方を見やる。
「あれ、碇。そこお前の席じゃないじゃん」
「何や、朝からボケとるんかいな?」
笑いながら、シンジに近寄る二人。
振り返ったシンジは……驚愕に両目を見開いた。
トウジ………!!
そこに立っている人物を確認して、足下を見たシンジは…。
「へ?」
「あん?」
……いきなり、トウジのジャージのズボンを引き下ろした。
「ぎゃあーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
それを目撃した女子生徒の一人が、悲鳴を上げる。
それも当然だ。
今まで、シンジの横顔を見て、ぽーっとなっていた視界に、いきなりトウジのケツが現れたのだから。
教室の空気が化石と化した。
いや、ただ一人……
「(い、碇君ったら、いきなり、な、なにを。す、鈴原のが、見えちゃった…きゃっ)」
ヒカリだけが、顔を赤くしつつも、どこか嬉しそうにイヤンイヤンしていた。
「な、あ………」
青と白のシマシマトランクス丸出し状態のトウジは、何が起こったのか分からず、固まっている。
隣のケンスケは、思考が麻痺しているのか、それでも手にしたカメラのシャッターを切る。
ある………トウジの足が!!
トウジのジャージに手をかけたままの姿勢で、シンジは食い入るように二本のむき出しの足を凝視していた。
あの時、潰れたはずの足。
ダミーシステムに乗っ取られた初号機が、握りつぶしたのだ。第十三使徒―――エヴァ参号機のエントリープラグとともに。
自分が…この手で!
だが、それが今は、ある。
これからなら、トウジを救うことが出来る…!
その事実に気付き、思わず歓声を上げそうになっていたシンシは、しかし、自分が何をやっているのかに、まったく気付いていなかった。
「…な、な、あ、な…なにしとんのやっ、シンジィぃぃぃぃぃぃっ???!!!」
「へっ?」
我に返ったトウジは、シンジの掴んでいる手を振り払うようにズボンを上げると、真っ赤にした顔から湯気を上げながら、シンジを怒鳴りつけた。
「あ、あれ?」
そこでようやく、シンジは自分がいかにマズイことをしたか気付いた。
「あれ、やあるかっ!!シンジ…おおおお前なあぁ……っ」
「ごっ、ごめんトウジ…」
トウジはブチ切れ寸前だ。
さて、一体なんと言ってこの場を収めたらいいのか…とシンジがうまい謝罪を思いつく前に。
コツ…。
静かな靴音。
あれ…?
いつの間にか視界の中に現れた靴を見て、シンジは視線を上げた。
水色の流れと、静かな紅い瞳。
いつ、ここに来たのか分からないが、レイが横に立って、シンジをじっと見つめていた。
「碇君」
「あ、綾波。おはよう」
「.........おはよう」
拳を振り上げて暴走寸前だったトウジを始め、教室中が再び凍り付いた。
レイが、ほんのわずか…少しだけ微笑んだのだ。
シンジは、今置かれた立場も忘れ、レイの微笑みを見て、嬉しそうに笑った。
その笑顔を確認して、レイは踵を返すと、窓際の自分の席についた。
再び、時間が動き出す。
「そうだ。ごめん、トウジ…その、ちょっとしたいたずら心でさ。もうしないから…ごめんっ」
あ、と気付いたシンジは、とにかくトウジに謝罪する。
「あ、ああ…もう、ええわ」
何事もなかったように、鞄から文庫本を取り出して読み始めるレイを目で追いながら、トウジは、すっかり毒気を抜かれたような顔で呟いた。
「な、なあ碇…今、綾波…笑わなかったか?」
ケンスケが、おそるおそるといった感じで、シンジに尋ねる。
「うん。そうだね」
「そうだね…ってシンジ、お前」
「やっぱりそうかぁっ!…くぅぅ、相田ケンスケ、一生の不覚。そんなシャッターチャンスを逃すとは!!」
さも、それが当然のように答えるシンジに、唖然と呟くトウジ、悔しがるケンスケ。
教室に、いつもの雰囲気が戻ってきた。
キーン、コーン、カーン、コーン。
ちょうど、それを合図にしたかのように、HRの予鈴が鳴り始めた。
生徒たちは、先程までの衝撃の余韻を残しながら、各々の席へと戻っていく。
トウジ、ケンスケ、洞木さんに綾波。
これで、みんながそろった。
あとは…。
『Souryu Asuka Langray』
そうチョークで書かれた黒板を背に、自信に満ちた笑みを浮かべる栗色の髪の少女。
アスカ――――。
教室の前の黒板を見つめるシンジの瞳には、第壱中学校の制服を着たその姿が映っていた。
■次回予告
前向きな生き方を選んだシンジ。それは、周囲にも確実に変化をもたらす。
レイも、もちろんその一人だった。
彼女の引っ越しを手伝うために、崩れかけたマンションの一室を訪れたシンジは、
そこにかつての孤独なレイの姿を垣間見て愕然とする。
その時、シンジはレイの手を取って言っていた。
「すぐにここを出よう」
そして、レイの新しい生活が始まった。
次回、新世紀エヴァンゲリオンH Episode-02「穏やかな場所」。
Lead to NEXT Episode...
Back to Before Episode...
ご意見・ご感想はこちらまで
(updete 2000/07/06)