Episode-02「穏やかな場所」

  


 

 

 

18

 

 

 

授業が始まって間もなく、シンジの変化は傍目にも明らかになってきた。

 

さすがに、進んで発言…とまではいかないが、授業に打ち込む「ひたむきさ」のようなものが、そこここに見え隠れした。

4時限目の体育の授業は男子はサッカーで、シンジは生まれて初めて、思うさまグラウンドを駆け回った。

楽しかった。

何か、うまく言えない熱いものが、体中を駆けめぐり、それが隅々まで満ちていくような、そんな感覚。

スポーツの楽しさ。

同級生との触れあい。

とにかくシンジは、学校生活の全てを満喫しようとしているかのように見えた。

 

それは、当然のごとく女子生徒たちの目を惹く。

シンジのクラスの女子生徒のほとんどが、グラウンドでシンジの汗が輝くたびに、プールサイドから(女子はプールの授業だった)羨望の眼差しを注ぐのだった。

 

ヒカリは、女子の態度の変わりように、唖然としていた。

レイは……。

その紅い瞳で、なんとなくシンジの姿を追っていた。

いつものように、プールサイドに体育座りをして。

 

碇君......楽しそう。

 

なんとなく、そう思った。

 

 

ところで、シンジの席は、前回の時と異なっていた。

朝、ケンスケとトウジに指摘された通りだ。

シンジの席は、窓際の後ろから2番目…レイの真後ろだった。

その事実を知って、シンジは驚いた。

前回と異なることについて、ではない。

 

前の僕…つまり、つい一週間前までの僕は、どんな風だったんだろう。

 

そんな考えに、唐突に行き着いたからだ。

当たり前のことだが、第5使徒との決戦の前夜、現在のシンジが病室のベッドで目を覚ました時……それ以前にも、碇シンジという人間は存在していたはずだ。

周囲の人々の記憶にあるのは、その「シンジ」の姿なのだ。

では、「彼」は一体、どこへ行ってしまったのか?

 

そもそも、どうやってここへ戻ってきたのか、いや、時間を遡行したのか、別の平行世界に紛れ込んでしまったのか、それすらも分からない。

もしかすると、これは、あのLCLの海岸で見ている夢なのかも知れない。

だとしたら、最悪の悪夢に違いない。

 

だが…

今のシンジは、そういったことに思い当たっても、決して心を揺るがせなかった。

最後に交わしたミサトとの口付け。

レイが伸ばした手に、頬を包み込まれた感触。そこから流れてきた想い。

アスカの乾いた唇の感触。

 

そして…再び訪れたレイの体の温もり。ミサトの手の温もり。

 

それらが、シンジの迷いを断ち切る。

あの時、誓ったように。

もう、二度と迷わない―――。

 

ただ、もう一つ。

 

アスカに会いたい。

会って確かめたい。

 

アスカの生きている証。

この気持ちを、決定的にさせてほしい。

 

「なぁ、センセ……何か、あったんかいな」

「え?」

 

廊下を歩きながら、ぼーっと自分の考えに没頭していたシンジは、突然、現実へと引き戻された。

トウジが、横から顔を覗き込むようにして、自分を見ている。

体育の授業が終わって、教室へ戻る道すがら。

 

「いや…な」

「あのさ…今日の碇、何だか、すごくハイに見えるんだよな」

 

ケンスケが、何故かシンジをビデオのフィルターに捉えながら、言う。

実は、今朝から株の急上昇したシンジは、ケンスケのところへ入ってくる写真の注文が殺到していたのである。

 

「……ヘン、かな」

「いやいやいや、へんなんかじゃないさ。つまりその…」

「今までの僕と、違う?」

 

二人の言いたいことを察して、シンジが後を継ぐ。

 

「ああ、まあ…そうなんだけど、さ。なあ、トウジ」

「ん?お、おう」

「あのさ、なんかあったのか?」 

 

「そうだね……あったのかもしれない」

 

一拍置いて、そう答えるシンジ。

 

「お、なんだよ、思わせぶりじゃん」

「せやせや。はっきり言うたらんかい!」

 

しかし、シンジの脳裏に浮かんだのは、まったく別のことだった。

 

「そういえばトウジ……妹さんの具合はどうなのか、な?」

「はあ?」

「…なんや、藪から棒に」

「ん…いや、ちょっと気になって、さ」

 

うりうり、と興味津々の様子でシンジをせっついていたトウジは、少し表情を改めた。

シンジは、自分の知らない、この時の過去を知りたいと思った。

 

第3使徒、そして、第4使徒。

すでに二つの使徒を倒してきたことは間違いない。でなければ、今の時間があること自体、あり得ないからだ。

では、前回とまったく同じ経過を辿ってきたのか、というとシンジにはまったく自信がない。

使徒に関することならば、NERVで調べるなり、ミサトに聞くなりすれば良いだろう。

だが、ごく個人的なこと―――

これまでのミサトとの関係、レイとの関係、リツコとの関係、みんなとの関係、そして父との関係。

そうしたものは、周りの反応から、時間をかけて推測する以外にない。

トウジの妹のこともその一つで、これは、比較的確認が容易で、しかもずっとシンジの胸にわだかまっていた問題だった。

 

トウジは、やや気の進まない感じで、腕組みをしながら、視線を別の所へ向けた。

妹のケガをめぐるシンジとの確執は、もうだいぶ前のこととはいえ、完全に忘れ去ることは不可能だ。

逆に、シンジとの関係が円満になった今だからこそ、あえてそれを蒸し返すのが躊躇われたのかもしれない。

 

「まあ……あまり芳しいとはいえんな」

「……そう」

「そんでも…」

「えっ?」

「病院のセンセも、すっかり峠は越した、言うてたしな。すぐにっちゅうワケやないが、あと一月もすれば、普通に歩けるようになるそうや」

「………そうか!」

「な、なんや」

「いや、退院はいつなの?」

「せやから…そない急にはムリやっちゅうねん」

 

人のハナシ聞いとんのか、と言いたげに、あきれ顔のトウジ。

 

「じゃあさ、今度僕、お見舞いに行くよ。…いいかな?」

「そりゃ…かまへんけど。どないしたんや、いきなり」

 

だが、シンジは聞いていないかのように、しきりに「そうか、そうか」と繰り返しながら、なんだか嬉しそうな顔をしていた。

内心、シンジはトウジの手を取って、ぶんぶん振り回したい衝動をこらえるのに必死だった。

やはり、少しずつ歴史は変わってきている。

前回は、トウジがフォースチルドレンに選ばれた頃になっても、彼の妹は生死の境をさまよっていたと記憶している。

それが、さすがに重傷とはいえ、もう心配はないという。

 

どういう経過を辿ったのかはわからない。

でも、未来は変えられるんだ。

 

その思いと確信が、シンジを高揚させていた。

 

「分からんやっちゃなあ…。ま、ええけどな」

 

パシャッ、パシャッ!

 

「もっと分からんのは、コイツや…」

 

トウジは、今度はカメラを構えてシンジを接写し始めたもう一人の友人を、ジト目で眺めやった。

 

 

 

 

 

 

19

 

 

 

「……さあっ、メシやメシやっ!!」 

 

一日の楽しみの大半はここにあり、といわんばかりの表情で(実際そうなのだが)、両手をこすり合わせるトウジ。

くるっとシンジの方を見る。

 

「おう、シンジ、ケンスケ、昼メシや!」 

「好きだねぇ、トウジは。言われなくても、わかってるって。碇…?」

「…あ、ごめん。今日、これだから」

 

言いながら、二つの弁当箱を取り出すシンジ。

ひとつは、もちろん自分の分。そして、もうひとつは…。

 

「お、なんや、弁当かいな。マメなやっちゃなぁ」

「…でも、なんで二つもあるんだ?」

 

どやどやとシンジの背後に集まってくるトウジとケンスケ。 

 

「やるのう、シンジ。二つとも食うんか」

「まさか…トウジじゃあるまいし」

「うん、ちょっとね」

 

手の中の弁当箱をちらっと見たシンジは、目の前にある水色の髪の後ろ頭を見る。

そして、ちょっとだけ気合いを入れると、ガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。

 

「綾波」

 

ひとつ前のレイの机に回り込んだシンジが呼びかけると、頬杖をついて、ぼぅっと窓の外を見ていたレイが、ゆっくりとこちらを向く。

 

「......なに」

「うん。あのさ…これ」

「.........」

 

シンジがレイの机に、弁当箱のひとつを置いた。

レイが、その物体をじっと見つめる。

 

「......なに」

「うん。綾波、いつもお昼ってどうしてるの?」

「.........」

 

念のため、聞いてみるシンジ。レイは何も答えない。

 

「…その様子じゃ、食べてないんじゃない?」

 

コクリ、と頷くレイ。

 

「だと思ってさ、これ、お弁当作ってきたんだ。綾波、よかったら食べない?」

「.........」

 

無反応のまま、一度、弁当箱に視線を落として、次にシンジをじっと見つめるレイ。

シンジは、にこにこと笑っている。

 

そんな二人の行動を、いつの間にかクラス中の生徒たちが、息を潜めて見守っていた。

とくに今朝方から、シンジにメロメロになっていた女子生徒たちは、彼の行動にショックを隠せない様子で、固唾をのんでレイの反応を注視している。

 

(いやーっ、碇君、なんでそんな娘にそんなことするの?!)

(まさか、ふたりはデキてるとかっ?!)

(がーん…がーん…がーん…)

(綾波さんっ、拒否しなさい!思いっきり冷たくあしらうのよっ!)

(やだーっ、碇君、だめっ)

 

ゴクリ。

 

トウジとケンスケも、いつの間にか息を潜めて、二人を見ている。

今や、2-Aの教室内は、異様な緊張感が充満していた。

 

そんな空気は知らぬが花。

 

「......お弁当」

「そうだよ、ほら」

 

初めて興味を示したようなレイの言葉に、シンジは、いそいそと弁当を覆っている包みをほどいていく。

 

カパッ。

 

フタを外して、中身を見せるシンジ。

おおお〜っと、小さなどよめきが上がる。

 

それは、見るからにおいしそうだった。

 

ご飯とおかずに綺麗に仕切られた弁当。

つやつやと輝くようなご飯の上には、そぼろはそぼろでも、肉ではなく卵のそぼろが綺麗に敷き詰められている。斜めに区切った残りの半分は、のり弁だ。

おかずは、いんげんとマッシュルームの炒め物、小松菜のおひたし、肉ではなくてがんもどきの煮付け、特製卵焼き、プチトマト、甘塩のシャケの切り身、フルーツと杏仁豆腐のデザート。

一目見ただけで、どこにも肉が使われていないことが分かる。

レイの好みを考えての、シンジの苦心の成果だった。

赤・黄色・緑・白・茶色…色とりどりのおかずが、目にもおいしさを伝えてくるかのようだ。

栄養のバランスもばっちりである。

 

「......おいしそう」

 

その光景に目を奪われていたレイは、思わず、といった感じで呟きを漏らす。

注目しているギャラリーたちも、思わずよだれを垂らしそうな顔だ。

 

「ね、食べてみてよ、綾波」

 

シンジは、レイが弁当に興味を示したのを知ると、やった、とばかりに箸箱から臙脂色の箸を差し出した。

おずおずと、それを受け取るレイ。

 

弁当箱に近づいていく、レイの箸。

それにつられて、ぐぐぐっと前のめりになっていくギャラリーたち。

 

中身を乗せて、今度はレイの口に近づいていく箸。

あーーーーーん……と、なぜか同時に口を開くギャラリーたち。

 

ぱくっ。

 

レイの小さな口が、箸とともに、卵そぼろご飯をくわえる。

 

もぐもぐもぐ......

 

ゆっくりと咀嚼するレイ。

それを、じっと見ているシンジ。

 

もぐもぐもぐ......こくん。

 

「.........」

「……どう?」

「......おいしい」

「ホントっ?」

「ええ......」

「よかったぁ…ね、ほかのも食べてみてよ」

「ええ......」

 

ぐわったーん!!

と、もの凄い音がした。

 

「?」

 

シンジが何事かと振り向くと、教室の大半の生徒が、床に轟沈してピクピクしていた。

今度は、倒れているのは女子生徒ばかりではない。

倒れている男子生徒のほとんどが、レイに密かに思いを寄せつつも、近寄りがたい雰囲気に、声をかけることができなかった者たちである。

シンジは、彼らの踏み入れられなかった聖域に、いきなり何の苦労もなく踏み込んだのであった。

例によって、シンジはまったくそのことに気付いていない。

 

「あれ…どうしたの、みんな」

 

だから、こんなボケた発言が出る。

シンジとしては、ただ単にレイの食生活と健康を考慮した上での、ごく自然な行動にすぎなかった。

果たして、彼女が素直に食べてくれるだろうか、という一抹の不安はあったが。

 

「ど…どうした、て」

「碇…お前、自分がなにやってるか、分かってるのか」

 

レイに恋していない分、立ち直りの早いトウジとケンスケの二人が、顔を引きつらせながらシンジを見た。

 

「なに…って」

 

シンジは、レイを見る。

レイは、周囲の雑音を気にもとめない様子で、もくもくとシンジの作った弁当を口に運んでいる。

 

良かった。

気に入ってもらえたみたいだ。

 

シンジが、レイの好みで知っていることといえば、肉がきらいということと、ラーメンはにんにくラーメンチャーシュー抜きだということだけだ。

だから、今回は手探り状態での献立だった。

 

「お、お前…綾波とは、いつからなんや」

「は?」

「そうか…そうだったのか、碇」

「へ?」

 

いきなりな展開に、一瞬、なんのことか分からないシンジ。

 

「それで、今日のお前がやたらハイな理由が分かったよ…」

「ちょ、ちょっと待ってよ…」

「いやっ、みなまで言うな!分かっとる、分かっとるでシンジ」

 

熱い涙をハラハラ流しながら、うんうんと頷いてシンジの肩を叩くトウジ。

 

「ぜ、全然分かってないじゃないか。二人とも、なに誤解してるんだよ。僕はただ、綾波がいつもお昼抜いてるみたいだから、気になってお弁当を作ってきただけで…」

「せやけどなぁ、シンジ…」

「「「「「「「「「「「「「「「「 ホントッ、碇君?! 」」」」」」」」」」」」」」」」

 

トウジの言葉を遮って、一瞬のうちにシンジの周りに人垣ができる。

トウジはというと、すごい力で人垣の外にはじき飛ばされ、床でピクピクしている。

 

「あ、あの…」

 

十数人の女子に囲まれて、よく分からないその迫力に、たじろぐシンジ。

性格が明るくなったとはいえ、こういうことには全然、ニブちんのシンジだった。

 

「「「「「「「「「「「「「「「「 ホントなのッ?! 」」」」」」」」」」」」」」」」

「う…うん」

「「「「「「「「「「「「「「「「 じゃあっ! 」」」」」」」」」」」」」」」」

「うわっ」

「「「「「「「「「「「「「「「「 私たちにも作って! 」」」」」」」」」」」」」」」」

 

迫る女子生徒たち。

 

「そ…そんなに沢山はムリだよ」

 

十数個のシンクロしたお願いを受けて、シンジは汗をダラダラ流しながら、一歩、後退する。

 

「「「「「「「「「「「「「「「「 どうしてっ! 」」」」」」」」」」」」」」」」

「いや、どうしてって…そんなに材料もないし」

「「「「「「「「「「「「「「「「 綾波さんには作ってあげるのにっ?! 」」」」」」」」」」」」」」」」

「うっ……」

 

結局。

いつの間にか、これから毎日、一人ずつ交代に弁当を作ってくることに決められてしまっているシンジであった。

 

「……うらやましい奴」

 

その様子をビデオカメラに収めながら、ケンスケはぼそりと呟いた。

 

 

 

おいしい......碇君の作ってくれたお弁当は......おいしい。

 

レイはひとり静かに、シンジの弁当の味を噛みしめていた。

こんなにおいしいものがあること、赤木博士も、碇司令も教えてくれなかった......。

ふと、そんなことを考えていることに気付き、自分自身が一番驚いているレイだった。

 

 

 

 

 

20

 

 

 

 

放課後。

 

 

シンジとレイは、並んで帰路に着いていた。

先日の約束で、レイがシンジの(正確にはミサトの、だが)マンションに引っ越してくることになったため、部屋の整理の手伝いをすることにしたのだ。

 

「.........」

「………」

「.........」

「………」

「.........」

「………」

 

学校を出てから、散発的に続けていた会話も、そろそろネタ切れ状態だ。

というのも、シンジが一方的に話題を振って、レイは一言答えて…そのまま会話が終わってしまうからだ。

 

しかし、今のシンジには、この沈黙が気にならなかった。

前回の自分であれば、レイと二人きりという状態になれば、何か話さなくてはと、そればかり必死になって、生きた心地がしなかったところだ。

レイの持つ、一種、神秘的なまでの沈黙は同じだった。

だが、前回に比べると、それは静かな中にも穏やかさを感じる。

 

或いは、それは錯覚かも知れない。

シンジの心が、前回とは比べ物にならないくらい、穏やかになったせいかもしれない。

だが、記憶の中では「取り付く島もない」という印象だったレイは、今は、自分の存在を気にかけているような気がした。

 

シンジは、あの時のことを思い出す。

成層圏―――。

朧げな姿を揺らめかせたレイが、頬に触れた時に、流れ込んできた想いと記憶。

そのためか、シンジは今では、レイ(カヲル)の知っていた知識、レイ(カヲル)の抱いていた想いを知っている。

 

以前のレイは、最後には…シンジに対して、淡い感情を抱いていた。

 

はたと思い当たる。

 

あの時、最後の瞬間に現れたレイは、三番目の彼女ではなかったのかもしれない。

そうでなければ、以前のレイの最期の瞬間の記憶など、持っているはずがない。

 

三番目のレイ。

 

シンジは、ぶるっと体を震わせた。

なんとおぞましい言葉だろうか。

もちろん、それは三人目のレイの責任ではない。

だが、彼女の存在は、二番目、つまり今隣にいるレイの死を意味する。

 

絶対に死なせたりするものか。

 

シンジは、強くそう思う。

それは、「固い決意」などという生易しいものではない。

自分の全存在意義が、その決意の中に宿っている。

隣を歩く少女の横顔を見つめながら、アスカの幸せと同じくらい、レイの幸せを護ってやりたいと願う、シンジだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「入って......」

 

 

ガコーーーーン……

ガコーーーーン……

 

 

記憶では、数カ月ぶりに入ったレイの部屋を目の当たりにして―――

 

シンジは愕然となった。

 

 

 

昼間でも閉じられたカーテンの隙間から差し込む、わずかな外界の光。

窓際にポツンとうち捨てられた無骨なベッド。

その上に、無造作に脱ぎ捨てられた服。

使われているのかも分からない、寂しいたたずまいをみせる冷蔵庫。

その上に乗った、無機質なビーカー。周りには、錠剤、錠剤、錠剤…。

無造作に置かれたダンボールには、血がすっかり乾いて、茶色の染みとなっている使用済みの包帯。

この部屋の主人と同じく、孤独にポツンと置かれている一脚の椅子。

ほとんど唯一の家具であるタンスがひとつ。

 

室内の空気は淀み、床は塵と埃が堆積している。

 

 

そこは、以前のまま――――四角いコンクリートの牢獄だった。

 

 

こんなところで…………

 

 

シンジは、立ちすくんでいた。

こんなところで、綾波は生きていたのか。

 

それは、以前も感じなかったことではない。

だが、今のシンジだからこそ、それの持つ意味が、痛烈に胸を締め付けた。

誰もいない、空間。

無機質な、空気の匂い。そして、孤独…。

それは、シンジにあの海岸を思い起こさせるに十分だった。

 

こんなところにいたら、綾波はダメになる…。

 

「碇君、なにか飲む......」

「綾波!」

「......!」

 

レイは、部屋に入った途端、ぴくりとも動かなくなったシンジの背中を、不思議そうに見ていた。

そして、言いかけた時、シンジは突然、レイの腕を取った。

 

「引っ越しは来週の予定だったけど…今すぐ、ここを出よう」

「えっ......?」

 

シンジは、レイの紅い瞳をじっと見つめた。

綺麗な…スカーレット。

その瞳の色は、以前とは違う。

小さな感情の萌芽を感じさせる、淡い紅。

シンジの顔が、その中で小さく揺れている。

 

「すぐに、荷物の整理をしよう。いいね」

「......ええ」

 

レイは、吸い込まれるように、シンジの漆黒の瞳を見つめていた。

なんだろう、この感覚は......。

吸い付いて、離れない。

何か分からないが、とても落ち着く感じ。

あたたかい......かんじ。

 

「…その前に、お茶にしようか。少し、喉が乾いちゃったからね」

「分かった......待ってて」

 

そう言うと、離れ難そうに、ゆっくりとシンジから視線を外し、レイはキッチンへと消えた。

 

その後ろ姿をみやって、シンジは、ふと窓際に置かれたタンスを見つめた。

 

あれ…なんだろ、これ。

 

シンジは、その上に置かれている、石ころのような物を手に取った。

手に取ってみると、それが石ではないことが分かる。

金属だ。

それも、一度溶解したような…。

 

なぜ、こんなものがここに置かれているのか分からない。

確か、ここには父さんの眼鏡が置かれていたんじゃなかったかな?

そう思って視線を移すと、同じ棚のすみに置かれたメガネケースを発見した。

やっぱり。

シンジは、なんとなく複雑な思いで、それを見つめた。

 

「碇君、お茶......っ?!」

 

その時、キッチンから出てきたレイが、シンジの手の中にあるものを見て、目を見開く。

持っていた2つの紅茶入りのカップが、床に落ちてガチャンッ、と割れる。

と、驚いたことに、慌てた様子でツカツカとシンジに歩み寄ると、その手から、石のようなものをひったくるように奪う。

 

「.....!!」

「あっ…」

 

奪ってしまってから、レイはハッと気付いたように、シンジの顔を見た。

 

「ごめんなさい......」

「う、ううん。僕の方こそ、黙って触っちゃってごめん…」

 

突然のレイの行動に、頭の中が「??」状態のシンジ。

レイは、取り返したものを、大事そうに手の中に包み込むと、再びもとあった場所に安置する。

 

「……それ、なんなの?」

 

シンジが、床にしゃがみ込んで、割れたカップを片づけながら訊ねる。

すると、レイは背中を向けたまま、ぴくっと肩を震わせた。

 

「ご、ごめん、聞いちゃまずかったかな」

「.........いい」

 

レイはかすかに俯いているので、その表情は見えない。

 

「ごめんなさい。手伝うわ」

 

一瞬後には、レイは普通に戻って、シンジの横にしゃがみ込む。

 

「あ、いいよ。危ないから。綾波は、自分の荷物を準備して?」

「......ええ」 

 

レイは、シンジが意外に思うほど、素直にそれに従った。

 

でも、なんなのかな…あれ。

前回は、あんなものなかったと思ったけど…。

 

結局、分からないシンジであった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここだよ」

「.........」

「綾波の、新しい家」

 

シンジは、自分の住むマンションの隣の部屋のドアの前で、レイを振り返った。

レイが手にしているのは、小さな鞄が一つだけ。

それが、今までのレイのすべてだった。

 

「.........」

「さ、入ってみて」

 

何を思っているのか、よく分からない表情で立っているレイに、カードキーを手渡すシンジ。

レイは、それを受け取ると、ドアの横の、インタフォンを兼ねたロックのスリットにカードを通した。

シュッ、という空気の抜けるような音がして、レイの新居となる部屋のドアが開いた。

 

「予定が早まっちゃったから、まだ完全に準備が出来てないんだけど…」

 

そう言うシンジの声を背中に受けながら、レイは中に足を踏み入れた。

 

サアッ………

 

爽やかな風が、レイの横をすり抜けた。

玄関を入ってすぐの左側が、ダイニングになっていて、大きな窓から清涼な空気と、あたたかな日差しを送り込んでくる。

部屋の中は、以前にいた場所とは比べ物にならないほど、明るい光で満たされていた。

部屋の作りは、ミサトとシンジの家と変わらない。

配置を良く考えられた家具類に、清楚な感じの漂うカーペット。

部屋の中央に置かれたソファには、かわいらしい柄のクッションが二つ。

天井から下がっている、少しレトロな感じのする照明は、部屋の中に、暖色のいろどりを与えるよう考えて選ばれたものだ。

 

キッチン。

レイの寝室。

 

それらの全ては、シンジが昨日、一日がかりで整えたものだった。

むろん、家具などは備え付けの物だが、配置やそのほかの細々としたものは、すべてシンジがあちこちから買い集めてきたものだ。

本当は、レイとともに、彼女の好みにあったものを選ぶ方がいいかな、と思ってもみた。

しかし、すべてをレイと選ぶことになれば、大変な時間がかかるし、何より、新しい家に入った時に感じる、あの空虚感を感じさせたくない、というのがシンジの考えだった。

 

 

「......新しい、家」

 

そこは、穏やかな場所。

 

レイは、すべてをゆっくりと見回してから、先程シンジが言った言葉を繰り返した。

じんわりと、時間をかけて、その意味を咀嚼する。

 

「どうかな、綾波? ごめんね、僕が大体の物を揃えちゃったんだけど…気に入らなかったかな」

 

少し不安そうに、レイを見やるシンジ。

 

「......碇君が?」

「う、うん。……やっぱり、女の子の好みとか、その、よく分からなかったんだけど。綾波なら、静かな感じで、それでいて落ち着くような感じがいいかな、なんて勝手に思っちゃって。…あの、やっぱり気に入らない?」

「......いい」

 

レイが、ぽつりと返事をした。

シンジがほっとしたのも束の間、次にレイの口から出た言葉に驚く。

 

「......ありがとう」

「う、ううん。いいんだよ、たいしたことじゃないし。それからさ、足りない物は、これから買い揃えていけばいいと思うし」

 

少しどぎまぎして、シンジはまくし立てた。

 

「そうだ。綾波、さっき見た感じだと、服とかあんまり持ってないよね」

「......ええ」

「もし疲れてなかったらさ、これから一緒に、服とか買いに行かない?」

「......一緒に?」

「うん。実はさ、ミサトさんに付き合ってもらうように頼んでたんだ。僕じゃ、女の子の服とか、よく分からないしさ。どうかな?」

「......うん」

 

ミサトも一緒と聞いて、レイはちょっと残念そうな顔をした……そう思ったのは、シンジのひいき目だったろうか。

 

 

 

 

 

21

 

 

 

 

「やっほー、シンちゃん、レイ。こっちこっち!」

 

市の中央にあるショッピングモールの一角。

仕事着のままのミサトが、でっかい声とともに、ぶんぶん手を振っている。

少し恥ずかしい。

何が恥ずかしいって、片手に握られたビールの缶だろう。

ミサトは、さっそく仕事帰りの一本を開けているらしい。

 

「ミサトさん。…今日は無理言ってすみません。仕事が終わったばかりなのに」

 

シンジは少しあきれながらも、人混みの間で手を振る美女の元へ歩いていく。

少年から半歩の位置を保ったまま、水色の髪の少女が後を付いていく。

それは、かなり人目を引く光景だった。

 

「いいってことよン。ほかならぬシンジ君と、それにレイのためだもんね」

 

シンジの後ろにちゃんと付いてきているレイを見て、ミサトはにっこりと笑う。

すると、レイは少し口ごもりながらも、

 

「......コンバンハ」

 

と言った。

ミサトは驚いた。

 

「こんばんは、レイ。今日はよろしくねン♪」

「......はい」

 

しかし、すぐに気を取り直すと、先程よりもさらに優しい笑みを浮かべてレイを迎えた。

シンジの後ろに隠れるようにして立つその姿が、初々しく感じられた。

シンジもレイも、制服姿のままだ。

シンジは時間がなかったからだが、レイの場合、ほかに着る物がなかったということがある。

 

「さって、それじゃあ早速、服選びに行きましょうか!」

「あ、ちょっと待ってください。もう一人、来ますから」

「え?」

「......?」

「シンジくーん!」

 

あっけに取られる二人の女性の向こうから、見知った顔の人影が小走りにやってくる。

その人影は、こちらにやってくる途中、何もないところで、いきなり転んだりした。

 

「マヤちゃん…?」

「はぁ、はぁ…シンジくん、遅くなってごめんなさい」

 

やがて、腕と腰をさすりながら、息を切らせたショートカットの女性がやってきた。

 

「あっ、葛城一尉、こんばんは」

「あ、うん…」

 

ミサトは、気の抜けたような顔で、「どしたの、彼女」とでもいう風に、指さしてシンジの顔を見る。

 

「僕が頼んだんですよ。…ホラ、綾波って、服とか買うのに慣れてないでしょう。自分の好みも分からないみたいだから、色んな人に意見聞いた方がいいと思って」

 

後半を付け足したように、説明するシンジ。

なんとなく、ミサトの態度に剣呑なものを感じたからだ。

実のところ、ミサトの好みだけでレイの服を決めることの危険性に気付いて、急遽、思いついたのがマヤを呼ぶことだった。

 

「そうなんですよ。急に電話もらって、びっくりしちゃた」

 

えへ、と可愛く笑みを浮かべるマヤ。

 

「すみません、マヤさん。いきなりこんなことお願いしちゃって…」

「あ、いいのよシンジくん。今日は別に、他に用事もないし」

 

ぱたぱたと手を振るマヤ。

爽やかな笑顔で頭を下げるシンジを見て、少し顔が赤い。

 

「仕事の方、大丈夫なの?」

「ええ。今日は残業もありませんし…あっ、レイちゃん」

 

はじめて気付いたように、レイを見るマヤ。

 

「コンバンハ」

「あっ……こんばんは」

 

ミサトと違って、はっきりと驚きを表すマヤ。

正直言って、レイの方から話しかけられるのは、初めてのことだった。

 

「で、最初は何から見る?」

 

腕時計をチラッと見たミサトが、シンジに訊ねる。

あまり時間をかけると、閉まってしまう店もあるだろう。

 

「あ、最初はパジャマからです」

「パジャマ?」

「ええ。聞いたら、綾波、寝間着を全然持ってないって」

「そうなの?」

 

ちょっぴり驚いて訊ねるマヤに、レイはこくり、と小さく頷いて意思表示した。

 

「よっしゃあ!そんじゃ私が、気合い入れて選んであげるわ!!」

 

ミサトは、ぐぐっと両拳を固めると、夜空に向けて吠えた。

 

 

 

 

 

 

 

「うぅ〜ん…イマイチ、パッとしたのがないわねぇ」

「そうですねぇ…あっ、これなんかどうですか?キャッ、これ可愛い」

「………」

「.........」

 

最初に入ったデパートの女性服売り場で、ミサトとマヤはすっかり「バーゲンセールに燃えるおば…お姉さん」と化していた。

完全に置いていかれた格好のシンジとレイは、その後ろで呆然と立っている。

予想された事態ではあった。

 

「あ、あの…」

「んー?なに、シンちゃん」

 

おずおずと声をかけるシンジに、カゴを漁りながら振り向きもしないで答えるミサト。

 

「分かってると思いますけど…ちゃんと、綾波に合った物を選んでくださいよ」

「だ〜いじょうぶ、だいじょうぶ。安心してまーかせなさいって」

 

……だから、安心できないシンジであった。

 

 

果たして…。

 

ミサトが選んだ服を持って、試着室に入ったレイ。

…着方が分からなくて、いったん出てくると、ミサトと一緒に再び、試着室に入る。

そして…。

 

「じゃ〜〜〜んっ!!どうっ、シンちゃん?」

 

ババーン!!

 

「みっみっみっみっ、ミサトさんっっ!!」

 

シンジは、出てきたレイの姿を見た瞬間、いったん目を見開いてから、バッと下を向いて、顔を真っ赤に染めた。

…レイの着ていたのは。

ワインレッドのネグリジェだった。…スケスケの。

 

「あら、気に入ったみたいねぇ〜」

「何言ってるんですかっ!ダメに決まってるじゃないですか、そ、そ、そんなスケスケのっ!!」

「フ…フケツ」

 

思わず、場所もわきまえずに喚くシンジと、引きつった顔のマヤ。

 

「碇君......ヘン?」

 

それまで、ずっと黙っていたレイが、小さな声で言う。

少し不安そうなその声を聞いて、シンジは一瞬、顔を上げかけるが、再びうつむいて真っ赤になってしまう。

 

「い、いや…その…ヘンじゃないよ。ヘンじゃないけど…と、とにかく、それはダメッ」

「......そう」

 

わずかに残念そうに、レイは試着室に戻る。

 

「あっら〜、シンちゃんったら、ホントにうぶねぇ」

「そういう問題じゃありませんっっ!」

 

まったくもう、この人は一体何を考えているんだろう。

レイが初めて選ぶ服だ。もっと真面目に選んでもらわなければ、困るじゃないか。

…単に、分かっていてシンジを見て面白がってるだけかもしれないが。

マヤを呼んで正解だった…。

シンジは、心からそう思った。

 

 

 

次に…。

 

マヤが選んだ服を持って、試着室に入ったレイ。

…着方が分からなくて、いったん出てくると、マヤと一緒に再び、試着室に入る。

そして…。

 

「じゃ〜〜〜んっ!!どうかしらっ、シンジくん」

 

ババーン!!

 

「………」

「……マ、マヤちゃん…あなたね」

 

シンジは、出てきたレイの姿を見て、引きつった笑みを浮かべたまま、固まった。

…レイの着ていたのは。

ベビーピンクの、ふりふりのレースやらギミックやらが大量に付いたナイトウェアだった。…少女趣味、丸出し。

 

「可愛いでしょっ♪」

 

マヤに両肩を抱かれて、レイは少しだけ恥ずかしそうに立っている。

確かに、可愛い。

可愛いが…。

こんなのを着ていたら、ヘンな趣味でもあるのかと思われかねない。

 

「マヤちゃん…あなた、自分でもこういうの選んでるワケ?」

「はいっ、そうですよ。色は違いますけど」

「そ…そお…」

 

にこにこ顔で答えるマヤに、ミサトは顔にタテ線を引いて、力無く返事をした。

 

「碇君......ダメ?」

 

ひきつった笑みを張り付けたまま、固まってしまったシンジを見て、レイが小さな声で言う。

 

「ダメじゃない……ダメじゃないけど……」

 

シンジは、るるるー、と涙を流しながら、マヤを呼んだ自分の目論見が、完全に外れたことを嘆いていた。

 

「碇君......それ」

 

その時、レイが、シンジの手に持っている物を見た。

 

「…え?」

「......それは?」

 

シンジが手に持っていたのは、男物のパジャマだった。色は薄いブルー。図らずも、レイの髪の色に似ていた。

 

「ああ、ついでだから、自分のも買おうかと思って…」

 

ミサトとマヤが、あーでもないこーでもないと言っている間に、見つけておいたものだ。

デザインはごく普通で、通気性と肌触りを重視した機能的な、いかにもシンジらしい選択といえた。

 

「......それがいい」

 

レイが言った。

 

「え…?でもこれ、男物だよ」

「......それがいい」

「う、うん…綾波がそう言うなら、いいけど」

 

結局、シンジはもう一着、同じ物を男性服コーナーから持ってきた。

 

 

そして…。

 

シンジが選んだ(?)服を持って、試着室に入ったレイ。

そして…。

 

「.........どう、碇君」

 

スッ…。

 

「………かわいい」

 

試着室のカーテンの向こうから現れたパジャマ姿のレイを見て、思わず呟いてしまうシンジ。

 

「......ありがとう」

 

ほんのわずか、分からないくらいに小さく、レイは頬を染めた。

 

「えぇ〜っ、そんなおとなし目のヤツがいいわけぇ。シンジ君、結構、保守的ねぇ」

「もっと、フリフリが付いてる方が、可愛いのに…」

 

…この際、外野の意見は放っておくことにしよう。

 

 

そうして、どうにかパジャマを選んだシンジだったが、この後、展開されるであろう同様の事態を想像して、一縷の望みをかけて携帯電話を取り出した。

 

プルルルルル…ッ。カチャ。

 

『はい』

「あっ…リツコさんですか?あの、碇シンジですけど」

 

電話をかけた先は、リツコだった。

思いも寄らなかった電話の相手に、リツコは少し意外そうに返答した。

 

『私のところにかけてくるなんて珍しいわね、シンジくん。何か用?』

「はい、あの…実は、ちょっとお願いしたいことがあって」

『…お願い?』

 

わずかに口ごもりながら、続けるシンジ。

どうも、まだリツコは苦手だった。

 

『…悪いんだけど、今、忙しいのよ。急ぎの用事かしら』

 

相変わらず、平坦な調子で淡々と話すリツコ。

以前のシンジだったら、ここで「あっ、じゃあいいです」と言って引き下がってしまっただろう。

 

「あの…ええ、実は綾波のことで、ちょっと」

『……分かったわ』

 

電話の向こうのリツコは、ちょっと考えて、承諾した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………で。これが頼みたいことというわけ」

 

呼び出されたブティックに入ってきたリツコは、シンジの説明を聞くと、張り付いたような笑みを浮かべた。

だが、その瞼が、ぴくぴく痙攣しているのを、シンジは見逃さなかった。

 

「は、はは…あの…ええ、まあ」

 

怯えたように汗を垂らしながらも、なんとか笑顔を保とうとするシンジ。

 

「帰らせてもらうわ」

「あっ、ちょっ、ちょっと待ってください!お願いします」

 

一瞬で踵を返したリツコを、シンジは慌てて呼び止める。

くるうり、と振り向いたリツコは、背中にどんよりとしたオーラを背負っていた。

 

「あのね、シンジくん…」

「はいっ」

 

思わず、ヘビに睨まれたカエルのように、情けない声を上げるシンジ。

 

「私は暇じゃない、と言ったわよね。前回の戦いで中破した初号機のこともあるし」

 

さりげなく、しかし、強烈な皮肉を込めて、シンジににっこりと微笑むリツコ。

 

「は、は、はい、でも」

 

(リツコ…恐すぎるわ)

(せ、せんぱい…コワイですぅ)

 

その後ろでは、ミサトとマヤがすっかり怯えていた。

 

「…分かったら、もう、こんなことで呼ばないでちょうだい」

「で、でもっ」

「…なにかしら」

 

勇気を最大限に振り絞って、三度、リツコを呼び止めるシンジ。

 

「あ、綾波が、生まれて初めて、自分の服を選ぶんです。これって…すごく大事なことだと思います」

 

碇君......

 

怯まずに(いや、かなり怯んでいるが)、リツコにそう言い切ったシンジを見て、レイは、無意識にシンジに寄り添う。

 

言っておきながら、少し震えているシンジと、彼に自然と寄り添うレイを、等分に見やるリツコ。

 

「……なぜ、私を呼んだの」

「あの、それは…」

 

ちらり、と背後に目をやるシンジ。

その視線の先を、ジロっと見るリツコ。

ひいっ、とミサトとマヤが手を握り合ってすくみ上がる。

 

「……なるほどね」

「ええ…」

 

わずかに声のトーンを変え、同情するような口調で、リツコは頷いた。

シンジは、ようやく理解者を得て、るるるー、と涙を流しながら肩を落とす。

 

「……しようがないわね」

「えっ……付き合ってもらえるんですか、リツコさん」

「……あの二人じゃ、どんな服を選ぶか目に見えるもの」

 

しぶしぶ、といった感じで承諾するするリツコを、シンジは驚いて見ていた。

呼んではみたものの、やっぱりリツコには断られるのではないかと思っていたのだ。

 

「…その代わり、お気に召すものを選べるかは、保証しないわよ」

「はいっ、お願いします!」

 

シンジは、嬉しそうな顔で頷いた。

 

 

その後、リツコの手により選ばれた服は、シンジが想像していたより、ずっと素晴らしいものだった。

リツコは、どちらかといえば機能的な、シンプルなデザインのものを選んだ。

だが、シンジのように、機能的なものだけを選ぶわけではない。

上下のバランス、着回しの良さ、重ねたときの色合い。そういったものを考えて、手早く、確実に選んでいく。

シンジはその姿を、半ば唖然とした顔で、ただ見ていた。

 

リツコに対して、ある種の誤解があったのかもしれない。

シンジは、リツコの後ろ姿を見ながら、ふと、そんなことを考えていた。

誤解というより、先入観かもしれない。

以前の自分は、他人が苦手だった。

その中でも、リツコは他人との間に距離を置くだけでなく、はっきりとした壁を感じさせる人物だった。

だから、余計に過敏になって避けていたのかもしれない。

 

…彼女も、被害者なのだ。

心に傷を持つ…。

 

そのことは、レイの記憶から知っていた。

だが、こうして、知られざるリツコの一面を垣間見たことによって、そのことが鮮明になったような気がした。

すると、いつの間にか、シンジの中から、リツコに対する過敏な苦手意識は消えていた。

 

「…こんなものかしらね。レイ、着てみてちょうだい」

「......ハイ」

 

そう言って、レイが着替えた全ての洋服は……素晴らしかった。

ある意味、飾り気のない…という印象の服は、レイが着た途端、その輝きを増す。

レイ自身、強烈な印象の外見を持っているわけではないが、その彼女が身につけると、お互いに輝きを引き出すように思えた。

何より、神秘的なレイの水色の髪と、紅い瞳は、シンプルなデザインの中で、宝石のように輝きを放つのだ。

 

レイは、ひとつひとつ、シンジに意見を聞きたがった。

シンジは、その姿に見とれながら、そのひとつひとつに、

「うん、とっても良く似合うよ」

という言葉を挟み込んだ。

最初は、リツコの選んだ服を、なにやら黙って見ていたレイだが、シンジの言葉を聞くと、それがお気に入りになっていくようだった。

 

中でも、シンジが可愛いと思ったのは、薄いグラスグリーンのワンピースだ。

同じ物でも、ブルー系統の色だと、少し寒々しい感じがするが、グリーンは、レイの瞳の色と相まって、とても暖かな印象を見る者に抱かせる。

初めてそれを目にしたミサトとマヤも、ほぉ〜、と言って、感心していた。

シンジは、その色選択に、リツコの感性の一端を見た気がした。

 

 

 

 

 

「…今日は、忙しいところを、ありがとうございました」

 

深々と、笑顔で頭を下げるシンジ。

それを見て、レイも軽く会釈をする。

リツコは、バツが悪そうに体を揺すると、踵を返した。

 

「…まったくだわ。こんなことは、もうこれっきりにしてもらいたいわね」

 

プイッと顔を背けて、リツコは言葉を吐き出した。

もしかすると、照れているのかもしれない。

そう、シンジが考えたのは、彼の心境の変化を表すものだろう。

 

「…マヤ、行くわよ」

「え、えっ、わ、私もですか?」

「決まってるでしょう。遅れた分の仕事、手伝ってもらうわよ」

「…センパイ、それはあんまりです」

 

しくしく、と涙を流すマヤを連れて、リツコは立ち去りかける。

その背に、シンジが呼びかけた。

 

「今度、お礼を兼ねてお返しをしますよ。おいしい食事を作りますから、食べにきてください」

 

笑顔で言ったシンジは、横のミサトを見た。

リツコは、足を止めている。

 

「ね、ミサトさん?」

「ええ、そうね。そうしたら、リツコ?」

 

ミサトが、腕組みしたまま、穏やかな表情で親友の後ろ姿を見やる。

 

「…考えておくわ」

 

リツコは、それだけ答えるとスタスタ歩き出した。

 

「あ、ね、ねえシンジくん。それって、あたしも行っていいかしら?」

「ええ、もちろん。マヤさんにもご迷惑かけましたし」

「マヤ、早くしなさい!」

「は、はいっ、センパイ」

 

慌ててすっ飛んでいくマヤが、また、何もないところで躓いた。

 

「あいかわらずね…」

「そ、そうですね」

 

それを見て、ミサトが苦笑しながら呟く。

シンジは、両手に買い物の紙袋を提げて、やはり苦笑した。

 

いいえ、私が言ったのは、リツコのことよ。

 

ミサトは、心の中で呟いた。

たとえ、そういった機会があっても、わざと、人と関わろうとしない。

自分の外側に、「赤木リツコ」というもう一人の自分の像を作り上げて、その内側を決して他人に晒すことがない。

いつからだろう。

リツコがそんな風になったのは。

ミサトはぼんやりと考える。

少なくとも、初めて会ったときのリツコは、あんな風じゃなかったはずだ。

 

ミサトは、ひとつため息をつく。

分かってやれない親友の心の裡を思いやって。

 

だが、今日のことで、その外壁の一部が、少しだけ剥がれ落ちたように思える。

それを成し遂げたのは…

 

ミサトの視線の先に、水色の髪の少女に、さかんに言葉をかけている、黒髪の少年の姿があった。

紅い瞳の少女は、ミサトがこれまで見たことのない、穏やかな顔をしていた。

たぶん、自分も同じような顔をしているに違いない。

 

シンジ君…。

 

「…さあっ、我が家へ帰りましょうか、シンちゃん、レイ!」

 

ミサトは、こみ上げてきた感情を誤魔化すように、子供たちの首を両腕で抱え込むと、明るい声で言った。

 

 

 

 

 

 

 

その日、はじめてレイは、食卓というものを囲んだ。

シンジと、そしてミサト。

葛城邸での初めての食事は、とてもおいしかった。

それが、シンジの手によるものである分を差し引いたとしても。

 

 

 

 

 

 

 

 

レイは、新しい部屋の、新しいサイドテーブルの上に置かれた、石のようなものを手に取った。

前のレイの部屋で、シンジが手にしているのを奪い取ったあれだ。

あの時のことを思い出して、レイは少しだけ目元を赤らめた。

 

なんの価値もなさそうな、溶けた金属。

それは……初号機のエントリープラグの破片だった。

 

あの時……。

第5使徒との戦いの後、壊れたエントリープラグのそばで見つけたもの。

 

 

碇君が護ってくれた時の......

 

 

それは、レイにとってかけがえのない欠片だった。

 

 

 

「......おやすみなさい、碇君」

 

 

 

レイは、欠片をもとの位置に戻すと、初めてのパジャマ、シンジが選んでくれた薄いブルーのパジャマに袖を通して、ベッドに横になった。

それは、訳もなくあたたかかった。

 

 

ありがとう。

 

感謝の言葉。

 

 

 

……はじめての言葉。

 


■次回予告 

 

久しぶりにエヴァパイロットとして、テストに臨んだシンジの成績は、周囲を驚嘆させる。

そんな中、民間の時田重工が造り上げた巨大ロボットが暴走を始める。

だが、本来、向かうべき初号機は、前回の戦いで中破して修理中だった。

考えた末に、シンジはレイと一緒に零号機にエントリーして、第2東京へ向かう。

真実を知っているシンジはしかし、打算ではなく、感傷でもなく、新しい人との

絆をつくるためにJAに対する…。

 

次回、新世紀エヴァンゲリオンH Episode-03「人と紡ぎし絆」。

 

 

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(updete 2000/07/07)