もわ、もわ、もわ、もわ
もわ、もわ、もわ、もわ
もわ、もわ、もわ、もわ
もわ、もわ、もわ、もわ
ガラス戸が開いた瞬間、もうもうたる湯気が充満した。
洗面台の鏡に始まって、戸棚のガラスから天井から床から、あっという間に水滴で曇る。
ぺた。
深い霧の中から現れた車のヘッドライトのように、滴に濡れた白い足が、にゅっと現れる。
床の上に、足拭き用のマットはない。
しかし、濡れ足は、何の躊躇もなく浴室から上がると、そのままぺたぺたと歩き出す。
もちろん、床はびしょ濡れ。
ようやく湯気が晴れ出すと、その中から、細く白い裸身が露わになった。
真っ白く、艶めかしい肌は、熱い湯を受けた余韻で、ほんのりと桜色に染まっている。
体中から、ぽたぽたと湯滴をしたたらせたまま、きょろきょろと辺りを見回す。
その動きに合わせるように、スレンダーな肢体に、形の良い乳房が、わずかに揺れる。
彼女は、洗濯機の上に置かれた籠を発見すると、その中に丁寧に畳まれたバスタオルを無造作に手に取った。
バサッ。
これまた無造作に、頭から引っ被る。
干したてのタオルからは、日の匂いがふわっと漂った。
そのまま、ぺたぺたと洗面所の扉まで歩き、スライド式のドアに手をかけて…
ふと、気付いたのか、バスタオルを頭から下ろし、やはり無造作に体に巻き付ける。
無造作ゆえに、手で押さえていないと、今にも落ちそうだ。
しかし、少女はそんなことは全然気にせず、今度こそドアを開けた。
ガラッ。
「お風呂......空いたわ」
Episode-12.5「彼女の髪と、ドライヤー」
The reason she doesn't use drier.
「はいはい、はーい!」
レイの声に、寝そべってテレビを見ていたアスカは、待ってましたとばかりに、ぴょこんっと頭を上げた。
何しろ、午後の特訓で汗だくになったままなのだ。
ぐー、ぐーと、「何かくわせろー!」とばかりに悲鳴を上げるお腹の虫には逆らえず、食事が先となった。
とりあえずTシャツは替えたし、汗はとっくに引いているが、それでもやっぱり気持ちは悪い。
花も恥じらうお年頃の乙女としては、一刻も早く、お風呂でリフレッシュしたいところだった。
それでも、レイに順番を譲った(というより、強引に先に入らせた)あたり、昨日までとは明らかに変化があった。
本人が意識してやっているのかどうかは、分からないが。
フンフフーン♪ と鼻歌を歌いながら、すでに用意してあった着替えをソファから取り上げ、いそいそとバスルームに向かう。
洗面所では、先程とまったく同じ姿勢で、レイが待っていた。
すっかり茹だった、見事なお風呂上がりのレイを一瞥して、洗面所に入る。
「あんた、随分早いわね」
「......そう?」
「だって、まだ10分も経ってな……げっ」
びちゃっという冷たい感触を感じて、足もとを見下ろす。
「な、なによこれぇっ、ちょっとあんた、床、水浸しじゃないの!」
「......?」
言われて初めて気付いたように、レイは床を見た。
確かに、びちゃびちゃ。 水浸しだ。
「......それがどうかしたの」
アスカのこめかみが、ひくっと引きつる。
怒鳴り散らしてやろうと、口を開けたアスカと、本心から何が悪いのかわかってない様子のレイの視線がぶつかる。
…ものすごい脱力感に襲われて、アスカはため息をつき、雑巾を手に取った。
ふきふき。
無言で床の水溜まりを拭いていく。
「......ごめんなさい」
ようやく、何がまずかったか理解し、視線を落とすレイ。
以前の部屋でも、現在の家でも、入浴後の床の状態にはまったく無頓着だったので、気付かなかった。
葛城邸では、バスルームの上がり口に、きちんと足拭きマットが置いてあるので、これまで被害はなかったのだが、今日に限って、そこにあるはずのマットがなかった。
「…忘れたわね、バカシンジ」
ポキポキと、アスカの指が鳴る。
哀れな黒髪の少年のこのあとの運命は決定したようである。
「ごめんなさい......」
「いいわよ、もう」
アスカは、洗面所の隅の方に畳まれていたマットを持ってきて、上がり口に敷いた。
どうも、床を掃除して、そのまま敷くのを忘れたらしい。
「…あんたも、足拭きなかったら、自分で出しなさいよ」
と言いつつ、これ以後、自分では絶対に出さないアスカである。
では誰が出すのか。
出し忘れたシンジを呼びつけ、出させる。 確定事項であった。
レイが、こくりと頷いたのを確認して、アスカは着替えを脱衣籠の横に放り投げた。
髪留めを外し、Tシャツを脱ぎ始める。
レイは、しばらくその姿を見つめていたが、思い出したように、タオルをほどき、そのまま髪を拭き始める。
服を脱ぎつつ、鏡に映ったレイの裸身を覗き見て、
「ふっ、勝ったわ」
とか、あまり意味のない優越感に浸っていたアスカは、バスタオルで髪を拭き始めたレイを見て眉をひそめた。
「ちょっと、アンタ!」
「......?」
髪を拭く手を止めて、振り返るレイ。
「髪をそれで拭くんじゃないわよ。 びしょびしょになっちゃうじゃないの」
「......?」
レイは、手にしたバスタオルをじっと見て、わからない、という風にアスカを見た。
その、本当に分かりません、というレイの顔を見て、アスカは、
「なんなのよ、こいつはもぅ〜…」
と、情けない顔になる。 なんで、こんなに当たり前のことを知らないのか。
「髪はこれで拭きなさいよ」
洗濯機の上の籠の中に残っていた、もう一つのタオルを取って、差し出す。
素直に受け取ったレイは、それを広げた。
サイズが一回り小さいものの、同じタオルだ。
なぜ、こんな面倒なことをするのか、よくわからない。
タオルを不思議そうな顔で見ているレイを横目に、アスカはまったくもう、とため息をついて、脱衣を再開する。
レイは、納得したのかしないのか、とにかく髪を拭くのを再開した。
がしがし。
無造作に頭にタオルをかぶせ、こする。
がしがしがし。
やはり無造作に、水滴を吸わせるというよりは、こそげ落とすように、タオルで擦る。
ぴくぴくぴく…。
なるべく、その様子を視界に入れないように、パンツから足を抜いていたアスカだが、ついに我慢しきれなくなって、レイの手からタオルをむしり取った。
「ちょっと、貸してみなさいよっ」
ばっと広げたタオルには、無数の水色の糸(一部、健康な毛根付き)。
ひくひく。
「あんたねぇ、こんな拭きかたしてたら、そのうちハゲになるわよ?!」
タオルを取られて、やや唖然とした顔のまま固まっていたレイは、体をアスカの方に向け、視線を下げる。
じっ……。
「ちょっと、聞いてんの…………?」
「.........金色」
「はあ?」
「.........」
「………」
やがて、頬を僅かに赤く染めたアスカが、自分の真っ赤なタオルを体に巻き付け始める。
レイが何を見ていたのかは、ナゾである。
「......アスカ?」
「い、いいから、ちょっと前向きなさい」
「?」
大人しく顔を鏡の方に向けたレイの頭に、タオルを押しつけるアスカ。 まだ、ちょっと顔が赤い。
「道理で、あんたの髪、ちょっとパサついてるなと思ってたわよ」
「?」
ぶつぶつ言いながら、やわらかく押さえるように髪の水分を拭き取っていく。
「あんた、櫛は?」
「ないわ」
「………」
もはや、何も言う気力もないのか、アスカは黙って自分のブラシを取り、レイのぼさぼさになった髪を梳(くしけず)りだした。
「いい、こうやってちゃんとブラシ当てて、やさしく拭くのよ。わかった?」
「(こく)」
「ほら、自分でやってみて」
ブラシを渡されると、レイは見よう見まねで髪を梳き出す。
「ある程度、水気が取れたら、次はドライヤー……」
言いかけて、ふと、あることに気付くアスカ。
ふん、ふんふん。
………。
おかしい。
今度は、レイの頭に顔を近づけて、再び犬のように、ふんふかふん。
………。
「……アンタ。ちゃんと、シャンプー使ってんでしょうね」
「......?」
シャンプー……?
それは、何?
レイの紅い瞳は、そう言っていた。
「ちょっと来なさい!」
「あっ......」
「もう一度、入り直しよっ」
手をぐいと引っ張られ、レイは再び、バスルームで茹でられることになった。
あわあわあわあわ…
あわあわあわあわ…
あわあわあわあわ…
あわあわあわあわ…
・
・
・
プオォォォォォ……
ドライヤーの音。
髪を乾かす音。
ちょっと......熱い。
ちょっとうるさい。
でも......。
「まったく、あんたって子は…」
すっかり疲れきった顔で、レイの髪にドライヤーを当てているアスカ。
今度はアスカも、髪に赤いタオルを巻き付けている。
肌はほんのり、ピンク色。ぴっちん、つるつる。茹でたてだ。
洗面所の丸椅子に座らされたレイは、おとなしくアスカのされるがままになっている。
二度も湯につかったせいか、ちょっと茹だり気味。あう。
プオォォォォォ……ォォン。
カチッ。
しゅ……しゅ……サッ、サッ。
しゅっ、しゅっ、しゅっ。
カタン。
「はい、できた。 …どう?」
ブラシを置いたアスカは、ヘアサロンの店員のように、レイの頭に両側から手を沿え、鏡を覗き込んだ。
鏡の中に、自分とアスカが映っている。
鏡越しにアスカの蒼い瞳を見つめて、レイは、そっと自分の髪に触れてみた。
「.........やわらかい」
それは、いつもと全然、違う感触。
さらさらと。
ふわふわと。
シャギーも、心なしか、しんなりしている。
レイは、アスカを振り返った。
「触ってみて」
「わ、わかってるわよ。さっきまで梳かしてたんだから」
「触ってみて」
「………」
「柔らかい......?」
「……や、柔らかいわよ」
こくん、とわずかに傾げられた顔。
湯気に濡れ、潤んだ紅玉の瞳。
口元に刻まれた、かすかな笑み。
アスカは、胸のあたりを駆け回るような、くすぐったい気持ちを隠すため、ふいっと顔を背けた。
「.........」
すん、すん......。
「......いい、匂いがする」
自分の髪に鼻を寄せて、レイは呟いた。
レイは、めったにドライヤーを使わない。
風呂上がりの髪を温風にさらすのが、好きでないのか。
茹だって、ぼぅっとしたところに、騒音を聞くのがいやなのか。
あるいは、ただ面倒なだけなのか。
…ただし、一緒に風呂に入ったとき、アスカに乾かしてもらう時だけは別である。
借りてきた猫のように、アスカにされるがままに任せる。
そして、いつもより柔らかく仕上がった髪を撫で、言うのだ。
「......ありがとう」
おまけ
「…へくちんっ」
服を着たレイが洗面所を出ていったあと、可愛らしいくしゃみをしたアスカは、自分がまだ、上がってタオルを巻き付けただけの格好なのに気がついた。
むき出しの両肩を両手で抱きしめるようにしてこする。
「む〜……ちょっと、冷えちゃったかな」
つい、レイの髪のセットに夢中になって、少し湯冷めしてしまったようだ。
「もっかい、あったまり直そ」
体に巻き付けた赤いタオルをバサッと外すと、アスカは再び、バスルームのガラス戸を開けた。
フンフンフーン♪
……ちなみに、ペンペンの襲来を受け、悲鳴を上げることになるのは、この数分後である。
おしまい
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(updete 2002/06/24)