59
みんながあたしを哀れんでいる。
冗談じゃない。
あたしは同情される必要なんて無い。
あたしは、ひとりだって生きていける。
あたしは、早く大人になりたい。
そして、あたしは一人で生きていく。
助けなんていらない。
助けなんて必要ない。
あたしには、エヴァがある。
あたしは強い。
誰よりも強くなって…そして一人で生きていくんだ。
それでいいのよ。
それでいい…。
それでいい……んだから。
私......
私......私......私......私......私......
私がたくさん......。
私に必要なのは、エヴァに乗る能力......。
私はエヴァに乗る......それだけが、絆だから。
私には、ほかに何もない......。
なにも......。
だけど、そうじゃなかった......。
碇君が教えてくれた。
そこは、どこまでも広がる世界......。
その先には、何があるの......？
その先には、誰がいるの......？
わからない......。
教えてほしい......。
教えて......。
Episode-12「涙、のむこう側」
翌日から、アスカとレイ、2人によるユニゾン特訓が始まった。
葛城邸の居間で肩を並べ、加持の選曲した音楽に合わせて、踊る2人。
それを、壁際でじっと見ているミサトとシンジ。
だが、その顔は、困惑の2文字で塗り固められている。
「最初にしては、いいと思いたいけど…」
「………」
ミサトは、腕を組んだまま小さく呟き、シンジは無言のまま、2人の動きを見つめていた。
アスカの動きは、完璧だった。
…それを1人の動きとして見れば、だが。
それは、まさに鬼気迫る踊りであり、手の先から足の爪先まで、神経が張りつめているような感じ。
一つのミスも許さない。
そう、自分に、レイに、言い聞かせているような。
その動きを、レイが必死に追っている。
二人とも、額には汗をびっしょりとかいている。
ただ、無言で、コミニュケーションもなく。黙々と。
レイの動きが悪いわけではない。
アスカの動きが、それを突き放している。
付いてこさせるものか、とばかりに。
レイは、普段と同じ無表情…しかし、必死さが看て取れる。
なんとか、アスカに追いつこうと、手を、足を動かす。
アスカに突き放されても…ただ、じっと。
だが、アスカには追いつけない。
完璧すぎるのだ。
それは、他者を決して寄せ付けない孤高の舞踊。
たった一人の…。
「……休憩時間ね」
「ハァッ...ハァッ...ハァッ...」
アスカは、時計が休憩時間を指すと、機械のような正確さで動きを止め、タオルを肩にかけると、自分の部屋へと戻ってしまった。
肩で息をしているレイには、まったく目もくれず。
レイは、呼吸を整えるだけで精一杯だ。
「レイ…はい、タオル」
「ハァッ......ハァッ......あ、りがとうございます......」
ミサトが手渡したタオルを受け取ると、汗を拭く暇も惜しむように、呼吸を落ち着かせるレイ。
ある程度、鼓動が収まったのを確認すると、そのまま練習を続けようとする。
「ちょ、ちょっとレイ…休憩なんだから、休んだ方がいいわよ」
「......大丈夫、です。......少しでも、追いつかなきゃ.....いけない、から」
レイは踊る。
そこにはいないアスカの姿を思い浮かべて。
少しでも、その動きに追いつこうと。
少しでも、アスカに合わせたくて。
「レイ……」
ミサトには、そんな健気なレイが不憫で仕方なかった。
これは、きっと自分のせいだ。
昨夜、言ったことを、レイは素直に実行しようとしている。
自分から、アスカに近づこうと。きっと…アスカを好きになろうと。
話すことが苦手なレイにとって、それは唯一の自己表現なのかもしれない。
「……アスカ。そんなに、レイのことを嫌っているのかしら」
ミサトが、ぽつりとシンジにだけ聞こえる声で呟いた。
その声には、知らず知らずのうちに、アスカを責めるようなものが混じる。
これは訓練なのだ。
勝手に踊るだけで、ユニゾンなどできるはずがない。
だが、ミサトには、そうした作戦部長としての思いとは別の感情もある。
レイの献身的ともいえる努力に対して、アスカの態度は、あまりにも自分勝手すぎる。
あれでは、レイが可哀想ではないか。
シンジには、ミサトの言い分が正しいと思う。
思うが…。
シンジには、また別のものが見える。
「僕には……アスカがなんだが苛立ってるように…見えます」
「苛立ってる…なにに？」
「……自分に、かな」
ミサトは、シンジの横顔をじっと見た。
険しい…といっても良い、やりきれない表情。
もどかしい…しかし、自分にもどうにもならない、という顔。
ミサトは、ふと加持の言葉を思い出す。
『恋煩いだよ、シンジくんは』
だが、そこにあるのは、恋に悩む少年の顔のようには見えない。
彼の心が冷めてしまったわけではないだろう。
今は、自分の恋心を忘れるほどに、アスカを、レイを心配している。
ミサトには、時々、シンジが分からなくなる。
普段は、あんなに素直で、からかうと赤くなって、子供っぽくて…。
だが、時折、垣間見えるシンジの態度は、到底、そんな子供っぽさとは無縁のものだ。
今のシンジのそれは、少なくとも、14歳の少年が同い年の少女に向ける恋の眼差しではない。
それはもっと深刻な、そして真剣な…眼差し。
それは、見ていて、胸が痛くなるようなものだ。
シンジ君…あなたは、何を見ているの。
あなたは、何を考えているの。
それは…一人で抱えなければならないものなの？
ミサトにとって、アスカとレイと同じくらい、あるいはそれ以上に、シンジの抱える「何か」が、心配なところだった。
「綾波……無理しちゃだめだよ」
踊り続けるレイを、シンジが止めさせる。
「......碇君」
「綾波が倒れちゃったら、元も子もないよ。だから、今は休んで」
「......うん」
シンジに言われて、ようやくレイは踊るのを止めた。
踊りのためにしつらえたレオタードは、汗でびっしょりだった。
足下も、すっかりふらついている。
シンジに背中を押されるようにして、2人は連れだってベランダに出た。
柔らかな陽光が、レイを出迎える。
手すりに指をかけて、息をつくレイに、シンジは麦茶の入ったコップを差し出した。
「はい、綾波」
「......ありがとう」
レイは振り向いて、受け取ったコップを傾けた。
白い喉が動いて、カラカラになったそこを癒していく。
「おいしい......」
小さく微笑んだレイの頬を、風が撫でていった。
汗で額に張り付いた水色の髪を、さらっていく。
レイは目をつぶって、その流れに身を任せた。
シンジは、しばらくその横顔を眺めていた。
今のレイは、昔とは明らかに違う。
確実に、普通の女の子へと、成長を続けている。
だが、それはまだ、とても頼りない糸の上を歩むような、そんな作業だ。
レイの足下には、常に、深い闇が大きな口を開けている。
それは、彼女のせいではない。
彼女の生まれてきた経緯、彼女が過ごしてきた時間に問題があるのだ。
今のレイは、昔とは比べ物にならないほど不安定で、繊細だ。
それは、良い傾向には違いない。
だが、彼女の心が安定を得るには、ただ、ゆっくりとした時間が必要なのだ。
シンジは、そのレイの大切な時間を守ってやりたいと思う。
「アスカと……何か、あったの」
やがて、シンジは切り出した。
レイが、一瞬、驚いたようにシンジを見る。
「.........」
「あ、ごめん…言いたくなかったら、いいんだ」
レイは、ふるふると小さく首を横に振った。
「……ケンカ、したの？」
「......わからない」
レイの紅い瞳が、彼女の感情の波を示すように、静かに揺れている。
「......彼女が、なぜ、怒ったのか......わからないの」
「………」
レイは、先日の控え室であったやり取りを、ポツリポツリと、話した。
ただ、事実のみを淡々と。
それは、レイの心を暗くする作業だった。
シンジは、一言も口をはさまずに、じっとそれを聞いていた。
そうか……やっぱり、アスカは。
「......他には何もないって......だから、言ったの。それは違う、と」
「………」
「他になにもなくはない。あなたはあなた。一人の女の子......碇君が、教えてくれたこと。とても、大切な言葉」
「………」
「でも......弐号機パイロットは、怒ったの。私とは違うって......私......間違っている......？」
アスカは、レイを嫌っているのではない。
彼女の逆鱗に触れたのは、むしろ、その言葉。
アスカにとって、レイの言葉は、今までの自分をすべて否定することだった。
実際にはそうではないのだが、アスカはそう信じている。
シンジは、アスカの過去をはっきりとは知らない。
そして、そのことがひどくシンジを責める。
もっと、分かってあげられたのではないか。
アスカが苦しみ、壊れていく前に。
今、シンジが知っているのは…。
少なくとも、普通の家庭には恵まれなかったこと。
彼女には、父親と呼べる存在がいなかったこと。
彼女の母親の死が……アスカの心に深い傷を残したこと。
そして、自信を喪失し、その傷をえぐり出されたアスカが…壊れてしまったこと。
「……綾波は、何も間違っていないよ」
「間違って......いない......？」
「綾波は間違っていない。
だけど……
………。
もう少し、時間をくれないかな。僕に」
シンジは、レイの手に自分の手を重ねた。
「......うん」
レイは、少し安心したように、頷いた。
アスカは、心の傷を隠すために、自分にはエヴァしかないと、思いこんでいる。
それは、悲しいことだ。
そして、それは間違っている。
レイの言葉は、真実なのだ。
だが…。
だからこそ、今、アスカにはそれを受け入れることができないのだ。
それを受け入れることは、自らの傷をさらけ出すことにほかならないのだから。
それは、「恐怖」。
その恐怖を、レイは感じ取ったのだ。
そして、そんなレイをアスカは嫌った。
レイを嫌いだと思い込むことでしか、平静を保てないのに違いない。
……どうすればいいのか。
今、もし救いがあるとするならば、レイ自身の変化と、そしてアスカの苦悩が、早い段階でその片鱗を見せたことだ。
彼女の戦いは、まだ始まったばかりだ。
アスカには、まだ時間がある。
そして……今度は僕も。
やがて、訓練が再開される。
やはり、レイを無視して踊り始めようとしたアスカを、ミサトが諫めた。
「アスカ……もうちょっと、合わせられないの」
「なんで、それをファーストに言わないのよ。ミサト。そのセリフは、ファーストに言うべきことじゃないの？」
「………」
「あたしの踊りは、見てたでしょ」
「ええ、見てたわよ」
「どこか、間違ってたかしら」
「……いいえ」
「あたしの踊りは完璧だった。……ちがう？」
「………」
その点に関して、ミサトは反論できない。
アスカの踊りは、まさに一点のミスもない、完璧なものだ。
それに比べたら、レイも良くやっているとはいえ、ミスはある。
「合わせるんなら、ファーストの方よ。あの子が、もっと上手くなればいいだけの話でしょ」
「だけどね、アスカ。誰もがあなたみたいに、最初から完璧にできるわけじゃないのよ。
すでに完璧に仕上がってるあなたは、確かに凄いと思う。
だけど、だったら、もう少しレイに合わせて…」
「…あたしに、レベルを落とせっての」
今までは、それでも大人しく聞いていたアスカの目が、剣呑なものを帯びる。
「あたしに、手を抜けってわけ？」
「そうは言っていないわ。レイが慣れるまで、あなたが彼女に合わせて…」
「同じことじゃない！…そんなことしてたら、いつまでたっても完璧なレベルのユニゾンなんて、できやしないわよ。
それで結局、困るのはミサトたちでしょ。
……いつだって、あたしは完璧を求められてきた。
そして、あたしはそれに応えてきたわ。
それに、文句を言われる筋合いなんて、ない」
アスカの言葉は、むしろ淡々としていたが、それが余計に、彼女の心構えの堅さを表していた。
「エヴァに関しては、あたしは手を抜くわけにはいかないのよ」
「アスカ…」
ミサトは、自分たちの責任を、今更ながらに思い知らされていた。
それは、ミサト個人の責任では、もちろんない。
だが、アスカを、子供たちをパイロットとして、エヴァに乗って戦う戦士として育ててきたのは、そして、それを望んできたのは、自分たち大人の責任だ。
『それで結局、困るのはミサトたちでしょ』
アスカの言葉は、ミサトには痛かった。
『……いつだって、あたしは完璧を求められてきた。』
そして、その中に、彼女の歪んだ心の片鱗を見ていた。
夜。
コンコン…。
「……誰よ」
「……僕だけど」
「なぁんだ……バカシンジ」
アスカの部屋の前で、ふすま越しに話す、シンジとアスカ。
「…何か、用なの」
「うん……
アスカ、疲れない…？」
「はん？…そりゃあ、少しは疲れるわよ。もう完全な踊りに、一日中、付き合わされればね」
「……そうじゃなくて。
一人だと……疲れない」
「！……どういう意味よ」
「………」
「………」
「アスカ。
……もっと、力を抜いても、いいんじゃないかな」
「あんた……何が言いたいのよ。ミサトと同じで、あたしに手を抜けっての」
「違うよ…。
ただ、アスカが、すごく無理してるように思えるから」
「……あたしは……無理なんか、してないわ」
「…踊りを見てれば、分かるよ。
なんで、あんなに自分を追いつめるの？」
「！」
シンジの言葉は、アスカにとって予想外だった。
ミサトですら、そんなことは言わなかった。
…それを、なんでコイツが。
「……あたしは、常にトップでいなきゃならないからよ。エヴァに関してね」
なぜ、答えているんだろう。
アスカは、自分が不思議だった。
だが、自分ですらはっきりとは意識していなかったことを、この少年はスバリ言い当てた。
「……アスカは
なぜ、エヴァに乗るの」
「そんなの……理由なんて、ないわよ。
ただ、あたしはエヴァに乗って、使徒を倒して…
それで、みんなに認められれば、それで最高に幸せなのよ」
「エヴァに乗ってる自分が、すべてなんだね…」
「そうよ」
「それじゃあ……今のアスカは、どうなっちゃうの？」
「！」
ふすまの向こうで、アスカが息を飲むのが分かった。
シンジは、続ける。
「エヴァに乗らない自分がいたら、いけないの？」
シンジは目を伏せながら、静かに呟いた。
ただ、その言葉が、アスカの中に染みこんでいくのを、じっと待つ。
「……あたしにとって、エヴァに乗ることは全てなのよ。
それ以外の自分なんて、想像できないわ」
「………」
「……とにかく、あたしはあたしのやることをやるだけよ。
あたしは、自分の踊りを完璧にこなす。
…それに合わせられないのは、ファーストの責任よ。
………。
…さ、もういいでしょ。さっさと寝かせてよ……」
シンジは、アスカが黙り込んでしまってからも、長いことふすまの前で佇んでいた。
アスカ……だけど、僕はエヴァに乗る以外のアスカを知ってるよ。
学校でみんなとおしゃべりしてるアスカ。
家でくつろいでるアスカ。
綾波とケンカしてるアスカ。
僕を叱ってるアスカ。
みんな……どれもアスカだよ。
アスカには、エヴァだけじゃない。
アスカは、エヴァに乗らなくても、アスカだよ。
「シンジ君……」
「ミサトさん…」
廊下には、いつからかミサトが立っていた。
「……あなたも、もう寝なさい。すごく疲れた顔をしてる」
「……はい」
ミサトに促されて、シンジは自室に戻った。
アスカは、目をつぶったが、なかなか眠ることはできなかった。
シンジの言った言葉が、頭の片隅で回っている。
『それじゃあ……今のアスカは、どうなっちゃうの？』
エヴァに乗らない自分…？
そんなの、何の価値もない。
誰も認めてくれない。
誰も必要としてくれない。
エヴァに乗っていない、あたし……。
そんなのが、あるの…？
あるわけないわよ……あるわけ。
60
翌日も、2人の特訓は続けられた。
やはり、レイはアスカの動きに追いつけず。
アスカは、昨日よりもさらに神経質になっているように見えた。
「うーん……」
「……なんやなぁ…これは」
「アスカ……」
学校を続けて休んだシンジ、レイ、アスカの見舞いに来たトウジ・ケンスケ・ヒカリの3人が、特訓を見て首をかしげる。
アスカの踊りは完璧だ。
それこそ、非の打ち所がないように。
だが…。
アスカの苛立ちは、事情をまったく知らない3人にも看て取れた。
彼らは、その苛立ちが、隣で踊るレイに向けられたものだと思ったようだが…。
アスカ…。
シンジは、アスカの心が軋む音を聞いていた。
自分でも、どうすることもできないに違いない。
アスカは他人に負けられない。
アスカは、他人を頼れない。
アスカは他人を信じられない。
……それじゃいけない！
それじゃダメだよ、アスカ！
「アス…」
「駄目だな、これじゃ」
シンジがアスカに声をかけようとした瞬間。
それまで、じっと2人の動きを見つめていた加持が、はっきりと言った。
「！」
アスカの動きが、ピタリと止まる。
それに気付いたレイも、動きを止めて加持を見る。
「ちょっと、加持…」
「このユニゾン訓練は、踊りを上手に踊る訓練じゃない。ユニゾンする2人の動きを合わせるための特訓だ」
いつになく厳しい感じのする瞳で、加持は2人を見つめた。
ミサトもシンジも、そして居合わせたトウジもケンスケもヒカリも、あっけに取られる。
「アタシは……完璧なのに……ファースト！あんたが合わせないからっ…！！」
「......！」
バッと勢い良く振り返ると、憤懣をぶつけるように声を張り上げるアスカ。
レイは硬直する。
「……この訓練の持つ意味が、分かってないみたいだな」
だが、加持の冷静な声が、アスカの耳朶を打つ。
「なによ……まさか……あたしが悪いって…いうの、加持さん？！」
アスカは、怒りに燃え滾るような目で、加持を睨む。
アスカが加持をそんな目で見るのを、シンジは初めて見た。
アスカの心は、裏切られた気持ちで一杯だった。
ファーストもミサトもシンジも、自分に忠告めいたことばかり言う。
加持さんだけは、違うと思っていたのに……！
鋭いアスカの眼光を、加持は静かに受け止める。
「…論より証拠だ。シンジくん」
「あっ、は、はい？」
突然、名前を呼ばれて、シンジは慌てた。
先ほど、アスカに声をかけるのを遮られてから、事態の急展開を半ば、あっけにとられて見ていたのだ。
「アスカと踊ってみてくれ」
「え……で、でも」
シンジは戸惑った。
今、アスカと踊ることは、いい結果を生まないことが分かり切っているからだ。
「シンジになんか…踊れるわけないわ。それに、シンジは今、関係ないでしょう？！」
「いいから、踊ってみろアスカ」
「フン……」
シンジは、加持の顔を見た。
加持は表情を変えず、その真意が見えない。
仕方なく、シンジはレイと場所を変わった。
踊りも、選曲も、前回と同じだ。
体にすっかり染みついている。
だが……。
音楽が始まった。
シンジとアスカが、踊り始める。
「……こりゃ、すごい」
「やるもんだなぁ……碇」
トウジとケンスケが、感嘆の声を上げる。
シンジの踊りは、アスカのそれに次ぐくらい、素晴らしかった。
壁際で、それを見ていたミサトも、驚きに目を瞠った。
ただ、見ていただけで、ここまでできるものなのだろうか。
だとしたら、シンジはまさに天才だ。
やがて、アスカが完璧な踊りを終えた。
「どうっ？ あたしの踊りは、完璧じゃない！」
「……でも」
だが、アスカの動きに注視していたヒカリは、顔を曇らせた。
その言葉を聞きとがめたアスカが、ヒカリを見る。
「…なによ、ヒカリ。あたしの踊りにミスでもあった？」
「ううん。ミスなんてなかった……だけど」
「だけど、なによ」
「アスカ…すごく無理してる気がするの。なんだか…わざと、綾波さんや碇くんを、追いつかせまいとしてるみたい」
「！」
「…せやなぁ。惣流、もう少し、相手に合わせてみたらどうや？」
「オレもトウジに賛成だな。あれだけ踊れるんだから、少しペースを合わせるくらい、わけないだろ。なんていうか…今の惣流は、ファインダーに収める気がしないよ」
立て続けに、ヒカリ、トウジ、ケンスケに諫められて、アスカは顔をこわばらせた。
何か言い返そうと、口が開く。
だが…。
「やっぱり、合わないな」
加持の声に、ピタリとアスカの動きが止まる。
「だから、見てただけのシンジなんかと合うわけないって…」
「じゃあ、シンジくん。今度はレイちゃんとだ」
アスカの言葉を遮って、加持はさらに言う。
「加持さん……それは」
シンジは、それだけはまずいと、加持を見る。
シンジには、なんとなくこの後の展開が読めた。
このままだと、きっとアスカは…。
「いいから、やってくれ」
加持の言葉には、有無を言わさぬ迫力がある。
「……わかりました。
綾波…」
「碇君......」
アスカが、半ば呆然と下がり、シンジとレイが並んだ。
一度だけ目を合わせ、2人は同時に前を向く。
やがて、音楽が始まる。
……シンジとレイは、完全に協調していた。
（綾波……）
（......碇君）
前回、レイと踊った時とも違う。
レイの方が、形だけでなく、心からシンジに合わせたいと願って、一所懸命踊ったためだ。
それが、完全なハーモニーを生んだ。
指先から爪先まで、通い合う感じ。
手が、足の動きが、自然にひとつになっていく。
意識して、合わせようと思わずとも、互いの動きが分かる。
シンジは、思い出していた。
前回のアスカとのユニゾン。
あのリターン・マッチのさなか、2人は確かに、同じ感覚を共有していた。
……できるはずだ。
レイとだって、ユニゾンできるはずだ。
やがて、音楽が止まる。
ギャラリーは、声もなかった。
踊りとしての完成度は、間違いなくシンジとアスカの方が上だ。
だが、個々はバラバラ。
シンジとレイの踊りは、2人の思いが、完全に一つになっている。
それが、ユニゾンなのだ。
お互いに、相手に合わせようと思う心。
加持が、アスカを見て、ゆっくりと口を開いた。
「アスカとレイちゃんは合わない。
シンジくんとアスカも同様だ。
だが、レイちゃんとシンジくんは、ぴったりと合う。
……何が間違っているか、アスカになら分かるはずだ」
アスカは俯いて、下唇を噛んでいた。
悔しかった。
加持の言葉だけではない。
アスカ自身、シンジとレイの踊りを見て、分かってしまったのだ。
綺麗だと、思ってしまったのだ。
そんな自分自身が、許せなかった。
「だったら……シンジがファーストと組めばいいじゃないですか！！」
「そんなことが不可能なのは、アスカにだって分かってるだろう」
「......アスカ」
それまで、じっとアスカを見ていたレイは、精一杯の勇気を出して、アスカの名前を呼んだ。
その事実に、ミサトとシンジは驚く。
「アスカ......もう一度、やりましょう。
私......頑張るから」
レイは一歩を踏み出して、アスカの前に立った。
アスカは、俯いたまま応えない。
拳を、手が白くなるほど握りしめて、小さく震えている。
「……………………きらい」
「......！」
「きらい……嫌い！大っ嫌い！！」
アスカは、悲痛な叫びを上げると、ダッと駆け出した。
「アスカ！！」
シンジは、即座に後を追いかけて…
加持の前で止まる。
「加持さん、お願いしてたあれは」
「ああ、これだ」
「ありがとうございます…！」
「行って来い、シンジくん」
その声を聞き終わる前に、シンジは受け取った紙の束をポケットに入れて、走り出していた。
一瞬の出来事に、その場に居合わせた一同は、声もなく佇んでいる。
だから、レイ起こった小さな変化が、細波のように、次第に大きくなっていくのに気付かなかった。
61
アスカは走っていた。
ただ、ひたすらに。
なにも考えられない。
なにも考えたくない。
悔しい！
悔しい…！
あたしは悪くない！
あたしは負けてない！
あたしは完璧だった。
悪いのは、合わせられないファーストじゃない。
でも……なんでシンジとは合うのよ。
あたしとは合わせられないくせに。
シンジは、なんであいつとは合うのよ。
あたしとは合わなかったくせに。
なんで…綺麗だなんて思ったのよ。
負けを認めたから…？
違う！！
違う！！
私は、負けちゃいけないのよ！
私はエヴァで、誰にも負けちゃいけないんだから。
……それなのに。
加持さんまで、あたしを責める。
シンジも…ミサトも…ヒカリも…鈴原も…相田も…
きらい……嫌い……みんな、大っ嫌い！
でも
でも……
一番、嫌いなのは……
本当に、きらいなのは……
それは、もしかしたら……
なんでこんなこと……
思い出したくないのよ……！
助けて……
だれか、たすけて……！
アスカは、公園のベンチの上で、膝を抱えていた。
その背中が、小さく震えている。
今回は、アスカの姿を見失うことのなかったシンジは、すぐにその後ろ姿を見つけた。
荒くなった息を整えながら、アスカの震える背中を見つめる。
シンジは、何も言わずに、その横に静かに腰を下ろした。
一昨日と、同じように。
アスカも、シンジの存在に気付いた。
何しに来たの。
負け犬のあたしを笑いに来たっての。
それとも、慰めにでも来たワケ？
同情？
ヤなやつ！
………。
………。
………。
でも……どうして。
どうして、こんなにあったかいのよ。
一昨日も……昨日も……こいつは……。
なんで……どうして。
どうしてあたしは……シンジの言葉を待ってるのよ。
「アスカ、さ………」
しばらくして、シンジは切り出した。
高台の公園。
眼下には、町の様子が一望できる。
午後の日差しは烈しさを弱め、夕方を前にしてけだるい空気を漂わせている。
風が吹くと、並んで座っているアスカとシンジの前髪が、そろって揺れた。
「よく、やってると思うよ」
「……なによ、それ。慰め？」
膝に顔を埋めたまま、アスカはボソリと呟いた。
やっぱり、こいつも同じなのね。
ほかのヤツとおんなじ…
「でも、綾波も良くやってる」
「！」
「……2人とも頑張ってるのに、こんなにぎくしゃくしなきゃならないなんて、どこか間違ってる」
「……あたしが間違ってるとでも、言いたいわけ？」
「うん。今のアスカは、間違ってると思う」
「………」
アスカは、あっけに取られた。
まさか、シンジにそんなにはっきりと言われるとは思わなかった。
「アスカ。なにを、そんなに焦ってるの…？」
「！」
アスカは、今度はキッと顔を上げて、横のシンジを睨んだ。
シンジも、アスカの方を向く。
二人の視線が交錯した。
「……あんたも、あいつとおんなじこと言うのね。
勘違いすんじゃないわよ。
あたしは焦ってもなければ、恐がったりもしてない！」
「……そうかな」
「……そうよ」
アスカは、感情を爆発させかけるが、シンジの静かな瞳に見据えられ、思わず、その気が萎えてしまう。
「まだ、始まったばかりじゃないか。あの使徒へのリターン・マッチだって、これからだろ」
「……分かってるわよ」
「ほんとに？」
「だから！こうして特訓してるんじゃないのよ！」
なにを今更……とアスカは苛立つ。
「使徒に負けたのが、悔しいの？」
「………」
「………」
「……くやしいわよ。当たり前でしょ。
あたしは、負けちゃいけないの！」
「………」
「………」
「負けても、いいんじゃないかな」
「？！」
「一度、負けたって、チャンスがある限り…何度でも戦って、そして最後には勝てば、それでいいんじゃないかな。
僕たちは、まだこうして生きてる。
使徒に負けたのに。
前回の戦いで、使徒の攻略方法も、少しは分かった。
次は、万全で戦えばいい。
それで勝てるなら…それで、いいんじゃないかな」
アスカは、どこか唖然としていた。
シンジの言葉を聞いていると、「なあんだ、そういやそうね」と、思わず納得させられてしまいそうになる。
この少年は、自分の価値観とは、まったく違う価値観を提示してくる。
全く違う価値観。
半ば、対立する命題。
だけど……不思議と嫌じゃない。
何故だろう…。
「……ブザマに這いつくばっても平気だっての」
「………」
「あたしは……そんなの許せない。
そんな戦い方してたんじゃ……誰も認めてくれない。
あたしは、いつも完璧じゃなきゃいけないのよ。
エヴァに乗って…完璧に勝つ。
それが、一番大事なのよ。
それ以外の選択なんて……考えられないわ」
アスカはじっと、遠い町並みを見つめた。
崩れたビルの群。
街を遠くから見下ろす山々。
ただ、沈黙が、2人を包んでいた。
シンジは、じっと膝に顔を埋めたままのアスカの横顔を見ていた。
パサッ。
「これ、見て」
不意に、シンジはポケットから取り出した紙の束を、アスカの前に差し出した。
「……なによ、これ」
『綾波レイに関する個人データ』
「なによ、これっ！」
タイトルの走り書きを見たアスカが、シンジを睨みつける。
「…いいから、見て」
せっかく忘れていたのに、またレイの存在を思い出したアスカは、忌々しげに、シンジにも怒りの矛先を向ける。
だが、シンジの瞳は、有無を言わさぬものがある。
アスカは、むしろその視線の方に耐えかねて、目を手元に落とした。
姓名：綾波レイ
性別：女
年齢：14歳
生年月日：不明
血液型：不明
本籍：不明
経歴：不明
病歴およびその他の身体的特徴：不明
家族およびその他の血縁者：不明
「…生年月日……不明？……なによ、これ」
「………」
アスカは、先ほどのでの怒りも忘れて、呆然と呟いた。
どのページをめくっても、「不明」の文字で締めくくられている。
「名前と年齢以外、すべて不明じゃない…なんなのよ、これ！」
「…加持さんに調べてもらった、綾波の公式データだよ。NERVのだけどね」
「加持さんが…？…NERVのって、じゃあ一般のデータはどうなのよ」
「ないんだ」
「……ない？」
「公式記録は、NERVのものを除いて戸籍すら一切ない…加持さんはそう言ってた」
「戸籍が…ない」
アスカは呆けたように、その紙の束を見下ろした。
綾波レイ。14歳。
自分と同じ年齢の少女。
「……だから、なんだってのよ」
「………」
「こんなものあたしに見せて、それで何が言いたいわけ？！」
アスカは、思わず立ち上がっていた。
ベンチに座ったままのシンジを、高い位置から見下ろす。
「別に。
……ただ、知っておいてほしかったんだ。
アスカは、少し前までの綾波を…知らないから」
「…そんなの……知る必要、ないわよ」
言いながらも、アスカの声は先程までのような鋭さはない。
シンジは、そのアスカの顔をじっと見つめた。
「アスカは…本当に、綾波が嫌いなの？」
「！」
きらい……？
そう、嫌いだ。
どうして嫌いなんだっけ…？
あいつが生意気だからよ。
それだけ？
あいつが、生意気なことを言うからよ。
生意気なこと？
あたしが……あいつと同じだって。
同じ？
ただの、女の子だって。
ただの？
違う！あたしは、エヴァのパイロット！ただの女の子じゃない！
それは、あの子も同じ。
違う！あたしは、ファーストなんかより、ずっと上手くエヴァを操れる！
使徒に負けたのに…？
次は勝つわよ！！……あたしには、エヴァに乗るしかない。それで、勝つしかないんだから！
なにもない…？
生年月日：不明
家族およびその他の血縁者：不明
それは、あの子も同じ……。
アタシと同じ……。
なにもない。
……それは違うわ。
！
なにもない……それは違う。
『エヴァに乗らない自分がいたら、いけないの？』
「……僕は、自分が嫌いだった」
「！」
シンジの呟きに、アスカは自失から醒めた。
一体、突然なにを言い出したのかと、シンジを見た。
そこで、再び驚愕する。
そこにいたのは、いつものシンジではなかった。
アスカの見たことのない……弱いシンジ。
それは……昔のシンジだった。
「恐がりで……すぐに逃げ出してばかりの。
人と会うことが嫌だった…
そのくせ、人に優しくしてほしいんだ。
身勝手で、臆病で…
自分には何もない……そう思って、自分の価値を放り出してた」
アスカは、硬直したかのように動けなかった。
なにを言い出すのだろう、こいつは突然。
なぜ、こんなことをあたしに聞かせるのだろう。
シンジは、ずっと考えていた。
どうしたら、アスカの心に近づけるのかを。
考えても考えても、分からなかった。
結局、何を言っても、アスカには拒絶される気がした。
考えていても、駄目なんだ…。
僕は僕で……アスカと同じ、一人の人間。
彼女を救う……なんて考えは、間違っているのかもしれない。
……相手に、自分の温もりを伝えたいと思っても。
身を寄せれば寄せるほど、体中の棘でお互いを傷つけてしまう。
ヤマアラシのジレンマ。
だったら……自分は一度、アスカの棘に貫かれなければならない。
自分は、アスカの過去と、そして起こりうる未来を知っている。
だが、アスカは何も知らない。
それが、無意識のうちに、二人の間に壁を作っているかもしれない。
特に、僕が……。
シンジは、アスカと同じ地平に立って、同じものを見ていきたかった。
弱い自分、どうしようもない、もう思い出したくもない、情けない自分。
かつてズタズタになった心の傷を、シンジは自らえぐり出して見せた。
アスカへの非難のためではなく、自分への戒めとして。
「…悲しいことや、辛いことがある度に、
心を体の奥に押し込めてきた。
そして、見て見ぬ振りをする。
そうやって…僕は生きるフリをし続けていた。
これにしたところで、単なる自己満足にすぎないかもしれない。
だが、そうせずにはいられなかった。
「アスカは……一人だと、寂しくない？」
突然、訊ねられたアスカは動揺し……平静を装って、吐き出した。
「………寂しくなんか、ないわ」
シンジは、アスカをチラッと見て……再び視線を落とした。
「……僕は……寂しかった。
誰かにかまってほしくて。
誰かに必要とされたくて」
ぐっと、拳を握りしめる。
シンジは、すでに忘れかけていた、昔の自分を思いだしていた。
そして、決して忘れてはいけないということに、気付いた。
似てるんだ……僕たちは。
突然、シンジは理解していた。
アスカ、レイ、そして自分。
「でも……それは、僕が他人を拒絶してただけだったんだ。
結局……自分だけが好きだった。
自分だけが可愛かったんだ。
そのことに……気付かなかった
僕を分かってくれない他人。
分かり合えない人間。
だったら……みんな死んでしまえばいいのに……
そんなことを、考えていた……」
「……あんた……バカじゃないの？！……なんで……そうなるのよ」
アスカは、唖然と茫然の中間の表情で、小さく肩を落としている黒髪の少年を見下ろした。
そんなの……完全な責任転嫁じゃないの。
だが、アスカは心のどこかで、シンジを非難しきれない自分に気付いていた。
それは、今の自分と、どこが違うのだろう。
「……そう。
僕は、馬鹿だった」
シンジが呟く。
アスカは唖然とすると同時に、だんだん腹が立ってきた。
なぜ、こんなくだらない昔話を聞かされなくてはならないのか。
アスカが、それを中断させようと口を開きかけたとき……シンジが急に顔を上げた。
「だから、僕は……取り返しのつかないことをしちゃったんだ。
一番大事な人を……助けられなかった。
気付くのが……遅すぎたんだ。
だから……もう二度と……」
アスカは、シンジの眼に釘付けになっていた。
とてつもなく……重い。
どんな過去を辿ったら……そんな顔が、そんな声ができるのか。
そこにあるのは、深い悲しみと……絶望。
漆黒の瞳の中に、その深淵が見える。
身動きのとれないアスカは、そこに、シンジの抱えてきた過去の一端を見た。
シンジは、すべてを言ってしまいたかった。
目の前にある、アスカの蒼い瞳。
僕が失ってしまったのは、君なんだ、アスカ！
もう二度と、過ちは繰り返さない！
僕が護りたいのは、君なんだ、アスカ！
アスカは一人じゃないんだよ！
ほかに何もなくなんか、ないんだよ！
でも……今、言うことはできない。
アスカは、シンジの視線に捉えられたまま、目を離すことができなかった。
シンジは、酔狂でこんな話をしているのではない。
それが、嫌でも分かってしまう。
こいつは、本気だ。
本気で、何かを訴えようとしてる。
だけど、言えない……。
言うことができない。
そういう目。
なぜ、あたしは、こいつから目が離せないんだろう。
こいつは、何を言おうとしているんだろう。
なぜ、言えないのだろう。
なぜ……。
なぜ、こいつの目は……こんなに悲しくて……あったかいんだろう。
結局、シンジの口から出たのは、別のことだった。
「……ごめん。変な話して」
「………」
「だけど……それでやっと、僕は気づけたんだ。
僕は一人じゃなくて……
いつも、みんなが側にいてくれたんだって」
シンジの言葉に、力強さが戻る。
それは、すでにいつものシンジだった。
アスカの呪縛は、解けた。
アスカは、慌てて視線を外すと、自由になった肩の力を抜いた。
ふう……なんなのよ、シンジって。
さっきのは、いったい何だったの？
だが、アスカはそれで、シンジが何を言わんとして、こんな話をしたのか、漠然と理解してしまった。
回りくどい。
だけど、これがシンジの精一杯のやり方なのだろう。
バカなやつ。
だけど……。
「アスカは言ったよね……エヴァに乗ることが一番」
「それが……なによ」
「じゃあ、一番でなくてもいいなら、それ以外のアスカがあってもいいんじゃないのかな。
……エヴァに乗らないアスカがいても、
いいんじゃないかな……。
ここにいるアスカも、アスカなんだから」
その言葉を、アスカは、自分でも意外なほど、素直にそれを聞いていた。
なんとなく、シンジがそう言うのではないか、という予感があった。
シンジの言葉は、アスカの中に開いた小さな空白の中に、欠けたジグソーパズルの一片のように、ぴたりとはまった。
そのピースを、待っていたかのように。
エヴァに乗らないあたし。
そんなものがあるのだろうか。
アスカには、分からない。
そんなに簡単に、納得できれば苦労はない。
だけど……それもいいかもしれない。
心の片隅で、そんな一つの思いが、芽生えていた。
シンジの言葉は、押しつけがましいところがない。
大人たちの言葉は、みんな同じ。
ああしなさい、こうしなさい。
頭ごなしに、上から押しつけてくる。
自分だって、正しいとは限らないくせに。
だが、シンジの場合は違う。
ああじゃないかな…。こうじゃないかな。
忠告でなく、説教でなく、もちろん、命令でもない。
敢えて言うならば、提案だろうか。
言っている本人が、自分の言葉を絶対のものと思っていない。
常に、それでいいのだろうか、もっと良い方法があるんじゃないか…と、迷っている。
自分の弱点をさらけ出しながら、平気で近づいてくる。
こんなヤツは、他に見たことがない。
考えてみれば、おかしな話だ。
あたしに忠告しようってヤツが、そんなんじゃ情けない。
でも、悪くない。
格好良くない。
でも、悪くない。
不器用で、格好悪くて、バカなヤツ。
……でも、悪くない。
「……ぁ〜もうっ！アンタの言うことはまだるっこしいのよ！！」
アスカは急に、ふくれっ面を作って腕組みした。
トントンと、爪先で地面を叩いて、いらいらを表現する。
「アスカ…？」
シンジは、突然のアスカの変化に、戸惑う。
やはり、気に入らないことを言ってしまったのだろうか。
「自分の昔話までして、あたしに説教しようなんて、百万年早いのよ！」
「うん……ごめん」
「なっさけないわねぇ、バカシンジ！」
シンジがしゅん、としたのを見て、アスカは少しスッとした。
ざまぁ見なさいよ。
あたしをびびらせたんだから、これくらいは当然ね。
そうよ、生意気よ。バカシンジ。
だが、アスカは、つい口元が綻びそうになるのを抑えるのに必死だった。
「……け〜っきょく、アンタが言いたいのは、ファーストと仲良くしろってことなんでしょ？違うの」
「え…？いや、その…あれ…そう…かな…？」
「なら、最初っから、そう言やいいでしょ」
「そ、そんなこと言ったって…」
シンジは、アスカに詰め寄られてタジタジだった。
いや、僕が言いたかったのは、アスカにはエヴァだけじゃないってことで…。
でも、確かに綾波とも仲良くしてほしいし…。
あれ…？
それに、最初から言ったって、聞いてくれないに決まってるじゃないか。
シンジは、自分が結局、何を言おうとしていたのか、良くわからなくなった。
ただ、アスカに知ってほしかった。
綾波のこと、僕のこと。
そして、自分自身のことを。
そのために、必死だっただけだ。
正直、理路整然と話せたかどうか、あやしい。
果たして、アスカには、まったく伝わらなかったのだろうか…。
「は〜あ、あたしに説教しといて、自分で分かってないのぉ？お気楽なもんね」
「いや、その、はぁ…」
「そーれにしても、知らなかったわねぇ。いつもすました顔をしてるシンジが、実はすんごい寂しがりやだったなんてねぇ」
アスカは、ニマァっと笑った。
シンジは、休息に真っ赤になる。
「僕は……寂しかった。誰かにかまってほしくて。誰かに必要とされたくて。
…ぷぷっ、だってぇ」
「な、な、なんで、そんなところばっかり強調するのさっ！」
「いやぁ…天下のサードチルドレン、碇シンジくんが、まさか寂しがりやだったとは…これはスクープですねぇ」
「い、今はもう、寂しくないよっ！」
「あらぁ…そう？」
「そうだよ…今はもう、寂しくない。
だって…
ミサトさんがいて。
綾波がいて。
加持さんがいて。
トウジがいて。
ケンスケがいて。
洞木さんがいて。
みんながいることが、分かるから。それに……」
シンジは、そこで一度言葉を途切れさせた。
アスカの顔を、ちらりと見る。
「？なによ」
きょとんと、両手を腰に当てたまま、シンジを見るアスカ。
「それに、い、いまは……あ、アスカが……いるから。だから……寂しくない」
「な………」
瞬間。
言った者、言われた者、双方の頬が、いつの間にか赤くなった夕陽に照らされて、その色に染まった。
「な、なに言ってんのよっ……ば、バカじゃないの」
「ご、ごめん……」
「……もうっ、さっさと帰るわよ！」
「あ、ちょ、ちょっとアスカ…待って…」
アスカは、バッと身を翻すと、スタスタスタ…と、まるで競歩のようなスピードで歩き出す。
シンジは、慌ててその後を追う。
サワ……
風が、鳴った。
公園の入り口で。
アスカは立ち止まっていた。
後から息を切らせてやってきたシンジも、それに気付いて立ち止まる。
アスカの前には、レイが立っていた。
アスカは、意外な場所で意外な人物に会い、少し面食らっていた。
だが、不思議なことに、さっきまでの嫌悪感は消えている。
アスカは、いつもそうするように、腕組みをしてレイの前に立った。
「……ふぅ〜ん。もしかして、あたしのコト心配して、探しに来てくれた…ってワケ？」
「.........」
レイは、答えない。
「なら、安心していいわよ。…仕方ないから、アンタにも合わせてやることにしたから」
「.........」
レイは、答えない。
異変に気付いたのは、シンジだった。
レイの瞳。
あの日以来…。
シンジがこの場所に戻ってきて以来、レイの瞳は、綺麗なスカーレットに澄んで、その中に、確かな感情の芽生えを感じさせた。
だが…。
今のレイの瞳の色は…。
真紅。クリムゾン。それは、血の色。
それは、昔の綾波の瞳……！
感情のない…ほかには何もない…昔の綾波の……！
シンジは、ぞっとした。
まさか、レイがまた、そんな目をするなんて…。
やや遅れて、アスカもレイがいつもと違うことに気付いた。
最初は、相変わらず、張り合いのない子…と思っていた。
だが、レイの瞳を覗き込んだ瞬間。
アスカは、息を飲んで硬直した。
それは……恐怖。
底なしの、暗闇。
虚無。
レイの瞳は、濁ったまま、何も映していない。
「……あ、あんた……」
アスカは、震える声で呟いた。
いや、それしか言えなかったというのが正しい。
不意に、シンジの言葉がフラッシュバックする。
『アスカは、少し前までの綾波を…知らないから』
……これが……そうだっていうの……
これが……昔の……レイ
アスカは、愕然としていた。
これでは、まるで……。
『私も......そう思っていた。エヴァに乗ること。それが、絆だから......他には何も、ない』
そう、何も…ない。
なにも…。
あるのは、ただ……
その時、レイの濁ったクリムゾンの瞳から、一筋の流れが伝った。
アスカは、ビクッと体を震わせる。
それは、レイの真紅の瞳が、血を流したように見えた。
「.........ナイデ」
「……え」
「.........ラワ、ナイデ」
「あんた……」
「ワタシヲ......キラワ、ナイデ」
「！！！！！！！」
ミテ……！
ワタシヲ……ミテ！
ママ……！！
「ばかっ！！」
パン……ッ！
「.........！」
ソウカ……ニテルンダ
レイの頬が、赤く染まった。
ジンジンとした熱さをともなって。
その衝撃で、レイの瞳に、スカーレットが戻る。
ワタシトコイツハ……ニテイル
アスカは、自分の行動に驚いていた。
アスカは……レイの頬を、叩いていた。
一瞬、叩かれたレイよりも茫然とした顔をして……
パァン……ッ！！
アスカは、自分の頬を、両手で思い切り叩いた。
そして、まだ茫然としているレイの体を抱きしめる。
「ばかっ……誰も、本気で嫌いだなんて……言ってやしないわよ！」
「......だっ、て」
アスカに抱きしめられたレイの瞳から、さらなる流れが溢れ出す。
「別に……別に、アンタを嫌ったりしないわよ。あんたを……拒絶したり……しない」
「.........ア、スカ......」
「だから、そんな顔…二度とすんじゃないわよ！」
「.........」
「……もう、二度と……そんな顔しないで……レイ」
「！.........うん。
うん.........」
アスカは、レイの頭を、きつく抱きしめる。
自分で叩いた両方の頬が、ジンジンと熱かった。
レイの頬も、熱い。
レイは、幾度も幾度も頷いた。
その温かさを感じたくて、頬を擦りつけた。
アスカは、私を嫌わない......
アスカは、私を拒絶しない......
......うれしい
アスカは、触れているその頬に伝うものの感触を、感じていた。
「もう……泣くんじゃないわよ……バカ」
泣かないでよ……
いつの間にか、アスカの口調は、子供をあやすようなものに変わっていた。
レイの髪から、汗の匂いがする。
一体、どれくらいの間、自分を探していたんだろう。
そう考えたとき、アスカの口から、自然に言葉が滑り出ていた。
「……悪かったわよ……レイ」
「......ううん、いい」
シンジが気付かせ、ミサトの教えたもの…それが、今アスカの腕の中で、開花したようだった。
レイは、生まれて初めて、泣いた。
「......これが......涙。
わたし......泣いているのね。
...........
知らなかった......嬉しい時にも、涙が出る、なんて......」
「……なんにも知らないのね、あんたは」
アスカは一瞬、あっけにとられて……そして、微笑んでいた。
シンジが、今まで見たことのない、優しい顔で。
いつのまにか、2人の上に差し掛かった黒雲は、消えていた。
カナカナカナカナカナカナ………。
カナカナカナカナカナカナ………。
カナカナカナカナカナカナ………。
カナカナカナカナカナカナ………。
「シンジ」
「……なに、アスカ」
「あたし、アンタの言ったこと、納得したわけじゃないからね……」
「分かってる」
「……フン」
それでも、レイが悪いんじゃないってことだけは、認めてやるわ……。
こいつが、こんなに弱いなんて……知らなかった。
シンジは、ハンカチでレイの涙を拭いてやっているアスカを、とても優しい目で見ていた。
2人は、似ている。
アスカと綾波だけじゃなく、僕も。
お互いに、支え合っていこう。
一緒に、歩いていこう。
シンジは、心から、そう思った。
「あっ！いたぞ、綾波」
「ホンマか、ケンスケ！」
「アスカも、碇くんも一緒だわ！」
「まったく……心配させてからに！」
大騒ぎしながら、トウジとケンスケ、そしてヒカリの3人が、坂の上から駆けてくる。
シンジたちは、それを立ち止まって迎えた。
真っ先に駆け寄ってきたトウジは、レイの横にアスカを見つけて、開口一番、言った。
「惣流、お前なぁ、さっきのはないで。あれじゃ、綾波が可哀想やんけ！」
「…悪かったわよ」
アスカは、両手を腰に当てたままだったが、トウジの言いようにも怒ることなく、答えた。
「お、おう？分かってるんなら、ええんやけど…な」
アスカが余りにも素直に謝ったので、トウジは意表を突かれた。
「す、鈴原…走るの、早すぎる〜」
「ま、まったくだよ…少しは、一緒にいる俺たちのことも、考えてくれよな」
少し遅れて、ヒカリとケンスケの2人が追いついて来た。
「なんや、だらしないなぁ。イインチョはともかく、ケンスケ、お前は情けないで。いつも、”センソーゴッコ”で鍛えとんのやろ」
「……ずっとトウジのペースで歩き回ってたんだぜ。いくらなんでもバテるって。見ろよ、委員長なんか、汗びっしょりだ」
ケンスケが、ジト目でトウジを見る。
トウジは、肩で息をしているヒカリを見て、頭をかいた。
「そら……えらいすまんかったのう。イインチョ、気付かへんで」
「う、ううん。いいのよ、鈴原」
答えるヒカリの頬は、少し赤い。
それは、走ったためではなさそうだ。
不謹慎だとは思いつつも、ずっとトウジと行動できたことを、喜んでいたりするヒカリだった。
「ごめん、みんな。迷惑かけちゃって」
シンジが、3人に頭を下げる。
きっと、ずっと自分たちを探してくれていたに違いなかった。
シンジは、彼らと友達になれたことを、心から感謝していた。
「いいってことさ。ま、綾波がフラッといなくなった時は、さすがに焦ったけどね」
「ホンマ、とにかく無事で良かったわ」
「そうね。……アスカ、綾波さんと仲直りできたのね」
「……まぁね」
レイの、すぐ近くに立っているアスカと、その表情を見て、ヒカリはほっとしたように笑った。
アスカは、バツが悪そうに、栗色の髪をボリボリとかいた。
あれは、照れているのよねと、ヒカリには分かった。
「ほら、みんな綾波を心配して、探しに来てくれたんだよ」
シンジが、レイの背中を優しく押す。
「......私、を」
レイは、シンジの顔を見て、そして3人の顔を、順に見やる。
レイにとって、それは意外な…そして、嬉しいことだった。
「......洞木さん......鈴原君......相田君
.........ありがとう」
レイは、はにかむように微笑んで、少しうつむいた。
それが、レイなりの、お礼の表現だった。
「い、いや、いいんだよ、別に」
「なんや、綾波に礼なんぞ言われると、背中がこそばゆくなるのう」
「そうよ。こういうときは、お互い様。だって、私たち、友達でしょ？」
「......友達」
「そうだな」
「そうよ」
「そやな。…うぅ〜ん、なんかええのう、青春ドラマみたいやで。ここは一発、6人で夕陽でも見たろうかいな！」
「夕陽.....？」
「ト…トウジ、それはちょっと…」
「ヤダヤダ…これだから、筋肉バカは…」
「なっ、なんやとう惣流！全然、反省しとらんやんか、オノレは！」
「な〜んで、あたしが反省なんかしなきゃならないのよ。このサルサルサル！」
「サ、サルやとっ？！…惣流、オノレとは、いっぺん決着つけとかなあかんと思っとったんや」
「面白い。このあたしとやろうっての？負けても、泣きべそかくんじゃないわよ」
「誰が泣くかいっ！表に出ぇや」
「…あんたアホ？ここはすでに表だっつーの」
「も、ものの喩えや、ものの喩え！そんなこともわからんかい、この暴力オンナ！」
「……ブッ殺す！！」
「わぁっ、や、やめてよアスカ！」
「ちょ、ちょっと鈴原……相田君！カメラなんて回してないで、2人を止めてよ！」
「いやぁ…これはいいカードだ。燃える！」
「「撮るんじゃ（や）ないっ！！」」
「へごっ！」
6人が作る輪の中で、レイは笑っていた。
心から。楽しいと思えた。
これが、友達......
大切な、もの。
「…今回は、ずいぶんと損な役回りを引き受けたものね」
近くの木陰から、じゃれあう子供たちの様子を見ていたミサトが、隣で木に寄りかかっている無精髭の男に言う。
加持は、肩をすくめた。
「別に…。
ただ、彼女に必要なのは、俺じゃない。それだけさ。
アスカに必要なのは…シンジくん、そしてあの子たちさ」
「……そうね。でも……ちょっと、寂しいかな」
ミサトは、笑い合う6人の子供たちを、眩しそうに見やった。
口元に小さく、寂しそうな笑みが浮かぶ。
加持は、大木に寄りかかっていた体を起こした。
「……それに、俺は誰かさんへの想いだけで、手一杯なんでね」
「……うぬぼれんじゃないわよ」
「うぬぼれてなんか、いないさ。これでも、ビクビクしてるんだぜ。
……また、おまえにフラれるんじゃないか…てね」
「………」
ミサトはこの時、肩にかけられた加持の手を、振り払おうとはしなかった。
■次回予告
はじめて、心が通った2人。
はじめての心の触れあい。
それは、ユニゾンへの序曲。
加持の考えていた案は、ようやく3人を一つにした。
レイはアスカの心を知り、第7使徒との再戦の日が来た。
次回、新世紀エヴァンゲリオンＨ Episode-13「Tri-Unison（三つの絆）」。
Lead to NEXT Episode...
Back to Before Episode...
ご意見・ご感想はこちらまで
(updete 2000/07/28)