71

 

 

プシッ。

 

「!」

 

開いたドアの前に立っている人物の顔を見て、冬月は、わずかな驚きとともに、その細い目を瞠(みは)った。

 

「…シンジくんか。私のところへ来るとは、めずらしいな」

 

副司令執務室のドアの前に立っていたのは、制服姿のシンジだった。

冬月の驚きも当然で、未だかつて、シンジが個人的に自分の所を訪れたことなどなかったのだから。

 

「どうした、碇なら今日は本部にいないが…」

「ええ、知ってます。発令所に寄ってきましたから」

 

もしや、父・ゲンドウに会う目的で、自分を頼って来たのかと思ったが、そういうわけでもなさそうだ。

 

「まあ、立ち話もなんだ。入りたまえ」

「はい。…失礼します」

 

冬月は、とりあえずシンジを部屋の中に招き入れた。

 

冬月の執務室は、他のNERV職員の部屋と比べても、たいして広い方とはいえなかった。

彼自身がほとんど、発令所か司令執務室に詰めているせいもあるだろうが、質素を旨とするのは、セカンドインパクト前時代からの、彼の性格らしかった。

室内は、質素ではあるが閑散とはしておらず、良く片づけられており、たとえばミサトの執務室などとは比べるべくもない。

 

冬月は、執務机の手前の応接テーブルを示すと、シンジにソファを勧めた。

 

「すまんな。近ごろ、ろくに掃除もしていないもので、散らかっているが」

「いえ、そんなこと全然…」

 

もの珍しそうに、室内をキョロキョロと見回していたシンジは、冬月に言われて、あわてて首を振った。

 

「ああ、そうか。そういえば君は、葛城一尉と同居中だったな」

 

自らもソファに腰を落ち着けながら、冬月は笑った。

言われたシンジは、なんとなく恥ずかしくて、ソファの上で肩を縮こまらせた。

 

ミサトさんの片づけ下手って、みんなに知れわたってるのかな…。

 

「…で、何の用かね」

 

チラリと、冬月に視線を向けられたシンジは、持参したデイバッグを開けた。

 

「いえ、たいしたことじゃないんです。……あの、よろしかったら食べませんか」

 

言いつつ、シンジはランチボックスをテーブルの上に置いた。

 

「ふむ、そういえば、もう昼時か。…シンジくんが作ってきたのかね?」

「はい」

「そうか…私だけというのは、悪いな」 

「あ、今、マヤさんたちには差し入れしてきたんです。副司令だけ執務室にいるって聞いたので…」

「ハハハ…なかなか如才(じょさい)ないな。碇とは大違いだ。では、遠慮なく頂こうかな」 

「ええ、どうぞ」

 

シンジは、ランチボックスの中から取りだしたものを、別に持ってきた紙皿の上に並べていく。

 

「……ちょっとしたピクニック気分だな」

「そうですか?」

 

久しく、こうした食事などしたことのなかった冬月は、シンジが支度するのを、不思議そうに見ている。

 

彼はNERVの副司令であり、彼の上には、碇ゲンドウただ一人がいるのみである。

ために、他の職員からは、ある種「雲の上の人物」と捉えられているふしがあった。

もちろん、彼自身が公私を混同するような人物でないのは事実ではあったが、あえて彼のプライベートに立ち入ろうとするものは、だれもいなかった。

だから就業中に、一パイロットにすぎない14歳の少年が作ってきた昼食を食べる…などということは、当然ながら初めてのことであった。

普通ならば考えられないことであるが、碇ゲンドウの息子という微妙な立場と、彼の持つ自然さが、冬月に拒絶する暇(いとま)を与えなかったようである。

 

「副司令は、いつも食事はどうしてるんですか?」

「うむ…まあ、聞くだけ野暮というものだ。食事に注文を付けていられる立場ではないしな」

「どうぞ」

「ああ、スマンな」

 

冬月は、差し出された物を受け取り、思わずそれをじっと見る。

 

「おにぎりか…こんなもの、久しく食べていないが…」

「あの…お口に合いませんか?」

「いや、そんなことはないよ。ただ、こういったものが懐かしくてな」

 

手の中のおにぎりを見て、まったく別の感慨を抱いていた冬月は、少し慌てたようにそれを口に運んだ。

 

少し塩の利いた飯、ほどよい堅さの飯粒。中身は、おかかだった。

冬月は、もぐもぐと咀嚼しながら、再び、食べかけのおにぎりに目を落とした。

 

…何やら、懐かしい味がするな。

 

「シンジくんは料理が上手と、評判になっているのを知っているかね」

「えっ、そんなことないですよ」

 

冬月からの思わぬ賞賛を受けて、シンジは照れくさそうに、自分もおにぎりを頬張った。

 

「いやいや、この味はユイくんそっくり…」

「………」

 

16年前、京都の山道で食べた、ユイの弁当の味を思い出していた冬月は、何気なくそれを口にしてしまってから、まずいことを言ったと、苦い顔になって口をつぐんだ。

 

一瞬、沈黙がその場を満たした。

 

だが、シンジは自然な動作でポットから麦茶を注ぐと、冬月の前に差し出した。

 

「どうぞ」

「う、うむ…」

 

冬月は気まずい顔をしながら、差し出された麦茶をすすった。

 

「副司令は…母さんのこと、よくご存じなんですか」

「いや…ご存じというほどではないが…うむ、知っている」

「そうですか…」

 

冬月は、どう答えたものかと戸惑いながら…シンジの顔をさりげなく盗み見た。

 

シンジと冬月、そしてユイは、11年前にも一度、同じ場所で顔を合わせている。

NERVの前身組織、ゲヒルンで。

そして、あの時…。

 

………。

 

彼は、何かを思いだした…或いは、初号機の秘密を、何か感じとったのだろうか。

 

だが、冬月の目に映ったシンジの顔は、意外なほど穏やかで…川底をたゆたう水のような深みを感じさせた。

それは、彼の知る碇ユイの表情に、良く似ていた。

麦茶の紙コップを手にしたまま、冬月はしばらく動けなかった。

 

「父さんは……」

「ぅ…む?」

 

ポツリと、シンジが呟くように言った。

 

「今でも母さんを…思っているんでしょうか……」

 

そう言った時のシンジの瞳を、冬月は長い間、忘れることができなかった。

それは、どこか寂しげで、儚げで――――そして、悲しい色をしていた。

 

この少年は、どう見ているのだろうか。

碇ゲンドウという男を…。

 

父親としてはあまりに酷薄で、

他人と呼ぶには切れない絆の多すぎる、

他者に対し、また自分にすら頑なな、あの男のことを。

 

そして、母・ユイのことを。

 

分かり合えぬ、彼ら親子のことを。

 

 

 

 

……冬月には分からなかった。

 

彼を見ていると、自分がここにいる理由が、揺らぐのを覚える。

自分は何のために、ここにいるのか。

そして、何をしようというのだろう。

 

もし、ユイ君が生きていたら……諫めただろうな。

 

利発で、物事をはっきりと言うユイのまっすぐな瞳が、冬月の脳裏を過ぎっては消えた。

思えば、あの瞳に惹かれて、自分はここまで来たのかもしれない。

そしていま、彼女と同じ瞳を持つ少年が、目の前にいる。

 

彼の生い立ちを思う。

自分たちと比べても、決して、幸福とはいえない子供時代を過ごしてきたはずの少年。

自分たちにとっては、計画の一部にすぎない。

 

サードチルドレン。

 

彼は何故、現在の境遇を受け入れたのだろう。

それに、彼はこんなにも親しみやすい少年だったろうか。

冬月の頭の中で、初めて目にした時の印象と、現在のシンジの像が重ならなかった。

 

 

 

「また、来なさい…」

 

その後、ユイの話題には一切触れず、努めて明るく振る舞っていたシンジが部屋を出かかった時。

冬月は、自然にそう口にしていた。

どうにも、彼をただのシナリオの駒とは割り切れなくなっている冬月だった。

 

 

 

  


Episode-15「修学旅行に行きたい!(子供たちの事情)」


 

 

72

 

 

 

陽光の下を、アスカが軽やかに歩いている。

 

彼女の蒼い瞳に宿る輝きは、夏の日射しですら圧倒することはできない。

ブルーのノースリーブシャツにバナナイエローのショートパンツ姿のアスカは、手にしたポーチのひもをぐるぐる振り回しながら、長い足を繰り出して歩いていく。

14歳にして日本人離れしたその足の長さ、そのウエストの位置の高さは、同世代の少女にとって、まさしく羨望に値する。

 

アスカは、とにかく目立つ少女だった。

街中を歩けば、9割以上の人間が、振り返って目を向けるだろう。

 

だが、アスカ自身は、そんな好奇の目は気にもとめない。

そういう視線には慣れっこになっていたし、何より、自分が他人に与える印象を十分に把握していた。

そして、アスカ自身は、それを大したこととは思っていなかった。

いい気分だとは思っていたが。

 

そして、そのすぐ横を歩く水色の髪の少女。

 

彼女は対照的に静かな佇まいを見せている。

それはいまや、存在感が薄いということでは、決してなくなっている。

アスカを動とするならば、レイは静の美しさ。

太陽と月、というと語弊が生じるかもしれないが、陽光と月光といえば、少しはその雰囲気が伝わるかもしれない。

 

薄いブルーの半袖セーラーに、色の濃いジーンズ。

レイがズボン姿も似合うというのを、シンジは知った。

 

この二人が並んで歩くと、見る者に与える印象も相乗効果を生じるようだ。

中心街のショッピングモールを歩く2人の周囲には、ちょっとした人だかりができるほどだった。

 

そして、その後ろ…。

 

「アスカ。ま、まだ買うの…?」

 

両手に紙袋をどっさり抱えたシンジが、よろよろと歩いていた。

その姿は、はっきり言って2人の従者か召使いか…といったところだ。

美少女2人に釣り合わない…という視線があちこちから突き刺さるのを、否応なしに感じる。

赤と黒のチェックのシャツは、すっかり汗だくになっていた。

 

「なぁーに言ってんの。まだまだ目的の物はこれからじゃない」

 

げっ…。

 

アスカの言葉を聞いたシンジは、思わず目眩を覚えてしまう。

 

「大体、このあたしが買い物に誘ってやってんのよ。ありがたいと思いなさい」

 

くるりと身軽に体を翻し、チッチッと指を振ってみせるアスカ。

シンジは軽いため息をついた。

そりゃ、誘ってくれるのは嬉しいけど、これって単なる荷物持ちじゃないかぁ…。

 

「碇君......大丈夫?」

 

見かねたレイが、シンジに歩調を合わせて、聞いてくる。

 

「私......半分、持つ」

 

レイは手ぶらだ。

彼女は、ハンドバッグの類を持っていなかった。

それを聞いたアスカが、得たりとばかりにレイの物まで大量に買い込んだため、シンジの手にある紙袋の中身も、半分はレイの物だった。

 

「ダメよ、レイ。シンジを甘やかしちゃ」

 

すかさず、アスカがレイを止める。

 

この場合、甘やかすってことになるんだろうか…。

 

シンジは、もっともな疑問を浮かべたが、それでもレイに笑ってみせる。

 

「大丈夫だよ、綾波。このくらい、平気だよ」

「そうそう。シンジはもっと鍛えた方がいいのよ」

「......?」

 

アスカの言葉に、少し首を傾げたレイだが、やがて納得したようにアスカに並んだ。

 

このところ、レイはシンジと同じくらい、アスカの言葉に耳を傾けることが多かった。

同じ女の子同士、男のシンジよりも通じるものがあるのだろう。

とはいえ、「女の子らしさ」を、すべてアスカの基準でレイが実践したとしたら、それはコワイと思うシンジだった。

 

アスカの横を、少しだけ遅れながら並んで歩くレイ。

アスカも、彼女の歩調に合わせて、わずかにゆっくりと歩いている。

本人は意識していないのかもしれないが、後ろから見ているシンジには、それが分かる。

それは、はたして先日のユニゾンのせいなのか…。

 

綾波は変わった…。

そして、アスカも変わりつつある。

アスカとレイの仲の良い光景。

それは、シンジに幸せな気分をくれる。

それに比べたら、荷物持ちくらいはいくらでも甘受していいと思う。

 

それに、今、シンジにとってアスカは、憧れの対象でもある。

むろん、前回もそういった憧憬は感じていた。

だが、それは手が届かないと思う故の「畏敬」に近い感情であり、現在のシンジの心情とは異なる。

現在のシンジの気持ち。

それは、明らかに、一人の少女への、恋心を秘めた憧れだった。

 

少し前ほどではなくなったものの、アスカを見ていると、時々、ぼーっとなっている自分に気付く。

それに気付いた時は、どこかむず痒くて、気恥ずかしい。

だが、それは同時に、このうえなくシンジの心を温かくもしてくれるのだ。

 

アスカの額に、うっすらと輝く汗。

アスカの快活さに良く似合った服から伸びる、躍動感に満ちた四肢。

時折、吹く風に翻っては、金色の軌跡を描く、栗色の髪。

レイと言葉を交わし、頻繁にこぼれる笑み。

 

それらの全てが、シンジには愛おしい。

狂おしいほどに愛しく、そして切ない。

 

そして、そう思えることが、シンジには幸せだった。

 

 

シンジは気付いているだろうか。

いつの間にか、自分がアスカにとって、「一番近い」男性になりつつあることを。

 

むろん、それがアスカの恋愛感情に直結するかといえば、それほど単純なものではないだろうが、今までその場所を占めていた加持の存在が、少し違ったものになったことは確かだった。

加持のことが嫌いになったわけではない。

だが、いつの間にか、本当に気付かぬうちに、あこがれを「あこがれ」と認める冷静さが、アスカの中に生まれつつあった。

 

シンジは知らなかったが、前回、アスカの買い物に付き合ったのは、加持であった。

加持の側に用事があったのかもしれないが、アスカは今日、あえて加持に頼んでいない。

そして、今回はレイが一緒とはいえ、シンジを誘っている。

これは、大きな変化といえた。

 

とはいえ、アスカは基本的に男が嫌いである。

トウジやケンスケの立場にしても、他の有象無象と比べればマシ、という程度であり、友達としては合格であっても、それが恋愛の対象となることはない。

シンジはその少し上、一緒に暮らしても、嫌悪感を感じないという辺りである。

それは端から見れば驚くほど高い位置なのだが、アスカ自身は大したことと思っていない。

もちろん、彼女が気付いていないだけで、芽生えつつある気持ちは存在するのであるが、それは表面化するのはまだまだ時間のかかる、発展途上のものであった。

それが、今後どのように育っていくのか、アスカにも、もちろんシンジにも定かではなかった。

 

「あっ、ヒカリ。こっちこっちー!」

 

中心街で一番大きなデパートの前に差し掛かったとき、アスカが大きく手を振った。

すると、入り口付近で日傘を差していた、お下げ髪の少女が、小走りにやってきた。

 

「あれ、洞木さんだ」

 

シンジは顔を上げて、向日葵のような笑みを浮かべてやってくる少女を見つけた。

 

「あたしが呼んだのよ。一緒の方が、楽しいでしょ」

 

それは、シンジもまったく同感だった。

 

それというのも、今日の買い物の目的が、数日後に迫った修学旅行の準備だからだ。

遠足とか修学旅行というものは、そのもの以上に準備が楽しいという説があるが、それはなかなか正鵠を射ている。

実際、荷物持ちをさせられてはいるが、本当は楽しくてしようがないシンジだった。

 

アスカと手を取ってキャーキャー言っていたヒカリは、日傘を畳むとレイとシンジに笑いかけた。

レモンイエローのワンピース姿が眩しい。

 

「こんにちは、碇くん、レイさん」

「やあ、洞木さん」

「......こんにちは、ヒカリさん」

 

淡い笑みを浮かべるレイと、隣のアスカを見て、ヒカリは微笑んだ。

 

「アスカとレイさんって、仲がいいのね。並んでいると何だか、姉妹みたい」

 

言われたアスカは、目をパチクリとさせて、隣のレイを見た。

レイも、つられるようにアスカのシャープな輪郭を覗き込む。

 

姉妹......?

 

レイが、その言葉の意味を咀嚼し終える前に。

不意に、アスカは、こちらを向いたレイの頭をぐっと引き寄せると、ニカッと笑った。

 

「そう? ま、あたしの人徳ってやつ?」

 

冗談でしょ、なんであたしがファーストなんかと…!

 

昔のアスカならば、そう怒って否定しようとしたに違いない。

エヴァのパイロットとしてはともかく、日常的な部分において、アスカのレイに対する確執は霧散していた。

ある面においては理知的かつ、怜悧な印象のレイが、まるで子供のような一面を持つことに気付いてからは、あれこれと世話を焼いている。

アスカ本人は否定したがるかもしれないが、母の愛を失った…そう信じている少女の、それは小さな母性の発露ではなかっただろうか。

 

レイは、相変わらず表情豊かとまではいかず、アスカのされるがままになっているように見える。

だが、そのわずかな表情の変化にヒカリが気付いたのは、ここ最近の付き合いの成果だろう。

レイは、表情の選択に困っている。

それはつまり、彼女が照れている証拠なのだ。

 

ヒカリはくすっと笑った。

 

「……それはいいとして」

 

レイの頭を開放したアスカは、半眼になって、ヒカリの後ろにいる2人をにらんだ。

 

「ちょっと、どうしてあんたたちまで付いて来てんのよ」

「ごあいさつやな。相変わらずキツイで、惣流は」

「ヨッ、おはよう」

 

休日だというのに、相変わらず暑苦しそうなジャージを着て、体育会系丸出しで腕まくりをしているトウジと、繁華街だというのに迷彩のズボンをはいて、片手にビデオカメラを構えたケンスケが、ひょっこりと顔を出した。

 

「イインチョとは、さっきそこで会ってん。買い物するなら、一緒の方が何かと便利やゆうて。なあ、ケンスケ」

「ん? ああ、そうそう」

 

トウジはまったく分かっていないようだが、ケンスケは、ヒカリの意図が分かったので、曖昧な笑みを浮かべた。

相変わらず、トウジは鈍感だ。

 

「ふーん…?」

 

納得しがたい表情で、アスカはちらりと、ヒカリに視線を走らせた。

お下げ髪の少女は小さく頬を染めると、申し訳なさそうに縮こまってみせた。

当然といおうか、ヒカリの態度はあまりにも単純なため、アスカは彼女の「好意を向ける相手」について、早くから気が付いていた。

ただ、その好みだけは、どうにも理解できなかったが。

 

「…にしても。シンジ、なんやそのカッコは」

 

トウジは、両手に複数の紙袋を抱えたシンジの姿を見て、「嘆かわしい」という顔をした。

 

「同じ男として、情けないわ」

「は、はは…」

 

シンジとしては、笑うしかない。

と、アスカが割り込んだ。

 

「ま、当然でしょ。このあたしの付き合いができるんだから、そのくらいやってもバチは当たらないわ」

 

得意げに胸を張るアスカを見てから、トウジはポンッとシンジの肩に手を置いた。

 

「難儀やな…お前も」

 

シンジは、同情してもらって嬉しいやら、悲しいやら。

ケンスケは、滅多に見れないアスカやレイの私服姿を、早速ファインダーに収めながら、うんうんと頷いた。

 

「ま、まあとにかく、お買い物に行きましょ。ね、アスカ」

 

ヒカリが場をとりなすように、建設的な意見を述べ、それはみんなに了承されたのであった。

 

 

 

73

 

 

 

「なんや…もの凄い目立っとる気ぃがするんじゃが…気のせいやろか」

 

気のせいじゃない…気のせいじゃないよ、トウジ。

 

居心地が悪そうに、腕組みをしたまま体を揺すっているトウジの呟きに、シンジは肩どころか、体全体を縮こまらせながら思った。

 

本日のお買い物、メインイベント。

すなわち――――水着選び。

 

女性の水着コーナーというのは、おそらく、ショッピングにおいて、男が足を踏み入れたくない場所のベスト・スリーに入るであろう。

実際、あの加持ですら、前回、アスカに水着選びを付き合わされた時は、引きつった笑みを浮かべていたものだ。

なおかつ、アスカ、ヒカリ、レイが買い物に選んだこのデパートでは、ご丁寧にも、水着売り場と下着売り場(もちろん女性)が隣り合わせているという好(悪?)条件である。

アスカたち3人は、売り場のある階に来てすぐ、水着選びに没頭しており、今は展示品の間できゃあきゃあ言っている。

シンジたちは、水着売り場に踏み込むわけにもいかないので、下着売り場との境界となっている通路に立っているのだが、その姿はかなり怪しい。

なぜならば…。

 

「ケンスケ…こんな所でカメラ構えるのだけはやめぇ…」

「ん?なんで」

 

…こいつの顔は、鉄面皮かい。

 

TPOというものをまるでわきまえないカメラ少年に、さすがのトウジも後ろ頭を冷や汗が伝う。

周囲からは、否応なしに女性たちの視線を感じる。しかも、かなり痛い。

この階には女性服売り場しかないのだから、それも当然といえた。

曰く。

 

 

「…ちょっと、何アレ」

「ヤダ…盗撮かしら。それとものぞき?」

「まだ若いのに…いやらしいわねぇ」

「ほかの2人も仲間かしら…この暑いのにジャージなんか着て、ヘンタイ?」

 

 

「ケンスケ…後生やから…」

「(恥ずかしい…っ)」

 

トウジは、ジャージのことを言われたのが効いたのか、ちょっぴり涙目で懇願。シンジに至っては、恥ずかしさのあまり、顔を真っ赤にして俯くことしかできない。

二人とも、この時ばかりは、ケンスケを友に持ったことを後悔したものである。

 

「(シンジ…お前、何とかせい。惣流たちの連れやっちゅうことを強調せんかい)」

「(ええっ…ど、どうやってさ)」

 

もはやケンスケは無視し、小声で必死に、人間としての尊厳の回復を促すよう、シンジに訴えるトウジ。

 

「(惣流にさりげなく声かけるとかすればええんや)」

「(そ、そんなこと言ったって…)」

 

このままヘンタイ扱いされるのはもちろん嫌だが、この状況で声をかけるのは、非常に勇気がいる。

 

と、そんなやり取りを目にした周囲の女性たちから、また囁きが…

 

「でも、あのチェックのシャツの子は可愛い顔してるわね」

「やだ…もしかして、あのジャージの子に脅されてるんじゃないのぉ。関西弁だし、ガラ悪そう…」

「そうよね、あの子はそんなことするように見えないもの」

「やっぱり、あのジャージの子とカメラの子が無理矢理…」

 

ひそひそ…

 

「………」

「………」

「シーンージー…何でお前だけ〜!卑怯やぞ、ちぃと顔がええからって…差別や!」

「な、なんでそうなるのさっ」

 

シンジは、なぜ自分が責められなければならないんだろう…と理不尽さを嘆く。

が、男としては、トウジの主張ももっともではある。

 

 

 

一方、女性陣は…。

 

 

 

惣流アスカ・ラングレーの場合

 

 

 

「ん〜…やっぱり新調するんだから、それなりに大胆なやつがいいわよねぇ。これにしようかしら…あっ、でもこっちもいいし…これはダサいからイヤ。うーん…これって結構ダイタンかも…それとも、こっちのがいいかしら…」

 

すっかり、ショッピング・モードだった。

アスカのプロポーションをもってすれば、大人用の大胆なカットだろうが、きわどいビキニだろうが、よりどりみどりである。

それだけに、選択には非常に迷う。

こっちか、あっちか、それともそっちか…真剣極まりない目で、色とりどりの水着を見比べる様は、パーラーでパフェを選んでいる時のものとそっくりだ。

基本的に、機嫌がいい時のアスカは、人畜無害な普通の14歳の女の子である。

 

「なんたって、2日目にはスクーバもあるしね♪ たっのしみだわ☆」 

 

ドイツでは、すでに大学まで卒業しているアスカであるが、それだけに日本の中学校行事は、目一杯満喫するつもりである。

気分はすっかり修学旅行、心は沖縄へと飛んでいた。

 

 

 

綾波レイの場合

 

 

 

「......これは、なに?」

 

びろ〜〜〜〜〜ん。

 

引っ張るとほとんど「ひも」のようになる、アブないワンピース(?)を手にしたレイは、疑問符を浮かべた。

展示品を順に眺めているうちに、次第に「アブない」系の水着が立ち並ぶ一角に迷い込んでしまったようである。

 

どうやって着るものか、というより、そもそもこれは身につけるものなのか、びよんびよんやっていたレイに気付いたヒカリが、マッハの早さで、レイの手からその「ひも水着」をひったくって売り場に戻すと、レイを「正常な」水着の陳列場所に連れ戻す。

ヒカリの顔は何故か真っ赤であり、「ふ、不潔よぉっ」と、その目が訴えていた。

レイはわけがわからず「??」。

ちなみに、なぜそんなにキワドイ水着が立ち並ぶ一角があるのかは謎である。

 

 

 

「水着を買うわよ!」

 

とアスカが葛城邸で宣言したとき、レイは、

 

「もう、持っているわ」

 

と、白無地のワンピースを示して見せた。

 

「うーん…アンタ、そんな地味ぃな水着しか持ってないワケ?」

「......これでは、ダメ?」

「ダメってこたないけど…」

 

その水着をレイが着ているところを想像してみるアスカ。

…似合う。

でも、なんか暗いっていうか、静かすぎんのよね、白じゃ。

 

「どうせ沖縄行くんだから、新調するのよ。レイも少しは冒険しなきゃ」

「......冒険?」

「そうそ。アンタだって女の子なんだからねっ。

 顔がいいからって(アタシの方が上だけど)油断してると、ミサトみたいに嫁き遅れるわよ」

「女の子......」

 

アスカの言葉に深い意味はなかったのであるが、レイにとって、アスカが自分を「女の子」と言ってくれたことは、とても大きな意味を持っていた。

 

 

 

アスカの言葉を思い出しながら、レイは手近な水着を手に取ってみる。

 

……よく分からなかった。

 

水着。

泳ぐときに身につけるためのもの。

冒険......?

女の子らしく......。

 

レイは、もう一度、手の中の水着に目を落としてから、隣で嬉々として水着をとっかえひっかえしているアスカの横顔を覗き込んだ。

 

綺麗だった。

 

その横顔に、レイは自分にはないものを見つける。

陽光のように、明るい、楽しげな顔。溢れるような躍動感。

 

どこかに、自分と似ているところのある少女。

ずっと、一人だったアスカ。

でも、自分とはどこか違う。

自分だけが、他と違う。 

 

「.........」

 

 

ワタシハ、ヒトニナリタイノカモシレナイ......。 

 

 

それは、レイの痛切な思い。

アスカにも、ミサトにも、そしてシンジにすら明かすことのできない…。

 

今まで、自分の存在に疑問を抱いたことなどなかった。

それは、疑問を見出すまでもなく、価値のない存在だと見なしていたからだ。

 

誰かの代わり。

ただ、一つの目的のために生み出された器。

計画のための依代(よりしろ)。

それでもよかった。

 

でも、今は......。

 

 

ドウシタラ、ヒトニハナレルノダロウ。

 

 

レイの中で、静かな、そして強い願いが生まれつつあった。

 

 

 

 

「アスカ......水着、選んで」

 

 

 

洞木ヒカリの場合

 

 

 

アスカが、中学生にしては大胆すぎる水着を物色しているのを横目で見ながら、

 

 

いやっ、そんな切れ込み…ふ、ふけつよおっ!

あああっ、あんなに布地が少なくて…あれじゃ見えちゃうわっ!

そんなっ、背中空きすぎ…それじゃ下手したら…イヤンイヤンイヤンっ! 

 

 

……ヒカリはひとり、頬を染めながら苦悩していた。 

 

ただし、恥じらいつつも、興味津々な感は否めない。

自分にはとても着れないわ…と思いつつ、思春期の女の子真っ盛りなヒカリであった。

 

「アスカ......水着、選んで」

 

その時、ただ一人、冷静に展示品を眺めていたレイが、アスカの袖を引っ張った。

 

「ん?レイ?」

「水着......選んでほしい」

 

綺麗なスカーレットの瞳が、アスカを真っ直ぐに見つめていた。

ぱっと振り返って、その言葉を聞いたアスカは、2、3度まばたきしたあと、にまあっと笑みを浮かべた。

 

そ、その笑いはなに、アスカ…。

 

ひじょ〜〜〜に嫌な予感をひしひしと感じるヒカリ。

 

「ふっふ…あんたもようやくその気になったみたいね。

 いいわっ!

 このアスカ様が、あんたにピッタリの水着をセレクトしてあげる!」

 

こくり。

 

小さく頷くレイ。

一方のアスカは、背後に燃える炎を背負って拳を固めている。

その姿に危険を察知したヒカリが、笑顔を張り付かせながら割り込んだ。

アスカのことだ。無知なレイに、これ幸いと過激な物を選択するに決まっている。

 

「ね、ねえレイさん?よかったら、私もレイさんの水着を選んであげたいんだけど…どうかしら?」

「.........」

「(ニ、ニコッ)」

 

こくり。

 

ほっと胸をなで下ろすヒカリ。これで、なんとか最悪の事態は避けられそうだ。

 

 

 

ヒカリとレイは、一緒に昼食を食べるようになってから、急速に親しさを増していった。

それは、レイ自身の成長もさることながら、やはり、ヒカリの誰にでも分け隔てなく接する、慈母的な性格に起因するだろう。

頻度はそれほどでないにしても、以前から、ヒカリはレイに対しても声をかけていた。

ただ、レイの側がヒカリを(他者を)視界に入れていなかったため、会話が成立することがなかったのである。

 

ヒカリは、意識して「レイさん」と呼んだ。

そして、レイは黙して数度、まばたきを繰り返したあと、「ヒカリさん......」と呼んだ。

それは、お互いにとって、記念すべき瞬間だったかもしれない。

ヒカリは、達成感とレイに名前で呼ばれた喜びに、頬を軽く染めながら笑顔を見せる。

その笑みに引き込まれるように、レイは小さく口元に微笑みを刻んだのだった。

 

 

…ところで、ヒカリは未だに、トウジに手作り弁当を食べさせるには至っていない。

シンジの後押しも受け、その気にはなっているのだが、どうしてもあと一歩を踏み出せずにいる。

トウジに自分の弁当を食べてもらう理由がないのだ。

もしかしたら、このままずっと踏み出せないかもしれない。

現在は、ただ、アスカとともに、シンジのグループと一緒のランチを囲み、トウジが購買部のパンをかじる横で、自分の弁当と見比べるだけだ。

だが、ヒカリ自身は、それだけでも十分に幸せかもしれないと感じていた。

 

 

 

「ヒカリ…あたしとやる気ね?」

 

何を勘違いしたのか、アスカはやる気満々である。

どうしてそうなるのかしら…とため息をつきつつも、「レイさんは私が守らなきゃ…」と悲愴な決意を固める委員長、洞木ヒカリであった。

 

「ふっふ…いい度胸ね。たぁだし!…ビキニ限定よ」

 

アスカは、肉食獣のような笑みを浮かべながら、びしっと人差し指を突き出した。

 

「び、ビキニ限定…?」

「そ。

 レイってスレンダーだから、ワンピースを選ぶのは簡単だけど、ビキニはそうはいかないわよ。(ニヤリ)」

 

…なにが「そうはいかない」のかは謎だが、状況不利と悟ったヒカリは、別の手段に出ることにした。

 

「じゃ、じゃあ、碇君たちの意見も聞いてみましょうよ」

 

なし崩し的にシンジを巻き込み、過激な物になるのを避けようという、ヒカリの戦略構想である。

巻き込まれる方は、たまったものではない。

 

「シンジぃ〜?

 …ふっ、まあいいわ。勝負よ、ヒカリ!」

 

小馬鹿にしたような笑みを浮かべるアスカ。

こういう時の彼女は、どうひいき目に見ても、クラスのいじめっ子という感じである。

その顔に、ヒカリは一層の決意を固めて両拳を握る。

 

「(負けられないわ…レイさんのためにもっ)」

 

かくして、本人の意思とはまったく無関係に、水着セレクトバトルは始まった。

 

 

 

 

 

 

「さあっ、選んでもらいましょうか、シンジ!」

「え…選べっていきなり言われても…」

 

ようやく、売り場周辺の女性たちからの奇異の視線から解放されたシンジだが…

さらなる難題に直面させられていた。

 

異様な迫力に満ちたアスカに迫られ、いきなり目の前に、きわどい水着を突きつけられたシンジは、目を白黒させながら、状況を把握しようと務める。

 

「アスカ…それじゃ碇君が困るわよ。

 あのね、レイさんの水着を選んでいるの。碇君にも意見が聞きたいんだけど…」

 

何の前置きもなく切り出すアスカに苦笑して、ヒカリが助け船を出す。

 

「それでね。

 …アスカが持ってるのと、こっちのやつと…どっちがレイさんに似合うと思う?」

 

シンジは、あらためてアスカを見、ヒカリを見…そしてレイを見た。

ようやく事情が飲み込めてくる。

ヒカリの訴えるような視線から、アスカの暴挙を引き留めんとする、委員長の責任感を感じた。

 

そして、アスカとヒカリが、それぞれ手にしている水着を見やる。

 

………。

 

「そ、そのどっちかを綾波が着るの…?」

 

アスカの持っているのは、水色のビキニ。

ただし、胸の中央部で布地がロールパンのようにひねってあり、その幅はといえば、レイの慎ましやかな胸でも、果たして収まりきるかどうかという、かなりキワドイ代物だ。

当然ながら、下もそれに倣う。

その幅はといえば、レイの慎ましやかな臀部でも…(以下略)。

 

シンジの横では、半分ケダモノと化しかけている少年2人が、「おおおお〜っ」と、興奮した唸りを上げている。

 

一方、ヒカリの手にしているのは、レモンイエローのビキニ。

こちらは比較的、布地が多く、大人しめのデザインなのだが、シックな感じがアダルティ(謎)であり、また、ビキニである以上、中学生にしては「セクシー」な感は否めない。

また、いわゆるスポーツタイプではなく、結び目がひもであるあたりも、ポイントが高いと思われる(相田ケンスケ氏・談)。

 

「さあっ、選んでもらいましょうか、シンジ!」

 

ずずいっ、とアスカが再び迫る。

シンジは気圧されながらも、横目で水着とレイの顔を見比べる。

 

「あ、あの…僕としては、もうちょっと大人しい方が…」

「却下」

「せ、せめてビキニはやめたら…」

「大却下」

「………」

 

はかない抵抗を試みるものの、全ての反論を一言のもとに切り捨てられ、シンジは窮地に立たされた。 

 

アスカがひらひらさせている、水色の「アブない」ビキニ。

ヒカリが申し訳なさそうに捧げ持っている、レモンイエローの「セクシー」ビキニ。

 

……このどちらかを、綾波が着るのか。

 

………。

………。

………。

 

「…バカシンジ。鼻の下、伸びてるわよ」

「……!」

 

アスカにジト目で睨まれて、慌ててババッと口元を両手で覆うシンジ。

…正直な反応である。

むしろ、慎ましやかというべきだろう。…隣で鼻血を垂らしているケダモノコンビに比べれば。

 

「…さ、どっち?」

 

もはや、二者択一しか道はないようである。

 

アスカは、ニコニコと機嫌良さそうに微笑んでいる。

だが、その目は確かにこう言っていた。

『あたしよ、あたし!あたしの選んだ方よ。わかってんでしょうね。選ばなかったらひどいわよ、バカシンジ…』

…どうも、選択の余地すらないようである。

 

逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだっ。

 

昔のフレーズまで持ち出して、勇気を総動員したシンジは、ごくり、と一度のどを湿らせてから、おそるおそる答えた。

 

「ぼ、僕は、そっちの黄色い方がいいと思うな…」

 

なるべくアスカを刺激しないように、洞木さんの方、と言わない辺りがミソである。

レモンイエローのビキニに抵抗がなかったわけではないが、二者択一となれば是非もなし。

アスカは恐いが、レイの名誉のためにも、あの「アブない」ビキニを着せるわけにはいかない。

アスカは恐いが…。

 

ち、ちらっ…。

 

「ほぉ……」

 

 

ぴくぴく。

ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……。

 

 

…「そこには鬼がいた」と、後に碇シンジ氏(14)は語ったそうな。

 

「なるほど…シンジはあたしより、ヒカリの方を選ぶわけね…あ・た・し・よ・り・っ?」

「い、いや、あの…」

 

顔は笑っているが、目はまったく笑っていない。

負けず嫌いアスカの本領発揮である。

 

一方、ひじょ〜に誤解を招きそうな発言に、ヒカリがはうっと固まる。

 

「せや、シンジ。…わ、ワシは、惣流の方がエエと思うがのう」

「そうそう。そっちのが見栄えがいい気がするよな。うんうん」

 

…鼻血を垂らしながら力説する外野2人の意見は、この際、無視したい。

 

「(ふ、二人とも…人の気も知らないで)」

 

獅子に睨まれたネズミの状態にあるシンジは、余計なフォローに心の中で涙していた。

 

「(そ、そんな、鈴原…)」

 

…一方、ヒカリはトウジの発言を勘違いして、どよ〜んと沈んでいた。

 

「い、いや、だからさ…」

「ぁあんっ?!」

「ぐっ…その…

 い、色がさ…そう色!色だよ、うん」

「色…?」

 

今にも炉心融解を起こしかけていたアスカ型原子力核融合炉が、一瞬だけ活動を停止する。

その隙を見逃さず、シンジはここぞとばかりに、たった今思いついた説明を始める。

 

「ほ、ほら、アスカの選んだやつ、デザインはすごくいいんだけど、水色って綾波の髪の色と同じだろ?

 そのまま組み合わせると、ちょっとさ。

 黄色の方が、暖かい感じになるんじゃないかと…思うんだけど…」

「む〜…色か。

 確かに、水色だと寒色だしね…」

 

そもそも、レイの持っている白い水着が「寒々しい」印象を与える、と思っていたアスカには、これは意外な説得力を感じさせた。

デザインに気をとられるあまり、そのことをすっかり失念していたのだ。

言われてみれば、レモンイエローはレイに似合いそうだし、彼女の透き通るほど白い肌にも、あまり違和感なくマッチしそうだ。

それに、ヒカリのセンスが嫌いなわけではないし、あらためて見ると、あっちも良いような気がしてきた。

 

「ね、ねえ、綾波はどう思う?黄色もいいと思わない?」

 

アスカが迷い始めているのを好機と取ったシンジは、さらに搦め手から、レイ自身の説得にかかる。

 

レイは、それまでのやり取りを、じっ…と静かに見守っていたが、シンジの問いに、ヒカリの持つレモンイエローの水着に視線を移す。

彼女自身には、どちらが良いのか、まだよくわからない。

 

「碇君は......黄色が好き?」

「う、うん…好きっていうか、綾波に似合うと思うんだ」

「そう......」

 

レイの、何の打算もない真っ直ぐな視線で見つめられ、シンジは少しどぎまぎした。

一方、シンジの答えを聞いたレイは、レモンイエローのビキニの方に心が傾いたようだった。

 

「......アスカ?」

 

それでも、アスカに同意を求めたのは、彼女がシンジと同じくらい、アスカに信頼を置いている証だろう。

レイの短い問いに、アスカは頭を掻きながら、なんとなく納得したように頷いた。

 

「ん…そうね。ヒカリのもいいかも」

「......女の子、らしい?」

「はあ?」

「これ......女の子、らしい?」

「そ、そうね…まあ、そうなんじゃない?」

 

レイの質問の意図はよく分からなかったが、アスカはとりあえず頷く。

紅い瞳に籠められた思いに、感応したように。

 

「......これにする。ありがとう、ヒカリさん」

 

レイは、先ほどのショックから未だ再起動を果たしていないヒカリから、レモンイエローの水着を受け取ると、レジへと歩いていく。

その表情はいつもと変わりなく見えたが、足取りはどこか軽かった。

 

「…そ、それより、アスカはもう選んだの、水着?」

 

レイの背を見送ったシンジは、アスカの気が変わらないようにと、別の話題を振ってアスカの注意を逸らす。

 

「ん?まあね」

 

ちょっと気の抜けたような顔をしていたアスカは、ふふっと楽しげな表情に一瞬で変わった。

彼女の表情は万華鏡のように変化し、いつもシンジを翻弄する。

 

「…ジャーーン!」

 

アスカの笑顔にほけっ、と見とれていたシンジは、アスカが自分の胸に当てるように取りだした、赤白ストライプのセパレートを目にして、目を見開く。

 

「そ、それは…」

「?」

 

 

 

【何やってんの?】

 

【ったく…おりこうさんなんだから】

 

【ジャーン。沖縄でスクーバできないんだから、ここで潜るの】

 

【この程度の数式が解けないの? ちょっと貸して】 

 

 

 

シンジの脳裏に、あの頃の想い出がよみがえる。

修学旅行に行けずに、レイと3人で行ったネルフのプール。

プールサイドで端末に向かう自分に、声をかけるアスカ。

そして、脳裏にひらめく、眼前に迫った彼女の…胸。

 

かあっ…!

 

一瞬にして、シンジの顔に血が上った。

 

あの頃、一種の強迫観念をともなって、目に飛び込んできたアスカのスラリと伸びた脚、ふくよかな胸。

 

シンジは、赤い顔のまま、目の前のアスカの顔を見た。

 

今は、こんなにも愛しい。

あの時とは全く違うドキドキが止まらない。

 

そして、あの頃は考えもしなかった感情が、シンジの胸に湧いた。

おそらくは、自分の身勝手な嫉妬。

幼稚な独占欲。

 

アスカのあの姿を他の誰かに見せたくない…!

 

気が付くと、シンジは自分でも意外なことを口走っていた。

 

「あの、アスカ、それ気に入ったんだ…」

「ん、まあね。まあ、まだいくつか候補あるけど」

「そっ、それもいいけどさ。あれなんかどうかな?!ね!」

 

指さしたのは、苦し紛れだったかもしれない。

 

アスカは、きょとんとした顔を浮かべている。

パチ、パチとまばたきして、必死の形相のシンジを見やる。

とにかく、シンジが自分からそんなことを言い出したのが、かなり意外だった。

 

「ふ〜ん…これ?」

 

シンジが咄嗟に指さしたのは、マネキンに着せられた、マリンブルーのワンピースだった。

色合いは深く、デザインはすっきりとして飾り気がないが、かえって瀟洒な感じがする。

肩から腰にかけて走る、さらに深い色のブルーのラインが、微妙な曲線を描いている。

カットも、さりげなく大胆だが、さほどそう見えないのはセンスを感じさせた。

 

アスカは、興味を引かれたようにマネキンに歩み寄ると、前後左右から、品定めするように見回す。

ワンピースというのが選択肢になかったので、なんとなく新鮮な印象を受ける。

その背中側に回って、じーっと水着を見ていたアスカは、ぽつりと呟いた。

 

「…いいかもね」

「え? そ、そう? そ、そっか、うん」

 

一方のシンジも、アスカが納得するとは思っていなかったので、驚きを隠せなかった。

あらためて、自分が勧めてしまった水着を見る。

 

アスカの瞳の色を深くしたようなマリンブルー。

 

想像してみた。

 

アスカの栗色の髪の色に、とても映えそうな気がする…。 

 

「ま、いいか」

 

最後にもう一度、手元の赤白ストライプの水着に目を落としたアスカは、そう呟いた。

 

…しかし、シンジは知らなかった。

そのマリンブルーのワンピースは、背中が大胆に開いており、後ろから見た露出度は、ビキニと良い勝負であったことを。

…まあ、でなければアスカが納得するはずはないのであるが。

 

 

 

「意外だな」

 

そんな二人のやり取りを眺めていたケンスケが、隣のトウジにだけ聞こえる声で呟いた。

 

「?何がや…」

「惣流さ」

「惣流がどないしてん」

「変わったと、思わないか?」

「んん〜…そうか? 相変わらずやと思うけどな」

 

ケンスケは、両手の親指と人差し指を使って、ファインダーを作ると、その中にアスカを収めた。

この距離でカメラを構えないのは、修学旅行という大事の前に、貴重な機材を失わなってはかなわんという、彼なりの打算である。

 

「どこがどうってワケじゃないけどさ。 なあ、最初に会った時のこと、覚えてるか?」

「最初?…ああ、あのどデカイ戦艦の上で会うた時か」

「…戦艦じゃなくて、空母だよ」

 

さりげなくツッコんでしまうのは、ミリタリーマニアの性である。

 

「シンジの巻き添えくって、いきなりドツカれたんや。 なんつー凶暴なオンナやと思ったわ」

「…そ、そうだったな」

 

ケンスケは、あの時おしゃかになったデジカメ2号のことを思い出したのか、るるーと涙を流す。

 

「気位ばっかり高ぉて、いけ好かんやっちゃと思っとったけどな…」

「エヴァに乗って、あの使徒とかってヤツと戦ってるとこ見て、あの自信も頷けるってとこか?」

「まあ、そうや。口は相変わらず悪いけどな」

「…口が悪いのはお互い様じゃないの?イテッ」

「うるさいわい」

 

ゴツンとトウジの拳をくらって、ケンスケは痛そうに頭をさすった。

 

「でもさ、最近、攻撃的なとこ変わったと思わない?」

どこがや?

「い、いや…そう即答で返されても困るけど…

 なんていうかさ、最初はもっと突き放したようなトコあったよ。

 俺たちとは違うんだ、みたいなさ。

 実際、とても同じ14歳とは思えなかったしな」

「まあ、せやな。実際、惣流はエヴァのパイロットやし」

 

そういう意味で言ったんじゃないんだけどな、とケンスケは頭をかく。

 

「でもさ、最近、そういう違和感ていうの? 少なくなってきたような気がしないか。

 今日だって、前だったら絶対、『アンタたちと付き合うなんて、絶対イヤ!』…とか言いそうなのに、ぶーぶー言いながらも、結構、楽しそうじゃん」

「んー…そう言うたら、そうやの。

 変わったいうより、馴染んできたんちゃうか?

 …まあ、あいつは凶暴やけど、スパーンと竹を割ったようなトコ、嫌いやないで。

 見ててスカッとするしな」

「…端で見てるだけなら、だろ?」

「ああ、そうや」

 

ケンスケが笑い混じりに聞き返すと、トウジは重々しく頷いた。

そして、ケンスケは表情を少し改めて、トウジの横顔を見やった。

 

たぶん、こういうところが、トウジっていう男のいいところなんだろうな。

 

いつも喧嘩ばっかりしているように見えるが、認めるべきところはしっかり認めている。

度量の広さとでもいおうか。

単純だが、それだけ懐が深く、どんな人間でも許容してしまう。

シンジとの最初の出会いは不幸だったが、その後、彼の良い理解者になっている辺りも、その現れだろう。

洞木ヒカリが、この朴念仁を好きだというのも、こうしたトウジの「優しさ」ゆえかもしれない。

 

「変わったゆうたら、惣流よりシンジやで。

 最初会ったときは、暗いヤツやと思とったら、急に明るくなりよるし…。

 このごろは、また前とも違うようになりよった。

 ホンマ、おかしなやっちゃで…」

 

そう言いつつも、トウジのシンジを見る目は優しい。

学校において、シンジの内罰的な部分に、最初に気付いたのはトウジかもしれない。

だからこそ、今、その変化を一番喜んでいるのも、トウジかもしれなかった。

 

「そりゃ、惣流のせいなんじゃないか?」

 

ケンスケは、今度はシンジを指のファインダーに捉えながら言う。

 

「惣流の?

 …そりゃ、どういうこっちゃ」

「ニブイねぇ…」

 

ケンスケは手を下ろすと、あきれたようにため息をついた。

これでは、自分自身のことについて気付くのも、一体、いつのことになるやら…。

 

 

 

 

 

「ところで、ヒカリは自分の、もう決めたの?」 

 

アスカが言うと、ヒカリは二つの水着を目の前に上げて見せた。

 

「うん。一応、どっちかにしようとは思ってるんだけど…

 どう思う、アスカ?」

 

ヒカリの右手にあるのは、山吹色のワンピース。

ごくごく普通の、飾り気はないが可愛い感じのものだ。

派手さがなく、清潔感漂うのは、ヒカリらしい選択といえた。

 

左手にあるのは、エメラルドグリーンのセパレートタイプ。

ワンピースではないのは、彼女なりに冒険した結果だろう。

こちらも派手さには欠けるが、目立たないように配置されたフリルが可愛らしい。

 

「ん〜……」

 

アスカは右手をあごに、左手をその右手の肘に当てると、ムズカシイ顔を作って眉根を寄せた。

…が、何か閃いたように、シンジの方を見る。

 

視線を向けられたシンジは、「え?僕?」という顔で自分の顔を指さす。

 

『ちっがうわよ、ニブいわねぇ、アンタ』

『え?え?』

『だから、ほら!…わかるでしょうがぁ』

『……………あ、そ、そっか!』

 

先日のユニゾン特訓の成果か、見事なアイ・コンタクトをやってのけた二人は、関係ないような顔で話の輪の外にいた男二人を見やる。

 

「そうだ、僕ばっかり選ぶのもなんだしさ。ケンスケとトウジの意見も聞いてみたらどうかな」

「そうね、それがいいわ」

「…えっ?!」

 

さも、今、思いつきましたという顔で頷くシンジと、それに同意するアスカ。

二人とも(特にシンジ)、かなりわざとらしいのだが、トウジの名が出て動揺しているヒカリは気付かない。

 

「…は? ワシらか?」

 

予想通り、トウジは呆けたような顔で自分を指さすが、ケンスケはさすがに勘が良く、シンジとアスカの意図を即座に見抜いた。

 

「あ〜、オレそういうの全然ダメ。だからトウジに聞いてよ」

「な、何言うとるねん、ケンスケ。

 オノレはいつもシャシン取ったりしとるんやから、詳しいやろが!」

「まあ、いいからいいから。

 で、どうだよトウジ。

 トウジはどっちがいいと思うんだ?」

 

『『ナイス、相田』ケンスケ』

 

アスカとシンジは、同時に心の中でケンスケの配慮に親指を立てる。

 

「わ、ワシか?

 いや、ワシなんぞが選んでも…ヘンなの選んだら、イインチョ怒りよるし」

「そんなことないわよ。ねぇ、ヒカリ?」

 

ここぞとばかりに、ヒカリをつっつくアスカ。

 

「え?あの、ええと…その…」

 

ヒカリは水着を両手に持ったまま、ごにょごにょと口ごもるだけで、まともに返事ができない。

 

「ほら、サルの意見も聞いとけば、人間の判断基準もわかるし」

「どういう意味や、惣流!!」

「あああ、アスカ、だめだよっ」

 

煽るアスカに、トウジがヘソを曲げると心配したシンジが諫めるが、アスカは小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。

 

「フフン…まあ、どうせ鈴原には、水着選ぶなんて高等なこと、できないわよねぇ。

 そうそう、私が悪かったわ」

「ぬわんやとぉう……水着の一つや二つ、ワシがびしいっ、と選んだるわい!

 やってやろうやないか!!」

 

ふっ…単純バカ。こいつを乗せるなんて、赤子の手をひねるようなモンね♪

 

アスカは密かに勝利の笑み。

 

((う、うまい…))

 

一方、シンジとケンスケは、アスカのトウジの操りように感嘆。

そして、トウジの乗せられっぷりに汗。

 

「ど、どっちがいいと、思う? 鈴原…」

 

その間に、ヒカリは勇気を総動員して、ようやくそれだけを言う。顔は俯いたままだ。

 

「せ、せやな…え〜」

 

トウジも啖呵は切ったものの、いざとなると真剣な面もちで、二つの水着を見やる。

 

「迷うことないよ、トウジ。トウジの好みの方でいいんだからさ」

「こ、好みか?」

 

悩むトウジを哀れと思ったシンジが、そう助け船を出す。

よく考えると、かなりキワドイことを言っているのだが、鈍感大王トウジはまったく気付かない。

 

「そ、そうやな…

 ワシは、どっちゆうたら、そっちのミドリの方が…」

 

おそるおそる、といった感じで、セパレートタイプの方を指さすトウジ。

 

「ハン…だと思ったわ、このスケベ」

「す、すけ…なんや惣流っ!わ、ワシはオノレらが選べっちゅうから…!」

「ま、まあまあ、トウジ…」

 

「………ぅん。じゃ、こっちにする」

 

またぞろ喧嘩になりそうな場を、ヒカリのか細い声が遮った。

顔は赤いが、幸せそうに微笑んでいる。

 

「お、おう……そ、そうか?

 それで……ええんか」

 

「うん。

 ありがと……鈴原」

「お、おう」

 

その笑顔に気圧されたように、トウジはどもる。

 

「……なぁに赤くなってんだよ、トウジ」

 

ケンスケの声。

にやにや笑いの波動が、背後からでも伝わってくる。

 

「な……赤くなんかなってへんわ!」

「そうかぁ?」

「なってへん、言うとるやろが!」

「そうかぁ?」

「ケ・ン・ス・ケ・ェ〜、オノレはぁっ!!」

「わあっ、タンマタンマ!!オレが悪かった!悪かったから、カメラだけはカンベンしてくれっ!」

「いーや、ゆるさん。ゆるさへんでっ!」

「あああぁぁぁっ!」

 

 

 

「バッカじゃないの…男ってのは、まったく」

 

あきれてケンスケとトウジを見やるアスカ。

ヒカリは、茶化された恥ずかしさからか、レイの待つレジに向かってしまい、とっくにいない。

 

だが、シンジには、アスカが笑っているのが分かった。

 

 

 

ああ、そうだ…。

 

僕はきっと、こんな日常を望んでいたんだ。

 

 

 

他愛のない日常。

他愛のない喧嘩。

他愛のないやり取り。

 

 

何物にも代え難い、大切な日々…。

 

 

 

本当はみんなと一緒に、修学旅行に行きたかったんだ…。

 

 

シンジはいま思う。

トウジにケンスケ、ヒカリ、レイ、そしてアスカ。クラスのみんな。

みんなと一緒に、修学旅行に行けたら、どんなに楽しいだろう。

 

だけど…。

 

現実には、戦闘待機が待っている。

この水着選びも、結局は無駄になる。

使徒が……来る。

 

 

この時までは、そう思っていた。

 

 

 

 

(つづく) 

 


■次回予告 

 

唐突に決まった修学旅行参加。

一抹の不安は残しながらも、嬉しさを隠しきれないシンジ。

チルドレンたちにとって、ひとときの休息が訪れようとしていた。

 

一方、ある目的をもって子どもたちに同行する加持と、第3新東京市に残ったミサトは…。

 

次回、新世紀エヴァンゲリオンH Episode-16「修学旅行へ行こう!(大人たちの都合)」。

 

 

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(updete 2001/02/16)