101

 

 

 

 

ジーーーーーーーーーーーーーーーー………

 

 

ジーワジーワジーワ……

 

 

ミーン、ミンミンミンミンミンミー…ン……

 

 

 

 

 

 

ふと、蝉の声に煩わしさを覚える。

 

アスファルトから立ち上る熱気が湿った風に乗り、ねっとりとした不快さを運んでくる。

濁った空気に頭まで漬かっていると、あちこちに反響する蝉の声が、わんわんという耳鳴りのように聞こえる。

 

大体、人間の体というものは、自らの体温に近い、あるいはそれ以上の温度という環境の中で長時間、過ごせるようにはできていない。

20世紀生まれの世代が、「昔はこんなもの…」などと虚勢を張っているのは、まさしく年寄りの冷や水というやつで、熱中症になるのがオチである。

 

セカンドインパクト以降、日本からは四季が失われたが、以前から「夏」にあたる時期の気温は、まさに灼熱の暑さという形容がぴったりくる。

 

肌の上を玉になって流れ始める汗を鬱陶しそうに拭い、思わず頭上を仰ぎ見て、ミサトは顔をしかめた。

かざした掌に、血の色が透けて見えそうな日差しの強さだった。

 

「暑いわね…」

 

口にしてもどうにもならないことは分かっているのに、つい呟きが漏れる。

 

「ああ…車で来ればよかった」

 

市街地の迎撃システムの修復状況を視察に来たのはいいが、当てにしていたネルフの車両にトラブルがあったおかげで、予定よりも大幅に時間を食ってしまった。

日は傾き始めていても、うだるような暑さは、一向に減衰を見せない。

モノレールの駅まで、まだたっぷり15分は歩かなくてはならない。

人工のものとはいえ、こんな時は、ジオフロントの快適な室温が恋しかった。

 

できることなら、上着など脱ぎ捨ててパタパタやりたいところだが、あいにく今日は、制服の下はタンクトップだ。

第一、この炎天下でそれをやったら、思いっきり日焼けしてしまう。

仕方なく、足下を見ながら、のろのろと歩き出す。 

 

 

…ふと、首筋に感じた肌を刺すような熱気に、嫌なものを思い出したのか、彼女は再び顔をしかめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…第3区画から第12区画までの兵装ビルおよび自動迎撃システムの修理進捗状況は芳しくありません。

 同区画は、第五使徒の攻撃を受け修繕中のところへ、前回、第七使徒との決戦場となりましたので…」

 

ミサトの報告の声が、広い室内に響く。

室内の温度は一定に保たれ、エア・フィルターを通された空気は快適だが、この部屋にいると、それとは別の重苦しさを感じずにはいられない。

 

提出された報告書をめくっているのは、執務机の横に立つ冬月で、いつものようにデスクの上で両手を組んだゲンドウは、視線も動かさない。

 

「…以上のように、現在までの復旧率は25%。これは前回、第七使徒を迎え撃った際のデータを下回ります。

 作戦部としましては、速やかな復旧作業の改善を上申します」

 

それを聞いて、上の街で細かい予算の折衝に当たっている冬月は、苦い顔をした。

彼女の言っていることは、言わずもがなのことだ。

実際、現場がサボタージュをしているわけでもなく、わずかな誤差はあるものの、復旧はタイムスケジュール通りに進んでいる。

ではなぜ、あえて上申などするのかといえば、それは「予算を増やせ」ということだろう。

 

「葛城君。 キミはそう言うが、復旧作業はぎりぎりのスケジュールで進められている。

 単に予算の問題だけではない。人件費はともかくとして、兵装ビルのパーツはすべて規格外品だ。

 予備品はすでに底をつくような状態で、発注から製造まで、どれくらい時間がかかるか、キミも知っているだろう」

 

報告書から顔を上げた冬月は、正面の離れた位置で直立する作戦部長の顔に視線を置いた。

沈黙のままに、女性とはいえ軍人らしい鋭い視線を真っ直ぐに向けられて、冬月は表情を改めた。

 

「何か、考えがあるのかね」

「私としては、外環部を中心とした特殊鋼線による足止め(ストッパー)の増設を提案します」

「特殊鋼線…ワイヤードトラップのことかね」

「はい。 敵にATフィールドがある以上、それを中和しない限り、通常兵器による早期迎撃システムは牽制にしかなりません。

 広範囲に特殊鋼線を張り巡らし、目標を足止めないし拘束することは、十分可能だと思われます。

 設置もワイヤーの格納・制御施設だけですみますので、自動砲座などよりエコノミーです」

 

冬月は、顎に手をやって、しばし考える。

 

「なるほど…まあそれも、ATフィールドを防御手段と限った場合の話だが」

 

なにげなく呟いた冬月の言葉に、聞き流せないものを覚えて、ミサトは冬月を見返す。

 

「それは、ATフィールドが攻撃に転用可能、ということでしょうか?」

「…可能性を言っているにすぎんよ。 ATフィールドとは、表現はおかしいが、いわば対象物との間に生まれる位相空間だ。

 たとえば、それを距離空間上にあるワイヤーの位置に出現させることが可能ならば、物理的な攻撃に換える―――切断するようなこともできるだろう」

 

聞いているミサトは、妙な顔をした。

自分の発言が、学者特有の議論の方向性のズレを見せていることに気付いたのか、冬月は一つ、咳払いをする。

彼の仮説は、第十使徒戦において立証されるが、現時点ではまったく未知の可能性である。

ミサトは、冬月が形而上生物学のドクターを持っていることを思い出していた。

 

「…それでも、足止めという点においては、120ミリバルカンや対戦車ミサイルなどより、よほど有効であると考えます」

「そうだな…」

「元来、エヴァによる近接戦闘は恐ろしく不利です。

 とはいうものの、こちらの攻撃を有効打とするためには、ATフィールドを中和せねばならず、そのためには接近戦は必然です。

 第三、第五、そして第七使徒は、非常識な威力・射程のビーム兵器を備えていましたし、第四使徒も伸縮自在のエネルギー収束体を操りました。

 相手の動きを完全に封じることは無理でも、これらの射角を限定しうるだけでも、意味があると思いますが」

「ふむ…」

「…さらに言えば、この前提として存在する戦術的劣勢を解消するには、ATフィールドの存在を無視できるレベルの、より強力な中・長距離用武装の開発・配備が急務ではないでしょうか。

 たとえば、第五使徒戦で使用した、プロトタイプ陽電子砲のような…」

「葛城一尉」

 

それまで、一言も発しなかったゲンドウが口を開いた。

 

「はい」

「それは、今回の報告とは関係がないな」

「いえ、しかし」

 

ミサトとしては、こちらの方がむしろ本題だったのであろう。

食い下がろうとするが、ゲンドウはにべもなく、それを中断させる。

 

「ワイヤードトラップに関しては、一部整備計画を変更。予算についても一考する。以上だ」

「……はい」

 

司令の有無を言わさぬ物言いには慣れているものの、それで不快さが減じられるわけではない。

ミサトはしばし、釈然としない表情で、そこに立っていた。

  

「まだ何かあるのかね」

 

沈黙の後、ミサトは口を開いた。

 

「…司令は、まだ使徒が来ると、お考えですか」

 

その質問は唐突だったため、一瞬、横で聞いていた冬月は意外そうな顔をした。

 

「現在のところ、使徒再来を否定する要素は何もない」

 

ミサトは、シンジの父親でもある人物の目を見据えたが、濃い色のサングラスの向こうの瞳からは、何も読み取れなかった。

 

「…下がりたまえ、葛城一尉」

 

形だけは完璧な敬礼を残して、ミサトは長い髪を翻した。

 

 

 

 

 

「まだ使徒は来るか、か…」

 

ミサトの出ていったドアを一瞥して、ゲンドウの背中に目を落とした冬月はひとりごちた。

 

ゼーレの死海文書に記された使徒の数は十七。

次がようやく八番目、戦いはまだ、始まったばかりだ。

 

 

 

 

 

 

 

102

 

 

 

 

 

 

 

「どうお、このお店?」

 

尋かれて、リツコは、やや喧噪に満ちた店内をちらりと見渡した。

どこにでもある居酒屋だが、照明は明るく、清潔感が漂っており、時折、酔っぱらいのトーンの高い声が聞こえる以外は、特に文句のない店である。

 

「…ミサトの好きそうな店ね」

 

そう評価を下した親友に、ミサトはニカッと笑って、“とりあえず”生ビールを2つ注文した。

 

なんとはなしに、学生時代によく利用した学食をリツコは思い出す。

騒がしいのは好みではなかったのだが、ミサトといると、周囲の喧噪を忘れることができた気がする。

…ただ、親友が周り以上にやかましかっただけかもしれなかったが。

 

上機嫌の彼女を見て、リツコの視線は、その口元に吸い寄せられた。

 

「ミサト、口紅の色、変えたの?」

「あ、わかるぅ」

「…ちょっと、くどいんじゃないの」

 

リツコが冷静に批評を下すと、ミサトは、んべ、と舌を出して横を向いた。

子供っぽい仕草だと思う。

いい年して…と考えるのは、自己嫌悪に陥りそうなので、止めておく。

 

「どういう心境の変化かしら。 …加持君?」

「違うわよ」

 

咳き込むような反応をして、ミサトは勢い良くかぶりを振った。

 

「新色が出たの見て、いいなぁ…って」

「………」

 

聞き慣れないセリフを耳にしたような気がして、リツコは、まじまじとミサトの顔を見る。

 

「何よ」

「…別に」

 

沈黙があり、図らずも同時に目を逸らして、おしぼりに手を伸ばした。

 

「だけど、久しぶりかしら、ミサトと飲むのは」

 

カウンターの椅子の背にかけた小さなハンドバッグの位置を直しながら、まばたきをする。

 

「最近、声がかからなかったけど……まさか、禁酒?」 

 

冗談交じりの笑みを浮かべながら、切れ長の視線を隣に送る。

が。

 

「……んっかぁぁぁ〜〜〜!!きっくぅ〜」

「………」

 

息つく間もなく、すでに一杯目の中生を空けているミサトを目の当たりにして、我ながら馬鹿なことを言ったものだと、ため息をつく。

 

「…ん? あ、ごっめぇん、乾杯まだだったっけ」

「……別にいいわよ」

 

こめかみを押さえながら、リツコは自分のジョッキを手を伸ばした。

早くも運ばれてきた、泡の溢れそうな二杯目を手にしたミサトが、グラスを合わせてくる。

がしゃん…、と威勢のいい音がして、少量の泡が舞った。

 

「んで、何の話だったっけ?」

 

耳に掛かる金髪をかき上げるようにして、ジョッキに口をつけるリツコに、ミサトが言う。

生ビール独特の苦みを一口、二口、流し込みながら、リツコは気がなさそうに、壁に貼られたメニューを目でなぞった。

 

「ミサトと飲むのは、久しぶりっていう話よ」

 

それでも、わざわざ答えるあたり、リツコも久しぶりの仕事以外の時間を貴重に思っているのかもしれなかった。

また一口、ビールを含む。

 

「なぁに言ってんのよ。誘ってるのに、付き合い悪いのは、リツコの方でしょ」

 

アルコールが入って陽気になっているのか、ケタケタと、悪気なく笑うミサトに、リツコは残った液体を一気に飲み干した。

 

「…あのね。ウチ(技術部)の仕事は、定時になったからハイ、そうですかと終わらせられる性格のものじゃないのよ」

 

口元についた微量の泡をハンカチで拭いながら、珍しく、愚痴っぽいことを言ってみる。

 

「へーへー、そういうもんですかねぇ」

 

半分ほど飲み干した二杯目のジョッキをドンと置き、ミサトはプハッと息を吐いた。

 

「……ほらっ。こぼしてるわよ、ミサト」

「あぁ、気にしない気にしない」

 

まったく、子どもみたいなんだから…とぶつぶつ口の中で呟く。

 

「それに…」

 

ミサトのこぼしたビールと、ジョッキのかいた汗で濡れたカウンターをおしぼりでサッとふき取りながら、リツコの口調に皮肉が乗る。

 

「誰かさんが、無茶なスケジュールを突然、ねじ込んで来たりしなければ、もう少し付き合いも良くなるんでしょうけど」

 

言って、先程よりもはっきりとした皮肉を視線に込めて、ミサトの横顔を刺すリツコ。

が……。

 

「ぷっはぁ〜〜〜〜っっ……んまい! もう一杯もらえる?

 ……あ、ごめぇん何か言った、リツコ?」

「………」

 

カウンターの下で、拳を握りしめてみる。

こめかみのあたりで、ぴくぴくと筋肉がケーレンしてたりもする。

 

ミサトには、まったく悪気はない。

ただ、間を外す天性の才能が、いかんなく発揮されているにすぎない。

だが、悪気がない分、始末に負えない。

 

脳裏に、今日までの激務やら、部下の愚痴やら、マヤの泣き言やらが、走馬燈のように走り過ぎる。

それらすべてを、熱い呼気一つに無理矢理封じ込めて、リツコは店主に顔を向けた。

 

「…奴(やっこ)と、じゃこサラダ、頂けるかしら」

 

口元が、やや引きつり気味ではあった。

注文を受けた店主の顔も、なぜか引きつっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

リツコは、早々に冷酒に切り替えていた。

 

彼女の嗜好からからいえば、日本酒よりはビール、ビールよりはウイスキーかブランデーといった順なのだが、ビールを水のように、かぱかぱと空けるミサトの横で、同じ物を飲むのが馬鹿ばかしくなったのかもしれない。

グラスに注がれた冷酒は、壁に掛けられた品書きの純米酒とか大吟醸のあとに固有名詞が付随しているだけあって、喉を滑り落ちていく感触は、それなりの満足感をもたらしてくれた。

そろそろ、アルコール混じりの呼気が熱く感じられてきているのだが、頭は冴えて、一向に酔う気配がない。 

 

こういう時に酔えないのは損な体質ねと、リツコは内心苦笑しつつ、グラスを傾ける。

 

「…でさぁ、アスカったら、シンジ君に一科目でも負けたのが悔しいらしくて…」

 

ほろ酔い気分でご機嫌なミサトが、両手で持ったジョッキを顔の前に掲げて、くっくっと笑う。

ネタにしているのは、チルドレンの中間テストでの成績だ。

 

「シンジ君て、そんなにできるの?」

 

リツコの疑問は、アスカがドイツで大学まで出ているという予備知識からすれば、当然のものだったろう。

ミサトは、片手をひらひらとさせて笑った。

 

「ううん、そういうわけじゃないのよ。アスカには、ほら、言語の壁ってやつがあるでしょ」

 

比喩的な表現だったが、リツコは納得した。

 

「なるほど。漢字、か。

 …さすがのアスカも、慣れるのに時間がかかるでしょうね」

「ふふっ。

 …あ、でもシンちゃん、国語とか文系は強いのよ、実際。

 うーん、その代わり、数学をはじめ、理系はちょっち伸び悩んでるかな。

 いずれにしても、授業を休みがちなのに、頑張っているわよ」

「………」

 

嬉々として、自らの被保護者を語るミサトの横顔を、リツコはじっと見つめた。

冷酒を一口あおる。

グラスの中の酒は、すっかりぬるくなっていた。

 

「…ミサト。 失職したら、学校の先生に転職したらどう」

 

突然、意外なことを言われて、きょとんとなるミサトだったが、次の瞬間、満更でもない顔でニマリと笑う。

 

「先生? 私が先生?……ふーん、意外といいかもねぇ。ふふふっ」

 

皮肉が通じず、リツコは拍子抜けする。

そして思わず、二日酔いで教壇に上がる「ミサト先生」の姿を想像してしまい、こめかみを押さえた。

 

「…やっぱり、それはやめて」

「?なんでよ」 

「教育上、良いとは思えないわ」

「…あによぉ、それ。どういう意味ぃ」

「自分の胸に手を当てて、日頃の行いを振り返ってみれば分かるんじゃなくて?」

「………」

 

ぐうの音も出ないミサトは、渋面を浮かべたまま、ジョッキを一気にあおった。 

空いた左手の指で、コツコツコツ…とテーブルを叩く。 

 

「………」

「………」

「…で?」

「…?」

「アスカはどうしたって」 

 

“おあずけ”を食っていた犬のように、待ってましたと、ミサトはニッカリ笑う。

 

「そうそう、そうなのよ! アスカったら、シンジ君に一科目でも負けたのが悔しいらしくてね」

 

その時のことを思い出したのか、くすくすと含み笑いが混じる。

 

「『なんで日本人は、あんな象形文字みたいなの使ってるのよ、信じらんない!』

 とか、さんっざん悪態ついた挙げ句、レイに漢字のレクチャー頼んだのよ、こっそりと」

「ふぅん…」

 

何がそんなに可笑しいのか、ミサトは、バンバンとテーブルを叩いて腹を震わせる。

 

「だってさぁ、想像すると可笑しくない?

 あのアスカが、レイにさぁ…ぅぷっ…漢字の書き方とか、教わってるわけよ。部屋でこそこそと。

 …漢字ドリルかなんか広げちゃってさぁ! …くっ…くっくっ…あーだめ、もうダメよ!」

 

声を震わせていたミサトは、ついに、ぶははははーっと吹き出した。

 

「………」

 

周りの迷惑も顧みず、爆笑を続けるミサトをよそに、リツコはグラスに残った酒を干した。

やがて、細波が引くように、ミサトの笑いも収まってきた。

どうやら、気が済んだらしい。それでも時たま、ひくっ、とケイレンを繰り返しているが。

頃合いを見計らって、リツコは話題を転じた。

 

「レイは最近、どう…?」

「ん?そうねぇ。 …総合的な成績では、シンジ君を上回るわね」

 

ちっとも話題が変わっていない。

リツコは微妙な表情を浮かべた。

 

「レイってさぁ、いわゆる記憶科目は凄いのよ。下手すると、アスカよりいいくらい。

 でもねぇ…国語の読解とか、主観の入り込む余地が生まれると、とたんに苦手になるみたい」

「………」

「頭はすごくいい子なのにね。どうしてかしら」

「さぁ…」

 

人には向き、不向きがあるという、リツコにしてはつまらない答えを聞きながら、ミサトは、ほとんど手をつけていない、ごぼうサラダを箸でつつき回した。

 

「レイってさぁ、時々、びっくりするようなこと、知らなかったりするのよねぇ」

「そう」

「かと思えば、ある分野については、驚くほど専門知識を持っていたりさぁ」

 

リツコの隣のカウンター席に、仕事帰りのサラリーマンと思える中年の男が腰を下ろす。

混み合ってくる時間帯なのか、店内の喧噪も増してきた。

何気なく、腕時計に目をやる。

ずいぶん飲んでいたような気がするが、まだ宵のうちにも入らない時間帯だ。

 

「レイってさぁ…

 ……どうして、あんなところに住んでたのかしら」

 

コト。

 

いつの間にか、ミサトが体ごと、こちらを見ていた。

自分と同じように、その顔からは、酒に酔った様子は特に感じられない。

 

「さぁ…どうしてかしら。

 保護者に聞けば分かるかもしれないわね」

「保護者は、あなたでしょ」

「…私じゃないわ。 レイの保護者は、司令よ。

 そして、今はあなた」

 

カラン。

どこかで、酎ハイの氷が溶ける音が、やけに大きく聞こえた。

 

「知っては、いたんでしょう」

「そうね」

「レイのことだけじゃないわ。シンジ君のことだって…」

「今日は…」

 

それ以上のミサトの言葉を遮るように、リツコは口を開いた。

 

「あの子たちのことばかりね」

 

「………」

 

ミサトは口を閉ざした。

 

「…やっぱり、あなた少し変わったわ。ミサト」

 

 

 

 

 

 

 

103

 

 

 

 

 

プシュッ。

 

「ただいまー」

 

シュッ。

 

………。

 

灯の消えた室内を見渡す。

返事は返ってこない。 

 

「そ、か……あの子たち、いないんだっけ」

 

ミサトはよいしょ、と玄関に腰を下ろすと、ブーツを脱いだ。

 

 

 

 

キッチンの電気を点け、冷蔵庫を開ける。 

 

「あら…」

 

シンジの字で、「ミサトさん、バランス良く食べてくださいね」と書かれたタッパーがいくつかあった。

 

「シンジ君ったら、いつの間に…」

 

今朝も昨夜も、そんな準備をしている時間はなかったはずだ。

昨日、ダブルエントリーのテストに行く前に準備していったに違いなかった。

一つを開けてみると、中には、日持ちのする野菜の煮付けや、がんもどきなどが入っている。

 

「………」

 

皿に載せて、電子レンジにかける。

冷蔵庫から缶ビールを取り出して、プシュッと栓を開けた。

 

「んっ…」

 

ごくっ、ごくっ、と半分くらいを胃に流し込んだところで…缶を傾けるのを止めた。

ふう…と息をついて、トンとテーブルに缶を置く。

あたりをなんとなく見回して、テーブルの端にあったTVのリモコンを手にする。

 

ピッ。

 

『…で、政府は法的整備も含め、対応を検討中ですが、与党内からも反発の声は多く…』

 

画面の中では、国営放送のニュースキャスターが、抑揚のない声で国会関係の原稿を読み上げている。

 

「………」

 

ピッ。

 

『…こちら商店街では、ジャンボなオムライスを出すというお店が話題を呼んで…』

 

ピッ。

 

『…結局、私たちはそういう運命だったのよ。はじめから、無理があったんだわ…』

 

ピッ。

 

『…だれがアホやっちゅうねん!‥‥ってお前もつっこまんかいっ…』

 

ピッ。

 

『…続いて、甲信越地方のお天気です。明日も今日と同じく湿度が高めで、暑い一日に…』

 

チーン。

 

電子レンジが、温めが終了した音を鳴らす。

 

中身を取り出し、テーブルについたミサトは、箸を手にしたまま手を軽く合わせた。

 

「いただきます」

 

もくもくもく…。

もくもくもく…。

………。

 

 

 

 

ジャー…

カチャ、カチャ…

ジャー…

キュッ、キュッ。

 

洗い物を終えたミサトは、布巾で手を拭きながら、壁の時計を見た。

午後11時を回ったところだ。

帰宅してから、まだ30分もたっていない。

 

「………」

 

カチ…カチ…カチ…

壁掛け時計の音が、規則正しく響く。

 

 

スラッ…。

 

電気の点いていないシンジの部屋は、シンとしていた。

出がけが慌ただしかったからだろう。 

寝乱れたのままのベッドの上のかけ布団を見て、ミサトはきちんと畳み直した。

 

「………」

 

家の中のあちこちが暗いのが気になって、電気を点けた。

 

アスカが泊まる時に使う部屋も、ダイニングも、洗面所も、玄関も…。

 

「クワッ」

 

ふと、ペンギンの鳴き声がした。

ミサトが振り返ると、ペンペンが廊下に顔を出している。

 

ぺたぺたぺたっ…

 

ミサトを見つけると、慌ただしく側に駆け寄ってきた。

 

「ペンペン……ただいま。ゴハン食べる?」

「クワァ〜…」

 

ペンペンは首をフリフリ、すらりとした脚にしがみついたまま、つぶらな瞳でミサトを見上げた。

抱き上げてくれと、せがんでいる。

 

「…よいしょ」

「クワ、クワワ♪」

「あんた、ちょっと重くなったわね」

「クワ?」

「フフ……」

 

首を傾げた拍子に揺れるペンペンのとさかを見つめながら、ミサトは小さく微笑んだ。

 

………。

………。

 

「…静かね。

 

 あの子たちがいないと」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

Episode-20「無知なるは罪」

Evolution


 

 

 

104

 

 

 

 

 

第三新東京市は、閉塞的な街である。

 

といっても、市外と市内の境界に鋼鉄の壁や門がそびえているわけでも、ごつい体格の警備員が常駐して、彼らに許可証を見せる必要があるわけでもない。

ただ、内外に温度差、というより明らかな認識の差異が認められることも、また事実である。

それはひとえに、NERVという非公開組織を内包するが故の、或いは、NERVという超法規的機関を隠蔽するためにこそ存在する都市としての性格だろう。

 

第二次遷都計画以降、「第三新東京市」の名で呼ばれるこの街だが、首都機能の大半は、第二東京に残されたままである。

市には評議会が置かれ、市民によって選出された市長が、市政を統括する。

表向きにはそういった体裁が整えられているが、事実上、運営が行われているのは、ジオフロントの奥に鎮座する3台のスーパーコンピューター、「MAGI」によってである。 

 

第三新東京市は、MAGIによって運営され、管理され、そして監視される。

情報、モノ、人に至るまで、その出入りは記録され、場合によっては検閲を受ける。

特に、情報に関する統制は際立っており、それは、使徒襲来といった重大な物から、市民の日常生活に至るまで徹底している。

 

たとえば、シンジたちチルドレンにしたところで、NERVを一歩出れば、ごく一般的な青春を自由に謳歌しているようにも見えるが、その生活は逐一記録され、数字化され、どうかすると、前日に食べた夕食の献立が、MAGIの電子脳の中を飛び交っている、といった具合だ。

その喩えは極論だとしても、「管理されている」という意味からすれば、おおむね誤った認識ではないのである。 

それは、運営する側にあるはずの評議会にしても例外ではなく、自身が形骸と化した組織の上で、ありもしない権力を振るっていることに、彼らは気付いていない。

そんな欺瞞に満ちているのが、第三新東京市である。  

 

「不思議な街ね…。ここは」

 

ルノーの窓越しに流れる都市の面影を望みながら、ミサトは呟いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦術作戦部作戦局第一課 ミサトの執務室

 

 

 

 

ミサトの目の前を数々の書類が流れていく。

 

むろん、ただ右から左へ流しているわけではなく、そのすべてに目が通され、チェックされ、承認印が押される。

そのスピードは決して遅くはなく、事務処理能力はマヤには及ばないものの、同じ作戦課の日向と比べても、決して遜色はない。

好き嫌いと能力に、必ずしも関係はないという好例だろう。

 

ただし、ミサトの場合、それ以前にやる気の問題がある。それはまさに、好き嫌いによって左右されるのである。

普段は、あまり役に立たないが、いざ有事となれば、類い希な直感と行動力を発揮する。

その意味で、彼女は「非常の人」といえるかもしれなかった。

 

対外関係のものは、いったん広報を通しているとはいえ、作戦部長ともなると、決済しなければならない書類の数は恐ろしい数にのぼる。

メールを初めとする電子的インターフェースが通信手段のほとんどを占めるようになった現在でも、書類ごとは紙媒体で、という通例には変化がない。

冬月あたりならば、

 

「資源の無駄遣いだな」

 

と言うところであろう。

ただでさえ整理整頓に無頓着な室内だが、デスク周りには、ちょっとした小山ができており、これとまともに付き合っていては、それだけで一日が終わりそうな勢いだった。

 

ミサトは、苦情・抗議の類は、情け容赦なくゴミ箱にブッ込みつつ、速やかに書類を処理していく。

 

「……よし、終わり」

「あっ、おつかれさまでした」

 

働く女性の真剣な顔っていいなぁ…などと、デスクの前でぼーっと見つめていた日向マコトは、あわてて上司がサインを終えた書類を取り上げ、手早くまとめた。

 

「それと…こちらに認め印をお願いします」

 

書類の一山を片づけて、伸びをしていたミサトは、やれやれという顔で、引き出しからしまったばかりのシャチハタを取り出す。

 

「セントラルドグマB棟工事? これ、あたしが押すの?」

「ええ、使徒が来なければ、すでに完成してなきゃいけない個所なんですが、なにぶん上の街の武装化が優先されてますからね。

 そこが最後らしいんですが、回覧の意味も兼ねて、各部長クラスにと」

「ふうん…」

 

作戦部にはあまり縁のなさそうな概要を斜め読みしながら、ミサトは最上部の担当者欄に認め印を押した。

この工事が、後にどのような意味を持つことになるのか、無論、彼女には知る術もない。

 

「はい、ありがとうございます。 …コーヒーでも入れましょうか」 

「あら、悪いわね。日向君をお茶くみなんかに使っちゃって」 

「いえ、なんてことないですよ! 任せてください、はっは」

 

必要以上に気張りながら、足早に出ていくマコトをミサトは、きょとんとした面もちで見送った。

 

ふと思い立って、ビール缶が乱舞するスクリーンセーバーが起動しっぱなしになっている端末に向かうと、イントラネットに入る。

レベル4閲覧権限の12桁のパスワードを入力し、E計画の項目を開く。

「TOP SECRET」のワーニングを横目で見ながら、ミサトは、着任時に丸暗記して以来、一度も開いた覚えのない資料に目を通し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

第7ケイジ

 

 

 

 

「あら、葛城さんじゃないですか」

 

書類を挟んだプラスチックボードを持って、あちこち走り回っていたマヤは、二重の拘束施設によって固定されている紫色の巨人の顔を見上げているミサトを見つけて声をかけた。

 

「あら、マヤちゃんこんにちは」

「どうしたんです。こんなところにいらっしゃるの、珍しいですね」

 

マヤは、プラスチックボードを胸の前で抱える。

無意識に胸元を隠すような仕草は、潔癖性の気のある彼女らしい。

こうした少女じみた仕草が、一部男性職員から、絶大な人気を得ているらしい。

 

「ちょっと、それじゃ私がまるで、いつも仕事してないみたいに聞こえるんだけどぉ」

「い、いえ、そんなわけでは…ハハ」

 

やぶにらみされて、マヤは首をすくめて視線を下方に向け、ミサトの視線から逃れる。

こうしたところは、黒髪にショートカットという容貌と相まって、シンジと似ていなくもない。

 

ミサトも、本気で気分を害しているわけではなく、ふうっと一息ついて、背後のエヴァを親指で差した。

 

「初号機の調子はどうなの?」

「あっ、はい」

 

あわててファイルをめくり出すマヤ。

 

「ええとですね。新しい装甲の換装はすでに終了しています。

 現在は生体部品との連動を含めた、駆動系の最終チェックを行っている段階です」

「システム周りはどう?」

「はい。

 もともとプラグ周辺に損傷はありませんから、アプリケーションに問題はありません。

 起動テストは昨日行って、多少問題は出ていますが、どれも末端のものなので」

「そう。 じゃあ、今使徒が来たとしても、実戦参加は可能ってことね?」

「ええと、最終的にはセンパイ…いえ、赤木博士の承認が必要ですから…」

「あなたの判断でいいから、聞かせてくれる」

 

ライトペンで、いくつかの項目をチェックしていたマヤは、頷いた。

 

「そうですね。 私がチェックしている分では、可能だと思います」

「そ。 ありがと、マヤちゃん。参考になったわ」

「いえ、どういたしまして…」

 

軽く頭を下げたマヤの目の高さに、ミサトの胸元があった。

その見事なプロポーションに、思わず見入ってしまうマヤ。

タイトなスカートから覗くすらりとした脚などは、同性ですら見とれてしまう。

 

はぁ…どうしたら、こんなにスタイル良くなれるのかしら。

 

普段、リツコの傍にいるだけに、自分の体形にコンプレックスすら感じているマヤである。

 

葛城さんって、ビールばっかり飲んでるって聞くけど…。

 

何やら、ウエストの辺りに妬みのこもった視線を感じて、ミサトは居心地が悪そうに体を揺すった。

 

「えっと、なに、どうかした?」

「あっ、いいいえ、なんでも…」

「?」

 

はっと我に返り、思わず浅ましさに赤面するマヤ。

 

「しかし、まあ…」

 

ミサトは、赤・黄・紫の三体の巨人が居並ぶ様を見やって、吐息した。

 

「これでようやく、エヴァ三機が揃うってわけね」

 

ケイジの出口に向かって歩き出すミサトの背を見送りながら、マヤはふと、背後を振り仰ぐ。

初号機の巨大な顔が、まっすぐ彼女を見下ろしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

C−3区画 第二射撃訓練施設

 

 

 

 

ドンッ、ドンッ、ドンッ…!

 

反響を抑えたつくりの射撃場内に、連続した銃声が上がる。

 

規定数を撃ち尽くした射手は、ブースごとに割り当てられた的に連動するスイッチを押した。

つり下げられた人型の的が前進し、射撃結果を明らかにする。

 

「いち、にぃ、さん、と……あちゃぁ」

 

ノーマルの標的についた弾痕を数えていた青葉シゲルは、命中個所の得点を計算して、天井を仰いだ。

 

「悪いな、シゲル。昼メシごちそうさま」

 

一方、ブースの横に備え付けられたディスプレイで確認していたマコトが、ぬははと笑う。

 

「ちぇ…仕方ないか」

 

長髪を片手でかき上げて、イヤーウィスパーを外しながら、シゲルはため息をついた。

お互い給料日前、台所事情はどっこいどっこいである。

超法規的機関だからといって、公務員である職員が高給取りだと思ったら、大間違いなのだ。

管理職クラスのミサトにしたところが、毎日の酒代や愛車のローンに汲々としているところからも、それは想像に難くないだろう。

金食い虫のエヴァを抱えるNERVにとって、最も割を食うのは人件費なのであった。

 

職員食堂のBランチとして……明日の昼飯はコーヒーだけだな、とほほ、とか肩を落としつつ、弾倉に弾の残っていないグロック26を再度構えるシゲル。

 

「しっかし、こんなもん実際、役に立つのかね」

「何がだ?」

 

イヤーウィスパーを首にかけたマコトが、シゲルのブースに入ってくる。

射撃姿勢をやめ、銃を持った肘を引いたシゲルは、振り返って同僚を見た。

 

「俺たちが相手にするのは使徒だ。 …豆鉄砲ほどの役にも立たないんじゃないか?」

「そりゃまあ…。でも、備えあれば憂いなしっていうだろ?」

 

同僚の前向きな発言に、マコトらしいと、わずかに肩をすくめる。

 

「これが役に立つって、どういう時かな。 …いつもの腹いせに、戦自が攻めてくるとかさぁ」

「お、おい、冗談でもそれはマズイぞ…」

 

ハハハッ、と笑って、シゲルはマコトの肩をポンと叩いた。

 

「ま。 ストレス解消にはなるよな?」

 

片目をつぶって見せる友人に、あきれたやつだなぁ…とマコトは片眉を上げた。

ストレス解消って、一体、標的に誰の顔を想像していたのやら。

 

ドンッ。

 

と、隣のブースから銃声がしたと思うと、五回連続して炸裂音が響いた。

 

「うわ…すげぇ」

「誰だろ」

 

命中確認のため前進した的には、全弾が、しかも中心部にほとんど誤差なく穴を空けている。

二つ頭を並べて、ひょいと隣を覗き込んだ2人に、黒髪の女性が気配を感じて振り向いた。

 

「あら、日向君に青葉君」

「葛城一尉でしたか…」

「葛城さん、どうも、お疲れさまです!」

 

素直に驚いているシゲルと、必要以上にでかい声のマコト。

まだ硝煙の漂う、愛用のヘッケラー&コックUSPを置いて、ミサトはクスッと笑った。

 

「葛城さん、すごくお上手なんですね」

「ん? ああ、これ? そんな大したことないわよ」

「いや、すごいッスよ。驚きました」

「昔、ちょっちしごかれただけなんだけど、ね」

 

あははー、とぎこちない笑顔を浮かべて、ミサトは頭をかいた。

ミサトは戦自の予備役から、NERVの前身であるゲヒルンに籍を移している。

同じ尉官の肩書きを持つとはいえ、年季が違うのは、いわば当たり前なのである。

 

「あの! もしよろしければ、レクチャーしていただけないでしょうか」

 

襟を正して直立姿勢のマコトに、ミサトは困ったような顔をした。

 

「んー……。 悪いんだけど、私、教えるのって得意じゃないのよねぇ」

 

感覚でやってる部分多いしぃ…と、ぽりぽり頭をかく。

マコトは、あからさまにがっくりした様子だったが、めげずに続ける。

 

「あ、じゃあこのあと、昼ご一緒にどうですか? シゲルのオゴリなんで」

「うおぇっ?!」

 

き、聞いてないぞ、オイっ、と顔を引きつらせるシゲル。

 

「あらっ、それはオイシイ…じゃなくて嬉しいけど、これからちょっち行くトコがあるから…。 ごめんね」

 

銃を懐にしまって、そそくさとブースを後にするミサトの背を見送って、マコトは今度こそ肩を落とした。

その横で、シゲルがホッと胸をなで下ろす。もう少しで、明日のコーヒー代までなくなるところだった。

 

「……あ。 ここのブース、誰が片づけるんだ?」

 

足下に散らばった薬莢や、投げ出されたままのイヤーウィスパーを見て、シゲルは呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジャー……。

 

「う〜……」

 

洗面台で手を濯いでいたミサトは、顔をしかめて、腰のあたりをトントン叩いた。

濡れ手のままだったので、滴がはねる。

 

同じ作業を幾度か繰り返して、ふと顔を上げたミサトは、目の前にある鏡の中の自分と目があった。

向こう側にあるしかめっ面を目にして、ミサトは慌てて口の端を持ち上げて、笑顔を作った。

両手の人差し指を頬に当てて、教育番組の歌のお姉さんのようなスマイル。

 

にっこり。

 

3秒間、そのまま固まったあと、ミサトは重ーいため息をついて、手洗いを再開した。

 

カチャ。

 

「あら…」

「あら、リツコ…」

 

ミサトは、顔を入り口の方に向けて、多少、ぎこちない笑顔を返した。

リツコはミサトを一瞥しただけで、隣の洗面台にやってくる。

昼食を食べたばかりなのか、ルージュが落ちていた。

持っていたポーチから口紅を取り出し、化粧を直し始めるリツコを何となく見つめるミサト。

 

「水、出しっぱなしよ」

「あ? あ、いっけない」

 

かなりの勢いで流れっぱなしになっていた水を、今気付いたかのように止める。 

 

「えーっと…あれ? あれ…」

 

ごそごそとポケットを探すが、目当てのものは見つからない。

 

「はい、ハンカチあるわよ」

「あ、あんがと」

 

素直にハンカチを受け取って、濡れた手を拭く。

 

「じゃ、お先に…」

 

ハンカチを返して、出ていこうとするミサトの背に、無造作にリツコが声をかける。

 

「……痛み止めも、あるわよ」

 

鏡に映ったミサトが、苦笑いを浮かべていた。 

 

「…やっぱ、わかる?」

 

頭をかきながら、ミサトはありがたく痛み止めをもらった。

 

 

 

 

 

 

105 

 

 

 

 

 

午後の発令所は、先日までの激務が嘘のように平穏に満ちていた。

 

昼食が済み、腹はくちく、使徒は来ない、仕事は片づき、おまけに司令と副司令はそろって外出。

となれば、放課後の学校の教室のごときけだるさが充満するのは、無理からぬことだろう。

 

久しぶりの定時上がりが確約されている職員が、アフター5の話題で盛り上がる。

マコトが漫画を手に笑いをこらえ、シゲルが見えないギターをかき鳴らせば、マヤは恋愛ものの小説を読んで瞳を潤ませる。

平和そのものの光景だった。

 

「そういえば、特殊装備はどうなってるの?」

 

業務用の不味い緑茶の入った湯飲みを傾けながら、コンソールの端に行儀悪く腰掛けたミサトは、片手にコーヒーカップ、片手にキーボードを相手にしているリツコを覗き込んだ。

 

「前々回は海中に落ちなかったからいいようなものの、前回も海戦仕様なら、もう少しマシな戦い方があったかもしれないわ」

 

リツコの目の前のディスプレイには、第七使徒戦のシミュレーション結果が表示されている。

 

「準備は進めているわ」

 

画面に重ねられた数式をざーっと流し終えて、リツコはキーボードを放り出した。

傍らに積み上げてある書類とデータカードの束を探る。

 

「耐圧・耐熱仕様の局地戦用D装備。 これが外形、こっちが主仕様書」

 

手渡された資料をめくったミサトは、描かれた三面図を見て、ゲッと唸った。

 

「……もうちょっと、デザインなんとかならなかったワケ?」

「予算も時間も限られた中で、無茶な注文に応えてるのよ、外見にまで気を回していられないわ」

 

ムッと、少なからず気を悪くしたように声のトーンが上がる。

もしかしたら、リツコ的には、会心のデザインだったのかもしれない。

 

アスカが見たら嫌がるだろうなぁ…と考えつつ、プロダクションモデルの弐号機をベースにした追加装備を詳細に検証する。

 

「今回は随分、熱心じゃない。 守護天使が勤勉に目覚めたのかしら」

「別に…使徒殲滅は、私の仕事ですもの」

「………」

「ただ、あの子たちには、せめて可能な限り、万全の体勢で戦いに臨ませたいのよ。

 ……なんとかして、なんていうのは、作戦指示じゃないもの」

 

資料に見入るミサトの姿を、リツコはカップを置いて見つめた。

その視線には気付かず、ページを繰っていたミサトは、「SG02−P」のナンバーを振られた追加武装の欄に目を留めた。

 

「ソニック・グレイブのバリエーションか…」

 

ソニック・グレイブとは、いわゆる竿状の武器で、先端に取り付けられた刃の部分が高周波振動を起こして対象を切り裂く。

形状は異なるが、原理はプログレッシブナイフと大した差はない。むろん、威力もそれにならう。

前回の第七使徒戦で初めて使用されたが、その性能には、過大な期待をかけられるものではないことが確認された。

 

「前に開発中だった、戦自高分子研のあれはどうなったの? 確か…アクティブソード、だったかしら」

 

リツコの表情にブラインドが下り、興味がなさそうに椅子を回す。

 

「…さあ。 あちらからは最近、全然連絡がないわ。 計画倒れになったのかもしれないわね」

「そういえば、最近ますます非協力的な感じですよね。 以前から、対抗意識みたいなものは感じましたけど…」

「………」

「………」

 

それまで蚊帳の外にいたマヤが話に加わった途端、会話が途切れてしまう。

 

「(わ、わたし何か、変なこと言ったかしら…)」

「あっ、そういえばマヤちゃん」

「はひっ?」

 

急にミサトが大きな声を出したので、気まずそうな顔で二人の顔色をうかがっていたマヤは、変な声を上げてしまう。

 

「今日、定時上がりよねぇ」

「え? ええ、そうですけど…」

「良かったら、たまにはウチでご飯食べない?」

「は?」

 

マヤが目を丸くしていると、ミサトは、

 

「そうだ、日向君と青葉君も、どお? ウチ来ない?」

「えっ?!」

 

いきなり、予想もしなかったお声がかかり、思わず立ち上がって振り返るマコト。

 

「俺たちですか? 今日は…」

「あ、もう予定入ってた? それなら、悪いわよね」

「ええ「喜んでお邪魔させて頂きます!!」」

「そう、じゃ決まりね」

 

「お、おい、今日はこの前見つけたバーに…」「シゲル、武士の情けだっ」…などと、何やらもめているが、それは放っておいて。

 

「リツコは? たまにはウチ来なさいよ」

「…今日は遠慮しておくわ。書類ごとが残っているし」

「えぇ〜…そうなのぉ。 マヤちゃんはどうする?」

「私ですか? そうですね…じゃあせっかくですから、お邪魔しようかな」

「よしっ、決まり!」

 

実は、前々からご相伴に預かりたいと思っていたマヤは、満更でもない。

一度帰って、着替えてからいこうかな…などと考えている彼女に、リツコがすいっと体を寄せる。

 

「マヤ…言っておくけど、シンジ君は今、沖縄よ」

「あ゛……っ」

 

ぼそりと呟いたリツコの一言に、ザーーーーッッ! ともの凄い音を立てて、マヤの顔から血の気が引く。

 

「ねえねえ、他にも空いてる人いれば、歓迎するわよん♪」

「「「「「「「「「「 いえっ、今日は目いっぱい予定がありますのでっっ 」」」」」」」」」」

 

見事なハモリを見せて、他の面々は、一斉に席を立ってザッザッザッ…と発令所を出ていく。

 

「そう、残念ねー」

「ああああの、わたしやっぱり…」

「…さぁて、じゃあ今日は腕によりをかけて、手料理をご馳走しちゃうわよん。 

 そうと決まれば、早めに帰って準備しとくから、後から三人で来てちょうだい。場所は分かるわよね?

 じゃねー♪」

 

満面の笑みを浮かべながら一方的に告げて、ミサトはひらひらと手を振りながら発令所を出ていった。

 

 

沈黙。

沈黙。

沈黙。

 

 

「…胃薬、用意していったほうがいいわね」

 

伸ばしかけた手のやり場もなく、固まっているマヤの肩をポンと叩いて、リツコは立ち上がった。

 

「飲む気力が残っていれば、だけど」

 

血も涙もないフォローを残して、赤木リツコ博士は白衣を翻した。

 

 

 

……あとには、「後悔先に立たず」という言葉を全身で体現している、哀れな三人だけが残された。

 

 

 

 

 

 

 

106

 

 

 

 

 

 

室内は明るく、この家の主夫によって掃除が行き届き、気持ちの良い空間を演出している。

TVからは、ゴールデンタイムのバラエティ番組が笑いを運び、ホームシステムが快適な風を送り出している。

キッチンからは、コトコトと鍋の煮込みの音が聞こえてくる。

 

居酒屋などでは決して味わえない、リラックスした、アットホームな雰囲気である。

 

しかし、ダイニングのガラステーブルを囲む、仕事帰りの私服に身を包んだ3人の表情は暗かった。

なぜなら、彼らは今まさに、人生最大のピンチを迎えていたからだ。

 

彼らの目の前のテーブルには、いくつもの皿が並べられ、コンビニで調達してきた数々のツマミやレトルトの類が、所狭しと並べられている。

だが、それらは開封されてからほとんど手が付けられておらず、中央に文字通り山になっている缶ビールも、各自に最初に行き渡った1つ以外は、減っていない。

 

これらはすべて、彼ら3人、つまりシゲル、マコト、マヤの三人が、終業時刻を告げる時報とともにジオフロントを飛び出し、着替える余裕もあればこそ、一目散に手近のコンビニで買い物かごに放り込み、コンフォート17に持ち寄ったものだった。

それは、この家の主、つまり今夜のディナーのホスト、葛城一尉に手料理を作らせない、もとい、お疲れの上司の手を煩わせないための心遣い(3人談)であった。

だがしかし、彼らのそんな目論見気配りも、チャイムの音とともに扉の向こうに立っていたエプロン姿のミサトが笑顔で繰り出した、

 

「あら、早かったわねー♪ もうすぐできるから、上がって待っててちょうだい」

 

の一言に、もろくも崩れ去ったのであった。

かくして、彼らの表情は、絶望に沈むことになる。 …憧れの女性のエプロン姿に心ときめかせている、約一名を除いて。

 

葛城邸に足を踏み入れた瞬間から、彼らの嗅覚は、香ばしくも刺激的な香辛料の匂いをとらえていた。

この時、この場所でなければ、空腹と相乗効果を呼ぶ、なんとかぐわしい香りであることか。

そう、それは確かに、インドの代表料理、子供の好きなものの定番…カレーだ。

 

「私の得意料理よん♪」

 

と、ミサトが言っていたので、間違いない

彼らにとっては、間違いであってほしかったのだが。

 

 

NERV内には、いつの頃からか、ある噂がまことしやかに流れていた。

 

曰く、葛城一尉の料理は、すごいらしい。 特にカレーは格別…。

 

初めは、何がすごいのか、どうすごいのかについては言及されていなかった。

ある時、一つの怪情報が流れた。

 

曰く、葛城一尉のカレーを食べた者が、病院に担ぎ込まれた。

 

馬鹿馬鹿しいと、一笑に付された。

なぜなら、肝心の入院した者、というのが確認できなかったからだ。

 

それ以来、噂の真相について確かな情報がないまま、その話だけが、尾鰭をつけて広がっていった。

 

曰く、葛城一尉のカレーは、鍋をも溶かす。

曰く、葛城一尉のカレーは、命を吹き込まれ、不定形生物となって下水をさまよう。

曰く、第七使徒の敗因はずばり、葛城一尉のカレーの匂いをかいだため。

 

等々…。

もはや、完全に笑い話のレベルである。

 

しかし。

 

たまたまその噂を聞いたサードチルドレン、碇シンジが、顔を引きつらせて言葉を濁したことから、状況は一変する。

あの、シンジ君が…。

そんな声があちらこちらで起こった。

何しろ彼は、葛城一尉の同居人。しかも、彼の料理の腕は誰もが一目を置くほどのもの。

その彼をして、闇に恐怖せしめるとは…。

 

やがて、彼女と親しい人物からの反応が伝わった。

赤木リツコ博士は、沈痛な面もちでしきりに首を振り、あの加持リョウジ一尉ですら、「急に用事を思い出した」と後ずさったという。

 

…笑い話は、恐怖譚へと変わった。

以後、ミサトの耳に触れることを恐れたように、この噂は、闇に滅せられた。

 

………。

 

 

 

キッチンからは、相変わらず香ばしい香りが漂ってくる。

それはとても食欲をそそる、いい匂いだ。

 

だが、むしろそれが彼ら3人の不安をあおり立てるのである。

 

「な、なぁ…もしかしたら、やっぱり噂なんかうそっぱちなんじゃないかなぁ」

 

シゲルが言い出した。 もちろん、キッチンに立つミサトには聞こえないよう、小声でだ。

 

「そ、そうだよな!シゲルもそう思うだろ。だって、こんなにいい匂いなんだぜ、そんなわけないって」

 

エプロン姿に男心をくすぐられまくり、すでに玉砕を覚悟していたマコトも、やはり心の中に渦巻く不安は隠せないらしい。

希望の光を見出したような同僚の発言に、我も続かんとばかりに同意する。

 

「だよなー! 俺は最初から馬鹿馬鹿しいと思ってたんだよ」

「そうそう、鍋が溶けるって、どんな料理だよ、それ…ハハハッ」

「でも……じゃあどうして、シンジ君まで言葉を濁すのかしら」

「…………………………」

「…………………………」

「…………………………」

 

マヤの鋭いツッコミが、再び、その場をお通夜へと変えた。

 

カチ…カチ…カチ…。

 

時計の音が、静かに刻まれる。

 

キッチンでは、いつもはシンジが付けているグリーンのエプロンをしたミサトが、楽しげに鼻歌を歌いながら鍋をかき混ぜている。

普段、職場では決して見ることのできないポニーテールに結った長い髪が、ふりふりと揺れている。

それは、マコトのように彼女に特別な思いを寄せているわけでもないシゲルにも、ある種の感動を与えてくれた。

やはり男性にとって、女性がエプロンをしてキッチンで立ち働く後ろ姿というのは、格別な思い入れがあるものらしい。

 

シゲルは思った。

 

 

逃げるなら今だ。

 

 

「あっ、俺ちょっと…」

 

腰を浮かした彼は、最後まで言い終わることができなかった。

凄まじい形相の2人が、見事な連携を見せて、彼を両側から押さえ込んだからだ。

 

「なっ、なにすんだ、おいっ、離せよマコト」

「シゲルっ、この期に及んで、逃げようったってそうはいかないぞ!」

「そうですっ。苦しみはみんなで分かち合いましょう!」

「いやだ! 俺は本当なら今ごろ、この前偶然見つけたバーで、あの若いママと…マコト!お前のせいだぞっ」

 

「あらん、にぎやかねー♪」

 

ピシッ。

 

三人の動きが、ピタリと止まった。

額に汗をかいたミサトが、まだぐつぐつと音を立てる鍋を手に、そこに立っていた。

 

ギ、ギ、ギ、ギ……

 

3人は、まったく同じ動作で、石像のような音を立てて振り向き、

シゲルは、この場から逃亡する唯一の機会が失われたことを知った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今、マヤの目の前には、輝く白いご飯の上にかけられた、ブラウンのペーストが、ほかほかと湯気を立てていた。

ミサトの視界の外で行われた、熾烈極まるジャンケン(15回連続あいこ)の末、最初にスプーンをつける大役を預かったのだ。 

 

 

(ここから先は、零号機のテーマを聞きながらお楽しみ下さい)

 

ごくり。

 

のどが鳴る。

それは、食物を目の前にした空腹のなせる業なのか。

見た目は普通、そう、ふつーだ。 むしろ、おいしそうですらある。香りも良い。

…なのに感じる、この威圧感は何か。

 

ごくり。

 

再び、のどが鳴った。

 

傍らのスプーンに手を伸ばす。

ぴかぴかに磨かれており、自分の顔が映っている。

 

もう一度、皿に盛られた料理を見る。

 

一瞬、このまま、「あいたたた…いきなりお腹の調子が」と、トイレに駆け込むのはありかな…という考えが頭を過ぎる。

 

チラリ…。

 

テーブルに両肘をつき、その上に顎を乗せたミサトの期待に満ちた満面の笑顔があった。

 

ダメなんですね…もう。

 

マヤは、心中で涙を流しながら、覚悟を決めた。

バッグの中に、胃薬の準備は万端だ。

 

「では……いただきます」

「はい、どうぞ♪」

 

にっこにこ顔のミサトは、いつもシンジがそうするように、返事をした。

 

とろとろ…。

 

ライスにルーをまぶす。

 

もさっ。

 

スプーンを挿入。

 

上昇。 開口。

 

 

「ごくり…」

 

固唾を呑んで見守るシゲルとマコト。

 

 

投入。

 

咀嚼。

咀嚼。

 

 

「…………んっ?!」

 

かっ、とマヤの大きな瞳が見開かれた。

 

「お、おい、大丈夫かマヤちゃんっ」

「い、今ならまだ間に合うぞ?!」

↑洗面器を構えるシゲル

 

「……おいしい」

「「へ?」」

「おいしいですよ、これ。葛城さん」

 

一口目を嚥下したマヤが、生きる喜びを噛みしめつつ、ミサトを見る。

 

「へへぇん、まっかせてよ!」

 

きししと、白い歯を見せて、会心のVサインを突き出すミサト。

 

早速、二口目を運ぶマヤを茫然と眺めて、男2人は自分たちの過ちを認めた。

大いなる安堵とともに。

 

2人は、同時に燦然と輝くスプーンを差し入れた。

 

「おおっ、ホントだ、美味い!美味いですよ葛城さん」

「んん、マジでいけます、このハヤシライス!」

 

ルーをスプーンにこびりつかせたまま、思わずサムアップ・サインをしてみせる青葉。

だが、ミサトはきょとん、とした顔をした。

 

「ハヤシライス?……やあねぇ、何言ってんのよ、青葉君」

「は?」

「これは、カレーよ。カ・レー」

 

カレー。

 

3人の頭の中で、耳慣れたその単語が、ぐるぐると回り出す。

 

 

 

カレー……?

 

では、なぜこんなデミグラスソースっぽい色をしているのか。

トマトが効いているような、こんなにすっぱいような味がするのは何故なのか。

是非ともそのわけが知りたかったが、とても恐くて聞けない3人だった。

 

 

 

 

 

 

107

 

 

 

 

 

「あによそれぇ、ひっどーい」

 

自身の噂について聞きだしたミサトは、そう言って苦笑したが、別に怒りはしなかった。

シゲルが、ギターもないのにパントマイムでアカペラを歌わされ、その間に残った2人が次々にお酌する、という作戦が功を奏したのかもしれない。

 

宴もたけなわ。

 

ミサトのカレーが、とりあえず食べられるものであったことが分かったため、安心した一堂は、一気に宴会モードに突入した。

 

ミサトは、いつものごとく空き缶の山を築き、マコトはその隣で満足そうに杯を干す。

シゲルも満更でもない顔でグラスを傾け、マヤの頬も、ほんのりと桜色に染まりつつあった。

 

そして、ほどよく酔いが回ってくると、場はミサトの一人無礼講の様相を呈し始める。

 

ロンゲが鬱陶しいから切りなさいと、シゲルに迫ってみたり。

無防備な格好であぐらをかいて、マコトに鼻血を吹かせてみたり。

好きな人はいるのかと、セクハラおやぢのような質問をマヤに浴びせかけてみたり…。

 

こうなると、もはや酔っぱらい以外の何者でもない。

雲行きが怪しくなってきたと見るや、そそくさと時計を見て、帰り支度を始めるマヤ。

 

「そ、そろそろ私、帰ります」

「やだぁー、マヤちゃん、怒んないでよぉ。軽いジョークじゃなぁい…

 そうじゃなくてさぁ、マヤちゃんに聞きたいことがあるのよぉ」

「な、なんなんですか、もぉ」

 

 

「ねえ」

 

ふと…ミサトの声のトーンが、急に変わった。

 

「マヤちゃん……

 あなた、どこまで知ってるの」

 

「えっ……」

 

つ…と上げた目が合った時、マヤは、ミサトの真剣な瞳に気圧された。

突然のことで、何を言われたのかよく分からない。

 

「知ってるって…なにをです…?」

「………」

 

ミサトは、頭の後ろに手をやると、ポニーテールにしていた髪をばさっと解いた。

いつも見慣れた、葛城一尉がそこにいる。

酔いの影は、どこにもなかった。

 

「技術部は、いえ……

 リツコはたぶん、作戦部のあたしですら知らないことを…知っている気がする」

 

「どうしたんですか、葛城さん。 いきなり…」

 

マコトの声は、途中から小さくなり、消えた。

上司の横顔が、とても冗談を言っている顔ではなかったからだ。

シゲルは、片膝を立てた姿勢のまま、動けなかった。

 

「マヤちゃん、あなたは…どうなの」

「わ、わたし…?」

 

むろん、そんな状況で、マヤに落ち着いた返答などできるわけもない。

脅かしすぎたことを悟ったミサトは、水を一口あおって、口調を改めた。

 

「使徒が何故この街へ来るのか、考えたことある?」

 

聞かれた3人は、しばしその言葉の意味を咀嚼し、そして、答えることのできない自分を発見して愕然となった。

 

その事実を考える上で欠かせないのは、使徒は何者であるかということだ。

答えは「601」。解析不能を示すコード。

理解不能な敵が、理解不能な目的のため攻めてくる。

 

あたりまえ以前の疑問が、慌ただしい非日常に取って代わられ、目の前の仕事を消化することにすり替えられていく。

実際、悠長に敵の目的などに思考をめぐらせている余裕はない。

倒さなければ、滅ぶのは人類の方なのだから。

彼らは組織の一員であり、戦う理由やその意義は、もっと上の人物が知っている、考えてくれる。

それは、トップシークレットとして秘匿され、余人の知るところではない。

そう漫然と考えていた。

 

むしろ、そうした理由を、使徒迎撃の専任者であるミサトですら知らないという事実に、彼らは驚きを隠せなかった。

 

では、副司令や司令ならば分かっているのだろうか、国連のお偉方ならば、

或いは、ミサトの言うようにリツコならば…。

 

マヤは完全に混乱していた。

もともと、数式を相手にしたデジタルな思考は得意でも、こんなことを考えるのは慣れていない。

葛城一尉はどこまで知っていて、私が何を知っていることを知りたいのだろう。

分からない…。

 

その表情を見て、ミサトは、現時点でマヤが自分と大差ない知識しか与えられていないと看破した。

少し落胆したが、安心もした。

 

ミサトは、使徒殲滅に関して、一つ懐疑的なものを抱いている。

それは、彼女の「復讐」という行動原理からすれば、矛盾するものであるかもしれない。

それは、使徒が人類に対し、真実、脅威であるのかどうかということであった。

 

現在までに確認・殲滅している使徒の数は5つ。

使徒によるこれまでに被った被害総額は、まさに天文学的数字にのぼるだろう。

 

…だが、人的被害についてはどうなのか。

確かに、使徒の襲来によって犠牲となった人間の数は少なくない。

しかし、それは使徒の侵攻を迎撃しようとした者、あるいは使徒の進路上に存在した者、に限られるのである。

使徒は発見から殲滅まで、その行動は一貫している。

ただ、侵攻してくるだけだ。

一点。

第三新東京市を目指して。

 

これまでの例外を挙げるならば、第六使徒がそれにあたるが、その場合も、進路上にたまたま太平洋艦隊が存在したという可能性も考えられる。

もしも、海上での殲滅に失敗した場合、第三新東京市を目指した可能性は十分、考えられる。

 

では、なぜ。

使徒はここ、つまり、第三新東京市を目指してくるのであろうか。

 

これまでは、ただ漠然と、第3新東京市、ジオフロントにある何か。たとえば、エヴァを狙ってくるのだろうと思っていた。

弐号機をネルフ本部に配備したことも、戦力集中の論理からすればうなずけた。

だが、こうまで一カ所を狙ってくるのはなぜなのか?

その理由は一つ。

サードインパクトを起こす要因が、ジオフロントにはあるということだ。

 

箱根の地下に広がる謎の空間。

そこには、一体なにが眠っているのか。

 

すべては、隠蔽されている。

それが、誰の意図によってかは知らないが…。

 

「私たちは、何も知らない

 使徒しかり、ジオフロントしかり、エヴァしかり…そして、ネルフしかり」

 

ミサトはそう結んだ。

誰も反論できなかった。

彼女の言葉には、ゲンドウや冬月に対する、強烈な皮肉が含まれていた。

うかつに返事をすることがためらわれた。

 

これまでのミサトの行動原理は復讐であり、それは今なお、心のどこかでくすぶり続けている。

そう簡単に克服できるものなら、失語症と闘った数年間は、もっと短くてすんだことだろう。

だが、今はシンジがいる。レイがいる。アスカがいる。

 

「真実は、私たちの見えないところにあるのよ。たぶんね…」

 

この場合、無知は罪だ。

自分はまだいい。

自ら望んで、今の地位に就いたのだ。

だが、子供たちは違う。

何も知らないまま、何も分からないまま、彼らを戦場に駆り立てることは、罪だ。

 

自分は知るべきだと思った。

 

 

 

「あはは、ごめんなさいね。

 ……今日は酔っているみたい。

 できたら、今言ったことは忘れてくれるとありがたいわ」

 

そう言って、ミサトは何事もなかったかのように笑った。

 

 

 

 

 

 

 

108 

 

 

 

 

 

 

バスを降りて、夜道を一人歩きながら、マヤは先ほどのミサトの言葉を反芻させていた。

 

マヤの脳裏に、リツコの顔が浮かんだ。

何か問題があるとき、マヤは必ず先輩である彼女に相談するようにしてきた。

だが…。

 

『技術部は、いえ……

 リツコはたぶん、作戦部のあたしですら知らないことを…知っている気がする』

 

マヤの中で、ミサトの言葉が渦巻いていた。

 

彼女には、一つ心当たりがあったからだ。

以前から、計画の存在だけは知っていたが、その概要を先日、聞かされたのだ。

 

ダミーシステム。

 

ヒトのクローンを使った、「生きたプラグ」によるコントロールシステム。

クローンとはいえ、それは生身の人間と変わりがない。

その事実をトップシークレット扱いで知らされた時、背中におぞけが走った。

およそ、非人間的な計画ではないか。

 

まだ、計画段階だが、いずれ必要になる。

マヤの尊敬する「先輩」は、透徹とした表情で、そう告げた。

とても平静ではいられなかった。

 

マヤは、ぞくりと体を震わせた。

不意に、自分が平和とはほど遠い組織の中に身を置いていることを自覚した。

 

「(センパイに話すのはやめよう。…ううん、誰にも話さない方がいい。きっと…)」

 

もしも、そのクローンがレイの「かたち」をしており、すでに彼女らを使った実験が進められていることを知ったならば、マヤは人格崩壊を起こしたかも知れない。

 

急に外気が冷たくなったように感じて、マヤは自分で自分の体を抱きしめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「麻痺しちまってたかもしれないな…いつの間にか」

「…何がだ?」

「俺たちの仕事が、フツーじゃないってことにさ」

 

眼鏡の奥のうそ寒そうな表情をしかめっ面に変えるマコトの顔を横目で確認して、シゲルは星辰瞬く夜空をなんとなく見上げた。

それは、後ろめたさに対する、彼なりの反応だった。

シゲルは恐らく、マコトよりも多くのことを知っていた。

 

彼が、冬月付きのオペレーターであることには、それなりの意味がある。

中央司令室の通信・情報分析を統括する立場にある彼には、緊急事態に対応する知識が必要不可欠となる。

使徒戦に関連するものは当然としても、NERV内部のネットワークに外部からの攻撃・侵入を受けた場合の対処、本部施設に対する直接攻撃、占拠、あるいは自発的放棄を想定した機密データの抹消、等々…。

そうした過程で、知りたくもない情報に触れることもある。

だが、それが何を意味するのかまでは、知らされることはない。

いわば、彼に課せられた役目は「トリガー」であり、それがどういう結果を産むかは分からないのである。

 

シゲルが情報課勤務時代に、冬月の目に止まったのは、物事にあまり動じないその性格を買われてのことだろうが、知りたくもないことを知らされ、知りたいことは何一つ知らされないことに対する鬱屈、あるいはもどかしさは、識域下の部分でくすぶり続けていたのかもしれない。

ミサトの言葉は、彼にそれを自覚させるに足るものだった。

 

「…どうするんだ」

 

暗然とした口調で、マコトが言った。

何を『どうする』のかは分からなかったが、友人の不安さだけは伝わってくる。

シゲルは意識的に軽い口調で答えていた。

 

「どうするって、何が」

「……これから、俺たちがだよ」

「別に…」

 

気の抜けたような反応に、マコトは真剣な話を茶化されたような不快さで、シゲルを見た。

 

「今日、俺たちは、葛城さんにメシをごちそうになった。 それだけだろ」

 

笑いの形に歪められた口元に、シゲルの真摯さが宿っていた。

マコトは一瞬、あぜんとなり、そしてシゲルが何を言いたいのか理解した。

 

「ああ…そうだな。 うん、そうだ」

 

自分を納得させるように頷くと、マコトはもう、普段とあまり変わりなかった。

シゲルは、彼には気付かれないように、小さくため息をついた。

 

葛城一尉が、自分たち三人を選んで、わざわざあんな話をしたことには意味があるのだろう。

下手をすれば、自分の身が危うくなりかねない行為だ。

マコトは、それを信頼の証と単純に割り切ったようだが、シゲルはそれほどお人好しにはなれなかった。

 

彼女は、俺たちにカマをかけた、あるいは牽制したのかもしれない。

これから自分が動く際の味方と、そして敵を見極めるために。

 

「買いかぶりだよなぁ…」

「?何か言ったか」

「あ、いや、別に」

 

思わず漏れてしまった呟きに、シゲルは苦笑して手を振った。

 

やれやれ、とんでもない人に見込まれちまったなぁ…などと考えながら。

そして、彼女と同居している子供たちを心から尊敬した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宴が終わって、3人が帰路に着くと、家の中は急に静かになった。

ペンペンを胸に抱いたミサトは、ベランダで星空を眺めていた。

普段は心地よく感じる夜風も、今日はざらついた感触しか残していかない。

 

「まだ2日目かぁ…」

 

それが、自分の身体に関することか、それともシンジたちが修学旅行に出発してからのことなのか、曖昧だった。

 

夕食時に、ちゃっかり寝床である冷蔵庫の中でタヌキ寝入りをしていたペンペンは、腕の中で、マコトたちが買ってきたビーフジャーキーをパクついている。

彼(?)ののんきな顔を見ていても、空虚な気持ちは晴れなかった。

 

「ごめんね、ペンペン…」

「クワァ?」

「……あなたがいるのにね」

 

 

プルルルル……

 

 

遠くで、電話の呼び出し音が鳴っていた。

 

面倒くさそうに室内を振り返ったミサトは、一瞬、居留守を使おうかと不謹慎なことを考えた。

どうせ、こんな時間にかかってくる電話に、ロクな用件はないのだ。

 

 

プルルルル……

 

 

「はいはい…」

 

仕方なくため息をついて、ミサトはスリッパを脱いで部屋の中に戻った。

 

 

プルルルル……カチャ。

 

「はい、葛城です…」

 

電話が遠いのか、すぐには返答は返ってこなかった。

無言電話かと、受話器を握り直したミサトは、ノイズの中に、耳慣れた声を聞いた。

 

『......ミサトさん』

 

「レイ……?」

 

たった2日しか離れていないのに、レイの声は懐かしかった。

レイが、自分から電話をかけてきた事実に驚いていた。

 

「どうしたの? 今どこ? 元気なの?

 …うん…そう、ホテルの中なのね。

 ご飯ちゃんと食べた? …そう、シンジ君が。フフッ、それは見たかったわね」

 

なぜだか、熱いものがこみ上げた。

罪悪感と、切なさと、愛情と、喜びがない交ぜになって、なんだかよく分からないままに、ミサトは声を詰まらせていた。

 

『ミサトさん......?』

「ううん、なんでもないの。…ごめんね。

 うん……うん……。そう……よかったわね、レイ。

 それから…? うん…」

 

………。

………。

 

『レイ……電話…てんの…あんた…めずらしい……』

『....ええ』

『え? ミサト?』

『.........』

『どうせまた、酔っぱらってんでしょ』

『そんなこと......ない』

『どーだか。…ちょっと貸してみなさいよ。

 あ、もしもし、ミサトぉ? あんた、私たちがいないからって、飲み過ぎんじゃないわよ。

 だいたいミサトってさぁ…って、ちょっと、なにすんのよ、レイ』

『...代わって』 

『私が今…話して…』

『先に割り込ん......きたのは、あなた......』

 

「………」

 

ミサトは、聞いていた。 彼女の被保護者である、少女たちの、声を。

 

 

 

ミサトの左腕に抱かれていたペンペンは、不意に何かが頭の上に落ちた感触に、くちばしを上げた。

そして、不思議そうに目を瞬かせた。

 

部屋の中なのに、なぜ雨が降るのだろう、と。

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 


 

■次回予告 

 

 

シンジたちの修学旅行も3日目。

最後の一日を満喫するチルドレン。

 

一方、国連軍の新嘉手納基地見学に訪れた子供たちに同行した加持は、

今回の旅行の真の目的を果たすべく、一人の人物と接触する。

 

そして、ジオフロントに、闇が落ちた…。

 

 

次回、新世紀エヴァンゲリオンH Episode-21「小夜啼鳥」。

 

 

Lead to NEXT Episode...

Back to Before Episode...

 


 ご意見・ご感想はこちらまで

(updete 2002/08/17)