1.恋愛ゲームに関するアンケート6
恋愛ゲーム学第1講から4年。その間に、いくつもの恋愛ゲームが世に出た。恋愛ゲーム黎明期から変化したもの。そして今も変わらないもの。恋愛ゲームには何が求められていたのか。そしてつまるところ、恋愛ゲームとは何だったのか。第8講、第9講、そして最終講と3講をかけてゆっくりと歩みを進めることにしよう。夢も希望もない、最後の真実に向けて。
まずは過去に当サイトで採らせて頂いた恋愛ゲームアンケート6(※1)を切り口として見ていきたい。
問、恋愛ゲームは様々な周辺のサブカルチャー等との関連が強い訳ですが、あなたは恋愛ゲームを何の延長として捉えていますか?
有効回答数: 408
1.アニメの延長として捉えている | |
2.漫画の延長として捉えている | |
3.小説の延長として捉えている | |
4.声優メディアの延長として捉えている | |
5.一般のアドベンチャーゲームやシミュレーションゲームの延長として捉えている | |
6.18禁に代表される美少女ゲームの延長として捉えている | |
7.恋愛の延長として捉えている | |
8.その他 | |
その他のご意見としては以下のようなものがあった。
- 現実での恋愛では浮気できねーから暇つぶしにやってみる事が多い。よって答えは「うわき」。
- 恋愛ゲームにもいろいろあるので一概には言えない。
- 「恋愛」と「ゲーム」で一つの独立したカルチャーだと思うでも強いて言うなら6が強いかな。
- わかりません。
- ゲームブックが一番近いですかね。
- 演劇の延長。
- 4と7以外すべて。4に当てはまる作品はたぶんクソゲーだろうし、7は間違ってもありえない。
- シュチュエーションを目的とした、テキストの快楽を求める。一種の言葉遊び。
- 恋愛ゲームは架空の自分をつくってプレーしている。だから、何かの延長ではない。ただ、美少女ゲームの延長とは言えるかもしれない。
選択肢を見ると「映画の延長」というものがないのに気づくが質問作成者(自分)の恣意的な取捨選択が伺えるかもしれない。また今の恋愛系ゲームや美少女ゲームにおける音楽の注目度を鑑みると「音楽CDの延長」のようなジョークも冗談ではなくなるだろうか。
それはさておき、これが1998年後半――すなわち主に「ONE」が世に出た後の時期だ――に実施されたアンケートであるという事情は考慮に入れる必要があるだろう。一覧して「5.ビデオゲーム」「6.美少女ゲーム」の容易に予想される回答に続いて「3.小説」が14.7%という割合で集まっていることに目が行く。これを多いと見るか少ないと見るかだが、常識的に考えるとかなり多いと言うべきだろう。恋愛系ゲームは未だに形式の上では(本当にあくまで形式の上では、になって来ているものもあるが)ビデオゲームあるいは美少女ゲームなのには変わりない。その中で恋愛ゲームと外見上その形をとるものにおいて「読める(ここではその深い意味合いについては横に置いておく)」テキストに対する関心が高まり始めたことの現れであると言ってよいだろう。
「7.恋愛の延長」の8.6%はどうだろうか。順位の上でも「4.小説」の次だ。むしろ小説よりもこちらの割合の多さの方に驚きを覚えるかもしれない。これまで恋愛ゲームに対して「オルタナティヴな」、つまり「もうひとつの」そしてより示唆的な「どちらかを選ぶべきの」という表現を用いてきたが、「恋愛の延長」と言うまでは踏み込んでいない。彼らは恋愛に対してかなり新しい考え方を持っていると言えそうだ。もっとも「恋愛の延長」という表現が曖昧でもあり、現代人にとってやはり恋愛が大きな関心事であり、その恋愛を表現するひとつの表現形式であるという意味では全くもってもっともだし、一方恋愛ゲームが恋愛そのものになり得るか(ここに至っては恋愛と恋愛ゲームとどちらがどちらの延長であるのかという話にもなる)という問いについては最終講(一部第9講)で扱う予定になっているのでここでは簡単に押さえるに留める。
しかし、ここでは逆にその容易に予想される回答である「5.ビデオゲーム」「6.美少女ゲーム」が合わせて55.6%と半数を超えていることに着目したい。ビデオゲーム、美少女ゲーム、そして恋愛ゲーム。ここで共通する言葉――それは「ゲーム」だ。彼らにとって、恋愛ゲームは依然としてゲームなのだ。なるほど、先にすでにゲームといっても形式上でしかなくなっているということを書いたばかりだ。だがもしその形式が何らかの重要な意味を持っていたとしたらどうだろうか。
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恋愛ゲームはRPGやAVGなどの延長線上にある。RPG自体がそれまでのコンピューターゲームの概念に物語(小説)を読ませることを組み込んだものだと思うのだけど、その延長にあるのではないかと 物語の舞台とテーマがかわっただけといえなくもないわけで。
恋愛は他者との真剣勝負だ。パーソナルな分だけ仕事などの関係におけるそれよりもしばしば真剣だろう。西村清和氏の言葉を借りれば「遊び」の関係様式に対して「企て」の一つである。「恋愛はファッションだ」と遊び感覚でできる人もいるだろうがそれはかなり器用な人だしそれにしても少なくともその一瞬一瞬においては真剣な企てとして対応しているはずだ。(ある意味では、既に成立したカップルは遊びの関係様式にも従う。しかし、(例えば異性愛では)男性はより理想的な女性をと思い、女性はより理想的な男性をと思う、そのベクトルの向きは必ずしも一致しない…。)
同じく氏の言葉を借りると、人は幼い頃からの経験によってこの企てと遊びの切り替えを察知するメタコミュニケーション能力を獲得するという。しかし現代日本の社会状況、より原初的な社会である家庭状況では(つまりほとんどは親は)どれだけこのメタコミュニケーション能力を育てることができているのだろうか。更に、恋愛ゲームを遊んでいる人と遊んでいない人の平均でどちらがこの能力が高いかと言えば恐らくご想像の通りだろう。この能力が未熟なまま他者と対峙することを要求されるようになっても、メタコミュニケーションに混乱が生じ、どう対応していいか分からないということになる。よく言われるようなコミュニケーション能力以前の問題なのだ(と言うよりはこのメタコミュニケーションを含んだ形で言われていると言うべきか)。
恋愛ゲームが「ゲーム」であること。例えそれが形式上のものであったとしても十分であるだけでなくその形式にこそ意味があることはもう明白だろう。いわゆるゲーム性うんぬんはもはやここではどうでもよく(もちろん拘る人もいるが、恋愛ゲームにおいてはそれ程多くはないようだ)、遊びであるということが明確に保証されていること、企てと遊びの切り替えに悩まなくてもすむこと、それこそが肝要だったのだ。しかもそれだけではない。すでに指摘されているように、恋愛ゲームのプレーヤはヒロインを見ることができるが、ヒロインはプレーヤを見ることができない。恋愛ゲームは常に一方向であり「見られる」ことを意識しないため実は「遊び」の駆け引きにおいて必要とされるメタコミュニケーション能力すら必須ではなくなっている。これは恋愛ゲームの重要な要素である(もしかすると歪曲された)「安心感」の大きな根拠の1つと言えるだろう。
- すべての恋愛ゲームが小説に類似するものとして、「読む」対象とすることができるかといわれると苦しいものがあると思います。特にパラメータがものをいう育成タイプのものは、イベントが細切れであるため、秀作であっても苦しいと思います。そのため、小説として捉えることができる可能性の高いものを選んでいくと、どうしてもノベルタイプのもの、もしくはテキストの量が多いものに重点を置くという偏りが生まれてしまいます。 そのような問題に加えて、恋愛ゲームを小説に近づけて捉えようとする場合の最大の問題点は、恋愛ゲームプレイヤーの位置づけにあります。この位置にある人は、小説では「読み手」として受容する者の立場にあることが確定しています。小説の生み出す世界に対しては、解釈は自由であっても直接ストーリーに介入することはできません。しかし、恋愛ゲームを小説として捉えようとすると、本来「読み手」に近い位置にあるはずのプレイヤーが自ら「書き手」として意志決定をする場面(多くの場合には選択肢)に遭遇するということ、これが大きな特徴です。 つまり、恋愛ゲームでプレイヤーが要求しているのは、シナリオに感動するという「受け手」としての要求だけではなく、ストーリーを自ら決定しうるクリティカルな選択肢によって、(疑似体験としての)「書き手」の立場をも同時に求めているということなのではないでしょうか。 そう考えると、恋愛ゲームはこれまでの「一本道」であった小説の構造を一変させる可能性を含んでいる媒体と考えることができそうです。しかし、恋愛ゲームで最も気になるのは小説でいう「語り手」の立場です。多くの場合、「語り手」=「主人公の男性」であることが多いと思います。会話調の文体で進められることの多い恋愛ゲームは、多くの場合心情表現に独白を用いますが、これがプレイヤーの本意と異なる場合、違和感をより大きくしてしまう効果があるのではないかという印象があります。つまり、ストーリーに引きずられた選択を強制的に迫られ、自らが求める方向性でプレイできなくなるという弊害です(例:「ONE」における長森瑞佳の後半)。しかし、この解決には無限数の選択肢と無限数のエンディングが必要でしょうから仕方ないかもしれません。ストーリー展開が魅力的で説得力があれば、かなりの場合補完されてしまうこともあるようですし……。
もっとも(メタ)コミュニケーション能力を問わないという限りにおいては他の創作もそれ程違わない。上の回答にも垣間見えるように差異を見出そうとするならばゲームで恋愛を描くことには「遊び」の強度に違いがあるということだろうか。
一般的な恋愛ゲームの特徴としては、選択肢の存在によりあたかもプレーヤが物語に介入できているかのように錯覚できること、およびプレーヤ≒主人公として主人公への感情移入度が高いことがあるが、それもこの1,2年で前者においてはある意味ユーザの意向を受けた形で極端にまで選択肢が削られたゲームの登場、また後者においても第3者的な視点から読む人が目立ち始めたり複数視点から語られる作品が出てくることで、受け手と作品の両方から曖昧になるに至っては特徴と言うには心もとない。依然として守られているのは、CG、テキスト、音楽の組み合わせにより恋愛物語を描いた総合娯楽という点であり、むしろ
- 恋愛ゲームは恋愛ゲームである。
- 恋愛ゲームは恋愛ゲーム以外の何物でもない。
と言う方が説得力を持つのかもしれない。
少数の方に目を向けると、それでもアニメ、漫画、声優メディアともそれでも一定数の回答を獲得している。もっとも音声が標準になってしまった今では同じアンケートをやって声優メディアがそれ程集まるかというと疑問だが。アニメや漫画については、それらのユーザがビデオゲームに流れ込んでいるという部分は確かにあるように思われる。門外漢の人間にもそれらが今余り元気があるようには感じられない。すでにはるか昔に少女漫画で描き尽くされてしまった「恋愛」が、ここに来て恋愛ゲームに乗ってきているというのは少女漫画ファンが指摘する通りだろう。
2.恋愛ゲームに求められているもの
続いて同じアンケートから。ここでは選択式ではなく、それぞれの言葉で書いて頂いた。
問、あなたは恋愛ゲームに何を求めていますか?できるだけ簡潔にお答え下さい。
質問がかなり曖昧なためゲーム要素のような具体的なものから理念的なものまで多岐に渡る回答が得られた。見やすくするために独断で分けながら紹介する。アンケートの他の質問の関係上一部最終講で扱う「恋愛ゲームは恋愛になり得るか」という話が含まれるコメントもあるが、もし仮に「恋愛ゲームに恋愛を求めている」ならば今回とも十分に関連が深いためここで取り上げている。
無論、そういう人がプレイする必要はない。
矛盾していませんか…(要はリアリティに欠けるということが言いたいのだろうが)。
- なぜ恋愛ゲームという卑下たものに嵌る奴がいるのかの答えを求める為。求めるものが存在するのなら教えて欲しいくらいだ!!
…ゲェム右翼ですか?
- 私は恋愛ゲームは大っ嫌いなクチです。理由は、ゲームとしておもしろくない、と思っているからです。そして、恋愛ゲームは所詮虚構である、と考えるからです。ちなみに、この考えが恋愛ゲームがおもしろいわけがない、と深く思いこませる理由の一つになっていますが。確か、恋愛ゲームの歴史はそんなに古くない、と思っています。ワタシの中で恋愛ゲーム、と言うジャンルが確立したのは「同級生」(98版)によってですが、その後の同ジャンルのゲームは増殖、と言う感じを受け、また、18禁ソフトではよくあることですが、ゲーム性がない、と言う印象(雑誌等による情報)を受けるからです。そのことを特に受ける理由はコマンド選択制(特に全コマンドを実行可能になっている場合)によるところが大きいです。昔みたいにコマンド入力式の方がいい、とは言いませんが(やろうとしたら、作る方は特に地獄でしょうし)選択肢を増やすこと、といったことはぜひして欲しいです。現実では、選択肢は無限(ときにはなかったりしますが)ですし、一つのことをすると対外は状況が変わり前にあった選択肢はなくなってしまうことが多いのですから。そんなわけでワタシは恋愛ゲーム自体嫌いです(というより、ADV自体嫌い:理由はゲーム性がほとんどないから)。嫌いなら来るな、と言う意見もあるとは思いますがゲーム学、と言ったことをやられているらしいので嫌いな人間の一人の意見も参考になるのでは、と思い、今回書き込みをしました。
参考になりました(棒読み)。
恐らく正直な回答。
- 娯楽、友人との共通の話題。
- 表面的には他人への話題提供。実際は分からない。
- 話のネタ。
コミュニケーションツールとして。ローカルの。意識しなくても実際ユーザにとっては話のネタになっているのは間違いない。他でもない当サイトが一番恩恵に与っているのだが。
- 暇つぶし。(複数)
- 実は18禁モノしかやっていないんですが、一種の暇つぶし(読書など、いい意味での)でしょうか。今は現実の方が面白いですから。自分はゲームには極力現実とリンクさせない様自分を律しているつもりです。端から見ていてカッコ悪い等という理由からではなく、昔のように現実から目を背けない様にする為です。もちろんゲーム中、感情移入はしますが。(笑)
- 享楽。
- 娯楽。(複数)
- 娯楽性。生身の人間が相手でない以上、恋愛ゲームはあくまで「ゲーム」だと思います。使い古された言葉ですが、本物の恋愛がしたければ現実でした方がいい、と。「ゲーム」であるからには娯楽性があるのが一番重要だと考えます。映画、小説等と同じ一つのメディアとして「楽しむ」事ができればいいんです。それがストーリーでもキャラクターでも、あるいは好きな声優が出演しているとか、使われているBGMが好きだ、というのでも全然構わないのではないでしょうか。
- 趣味としての満足感。
- ただのエンタテイメント。所詮、実際の恋愛もゲームの恋愛も自分の人生を楽しくするため、又は、自分の気分を良くさせるものの1つの要素でしかない。
- 日常的非日常の再現。恋愛ゲームには、あくまで娯楽であってほしいと思います。あまりにリアルなゲームは、きっとプレイしていて泣きそうになると思います(苦笑)。
- それ以外のゲームと同じです。楽しい趣味の時間であるという。そもそも、恋愛ゲーム(?)が擬似恋愛(あるいは代替恋愛(?))であるという考え自体疑わしいですし、根本的に恋愛ゲームなるジャンルは存在しないと思います。あくまで、ゲームの構成要素にたまたま恋愛が扱われているというだけで。
- おもしろさ。恋愛ゲームには格ゲーやシューティングとは違ったおもしろさがあると思うので、それがいいんじゃないのでしょーか。
- 一時的な気休め。
- たのしきゃおっけ。
- 楽しさ。恋愛ゲームでもそうでなくても、求めているものはそれが面白いか面白くないかなんです。
- 娯楽としての楽しさ。
- 娯楽性だと思います。楽しくて、んでできればずっとはまれればもっといいみたいな。
質問者が作為的な質問を並べているためか暇つぶし、単なる娯楽と強調する意見が少なくない。もちろん楽しければいいというのは最も素直な意見の1つだろうし、他の意見にしてもやって楽しいかどうかというのは重要な要素であろう。
- ゲームとしての楽しさ。
- (ある種の)ゲームとしての完成度。
- ゲームの達成感。
- ゲームとしての面白さ。
- キャラクタやゲームとしての面白さ。
- 「ゲーム」として面白いこと。私はゲームの延長としてとらえているので、(シナリオ、システム、絵などの総合的な産物としての)ゲームの完成度を求めます。どれか一つだけがいいものならわざわざ恋愛ゲームという安くはない金額を払わなくてはならないもので享受する必要はないと思っています。
「ゲームとしての面白さ」への言及。「楽しければ…」のバリエーションの1つと言っていいだろう。
- すとーりー&きゃらのかわゆさ。
- どう捉えているか・人間性。
- 作品における世界の面白さ。
- キャラクターに感動させられるバックストーリー。
- 実在の女の子に勝てるような萌え萌えな娘。(笑)
- 絵の良さ、キャラクターにあった音楽の追求
- あくまでもゲームキャラとしての魅力(萌え度)。
- やってて思わず恥ずかしくなるような感覚。
- いろいろな意味での整合性。
- グラフィック/アニメーション鑑賞。
- 一つの世界。その中にある一つの完成された世界観を求めています。そこに自分を送り込む、私にとって旅行に近い感覚です。
- シナリオ性、そして勿論シミュレーション性。
- ゲーム内世界の世界観。
- ゲームを作った人間の思考がどれほどトレースできるか?
- 心理的なシミュレーション。
- 可愛い女の子。
- 芸術性。
- ゲーム性。
- シミュレーションと心理的やりとりのgame。
- 多様性。
- 俗っぽくなく矛盾のない設定。
- 世界観、もしくはそれに類するもの。
- はーとふるStoryと、適度のゲーム性。絶対じゃないけど。
その他ゲームの諸要素など。
- SEX。
- 性的興奮。
- 征服欲とか支配欲など(少々、きつい言い方ですけど)。実際の恋愛でも、ある程度はあることだと思います。
分かりやすい。
- ゲームという中でのリアリズム。
- 現実感。
- より現実的なもの。
- 人間関係の難しさ。
- 予定調和の無い、意外すぎる展開。
- 社会派の作成。ダークになりすぎない程度の。恋愛ゲームは所詮ゲームである。そう割り切って考える必要性はあるはずだ。恋愛というのは、当人を五感と心で通じ合うものであり、所詮恋愛ゲームは電子情報によって作られただけの仮想の産物だ。攻略法が定まっていて、そのとおりにすればたいてい結ばれる事ができる。そうたやすいはずのない恋愛を、たやすいものへと変えて自己満足させているに過ぎない。現に今、そういった恋愛ゲームの簡略粗悪化が進んでおり、原点に比べると「恋愛ゲームは所詮ゲーム」的な要素が大きくなっている。故に、今恋愛ゲームに求められている事は、「原点の研究」と「恋愛以外の訴え」ではないだろうか。「ときめきメモリアル」は、萌え状態を深めていわば恋愛ゲームの典型を作り上げた作品だが、ゲーム性が大きかったために恋愛抜きでも相当に楽しめるものにはなっていた。それに加えて、仮想恋愛に感情移入させる事によって彼女らに萌えさせ、未曾有の大ヒット作品となった。18禁なら「同級生2」なのだろう。私はプレイしていないが、18禁恋愛ゲームの草分け的な存在だろうか……。いずれにせよ、まず原点がなぜヒットしたかを踏まえるべきではなかろうか。続いて、「恋愛以外の訴え」は、恋愛自体現実はそう甘くないものと考えるべきであり、その上で、今彼ら学生が抱えている悩みなどを赤裸々に語ってみるのはどうだろうか?恋愛のドラマとしては、見過ごすことのできない問題が結構あるのだから、そういった面を表現していく事は大事だといえる。少なからず、普通のドラマでも「社会派」ジャンルは相応のヒットを飛ばせる。ただ、ヒットの為の社会派という考え方ではなく、真に訴えたい社会派でなければ、ヒットする事が不可能である事は確かだ。しかも、感情移入が大きければ、本当に助けてあげたいと思い、さらに萌えが大きくなる事も言えるはず。「恋愛できるゲーム」から、「現実での恋愛を怖がらなくなるゲーム」に、今進化させるべきだ。どんな困難でも乗り越えられる心を作る事ができればどれほどにいいだろうか。
「意識ある」人たち。そしてそういう彼らが作ろうとしたゲームが、ユーザにどのように評価されたのだろうか。
- 恋愛プロセス。ちまたの恋愛ゲームetcは、恋愛をするというプロセスを体験できて楽しいと思うが、なぜかゴールというものが設定されている。恋愛でもっとも大変なのは、ときめきを維持していくことだと思う。終わりのない恋愛ゲームがあるといいなぁ。たとえば、「ダビスタ」などには基本的に終了というのはなく、延々とやり続けることができる。
終わりがなかったら次が売れなくなってしまう。
- 完全な双方向会話、プログラムではない反応。
- 相手を見つめる事、相手から見つめられる事。
- プレーヤーが作っていく自由な世界。いまだ恋愛ゲームは、プレーヤーが作成者の意図したレールの上を走るだけにすぎない。ただ、自由に世界を作れるとなると、恋愛ではなくまた新たなジャンルになってしまいそうな気がする。
今のところ難しそうだ。
- 様々な恋愛ストーリー。
- インタラクティブな恋愛小説。
- 高いストーリー性。恋愛ゲームのプレイによって恋愛を体験することにはならないとおもいます。あくまでゲーム内でのことですし、きわめて客観的なものではないでしょうか。(そういった意味で僕は恋愛ゲームを恋愛小説やラブコメ漫画、恋愛映画等のストーリーテリングの発展型としてとらえています。)
- ドラマ。
- ある具体例としての客観的な観察(小説を読むような感じ)。
- 愛と感動のストーリー。
- 小説を思いっきり感情移入して読むようなもの。
- パターンじゃなく、一つのストーリーとして楽しめるもの。
- ビジュアル付きのマルチストーリーの恋愛小説。
- ストーリーの美しさ。楽しさ。
- ドラマや小説を見る感覚。
- 感動を与えるストーリー。
- シナリオ。
- if小説。ご都合主義が多すぎる。
- ドラマ性。
- 物語として満足できるか否か。
表現形式としての恋愛ゲームへの着目。
- 主人公がどのくらい自分とシンクロしているか。
- 自分が、物語の主人公になること。私は小説をよく読みます。読んでいるときは、それなりにその物語の主人公に感情移入しているのですが、読み進めていくうちに主人公の考え方や行動に自分との格差を感じることがままあリます。しかし、恋愛ゲームならば主要なところで、選択肢が現れ、自分と物語の主人公との距離をほとんど感じないで済みます。また、アニメや漫画それにドラマと同じ作り物の世界の恋愛でありながら、物語の結末が自分の意思によって変化するというところが、恋愛ゲームに私がはまっている理由かも…と、思っています。…ま、いくら選択肢があっても製作者サイドの手も平から抜け出ることはできないんですけどね。
第3者的な視点で(その都度視点を移しながら)読むのか、主人公に感情移入して読むのか、恋愛ゲームの読み方は基本的にこの2つに分かれる。そしてこれは恋愛ゲームを「小説」や「映画」などの延長として捉えるのか、「ゲーム」の延長として捉えるのかという違いにも影響してくる。
- 読み物としてのゲーム。とにかく、個人的にはシナリオと音楽が大事と考えている。いくら絵が良くても他がお粗末では感情移入などできるはずもない。で、言いたいのは、新進ブランドTypesに要注目だということ。Leaf、Tactics(Keyか?)など、熱狂的なファンがいるソフトハウスはあるが、個人的にはこのTypesの音楽はその2社を超えたレベルだと思う。LeafとTacticsには共通点がいくつもあった。その中の1つ、「万人受けしない絵柄」というのがあるが、これはもしかしてそのソフトハウスがブレイクするための条件なのかもしれない。このTypesもLeafやタクティクスほどではないが、淡いタッチで描かれており、こういう絵を好まない人も周りにはいた。Tacticsの「MOON.」をプレイした時に、これはスゴい!と思った。場面と音楽の相乗効果がこれほど感じられたことはなかったのだ。その後、周りに「MOON.」を薦めたが誰もやろうとしない。そのうちブレイクするのではないかという、確信に近いものがあったので知っておいてほしかったのだ。案の定「ONE」で大ブレイク。これは少しカンがあたったようでうれしかった。しかし、Typesはこれらの作品の音楽をも凌駕している。シナリオもそれに見合ったいい出来のものだ。むむ、またここもブレイクの予感。
そしてTypesは今。
- 人と人との対話であり、自己の発見だと思う。
- 自分の生き様の考証の機会の一つ。
- 物語を通じて、自ら想起するイメージを豊かにする事。
- 明確なイメージの形成の手助け。
- 絶望に陥りそうな自分に対し、「きっと救済はある」とストレートに主張し続ける、一筋の希望の光。詳しくいうと、主人公が真に愛する女性と結ばれることで、世界にただ一人、お互いを受け入れ認めあう相手が存在することによって、生きることの素晴らしさや、人と心を通じ合わせることの魅力をストレートに表現することで、人の心を揺り動かす大きな力が恋愛ゲームには存在していると考えます。その単純ながら純粋な魅力をプレイヤーとして受け取ることで、現実世界に立ち向かう糧となっていると信じたいと考えているということです。「救済」という言葉が誤解を与えかねませんが、語彙不足でいい表現が見つかりませんでした。
前向きな意見。
- 恋愛の練習。
- 自分の恋愛を、実際におこなう時の為の予行演習。
- 恋愛の手本。
こちらもある意味前向き。で、練習の成果はどうでしたか。
- 恋愛の疑似体験。(多数)
- 虚構としての恋愛。
- 恋愛に限りなく近いモノ。
- 極めて現実に近いサクセスストーリー。
- 恋する気持ち。その時のシチュエーションなどによって変わると思われる気持ちの部分を擬似的に体験できるのが恋愛ゲームにとっては必要不可欠。
- いろいろな恋愛について。
- 共通体験。
- 疑似恋愛。恋愛ゲームをしていると、一時的な欲求は満たされるが、ふと我に戻る時がある。
- 恋愛が起こりうるシチュエーション?
いわゆる「疑似恋愛」。
- 現実社会では得ることがなくなった「恋することのときめき」。
- ドラマチックな恋
- フィクションの中でしか味わえない衝撃的な恋愛
- 仮想空間での一時的な幸せ
- 過去の自分との共感
- 達成感および精神的安らぎ
- 胸のどきどき。女の子のご機嫌取りだけで、クリアできてしまうことを考えると、実際の恋愛とは違うのでは?それはそれでよいとは思います。あまりに難易度を上げてしまうと楽しく、暇つぶしにゲームをするというということができなくなるから(事実、「同級生2」の難易度に何度か投げましたし)。現実は、こちらがいくら思いを寄せてもなびかない異性だらけです。ゲームでそれを再現したとしたら、私はやりたくないですね。
- 休息。恋愛の疑似体験の場ではないのでしょうか?また、人が現実の世界に嫌気が差しつかの間の逃避と休息を求める場なのでは、ないのでしょうか?きっと、人が人の心や暖かみに触れる場が少なくなり、ゲームにそれを求めるようになったのではないでしょうか。
- 名前を呼ぶ事。現実にないことができるという事。
- "本番"に対する"練習"?(う〜ん、それって何か歪んでるな…)というより、ままならない現実を忘れるための一服の清涼剤(効果は1時間)。
- 追体験や郷愁の思い。
- ヴァーチャル。
- 夢(過去をふりかえってみて)。
- 実生活では出会いにくい感動
- 自分にはできなかった事じゃないかな?
- 第3者の立場だから感じられる感動。一種の現実逃避の方法です。現実逃避の言葉があっているかどうかは難しい処ですが、自分が体験出来なかった(出来ないであろう)体験をゲームの中で体験したいわけですね。シナリオ自体は感動的であればあるほうがいいですね。(「To Heart」「ONE」など)言ってしまえば、映画や小説の延長線にあるものです。したがって、いわゆるキャラ萌え等は今一つ理解出来ません。俳優萌えならわかりますが、俳優が演じた役のキャラに恋愛感情は私は持てません。ただ映画でも小説でもゲ−ムでもその世界観に酔えるか否かが重要です。そういった意味では、「ONE」等は十分に酔えました。(言い換えるとシナリオ萌え状態)だからといって「茜命!みさきせんぱ〜い!」とはなりなせん。ゲ−ムとは、自分の感情が、考えが物語に反映される映画だと思っています。その中で自分の意志と必ずしも合った選択肢(シナリオ)が用意されているとは限りません。しかしユ−ザ−の側からそのことについて批判するのはおかしいように思います。(メ−カ−が自主努力することは必要ですし、それを手助けする意見を伝える事は重要だと思います)そんなに主人公が不満なら、自分がやりたい事を、この実生活の中で『自分』で行えば済む事です。私は映画より双方向性の高いゲ−ムのほうが将来性が高いように思えますし、案外メディアが双方向性をもってくると『ゲ−ム』という概念そのものが無くなるかもしれませんね。
- 現実では、手に入らない環境、状態。
- 感動。現実にはありえない恋愛の甘い部分のみの抽出が恋愛ゲームだから。予定調和の物語としてとらえてます。
- ファンタジー(普通と異なる種類のものの見方を与えてくれるモノ)と「心のなごみ」。そもそも別のものであると思う。言い換えるならば、「現実の恋愛」以外のいろいろなものになり得る。例えば、現在の恋愛ゲームの延長上に考えられる、疑似恋愛ともいうべきものは、少なくとも人に「なごみ」をあたえるソフトウェアである。それは、人とコンピュータを繋げるエージェントとして、利用できるのではないかと思う。
- 今の自分にできない疑似体験。
- 非日常的な恋愛。
- 理想。ゲームはゲームですから。割り切ってます。
- 仮想の世界ならではの愛。
- 仮想シュミュレーション。こうだったらどうなんだろう。あの時はこのようにすれば…等の現実では出来ない(かった)を体験するソフト。
- 多分ドキドキ感じゃないんでしょうか。恋愛ゲームには、あくまでも思わず赤面してしまいそうなドキドキ感とか、学園生活などでのドタバタ喜劇的面白さ、あるいは思わず涙ほろりのシナリオとか、現実的でなくってもいいからエンターテインメントとして面白い作品であり続けてほしいです。
- 女の子キャラのかわいさや個性。自分にとっては、恋愛ゲームは恋愛に成り得てほしいけど、成り得ない存在。どうしても、片思い以上の発展があり得ない、という考えから自分は逃れられないと思う。だから、自分は、現実にあるような展開や、リアリティを求めようとする恋愛ゲームよりも、こんなのあるわけないよな、ぐらいご都合主義に徹した恋愛ゲームの方を評価する。現実にはできない事を体験させるのが、ゲームなどの娯楽作品のひとつの重要な役割だと思うので。
- 征服欲。「恋の空騒ぎ」「ぷらちなロンブー」見てると3次元の女の子に幻惑せざるを得ない。恋愛ゲームが、処女性などの身勝手な男の欲求を満たしてくれるのは大変ありがたい事だと思う。ただし、それが社会的には認めてもらえるとは思えないし、少子化に繋がる可能性もある。ふつーの人がこういった「オタク」に生理的嫌悪感を覚えるのは人間が動物たる所以であるところの「種の保存」という観点から外れている生物だから、と個人的には思ってます。(笑)
- 私の心に何かときめくようなものを与えてくれる。恋愛ゲームはゲームとして、実際の恋愛は、恋愛としてとった方がいいと思います。それはそれぞれ与えてくれるものが違うからです。恋愛ゲームは実際の恋愛にはない心のときめきなどを、実際の恋愛は本当の人間同士の感情などを与えてくれるのだと思います。
- 純粋にゲーム性、非現実性。恋愛ゲームは恋愛には成り得ない。なぜならば恋愛ゲームにおける心の充足感は昔話での「めでたしめでたし」に近いものがあると思ってるからだ。ゲームに真実味を求めればそれは虚構に近づきゲームとしての娯楽性を失う。かといって虚構だと割り切っては恋愛ゲームは面白くない。(のめり込む魅力がないから)この辺のさじ加減がゲームにとって、最難関ではないかなって考えてます。
- ノスタルジー。
- ほのぼのさ。恋愛ゲームは、実生活で体験できないことを、擬似的に体験できるいい物だと思う。だから、俺的には「ほのぼの」していればOK(俺の周りにほのぼのはないのか??)。
- 自分の人生で体験することのなかったシチュエーションを疑似体験することなり。
- 非現実的ながらもありそうないいストーリー。
- 非日常的な体験。
- ピュアなときめき。ヒトとして、人間としての束縛から自由なところで恋愛という夢を見たい。それが恋愛ゲームだと思います。
- 煩悩を満たす。いかにリアルであろうと所詮はゲーム。「○○萌え〜」と言うのはアイドルファンと質的に変わらないと思うからそれは良いと思う。私も部屋にポスターとか貼ってあるくちだけど彼女はいる。相手はこの事知ってるし。(笑)何故するのかと聞かれれば『可愛い子は好きでしょう?』と言うでしょう。まそんなところです。
- 懐かしくやるせない感情(感情移入できるか)。
- 現実とはかけ離れた物語。
- 創作物としての「非現実」(現実のものでないおとぎ話)。
変化形A´。ゲームということを割り切った上で、ゲームだからこそ現実(ここでは深く突っ込まない)にはないものを、ノスタルジーを求めるという意見たち。これが割合としては最も多い。
- ときめき。
- 心の癒し。
- 喜び、感動。(多数)
- 感動できればそれでいい。
- 心の安らぎ。(多数)
- 心の揺さぶり、空白の補填
- 「心の琴線にふれるなにか」泣けることだったり嬉しくなれるものだったり。一言でいえば「感動」。
- 精神的なやすらぎ…かな?
- どきどき。
- 心の安らぎと理想の人だと思います。
- 癒し。「恋愛」に対して求めるものはひとそれぞれ違う。結婚や子供が欲しいというリアルな欲求を恋愛ゲームでは満たすことは出来ない。しかし、誰かに優しくしてほしい。現実の人間関係で傷ついた心をいやしてほしいというのであれば、なにも現実女との恋愛でなくても良い場合もある。このばあい、恋愛ゲームは恋愛の代わりになると思う。もっと低俗な言い方をするなら、女をモノにしたい。自分の性欲をみたしたいという場合なら、18禁系の恋愛ゲームの方が、よりディープなシュチェーションで性欲を満たしてくれるはず・・・・だと思う。本講義を全部熟読したわけではないが、人がなぜ恋愛ゲームにはしるのかということについてもっとスペースと時間をさいても良いような気がする。現在は女性が強い時代だ。ともすれば、女性の価値観を一方的に押しつけられて男性としての善し悪しが決められる傾向がある(外見とか経済力とか)。世の現実女性と一緒にいても気持ちよくない。心が潤いを得られないから恋愛ゲームにはしるものがいるのではないか。そういう可能性をもっと論じるべきだと思う。
- 感情の高ぶり。
- 恋愛感情の発生、あるいは再現。
- 切なさ。やはりある程度プレーヤーの都合のいいようになってないとゲーム的につらいんじゃないでしょうか。リアリティを求める人もいますし、1つの方向性だとは思いますが、シュミレーターとゲームは別物だと思います。あと、今回のアンケートとは主旨を異にしますが、常々思うことがあります。それは、「恋愛ゲームにストーリーは必要か?」ということです。例の「好きとか嫌いとか最初に言い出した」ゲームも、日常的なイベントの積み重ねで、
プレーヤーの実生活とシンクロさせやすく、またイマジネーションを膨らましゃすいと思うのです。ストーリーがあると、ストーリーのできそのものが即ゲームの評価になり、ゲームというよりは、デジコミだし(それがダメとはいわないけど、サウンドノベルってゲーム?)、プレーヤーの意志の介入が物語の主役となるヒロインの選択のみ(分岐と言っていいんでしょうか?)になってしまいますし、なによりも女の子じゃなく、「ストーリー」の攻略になってしまうと思います。恋愛ゲームの失敗作って、たいていこの辺が原因のような気がします。あと、チョットだけ言わせて!ゲームの評価で、「グラフィックが…」というのだけはかんべんしてください。たしかに大事な部分だとはおもいますけど、「ゲーム」としての評価が聞きたいです。
- 現実的苦痛を伴わない夢の世界。現実には当事者以外の状況が大きく影響する。精神的にこの苦痛・面倒くささは生きている上では逃れられない。ゲーム上では美化された(楽しい部分のみ?せつなさも含めて)部分だけを擬似経験できる。ひとつの代償行為とでもいえるのではないか。その意味からすれば、恋愛(代償行為の産物とはいえ)になりえるのでは?
- "夢と安らぎ"だと思います。
- 青春マンガを読むような、甘酸っぱい感情。
- 欠けた心の補完。
- 心の隙間を埋めるものとして…。(^^;
- ドキドキ感。
- 精神的なささえかな?
- 満足感と痛み。
- 感動。精神的な幸福感。
- 感情の変化。
- 恋愛の激情(パトス)、絶望、浄化(カタルシス)の弁証法。
- バーチャルなやすらぎ。
- 恋愛感情の共感。
- 琴線に触れる物があれば良し。
- せつなさ。
- 自分の心を洗う手段。結局、恋愛ゲームもGAMEでしかないのです。クリアしてしまえばそのシナリオは読み終わった本と同じ程度の価値しか無いと自分は思います。しかし、現実ではもはやありえない恋愛を擬似体験できることは評価できます。その体験を元に現実世界での自分の行動、考え方に良い意味でも悪い意味でも影響が少なからず現われるならば、その恋愛ゲームはよくやったと思います。自分が恋愛ゲームを買う理由としては、シナリオにもっとも比重を置いています。(そのシナリオの見せ方にもですが)そして、遊んでる間に思わず笑みがこぼれたり、心打たれたりして現実世界での廃れた心を少しでも癒してくれればそれで満足です。基本的にHシーンもエンディングもいらないと思ったりもします。(流れ上エンディングは最終的に必要ですが)まあ、最近のコンシュマーにそのようなゲームが余り見当たらないのは残念です。全体的に見ればキャラ人気・声優人気で売って、グッズで荒稼ぎのモノが大半に見えてしまって最近はけっこうウンザリしてたりします(限定〜も飽きました)。各メーカーさんにはもう少し丁寧に創って欲しいものです。商品としても作品としても。
変化形A"。生きにくい時代である現代にこそ恋愛ゲームは生まれた。もちろん、明らかに生きやすい時代などというものはないのであって生きにくくしているのは自分自身だ。
もっとピュアなバージョン。ともすればピュア過ぎる。
- 憧れ。
- 理想。(多数)
- 現実には無い理想。
- 夢、または理想。
- 理想の女性像。
- 自分が持つ漠然とした異性及び恋愛の理想像を具体的な例として提示されること。
- 孤独感の回避。
- 信頼できる相手。
- 友達のようなモノ、精神的なつながり。
- 女の子とのコミュニケションそのもの。
- 理想・現実逃避・陶酔。
- 擬似恋愛による自己陶酔または、自己満足。
- 架空の自分。
- やはり恋愛の代償行為だと思います。自分自身がさほど容姿的にも精神的にも優れた人間では無いのに、理想だけは高い人間にとっては恋愛ゲームは、居心地の良い空間だと思います。また現在はコギャル等が氾濫してるため、そういうのが嫌いな人間にとっては、都合の良い避難場所とも思えます。現実の恋愛ではゲームのようなドラマティックな展開も無いでしょうから、ロマンティストにとっても望むべき環境だと思います。
- 自分にはできない恋愛の疑似体験。現実にはいない超かわゆいHなおんなの子を求めています。脱いでくれれば多少見れる顔なら何でも美少女になってしまう世の中とは大違い。パソコンの恋愛ゲームすべてに音声を付けて欲しい。やっぱ声があると燃えます。
- 現実逃避、現実の世界では恋愛が出来ないから…。
- ゲームをすればそこにいるという、存在感。
- 現実世界の恋人の代用・仮想現実の世界の中にいる自分の恋人。
- 自分を受け入れてくれる人。
- 自分の居場所。
自称リアリストが好みそうな。
- 小説にはないif。一つの話で複数のストーリー。恋愛ゲームはあくまでもゲームである。実際の恋愛ではセーブできないし、マルチエンディングもない以外とシビア。でもゲーム以上に心地良い。
- 現実には求めることができなかった(求めたが得られなかった)モノ。恋愛ゲームには現実には求められないことを求め(それが得られ)ることと、現実によくある(であろう)ことのシミュレートができること。この二つの要素が大事だと思う。現実には求められないこともよくある(であろう)ことも個人によって違うが。
結局のところ恋愛を比較対象として掲げるならばその人が恋愛競争においておかれた立ち位置によって感じ方は全く異なったものにならざるを得ない訳で。
あるいは絶望に至る過程としての救済か。
同氏は「遊び」のエッセンスとしてブランコの浮遊感を挙げているが、これは恋愛ゲームにも適用できる分かりやすい例である。プレーヤは、行きつ戻りつも全体としてはある範囲に収まっていることを期待する、期待の枠組みをもって作品にあたる。主人公とヒロインはプレーヤにとってお約束のイベントや「意外な」展開を経ながらも、概して最終的には期待される結末へと導かれる。ビデオゲームにおける選択肢の存在は、この行きつ戻りつをシステム面から強化するものであると言える。しばしばユーザ間のプレイ前の話で「いい意味で期待を裏切ってくれることを願う」といった表現をされるが、それを願っている以上やはり依然として期待の枠組みの中に入っているのであるし、(私を含めて)恋愛ゲームの御都合主義を批判する声があるが、それがまたその人にとっての別の御都合を求めているだけというのも言うまでもないだろう。もちろん、その時点ではどちらが良いとか悪いとかいうものでもない。ただ受け手によって期待する枠組み、ストライクゾーンが異なっているだけである。
この期待の枠組みの外側には、ひとまわりかふたまわりか、やはり人によって異なるが、受容可能な枠組みが存在する。この範囲に収まっている限りは、それだけで否定的な評価を与えられることはない。もちろん、枠組みと言ってもこれらがガチガチに硬直している人はそれ程多くはなく、普通作品に触れることによって組替えられていくだろうし、また枠組みに上手く収まり過ぎている作品よりも、ある程度枠組みを揺るがし、組替えを求められる作品の方がずっと印象に残りやすいものである。数々のゲームをプレイした後では大抵の話ではそうそう驚かなくなってしまうのも無理もないことだ。一方この組替えができないぐらいに極端に逸脱してしまうと、受容不可能な物語として拒否・拒絶されることになる。「ONE」や「AIR」のようにいわゆる「人を選ぶ」と言われる作品は一部の人にとっては期待されるものであっても、その他の人にとっては組替えを許さないほどに物語が持つ逸脱(※2)が激しいのがその理由だろう。もっとも、麻枝准という作家は彼が自分を出せば出すほどそうならざるを得ないように見受けられるのだが(はっきり言ってしまえば彼の世界認識が一般的な恋愛/美少女ゲームユーザのそれとは大きく違ってしまっているのではないかということだが)。
アンケートに戻ろう。恋愛ゲームに何を求めているかを尋ねるこの質問は、まさにこの期待の枠組みをストレートに問うているものである。
その結果はどうだろうか。様々な回答があるものの、一覧して、圧倒的に恋愛ゲームに対して「現実にはないもの」を求めている意見が多いことが伺える。「恋愛ゲームの方向性として恋愛シミュレータになってはいけない」というのは恋愛ゲームのごく初期からあった議論だが、今回のアンケート結果でも大いに裏付けらていると言えそうだ。中でも恋愛弱者に至っては言うまでもないだろう。現実をシミュレートすればするほど、現実世界での恋愛弱者は、恋愛シミュレータ上でもまた恋愛弱者にしかなれないのだから。
この結果からは、例がどうかという話もあるが、あなた(シナリオライタ等)はそれでも主人公にコンドームをつけさせますか?とか言った話にもなってくる。無論、そういったディテールを積み重ねてこそリアリティが獲得されるという主張は論を待たない。しかし、それは受け手がそれを現実感があると感じるかどうかとは別の話である。そうして積み重なれたリアリティが、受け手にとっては全くの非現実でしかないかもしれないのだ。
もちろん、より現実的なものを作ろうという作り手がいる以上は、それを求める受け手もいるし、これにしても何が現実的と感じられるかが人によって違うだけでそれだけで作品が「良い」とか「悪い」とか決められるものではないし、受け手のスタンスとしても「良い」とか「悪い」とかいうものではない。しかし、恋愛ゲームがまた商品であるという性格上、求める人が「多い」か「少ない」かというのは確かにあって、作り手はそれを意識せざるを得ない。(実際にはマジョリティであることがそれ自体の良悪がないにも関わらずあるいは無視した形であたかも「良い」ことであるかのように言われる場合が少なくない。そして、人がそう感じた以上はそれはすでに「良い」ことなのである。)「自分の好きなように思うように作って下さい」というのが理想ではあっても、たださえ小さい恋愛ゲームのニッチ市場では、採算が合うユーザ数を計算する必要がある。「プロ」とはつまりそれで生計を立てられる人のことだから、それができて初めてプロである。眼鏡っ娘恋愛ゲーム、メイドさん恋愛ゲーム、妹恋愛ゲームはあり得てもガングロ恋愛ゲームはあり得ないのだ(そこまで行くと作り手が作りたいと思うかどうかという話もあるが)。
では、その求められている「現実にはないもの」とは何なのだろうか。個々の求めるものはそれぞれ違うのでそれは各回答を参照して欲しいが、以前にも他で触れており、今回の結果でも多くに通じるものはヒロインについては「少女幻想」であり、そこで描かれる恋愛については「恋愛幻想」だろう。それは現実の女性からは喪われた、あるいはもともとなかったものに改めて直面し失望した男性が願う「少女」の姿、また現実の恋愛からは喪われた、あるいはもともとなかった「恋愛」への憧憬だ。現実の変化に適応できなかった男性達が求めそれに呼応する形で現代に産み落とされた恋愛ゲーム。それは男性達が抱く「少女幻想」と「恋愛幻想」を、恐らくもっとも忠実にそしてもっとも濃密な形で提供する形式である。この状況では、
あーいう女はこの世にいません。
といった意見を待つまでもなく、いないのは当たり前だ。初めからいないものを求めているのだから。
その意味では幼児的全能感の補填と言われても仕方のないところだろう。幼児的全能感を根強く持つ人間はそれがゆえに恋愛においてはほぼ確実に「全無能」に陥ってしまうため、それを補う用途にも使われうる(彼がそれで満足できればだが)。
いずれにしろ現実逃避であることは間違いない。また、それ以外の何物でもない。だが待て。「現実逃避」という言葉にはすでに現実には直面すべき(なのにそうしていない)という否定的な価値判断が含まれている。せめて「現実回避」ぐらいにしておこう。
そもそもここで言う「現実」とは何なのだろうか?恋愛ゲームに夢中になっている(あるいはそれしか選択の余地がない)人にとっては、それが抜き差しならぬ現実に他ならない。それよりは恋愛ゲームが属する「遊び」に対する、利害関係が対立し緊張の張り詰めた競争や交渉、すなわち先の「企て」に相当していると言うべきだろう。とすれば24時間365日ずっとこの企ての関係に身を置いて神経を正常に保っていられる人などいない。誰もがスポーツや趣味、もっと身近なところでは酒や煙草で活力を養って次の企てへと向かっていく。むしろ、企てを上手く処理できる人は遊びも上手く楽しめ、その切り替えに優れているものだ。高度経済成長期を経た日本人はこれまで遊ぶのが余り上手くなく、ともすれば軽んじる傾向があったが、遊びもまた現実の大切な一要素であることを忘れてはいけない(もっともこれを読んでいる人は一要素どころではなくなっているだろうが)。
恋愛の甘味だけを切り取った恋愛ゲームはその点ヒロインの都合は全く考える必要なく、ユーザが会いたいと思った時に会える、極めて優秀な、言い換えれば非常に怠惰な遊びの関係様式である。例えば、「未来日記」ではないが、彼女と一緒に2人でプレイしなければならない恋愛ゲームなど、想像できるだろうか?いや、どれだけ遊べる人がいるのかという話もあるが。実際にあるゲームでも、「ルームメイト」のようにヒロインが実時間で行動するというのが、一体どの程度プラスとして評価されたというのかを考えてみれば分かる。
そして、極めて優秀であるがゆえにクスリのように中毒性も高い。以前、ヒロインについてのアンケートで1人のヒロインにどれぐらいハマっているかという問いに、あくまでゲームをプレイしている間だけというものがあったが、遊びとはそういうものであって本来はそれが普通のはずである。遊びは現実の大切な要素ではあるが、遊びだけしかない現実は間違いなく健全とは見なされないだろう。恋愛ゲームを遊ぶというだけではさしあって生理的嫌悪感を考慮外とするならば(実際はその嫌悪感が深刻ではあるものの)問題にはならないはずで、「恋愛ゲームしかない」ことが問題なのである。
男性が内に持つアニマをより忠実に反映すべく進化してきた恋愛ゲーム。それはすでに彼らにとって「現実の恋愛」以上に「恋愛的」であると言うしかない。そして一方恋愛ゲームの魅力ならぬ魔力はしばしば人をこの「恋愛ゲームしかない」という状況に人を固定化させる。
さて、恋愛ゲームの魔力について語るには、恋愛ゲームが置かれている、言い換えれば置かれていると恋愛ゲームユーザが感じている社会的位置を外す訳にはいかない。次講ではこの辺りをキーに、恋愛ゲームとは何だったのかを考えることにしよう。
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(※1)1998/06/11〜1998/12/31頃当ページにて実施させて頂きました。多くの方のご協力ありがとうございます。長い間お待たせして申し訳ありませんでした。(→戻る)
(※2)ある意味では絵も…って禁句ですか。(→戻る)
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