裏恋愛ゲーム学


第1講 グッズ考2〜滅びゆく『恋愛』への鎮魂歌〜

98/07/21開講

0、イントロダクション

裏恋愛ゲーム学を始めるにあたり、第0講がないので、代わりにここで主旨を書くことにする。他でもすでに書いているように、裏恋愛ゲーム学は、恋愛ゲームを(表)恋愛ゲーム学とは別のアプローチで捉えようとする試みであり、「恋愛ゲームの悲哀」というサブタイトルからもわかるように、それは極めて悲観的なものだ。しかし、全く(表)恋愛ゲーム学と正反対のことを書こうとしている訳ではない。真実は1つしかない、と言っているように、どちらも結論は同じなのであって、そこに別の方向からたどり着こうとしているということである。

1、はじめに

そこで今回の第1講「グッズ考2」となるのだが、補講では、グッズが氾濫するのはメーカの商売主義が悪いのではなく、ユーザの方に原因がある(というか、ユーザがそれを必要としている)ということを書いていた。今回はそれを更に考えてみたいと思うが、私自身にはグッズに対する興味がほとんどないので(当事者ではないので)、とんちんかんなものになってしまうかもしれないことを先にご了承願いたい。

2、なぜグッズが必要なのか

さて、補講ではグッズは金を使う対象として必要だと簡単に済ませてしまったのだが、なぜ金を使わなければならないのかというと、それは不安だからなのではないのか。そして、その不安とは、少なからぬ男性が抱いている自分自身に対する不安感である。もちろん、「所有欲」というのは性別を問わず非常に強い欲望なのだが、「ときめきメモリアル」「センチメンタル・グラフティ」などをはじめとするいわゆるギャルゲーグッズの隆盛とそれに対する男性ユーザの執着心にははっきり言って異常性を感じざるを得ない。金銭的に余裕があるから、ということでは片づけられない何かが男性の中に存在しているのではあるまいか。

1990年代、そして21世紀初頭にかけては、男性問題の時代であるということは他の所でも書いたことがある。そして、恋愛ゲームのブーム、あるいは恋愛ゲームの問題とはまさにこの男性問題の1つの現れであるというのが私のとっている考え方、そして恋愛ゲーム学及び裏恋愛ゲーム学の根本にある考え方である。

明治時代以降、男性にとっての恋愛とは「所有する」ということだった。(無論、この議論も含めて恋愛ゲーム学というのはあくまで一般論であって、個々の場合には必ずしも当てはまらないことは注意しなければならない。)これは、上から植え付けられた「良妻教育」に帰因する所も大きい。今ですら、「モノにする」というような使われ方にそういった過去の恋愛観が引きずられていることがうかがわれる。だが、時代は変わり、「恋愛」=「所有」という旧来の恋愛観は崩壊した。男性が所有する対象はなくなった。グッズは、こういった男性が感じているいい知れない不安感を和らげているものとして機能しているのではないのだろうか、と推測するのである。

しかし、そもそもこういった男性の恋愛観、「俺が守ってやっているんだ」という考え方自体が「男権社会」という社会通念に後押しされた男性側の思いこみであって、女性が今までは一歩引いた立場を演じていただけに過ぎない。(この「演じる」能力は女性の方が優れている。)実際は「守ってやっている」と思っていた男性は女性に甘えていた(依存していた)のだが、1対1のコミュニケーションを前提とする新しい恋愛観の元ではもはや女性は守られている存在を演じる必要がなくなり、甘えは許されなくなった。十分に愛されないで育つ人間が増えている現代では、これはますます大きな問題になりうる。

女性の自立が叫ばれて久しいが、今、自立しなければならないのはむしろ男性の方である。
あなたが本当に欲しかったのは、グッズではなかったはずだ。