HOME STUDY DATA GALLERY LINK BBS SEARCH MAIL

裏恋愛ゲーム学


第a講 オプトインラブ

──恋愛障害を越えて

2001/10/13開講(2001/10/07初筆)

1.オプトインラブ

 「オプトインメール」という電子メールマーケティング手法がある。アンケートの最後の方によくある「今後製品情報などをメールでお送りしてもよろしいですか?」というものだ。自分が許可していない企業からのメールがスパムメールとして受け取られてしまい、宣伝になるどころかむしろ悪い印象を与えてしまう場合が多いことが企業にも分かり始め、事前にメールを送っても良いという許可を利用者に明示的に選択させることが一般的になりつつある。

 「オプトインラブ」は、これをもじった造語で、次の2項目で表される。
(1)誰かを愛してもいい
(2)誰かに愛されてもいい
 訳が分からない?ならば安心だ。ここでつまずくと恋愛障害どころか人間障害が疑われかねない。恋愛障害は「社会的」に生きにくいが、人間性までは否定されない(そうでもないだろうか?)。しかし人間障害となるとかなり生きるのが大変になってくる。なお、「ラブ」という言葉を使っているが、ここでは他とは違い、愛とか恋とか(言うまでもなく純愛とか)、精神的とか身体的とか、loveとlikeの違いさえも意識しない。そういったそれぞれの現象に分化する前の、言うなれば「原愛」のレベルを指しており、この後の「愛する」「好き」というのもその意味で読んで頂きたい。

2.永久輪環

 「人に愛されたいのであればまず人を愛しなさい」と言う言葉がある。至極もっともだ。しかし「好きと言われて嬉しくない人はいない」というのは「好きと言われてもいい人」に言われるから嬉しいのであって、現実には必ずしもそうはいかない。好かれても嬉しくない人から好かれてもまるで嬉しくないということは往々にしてある。「人を愛する」ためには、愛してもいいという自分に自信がなければ難しい、言い換えれば「自分が好き」と言える必要がある。これがオプトインラブ項目(1)である。しかし自分を好きになるとはどういうことだろうか?一部で人気を博している漫画「フルーツバスケット」(高屋奈月)には言葉を閉ざしてしまった少女(杞紗)に対して、ヒロイン透の相手役の1人(由希)が――まるで自分に向かって語りかけるかのように――語る、こんなシーンがある。

「自分を好きになる」って…
それってどういう事なんだろう…
「いい所」ってどうやって捜すものなんだろう…
嫌いなところしかわからない
わからないから嫌いなのに
……
そうじゃないんだ
そういう事じゃないんだ
誰かに「好きだ」って言ってもらえて初めて…
自分を好きになれると思うんだ……
誰かに受けいれてもらえて初めて
自分を少し許せそうな
好きになれそうな気が
してくると思うんだ…
(第5巻 p.117-119)
困ったことにここで最初に戻ってしまった。「他人に好かれるためには、まず他人を好きになる必要がある」→「他人を好きになるためには、まず自分を好きになる必要がある」→「自分を好きになるには、まず他人に好かれる必要がある」→「他人に好かれるためには…」で抜け出すことのできない輪環のできあがりだ。

 果たしてこの論理を崩し、輪環から抜け出せるだろうか。抜け出すためには、その逆を行くことが必要になってくる。すなわち、

(i)他人を好きになることなく、他人に好かれる
(ii)自分を好きになることなく、他人を好きになる
(iii)他人に好かれることなく、自分を好きになる

のいずれかからこのこの輪環を崩さなければならない。(i)は外部条件なので後に回そう。(ii)はより現実的な方法だ。というより、健常者はここから輪環に捕われることを避けているのではないだろうか。しかし、全く他人に好かれることなく(またはその可能性が見出せることなく)実践するのは難しいのではないかと思われる。(iii)はどうだろうか。世の中にはこの手の、つまり「自分を許す」ためのハウツー本が溢れている。しかし他者と積極的に関わることが社会的なのだという無言・有言の圧力がある中で、他人に受け入れられることなく自分だけは自分を受け入れろというのは――確かに本人の甘えには違いないが――強者の論理というものだろう。

 ある種の「普通」の人には理解不能な犯罪ではもっぱら「普通」の人が不安から逃れるために安易にスケープゴートが求められがちだ。それは人間の多義性を無視した行為であり、1つの原因に全てを帰すのは無理があるはずだが、それでも彼(彼女)が十分に愛されていれば、何かしら違った結果になっていたのではないかと思われることは少なくない。しかし、現実には彼(彼女)は愛されることはない。もちろん私も愛さない。彼(彼女)には愛される何かが足りなかった訳だ。これは「いじめを苦に自殺」のような事件でも言える。「事後」に悲しむ同級生が報道される(ネタになれば何でもいいマスコミが喜んで報道する)ことがあるが、では「事前」に同級生は彼(彼女)を愛していたのだろうか。恐らく違うだろう。彼(彼女)にはいじめられる理由があり、そして愛されることはなかった。一体どこで「間違って」しまったのだろうか。

 (i)に戻ろう。先に書いたようにこれだけは外部条件なので本人にはどうにもならない。では逆に誰かが彼(彼女)を愛すれば彼(彼女)を救うことができるだろうか。恐らく軽症であれば救われるが、必ずしもそうともいかない。ここではオプトインラブ項目(2)が効いて来る。「誰かに愛されてもいい」人であれば、それによって救われるのだが、本人自身に拒否、拒絶されてしまうということはあり得る。もちろん彼(彼女)が本心から愛されたくないという可能性はずっと低い。「愛されたい」が「愛されていいか分からない」というダブルバインド的状況に陥ってしまうのである。

 引用した「フルーツバスケット」の人気の理由の1つにもそういうことがあるように思える。つまり、人を好きになることおよび人に好かれることに不器用な人が増えている、もしくは現代においては不器用さに自覚的にならざるを得ない(従来ならば必ずしも問題にならなかった問題を発見してしまう)ということの現れではないだろうか。

3.「0mの道」

 「恋愛障害」に話を移そう。この言葉がとても滑稽に聞こえる理由は、恋愛が本人の努力によってどうにかできる、そしてしなくてはならない事項であると一般に考えられ、他の障害のように社会的に保護・保障されることは決してなく、スティグマとして聖化されることもあり得ない一方で、本人にとってはしばしばどうにもならない「個性」(一般的な「障害者」は健常な人間からある部分が欠けているというのではなく、人間の「個性」の1つであるというのが「政治的に正しい」見解であるようだ)であるという二重性にあると言える。

 さてもし恋愛障害が単に「もてない」ということであるとする。小谷野敦によれば「もてない」とは「好きになった人から好かれない」ことだそうだが、そうであればひとまず人を好きになることはできているのであり、好きになることがなければ恋愛障害ですらないということになる。

 しかし恋愛障害者認定テストで判定される高度恋愛障害では、人を好きなることが難しいという場合も入ってくるだろう。それとは別に、標準的な関係構築力を持ち彼(彼女)がいないと格好がつかないということで見かけ上付き合っていても(この場合は恐らく恋愛障害者認定テストでは健常者として判定されるだろう)、本当は相手を愛せてはいないという場合もある。

 恋愛は道に喩えられることがある。2本の道がある時に交わり、恋が生まれる。そしてしばしば再び分かれる。ここで健常者は、他の道にすり合わせる能力があるということであり、もてないというのはどの他の道とも交わることのない「ねじれの関係」に陥ってしまっている状態である。しかしそもそも人を好きになることがないのであれば、道自体が1mも進んでいない。

 「オプトインラブ」の2項目のチェックがオフになってしまう理由は何なのだろう。やはり、以前にも触れた「適切に愛されてこなかった」ことに帰着するのだろうか。「適切に」というのが曲者だ。一番初めに接する他者――多くの家庭では確かに何らかの形で子供は親によって愛されるだろう。しかし、親が子供を自分の一部(あるいは自分のもの)のように扱い他者として接していないと問題が起こる可能性がある。例えば子供が常に他の同級生や兄弟と比べられ続けた場合、子供はありのままの自分が受け入れられないという感覚を持ったまま育つだろうし、あるいは親が望む子供と比べられ続けられれば、本人の希望との板ばさみとなり、仮に親の希望に上手く適合できたにしろ、ドロップアウトしてしまうにしろ「こんなはずじゃなかったのに」という思いに苛まれるだろう。本人の世界が広がって、家族以外の他者と1対1の関係を築いていくことが求められる中でも、失敗を繰り返したり、裏切られ続ければだんだんと人間不信になったり消極的になってしまう(※1)。

 自己保存の原則によれば人は自分がもっとも生きやすいと感じるように生きよう(あるいは世界を認識しよう)とする。ある程度成長した人格はその人が今まで生きやすいと感じるように適応してきた結果だ。「愛されていいか分からない」というのは愛され慣れていないからと考えられる(付け加えれば、「愛されていいか分からない」と恋愛障害者御用達の恋愛ゲームすら楽しめない)。「愛していいか分からない」というのも同様だ。人は他人に愛された分しか他人を愛せないのではない。受けた愛を何倍にもして伝えていくことができる。しかし0は何倍しても、残念ながら0のままである。

 副題の「恋愛障害を越えて」は恋愛障害を克服するというのではなく、そこに辿り付く前の、はるか「彼岸」の話だった訳だ。
このページの内容はいかがでしたか?
大変良い 良い まあまあ 改善の余地あり 不充分・不完全である

コメント(感想、意見、反論、今後扱って欲しいテーマ、etc./記入は必須ではありません):





















































































































































※1、後天的な原因以外には、ドーパミンD4受容体(D4DR)を作る遺伝子の塩基配列の繰り返しの回数によって新しいものを求める傾向が強いという遺伝子と性格の関係を示す研究結果が出されるなど、先天的なものも考えられる。「性格がどれがいいとは限らない」というのは建前であり、ある社会・ある時代のコンテキストの中では性格にも有利不利が存在する。(→戻る