Research
恋歴社会に生きる
――「世界」を変える3つの方法
裏恋愛ゲーム学 第b講
0.概要
いくら価値観が多様化した時代であると言っても、全ての価値が等価であるということはなく、ある社会の下では価値観はある方向へと偏向している。現代日本にあって、多くの人、特に若者たちが共有できる、ともすると最も「大きな物語」であるのが恋愛であり、その社会は「恋歴社会」と呼ぶにふさわしい。そして今、「恋歴社会」からドロップアウトした「恋愛障害者」たちは、人生をどう楽しく生きるのかという、難しい問題を突きつけられている。
2002/08/13初版
1.人の幸福度はどう表されるか
価値観が多様化した時代、ということが言われる。こういった時代にあって、人の幸福感はどう得られるのだろうか。幸福感、などと言い出すと胡散臭いと思われるかもしれないが、であれば単に楽しい、でも構わない。実際、私の行動原理は「楽しいかどうか」だ。
まず仮にどうであれば幸福なのか、という価値軸が単一であった場合を考えよう。価値軸が単一であるとすると、人が幸福であるかどうかは、その価値軸に沿って、どれぐらい達成されているのかということになる。これは問題ない。
では価値観が多様化、すなわち、どうであれば幸福なのか、という価値軸が、複数あり、それが人によって違う場合はどうなるだろうか。これを簡単なベクトルモデルで考えよう。数学が苦手だった方には申し訳ないが、言っていることはごくシンプルなので適当に読み飛ばして頂いても構わない。まず n 本の価値軸を p1, p2, p3, ... pn とし、ある人の価値観 A が、それぞれの価値軸をどれぐらい重要視するかという方向性を価値観ベクトル a = (a1, a2, a3, ... an) と表すとする。なお、ベクトル a の長さは全ての人が同じで a とする。次に、その人がそれぞれの価値軸 p1, p2, p3, ... pn に沿ってどの程度達成されているかを達成度ベクトル x = (x1, x2, x3, ... xn) 、この長さを x とする。そうすると、この人の幸福度 H は次の式で表される。
H = a1x1 + a2x2 + a3x3 + ... + anxn= ax …(1)
すなわち、ベクトル a と x の内積である。これが最大になるのはもちろん、a と x のなす角をθ( -180°≦θ≦180°)として(図1)
H = ax = axcosθ …(2)
だから、 cosθ = 1 、すなわち θ = 0°の時に最大値 ax を取る。 普通の言葉で言い換えれば、自分がこれこそはと思っている、価値を見出している分野において、成果を上げているのが、幸福だと言うことであり、これは直感にも適合している。
図1 価値観ベクトルと達成度ベクトル
なお、ここで価値観ベクトルが「人によって違う」、というのは大切なことである。もし仮に全ての人が同じ価値観ベクトル a = (a1, a2, a3, ... an) を持つならば、それを新たに1つの価値軸と見れば、価値軸が単一の場合と同じになってしまう。価値軸が複数あるのと同様に、価値観ベクトルが人によって異ならなければ、「多様な価値観」とは言えない。
2.「1億総弱者」の時代
ここで、最も交換価値の高い(多くの人が価値を見出す)価値軸のひとつである、カネを考えてみよう。今、日本では皆が等しく「痛みを共有する」改革が進められているが、要は高所得者が所得税や相続税などでごっそりと持っていかれてしまう超累進課税システムでは、働くモチベーションが上がらず、経済が停滞して行ってしまうので、高所得者に対して減税を行い、その埋め合わせとして低所得者層にも相応の負担を求めようということであり、これはすなわち貧富の格差の拡大を容認するということであると言っていい。実際、ごく一部の元気な地方を除いては、都市への富の集中化が顕著であり、「80-20の法則」どころではなく、今や10%の金持ちが90%の富を所持し、(言うまでもなく私を含めて)その他の90%は貧乏人という状況が生まれつつある。
このような状況で、仮に価値軸がカネという1つしかなかったとしたらこれは大変なことである。90%の人が不幸であり、生きがいをなくしてしまったら、機能する社会も機能しなくなるだろう。しかし、実際はそうではない。10%の金持ちは恐らくその代償として何か(例えば時間)を失っており、90%の貧乏人は、例えばワークシェアリングという形で、給料を減らす代わりに、余暇を獲得し、その人にとっての「豊かな」生活を送ると言った選択がされようとしている。
とうの昔に没落した価値軸の1つとして、かつて学歴というものがあった。いい大学に入ることでいい会社への就職が約束され、人生はバラ色、と言った幻想は、もはや遠い過去のものだが、「いい大学」に入ったエリートが全てを得た訳でもない。どの本だったか忘れてしまったが、エリートは挫折を知らないのではなく、むしろ勉強以外の点では挫折だらけなのである、といった一節を読んだ覚えがある。頭でっかちだから人間的に問題がある、と言ったステレオタイプな見方には与しないが、人が青春時代に与えられている時間が限られている以上、どこかに(ここでは勉強に)時間を投資すれば、別のどこかには投資できないのは当然のことである。
こうして考えると、人生の時間が限られている以上、価値観が多様化した時代にあっては、どこかで強者になることができたとしても、別のどこかでは弱者となることを受け入れざるを得ない。「1億総中流」ならぬ「1億総弱者」の時代なのである。
ここまで来て前節に繋がる。皆がどこかでは弱者であっても、どこかで強者であって、「多様な価値観」の下でそれぞれの人がその強者である分野に、価値を見出していけるとすれば、全ての人が幸福を手にできることになる。それはもしかしたら幻想なのかもしれないが、幻想か幻想でないのかを考える意味はないだろう(というより幻想だが)。皆が楽しく生きられることの方がよほど重要だ。「多様な価値観」というヤツは、(ある軸による)階級社会を相対化してしまう、まさに魔法のツールであると言える。
3.恋歴社会の誕生
だが、そう簡単には問屋が卸さない。前節でもすでに「没落した価値軸」という使い方をしてしまっているけれど、「多様な価値観」という魔法のツールがベストの効果を発揮するのは、あくまで全ての価値軸が等価であることが前提であるが、実際にはそうではなく、ある社会、ある地域、ある時代のコンテクストにあっては、皆が重視する価値軸は偏っているのである。それを前節ではカネに最もよく表れているように「交換価値が高い」という言い方をしている。
そしてその社会に生れ落ちた人は、周囲の価値観に影響されて育つので、「独自の価値観」と言っても多分に社会の価値観を含んでいる。この社会の価値観ベクトル b として、その人が係数 k で影響を受けており、本当に「独自」である、もしくは、ベースとなる時代の価値観ベクトルからの差分である価値観ベクトルを o とすると、第1節の価値観ベクトル a は
a = o + kb …(3)
と表され、o と x のなす角を θo 、 b と x のなす角を θb とすると、(2)と(3)から、
H = ax = (o + kb)x = oxcosθo + kbxcosθb…(4)
となる。個人の幸福度には、「独自」の価値観だけでなく、通常、社会の価値観ベースによって偏向されていることが確認できる。
一方で、「多様な価値観」は一見魔法のツールだが、副作用として、異なる価値観を持つ人とのコミュニケーションが難しくなるという弱点を持つ。「何が大事なのか」が違うため、話が噛み合わなかったり、議論が平行線を辿ったりしてしまう(注1)。しかしごく均質な価値観を持つ内輪だけでまとまって生きていくなら構わないが、社会に出る以上は、そこにいる様々な価値観に直面せざるを得ない。その際にとっかかりとなるのが、この価値観ベースである。
もうお分かりだろう。現代日本社会において、特に若者の価値観ベースとして、恐らくカネの次に交換価値が高い価値軸が恋愛ではないだろうか、ということである。高校や大学なら勉強やテストの話題、同窓会なら当時の先生などの話題や学校の思い出、会社での宴会なら仕事の話題、というまずローカルな話題はあるが、それが一巡すると、見るTVや聴く音楽を初めとして趣味がバラバラ、生き方もバラバラとなってしまうと、もはや共通の話題は「そこ」に限られて来る。誰しもが関心事である「はず」として話題に乗ってくる。経験豊富で多くのストックを持っている人の周りには話題が絶えないが、経験が貧弱な人は肩身が狭く、ともすれば「暴力的」にすらなりえる。
恋愛という価値軸が強力なのは、皆にとって関心がある「はず」というだけに留まらない。最も交換価値が高いとして挙げたカネは、大まかに言えば資産という数値でその軸について1次元で表すことができる。実際10%の勝ち組と90%の負け組といった状況であり、負け組の方がマジョリティであることから、専らマイノリティである富裕層に対してやっかみ、カネの亡者、汚い、ココロが貧しいという悪いイメージを与えたがる。しかし恋愛では、Winner takes allで20%の勝ち組が、80%の異性(異性愛者の場合)を引き付ける、という「80-20の法則」もある状況では見られるとしても、恋愛が基本的に1対1で行われる以上現実にはそうはならないし、「あばたもえくぼ」といった言葉があるように、この人こそという「確信」が一旦得られさえすれば、(少なくともその時点では)決して他には負けない、ベストパートナを見つけられる可能性がある。いや、正確に言えば、誰にでも可能性があるはずだ、と多くの人が考えているのではないだろうか。
そうして恋愛というものは多くの人の価値観に組み込まれ、価値観ベースとして構成されることになった。折しも、結婚制度というシステムがぐらついている中で、恋愛はパートナを見つける、非常に重要な手段になっている。大半の人が負け組に属するカネを除くと、現代日本にあって、多くの人、特に若者たちが共有できる、ともすると最も「大きな物語」であるのが恋愛であり、その社会はかつての「学歴社会」をもじって、「恋歴社会」と呼ぶにふさわしいのではないか。特定の価値軸において、価値観は全く多様ではなかったのだ。
注1、ごく狭い「社会」である、オンラインゲームですらすでにその兆候が現れている。何を求めてオンラインゲームをプレイしているかが、人によって異なるため、PK、ネカマ、ルートなどの「マナー」といった問題で、議論が収束を見ることはない。
4.「世界」を変える3つの方法
何故、恋愛社会ではなく、恋歴社会(より厳密に言えば恋愛歴社会なのだが)なのだろうか。これは恋愛をするための能力は一朝一夕には身につかないからである。小学生には小学生の恋愛が、中学生は中学生の、高校生には高校生の、大学生には大学生の、社会人には社会人の…というように、それぞれの段階においては、その年齢相当の恋愛というものがあり、通常パートナは相手に対して、相応の対応を求めているので、それに答えられないと関係が上手くいかない。ちょうど、受験勉強が基礎のないところに応用を詰め込んでも役立たないように、それぞれの段階の恋愛においてどこかでつまずいてしまうと、次の段階の恋愛に進むには、ますます障壁が高くなってしまうのである。いわゆる「恋愛障害者」に、単なる趣味以上に自分より低年齢のパートナを求める傾向が見受けられるのは、どこかで彼(女)の恋愛というものがストップしてしまっているからだろう(注2)。
その一方で、前節にも書いたように、「誰にでも可能性が開けているはずである」と多くの人が思っているので、学歴社会とは異なり、表立って恋歴社会からドロップアウトを選択する、もしくは宣言する人はほとんどいない。「恋愛障害者」という造語を提案したのも、もう少し、「現実」に目を向ける必要があるのではないかと考えたためだ。現実問題として、容姿、性格、話術、資金力といった面から、恋愛が得意な人と、不得意な人が存在するのは否定できないのだから。
恋愛が価値観ベースに組み込まれているとするならば、その価値軸において成果を達成できない(回りくどい言い方をしているが、要は「もてない」あるいは「非モテ」)というのは少なからずハンディキャップになる。「恋愛障害者」はこの障害をどうやって乗り越えるのか。拙作の「恋愛障害者認定テスト」で1級に認定された方はお読みになられているだろうが、「恋愛障害を抱えているという現実を受け止めた上で、それでもなお人生を楽しく生きられる道を模索することが大切」という文面は、実はこういった背景で出てきているのである。
「世界」を変える方法は理屈の上では3つある。現実性の低いものから順に(i)「社会」を変える、(ii)「自分」を変える、(iii)「世界観」を変える、の3つである。幸福度を表す式(4)を見て頂きたい。特に、恋愛の価値軸において、もてないこと(非モテ)は逆を行っている訳だから、cosθb がマイナスになっていることに着目する。
(i)最も非現実的なのは、「社会」を変えることだろう。社会の価値観ベースの大きさである b を小さくしてしまう、すなわち、完璧な「多様化社会」を築く、あるいは、 b を逆転させることによって cosθb をプラスに転じる、すなわち、恋愛障害こそ幸福である、という価値観が社会のベースになるように植えつけていくことである。これはいかにもばかばかしい。恋愛が多くの人に歓びを与えていることは確かであり、他人の恋愛まで否定するのは建設的とは言えない。
(ii)より現実的には、「自分」を変えることであり、 x の側から cosθb をプラスに転じる、言い換えれば、恋歴社会を受け入れて恋愛健常者へのリハビリを行うことである。一旦恋歴社会からドロップアウトしてしまっている場合、復帰は容易ではないが、当面風俗で自信をつける、といった方法もあるだろう。プライドをかなぐり捨てて、恋愛能力を高める努力をしていくしかない。
(iii)そして最も現実的なのは、「世界観」を変えることである。 1つは(a) k を 0 に近づけ、場合によって負に持っていくことであり、もう1つは(b) o を肥大化させる、 o を自分の x に合わせて捻じ曲げて行くことである。ここでいう「世界観」は、ビデオゲームで言うような舞台とか背景とかいうものではなく、文字通り「世界の観方」である。要は、(a)では社会化を拒絶し、他人と違うことを良しとし、「独自」の道を選択しているのである。言葉を変えるならば、自閉、ということになるだろうか。自分の中で、恋愛なんて所詮幻想だとか、人間はどうせ孤独だ、と考えたり、極端な場合には、童貞こそ素晴らしい、と主張したりと「独自」の「世界観」を構築してしまうのである。これは、ほとんどの人が恋愛やセックスの歓びが分かっているから、単なる変人に思えるが、実際には少なからず多くの人は似たようなことをやっている。前節を思い出して欲しい。カネが汚い、というのは、他でもなく、極めて交換価値の高いはずのカネを貶めることによって、カネの弱者であることを、無化しようとしているのだから。 一方(b)の場合は、自分が得意なこと、あるいは自分が趣味としていることを、他人がどう言おうとこれこそが価値があると思い込むことである。どうせ何に価値があるかというのはどんな価値観であれ思い込み(もしくは幻想)でしかない。であれば、自分は大丈夫なのだと思い込み、自分に有利な「世界観」を構築してしまえという点では(a)にしろ(b)にしろ共通している。
恐らく、(iii)によってのみ、人類は新たなフェーズへと進化することができる(別にお薦めしている訳ではないし、そしてこれも恐らく、彼(女)はその代で途絶えるだろう)。しかし、人はなかなか強固な社会の価値観ベースから逃れることはできないものだ(注3)。社会化から逃れようとする者には等しく、「社会」からの無言の問いが突きつけられ続けることになる。すなわち、
「生きてて楽しい?」
と。それでもあなたは、胸をはって、もちろん、と答えることができるだろうか。
注2、ついでに言えば、恋愛ゲームのモチーフも、ユーザよりずっと下の年代に設定されているものが多い。
注3、まさしくこんなものを書いている人間こそが、一番縛られているのは言うまでもない。