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身体的関係性と経験

 本論は「Piece of Distiny」(seraphim's/「コミックマーケット58」にて頒布)に初出の原稿です。

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0.まえがき

 昨年冬に、私にとって即売会用では2本目、このサークルでは初めての評論を上梓しました。そのときにちょっと気張りすぎてしまい、これまで私が持っていたほとんどの材料は使い果たしました。というわけで、今回については全く使えるコマがない状況でスタートしてしまい、ひねり出すのに多大な苦労を強いられました。全く、自分を常に変化させていくということは厳しいものです。

 いろいろ本を読んでみたものの、なかなか自分の血肉にならずに前の時以上に消化不良なものになりそうですが、ご用とお急ぎでない方だけおつきあいください。……といっても、これを読んでいらっしゃるということは、既にその心配は無用というわけですね。

 今年に入ってから恋愛ゲームをプレイすることがほとんどなくなってしまい、引用できる作品が前回と変わらないという状況にはお寒いものがあるのですが、よろしくどうぞ。

1. 改めて、関係性から

 Kanonがなかなか頭から離れずにいる。ONEのようにテーマや構成にうならされたわけでもなく、MOON.のように状況の作り方と内面描写の方法に感心したわけでもなく、不満点が結構あり、また、圧倒される力というものがあったわけではないのだが、なぜかいつまでも引っかかるところがある。麻枝氏の書いた舞シナリオについては、ONEから連なる点と、新たな方向性が見られるということは前回述べたとおりだが、今回は少し別の面から考えてみよう。

 まず、樋上氏の絵。ストーリーの持つ性質と絵の整合性の観点から見ると、彼女の絵は、顔が横に広いこと、目が丸く大きいこと、時々口がぽっと開いていることの点から、親近感・親和感・他者を受容する姿勢が出しやすい絵である。人が一般的にリラックスしているときの顔は、やはり顔が外向きに伸張し、ゆるむ。ちょうどそんなときの感じの絵なのだ。Kanonは物語の構成上その絵と合致した当たりの柔らかいところが多く、話と絵のバランスが取られていたからということがあるだろう。

 これに対し、MOON.においては、カルト教団内部の抑圧された状況にある時の顔とはどうしても適合しない絵である(緊張しているときは、人の顔も締まる)し、ONEにおいても、前半の学園もの的状況はともかく、物語の背後に潜む峻厳な姿勢とは適合しないものであった。それを考えると、彼女の絵はようや絵にふさわしい話に出会ったのかもしれない。

 ストーリー的には麻枝氏の側面は前回舞シナリオから触れたので、ここでは久弥氏側の名雪の例で考えよう。名雪は家族として、秋子さんと共に主人公・祐一に対し非常に近い存在として描かれている。それは、家族としての立場のみならず、心理的距離も近くなければ共感は得られない。

 家族といえば、名雪のみならず祐一の母的存在にすらなった感のある秋子さんは、その何物にも揺るがず全てを受容する姿勢が余りにも強烈であるため、逆に人間性の点からいえば、余りにも超越者的理想像を描きすぎて不自然と見えることもあった。あゆの存在をすっかり見通していながら温かく見守るその姿などは作中に神が現れたのかとさえ思うほどであった。

 名雪に戻ろう。名雪は、毎朝寝坊をして、だらしない姿を祐一の前にさらすことが結構多い。眠りは人間の生の基本的条件の一つで、これを描くことで日常生活のリアリティを出そうとして用いられることは、これまでの作品の中でも多かった。そして、眠りを描くことは、1人称視点の多い恋愛ゲームではこれまで主人公の立場以外では難しかったが、ここでは今まで主人公が負いやすかった「寝起きが悪い」という属性をヒロイン側に付与することで、主人公に対してではなく、名雪に対して、共感を呼び起こすことに成功している。

 寝起きが悪く、だらしない姿をさらすということで、私たちが例えば「名雪は低血圧なんだろう」と考えたとする。それはそれで事実かもしれないが、そうして処理したところで、低血圧という事実から名雪という人間の姿は見えてこない。科学的データや分類から人間の姿を描き出そうとする限界がここにある。

 別の考え方として、家の中で個室を持っている子供は、個室内はプライベート空間だとしても、そこから一歩でればある程度はパブリックな空間である。特に、今の水瀬家においては、祐一がいることで、その公共性がとくに上がっているはずである。しかし、廊下やダイニングで寝ぼけまくる名雪にはそういった意識が微塵もない。この名雪の、世間に対する身構えのなさが、祐一を、他者を受容する善意(もしくは無防備)のあらわれである。祐一は名雪にとって特別な存在だからかもしれないが、他のヒロインと交錯するときにおいても、名雪の優しさは突出しており、善意の態度は分け隔てない。このような身構えのない存在だからこそ、家族という存在根本条件である秋子さんが事故で生死の境をさまようことになったとき、名雪はあのような脆さ・弱さを見せたのだろう。そう考えると、その状況での名雪の幼さについても頷けるものがある。

 さて、その寝起きの悪い名雪が、祐一と結ばれた後、早起きをして驚かせることがたびたびある。これは、祐一と結ばれたことで、祐一を、他者を他者として改めて感じていることが身体に現れたということである。私たちも、「今日は○○があるから早く起きなければ」と寝る前に強く意識していると、目覚まし時計が鳴る前に起きることができる、ということがある。それと同様のことが、名雪にも起きたのだろう。

 また、名雪シナリオの構造は、拒絶されても想い続けられるか、ということの相互交換というものであったため、祐一と名雪は、それぞれベクトルの向きが向かい合っているだけで、他者性が希薄であるということは前回指摘したとおりである。むしろ、名雪の想いに祐一の想いを投影することを、そのシナリオ構造の中で要求されている。名雪の眠り、寝起きの悪さ、たまに早起きをするというこれらのことは、祐一との相違を身体から強調する表現として用いられ、他者性を身体の側から証明する手段となっている。

 このように、名雪の身体的表現から、私たちは自己と他者の間に横たわる「交通の可能性」と「身体的側面からの根源的断絶」を読みとることができる。前者においては、他者もまたそれ自身の体験を持つ自己と同位置に座する存在であるということを、後者においては、身体的側面のずれから、自己を完全に他者に対して投影することが不可能であるということである。

 このような自己と他者の分離はどこから生まれてくるのだろう。母と子の一体的環境から分離することは緩やかに進行するため、ここでは置くことにすると、その最初の例は人見知りではないだろうか。人見知りは人から見られることで照れるという行動であるというのは説明するまでもないが、他人から見られていると感ずることで、見られている自分を強く意識するということである。つまり、見ている他者を意識することで、逆に自分を意識するという構造になっている。であるから、自己に対する意識と他者に対する意識はほぼ同時に生まれていると考えられる。

 別の例では、「他人から脇の下をくすぐられるとくすぐったいのに(触れていなくてもくすぐったい)、自分でいくらくすぐってもくすぐったくない」という例がある。これは、くすぐるという刺激は生理的には一緒であっても、感じ方が異なるということである。つまり、触覚という非常に根本的な感覚の中にも、既に他者に対する直感的把握があるということを示している。感覚とは、もともと自己が自己の身体の中において感ずるものであるはずだが、この例では他者の存在に振り回されている。ここからも、自己を把握するなかにも、既に他者によって自己が把握されていると自己が感じているということが分かる。しかも身体的レベルにおいてである。単なる想念のレベルではない。

 ここから考えられるイメージとして、自己と他者の成立というのは、細胞分裂の際に、紡錘糸に引かれて対称に分かれていく遺伝子のように発生していくものなのではないかという印象を持った。つまり、自己・私ができあがるためには、他者の視線を条件として含むということが以上の例から浮かび上がってきた。

 もう少し視点について詳細に見てみよう。先ほどの人見知りの例では、幼い子供であっても、視点は常に自己にあるのではないということを示した。自己を見いだすために、見られている他者の立場から自己を見るという行為が行われている。いや、むしろ「〜ために」という言い方は正しくない。そういう目的をもって当人が立場を相手に移したのではないのだから。つまり、ある偶因的な状況の流動によって、視点は巻き込まれ翻弄されるのではないだろうか。成長によって、人は周囲から学び、意図的に立場を変えていくことができるようになるのだが、人見知り段階ではそこまで自在にできるとは考えにくい。ままごとやごっこ遊びの段階になると、意図的に別の役割を演じるようになっている。この際にも、子供の遊びにおいては、頭の中だけで行われることは非常に少ない。考えたことは自然と口に出るという段階もあるし、ままごとやごっこ遊びはまさに身体を用いてその役割になりきろうというものである。見覚えた父親の癖までまねて父親の役をこなすことであってもよく見られる例である。

 しかし、いくら他者の行動について身体全てを用いて表現したとしても、他者に完全になりきることは不可能である。なりきることができたら、その時点で他者は他者でなくなり、自己自身となるからである。そして、この交換不可能性は、身体によって規定されている。自己の身体というベースを抜け出せないからこそ、なりきることが完全にはできないのである。

 では、頭だけであったら可能なのか。抽象的なものの代表として、恋愛ゲームをあげてみよう。主人公1人称視点で書かれているものに対して、プレイしている自分を感情移入させる。しかし、どんなにその主人公の個性を消し去ったとしても、ここで私がこう行動するということを完全にトレースすることはできていない。もしそれができるということは、全ての可能性を網羅することであって、原理的に不可能である。同一化の陰には捨てられ、消し去られているものがあるからこそ同一化したという意識に到達できるのである。つまり、頭の操作によって、「同一化した」という錯覚に陥らせているだけ、というのが本当のところだろう。頭だけならばそれが可能である。身体を媒介させればそのずれが現れてくるのだが、そこを捨象することによって何らかの同一化への強化を行っているようだ。しかし、そこには真の他者は存在していない。

 しかし、そのような自己の身体もそれ自身で独立ではない。表情・振る舞い・姿勢などは、他者との交流の中から自然に獲得してきたものである。それらも、基本的には身体の構造に見合ったものであるが、世界的に一律というわけではないものも多く存在する。周囲の人間の有する文化的背景まで含み込んで学んでいることの好例である。

 このように、自己と他者は、交錯・循環しあいながら、次第にその輪郭を明らかにしていくものである。恋愛に置き換えるとするならば、同一化願望がなければそもそも恋愛は成立しないが、それのみでも成立しない。他者を見つめることで自己を定位していくことも必要である。これは、個人同士が互いに行っていくことであるから、他者から自己を常に定位し続けることは自己の組み替えを行うことであり、それを相手も行っていくことになる。ここに共存・共生の姿勢が立ち上がってくることになる。この点において、麻枝氏の向かおうとしている方向性には首肯できる。

 その麻枝氏の描くKanonの真琴・舞において、自己と他者の関係性をもう一度確認してみたい。真琴シナリオでは、祐一と交わす視線の変化に目がいく。出会いの場面では、射すくめるような目で斜に構えている。次に、家でいがみ合ったりしている場面では、出会いのような厳しさではなくなり、互いに近くで目を正面から向かい合わせている。うち解けると、並んで歩く登下校場面では、横に並んで立ち、時々視線を交わしあう。退行が進んで、「ごほん、よんで」という状況になると、並ぶ時よりさらに近く、体が触れて、寄り添ってという感じ。その後で天野に抱かれる時には、視線は交錯しないものの、至近の距離。別れの場面では、祐一の膝の上に真琴が座り、二人で同じ鈴をじっと見つめる。

 この視線移動の感じからも分かるように。発達段階の逆をなぞるように視線は移動している。退行はまさに幼児化の途でもあった。それだけに、二人の関係は当然恋愛ではなく、ラストの結婚も、文字通りの結婚ではなく、幼児がよく言うような意味、始めての他者を発見し(それは異性の親であることがほとんどではないだろうか)に理想化と同一化願望の入り交じったような感じでいう「けっこん」の意であろう。

 舞シナリオにおいては、舞が時折見せる幼児的な行動は、共通の文化的認識・土台が年齢にしては不足しているということであろう。自己表現が不得手であるということも、表情・振る舞い・態度を他者から学ぶ機会が奪い去られていたということの現れである。これは、他者との交流の機会が少なく、自分の内的葛藤(魔物との対峙)で精一杯だったためであろう。また、他者からは魔女としての扱いを受け、文化的共同性の側面からも排除されていたため。そのため、他者からの庇護と理解によって、他者と交わり、自己を創設していくところから、改めて始めなければならない。「取り戻さなければいけないものは、十年という長い成長の時だ。」という言葉もあるとおり、他者と共に生き、自己を定位するための時間と環境が必要だということである。そのため、祐一は舞だけでなく佐祐理も含めた3人の家族的な環境を必要としたのだろう。舞シナリオにおいて、祐一や佐祐理が行ってきたのは、社会的にはずれた行為には、精一杯、舞とそのほかの人々の間を取り持つことによる庇護と、舞の突飛とも言える魔物との対峙にとことんつきあい、舞を信頼し身を預けるという理解によって、共生の条件を一つひとつ揃えていったことであるだろう。

 舞は、自己の内部で自らの持つ「力」と対峙するために、一時的であれある意味妄想的な一義的に縫合された世界を構築し、その一見自立的な世界の中で生きようとしていた。それは自己にとって強い世界を作り出したが、他者に対して、社会的には無防備な弱さをさらけ出すものであった。そのような舞と、一つひとつ経験を共同で、みんなで積み上げていこうという共生の意志が対としてではなく、3人という姿で現れたのであろう。麻枝氏においては、更科修一郎氏がColerful Pure Girl誌2000年7月号のN.C.P最終回で指摘している、対という形式の自閉性に気づいているのではなかろうか。

 そして、今秋発売のAIR。イメージは空・大気・飛翔感というものだが、これらのイメージは、人間の一般的な生からは届かないとされているところであり、身体で感じ取れない抽象的な場や感覚である。最終的には広告(Colorful Pure Girl 2000年8月号裏表紙裏)の文言中に

■コンセプト
『本当の幸せ』とは何なのか。
広大な世界観を主軸に、物語はありふれた、誰もが共感する身近なテーマに収束する。

とあるので、やはり結果的には人々は地に足をつけ、自らの身体に見合った範囲で生きることになるであろう。また、ヒロインに対して必ず対になる人物を配置しているのは、主人公と併せて3人での共生、関係性の広がりに対する意識という、Kanonにおいて祐一−舞−佐祐理、祐一−真琴−水瀬母子(or天野)という構図をさらに追求し、発展させていく意図であると考えられる。

2.経験

 前章で関係性からスタートし、その広がりから共生へということを述べたが、それを身体的地点からもう一度見直してみよう。

 例えば、視覚。数人と卓を囲んで話をしているとき、話者は、全員を同時に同レベルで注目して話すことはできない。大抵の場合、一人に焦点を絞っており、それを時折別の人に動かしたりすることでバランスを取っている。そのとき、他の仲間や別のテーブルの人、周りの風景には焦点は合うことがなく、ぼやけている。

 一人だけではない場合もある。講演など、多数の聴衆を相手に壇上で話す場合、聴く相手の中で特定の1人に対して話すことは、ほとんどの場合ない。しかし、聴いている人に対して何となくではあるが、視線を向けており、背景の壁や窓の外を見ながら話すことはしない。その際も、人は詳細まではわからくとも、何となく見えており、背景の壁や窓の外はぼやけている。この例では、話者と聴衆は1対1で対応することはない。

 聴覚の場合、いろいろな音が混じり合ったゲームセンターで、自分がやっているゲームの音に特に注意し、拾い出して聴こうとしている。音楽関係のゲームなどは特にそれが必要である。他の音楽につられてしまったらゲームにならない。しかし、耳には他の音もがんがん入り込んでいる。その中で意識的に聞き分けることができるのである。

 触覚の場合、満員電車においては他者と触れあっているが、無視を決め込む。大抵、持っているつり革や鞄に意識を集中したり、本などを読んだりすることで、別の方向に意識を向けている。そうすることで、気分の良くない感覚を消し去ろうとしている。

 これらの例から分かるように、自己の身体における感覚器と知覚とは1対1対応になっていない。強弱をつけることで、感覚を一つの統一的な形に仕上げている。よって、第1章で見てきた自己−他者図式については考えを進めるための仮のものであったということになる。だからといって、自己−他者図式が誤りだというわけではない。一つの形として仕上げられたものを抽出し、その上で論じようとしたものであるため、周辺領域をカットしたものであっただけである。

 しかし、ここから分かることは、人はものそのものを完全な姿で捉えているわけではないということである。これは重要だから前面に持ってくる、これは今のところ不要だから、背景に追いやってぼやかしておいてよい、という判断をいちいち考えずに行いながらものを見ているのである。簡単にいうと、ものを見るときですら、意味として、(無意識のうちに)解釈を加えたうえで物事の把握は行われているということである。

 先ほどの例に帰ると、身体的な面からも、常に自己と他者・物は1対1ということではなく、1対多という感じで周囲の状況に自己はさらされ続けている。これを、1章の考え方を敷衍すれば、自己対世界という図式になるが、関係性という見方から、「経験」として広く捉える。

 そうすると、経験は解釈によって意味として得られるものということになる。その意味も、解釈の方法も、それまでの自己の経験によって、他者から得たものによって構成し、自己の中で作りあげた解釈の枠組みなのであるから、文化的な側面や、人間の生物的な自然的行動の蓄積を受け継いでいることになる。逆に言えば、私たちは、世界に「ある」うちに、既に成立している解釈の図式・枠組の体系を摂取し、それに合わせて行動することで、その世界にいられるのだといえる。それによって経験も生じるのだ、と。

 いつも手持ちの文化的蓄積や身体的自然さに基づいて解釈・判断していること、そのような例は、ふだんの生活の中で普通に過ごしていれば、大抵の場合はそうなる。歯の磨き方、顔の洗い方、箸の持ち方、お椀の持ち方、歩き方など、一つひとつ考えていたら生活はできない。新世紀エヴァンゲリオン(TV版)第1話で、シンジがエヴァに初搭乗した際、エヴァを歩かせることが困難だったのは、余りにも「歩く……」と意識しすぎたためであるだろう。

 しかし、所謂自分らしさを追求する場面では、そればかりが良いわけではない。例えば、恋愛ゲームのキャラクタ分類。ゲームのキャラクタとして実在の人間より単純化されているとはいえ、一人ひとりが異なった状況におかれ、その中で動いているにもかかわらず、外見属性・内面属性・行動属性等々で分類され、自分が気に入る属性なら大抵の場合所謂「萌える」という判断を下している場合などはどうか。この例のように、解釈が解釈と言えないほど自動的に動き出し、一面的な解釈の「公式」として結論が導かれる状況は、自らの思考停止状況とも直結する場合がある。

 抽象的な属性の言葉を聞いただけで、定型的に出来上がっていた解釈が自動的に動き出し、いつもの、しっくりとした、ある意味自分らしいなじみの結論が出てくる。そうして、世界が与える経験を一義的に両断し、全てを理解したつもりになっている。このとき、世界は写真に囲まれたように静止し、その全ての画像が所謂「お約束」で塗り固められた分かり切った世界となる。ここには、生きた生の感触、手触り、人や自然から発せられるざわめきや揺らぎといった多層的で重厚な感触が失われている。

 このように、背後に沈んでいく、解釈されなかったものの揺らぎを感じ取るには、自らが表現してみるのが最も有効な手段である。例えば、取り立てて題材を設定せずに何でもいいから文章を書いてみようとする。面倒くさいので、「書くことなんて、何もない」断念・放棄してしまえば、それで終わりかもしれない。しかし、「書くことは……」と考えるだけでも、少しはものを考えているものである。例えば、「そういえば、昨日入った喫茶店のコーヒーはおいしかったな」とか「電車で人を押しのけて最初に降りようとしたおばさんがいたっけな。あれは頭にきた」などということは考えているかもしれない。しかし、それらちょっとしたことを思い出した後で、「いや、こんなこと書いても仕方がない、面倒くさいし、まぁいいや。」という価値判断の後に「何もない」という結論に達したのではないか。一つひとつ辿ってみれば、何もないといわれるところですら、解釈による経験の構成は行われているものなのである。

 別の例として、絵を描くことを考えてみよう。服を着た人が椅子に座っている人物画を描いているとする。人、服、周囲の物を描いたとしても、服の繊維や肌の角質層までは描けない。また、描いたとしても無駄である。この絵の目的は、人の姿を描くことであるからである。目的が人体の表皮の構造や服の繊維の構造でないため、情報として排除される。時には、背景でさえ邪魔なものとして描かれないことすらある。

 類型化された解釈、ここでの「人を描く」ことによりものが生まれることで作品は完成したのだが、制作過程ので選び取られなかったものの可能性の陰を有している。たとえば、肌の質感や服の感触が絵から感じ取れたならば、排除された肌の角質構造や服の繊維構造を用いなくとも、これらを想起することのできる奥深さが内包されていると言えるだろう。

 しかし、これらの背景をを全て辿りきろうとすると、大変なことになってしまう。物理的に不可能である。経験とはどうやら、そういうものらしい。これらの例から鑑みると、経験とは二つの相貌を持ったものとして立ち現れてくる。1つには、経験したものを構成するとき、抹殺する背景的なものが必ず出てくるということ。2つには、その逆として、一つひとつの物事全てを経験として対象化することは不可能であること。この点からも、人はものそのものを経験として確保することはできないのである。

 先ほどの絵に戻ろう。描かれていないものを想起する経験とは、いったい何であろうか。それは、いま、ここにある現実の世界を揺るがすものであって、同時に、新たに感じ取ったことを加えて新たに現実を構成し直したこと、といえるだろう。つまり、新たな解釈を生成することは、自己のいる世界を、ひいてはその世界と共生している自己自身をも組み替えることである。経験とは、このように自己自身を組み替えるダイナミズムを持つものなのである。これを意識的に扱ったものがONEの中にある。

しかしこういう朝の光景にも慣れてきてしまっているが、よくよく考えてみると不思議なものだった。
それはなんていうか、ひとつ何かが違っていればここには至っていなかった、という奇妙な感覚だ。
これまでにも無数の分岐点があり、ここには至らない可能性がかなりの確率であったはずなのに、ここに至っている。
まあ裏を返せば、どこかには至るのだから、その時々でそんなことを思うのかも知れないが、それでも自分の人生として考えてみると、やはりこの巡り合わせは特別不思議だったりする。

全く問題にもならなかった自明の事実が、実は様々な可能性のうちのひとつにすぎなかったことという意識は、世界は他にも解釈しうる、世界は背後に一つの意味を携えているのではなく、無数の意味を従えている、その中の一つを解釈として選び取っているに過ぎないのだ、という意識を明確に示すものである。つまり、確固とした今という世界の中に、それを揺るがすものの陰を既にこの段階で認めているのだ。単純に言ってしまえば、世界は、ああも考えられる、こうも考えられる、そうして考えられた世界の一つが、現在浩平がいる、周囲に受容され、面白おかしく毎日を送ることのできる肯定性の中にある世界。しかし、遠い昔、辛い経験によって得られた

すべては、失われてゆくものなんだ。
そして失ったとき、こんなにも悲しい思いをする。
それはまるで、悲しみに向かって生きているみたいだ。
悲しみに向かって生きているのなら、この場所に留まっていたい。
ずっと、みさおと一緒にいた場所にいたい。
(中略)
ぼくは、そんな幸せだった時にずっといたい。
それだけだ…。

という諦念と、そこから救ってくれた

「ぼくは泣きやまない。ずっと泣き続けて、生きるんだ」
「どうして…?」
「悲しいことがあったんだ…」
「…ずっと続くと思ってたんだ。楽しい日々が」
「でも、永遠なんてなかったんだ」
そんな思いが、言葉で伝わるとは思わなかった。
でも、彼女は言った。
「永遠はあるよ」
そしてぼくの両頬は、その女の子の手の中にあった。
「ずっと、わたしがいっしょに居てあげるよ、これからは」
言って、ちょんとぼくの口に、その女の子は口をあてた。
永遠の盟約。
永遠の盟約だ。

という奇跡のようなやりとりとマジック・ワードから得た世界に対する解釈によって創られた、もう一つの可能的世界。それがONE特有の「永遠の世界」である。これらは、それぞれが別の一つの物語として世界の中に組み込まれている。このような複層的物語(世界)の生成に対する可能性の意識は、

9年間暮らしてきた街並み。
今、こうしてその中に身を置くと、いろいろな思いが沸き上がってくる。
この街で、どれだけオレが見てもなく触れてもないものが多いことか。 あの道だって歩いたことがない。
あの店だって入ったことがない。
どこからだって、物語は始まりそうだ。
人との会話から始まって、約束を交わして、再会して、お互いを知り、他人でなくなり、互いが互いを干渉し、生活が少しづつ変わってゆく… それは幾度となく繰り返されてきた日常のはずだ。
はずだったのにな…。

という場面の「物語」と感ずる点、違った世界へのスタートラインの可能性という方法で自覚されている。

 このような点からも、経験とは、意味を解釈によって定めるための多層的連関をもった世界の中から、ある特定の可能性だけを選び取り、他にあった様々な可能性を押しのけて実現するものであるということが分かるだろう。

 それでは、そのような可能的世界形成の中で浩平が生み出したもう一つの世界である「永遠の世界」については、一通り拙論で幼時の潔癖な感情から生み出された自閉世界と捉えているところだが、それがもう一つの世界、浩平がいる世界と干渉する観点を盛り込んで、改めて捉えなおしてみたい。

 これまで捉えてきた他者不在の自閉世界という捉え方は、それ自体解釈の産物である。存在しながらも、いないとみなす。解釈するとは、そういうことである。そして、その解釈どおりに風景や音さえも形成された世界、それが「永遠の世界」であろう。

夕日に赤く染まる世界。
静止した世界。
べつに光景が止まっているわけじゃない。
光は動いているし、バイクの加速してゆくエンジン音だって聞こえる。
静止していたのは、それを見ている自分の世界だった。
真夜中、誰もが寝静まった中、遠くに犬の遠吠えや、バイクのエンジン音を聴くのに似ている。
そういうとき、ぼくは属する世界が違うという違和感を覚えるものだった。
聞こえるのだけど、そこにはたどり着けない。
永遠、たどり着けない。
どれだけ歩いていっても、あの赤く染まった世界にはたどり着けないのだ。
それがわかっていた。
そこには暖かな人々の生活がある。
でもそこにはたどり着けないのだ。ぼくは。
(中略)
ずっと、動いている世界を止まっている世界から見ていた。
一分一秒がこれほど長く感じられることなんてなかった。
もどかしいくらいに、空は赤いままだったし、耳から入ってくる音は、変わり映えしなかった。
違うな…。変わるはずがないんだ。
進んでいるようで、進んでいない。メビウスの輪だ。
あるいは回転木馬。リフレインを続ける世界。

見ている世界とは一般に我々が生活している側の世界、浩平が「永遠の世界」に旅立つ前に生活していた世界である。このとき、「ぼく」は、世界を景色として捉えており、目で見て光景が静止しているわけでないし、音を聴いているにもかかわらず、たどり着けない、変わるはずないという解釈を施している。そしてそれは、そう解釈しているからそう受け取れるのだ。

 では、逆に、浩平が高校生として普通の生活を送っている側の世界から見ることにしよう。物語の構造として、この世界にいる間に、ヒロインたちのうちのいずれかとの「絆」が強固に形成されていなければ、浩平は「永遠の世界」から戻らないという形式になっている。それは「永遠の世界」とこの世界との間にどういう関係があるからなのだろうか。

 先ほどの方法と同様、世界に対する解釈の側面から見ると、浩平が絆を形成しないということは、毎日繰り返されてきた面白おかしく過ぎゆく学園生活が変わらず続いていくということである。各ヒロインに話がシフトせずに終わる、一般的Bad Endの直前にある言葉

いつまでも繰り返される日常。 他愛ない友達とのやりとりや、たまのすれ違い。 屈託なく笑い合って過ごす休み時間、退屈な授業。 それは、ふと思うと永遠とも感じられるような長く、穏やか時間。

ここには、世界に対する定型的解釈の典型が込められている。世界に対して、一つのスタイルとして学園生活の享受と安住がある。これは、「絆」を求めるために人と出会い、変わっていき、約束を交わし……というHappy Endへ向かうときに取る浩平の行動といかに異なることか。ここでは、浩平は自分自身を組み替える力を喪失しており、世界に対しても、変わり映えしないものと捉えている。この捉え方は、先程見た「永遠の世界」内の「ぼく」が抱く世界の解釈と同様である。であるが故に、浩平のいる世界が反転し、「永遠に変わらない状態が続く世界」へ導かれるのである。逆の言い方をすれば、浩平が『「永遠の世界」に旅立った』のではなく、『浩平の世界に対する見方のように世界が組み替えられた』といった方が正しいと考えられる。

 世界のかたちとは、人と人との共存・共生のかたちである。それが惰性によって固定化・画一化されるとき、経験は均一になり、別の(あり得る)可能性、それに向かう意志は失われる。均一の経験・変化の消滅した固定化された世界は、時間軸上のどこで切っても同じ光景しか現れない。だから、先に引用した「永遠の世界」での光景が立ち現れる。

 そして、「絆」の形成とは、自己のスタイル・世界に対する解釈の更新・それによるみずみずしい経験を得ること、経験するとは、解釈の道筋に単純化・固定化されない雑多な異物も同時に取り込むこと、他者とのずれ・相違を取り込み、自己を組み替えていくこと。そういった運動を維持するための切実な行動であったのだ。

 このため、ONEのヒロインたちは他者性を発現させるため、非常に戦略的な属性付けやストーリーの置き方をされていたのである。瑞佳シナリオでは、プレイヤーがどうしても選びたくないような選択肢を選ばせいく中で、主人公の浩平とプレイヤーの他者性をまず認識させる。そのうえで、さらに、「永遠の世界」のみずかと瑞佳を対置させることで、理想的存在として創りあげたみずかとの相違を突きつけているという二重の他者性発現の構造が隠されている。七瀬は、彼女自身が自己変革の最中で、剣道から乙女へのシフトの途上にあり、それを七瀬の性格ゆえ、浩平に直接ぶつけてくる。繭は異年齢として、浩平以上に変化の可能性のある存在で、かつ自分の昔を思い起こさせる存在である。みさきと澪は直接的ながら、身体的特性の相違を用いて、それだけに留まらないストーリーを構成する。茜は、もう一つありうる世界である「永遠の世界」の存在を認知しており、その立場すれすれの位置に立脚していることから、やはり異質性を際だたせている。

 そして、これらのずれを、相違を用いて、一つのスタイルとして形成されつつあった浩平の安定的世界観をゆるがすものとして、後半になって強烈に提示してくる。前半の安住できる世界に浸っていたプレイヤーは、それが揺るがされることでおおいに不安定な境地へ突き落とされることになる。しかしそれはONEに取って必要な戦略であった。しかし、プレイヤー自身が前半の浩平のように安住できる世界観の中に留まっていたいと考えているならば、この戦略によって揺さぶられることは、大いなる不快感として感じられることであろう。故に、所謂「ONE前半説」(ONE本来の面白さは、前半の学園生活での面白おかしい掛け合い漫才のような世界にこそあるとする意見)を唱えることになるのだと考えられる。

 最後にもう一度まとめよう。経験とは、人が生きてきた中で形成されてきた世界に対する認識の枠組みを、一定の立脚点において、そこに立脚しつつ行われる変形・組み替えである。簡単に言ってしまえば、不断の自己の組み替えということになるだろう。

 私たちが恋愛ゲームと向き合うとき、何を感じ、何を考え、そして、何を求めているのか。常に自己の立脚点を意識しつつも、そこに固執せず、守りに入らず、経験の一つとして、自己を組み替えるための一つの契機として受け取ること、それが要求されているのだろう。恋愛ゲームは、決して弱い自己を守り、自己の立脚点を補強するための城壁であってはならないのだ。私自身も、それを肝に銘じていきたい、そう考えている。

3.参考文献

“Kanon”,(株)ビジュアルアーツ/Key(1999)
“ONE〜輝く季節へ〜”,(株)ネクストン/Tactics(1998)
“現象学の視線 分散する理性”,鷲田清一,講談社学術文庫
“精神としての身体”,市川 浩,講談社学術文庫
“<身>の構造 身体論を越えて”,市川 浩,講談社学術文庫
“「私」とは何か 言葉と身体の出会い”,浜田寿美男,講談社選書メチエ

4.あとがき

 すいません。無理矢理終わらせてしまいました。本来ならば、もう1章あったのですが、1章と2章で述べたことをもとにしたものだったので、各論的な雰囲気になりそうだったため、同じ事を何度も引用しなければならない見込みがあり、しつこくなること請け合いなので、止めにしました。総論的なものの後に各論を1つつけてみても蛇足でしょう。構成も素直ではないし。

 というわけで、次回に単発で出すか、お蔵入りとなります。これは読者の方から希望を取ることにしたいと思います。え? なぜかって? それはですね、前回の感想が全然いただけなかったからなのですよ。まぁ、頒布数考えたら仕方ないんでしょうが、60枚(注:400字詰め原稿用紙換算分)も書いてそりゃないぜ、って感じだったんで。

 ま、あつかましいですが、そんなわけで感想よろしく。ある特定スタンスの恋愛ゲームユーザに喧嘩を売っているような気がするが、まぁ、それは気にしないでください。論拠はどこかに置かないと論というものは立てられないのですよ。世界の中に立脚点がないとものを見ることさえできないのですから。世界の外から眺める視点なんて私たちには存在しないのですよ。常に何かに巻き込まれ、関係づけられ、配置されて生きているのが人間なのですから。

 ……っと。与太話も評論のフォローにまわったので、それではこの辺でお開きに。では、また次回(があったら)見捨てないで会ってやってください。それでは失礼いたします。

酷暑の中、クーラーの利きわたる自室と都立中央図書館を行き来ししつつ。

2000年7月30日


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