Research
私的AIR論 恋愛ゲームを遠く離れて
本論は「far from」(seraphim's/「コミックマーケット59」にて頒布)に初出の原稿を恋愛ゲームZEROに掲載に当たり改訂されたものです。(2001/09/23,秋風)ページデザインのみ更新しました。(2003/05/10,秋風)
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(初稿: 2000.12.30 改稿: 2001.9.22)
1.絶望と希望・意志と諦念の狭間で
「AIR」(※1)において最も特徴的な点で、最も目に付くのは、なんといっても観鈴のキャラクタとしての幼さに尽きるだろう。どう考えてもこれでは一般的な恋愛ゲームとして主人公との関係を構築できるようなものとは考えにくい。どうしてこのようなキャラクタをもって「AIR」のスタートが切られるのか、そこを本論のとりかかりとして、物語のメインストリームである"DREAM"における観鈴、"AIR"のストーリーを中心に検討に入りたい。
観鈴の行動の特徴としては、ついさっきまでしていたことよりも強い刺激であったり、時間的に後から与えられた刺激にすぐに反応したりして、ころころと興味の対象を移していくという特徴がある。この例としては、往人と最初に人形を探す場面に特徴的に現れており、その他にも多くの例が挙げられる。このような感覚は、能動的に自らの意志によって自在に操れるものではなく、常に外部から自分自身に対して押しつけてくる反応に対して、やり過ごすことなく常に応じるということを示している。一般的な人と比べると、外部の刺激に流されやすいと言うよりは、過敏に反応しているということができ、これが行動として特に顕著に現れているところが非常に危うく、脆く感じられるのである。
つまり、観鈴は世界に対してあまりに無防備な存在で、世界から与えられる全ての物事を自分のものとして自分の感覚で常に受け止めてしまうような存在と言える。このような存在にとって「友達をつくる」ということが容易でないのは、他者の存在を一挙一動まで、全て引き受けるように一体となるようなところでないと、他者との距離を保てないという点に現れるためである。また、相手の存在を全て受け入れようとすることは、到底容易なことではない。一人の人間の存在といってもその内部では多様に分裂しており、一枚岩ではない。ある意味別の宇宙を一つ持っているようなものである。また、観鈴自身一個の有限な身体というものを持った存在である。そこにもう一つの別の他者が一遍に押し寄せてくるということになった場合、観鈴の方が持たないであろう。他者の存在は一遍に丸ごと全てを受け止めるにはあまりに大きく、あまりに錯綜したものである。よって、観鈴自身がたとえ受け止めようとしても、有限な存在である身体の方が悲鳴を上げて泣き出すということになるのである。観鈴が癇癪を起こした場面において
目の前にいる俺を全身で拒絶しようとしていた。
そうしてしまう自分を恐れ、戸惑いながら。
という文があり、ここで「全身で」という言葉が用いられているのは、これを言い表したものであろう。
もちろん、物語的伏線として、翼人としての記憶がそうさせたと読めるように伏線を張っていることが窺える。しかし、そうであっても、翼人は人の心よりも何倍も深いという記述があることから、例えば、翼人は他者を丸ごと受け止める心を持ち合わせているが、人には不可能といった理解が可能であろう。また、その翼人が神奈をもって滅びたというのであれば、観鈴の生きた時において、そのような方法で他者を受け入れることは不可能であるということを、設定の面からも告白していることになる。
このような他者との距離のとり方について、家族を例に比喩的に表したものの例が、"SUMMER"の[社殿]の段にある。
【神奈】「家族、とはどのようなものだ?」
答えたのは裏葉が先だった。
【裏葉】「そうでございますね」
【裏葉】「しいて申しますなら…」
ぴとっ。
【裏葉】「このようなものでございましょうか」
神奈の背中ごしに、ぴったりと身をよせる。
【神奈】「こらっ、この暑いのにはりつくでない。はなれよっ」
【裏葉】「………」
さびしそうに肩を落とし、座敷を出ていこうとする。
【神奈】「まてまて、そこまで離れずともよい」
ぴとっ。
【神奈】「だから、はりつくでないと言うておろうが」
【裏葉】「………」
【神奈】「まてまてまてっ、いちいち去ろうとするでない。もどれ、ちこう寄れ」
ぴとぴとっ。
【神奈】「…なぜおまえまで余にひっつく?」
【柳也】「いや、何となくなりゆきで」
【神奈】「ふたりとも余から離れよっ」
【裏葉】「………」
【柳也】「………」
【神奈】「だから、ふたりとも出てゆくでないっ!」
【柳也】「ああだこうだと注文が多い」
【裏葉】「まったく、まったく」
【神奈】「そなたたちは余をからかっておるのだろ?」
【裏葉】「めっそうもございません」
【裏葉】「家族とは、このように身を寄せあって暮らすものでございます」
【神奈】「そうか」
【柳也】「…そうか?」
何かちがうような気がするが。
【裏葉】「そうでございますとも」
もう一度すり寄り、てれくさそうな神奈の顔を袖でつつむ。
【神奈】「い、息が苦しいぞ」
【裏葉】「息苦しいほど身を寄せあうのが、まことの家族というもの」
ぎゅううううっ。
じたばたする神奈と、あくまでも笑顔の裏葉。
無理して見れば、仲むつまじい母子に思えないこともない。
裏葉の説明では「息苦しいほど身を寄せあう」のが家族の姿だと説明しているが、我々の実際生活上における感覚では、これだけでは不十分であろう。この場合は神奈が親と別れ別れになっていることから、家族の愛情の面を強調しようとして、裏葉の言葉では一面を述べているに過ぎない。真の家族の姿とは、上記引用の冗談のようなやりとりそのものの中にある。お互いが近付きすぎれば鬱陶しく感じ、互いがそのような感情を抱けば離れていく。しかし、離れすぎればやはり物足りなく、寂しい。だから神奈のように呼び返す。子が母を呼ぶように。それでもまた近付きすぎれば懲りることなく鬱陶しがる。この場面では、まるで太陽と彗星のような力学的構造を持ったものが人間関係の根本だといわんばかりの、当を得た裏葉の身体による例示であると考える。
このような観察から、一般的な感覚を持った相手にとっては、観鈴のあまりにも直感的・直接的に近付きすぎ、内に入り込みすぎる態度は、自分が侵されていくようで気持ち悪く、いつもいつまでもべったりという間柄ではとても持ちこたえられないということになり、いくら親しくてもある程度の距離を保とうとする。それが観鈴にはできないことなのである。そうすると、観鈴は拒絶と受け止め、いっぺんに離れた距離へと自分を置こうとする。観鈴にとっては一般的な人間関係の力学が働かないところにあり、そのバランスの悪さが、キャラクタとしての特異な存在感として現れている。
また、観鈴があまりにも危うく感じられるのは、外部の刺激に影響されやすいというところと切り離すことができない。これは、人間の態度としては「気分」として現れることが多いが、実際、観鈴は気分に流されて影響されやすいというよりも、一般的な人と比べて相手をより広く大きく受け止めることができる、そうしようとしていることで、逆に自らを危ういもの、脆いものとしているという面がある。
この、観鈴が流される「気分」の感覚は、外部からの刺激に対してより忠実であろうとするような態度の現れであり、だからこそ、気分というのものは、単に観鈴自身の身から現れ出た身勝手な感覚ではないのである。
よって、観鈴の行動が奇異に感じられるのは、外部からのものをより多く引き受けようとするあまり、人として常態の位置での身体的統合を計る事ができずに、自らの感覚をより外に押し広げようとして(これは人間としてより「高み」に位置しようとする想念にも繋がる)、無防備とも言える位置で身体的統合を果たそうとしていることが、常人と比較して奇異に見えるということである。
それゆえ、観鈴の見る夢についても、同様の方向性によって観鈴が自分自身のことと受け止めていることが分かる。夢を見ている間、観鈴は夢の中の自分を、自分の中に自分でない身があるとしても、それを自分自身として認め、身体を含めて統合しようとしている。だから、観鈴の身体に翼がないにも関わらず、その痛みを感じ取ることができるのである。夢の全てを見続け、受け入れてあげなければならないと感じているのは、観鈴自身の中に、そういう位置で身体的統合を果たすべく常日頃から行動しているという素地があるからこそ、それが夢の中であっても至極当然のこととして受け入れ、自分のものとし、空にある少女に思いを馳せ、共感することができるのである。
このような観鈴は一般的な生活を生きる人間としてはとてつもなく逸脱し、人間として一般にある位置から脱中心化している。しかしながら、生命として、全て他者と共にある生き方として、その位置に立って、別の地点から再中心化しようとしようとしている存在、それが観鈴ではないだろうか。冒頭に現れるかぶと虫に対する態度、人が概して気味悪く感じるカラスに対して抱く親愛と共感の情、既に滅びてしまった恐竜に対して想いを馳せる感情にも、そのような無意識の意志は通底しており、人間のみならず、他の生命の全てと共にある生き方として、拡張しても良さそうである。そうすると、"AIR"のラストに近いところにある言葉、「帰ろう、この星の大地へ。」という言葉が重みを持って立ち現れては来ないだろうか。
観鈴のような位置において人としての生を再中心化しようという思いは、おそらく他者からの拒絶にあって成功はしない事は自明である。そのような統合が不可能であることは、人よりも何倍もの心の深さを持った翼人が滅びたこの時代にあっては、不可能であると設定されているというのは前述のとおりである。そうすると、ある意味似たもの同士の往人の出現と、彼との交流によって、二人だけの「ひとりぼっちのふたり」というたとえで称される美しいが閉じた関係へと向かっていくことはある意味自明となる。だが、そのような世界は、一瞬成就するかに見えながらも、常に不安定さを抱えているその関係は、いつも、壊れるときは一瞬であり、その世界に安住することはできないという物語上の構成となって立ち現れている。
そのことを言い表すために、"DEREM"における観鈴の物語においては、(1)観鈴と一緒にいると誓った往人が一度観鈴の元を去ること、その後、(2)往人が観鈴の元に戻って消えるまで、(3)"AIR"において、往人が消えるところから観鈴が目覚めるまで、その後、(4)観鈴が諦めて「そら」に人間だったときの記憶が一時戻り、再び目覚めるまで、の4つの部分によって、執拗に愛の成就が一瞬成立するかに見えながらもそれは失われる、ということを繰り返し描いている。ここには、恋愛の成就ということによって得られるユートピアに対する徹底的な否定、もしくは「拒絶」とも受け取れるものを感じ取らずにはいられない。少なくとも、恋愛だとか親子といった言葉の中に、共に没入することのできる架空の共同体の存在を、あたかも根元的事実であるかのように設定し、そこへと遡及的に向かう方向性に疑問を投げかけていると考えられるであろう。
しかし、一瞬だけであるなら、確かに二人の想いが通じる時は確かにあった。それは失われるものだからこそ美しく、儚く、心の中に残る、という点では、このユートピア幻想的なものを完全に否定しているわけではない。人と人との交わりの中で、たった1点としての交点ととして、奇跡のようにきらめいた一瞬として、想いが通じる時はある、という感触よって想いの通じる時は物語内に存在している。だからこそ、往人の力によっても、それまで第三者として物語に介入することのできなかった「そら」に記憶の奔流が起こることによって再び似たような「奇跡」が出現することによっても、観鈴が夢から解放され全てが丸く収まるハッピーエンドとはならないのである。
それは、恋人として一般に理解されるような往人と想いを全て重ね合うという理想の姿であっても、親子としての晴子との間のものであっても同様であり、全てのユートピア幻想に辿り着くことなく観鈴は死んでいく。この死というゴールは、観鈴がプレイヤのあずかり知らぬところで設定され、あずかり知らぬところでそこに辿り着き、プレイヤのあずかり知らぬところで死を迎えたかのように受け取られる。これを運命論として見る向きもあるかもしれない。しかし、実際生活上、人間の死というものはいつ何時やってくるかは誰にも分からないもので、その意味ではいつ、どのような理由によって死のうとも、その死はただ単にそこにあるものであり、そこにある必然の死と言えよう。観鈴が一個の個体として人間の有する力で連日の痛みに耐え、眠ることもせずにぎりぎりの限界まで「がんばった」のであるから、やはりそこが限界であったのだろうという説得力は物語内に表現されているとおりである。
この設定の表層的な受け取り方としては、「わたしが終わらせるの、その悲しみを」という観鈴の意志によってしても、一個の人間としての観鈴の身体には、空にあるという少女の悲しみというものは荷が大きすぎたということであろう。この「悲しみ」の正体は、これまでの観鈴と他者との身体的統合の方法と結びつけて考えるに、個としての身体(個体)は、全体を内蔵できない断片でしかないという諦念が悲しみとして表現され、「AIR」の通奏低音として響いているものだと言えるだろう。これは「そら」にとっても同様に引き継がれ、「そら」の独白「人の記憶は、この体にはあまりに大きいものだった。」という言葉と関連づけても、生物としてのキャパシティというもの、身体の限界という点を捉えているものである。
このように、個としての限界を示し、さらに対としての関係性の中に幸せを解消することなく、観鈴は死んでいく。だからといって、全てが一人の翼人としての悲しみの中にある一般性の中に解消されたかというと、そうは言えまい。観鈴という有限な身体の活動を通じて、我々は無限なるものの一端を垣間見ることとなった。それが、"SUMMER"でいう翼人の記憶や心の深さというものによって象徴されている。その広さは、陸・海・空のいずれにもある生命の統合された姿として置かれている。もともと普遍的なものであるが故に、誰の心の中にも巣くう可能性のあるこの「悲しみ」は、また、誰も辿り着けないからこそ、悲しみをたたえているのであろう。
そのような「悲しみ」とは、人間が生物であるが故に持った限界と、それでもなお求めて止まない一点とを指し示しているように感じられる。観鈴の努力は、結局は"DREAM"において辿り着けなかった夏祭りの日に、"AIR"においては「そら」の存在が加わることによって辿り着くことができた。しかし、僅かな前進はあったものの、最終的には観鈴は自らの設定した「ゴール」に消えていき、空にいるという少女の「悲しみ」を解消するには至らなかった。そして、舞台は転じ、浜辺の男の子と女の子の存在。この2人は、"AIR"の冒頭の位置に立ち戻り、新たなるスタートを切ることとなった。
【みすず】「あ、子供が遊んでるよ」
彼女が顔を向けた、その先。
ずっと遠くまで見わたせる。
どこかにたどりつきそうで、どこにもたどりつけないような…
そのはじまりに、小さな影がふたつ。
男の子と、女の子だった。
【みすず】「楽しそう…」
じっと見つめている。
【みすず】「あんなふうに遊べたらいいのにね」
影のひとつが手を振っていた。
【みすず】「ばいばい〜」
彼女も手を振りかえす。
小さな影たちは、歩きはじめた。
どこまでも遠く、おわりのない道を歩きはじめた。
その先にあるものを怖がらずに、前に進んでいく。
それはきっと、ぼくが持っていないものだ。
つばさがふるえるのを感じた。
ふたつの影をいつまでも、彼女と見送っていた。
「そら」自身は、観鈴の死後、恐れながらも飛び立つことによって、ここで言う「はじまり」の位置に達した。この男の子と女の子には、「そら」の至った既に歩き出す勇気を持ってこの「はじまり」の位置に立っている。その意味では、既に「そら」の至った位置を確保しており、更に歩き出す勇気をも持ち合わせている。このことが、ラストの場面において以下の場面に示されている。
「もうすぐ日が暮れるね…」
海を見て、眩しそうに目を細める。
「そうだね…」
「じゃあ、その前に確かめにいこうか」
「ん? なにを?」
「君がずっと確かめたかったこと」
「この海岸線の先に、なにがあるのか」
「わたし、そんなこと言ったっけ…」
「言っていないかもしれない。でも、そう思ってると思ったんだ」
「そうだね…確かめてみたい」
今なら、その先に待つものがわかる。僕らは。
振り返ると、堤防の上にひとがいるのが見えた。
男と女。
男は眠っているのか、顔を伏せて座っていた。
その横で女のひとが、起きるのを待っている。
そんなふうに見えた。
女の人が僕らに気づき、手を振っていた。
僕は手を振り返す。
彼らには、過酷な日々を。
そして僕らには始まりを。
下ろした手を固く握る。
「じゃ、いこうか」
彼女が先に立って、待っていた。
「うん」
「この先に待つもの…」
「無限の終わりを目指して」
ただ、一度、僕は振り返り呟いた。
その言葉は潮風にさらわれ、消えゆく。
「さようなら」
そして、この場面では、その男の子と女の子には既に「今なら、その先に待つものがわかる。僕らは。」「無限の終わりを目指して」という言葉で、行き着く先まで知り得ている。「無限の終わり」とは、一個の生命が終わろうとも、連綿と受け継がれてゆく生命の営みの中で、常に死という終わりへと係わる意志、死によってもたらされる絶望が待っていようとも、そこに辿り着くまでは「できるって信じることが大切なのよ」(「MOON.」)という境地でいることが指し示されている。
少年の傍らに立つ少女を「そら」が飛び立つことによって「空にいる少女」を連れ返した存在と理解することで、この"AIR"のラストによって、「AIR」全体においてハッピーエンドを迎えたと捉える向きもあるだろうが、それにしてはこの「無限の終わり」というトーンはあまりにも暗い。しかしながら、先の検討の結果により、一個の人間によって「空にいる少女」の悲しみを引き受けることの不可能性について言及したのであるから、地上に現れる一人の人間が、その全てを引き受け、癒し、新たな一個の姿を持ってこの世界に体現されたとはどうしても読めないのである。そのうえ、最後の言葉「さようなら」は、そのまま折り返し、"DREAM"中のオープニング直後のシーンに引き継がれる。これにより、また新たな始まりが物語の最初へと降り立ったように感じられることになる。これらのことから、アンチ・ユートピアとしての物語、決して一つの大きな物語に解消されない物語としての「AIR」の相貌が浮かび上がってくる。
このことを補強する材料として、物語の流れに忠実に構成されたオープニング曲「鳥の詩」の詩がある。これによると、
真っ直ぐに眼差しはあるように
汗が滲んでも手を離さないよきっと
により、このラストシーンの男の子と女の子がしっかり手を握り、歩き始める姿が想起される。しかしながら、最終連にはまた冒頭の
消える飛行機雲 僕たちは見送った
眩しくて逃げた いつだって弱くて
あの日から変わらず
いつまでも変わらずにいられなかったこと
悔しくて指を離す
という詩に戻ってくる。せっかく一つ前の連で希望の前途をうたった詩でありながら、物語が輪廻を繰り返すように歌詩も冒頭に戻り、願いのかなわないところに落ち着くように意味づけられる。それは、この「AIR」の作者の有する根強い諦念が一貫して現れていることを補強するものであろう。これだけ執拗に全方位からの諦念の照射を浴びることで、我々は自らの心に沸き上がるこのあきらめとどうしようもなさは消えないという印象がついてまわるのである。
しかしながら、浜辺に立つその少女には海岸線の先にあるものを男の子と共に一緒に確かめたいという意志がある。二人の心は共通しており、彼らが観鈴と往人のように、「ふたりで目指したゴール」「誰も辿り着けなかったゴール」に類するものを共有していることがほのめかされている。このように、人間の生々流転のなかで、少しずつでいいから前に進もうとする意志の連関が、悲しみという絶望の淵にあっても生きることの真の姿だという、謙虚に一歩を進める姿が強い意志の力として現れている。このことで、誰しもが納得するような当たり前の結論の様相を垣間見せる点があることもまた事実である。
この一点に至るまでの人間の輪廻転生の中で、あるものは諦め、あるものは別の者のために一生を捧げ、ある者は探し求める先で良き理解者と共に一瞬の幸福な時を過ごしてまた旅立つ、そのようにして様々者が様々な人生の中で一つのことを目標として、連綿と受け継いできた、という数多くの往人・そらの物語があるという背景が「AIR」に語られなかった言外の物語として存在することも容易に想起できよう。そのことに想いを馳せるとき、我々がこの物語全体を改めて俯瞰することで、新たに踏み出す一歩は既に明らかであるように感じられる。
その新たなる一歩を暗示しているのは、ラストシーンの男の子が、「彼らには、過酷な日々を。」という心情吐露の台詞を吐くことにより、ラストシーンでのCGに現れている観鈴と往人とおぼしき人の行く末の記憶を男の子は既に有している点である。つまり、この男の子は、ここまで物語を読み継いできた我々読者と同じ記憶を有していることをここで明らかにしている。まさに、今我々読者がいる場所は、この男の子と同じ地点で、傍らには少女がいる。そして少年は固く手を握り、波打ち際を遙かの遠い目標に向かって歩き始める。それは、我々読者に対して、海岸線の向こうに待つものに対して、「どこまでも遠く、終わりのない道を歩き始め」ること、「その先にあるものを怖がらずに前に進んでいくこと」へと向かう方向性を求めているように読まれるよう仕向けられている。
ここでの波打ち際や海というものの理解については、「ONE」の
大海原に投げ出されたとき、ぼくは永遠を感じる。
だからぼくは、小さな浜辺から見える、遠く水平線に思いを馳せたものだった。
という言葉と比較すると分かりやすいだろう。今男の子と女の子がいる地点は浜辺の波打ち際である。CGからも分かるように、足許は波に洗われ、遠くには水平線が夕日に赤く染まっている。「夕日に赤く染まる世界」は「ONE」おいては永遠の世界の中で止まっている世界の例として現れていた。つまりは、海はあまりにも大きな存在で、ちっぽけな自分自身は飲み込まれたらどこにも辿り着けないという、絶望・虚無・永遠に置き換えることができる。その一端である波に足許を時々さらわれながらも、砂を踏みしめ、どこまでも続く波打ち際を、進める限界まで君と共に歩もう、といったことがラストシーンには込められていると考えられるだろう。
また、この「AIR」タイトル画面の変遷も同時に注意を払う必要がある。昼→("DREAM"クリア後)夕方→("SUMMER"クリア後)夜の海に月→("AIR"クリア後)全ての物語を読み終わったとき、タイトル画面には、波打ち際にたたずむ少女の姿が現れ、彼女は手を繋いでいる。既に"AIR"の物語が終わってしまったこの時点においては、その登場人物である少年と断定する根拠は既に存在せず、その相手はいうまでもなく象徴的に示されるのみである。現にこのタイトル画面を見ているのはプレイヤ自身のみであるため、この時点でプレイヤに向けられたものとしか考え得ない。このように、タイトル画面上の時の流れとは、物語の進行とリンクされていながら、物語の時間とは別の時間を歩むもので、それは直接的にプレイヤたる我々の時間進行(に対する意識)に影響してくるものとなっている。我々プレイヤは物語の進行と共に、物語とは別の時系列で進みゆく時を過ごしてゆく。そして、この「ゲーム」の(「物語」の外側にあるタイトル画面を含めたものと考える)作者は、物語を読み終わった後に、この女の子に象徴されるものがプレイヤの傍らにあることを願って、このようなタイトル画面の変遷を行ったのだと考えられる。
このような物語の終わりの後に示される暗示によって、我々は「AIR」の世界から離れて旅立つことになるのだが、そのとき我々はこれが残したものとともに、終わりのない道への第一歩を共に踏みだしているのだ、と考えられよう。そしてこの我々自身が歩みだしたという感覚は、この作品からバトンを渡された、という心境に例えられるであろう。そのバトンは諸悪の根源となる指輪に化けるのか、天使の輪になるのかは誰にも分からない。しかし、その何かを引き継いだ、という感覚に至る物語の存在感はあって余りあるものだろう。
ここまでで一応の結論を出したように見えるところではあるが、ここまでの流れにおいては、気付かれなかった僅かなズレが存在している。それは、"AIR"におけるラストシーンのCGと、物語読了後に現れる少女が誰かと手を繋いでいるタイトル画面との間に存在する。ラストシーンのCGにおいては、少年と少女のあいだにおいては、手を繋ぐことはなされていない。そこには「下ろした手を固く握」り、波打ち際を歩き出す少年の姿と、少し先を行く少女の後ろ姿がある。彼らのあいだには「この海岸線の先に、なにがあるのか」ということを確かめたいという想いでは共通しているものの、二人が結ばれる印とでも言うべき「手を繋ぐ」という行為は、"AIR"という物語の中では行われ得ず、それは物語の終わった後、タイトル画面として物語の外側において、手を繋ぐ主体・客体をぼかされた状態で行われるのみの行為なのである。
このねじれ現象が意識化されるとき、本論で既に書き分けてきた物語の入れ子構造について、更に明確な意識化をもたらすことになる。物語の面を取ってみても、"DREAM"・"SUMMER"・"AIR"という各々が別個に屹立する物語として存在しているうえに、それらの集合体として立ち現れてくる『AIR』という集合体としての物語という構造は、タイトル画面から容易に意識されるものであったのだが、更に、それをパッケージ化した「AIR」というゲームをタイトル画面の変遷によって意識させ、3重の入れ子構造であることを仄めかすこの手法には何が隠されているのであろうか。
ここまで考えてきたとき、「AIR」というゲームにおいては、3という数字が特権化されていることに注目する必要があるだろう。まず、ヒロインが3人であること。"DREAM"ではそのヒロイン毎に大きく道が3つに分かれること、各々のヒロインとの関係では、観鈴シナリオは「往人−観鈴−晴子」、美凪シナリオは「往人−美凪−みちる」、佳乃シナリオは「往人−佳乃−聖」という、いずれも3人を中心とした展開であること。そして、"DREAM"、"SUMMER"、"AIR"の3つの物語からなること、さらに、物語の二重構造+ゲームパッケージとしての「AIR」の存在を意識させる3重構造となっていることである。
更に一段深く考えるならば、その3つの要素がどれも2対1という分かれ方になっており、決して3つの要素は対等ではない(※2)。ヒロインでは、恋愛の一応の成就をみる「佳乃・美凪」と結ばれ得ない「観鈴」。ヒロイン毎のシナリオでは、男は往人だけ、残り2名は女、という分け方(これは往人が関わる以前の力学的構造と同じくする)以外に、「往人−ヒロイン」の結びつきと、それを見る立場に置かれるもう一人の女性という分かれ方(これは、往人が関わりを持った後に変質する関係)。シナリオでは、同一世界・近似的時間軸で結ばれる「"DREAM"、"AIR"」と過去の世界での話で、物語のバックボーンとなるように見えながらも、明確な関係があるようには記述されず、あくまで仄めかしの関連性としてしか述べられない「"SUMMER"」。そして、物語として語られる対象となりうる二重の入れ子構造と、それを包み込む存在でありながらも物語からの乖離を孕むというゲームパッケージとしての「AIR」。
これらの2対1の構図は、2と1が離れていくような構図と、1が2を包み込むような構図をいずれもが有している。この両者の運動をいずれの2対1が有すること、これは人間の存在そのものの持つ運動と共振している。ゲームの構造・物語の構図のいずれもが、ダイレクトに典型的な人間関係の揺れ動きと明確な関連性を有するところが、「AIR」の有する魅力の1つなのではないだろうか。
そしてそれが、先に述べたような、「我々自身が歩みだした感覚」や「作品からバトンを渡された」心境と渾然一体となって我々自身を揺るがすところに、「AIR」というゲームが、ゲームというその自立性・自律性に対して自らを自壊寸前とも言える形の揺らぎを生じさせ、ゲームの形式自体に対しても大きな疑問を有している所に気付かざるを得ない。そうでなければ、何故このような回り道をするような構造、仄めかしによる希薄な関連性、それらの脆く細い橋を自らの主体的選択・意志によって渡り継いできた(※3)プレイヤに全てを委ねるような終わり方を取らなければならないのか。それは、別視点から述べる2.の考察の後に併せて述べることとする。
※1 「AIR」
「AIR」は作品名、『AIR』は作品内物語の集合体としての物語、"AIR"は作品中の章・断章・作品内タイトルをあらわす、というように区別する。
※2 2対1
「マンガはなぜ面白いのか その表現と文法」(夏目房之介 NHK出版)p.211〜215「ラブコメの必須条件は三角関係とすれ違い」の段を参照。
※3 脆く細い橋を自らの主体的選択・意志によって渡り継いできた
"AIR"の冒頭部には、これから先の物語を読むか、読まないかをプレイヤに選択させるという挑戦的な選択肢が置かれていることに注意すべきである。これは以下のように問われる。
【声】「大丈夫?」
また、女の子の声。
【声】「ひとりでも生きていける?」
………。
【声】「よし、ちょっと歩いて、振り向いてついてきてなかったら、ここでお別れ」
【声】「いい?」
【声】「じゃ、いくよ」
ぱたぱたぱた…
女の子がどこかに消えた。
女の子を追う
じっとしている
この選択肢において、下の選択肢を選ぶと安心できる「お母さん」の元に戻ることになり、タイトル画面に戻る。上の選択肢を選ぶことではじめて"AIR"という物語は始まることになるのだが、この後、観鈴から更に参加の意志を問いかけるような言葉が吐かれ、戦慄する。我々は最後まで"AIR"を読むことによってこの戦慄の意味を改めて理解することになるのだが、その戦慄をもたらす言葉とは以下のような文による。
【声】「ね」
【声】「わたしと一緒にいく?」
………。
【声】「ついてきたってことは、そうするんだよね?」
………。
【声】「覚悟できてる?」
………。
【声】「じゃ、一緒にいこう」
我々はあくまで「そら」の立場にあり、「覚悟できてる?」という戦慄の言葉によっても、無言をもって物語の奔流へと巻き込まれていくことになるのだが、ここまで物語のメタ的構造とプレイヤ=読者の読む/読まないという参加の意志を明確に問う姿勢は少ないであろう。ここからも、プレイヤを物語世界内に引きずり込み、「そら」と視点を同一化させるために周到な準備をしていることが窺える。
2.閉じることのない物語
『AIR』という物語は、本論1に述べたように、幾つかの物語の複層的な結合から成り立っている。単純に分けても、"DREAM"、"SUMMER"、"AIR"があり、"DREAM"においては、3人のヒロインに分岐する構造のほか、町を出るという形でエンディングを迎える一般的なbad endが存在する。そして、"DREAM"においては、一つのendingを迎えたとしても、また同じ場所へバスから降り立ち、という構造で振り出しへ戻る。そして、3人のヒロインをクリアしない限り、次の章として置かれている"SUMMER"は現れない。ここだけ見れば、フラグ立て行うことで新たな途が開けるゲームとして、そう大した目新しさはない。しかし、1章においても述べたように、"DREAM"のオープニングにある「さようなら」の言葉は、最終章の"AIR"の最後の言葉から折り返す構造になっている。これにより、物語の構造はにわかに輪廻の様相を強くする。そのような物語の大筋は1章で述べたので、これ以降は撚り合わされた糸としての一つひとつに分解してそれぞれの物語の持つ方向性について簡単ではあるが言及したい。
その理解の補助線として、物語の向かう方向を3つに分解する方法を挙げてみたい。第1には上へ向かう物語、第2には横に向かう物語、第3には下へ向かう物語である。これは、身体を基準として、そこから物語が向かう方向として便宜的に分類したものである。
まず、横方向に向かう力として"DREAM"おける美凪や佳乃の大部分が割かれている。美凪の場合、「Kanon」における舞と同様、2人ではなく「みちる」を含んだ3人の中で、どのように関係が築かれ、お互いが認めあい、支え合うのか、という点が「星の砂」をキーとして紡がれていく。3人でいるときは、ドタバタがありながらも、廃駅という止まった時間を象徴する場所で優しい時間が流れていく。真の美凪を認めない母の存在を介しながら、最後は「もうひとりの自分」である「みちる」の消滅を受け止め、母を受け入れて、美凪は初めてこの町での居場所を獲得する。往人や「みちる」の存在という横の繋がりは束の間のことであっても、地に足をつけて、美凪はこれから先の道を歩んでいく。新たに現れた異母妹、みちると共に。
このような関係にあっては、恋愛の成就を伺わせる甘いひとときが続くのだが、それだけに解消せずに、「みちる」という自分の願望によって立ち現れた分身と言える者との別れを描くことで、自己コントロールのために創造した自分のための安住の地との離別を受け入れることで新たな関係の道を切り開くというところを強調する。また、その相手が母であるという点では、家族の成立という根本のところを前提とせずに、その成立条件までに追究を深めている点で、横の関係に対する徹底的な洗い出しという意図が見て取れる。
これとは対照的に、美凪が母親を受け入れられないことで、同様に「みちる」の消滅を受け入れられないときには、往人と共に二人だけの逃避行という形で町を出ることになる。この場合には、根なし草としての往人と同様、美凪も、町にある全ての関係を断ち切って往人と共にあることだけを願う。彼女の見る夢は、甘くて苦い。恋愛の成就が、ただ二人だけであることという点に絞られたときの自閉性、更科修一郎によれば「ひとりぼっちのふたりが残った」(※4)という言葉にそのまま当てはまる、寂しく空しい二人がここにはある。美凪と出会う冒頭の場面より、美凪は往人に対して一方的な好意を有している表現があちこちに垣間見られるのだが、それを真に受け、美凪のことしか見えていないような選択をとり続けると辿り着くのがこのエンディングであり、これが恋愛を突き進めた後に行き着く途だったのか、と非常に考えさせられるものである。
もう一つ、"DREAM"における佳乃では、往人は佳乃を救い出すために自分の持つ法術の力を使い、佳乃を救い出すための道付けを行う。それにより、佳乃は過去の物語に囚われたところから戻り、母親からの「あなたに羽はないから、そこで、しあわせに、おなりなさい」といわれてこの場所へ戻ってくる。そして力は失われ、往人は佳乃と共にこの町に留まることになる。根なし草の往人が自分の居場所を見定め、あろうとする場所に腰を落ち着ける。これにより、「空へはあいつにいってもらおう」という言葉どおり、空への思いを往人は断ち切り、佳乃と、聖と共にある関係の中へと取り込まれていく。これが恋愛ゲームにおいて所謂普通の幸せというもので表されるものではないかとうかがえる。
「AIR」においては全体に歴史や過去への物語の言及がイメージとして漂っているため、佳乃においても過去の歴史・過去の物語と関連づける必要性があったのだろうが、それとの関連性は必然と呼べるほど切迫したものでもないし、明確に関係づけられているわけではない。また、佳乃と母親との関係も、美凪と母との関係の危うさ、観鈴と晴子との親子であることがほとんど不可能であること、その中での一瞬の輝きによって見いだされた親子というものと比較すると、どうにもおざなりな印象が否めない。死んだ母はいつも空から見てくれている、では説得力と切迫性にあまりに欠けており、ここでは常軌の恋愛ゲーム的なシナリオをなぞった、その中での関係の獲得、という程度でしか読みとることはできないだろう。しかし、聖やポテトという特異な存在のおかげで、毎日の生活が楽しく充実し、恋愛だけの関係に解消されない猥雑な毎日という点があることで、恋愛の自閉性に絡め取られることはないだろう。
"DREAM"おける観鈴においても横の関係性は当然、あり得る。往人を介することでぎりぎりのところながら自らの生きる道筋を見いだし、Living Systemとも言える自己のあり方を見定めた、という点では横と言えるだろう。しかし、二人が共通して向いていたその方向がどちら向きかというと、それは上ではないだろうか。
ここで観鈴は「空は、いつも、思いを馳せてた」とあり、往人は「この空には少女がいる」との思いで空を見上げ、二人の思いが交錯する。それぞれは「孤」としての「個」の位置にあり、「空にいるという少女」を媒介として関係が深まる。「いつも一緒にいる」という横方向の繋がりとしての方向性もあることはあるのだが、それはこの物語が中途で終わることによって追究が中途で打ち切られる。人形に往人の力が託されるところで終わるのは、力が向かう方向はいつもたったひとりの少女を救うことであり、その少女は空にいるという少女と常に重ね合わされていることを強調するためで、往人の思いによって観鈴が目を覚ますというところで終わりを迎えるのは、「空にいるという少女」の追究という、空へ向かうまなざしに一点を集中させるため、便宜的に行われたものであるということが想起できる。物語自体はもう一度輪廻をしたうえで「そら」の存在を加えて"AIR"に引き継がれるのだが、そのためにこの物語を終わらせるのにこの場所が選ばれたのも、そのまなざしが上に向かっていればこそ、観鈴という限定された身体から越え出ようとする方向が上へと向かっているところで終わらせたかったのだと考えられる。
もう一つ、上へと向かう方向性のあるものが、"DREAM"における美凪の中での往人である。みちるとの交流、母を受け入れることに対して仲立ちのような役割を果たした後、美凪と共にこの町に留まるのではなく、あくまで「空にあるという少女」を求めて往人は町を出る。この一点にも上へ向かう意志が働いていると考えられる。簡単にいうと、「自分はこのためにあった」という思いを、美凪との関係の中で再認識し、空に向かう志を強くしてまた旅路に向かうという方向性である。
柳也においても、上への方向性に近いところがあるだろう。それは殺さずに神奈を守りきって母の元へと案内するという命に対して一応応えおおせた点にある。社会的に非常に高次の要求であるこの命に柳也は成功した。しかしながら、その上への方向性は、母の死、神奈の消滅によって、途半ばにしてもぎ取られてしまう。そのようにして失った目的に、柳也は一度自棄となって死を望むが、裏葉の懇願により太刀を納める。その後、神奈を空より取り戻す方法を模索する中で最期を悟った柳也は、裏葉との間に子を残すことでその意志の伝達を願う。このストーリー展開の中には、上(神奈)への目標を失ったものが、横(裏葉)との関係を意識するという、方向性の転向という一面が隠されている。より高次へ向かう目標が失われたとき、その間隙を埋めるものとしての横方向の関係性へと向かうことに、柳也は最初ためらうのだが、一個の生命としての限界を、新たに生まれくる者に託すことで上への目標を別の者へと委ねるというぎりぎりの選択を、切実さと説得力をもってあらわしている。
また、柳也と裏葉と結ばれる横の関係では、柳也は最初、神奈を取り戻すという目標に届かないことを、横の関係に依存して逃げることに対する嫌悪感が強かったのだが、最後の場面では、「それでこそ…俺の…連れ添い…だ…」という言葉で、裏葉と共にあったことを肯定する。横方向に向かう関係性に対して、これは決して逃げではないのだ、という一面を垣間見せ、"SUMMER"は終焉を迎える。
下へ向かう方向性は、これまでに検討してきた物語によって、上や横への方向性の発露に一度向かうことによって自覚されてきた「個」の存在を、立ち返って「個」の中に入り込み、「個」の限界を意識し、根底へと問いを深め、検討し直すものである。その追究が、"AIR"全編に通底した意識を持って描かれている。それゆえ、視点人物が物語にほとんど介入できないカラスの「そら」に置かれている点は、それまで1人称の多かった恋愛系のゲームとしては珍しい位置となっている。これは「ONE」において「ずっと、動いている世界を止まっている世界から見ていた。」というほど極端ではないにしろ、世界に対して無力な自分ということを表現のうえから示したものと言えるだろう。
物語に対して選択肢がないという点では"SUMMER"においてもそうだったが、"AIR"においては「そら」が視点であることによって、物語に介入できないことに加え、意志を伝える言葉がないことなどによって、物語内の人物としても、周囲とは異なる、離れた地点に置かれてしまう。これは、物語の内部と外部を峻厳に分けることに繋がり、我々読者を物語の内部に対してはある程度感情移入することはできても、視点を同じくして同調することを拒絶する。
さらに、"AIR"という物語の流れの中で、我々はそらの自問と共に、自分自身との自問を始めることになる。むしろ、そのような方向性に誘導するかのごとく「そら」の視点において物語が語られているのであるから、それは当然のことであろう。そのように考えると、ストーリーの流れが"DREAM"と同じということで退屈という評も見られた"AIR"の前半部も、「そら」という外部と言って良い視点から見たときと、往人として物語の内部にあったときとの相違を意識すれば、スリリングな面が立ち現れてくる。決して「そら」以外の感情に対する描写をせず、第三者的に淡々と語っていくこの"AIR"を読み進めていくうちに、我々は「なんと遠くへ来てしまったことか」という思いを抱かずにいられなくなるだろう。それが、閉じない物語の、安寧の世界へと誘うことのない物語の力なのである。ここには同種の物語が、ずらされ、多層化し、深まっていく様子がまざまざとみてとれる。
物語が「ずれ」を内包するためには、「ずれ」る以前の真なる像がない限り「ずれ」を「ずれ」として受け取ることはできない。そのために必要であったのが"DREAM"の物語達であったのだ。そういう意味で『AIR』という物語の撚糸の中において、どれが「真の物語」なのか、という元祖争いは無効となる。
それらの物語たちが向かおうとする様々な方向性が乱反射して、どれが真の像ででどれがずれた像なのかが分からなくなった世界、その暗示としての複層的な物語構造、あくまで仄めかしによる希薄な物語毎の関連性、遠い空の一点にあるような、無力で影響力を及ぼせない「そら」の視点位置。これらが渾然一体となって立ちのぼってくる、乱反射したような薄靄のかかったような曖昧な世界を眺め続ける「そら」の、全能の位置に居ながら有する無力感。これらは「どこまでも行こう、この僕の中の深みへ」という言葉で表された「ONE」の永遠の世界を彷彿とさせるものである。「ONE」の永遠の世界に浩平が「旅立った」のではなく、「浩平の世界に対する見方のように世界が組み替えられた」との理解(※5)に立つと、「そら」が第三者的に感じ取ってきた"AIR"での物語により、最終的には「そら」自身がその物語を第三者的に経験することによって、挫折感と諦念を抱きつつも飛び立つ意志を獲得していくという、内面の深化をもたらしている。そしてそれは、我々読者に対しても、同じ視点から、同種の経験を与えたということになる。
もし、"AIR"の物語が押しつけがましく感じることがあるならば、原因はそこにある。読者自身も、「そら」の目を通した物語による経験を共有(悪くいえば、強要)していたのだから。そしてそれは、ダイレクトに「そら」とともに我々の存在をも揺るがすものであった。その点において、この物語の試みは成功したと考えてよいだろう。
このように個々の物語の分類を丁寧に見る限り、外部から内部に向かって次第にまなざしを向ける方向が変化しつつ物語が進み、最後には読者自身の存在を揺るがすような経験として立ち現れる物語づくりとしては共通してなされており、この点において物語構成上の効果が非常に高かったということは明確であろう。
また、この「そら」の飛翔という点においてはもう一つの流れが考え得る。"AIR"のエンディングを見る限り、「そら」の行動によって「空にあるという少女」の帰還は読みとれないとする私見に立つと、「そら」の経験を我々がなぞることによっても、設定された目標は完遂し得ないということになり、それは挫折と諦念という、この物語の通奏低音を増幅こそすれ、円満な解決というものを峻厳に拒否する姿勢になっている。
ここで、本論1の最後で述べたこととの関係が浮かび上がってくる。読者までも物語の世界内に取り込まれながらも、物語の続きを読者自らが生きるように関係づけられてしまう構造でありながら、なおそこには挫折と諦念という印象を拭い去れない「AIR」というゲームは、そのゲームという形式すら揺り動かされながらも、なお人を惹きつける作品として成立するのはなぜなのだろうか。
ここからは、この「AIR」という作品を通して仮構されてくる「作者」を認めないわけにはいかない。その「作者」は語ることそのものの不可能性と伝達に対する疑問に苛まれつつも、常にぎりぎりのところで物語を紡ぎ続けているのであろう。その真摯でありながらどこか空回りな感じを否めない姿は、我々が自らの生を生きつつ挫折などから否応なしに感じ取ってしまう無力感・空虚感と、自分が主人公である「自己という物語」の特権性との、無力感と万能感のあいだを揺れ動く振り子と共振している点にあるのではないだろうか。そして、その作者と読者との共鳴が、この「AIR」というゲームを、作者とプレイヤとのあいだという特異な地点に立たせることになっているのだろう。
(※4) 「ひとりぼっちのふたりが残った」
Colorful Pure Girl 2000年7月号 N.C.P最終回タイトル「そして、ひとりぼっちのふたりが残った」による。
(※5) 「ONE」の永遠の世界に浩平が「旅立った」のではなく、「浩平の世界に対する見方のように世界が組み替えられた」との理解
拙著「身体的関係性と経験」より引用。
参考文献
AIR (株)ビジュアルアーツ/Key 2000年
Kanon (株)ビジュアルアーツ/Key 1999年
ONE〜輝く季節へ〜 (株)ネクストン/Tactics 1998年
MOON. Renewal (株)ネクストン/Tactics 1997/1998年
Ornithopter −AIR Original Compilation Album−
AIR初回特典(『鳥の詩』歌詞引用)
現象学の視線 分散する理性 鷲田清一 講談社学術文庫
精神としての身体 市川 浩 講談社学術文庫
<身>の構造 身体論を越えて 市川 浩 講談社学術文庫
マンガはなぜ面白いのか その表現と文法 夏目房之介 NHK出版
Colorful Pure Girl 2000年7月号 N.C.P最終回 更科修一郎