中山道(街道)に関する用語
last revised on 2003/10/10.
間の宿 あいのしゅく
正規の宿駅の間に設けられた休憩用の宿。宿泊用の施設を設けることは許されなかった。
一里塚 いちりづか
徳川家康は天正十八[1590]年江戸に入城して以後、街道の整備を進めてきたが、
慶長九[1604]年秀忠に命じて、江戸を中心とした五街道に一里塚を築かせ、これを全国に及ぼした。
1里を36町(4km弱)に統一し、江戸日本橋を基点として1里毎に塚を築き頂上に榎を植えて旅の里程の目印としたもので、
塚の大きさは5間(約9m)四方、高さ1丈(約3m)に定められた。
通常、一地点に一基だが、道の両側に二基造られることもあった。
また、場所によっては榎の代わりに、松、杉、欅、槐、檜なども植えられた。
旅人にとって一里塚は里程や乗物賃支払いの目安になり、またその木陰は恰好の休憩の場ともなった。
追分 おいわけ
1.分かれ道の分岐する場所。主要な分かれ道ではY字路になっていることが多い。
2.沓掛宿と小田井宿の間にある宿で、北国街道(善光寺道)と中山道の分岐点となっている。
木曾五木 きそごぼく
幕府により伐採を禁じられた木。檜、サワラ、アスナロ、コウヤマキ、ネズコ。
高札場 こうさつば
幕府の法度・掟書、宿場の決まりなど書いた高札を掲示した場所で、宿場の入口や立場などにあった。
庚申塔・庚申塚 こうしんとう・こうしんづか
60日毎に巡る庚申の晩、就寝中に三尸[さんし]の虫が体から抜け出しその人の悪行を天帝に告げることによって
本来120歳の寿命が縮まるという民間信仰があり、庚申の夜に寝ずに集会を行った。
その講の供養としての石碑で、各地に建てられている。
一般的に青面金剛像や庚申の文字が彫られる。
五街道 ごかいどう
江戸幕府の定めた主要な街道。東海道:品川から大津まで五十三次、中山道:板橋から守山まで六十七次、
日光道中:千住から鉢石まで二十一次、奥州道中:白沢から白川まで十次、甲州道中:内藤新宿から上諏訪まで四十四次としている。
正式には中山道は草津までだが、京までの六十九次とする場合もあり、本サイトでは京までとして扱っている。
宿駅 しゅくえき
旅人を宿泊させたり、荷物の運搬に必要な人馬の継ぎ立てをする設備(問屋)のある所。宿[しゅく]、宿場[しゅくば]、駅[えき]とも言う。
常夜灯 じょうやとう
旅人の安全や利便を計るために民間の有志などが建てた石造物。
追分や神社の入口、河川などに建てられ、夜は明りが灯された。道標を兼ねることも多い。
助郷 すけごう/FONT>
伝馬、人足が不足するとき、応援を負担するように指定された宿駅付近(1日以上かかるなどかなり遠方が指定されていることもある)の郷村やその課役。
関所 せきしょ/FONT>
古くは律令時代から設けられており、防衛と治安維持のために設置された。
大名行列 だいみょうぎょうれつ
江戸幕府による大名統制の手段として、寛永十二(1635)年に「武家諸法度」改訂され、
一年毎に江戸と領国を行き来させる参勤交代制度が制定された。
これによる行列は石高などにより異なるが数百人から千人単位の共を従え、先払い・槍・鉄砲・立傘などに続き、藩主は駕籠か馬に乗った。
平均して1日に8~9里程進んだ。中山道を利用した大名は30家前後であった。、
立場 たてば
宿の間などで旅人や籠かきが休憩する場所で、茶屋などがあった。宿泊は許されていなかった。
伝馬役 でんまやく
江戸時代、人馬の継立、休泊、川越えの準備などをする役で、幕府から宿場に課されたもの。
問屋 といや
宿場で最も重要な役目である公用荷物引継ぎの業務を行う場所。定められた人足、馬を用意しなければならなかった。
荷物によっては無賃の物も多く、御常賃銭という公定料金も低いため経営は苦しかった。
宿によっては複数軒が交替で勤務を行う場合もあった。
東山道 とうせんどう
古代の七道の一つ。奈良から美濃、信濃、上野、武蔵を結ぶ、中山道の元となった道。
道祖神 どうそじん
旅人の安全を願うために村堺や峠などに建てられた石碑。
文字の他、男女2体の像が彫られた双体道祖神、祝言道祖神も多い。
塞の神[さいのかみ]とも言う。
旅籠 はたご
元々旅のときの馬の食糧を盛る籠の意味だったが、それが旅人の食料や道具を入れる籠に転じ、
さらにこの籠が多く集まる宿屋をハタゴと呼ぶようになった。。
馬頭観音 ばとうかんのん
旅人の安全を願ったり、馬の供養のために建てられた石碑。
馬頭観音の像や文字が彫ってある。
本陣 ほんじん
大名などの宿泊施設で、宮家・公家・高僧などにも用いられた。
本陣には他の建物と異なり門や玄関、上段の間がある。
大名が宿泊する際には門と玄関に幕を張り、門に藩名を書いた関札を掲げた。
本陣の当主はその土地の名主・宿役人を兼務することが多く、苗字帯刀を許された名誉職だったが、
経営は苦しいものであった。
六地蔵 ろくじぞう
地蔵菩薩は、釈迦入滅の後、天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道に能化分身して
衆生を救済する役割を果たすものと信仰され、一般に六体の地蔵を配することが行われている。
寺の入口などにあることが多い。
脇本陣 わきほんじん
本陣の補助的な施設で、本陣だけで賄いきれないときに使用された。
また一般の旅客も利用することができた。
渡し わたし
川を渡る場所で橋が架けられていない場所。架橋されていない理由は軍事的・政治的理由による。
徒歩越、人足越、渡船などで、公用以外の場合は賃金が徴収された。