なぜ、こんなことになったのか、わからない。
自室のベッドに腰掛けさせられた自分の両脚の間で、柔らかな金色の髪が揺らいでいる。
「脱いで…」という言葉に抗えず、のろのろと部屋着のズボンと下着をおろした。
むき出しになった下半身を、青い瞳がじっと見つめている。…見られている。
羞恥と、極度の興奮に頭がくらくらした。
まるで耳元で鳴っているのかと思うほど、自分の鼓動がうるさい。
視線の先でゆっくりと、白く長い指が伸びて、これ以上ないくらい強張った勃起を掴んだかと思うと、いきなり無造作に下に引っ張られ、シンジは声にならない叫びを上げた。
カリのところにわずかに引っかかっていた皮が引き下ろされ、むき出しの亀頭がまろび出る。
腰どころか、下半身全体を踏ん張って、必死に衝動に抗う。
今の刺激だけで射精が始まりそうなほど、シンジは昂ぶっていた。
数秒、何とか耐えると、食いしばっていた口から、酸素を求めるように引きつった音が漏れた。
細くて綺麗な指は、剛直を握ったままだ。
ひんやりとした手のひらの感触が、かえって燃えるような快感を引き出していく。
小刻みな振動は、自分の体の震えなのか、あるいは相手の手の方なのか判別がつかない。
「熱い…」
熱に浮かされたようなつぶやきを、シンジは半ば朦朧とした意識の向こうに聞いていた。
きっかけは、些細なことだった気がする。
今日は学校を休んで起動実験があった。シンジの理解が及ぶところではなかったが、技術的なトラブルがあったらしく、通常よりかなり長くエントリープラグの中で待たされた。
つごう4時間ほどプラグスーツに身を包んでいたため、蒸れたような不快感があり、実験後のシャワーだけでは気分が回復せず。帰宅後、食事の下ごしらえだけ済ませて、風呂にゆっくりと漬かった。
少しいい気持ちになった風呂上がり、同居人であるアスカに声をかける。彼女は先に入りたがらないので、順番を告げにいくのはいつものこと。家主で二人の保護者でもあるミサトが在宅の時は、どちらが次に入るのかお伺いを立てるのだが、彼女はトラブルの後始末のため今夜は帰れないとのことで、その必要はなかった。
アスカの部屋は、彼の部屋と廊下を挟んだ真向かいにある。ノックをすると、不機嫌そうな声。これもいつものこと。
「アスカ、お風呂あいたよ」
やや間があって、ドアからくだんの少女が顔をのぞかせる。
ああ…機嫌悪そうだな。
彼女も同様に4時間もの間、LCL漬けにされていたのだから当然とも言えた。
来日した彼女と同居するようになってから、もう結構たつ。今では、こうした一瞬にアスカの気分を察することは、シンジに必須のスキルとなっていた。不機嫌な彼女に余計な言葉を連ねるのは、眠れる竜の尾を踏むにも等しい愚挙だからだ。
ラフな部屋着に身を包んだ、すらりとした肢体。ショートパンツからのぞく靴下も履いていない素足が目の毒だが、少しでもそこに視線を留めようものなら、何を言われるかわからない。
ジロリ、とこちらを睨(ね)めつけてくる青い瞳と一瞬だけ視線を合わせてから、
「じゃあ…」
と、表情筋を動かさないように気をつけながら、背を向けて自分の部屋に戻る。
踵を返した時、一瞬だけ、アスカの汗の匂いがした気がした。彼女も不快な気分を抱えたまま、風呂の順番を待っていたのかもしれない。悪いことをしたかな、今日は先に入るか聞いてみるべきだったかな、という考えが頭の片隅をよぎったが、シンジはいつもの通り、後ろ手に自室のドアを閉めた。
しかし、ここからがいつもの通りとはいかなかった。
間髪おかずに、閉めたばかりのドアが開くと、アスカが入ってくる。
「えっ…え…」
戸惑うシンジをよそに、部屋の中央に追いやるようにツカツカと歩を進める侵入者。
勢いに押されてベッドまで後退したシンジは、足を取られて、そのままストンとベッドに腰を下ろしてしまった。
自然、アスカを見上げる格好になる。
肩を怒らせた彼女は、何の前置きもなく、とんでもない爆弾を落とした。
「ここんとこ毎日毎日毎日…アンタのオナニーの音がうるさくて迷惑してるんですけど!?」
少年の記憶は、ここで一度途切れた。
・
・
・
反射的に、謝罪の言葉を繰り返していた気がするが、記憶が定かではない。
その間ずっと、アスカが恐い顔で追及を重ねていたが、シンジの頭を支配していたのはただ一つだけ。
聞かれていた…聞かれていた…聞かれていた。
全身から、すうっと血の気が引いていく。いきなり目の前が真っ暗になった気がした。
葛城ミサトのアパートメントは、完全防音とまではいかないものの、一般の家屋並み以上には壁の厚さもある。向こうの音が聞こえなければ、こちらの音も聞こえないと考えるのは自然だ。
そもそも廊下を挟んでいるので、片方のドアが開けっ放しでもない限り、生活音はもちろん、携帯電話で大声で話していたとしても聞こえてこない。緊急招集もあるチルドレンの立場上、いつも最大になっている携帯電話の呼び出し音が微かに聞こえることがあるレベルだ。
…そうした環境を過信していた。
生活の導線上に互いの部屋がある以上、その往復の際に室内の音、あるいは声が漏れ聞こえる可能性に考えが及ばなかったのが、少年の浅はかさだった。
ともかくも、彼の自慰行為は、同居人の少女の知るところとなっていたのである。
惣流・アスカ・ラングレーは憤っていた。
理由は明白。同居人の少年のせいだ。
ここのところ、夜ごとあいつの部屋から聞こえてくる物音のせいで、安眠を妨害されまくっている。
ソレに気づいたのは、些細なきっかけだった気がする。
ある夜、シンジの部屋の前(それは自分の部屋の前でもあるわけだが)に差し掛かった時、ゴトゴトッという振動音と、微かな人の声が聞こえることがあった。
最初は気にもとめなかったのだが、そうした翌朝、彼と顔を合わせた時、あるいはすれ違った時、いつもとは違う匂いをアスカは敏感に感じ取った。青臭いような、すえたような、それでいてどこか頭の芯に響くような…。
あ、これ性臭だ…。
自分のおりものや愛液と同種のもの。
直感的に、それが彼のリビドーの残り香であることを理解してしまった。
そのうち、例の音がするのが、決まって自分がトイレや風呂に行った帰りであることに気づいた。
こいつもしかして、私でオナニーしてるの?
それに思い至った時、アスカの胸に去来したのは意外にも、嫌悪でも羞恥でもなく、動揺だった。
なんで…。
もしかすると自分は、シンジという奴を見損なっていたのかもしれない。
性欲とは無縁そうな厭世的な性格。およそ男らしさからはかけ離れたウジウジした態度。未だ中性的な線の細い顔立ちも、その印象に一役買っていたかもしれない。
オーバー・ザ・レインボウの船上で着替えを覗かれそうになった時も、使徒対策の特訓のため、ふすま一枚隔てただけで寝起きを共にした時も、おすまし顔、あるいは意気地のない顔でボーっとしているようなやつが、よもや目と鼻の先の向かいの部屋で、自慰行為に耽るような度胸があろうとは、思ってもみなかった。…実はむっつりだったわけだ。
そうなると、例の音が本当に彼のマスターベーションによるものなのか、確認せずにはいられない。
ある夜、トイレからの帰り際、自室のドアを閉めたふりをして、廊下で息を殺していると、思った通り、あの音が聞こえた。
ゴトゴトッという振動音と、それに続くうめき声。その時、彼女の耳は、少年がうかつにも漏らした「アスカ…っ」と自分を呼ぶ声を捉えていた。
間違いない。シンジは私を…。
風呂場での裸や、あるいはもっと恥ずかしい姿を想像して、オカズにしているのだ。
…とはいえ、思春期の少年が同世代の少女とひとつ屋根の下で暮らしていたら、興味や性欲の対象が一直線にそこに向かってしまうのも、無理からぬことと言えた。あえて責任を求めるならば、このような環境を不用意にも容認してしまった周囲の大人達にあろう。
むろん、それは一方の事情であって、オカズにされた当の本人が許すかどうかは、また別問題であるのだが。
ふらふらと自室に戻ったアスカは、早鐘を打つ自らの鼓動を感じながら、突き動かされる衝動のままに、何度も手淫に耽った…。こんなに激しくのぼり詰めたのは初めてだった。これもまた、多感な年齢の性事情を鑑みれば、無理からぬことであったろう。…たぶん。
翌朝、ぼんやりした頭のまま部屋を出ると、いつもと変わらない顔をした少年と行き交った。いつもと変わらない「おはよう…」の声。
彼の身体からは、あの性臭がした。
・
・
・
そうして昨日も、一昨日も、その前も…もうずいぶんと寝不足に悩まされている。
こんなことは決して許されない。
なぜ、あいつのせいで、自分がこんなにも満たされない思いを毎日毎日抱えなければならないのか。
文句を言ってやる…。
そう思いながら、すでに何日も過ぎていた。
そして今日、事態は風雲急を告げる。
ただ待たされるだけの起動実験、プラグスーツの長時間着用による身体各所のムレで、不快だったこともある。
そもそも昨夜からして、隣室のオス猿のさかり行動により、悶々と眠れぬ時間を強いられた。
もう釣られてオナニーなんてしてやるものか!
固い決意のもと、一晩中濡らし続けた下着は、翌朝、洗濯機へ直行となった。…Scheisse!
なのにだ。
にもかかわらず、この罪深き発情男は何をしたか。
帰宅後、呑気にも一番風呂を堪能してご機嫌になったあいつは、お気楽な足取りで私の部屋のドアをノックすると、ノーテンキな声で言った。「アスカ、お風呂あいたよ」。
身体から、あの性臭を漂わせながら!!
…これはシンジ側にも弁解の余地があった。長時間、プラグスーツに締めつけられ、蒸された身体は、思春期独特の旺盛な男性ホルモンを多く分泌させ、においを篭らせたのだ。ただ少年は、そうした状況下で精巣付近に残りやすい青くさい臭気に、やや無頓着であったのが敗因であろう。平たく言えば、睾丸付近をもっと丁寧に洗うべきだった。
ともあれ、ンなことは理不尽な状況に直面して怒髪天を衝くアスカには、知ったこっちゃないのだった。
このあたしが! あんたの性欲に当てられて寝不足かつ欲求不満な身体を無理やり抑えつけているというのに、精液臭い顔で「お風呂あいたよ」とは何事か。あたしが風呂に行ったら、またそのチンポを"jerk off"するつもりね?! そうはさせるか!
「ここんとこ毎日毎日毎日…アンタのオナニーの音がうるさくて迷惑してるんですけど!?」
気がつくと、少年の後を追いかけ、そう咆哮していた。
そして勢いのまま、シンジをベッドまで追い詰め、人差し指をビシビシ突きつけながら彼を追及した。紙のように真っ白な顔をしたあいつが何やら謝罪を述べていたが、アスカの耳にはまるで入らない。
「まったく信じられない! 年頃の女の子が隣室にいるってのに、そーいうことする?!
あんた一体、どんな神経してんのよ。とんだ強心臓だわねっ、ビックリビックリ。まさかあんたにそんな度胸があるとは思わなかったわ。
それにしても毎晩毎晩毎晩…どういう性欲してんのよ! どんだけシ足りないの?
夜中にやり過ぎるから、普段覇気がないんじゃない? あんたバカ?!
おかげであたしまでフラフラなのよ。昼間、頭がボーッとすんの! なのに、あんたときたらお構いなしに性臭まき散らかしてあたしを変な気分にさせて、一体どう責任取ってくれるの?」
後半、言っていることが若干おかしいことに、怒涛の如く責め続けるアスカも気づいていない。一方のシンジも、それに気づくどころではなく、死にそうな顔で口をパクパクと開閉させるだけだった。
そして、少女の追及はあさっての方向に帰結を迎える。
「とにかく異常! あんたのPenis異常! …ちょっと見せてみなさい、あたしが調べてあげるから!」
…なぜそうなるのか、言っている本人も論理が破綻しまくっているのだが、最終的な着地点はそこに落ち着いたのだった。
普段冷静な彼女であれば、そんな結論に達するわけがない。要するに、連日にわたる満たされない劣情と、無神経な少年が無自覚に振りまくオスの匂いに、理性が完全に飛んでいたと言える。
もし、シンジの心にもう少し余裕があれば、「なんでっ?!」と思わず突っ込んだことだろう。しかし、刑の執行を待つばかりの罪人には、もはやそれに抗うだけの判断力は残されていなかった。
「脱いで…」
怒りか、あるいは焦燥か、ともかく異常な興奮状態に陥った少女は、真っ赤な顔でそう指示した。そして、特等席でソレを観察するため、ベッドに腰掛けたシンジの両脚の間に、すとんとしゃがみ込む。
少年は、言われるがままにズボンと下着に手をかけた。
(つづく)