Episode-08「アスカのいる風景」


 

 

 

40

 

 

 

 

「あんたがファーストチルドレン、綾波レイ?」

 

アスカは、水色の髪の少女の前で、両手を腰に当てて仁王立ちしている。

彼女は常に、相手よりも高い視点からの対面を心がけているようだ。 

 

居丈高でありながら、どこか余裕を漂わせる栗色の髪の少女。

彼女を初めて目にした水色の髪の少女は、きょとんとしている(ようにシンジには見える)。

沈黙。

シンジは、二人の少女を交互に見やり、内心、その後の展開をはらはらしながら見守っている。

 

NERV所内。

今日は、定期シンクロテストが行われる。

住居の立地上、この日も一緒にNERVへやってきたレイとシンジを、アスカが待ち伏せていた。

 

ちなみに、この時、アスカはグリーンのシャツにスカート、レイはレモン色のワンピース、シンジはロゴ入りのTシャツにジーンズといった、いでたちだった。

しかし、アスカの足は長い…。

 

シンジにとっては、二重の不安がある。

一つは、レイとアスカの対面。もう一つは、シンクロテストの結果である。

 

前回の歴史において、レイとアスカはお世辞にも「仲がいい」とはいえない関係であった。

どちらかといえば、アスカの方がレイを一方的に毛嫌いし、レイはアスカのことを(他の人間と同じように)視界に入れていなかったという感じだが。

その、最初のきっかけともなった対面。

なんとかしたいとは思うのだが、こればかりは、シンジにはどうすることもできない。

 

「......あなたは」

 

初めて、レイが口を開いた。

そっけないが、冷たいという印象までは受けない。これは、レイが明らかに変化している証左である。

だからアスカの目には、気の弱い(はなはだ勘違いではあるが)レイが戸惑っている、と映った。

 

フフン、と満足げな笑みを浮かべて、アスカは胸を一層反らす。

 

「あたしはアスカ。惣流・アスカ・ラングレーよ」

「そう......弐号機パイロットね」

「そう!ドイツから来たセカンドチルドレン、エヴァ弐号機の専属パイロットよ」

 

すっ…。

 

自分の世界に浸ってふんぞり返るアスカの前に、静かにレイの白い手が差し出された。

 

「......よろしく」

「へっ?……あ、ああ、よろしく」

 

にぎにぎ、とアスカが意表を突かれて差し出した手を握るレイを見て、シンジはほっと胸をなで下ろした。

 

いい、レイ? 初対面の人には、こうして接するのよ。

 

それは、ミサトがレイに教えた、一般常識のひとつだった。

ミサトは、ある種シンジが意外に思うほどに、レイに愛情を注いでいた。それは、母が娘にするのと近かったように思う。

 

一度そう言ったら、ミサトに怒られた。

 

「せめて、姉が妹にするように、って言ってねシンちゃん」

 

ミサトのにっこり笑顔に、シンジは震えながらコクコク頷いたものだ。

 

いずれにしても、レイはシンジとミサトの存在によって、「欠落している」のではなく「眠っている」だけの感情や心を、身につけつつある。

少しずつ、ゆっくりと。

 

それをレイ本人がどう思っているのかは、未だにはっきりとは分からないが、レイが「ミサトさん」と呼ぶようになってから、二人の心の距離が縮まったのは、どうやら間違いないようであった。

すでに、シンジとレイにとって、ミサトは形式上だけの保護者ではなくなっていた。

 

「ま、とりあえずは仲良くしてあげるわ。その方が、色々と都合がいいからね」

「......」

 

アスカは得意満面で言うが、レイは、じっとその顔…というか、アスカの髪の毛を見つめている。

 

「あなた......なぜ髪が金色なの?」

「は?ああ、あたしはね、ドイツと日本のクォーターなのよ。だからドイツ語も日本語もペラペラ。それに、どう?日本人離れしたこのプロポーション」

 

アスカはレイの胸を見て、勝ち誇ったように、えっへんと胸を張る。

 

「......個人差だから」

「(むかっ)」

「赤木博士は日本人。......でも金色だわ」

「あんたバカぁ?リツコは染めてンのよっ。あたしのは地の色よっ!」

 

そ、そういえば、リツコさんの眉毛は黒いんだよな、と思うシンジだった。

やっぱりあれば、髪の毛だけ染めてるのか。

 

「そう......赤木博士の金色はニセモノなのね」

「へ、ヘンな子ね、ファーストって」

 

納得したように頷くレイに、アスカはそのキャラクターを掴みかねて首をかしげる。

 

「でも......綺麗。金色」

「フフン♪そうでしょ」

 

髪を褒められたアスカは、満更でもない顔でフワッと髪を後ろに払う。

 

「あんたも珍しいわね。水色の髪に紅い目って」

 

不思議な感じね、とアスカはそのルビーのような瞳を見つめる。

 

「珍しい......変?」

 

自分の髪を触ったレイは、ふとアスカを見る。

 

「べ、別にヘンじゃないわよ」

「......そう」

 

よ、よく分からない子ね、ファーストって。

 

今回、アスカのレイに対する第一印象は、それだった。

こうして、第一回目の接触は、どちらかといえば無難に終わった。

 

 

 

 

41

 

 

 

 

「……遅かったな、加持一尉」

 

不可解な文様の描かれた、広く、そして昏き部屋。

天地の文様の間に挟まれて立つのは、NERV司令・碇ゲンドウと、スーツをラフに着こなした長髪の男―――加持リョウジ。

 

「苦情は使徒に言ってほしいですなあ。おかげで、死ぬかと思いましたよ」

 

窓際に立って、加持に背を向けていたゲンドウは、ゆっくりと振り返った。

加持は、おどけて肩をすくめると、皮肉な口調で、持っていたトランクを大きなデスクの上にゴトリ、と置いた。

 

「…君はそんなタマではあるまい」

「さあ、どうですか。…そういえば、副指令をお見かけしませんが」

 

キュッと、ネクタイの結び目に指を突っ込んで緩めると、加持はパタパタと片手で顔をあおぐ仕草をした。

 

「冬月は、『上』だ」

「…また、予算会議ですか。ご苦労が忍ばれますな」

 

やや皮肉げなものを視線に込めて、加持は笑う。

ゲンドウは、中指でサングラスのズレを直した。

 

「それが仕事だからな。…それで、君の仕事の方はどうなのかね」

「問題ありませんよ」

 

普段のゲンドウの口癖のお株を奪い、加持が言う。

ゲンドウがジロリと視線を向けると、加持は平気な顔でパスワードを入力していくと、トランクのロックを解除した。

 

パシュッ……。

ガコ。

 

「硬化ベークライトで固めてあります。…が、それで万全かは保証できかねますね、実際」

「………」

「何しろ、使徒を目の前で見たものでね。何が起きてもおかしくはありませんなぁ……この『アダム』も」

「何が言いたいのかね」

「いえ、別に。これが、人類補完計画の要、だと」

「そうだ」

 

その時、初めてゲンドウの顔に、かすかな表情がひらめく。

―――笑み。

 

加持は、わざと表情を消したまま、その変化を見やった。

 

……違うな。

 

かつて、ゼーレの計画と、碇ゲンドウの存在を知ったときに感じた、奇妙な好奇心は、今はもう感じない。

今、彼の脳裏に浮かぶのは、遠慮がちに、照れくさそうにはにかむ少年の顔だ。

 

彼のやろうとしていることと、ゲンドウのやろうとしていること。

いずれも、今の加持には、その真意は掴めない。

だが、自分が惹かれるのはシンジの方だ。彼の行動は、加持に不思議な高揚感を覚えさせる。

初めて、この稼業に足を踏み入れたときの、何が起こるか分からない、あの高揚感。

 

定められた道を歩くものと、自ら切り開くものの差か…。

 

漠然とした思いを加持は抱いていた。

 

加持は、重苦しい空気の漂う室内を見渡しながら、ゲンドウの中にある閉塞性に、息苦しさを感じていた。

 

「お届け物は確かに。では、俺はこれで」

「加持一尉」

 

くるりと背を向けて、片手を上げる加持を、ゲンドウは呼び止める。

 

「今回のこと、問題はなかったのだな」

「もちろん。…あの場所で、使徒と出くわしたこと以外は」

 

加持は顔だけ振り向かせて、にやりと、人の悪い笑みを浮かべた。

 

「……何か、シナリオと異なるところでもありましたか?」

「いや……。ご苦労だった」

 

ゲンドウは、片手を軽く振って、自らの椅子についた。

退出してよい、という意味だろう。

 

加持は、わざとらしく敬礼すると、さっさとその場を後にした。

 

扉が閉まる直前のゲンドウは、椅子に腰を下ろしたまま、トランクの中をじっと見つめていた。

 

 

 

 

42

 

 

 

NERV発令所

 

 

<00-1st Children>

<01-3rd Children>

<02-2nd Children>

 

三つの疑似(エミュレート)プラグが、モニターに映っている。

アスカにとっては、日本では初めてのシンクロテストである。

 

「相変わらず、シンジ君は好調みたいね」

 

01とナンバーの振られたデータの数値を見て、ミサトは満足げに呟く。

第5使徒戦以来、シンジのシンクロ率は、高水準で安定している。

だいたい、85〜95%の間というところだろうか。

 

「…そうね。これで初号機が修理中というのが残念だわ。せっかく色々と試したいのに」

「まだ、時間かかるの?」

「……あと3週間は見ないとね」

 

リツコが、しかめっ面で答える。

作業工程は、いらいらするほど鈍い。それは主として、予算の問題に起因している。

 

「予算を出し惜しんで、自分の首を絞めるのでは本末転倒だわ」

「…まったく、委員会はナニ考えてんのかしらね」

 

うんうんと、リツコに同調して頷くミサト。

 

「…人はエヴァのみにて生きるにあらず、か」

「まあでも、弐号機とアスカが来たんだから、少しは楽になるわよ。レイもいるし」

「そうね…」

 

リツコは、台に置いたカップを取って、中のコーヒーをすすった。

 

「…ミサト。これ、あなたが煎れたの?」

「そうよん。おいしい?」

「…コメントは控えるわ」

 

結局、リツコは一口飲んだだけで、カップを元に戻した。

 

「で、そのアスカはどうなの?」

 

ミサトは、02とナンバーを振られたデータを見た。

 

「おっ、さすがにやるわね」

 

アスカのシンクロ率は、82%を記録している。

 

「そうね。確かに噂通りの実力だわ」

「相変わらず、素っ気ないわねぇ、リツコは」

「そんなことないわ。ホラ、こっちのデータを見て」

「ん?…ああ、これって、ドイツ支部の」

「そう。これまで、アスカの最高値は81%。平均的には、70%超といったあたりね」

 

リツコは、アスカのシンクロ率の推移のグラフをめくった。

30%あたりから、次第に上昇を続けてきた線は、70%を超えたあたりでほぼX軸と平行になっている。

 

「すごいじゃない。新記録ってことね」

「ええ…」

「これってもしかしてさ、昨日、シンちゃんと同時シンクロした影響かしら」

「さあ…そこまでは分からないわ。これからの数値を見なければね」

 

ミサトは、興味深そうに先日の第6使徒とのデータを見比べていたが、リツコはまったく別のことを考えていた。

 

ミサトの言う、シンジとの同調がきっかけかどうかはともかく、アスカは今回、80%の壁を超えた。

80%。

十分、驚くべき値だ。

アスカの自負も当然だろう。

 

だが、その上には、さらに90%の壁がある。

エヴァ操縦の天才、セカンドチルドレン。厳しい訓練を続けてきたアスカですら、その壁を超えるのは容易ではない。

今回のことがなければ、リツコはアスカの限界はこの辺りだろうとすら思っていた。

 

その90%を、いともたやすくクリアし、なおかつ安定を保っているサードチルドレン。

碇シンジ。

 

リツコは、賞賛と、その異常なまでの高数値への疑念のこもった目で、彼の入っているプラグを見つめた。

 

「ミサト。…本当にシンジ君が急に変わった原因、心当たりないの」

「んん?ん〜…そう言われてもねぇ」

 

ミサトは、顎に指をかけて、なんとなく天井を仰ぐ。

その、一見考えているようで、実は何も考えていない親友の顔を見やって、

 

ミサトじゃダメね。…少し、調べてみる必要があるかもしれないわ。

 

「おっ、やってるな」

 

リツコが、そのしなやかな指で顎を撫でた時、背後のドアが開いて、お気楽な声の持ち主が入ってきた。

 

「ちょっと加持、ここは部外者立入禁止よ」

「まあ、固いことこと言うなって。今日はシンクロテストだけなんだろ?」

「なんであんたが知ってんのよ」

「アスカに聞いたのさ。見に来いってうるさくてね」

「あの子ったら…」

「おっ、これが結果か?ほぉ…シンジ君は噂に違わずすごいな。アスカも上がってるじゃないか。こりゃあ、昨日の影響かな」

「こらっ、勝手に見るんじゃないわよ!」

 

モニターを覗き込んだ加持に、拳を振り上げるミサト。

加持はひょい、とかわすと、両手を目の前に上げた。

 

「お〜コワ。わかったよ。…にしても、レイちゃんは二人に比べると低いな」

 

レイのことも、リツコには気にかかる要素であった。

加持は、「低い」と言った。

確かに、シンジやアスカが80%だ90%だと言っているのに比べて、レイは50%を少し超えたあたりをさまよっている。

だが、リツコに言わせれば、これは「高い」のだ。

 

リツコ、それはゲンドウもであるが、レイに高シンクロ率などは求めていない。

最低限、起動レベルを確保していれば、それでいい。

40%前後の安定したシンクロ率。

それが、レイという「適正素材」に求められる数値なのだ。

むろん、これは加持やミサトが知りうることではなかったが。

 

それが、今はどうか。

さすがに、「高すぎる」と感じるほどではないが、レイのシンクロ率は、上下に揺れながら、ゆっくりと上昇カーブを描いている。

さらに、ハーモニクスを見ると、その揺れが確認できる。ハーモニクスは、いわば安定性を示す指標である。

シンクロ率の上昇、ハーモニクスの揺れ。

いずれも、これは感情の萌芽を示すものではないのか。

 

「どうかしたかい、深刻な顔をして」

「!」

 

いきなり耳元で囁かれて、リツコはびくっと体を震わせた。

 

「眉間にしわを刻んでると、美人が台無しだぞ」

「あら、お世辞…?」

「とんでもない。俺は、本当のことしか言わないんだ」

 

唐突に、アダルトな会話を交わし始める加持とリツコ。

 

「かぁ〜じぃ〜」

「フフ…恐いお姉さんが睨んでるわよ」

「おっと…」

 

加持が慌ててリツコから離れる。

 

「ね、加持君」

 

リツコはふと、シンジのことを聞いてみたい衝動に駆られた。

 

「…あの子たち、どう思う」

 

少し婉曲に、そう言ってみる。

 

「どうって?みんな良くやってると思うよ。まだ14歳なのにな」

 

加持が、自分が何を聞きたいかを分かっていて、故意に話題をずらしているように思えて、リツコはわずかに苛ついた。

 

「あなたから見て、シンジくんは、どう?」

 

今度は、もう少しストレートに訊ねる。

 

「そうだなぁ…」

 

加持は、もったいつけるように、無精髭の生えた顎を撫でた。

 

「いい子だよ」

 

それは、リツコの期待した回答からはかけ離れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ〜ん…噂通りの実力ってワケ」

 

テストが終了して、LCLをシャワーで洗い流して更衣室から出たシンジを、アスカが待っていた。

不機嫌さを隠そうともしない。

 

「あ、アスカ…」

 

シンジは、アスカのしかめっ面を見て、やれやれと内心、ため息をついた。

こうなることは、あらかじめ予想できたことである。

 

他のことはもちろん、エヴァの操縦にかけては誰にも負けない、と自負していたアスカが受けた衝撃は、小さかろうはずもない。

たとえ、事前にシンジの最近のシンクロ率を伝え聞いていたとしても。

今日は、その現実を、目の前で見せつけられた日であったのだ。

 

だけど、これは仕方のないことだと、シンジは思う。

シンジとしては、自分からシンクロ率を落とすことはできない。

実戦においては、シンクロ率を意図的に落とすなどと悠長なことを言っていられない。

それでは結局、アスカが受ける衝撃は同じではないか。むしろ、戦いの中でひけを取ったと感じる方が、アスカにはより堪えるかもしれない。

第一、そうやって手を抜くことは、アスカにとっての侮辱にほかならない、とシンジには思えるのだ。

 

アスカは、他人が思っている以上に、多感で敏感な少女だ。

シンジがもし手を抜いていれば、いつかそれに気付くに違いない。

そうなった時は、それこそアスカのプライドはズタズタだ。

 

ならば、シンジは初めから大きな差がついたとしても、手を抜くべきではないと考えたのである。

実際のところ、シンジにとってシンクロ率90%というのは、さほど難しいことではない。

その気になれば、100%にでも200%にでも持ち上げることはできる。

だが、100%を超えると、安定性に欠け、早い話が疲れるのである。

戦闘の一瞬、というならばともかく、テスト中に200%を維持する、などというのは無意味なことだ。

そのことは、あの最後の戦いで、いやというほど思い知った。

 

そこでシンジは、90%近くで、常にシンクロ値を安定させることに気を配った。

これは、いわば長期戦のための備えでもある。

この作業は、瞬間的に200%、300%を叩き出すことよりも、はるかに困難だった。

 

「……ふん、まあいいわ」

 

シンジが何も言わないのを見て、アスカは悔しそうではあるが、闘志のこもった目でシンジを睨みつけた。

 

「見てなさいよ。ぜったいにアンタに追いついて、追い越してやるわよ、シンジ!」

 

そう、一方的に宣言すると、アスカはドスドスと足音を立てて歩き出した。

 

シンジは少しあっけに取られたが、

 

はっきり怒るっていうのは、そんなに悪い傾向じゃないよな。

 

と思った。

 

結果的に、シンジは正しい選択をしていたといえる。

アスカは、最初からシンジという高すぎる目標を与えられたため、かえって闘志を燃やしたようだった。

もっとも、このままちっともシンジに追いつけない状態が続けば、やはり、彼女の精神は不安定になり、やがて…。

 

それだけは、避けなければならない。

そのためには、アスカのシンクロ率をシンジのレベルにまで、どうにかして引き上げるか、それとも…アスカが「エヴァに乗る」ことに対する過剰な執着、彼女の心の隙間を埋めてやることができるか、だ。

前者は、根本的な解決にはなり得ない。

現在の彼女の精神的骨格は、「エヴァに乗ること」が基盤となって形成されている。

それは幼い頃の、壊れた母との記憶。

悲しい彼女のトラウマなのだ。

 

彼女の心を、なんとかして解き放ってやれれば…。

 

だが、今のシンジは、そうした難しい思考をすることが困難な状況にあった。

なぜならば、彼自身の心に、奇妙な変化が訪れていたからだ。

 

「よっ、お疲れさま」

「加持さーん♪」

「おっと」

「ね、ね、見てくれました?」

「ああ、見せてもらったよ。すごいじゃないか。だいぶ数値が上がってる」

「えへへ、でしょでしょ?」

 

「………」

 

なぜだろう。

二人を見ていると、胸が痛む。

ちくちくと。

 

とてもイヤな感じ。

 

これは、一体、なんだろう。

 

シンジは、先日感じた痛みを、今度はもっとはっきりと感じていた。

 

加持にじゃれつくアスカ。

見ていたくない。

でも、なぜだか目が離せない。

心が沈んでいる。

 

なんなんだろう、これは…。

 

「......」

 

レイが、そんなシンジをじっと見つめている。

 

また、加持は、シンジの視線が向けられていることに気付くと、さりげなく彼の様子を観察した。

そして、すぐにその表情の変化に気付いた。

 

「おっといかん、もうこんな時間だ。悪いな、そろそろ失礼するよ」

「えぇ〜、加持さん、お昼一緒に食べられるんじゃなかったの?」

「悪い悪い。仕事があったのを忘れてたよ」

「ぶぅ〜…加持さん、サラリーマンみたい」

「似たようなもんさ。公務員は辛いねぇ」

 

加持は、おどけた調子で、笑いながらアスカの腕をするりと抜けた。

 

「じゃっ、レイちゃん、シンジくん、またな」

「......ハイ」

「えっ…あっ、それじゃあ…」

 

「早く自分の気持ちに気付くことさ。それが、何にせよ、一番の近道だ」

 

加持は、すれ違いざま、シンジの肩をポンと叩いた拍子に、小声で囁いていった。

 

「え…」

 

シンジが振り返ると、加持は後ろを向いたまま、片手を上げて歩いていった。

 

「(自分の気持ち…?)」

 

シンジは混乱して、加持がなぜそんなことを言ったのか、分からなかった。

 

 

 

 

43

 

 

 

 

 

つまんない毎日。

 

日本ってたいくつねぇ…。

あ〜あ、やんなっちゃう。

 

加持さんは仕事、仕事でろくに会えないし。(ミサトと会ってるんじゃないでしょうね)

ファーストは、会っても話が弾まないし。(あの子、ほとんど喋らないんだもん)

バカシンジは、こっち来てからぼーっとしてて、なんか暗いし。(フン、別にあんなやつ、どうでもいいけどね)

 

訓練は散発的だし。

あーあ、これじゃ体がなまっちゃうわね。

いっそ、次の使徒でも現れて、がーっと一暴れしたいわ。

 

はぁ〜あ。

 

…ん?

あの子たちも制服着てる。

 

そっか…そういや、ちょうど下校時間てやつか。

さっきからちらほら見かけるはずだわ。

 

…そういやぁ、ミサトが言ってたっけ。

明日から学校だって。

ま、大学出たあたしが、いまさら日本の中学に行く必要もないんだけどね。

こんまんまじゃ、退屈で死にそうだもの。

少しは楽しませてもらわないとね。

 

でも、シンジはともかく、ファーストの学校生活って、想像できないわね。

シンジは、どうせぼーっとしてるんだろうけど。

なんか分かんないのよね、あいつって。

…いきなり抱きつくし。それに…

あ、あんなもの、あ、あたしに見せて…

 

ぐああっ、思い出しちゃったじゃないのっ?!

ううう〜、な、なんであたしが赤くならなきゃなんないのよ!

 

…明日、学校会ったらシメてやるわ。

見てなさいよ、シンジ。

 

 

…あ。あの子も制服。

ふーん…あれが女子用の制服か。デザインはまあまあじゃない。

ま、こんなの大体、似たり寄ったりだろうけど。

 

んん?

…なんか、様子が変ね。

 

………

………

………

 

…よし、どうせ暇だから、ちょっと行ってみるか。

 

 

 

 

こそこそこそ…。

サッ。

じーー……。

 

 

 

…あーあ、これってもしかして、いじめとかいうやつ?

だっさー…。

まあだこんなことやってるバカがいるのかしら。

アホじゃないの?

 

ん?

なによ…よく見たら、いじめられてんのは後ろの男で、あの女の子はそれをかばってるんじゃない。

なっさけない男…。

いじめもムカつくけど、ああいう男見てるとイライラすんのよ!

女にかばわれたりして、情けないと思わないの?!

 

……それにしても、あの女の子、結構やるわね。

いじめてるバカ男3人は、高校生くらいよね。

それなのに、あの弱虫男かばって、一歩も引いてないじゃない。

 

「第・壱・中」…?

うーん…真ん中の漢字が読めないわ。

お下げ髪の、ちょっとやぼったい感じね。ソバカスも浮いてるし。

でも、センスは悪くないわ。

歳は、あたしと同じくらい?

 

あっ、男の一人が襟に手ぇかけたわ。

げぇ〜、なんなの、あのヤらしそうな目つき。

サイッテェ…。あんなのに比べたら、シンジみたいなバカのがまだマシね。

…あんなヤツ、どうでもいいんだけどさ。

 

あ…あの女の子、震えてるわ。

当ったり前か。

……でも、叫んだりしないのね。

無理して、虚勢張っちゃって。

 

………。

………。

………。

 

面白い。

あの目が気に入ったわ。

バカ男、前にしても引かない度胸と、悲鳴上げたりしない強さもね。

 

そうと決まれば…。

 

「ちょっと、そこのあなたたちぃ?」

 

ちょっと猫なで声で、呼びかけてみる。

ふん。

案の定、こっちに注意が逸れたみたいね。

 

うげぇ〜…顔ニヤけさせないでよ。

キモチワル〜い…ガマガエルみたいな顔してるわ、こいつ。

もう一人は、猿のなり損ない。女の子の肩掴んでるのが、さしずめトカゲってとこかしら。

どっちみち、こんな奴らに遠慮するこたぁないわね。

 

「ねぇ。そんなつまんないことしてないで、あたしと遊びませんか?」

「おい、なんだよこの金髪の外人…」

「わかんねぇ…でも、すげぇ美人じゃねぇか」

「遊びませんか、だってよ。一体、何して遊んでくれるのかな?」

「最近の子は進んでるよなぁ、へへへっ」

 

バッッッッッッッカじゃないのっ?!

あんたらはオヤヂかっての。

こんな奴らがのさばってるからダメなのよ。

 

ふっふ…だらしない顔しちゃって。次の瞬間が楽しみね。

 

「あ、あなた…ダメよ。この人たち、何するか…」

 

女の子が、心配そうな顔で言ってる。

お人好しね。

この状況で人の心配するなんてさ。

ま、キライじゃないわよ、そーいうの。

 

「遊ぶっていったら、決まってるでしょぉ?」

 

あたしは、にやりと笑うと、一瞬で相手の懐に入った。

 

「ケンカよ、ケンカ!!」

 

どすっ!!

 

あたしの肘が、ガマガエルの鳩尾に決まる。

 

「ぐえっ」

 

フン、なさけない声上げちゃって。

 

「こ、この女ぁ…」

「ほらほら、遅いわよっ!」

 

ズガッ!!

 

あたしの蹴り上げた足が、猿の顎を捉えた。

 

「うげっ」

 

ちょろい。

シロートね、こいつら。

 

「離してっ!」

 

パァン!

 

最後の一人は、あたしのかかと落としが決まる前に、女の子が平手打ち一発。

ふーん、やるじゃない。この子。

 

「てめぇっ!」

「キャッ…」

 

「Gehen !!」

 

女の子に手を上げたトカゲ男に、あたしの回し蹴りが決まった。

とんでもないやつね。女の子の顔殴るなんて。

もう、容赦しないわよ!

 

ドカッ、バキッ、ズガッッ、げしげしげしっ!

ズドッ、ズドッ、ズドッ、バシバシバシッ!

 

「このっこのっ、このこのこのこの、おりゃあっ!!」

 

バキイッ!

 

「ひ、ひぃ…も、もう勘弁してくれぇ」

 

「フン!

 冗談じゃないわね!

 自分たちは「止めろ」っつったら止めるっての?

 分が悪くなったら勘弁してくれ? 世の中、そんなんで通ると思ってんの?!」

 

「ぐぇぇ…」

 

男3人は、情けない格好で這いつくばった。

 

「あの…もう、それくらいでいいんじゃ…」

「ん?」

 

言われて初めて、あたしは女の子の存在を思い出した。

 

「いいの?あなたの顔殴った分、利子付けて返してやらなくて」

「ん。私は大丈夫」

 

そう言うと、彼女ははにかむように笑った。

へぇ…笑うと可愛いじゃない。

 

…なんか、こんなバカ男どもなんて、どうでも良くなったわ。

 

「ま、あなたがいいってんならいいわ。…あんたら、いい?この仕返ししようなんて考えんじゃないわよ。

 言っとくけどね、あたしはこう見えてもNERVの関係者なのよ。知ってるわよね、NERVくらい。

 …あたしやこの子に手出ししたら、あんたらなんて、一瞬で海に浮かぶわよ」

「「「ひ、ひぃっ」」」

 

あたしのテキトーな脅しに、心底びびりまくって、男どもは情けない声を上げた。

ほんとにつまんない男ね。バッカじゃないの。

弱いくせに、いじめなんかやっちゃって。あーあ、格好悪ぅ。

 

「わかったら、さっさと消えなさいよ!!」

「「「 はっ、はひぃ〜!! 」」」

「ハンッ!情けない奴ら!」

 

あたしは両手を腰にやって、ブザマに逃げていくやつらを見ていた。

 

「あの…」

「ん?」

 

あたしが振り向くと、例の女の子が、学生カバンを持って立っていた。

 

「助けてくれてありがとう」

「あ、いいのいいの。暇だったし、あいつらムカついたしね。いい運動になったわ」

「…とっても強いのね」

「まあね」

 

あいつらが弱すぎるんだけどね。

ホント、あれならシンジのがまだ強いんじゃないの?見たことないけど。

 

「あれ、そういえば、さっきのいじめられ男は?」

「ん…」

 

あたしが聞くと、女の子はバツが悪そうに視線を背後に向けた。

そこには、すでに誰もいなかった。

 

「まさか…さっさと逃げ出したとか?」

「ん…そうかも」

 

なによそれ。

 

「あっきれた…サイッテェね。あなたも災難だったわね」

「別にいいのよ」

「誰、知り合い?」

「んーん。全然知らない子」

 

へ?

なに?

じゃあ、全然知らないヤツのために、あの男3人とやりあってたわけぇ?

この子…すっごいお人好しねぇ。

 

あたしがマジマジと見ていると、彼女は少し恥ずかしそうに笑った。

その笑顔は、全然わざとらしさがなくて。

あたしも、引き込まれるように笑っていた。

 

「あなた、なかなかやるじゃない」

「えっ?」

「さっきの平手打ち。かっこ良かったわよ」

 

あたしがウインクすると、彼女は恥ずかしそうに下を向いた。

 

「あたし、アスカ。惣流・アスカ・ラングレーよ」

 

気が付くと、あたしはそう名乗っていた。

なんだか、つっかえていたもやもやが、取れたような気がした。

 

「あ…私、ヒカリ。洞木ヒカリよ」

「OK、ヒカリね。いい名前じゃない」

「うん、ありがとう。惣流さんも、素敵な名前ね」

 

あたしは、また一つ、このヒカリという少女が気に入った。

たぶん、その名前と容姿から、あたしが日本人じゃないことはわかったと思う。

でも、ヒカリは何にも言わない。

そういう子なんだと思うと、なんだか嬉しかった。

 

「アスカでいいわよ。もちろん、『さん』なんか付けないでね」

 

あたしは、ヒカリの機先を制してそう言った。

 

「うん。よろしく…アスカ」

 

あたしたちは、どちらからともなく、ふふふっと笑い合った。

なんとなく、いい気持ちだった。

 

「あっ」

「え?」

「…そこ、擦りむいてる」

「えっ、ああ平気よ、これくらい。ちっ…まったく頭来るわね、あいつら」

「ダメよっ。ちゃんと手当しなきゃ」

 

ヒカリが、怒ったような顔をした。

 

「ね、うちに寄っていって?」

 

ホント、お節介ね、と思ったが、不思議とイヤじゃなかった。

 

 

 

 

44

 

 

 

シンジは、買い物帰りの道を歩いていた。

 

今晩のメニューは、ナスの炒め物と、カレーピラフ、海藻サラダ添え。

レイやミサトは、おそらく喜んでくれるだろう。

 

…だが、二人の笑顔を想像しても、最近の沈んだシンジの心は晴れなかった。

こんなことは、初めてだった。

もちろん、二人への思いが変化したわけではない。

 

ここへ戻ってくる前、何もかもがイヤで、逃げ出したくて、暗く沈んでいた。

でも、それともまた全然違う。

 

胸の奥が締め付けられるような、それでいて、かすかな甘さをともなうような、鈍い痛み。

 

どうして、こんなに気分が沈むんだろう。

 

シンジは、買い物袋を持った手を持ち替えた。

 

レイのいる生活。

ミサトのいる生活。

そして、望んで止まなかった、アスカのいる風景。

 

何が足りないと言うのだろう。

 

アスカと再会した時、あんなに心が躍った。嬉しかった。ただ、嬉しかった。

 

もう一度、やり直せる。

アスカを助けられるかもしれない。

 

その気持ちは、シンジをこの上なく高揚させた。

だが…。

今はどうだろう。

 

つい先日までより、アスカはずっと近くにいる。

まだ、学校にこそ来ていないものの、訓練でNERVに行けば会うことができるし、運が良ければ町中で会うこともできる。

それなのに…。

 

アスカに会えるのは嬉しい。

だが、このアスカがいない時の風景はどうか。

そして、アスカが加持に甘えるのを見るとき、感じる鋭い痛みは。

 

何なんだろう、これは…。

 

物事が、よく考えられない。

思考がまとまらない。

アスカのことを考える。でも、つらい。

でも、アスカのことを考える。でも…。

 

それは、おそらくシンジにとって、初めての経験だった。

生まれて初めての。

 

 

 

「あははははっ」

「やだ、アスカったら」

「ヒカリこそ…」

 

シンジの視界に、それは飛び込んできた。

 

第壱中学校の制服を着た委員長、洞木ヒカリに…

アスカ。

 

初めて会った時と同じ、クリーム色のワンピースを着ている。

夕陽が、二人の影を長く伸ばし、その顔を赤く染め上げていた。

 

楽しそうな笑い声。

そして……

 

どきんっ!

 

「!」

 

アスカの笑顔を見た瞬間、シンジの心臓が大きく跳ねた。

アスカは、シンジが今まで見たことのないような、自然で、そして優しい笑みをしていた。

 

 

 

カナカナカナカナカナカナ………。

 

カナカナカナカナカナカナ………。

 

 

カナカナカナカナカナカナ………。

 

カナカナカナカナカナカナ………。

 

 

 

きれいだった。

それは、幻想的な美しさではなく、アスカという一人の少女、今そこにいるという、強烈な存在感をともなった、生命に溢れる美しさだった。

 

シンジは、その笑顔に見とれながら、顔に血が上っていくのを感じていた。

鼓動が早く、大きくなる。

止められない。

 

「あら…碇くん!」

 

その時、ちょうどこちらを向いたヒカリが、シンジの姿を認めた。

 

「ゲッ…バカシンジ」

 

それにつられて、アスカもシンジを見つける。

 

どくどくどくどくどくどく…。

 

シンジの鼓動は、ますます早くなった。

顔は、夕陽と同じ色に染まっている。

 

「フン。なによ、シンジ。そんな大荷物抱えて、買い出し?あんたって、ミサトにこき使われてんのね」

「あれ…アスカって、碇君と知り合いなの?」

 

シンジには、二人の会話が耳に入っていなかった。

 

どくどくどくどくどくどく…。

 

ただ、自分の鼓動の音だけが、やけに大きく聞こえる。

じーーん…と耳鳴りがしているような感覚。

 

 

 

 

アスカの顔をまともに見ることができず――――

 

 

気が付くと――――

 

 

シンジはダッと駆け出していた。

 

 

 

 

 

「な、なに、アイツ…」

 

いきなりの意味不明なシンジの行動に、アスカはぼーぜんと呟いて、遠くなっていく背中を見送った。

 

「どうしたのかしら…碇くん」

「…さっぱり分からないわ、あいつのことは」

 

少し心配そうなヒカリに、アスカはため息を一つ、吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうしちゃったんだろう、僕は……!

 

 

 

 

 

 

シンジは、何も分からずに、ただ走っていた。

もう逃げないと誓ったのに、あの場から逃げ出した自分が、ひどく情けなくて、嫌だった。

 

 


■次回予告 

 

シンジの中に、初めて芽生えた気持ち。

生まれて初めての経験に、シンジは訳も分からず戸惑う。

そんな中、学校に編入してくるアスカ。彼女の席は、シンジの隣だった。

ただ、自分の気持ちが分からないシンジ。

見かねたヒカリに促されてした相談の中で、シンジは初めて、自分のその気持ちを知る。

 

 

 

次回、新世紀エヴァンゲリオンH Episode-09「それは恋で…」。

 

 

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(updete 2000/07/16)