Episode-09「それは恋で…」


 

 

 

45

 

 

カツカツカツ…。

 

 

黒板の上をチョークが滑っていく音が、軽快に響く。

 

カツカツカツ…。

 

チョークを握る、細くて長い指。

第壱中学校の制服のスカートから伸びる、長い足。

明らかに日本人離れしたプローポーションと、栗色の髪に蒼い瞳。

 

『Souryu Asuka Langray』

 

素早く筆記体で記述し終えた、その少女は、長い髪をなびかせて、くるっと振り返った。

 

「惣流・アスカ・ラングレーです。よろしく」

 

アスカは、にっこり…というよりどちらかというと「にやり」とした笑みを浮かべた。

ともすれば造形美に偏りがちな整った美貌だが、にじみ出る意志の強さと覇気が、闊達な健康美を強調してより輝かせる。

 

教室内の男子生徒の大半が、一瞬にして、その美貌に完全ノックダウン。

その大多数の中に属さず、数少ないアスカを知る人物であるところのトウジとケンスケは、やれやれと肩をすくめた。

 

「お前らの手に負えるタマやないわ」

「…同感」

 

二人は、異口同音に呟いた。

とはいえ、別に二人ともアスカのことを嫌いなわけではない。友達としてならば、あのふてぶてしいまでに唯我独尊なところも、いっそ気持ちいいくらいだ。

最初は、近寄りがたいと感じたことは確かだが、二人は弐号機が使徒と奮戦するところを目の当たりにしている。

アスカの意志の強さが、実力に裏付けされてのものであるということを理解しているのだ。

 

だが、恋人として考えた時、これほど手強い相手は、まずいないだろう。

初対面ですっかり、この美少女にお熱を上げてしまったクラスの男子たちに、同情する二人であった。

 

2-Aの担任の老教師が、何やら紹介しているのは聞き流しつつ、アスカは教室内をまんべんなく眺め渡した。

 

最初に目に入ったのは、正面、前から2番目の席に座っていたヒカリ。

ヒカリは、小さく手を振ると、にこっと歓迎の笑みを浮かべた。

アスカも、ヨッという感じで軽く手を上げると、他に向けるのとは明らかに違う、素直な微笑みを返す。

 

二人は、昨日会ったばかりなのに、すっかり数年来の親友といった間柄になっていた。

それはひとえに、ヒカリの、上に馬鹿がつくほどの正直さと、まっすぐなところをアスカが気に入ったためである。

アスカは、はっきりとは自覚していなかったが、ある意味、ヒカリのそうしたところに憧れていたのかもしれない。

彼女は、自分よりもはるかに力も弱ければ、エヴァに乗ったりもしない、ただの女の子。

だけど、自分にはないものも持っている。 

普通なら認めたくない。

しかし、どうしてか、ヒカリに対しては素直になれるアスカだった。

 

ヒカリの方でも、太陽のようなまぶしい存在感と、普段はその裏側に隠れて見えない素直さをもったアスカを、好ましく思っていた。

波長が合った、ということだろうか。

お互いに、口うるさくていじっぱり、という似た面を持っていたところも大きいだろう。

 

次にアスカの視線が止まったのは、トウジと、その後ろの席から身を乗り出していたケンスケだ。

トウジは苦笑を浮かべながら、ケンスケはカメラのファインダー越しに、手を上げて見せた。

フフン、という顔で、二人の顔をさらりと撫でるアスカ。

 

これは、シンジが見たら、おそらく前回との違いに驚いたかもしれない。

アスカの態度は一見、そっけなかった。

「懲りない奴らね」とでも言いたげな眼差しではあったが、それは、気心の知れた相手に見せる顔だ。

トウジやケンスケにしても、そのことが何となくわかるのかもしれない。

こんなところでも、歴史は小さな違いを見せている。

それは、揺らぎといった曖昧なものではなく、おそらく人為的な要因が大きい。

 

窓際のレイと目が合う。

水色の髪の少女は、きょとんとしたような顔で、こくん…と小さく首を傾げている。

アスカには、相変わらずレイが何を考えているのか分からない。

だが、これにしても、「思考の方向が不可解」なのであって、「考えていることが全く分からない」ということではなかった。

少なくとも今のレイは、アスカという存在を認識している。

アスカに限らず、周囲のものをまるで認知していなかった前回とは、ここが異なる。

 

アスカは小さく肩をすくめると、さらに視線を移動させて…

 

あれ?

 

端まで行き着いてしまう。

変ね、という顔で、アスカはもう一度、視線を往復させた。

 

やっぱりいない。

シンジだけ、別のクラスなのかしら?

 

アスカは、拍子抜けしたような顔をした。

なんとなくつまらなそうだ。

 

今日会ったら、今までの分いじめてやろうと思ってたのに。

…別に残念がってなんかいないわよ。

 

「…それじゃあ、惣流さんの席は…綾波さんの斜め後ろが開いていますね」

「はい」

 

アスカは気を取り直すと、すたすたと、流れるような足取りで教室内を横切っていく。

その姿を、男子はほれぼれと、女子はやっかみ半分の視線で追う。

…まあ、中には、なぜか熱い視線を送っている女子もいたが。

 

ガタッ。

 

「フフン、ま、よろしくねファースト」

「よろしく」

 

レイは、ちらりと後ろを振り返ると、短く答えて、再び前を向く。

 

張り合いないわねぇ…やっぱり。

 

「あれ…そういえば、アンタの後ろの席も空いてるじゃない。あたし、そっちがいいな。窓際だし」

 

ふと横を向いたアスカは、隣が空席なのに気付いた。

 

「......そこは、碇君の席」

「えっ?」

 

レイが、前を向いたまま答える。

 

「シンジもこのクラスなの?」

「ええ......」

 

なあんだ、やっぱりそうなんじゃない。

 

「ふーん。じゃ、なんでいないのよ」

「.....今日は休み」

「休み?今日って、何も予定なかったわよね、NERVの」

「わからない......具合が悪いって」

「はーン?馬鹿でも風邪って引くのね…」

 

シンジって、意外と体弱いとか?

なさけないわねぇ。

 

そこまで考えて、アスカは一つおかしなことに気付いた。

 

「…なんでアンタが、そんなこと知ってんのよ」

「家.....となりだから」

「…ふーん」

 

納得はしたが、アスカはなんとなく不機嫌そうだった。

自分の知らないことを、レイが知っているのが気にくわなかったのかもしれない。

 

 

キーン、コーン、カーン、コーン…

 

 

やがて、ホームルームが終わって、一時限目の授業が始まった。

 

 

 

 

 

 

46

 

 

 

 

この日、葛城家の朝は、いつも通り始まらなかった。

 

最初に起きるはずのシンジが、いつまで経っても起きてこなかったからだ。

やがて、朝食の少し前の時間になり、レイがやってきた頃になっても、シンジの部屋のふすまは閉じられたままだった。

 

こん、こん。

 

………。

………。

………。

 

こん、こん。

 

ためらいがちなノックの音が二度響いても、布団の中のシンジは動こうとしなかった。

 

………。

………。

………。

スッ。

 

不意に、ふすまが静かに開いて、朝の光が廊下から暗い部屋に差し込んだ。

 

………。

………。

………。

 

「碇君......」

 

ふすまを開けて、戸口に静かに立っていたレイが、呼びかける。

シンジは、タオルケットを頭までかぶり、壁に向いたまま、答えない。

 

………。

………。

………。

 

「碇君......朝」

 

レイは、間をおいてからもう一度、呼びかけて、返事のないシンジの反応を辛抱強く待つ。

やがて、根負けしたかのように、もぞっと布団が動く。

 

「……ごめん、綾波。……今日は、学校休むよ。悪いけど、一人で行ってくれる」

「.........」

 

いつものシンジからは考えられないような、覇気のない声に、レイはしばらく黙って、その背中を見つめていた。

 

スッ。

 

再び、ふすまが閉まった。

 

………。

………。

………。

スラッ。

 

しばらくして、またふすまが開いた。

 

「シンちゃん…具合悪いの?お薬、あげよっか?」

 

ミサトが心配そうな声をかける。

 

「……いえ。大したことありませんから。もうしばらく寝かせてください」

「そう……」

 

ミサトは、しばらくその場に佇んでいたが、

 

「お大事にね…」

 

静かに言うと、ふすまを閉めた。

スッ。

 

再び、室内には薄暗さが戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うーん…どうしちゃったのかしらね、シンちゃん」

 

ミサトは、頭をボリボリかきながら、リビングへと戻ってきた。

昨日は帰りが遅く、ご飯だけは用意してあったが、シンジとは顔を合わせていなかった。

近頃、少し元気がないのには気付いていたが、風邪の症状などは見られなかったはずだ。

 

この時、ミサトの頭の中には、以前あったシンジの登校拒否、という線はまったくない。

それは、シンジが学校生活をとても楽しみにしているのが分かったからだ。

以前と違って、訓練のために学校を休まなければいけない時など、残念そうなそぶりすら見せる。

 

そうなると、やはり本人の言うとおり、ちょっと具合が悪くなっただけなのだろう。

 

「ミサト、さん......」

「ん?あ、レイ」

「碇君......病気?」

 

ミサトの目を、じっと見て訊ねるレイ。

いつものように寝ぼけ眼で起き出してきたミサトに、シンジの様子が変だと相談したのはレイだった。

心なしか、心配そうな目をしているように、ミサトには思えた。

 

「ん〜…そんなに大したことないと思うわ。本人も、もう少し寝てたいって言ってたし、ちょっとだるいくらいじゃないかしら」

「そう......」

「昨日とか、シンちゃんの様子どうだった?せきとか、くしゃみとかしてなかったかしら」

 

レイは、少し考える。

 

「わからない......でも、少し、元気がなかった」

「そう」

 

レイは、一緒にいたのにシンジの変化に気付かなかったことを不甲斐なく思っているのか、カーマインの瞳の色が、ダークレッドに沈んでいた。

ミサトは、レイのいじらしさに、優しい笑みを浮かべて肩を抱いた。

 

「心配しなくても大丈夫よ、レイ。今日一日くらい休めば、またすぐに元気なシンちゃんに戻るわ、きっと」

「はい......」

 

「あっ、もうこんな時間じゃない、レイ。シンちゃん寝てるし…朝ご飯どうしよう。今から作ってたんじゃ、間に合わないし…かといって朝食抜きで送り出すのも忍びないし…」

 

ミサトが、壁がけの時計を見て慌てる。

登校時間まで、あと20分もない。

 

「......ミサトさん、コレ」

「えっ…?」

 

レイが指し示したのは、テーブルの上だった。

そこには、品数は少ないものの、ちゃんと朝食が並べられている。

 

「あら、ちゃんとできてるじゃないの。シンちゃんが作った…はずはないし…これ…ひょっとして」

「.........」

 

次第に、驚きの表情を浮かべるミサト。

 

「もしかして…あなたが作ったの、レイ?」

 

ミサトがテーブルを指さしながら訊ねると、レイはこくりと頷いた。

ミサトは、テーブルに並べられたメニューを、もう一度見た。

 

白い湯気を上げるご飯。 これは、おそらく昨日のうちにシンジが仕掛けて置いたのだろう。そんなに短時間で炊き上がるものではない。

豆腐とワカメのおみそ汁。

目玉焼きに生野菜のサラダ。

 

これだけのものを、レイが用意したのだろうか。

 

「作り方、よく分かったわね?」

「......碇君が作っているのを見て、覚えた」

 

小さく呟くレイを見て、ミサトは感動したように、大きく息を吸い込んだ。

 

「よっしゃあ!レイが初めて作ったご飯、こりゃあ楽しみね。さ、じゃあ食べましょ。時間もあんまりないし」

「はい」

 

ミサトはレイを促すと、食卓に着いた。

 

「いっただっきま〜す!」

「......いただきます」

 

ミサトが手を合わせると、レイもそれに倣う。

二人は、それぞれの箸を取ると、同時にみそ汁をすすった。

 

「.........」

 

レイは、一口すすると、自分のお椀に目を落とした。

 

おいしくない......。

 

レイは思った。

具も味噌も、ちゃんと入れたのに、寝ぼけたような味しかしない。

 

どうして......ちゃんと碇君と同じように作ったのに。

 

見よう見まねだけで作ったレイは、まずだしを取る(あるいは入れる)ことを知らなかったのだ。

とにかく、いつも食べているシンジのみそ汁とは、かけ離れた味だった。

 

「......ミサト、さん」

 

レイは、少し悲しそうに視線を上げた。

が、そこにあったのは、予想したのとは異なった光景だった。

 

「んぐ?なに、レイ」

 

ミサトは、にこにことレイの作った初めての料理を平らげている。

 

「.........」

 

誤解しないでもらいたいのは、ミサトがいかに味音痴だといっても、だしが入っているかいないかぐらい、分かるに決まっている。

第一、ミサトもレイも、普段はそこらのレストランでは到底、太刀打ちできないシンジの料理を食べているのだ。味の違いに気付かないはずはなかった。

 

だが、ミサトはにこにこと嬉しそうにみそ汁を平らげると、今度は黄身が飛び出してしまっている目玉焼きに箸を付けた。それも、おいしそうに食べていく。

レイは、それをじっと見ていた。

 

「......ごめんなさい」

「はむ?」

 

レイは自分の箸を置くと、小さく俯いた。

ミサトは、目玉焼きを頬張ったまま、レイを見た。

もぐもぐと口を動かして、ごっくんと飲み込む。

 

「なにが?」

「......ご飯......おいしくない」

「そんなことないわ。とってもおいしいわよ」

 

ミサトの声に、レイはふるふると小さく首を振った。

自分の作った料理が「おいしくない」ことは、レイにもよく分かっている。

そんなレイを見て、ミサトは自分も箸を置くと、とても優しい顔で言った。

 

「ね、レイ」

「........」

「私ね、とっても嬉しいのよ。 だって、レイが私のためにご飯作ってくれたんだもの」

「........」

「そりゃあ、シンジ君のお料理とは違うかもしれない」

 

レイは、やっぱりと顔を上げた。

 

「でもね。誰だって、最初から上手く作れるわけじゃないわ。私なんか、今だってお料理ヘタだしね」

「........」

 

テヘ、と自分の頭を小突いてみせるミサト。

 

「このお料理は、レイが初めて作ったお料理。一所懸命作ってくれた朝ご飯。 とってもおいしいわ。ありがとう、レイ」

「......!」

 

ミサトは、にっこりと微笑むと、また一口、サラダを口に入れた。

レイは、それを目を見開いて見ていた。

 

「もし、レイがお料理上手になりたいんだったら、シンちゃんに教わるといいわ」

「碇君に......」

「そうよン♪ …そしたら、今度はもぉっとおいしい料理、私に食べさせてくれる?」

 

ミサトが、パチリとウインクした。

 

「......はい」

 

その瞬間、レイはぱぁっと、花のような微笑みを浮かべた。

 

 

 

 

47

 

 

 

 

シンジは、背後でふすまの閉まる音を聞いていた。

 

………。

………。

………。

 

学校、さぼっちゃった、な。

こんなこと、久しぶりだ…。

 

自分が、風邪など引いていないことを、シンジは知っていた。

これは単なる、ズル休みだ。

 

…学校で、アスカにどんな顔をして会えばいいのか、分からなかったのだ。

今日は、待ち望んでいたアスカの編入の日なのに…。

 

シンジは、昨日からずっと、後悔していた。

なぜ、あの時、あいさつもしないで逃げるように走り去ってしまったのだろう。

きっと、アスカもヒカリも、変に思ったに違いなかった。

 

シンジは、情けなさで一杯だった。

 

昨日から、ずっと布団の中で、うじうじと悩んでいる。

今日は、学校までさぼって、アスカと会うことから逃げている。

その上、レイやミサトにまで、要らぬ心配をかけてしまった。

 

これじゃあ、昔の僕と同じじゃないか…!

 

シンジは、ぐっと自分の頭を抱え込む。

 

何かから逃げて、閉じこもって、他人に迷惑をかける。

そんな自分が情けなくて…イヤで…仕方なかった。

 

だけど……

 

シンジの脳裏に、昨日見た、夕陽を受けて輝くアスカの笑顔が浮かぶ。

 

ぎゅぅっ…。

 

シンジは、Tシャツの胸を、痛くなるほど握りしめた。

アスカの笑顔。

思い出すたびに、胸が痛くて仕方がない。

自分でも、どうすることもできない。

 

こんなこと…今までなかった…!

 

自分は一体、どうしてしまったんだろう。

胸が痛くて、苦しくて、切なくて、顔が熱くて…。

 

シンジは、自分自身の感情を、明らかに持て余していた。

簡単に言えば、シンジはアスカに恋をしてしまったのだ。

 

なぜ、そんな簡単なことに気付かないのか、という疑問は当然だが、いささか当人には酷である。

恋という状態の直中にある者に、それを自覚しろというのは難しいだろう。

そして、それが最初の恋ともなれば、なおさらだった。

 

シンジが自分の気持ちに戸惑うゆえんは、彼が、すでにアスカを何よりも大切な存在と思っていることに起因する。

かけがえのない少女、アスカ。

だが、それと恋愛感情が同一であったかといえば、それは難しい。

それは、恋が理性ではなく、感情の産物だからだ。

シンジが頭で考えようとしても、分かるはずはなかった。

 

僕はこれから、どうすればいいんだ…!

 

シンジは、理由の分からない焦燥感に苛まれながら、昨夜一睡もできなかったこともあり、いつの間にか眠りに落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キーン、コーン、カーン、コーン…

 

 

「んー…っ、と、お昼ね。 ヒカリ!ご飯、一緒に食べよう」

「あっ、うん」

 

アスカに呼びかけられて、ヒカリが4時間目の授業で使った教材をかばんにしまい込みながら答える。

アスカは、ヒカリの席まで来ると、そこらにあった椅子をひっつかんで、ヒカリと向かい合わせに座った。

ヒカリは、ちょうど弁当箱の包みを取り出したところだった。

 

「へぇ、ヒカリって自分でお弁当作ってるの?」

「うん。わたし、料理って結構好きなんだ。お姉ちゃんと妹のを作るついでにね」

「ふぅ〜ん」

 

ヒカリにコダマとノゾミという姉妹がいることは、昨日聞いて知っていたが、ヒカリの家にお邪魔した時には、二人はいなかったので、実際に会ったことがあるわけではない。

家でも面倒見がいいのね、とアスカは少しおかしかった。

 

「アスカは、パンなのね」

「ん?そうよ、朝来る前に買っといたの」

「用意がいいんだ」

「昼時になってからバタバタするのがイヤなのよ」

「ふふっ、アスカらしいわね」

「そう?」

 

二人の少女は、顔を見合わせて、ふふふっと笑い合った。

 

「しかし、珍しいなぁ。シンジのヤツが学校来ぃへんやなんて」

「ホントだよな。ここんとこ、休みなんて全然なかったのに」

 

後ろの方から、トウジとケンスケの声が聞こえる。

アスカは、ちらっと、何気なくそっちの方を見た。

 

「綾波さん…今日はお昼、どうするのかしら」

 

ヒカリの声に、慌てて視線を戻す。

だが、ヒカリはアスカではなく、窓際で頬杖をついているレイを見ていた。

 

「どうするって?」

「ん、ああ…。そっか、アスカは知らないよね。綾波さんのお弁当、いつも碇くんが作ってるのよ」

「はあ? シンジが?なんでぇ?」

 

アスカが、モロに意外な顔になる。

 

「ん…綾波さんって、ちょっと前までお昼ご飯食べてなかったらしいの。それでね、心配した碇君がお弁当作ってきてあげるようになったみたい」

「へぇ……」

 

アスカは、半眼でレイを見た。

 

「なに、デキてんの、あの二人?」

「さ、さあ…そこまでは、分からないけど」

 

実際のところ、クラスの中では、そういう認識をしている者も少なくないみたいだ。

だけど、ヒカリから見て、シンジとレイは恋人同士とは少し違うような気がした。

もちろん、シンジが、クラスの誰よりもレイと仲がいいのは見ればわかる。

だが、恋人同士の持つ甘やかな空気が、感じられないのだ。

レイがあまり感情を外に見せないことと、シンジが妙に達観したような感じがするのが原因かもしれない。

 

しかし、それを見たことのないアスカにしてみれば、「好きでもないヤツに弁当なんか作らないわよ」ということになる。

アスカはなんとなく面白くなかった。

 

「…で、なんで絡まれてんの?」

「えっ…あぁ、あれは…」

 

レイの前に立った女子生徒は、何やら盛んに怒ったり泣いたりしている。

レイは黙ってそれを聞いていた。

 

ヒカリは苦笑しながら、レイに弁当を作ってきたシンジが、他の女子生徒にも日替わりで弁当を作ってくることを約束させられたことを説明した。

 

「……バカね、あいつ!」

 

ヒカリは、それがあの女子生徒に向けられたものだと勘違いした。

確かに、シンジが休んだからといって、レイに当たるのは筋違いというものだろうと思った。

 

だが、アスカの言葉は、当然ながらシンジに向けられたものだった。

 

なんつーお人好しよ、と思う。

どうせ、断り切れなかったに違いない。

ホント、バカなやつ。

 

なんとなく、むしゃくしゃした。

カツサンドを、食いちぎるように噛み切る。

その裏に、「いきなりあたしに抱きついたりしたくせに、他の女にも媚び売って、なんてやつなの?!」という、複雑怪奇なプライドと感情の葛藤があったことは、アスカ当人も気付いていない。

 

「シンジなんかの、どこがいいのかしら。全然、分かんないわ」

「そ、そうね…碇くん、ちょっと中性的な顔立ちしてるし、可愛いとか…」

「どこが」

 

アスカの機嫌の悪い原因が分からず、ヒカリは汗を一筋垂らしながら適当な答えを探すが、アスカは冷たい目で、一言の下に切り捨てる。

 

「そ、そういえば、アスカって碇くんと知り合いなのよね?」

「別に。ただ、同じエヴァのパイロットってだけよ」

「そ、そうなんだ」

 

取り付く島もないアスカの態度に、以前、二人になにがあったんだろうと、つい想像を働かせてしまう、青春真っ盛りの洞木ヒカリであった。

 

 

 

 

 

 

 

48

 

 

 

 

 

「…ってわけでさあ、シンちゃん、最近ちょっと変なのよ」

 

NERV本部、喫茶室。

ミサトはキリマンジャロを飲みながら、向かいに座るマヤに話しかけた。

 

「ふーん…ちょっと心配ですね」

 

マヤは、ふんふんと頷くと、こちらはホットミルクの入ったカップを口に当てた。

 

「そうなのよ。やっぱり、情緒不安定になってるのかしらね。最近、訓練メニューもハードだし」

「は、はあ…」

 

この時、ミサトに他意はなかったのだが、結果的にカリキュラムを定めている技術部へのあてつけとも取れ、マヤは思わず恐縮して、体を縮こまらせた。…別に、マヤの責任ではないのだが。

 

「そりゃ、違うな」

 

不意に、男の声がした。

 

「……加持」

「あ、加持一尉」

 

ミサトは、ゲッと露骨に顔をしかめ、マヤは普通にあいさつする。

 

「よっ、葛城。 相変わらず可愛いな、マヤちゃん」

「もう、ダメですよそんなこと言っても。加持一尉は、葛城一尉といい仲だって、ちゃんと知ってますから」

「おやっ、そりゃ参ったなぁ」

 

ぐわったーん、とミサトがコケる。

 

「な、な、な、なんで、どっからそんなこと聞いたのよっ?!」

「え?みんな知ってますけど。NERV中で噂になってますよ?」

「かぁ〜じぃ〜っっ…あんたが自分で言いふらしてんじゃないでしょうねぇっ?!」

「お、おいおい…俺がそんなことすると思うか?」

「あんたならやりかねないわ!」

「…信用ないなぁ」

「8年前、私の前からとんずらこいた奴の、何を信じろっつーのよ!私、あんたのこと許した覚えはないんですからね!」

「はいはい」

 

そんな二人の言い合いを、マヤが興味深そうに、じぃっと見ている。

 

「そこっ!メモなんか取ってんじゃないわよ!!」

「あ、あはははは〜」

 

ある意味、潔癖性のくせに、意外とゴシップ好きなマヤであった。

 

「…で、私のどこが違ってるって?!」

 

ミサトは、掴んでいた加持のネクタイを離すと、どっかと椅子に腰を下ろして、そっぽを向く。

 

「分からないか、葛城?」

「分かんないから、聞いてんでしょうが」

「そうケンカ腰になるなよ」

「………」

 

ミサトはぶすっ、と沈黙し、加持はさりげなくその隣に腰を下ろす。

 

「恋煩いだよ。シンジくんは。自分でも気付いてないみたいだがね」

「こっ……

 ………

 こいわずらいぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっっ??!!」

「ええーーっ、うっそぉ!」

 

二人の女性が驚きの声を上げるのを、加持は面白そうに見ていた。

ぐりんっ、と首を回した鼻先に、加持の顔があったので、ミサトは慌てて体を反らして距離を取る。

 

「こ、恋って、誰にですか?」

 

どきどきと訊ねるマヤに、加持は指を一本立てて見せる。

 

「俺の見るところ、アスカだと思うね」

「アスカちゃん?」

「アスカぁ?!」

「そうさ。 気付かなかったかい、二人とも。シンジくんの、アスカを見る目に」

 

それに、アスカが俺にじゃれついてるときに、こっちを見るあの目もな。

と、加持は口には出さずに続ける。

あれは、明かな嫉妬だ。

シンジの場合、自分でも気付いていない程だからよく見ていないと分からないが、同じ男である加持には、すぐに分かった。

 

「意外だわ…」

「そうですね…シンジくんは、レイちゃんと仲がいいと思ってました」

 

ミサトとマヤの反応には、微妙なズレがある。

マヤの場合は、言葉通りだが、ミサトの場合、むしろシンジがそういった少年らしい悩みを抱いていることが意外だった。

もちろん、シンジも14歳なのだから、恋の病にかかっても不思議ではない。

だが、最近のシンジ(前までのシンジもある意味そうだが)は、そういったことを超越しているような、達観しているところがあるように感じられたのだ。

そういった意味では、レイではなくアスカ、というのはミサトには納得できた。

彼が、少年らしい、幼い表情を見せたのは、アスカの前でだったから。

 

「シンちゃんが、恋煩い、ねぇ…」

「なんだか…可愛い♪」

「…で、どうする。保護者としては?」

 

ミサトは感慨深げに呟いて、首を左右に振った。

 

「どうもしない。ほっとくわ」

「………」

「えっ、いいんですか?」

「こういうのは、当人の問題だもの。やっぱり、自分でなんとかしなきゃ。それに…私なんかより、同年代の子たちの方がきっと力になってくれるわ」

「葛城…」

 

と、そこまではシブく決めたミサトであったが。

 

「まあ、青い性の悩み…っていうんなら、おねーさんが教えてあげちゃうけど。手取り足取り♪」

「葛城一尉…フケツ」

「じょ、冗談よ、冗談。もうやぁねぇ、マヤちゃんったら本気にしゃって」

 

本当に冗談であってほしい、と切実に願う加持であった。

 

 

 

 

49

 

 

 

 

外がすっかり闇に落ちたころ、シンジは目を覚ました。

 

眠ったせいか、少し気持ちが落ち着いていた。 

昨日から何も食べていないせいか、心なしかお腹もすいているような気がする。

 

こんな時でも、お腹が減るんだな、とシンジは自分に少しあきれた。

 

コン、コン。

 

シンジが上体を起こしかけた時、控えめなノックの音がした。

 

「…はい?」

 

スッ。

 

ふすまが開いて、そこに立っていたのは、レイだった。

手には、小さな土鍋の乗ったお盆を持っている。

シンジが起き上がっているのを見て、少し驚いたようだった。

 

「綾波…」

「碇君......起きていて平気?」

「う、うん…だいぶ気分いいんだ」

 

レイの真摯な心配ぶりに、シンジは、胸の痛みを覚えた。

気分がすぐれないのはともかく、体調はどこもおかしくなかったからだ。

 

「…ごめん、心配かけちゃって」

「......いいの」

 

レイは、電気を付けると、シンジの枕元に、土鍋を持ってきた。

 

「これ......ご飯」

 

パカッ、と蓋を開けると、勢いよく湯気が立ち上る。

中に入っていたのは、おかゆだった。

 

「これ…?」

 

どう見ても手作りのそれを見て、シンジはレイの顔を仰いだ。

 

「病気の時は、これがいいって......ミサトさんに聞いたの」

「…もしかして、これ…綾波が作ったの…」

 

呆然と、呟くシンジ。

レイは、少し恥ずかしそうに、こくんと頷いた。

朝の失敗があったからだ。

 

シンジは、ほとんど感動していた。

これまで、レイが食事の片づけを手伝ったことはあっても、まだ料理をしたことはなかったはずだ。

それが、いくらミサトに聞いたとはいえ、自分でこのおかゆを作ってくれたのだ。

おそらく、普段料理しているシンジの見よう見まねで。

 

「ありがとう…綾波」

「......食べて、みて」

「うん」

 

シンジは、なんだかドキドキしながらレンゲを取ると、土鍋を乗せたお盆を膝の上に乗せた。

なんとなく、弟子の作品を見る師匠の顔だった。

 

ぱくっ…。

 

「あ、あつつ…っ」

「大丈夫っ、碇君」

「う、うん…あはは、失敗しちゃった」

「熱いから、気を付けて......」

「うん」

 

思わず冷ますのを忘れて舌を焼いてしまったシンジは、今度は注意深くふー、ふーと息で冷ましてから、それを口に含んだ。

 

「………」

「.....碇君、どう」

「…おいしい」

「......本当?」

「うん。おいしいよ、綾波」

 

レイは、小さく微笑んだ。

今度は、きちんと味見をしてから持ってきたのだ。

その過程で、ちょっと猫舌気味のレイは、2度ほど舌をやけどしたが。

 

シンジは、レイの初めて作ったおかゆの味を噛みしめながら、自分がひどく小さな人間になったような気がして恥ずかしかった。

 

綾波は、確実に成長している。

自分の足で、歩き出そうとしている。

…成長してないのは、僕の方かもしれないな。

 

結局、シンジがおかゆをすべて平らげるまで、レイはその横で、それをじっと見ていた。

 

「......汗をかいたら、着替えて、よく寝るのが一番って、ミサトさんが言っていたわ」

 

レイは、空になった土鍋をお盆に乗せると、そう言って立ち上がった。

 

「うん。……ありがとう、綾波。明日は、一緒に学校に行こうね」

 

シンジがそう言うと、レイは静かに微笑んだ。

 

「おやすみなさい......碇君」

「おやすみ、綾波」

 

シンジは、いつの間にか、心が少し軽くなっていることに気付いた。

もやもやとしたものは、完全には晴れなかったが、それでも、明日はちゃんと学校に行こうと思った。

こちらから歩み寄らなければ、何も変わらない。

それは、あの日、新しいスタートを切ったときに決めたことだった。

 

 

 

 

 

 

 

その夜、ミサトは部屋には来なかった。

 

 

「一人で立ち上がらなくちゃダメよ。甘えちゃだめ」

ミサトが、無言でそう言っているのが、シンジには分かった。

嬉しかった。

 

昔だったら、やっぱり僕のことなんて分かってくれないんだ、といじけたところかもしれない。

しかし、それはまったくの逆で、ミサトのシンジに対する、最高の信頼の証なのだ。

シンジが一人で立てることを信じているから、ミサトは一歩離れたところで、手を差し伸べて待ってくれている。

今回も、色々とレイに助言して、手伝ってくれたのは、ミサトに違いない。

 

転んで泣き出す子供。

ある母親は、すぐに抱き上げてあやすだろう。

だが、またある母は、手を貸さずに、じっと自分の子が立ち上がるのを待つ。

それは、母親の愛が足りないのではなく、その逆で、我が子が立ち上がれることを分かっている。

強い子になってほしいと、願っているのだ。

だから、あえて抱き上げたいのをこらえている。

 

ミサトの態度は、それと同じなのだ。

それが分かったとき、シンジは嬉しかった。

言葉をかけるだけが優しさじゃない。慰めるだけが愛情ではない。

今も、そして昔のミサトも、ずっと待ってくれていたのだ。

不甲斐ない自分を。

 

シンジは、机の2番目の引き出しを開けると、十字のペンダントを取り出した。

 

ごめんなさい…そして、ありがとう、ミサトさん。

いつも、僕を励ましてくれて。

 

 

 

 

 

 

50

 

 

 

翌日、昼休み。

 

決意も新たに登校したシンジは……いきなり、ものの見事に躓いていた。

 

「はあ……」

 

校庭の木陰のベンチに腰を下ろしたシンジは、空を仰いで、大きなため息をついた。

目をつぶると、思い出したくもない、先ほどの光景が瞼の裏に浮かぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの、アスカ…」

 

4時間目の授業が終わると、シンジは一大決心をして、アスカに話しかけた。

結局、登校してから、最初のあいさつ以外、話しかけるどころか、まともに顔も見れなかったのだ。

 

「なによ?」

 

アスカが、隣の席から振り向く。

意外なほどアスカが近くにいることに気付いて、シンジは狼狽した。

まさか、自分の隣の席がアスカの席などとは、予想していなかった。

 

シンジがわずかに赤くなって俯くのを、アスカは怪訝な目で見ていた。

こういった反応に接したことがないわけではない。

ドイツ時代、彼女の美貌に惹かれて、アスカに恋していた男の数は、両手の指くらいでは足りない。

アスカを見て赤くなったり、視線を逸らしたり、あるいは露骨な好意の視線を受けることも一再ではなかった。

むろん、アスカはそのすべてを無視していたが。

 

だが、相手はシンジである。

会っていきなり、自分に抱きついたり、……自分の裸を見せたり(アスカの中では、そう責任転嫁されている)するような男が、今更、自分に恋のときめきを感じているとは、夢にも思わないアスカである。

だから、アスカには、シンジの態度が不可解なものに映った。

 

…もちろん、分かってないのは当の本人たちだけで、その様子を見守っているクラスの男子と女子は、息をひそめてその後の展開を見守っている。

トウジもケンスケも、アスカと昼ご飯を食べようと、席を立ち上がりかけたヒカリも、そしてレイも。

 

「あの…」

「だから、なに?」

 

アスカの声が苛立ち始めたのに気付いたシンジは、慌ててかばんの中を探り出した。

考えていた段取りなど、完全に頭の中から飛んでしまっている。

 

「これ、良かったら食べない!」

「………………………はあ?」

 

シンジが差し出したものを見て、アスカは顔を疑問符で埋めた。

シンジが必死の思いで差し出したのは、まぎれもなく弁当箱だ。

次第に、アスカの思考が明瞭になってくる。そして、やがてそれは怒りに変わった。

 

「なんであたしが、あんたの弁当食べなきゃなんないのよ!」

「え……な、なんでって…言われても」

 

シンジは、予想していなかった反応に、完全に頭の中が真っ白だ。

なぜか、アスカはひどく怒っている。

シンジには、その理由が分からなかった。

シンジとしては、ただ、アスカに自分の作ったものを食べてもらいたかっただけなのだ。

これは、もう随分前から、シンジが望んでいたことだった。

 

だが、そんなシンジの気持ちなど、アスカに分かるはずがない。

いきなり弁当を差し出されて脳裏に浮かんだのは、昨日、ヒカリから聞いた話だった。

 

碇くん、綾波さんにお弁当を作ってきたら、クラスの他の女子にも、日替わりでお弁当作ってくることになっちゃって。

 

それを思い出した瞬間、アスカの怒りが爆発していた。

 

「冗談じゃないわ!他のヤツと同じように、弁当作ればあたしが喜ぶとでも思ってんの?!一緒にすんじゃないわよ、このバカシンジ!」

「ご、ごめ…」

「だいたいねぇ、アンタ調子に乗ってんじゃないの?会うなり、いきなり抱きついたり…あ、あたしに裸見せたり」

 

うえぇぇぇぇぇぇぇっっっっ???!!!

 

アスカの爆弾発言に、教室中がどよめいた。

 

「ちっ、…ちがうよ!あれは、アスカが見たんじゃないか!」

 

うおぉぉぉぉぉぉっっっっ???!!!

 

さらにどよめくギャラリーたち。

 

「あっ、あたしのせいにする気ぃ?!」

「だ、だって…」

「言っとくけどね、あたしアンタのことなんて、何とも思ってないんだから。だぁ〜いっキライ!いーーーーーーだ!!」

「!!」

 

その瞬間、シンジは顔面蒼白になって目を見開き……気が付くと、バッと勢いよく駆け出していた。

 

「碇くんっ!」

 

真っ先に我に返ったヒカリが、シンジを呼び止めるが、すでにその姿はドアの向こうに消えていた。

ヒカリは、アスカを振り返ってちょっと躊躇ったが、すぐに駆け出して、シンジの後を追った。

 

「あ、あれ…」

 

アスカは、むしろ呆然と、シンジが走り去ったドアを見つめている。

自分でも、何をそんなに怒っていたのか、よく分からなかった。

ただ、自分が他のちゃらちゃらした女子たちと同一視された気がして、たまらなかったのだ。

嫌いだ、と言ったのだって、勢いに任せて言ってしまったが、別に本気ではない。

だいたい、売り言葉に買い言葉、あのくらいの応酬は、すでに「オーバー・ザ・レインボウ」の上で、経験済みだ。

まさか、シンジがいきなりあんな反応に出るとは、思ってもみなかった。

 

「ちょっと、惣流さん!」

「あなた、なんてこと言うのよ!」

「あなたこそ、ちょっと可愛いからって、いい気にならないで!」

「碇くんに謝りなさいよ!」

 

大騒ぎでアスカを糾弾する女子たち。

だが、次の瞬間、静まりかえってしまう。

 

レイが、シンジの置いていった弁当箱を拾い上げて、静かな視線でアスカの前に立ったからだ。

その場には、異様な緊張感が漂う。

 

「.........」

 

「な…なによ」

 

「.........」

 

レイは、無言で弁当箱を差し出した。

 

「......どうして、碇君とケンカするの」

 

「ア、アンタには関係ないわよっ!」

 

呆然としていたアスカだが、レイから非難を向けられて、きっとにらみ返す。

 

「碇君......今日は、朝早くから起きて、これを作っていたわ」

 

「……そ、それが…なによ…」

 

アスカは、言い返そうとしたのだが、レイの持つ異様な迫力に、思わず声が小さくなる。

レイの言った言葉の内容も、アスカには堪えた。

 

「......碇君が、一所懸命作ったご飯......ムダにしないで」

 

「ふ、ふ〜ん、そう。やっぱりあんたたちは、ラブラブってワケ?」

 

「らぶらぶ?わからない」

 

「好きってことよ!」

 

「好き...............わからない」

 

「はあ?」

 

予想とまるで違うレイの反応に、アスカはあっけに取られる。

 

「碇君は、とても大切な人.........私に、色々なことを教えてくれた」

 

うってかわって、真剣なレイの言葉に、アスカはとっさに言葉が出てこなかった。

レイの一言は、それほどに重く、強かった。

アスカは、ぺたりと椅子に座り込んでしまう。

 

半分、硬直しているアスカの前に、レイはシンジが渡し損なった弁当箱を置いた。

 

「......ちゃんと、食べて」

 

それだけ言うと、レイはくるりと背を向け、自分の席に戻った。

かばんから、シンジが作ってくれた弁当を取り出すと、あっけに取られている周囲をまるで気にせず、ゆっくりと食べ始めた。

 

 

 

「なんなのよ……いったい」

 

 

 

アスカは、唖然として呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンジは、自分の馬鹿さ加減に腹を立てていた。

 

昨日、レイに心配され、ミサトに無言の励ましを受け、自分から歩み寄ろうと決めたばかりだったではないか。

それなのに、気が付くと、シンジはまたもアスカの前から逃げ出していた。

そんなつもりは、まったくなかったのに、アスカの「だぁ〜いっキライ!」を聞いた瞬間、何も分からなくなって、ただ走っていた。

頭の中が真っ白だった。

 

アスカが、本気で言ったのでないことは、今のシンジには分かった。

だが、あの時、シンジの心臓を鷲掴みにしたのは、紛れもない恐怖だった。

 

僕は、アスカを怖がっているんだろうか……だとしたら、一体どうして……。

 

シンジは、自分で自分の心が分からない。

アスカに対した時だけ、自分が自分でないような感じを覚える。

ただ、動悸が速くなって、呼吸が苦しくなって、顔が熱くなって…。

 

「はぁ……」

 

シンジが何度目かのため息をついたとき。

 

「碇くん…」

「え……?」

 

驚いて振り向くと、そこにはヒカリが息を切らせて立っていた。

 

「洞木さん……」

「はあ、はあ…碇くんて、すごく足、早いのね」

「…わざわざ…追いかけてきてくれたの?」

「はあ、はあ…うん」

 

胸に手を当てて、呼吸を整えているヒカリを見て、シンジは小さく微笑んだ。

 

そうだった。委員長って、こういう子だった。

 

少しずつ、気持ちが落ち着いていくのが分かった。

 

「ごめんね、心配かけちゃって」

「ううん…いいの。それより、碇くん…」

「アスカ……怒ってた?」

 

シンジは、一番気になっていたことを聞いてみた。

 

「え?…あ、ううん、びっくりしてたみたい。碇くんが急に走り出したから」

「そっかあ…」

 

シンジは、また空を仰いだ。

ヒカリは、その顔をじっと見つめた。

 

それは、いつものシンジと違って、思春期の少年らしい、弱さがむき出しになった顔だった。

 

「僕……ダメなんだ」

「えっ?」

 

唐突に、シンジは語り始めた。

 

「アスカの前だと…なんだか上がっちゃって……さっきも…逃げ出しちゃったりして」

「………」

「変なんだ。アスカの前に出ると、考えてたこと、何も言えなくなっちゃって」

 

シンジの独白を、ヒカリは黙って聞いていた。

そして、その言葉が進むにつれて、驚きとともに、奇妙なおかしさがこみ上げてくる。

 

「胸がドキドキして…

 息苦しくて…

 顔が熱くて…

 何も考えられなくなって…

 気が付くと、逃げ出しちゃったりして…

 どうしようもないんだ。

 …情けないよね」

 

ヒカリには、シンジの気持ちがすぐに分かった。

その正体が何であるか。

同じ、恋する同年代の少女として。

 

「そんなことないわ…碇くん」

「えっ……?」

「そっか…わたしの予感、当たってたんだ」

「?」

 

シンジは、ヒカリが何を言っているのかよく分からず、首を傾げた。

 

「碇くん……アスカに恋してるのね」

 

くるりと回ると、ヒカリは、まぶしい笑顔を見せた。

その言葉が、シンジに、静かな衝撃を与える。

 

「恋してる……

 僕が……

 アスカに……?」

 

シンジは、その意味を咀嚼しかねたように、ゆっくりと文節を区切って繰り返す。

シンジは、唖然とした表情をしているように見えた。

 

ヒカリにとって驚きだったのは、シンジが自分のその気持ちがなんであるのか、分かっていないことだった。

しかし、それはとても純粋で、シンジの人柄を表す事実だった。

 

「そっか…碇くん、きっと、これが初恋なんだね」

「初恋……?」

 

シンジは、ヒカリを見た。

 

シンジは、唐突に、外れていたピースがはまったような、そんな気がした。

 

 

恋。

 

再会の時から、その兆候はあった。

だが、その時は、アスカと再びめぐり逢えた喜びの方が圧倒的に大きく、さらに使徒襲撃という大難関が控えていたため、初めての感情の発露は、戦いが終わったあと、加持にじゃれつくアスカを見た時だった。

思えばシンジは、アスカと2度目の初対面を果たした瞬間、彼女に恋していたといえる。

 

それ以前のアスカへの想いは、まだ理性が先行していた。

アスカを護らなくては。

アスカを助けなくては。

 

愛すべき少女であることは間違いなかった。

だが、それは、彼女が自分の腕の中で息を引き取った瞬間から、無償の愛へと昇華されてしまい、一種の戒めのように、シンジの心を縛ってきたのだ。

それが、再びアスカの生を確認した瞬間、その戒めから解き放たれたかのようだった。

もちろん、今でもシンジはアスカを護りたいと思うし、助けたいと願っている。

だが、恋愛感情というステップを、一足飛びに飛び越えて、いきなり愛へと到達してしまったシンジは、その過程を知らなかった。

他の人、たとえば加持やミサトの恋愛感情には気付いても、まさか自分の身にそんなことが起こるとは考えなかった。

それが、シンジがこれまで自分の気持ちに気付かなかった理由である。

 

 

そうか…!

 

 

僕は、アスカが好きなんだ…!

 

 

アスカが好きなんだ!

 

 

そうか!!

 

 

ぱあっ、とシンジの表情が明るくなっていくのが、側にいたヒカリにもわかった。

 

 

分からなかったことが、一挙に解けたような感じ。

あれほど迷い、悩んでいたことが嘘のように、シンジは晴れやかな気分だった。

 

シンジが恐れていたのは、自分の中にある、得体の知れない感情に対してだった。

それが、アスカへの恋だということが分かった瞬間、シンジの悩みは霧散していた。

 

「ありがとう、洞木さん。僕、やっと自分の気持ちが分かったみたいだ」

 

シンジは、すっかり迷いのない顔で、笑いかけた。

 

「…よかった。今は、いつもの碇くんだわ」

「えっ?」

「だって、さっきの碇くん。この世の終わりみたいな顔してるんだもの」

「え、そ、そうかな?」

「そうよ。わたし、どうやって声をかけたらいいか、迷っちゃったわ」

「あの、その、それはどうも…」

「ぷっ……あはははっ」

 

顔を真っ赤にして照れるシンジの顔がおかしくて、ヒカリは思わず吹き出していた。

 

「わ、笑うことないじゃない」

「ご、ごめんなさい…あははっ」

 

笑い続けるヒカリに、シンジもいつの間にか同調してしまっていた。

笑いながらシンジは、彼女にとても感謝していた。

もし、この時、ヒカリの助言がなかったら、シンジが立ち直るには、ものすごい時間がかかったかもしれない。

いや、もしかすると、そんなシンジの態度が、余計にアスカとの関係を悪化させたかもしれなかった。

ほんの一言、ただそれだけの言葉に、シンジは救われた。

ためらいなく、自分を追ってきてくれたヒカリの優しさに、シンジは心からお礼が言いたかった。

 

「……ありがとう、洞木さん。お返しに、僕も洞木さんのこと、応援するからね」

「…えっ?」

 

笑っていたヒカリが、突然、驚いてシンジを見た。

 

「トウジと上手くいくように、応援するから」

「えっ、えっ……ええっ?!」

 

途端に、ヒカリの顔が真っ赤に染まる。

シンジは、そんな彼女の純情さに、思わず笑みを浮かべた。

トウジ、という言葉を聞いた瞬間、ヒカリは、口をぱくぱくさせたまま、固まってしまっていた。

 

「大丈夫、きっと上手くいくよ」

「え?え?え?え?ええええっ?!」

 

ヒカリは、顔を真っ赤にしたまま、いつまでも固まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アスカは長いこと、腕組みしたまま、シンジの弁当とにらめっこしていた。

 

レイと、その他の女子からの視線が注がれている。

だが、アスカはそんなものは気にしていなかった。

アスカが抱いていたのは、シンジに対する罪悪感だった。

 

本心を言えば、昨日話を聞いてから、実はちょっと食べてみたいと思っていたのだ。

だが、今日のタイミングがサイアクだった。

アスカは、本当は受け取りたいのに、他と一緒にされた(とアスカには思えた)ため、意地でも受け取ってやらない、という気持ちになったのだ。

 

 

フン、どうせシンジが作ったのなんか、おいしくないに決まってるわ。

食べてみてまずけりゃ、突っ返す理由ができるしね!

 

 

やがて、アスカはそういう理由をつけて、無理矢理自分を納得させた。

 

第一、男が作った弁当が、そんなにおいしいはずがないではないか。

そう。そうに決まっている。

 

あたしは、料理にはちょっとうるさいんだからね!

 

うるさいのは料理にだけではない気がするが。

ともかく。

アスカは、シンジの弁当の包みを開いた。

思った以上にかわいらしいデザインの弁当箱が出てくる。

アスカはもちろん知らなかったが、これは、この日のために、シンジが買っておいたアスカ用の弁当箱だった。

しかつめらしい表情をつくって、箸を取るアスカ。

 

 

 

そうして、シンジの弁当を一口頬張ったアスカは――――

 

 

 

 

絶句して、固まった。

 

 

 

 

それは、信じられないほどおいしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、シンジが教室に戻ってくると、アスカはそっぽを向いたまま、シンジの前に仁王立ちして、ぶっきらぼうに空の弁当箱を突きつけた。

 

「アスカ…」

「冗談じゃないわ」

「………」

「…こんなにいっぱいじゃ、太っちゃうじゃないの。あたしをブタにする気?」

「え…?」

「明日からは、もう一回り小さいお弁当箱にしてよね!」

 

シンジは、初め、何を言われたのか分からなかったが、だんだんとその意味を理解する。

つまり、明日からも弁当を作ってきてくれ、ということなのだ。

シンジは、思わず笑みを浮かべていた。

 

とんでもなく我が儘なことを、偉そうに(だが、頬を小さく染めながら)のたまう少女が、愛おしくてたまらなかった。 

 

「うんっ!気を付けるよ」

 

子供なのは、お互い様だ。

これから、ゆっくりと大きくなっていければいい。

…できれば、アスカと一緒に。

 

 


■次回予告 

 

やっと普段の自分に戻ったシンジ。

だが、一方で、アスカとレイの心の対立は、深刻化する。

襲来する第7使徒。

心がバラバラで出撃した零号機と弐号機は、あえなく敗北を喫してしまう。

そして、ミサトが考えた作戦、そしてシンジが取った行動は…。 

 

 

 

次回、新世紀エヴァンゲリオンH Episode-10「アスカの心、レイの心」。

 

 

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(updete 2000/07/21)