109

 

 

 

 

「サイッテー……」

 

 

ゴボゴボと渦を巻く水流から目を背けるように、アスカは吐き捨てた。

 

寝ている間にかいた汗で、シャツが肌にまとわりつき、気持ちが悪い。

寝乱れた髪が、頬をかすめる感触が、鬱陶しい。

睡眠を妨害された、という思いも、不快さに拍車をかける。

 

そして、身内に鉛玉を抱え込んだような倦怠感と、呼吸と合わせるように鈍い痛み…。

 

「つ…」

 

アスカは立ったまま、うずくまるように身体を折り曲げて、呻いた。

 

 

 

 

日付が変わるまでは、気分が良かった。

 

午後は、念願のスクーバ。

夕食は、船上の豪華なディナー。

 

スクーバでは、久しぶりの潜水を満喫した。

沖縄の澄み切った海底と、色とりどりの魚の群…。

泳げないことが判明したシンジは、さんざんからかってやった。

 

食事は満足のいくものだったし、久しぶりに感じる海風は心地がよかった。

なのに……。

 

日が変わる前の時間が、一気に色褪せる。

冷水を浴びせられたように、気持ちが冷める。

 

 

予定では、まだ後のはずだったのに。

 

 

「最っ低ぇ……」

 

 

アスカは無意識に、もう一度吐き捨てたが、それは、先ほどのものより随分弱々しかった。

 

 

 

 

 

 


 

 

Episode-21「小夜啼鳥」

Nightingale


 

 

 

110

 

 

 

ばしゃ、ばしゃ…。

 

「まったく、もう……」

 

ばしゃ、ばしゃ…。

 

シンジは顔を洗っていた。

かなり必死だ。

 

ばしゃ、ばしゃ…。

 

「真っ先に寝ちまうのが、悪い」

「せや。 修学旅行中の生徒の風上にも置けんやっちゃ」

 

同室の二人は、厳しい表情で、洗顔にいそしむシンジの背中を見ている。

だが、よく見ると、笑いをこらえているように、肩が震えていたりする。

 

「…だからって、顔に落書きすることないだろ」

 

ばしゃ、ばしゃ…。

 

昨夜、0時も回らないうちに、布団の中で寝息を立て始めたシンジは、「これからがお楽しみだ!」と“色々と”用意していたトウジとケンスケを落胆させた。

その結果…。

当然のことながら、「制裁」を受けたわけである。

 

目の周りに「くま」と、口の周りに「どろぼうヒゲ」。

 

ケンスケとトウジは、必死に笑いをこらえている…。

 

ばしゃ、ばしゃっ。

ごしごしごし…。

 

「…ふうっ……ああっ! お、落ちないじゃないか、これ!」

 

鏡の中では、さっきよりも薄くはなったものの、すぐにそれと分かるくらい、マジックのインクが残った自分の顔が映っている。

 

「え、そ、そうか? 水溶性って書いてあったぞ…ぷくっ」

「そのうち、お、落ちるやろ…くくっ」

「ひどいよ、二人とも!」

 

勢い良く、シンジは洗面台のあるトイレから飛び出して、二人をにらみつける。

 

……その耳の穴から、詰め込まれていた細切りのスナック菓子がこぼれ落ちた。

 

「ぷっ……あーっはっはははははは…もうだめだぁっ」

「……どわははははははっ、ケンスケ、あれお前やろ! …ぶははははははっ」

「そ、そういうトウジだって、鼻の穴にポッ○ー、詰め込んでたくせに! …あはははははっ」

 

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ」

 

シンジは、怒りと恥ずかしさに顔を真っ赤にして、爆笑しながら畳の上をのたうち回っている二人に、何か怒鳴ってやろうと口をぱくぱくさせる。

だが、あまりのことに、なかなか言葉が出てこない。

 

ガチャッ。

 

「おら、男子、起きてるかぁっ!」

「おっじゃましまーす」

「おはよう......」

 

そこへ運悪く、朝食に一緒に行くのを約束していたレイと、彼女と同室の2人が入ってきた。

振り返るシンジ。

 

沈黙が、その場を支配する。

だが、それもほんの一瞬だった。

 

「きゃははははははっ、碇君、なにそのかおぉ〜っ!」

「わ、笑っちゃ悪いわよ……うぷぷぷぷぷぷっ、やだー、もうっ!」

「.........」

 

女子にまで笑われて、耳まで真っ赤になってしまったシンジは、レイが、俯いたまま固まってしまったのに気付く。

 

「…あ、あやなみ…?」

「......ご、ごめんなさい」

 

か細い声が、口元を覆った手の隙間から漏れた。

よく見ると、肩が小さく震えている。

 

綾波にまで、笑われた…。

 

シンジは泣きたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「悪かったて言うてるやろ。 もう、そない怒りなや、シンジ」

「そうだぞ、シンジ。修学旅行のお約束じゃないか」

「………」

 

謝罪の言葉は口にしているものの、その口調と表情には、一向に誠意が感じられない。

憮然とした表情のまま、シンジは茶碗のご飯をかきこんだ。

口の周りは、ほとんど分からないくらい、インクの色が薄くなっている。

あれから3回も洗顔したおかげで、顔がひりひりした。

 

「二人とも、悪ノリしすぎよ! 碇君が怒るの当たり前じゃない」

 

そう言ってたしなめたのは、ヒカリだ。

彼女だけは、シンジの顔を見ても笑わずに、 黙ってクレンジングを貸してくれた。

 

「ごめんなさい......」

 

すまなそうに、レイが口にした。

笑ってしまったことを後悔しているのだろう。

 

「…もういいよ。 綾波が悪いわけじゃないし」

 

レイに謝られて、さすがに大人げないと思い直したのか、シンジは態度を軟化させた。

 

「ね?」

「......うん」

 

いつものようにシンジが笑ったので、レイはホッとしたように頷いた。

 

「よっ、さすがはセンセ!太っ腹や」

「そうこなくちゃ。 な、シンジ」

 

そう言って、馴れ馴れしく肩を組んでくる悪友2人に、シンジは怒る気力も失せて、ため息をついた。

 

「ホント、調子がいいんだから2人とも…」

 

そこで、ふと物足りなさを感じて、シンジは辺りを見回した。

こんな時、いつも人一倍からかってくる少女の姿がない。

 

「あれ……アスカは?」

 

普段なら、一番に気付くことだろうが、さっきまで頭に血が上っていて気が回らなかった。

 

「そういうたら、今日は姿が見えんなぁ」

 

生卵をかき混ぜたものをご飯の上にぶちまけながら、トウジも頭をめぐらす。

 

「綾波、今朝、アスカに会った?」

 

シンジの問いに、みそ汁のお椀を持ったレイは、ふるふると首を振る。

 

「洞木さん、何か聞いてない?」

「うん、同室の子に聞いたら、『お腹空いてないから』って…」

「惣流がか? …信じらんないなぁ」

 

味付け海苔で巻いたご飯を頬張りながら、ケンスケが首をひねる。

 

「具合でも、悪いのかな…?」

「わたしも気になって聞いてみたんだけど、元気そうだったよ…って言ってたから」

「そっか…」

 

少し心配そうな顔をするシンジの顔を見て、ヒカリも箸を持つ手を止める。

 

「昨日、食いすぎたんとちゃうか。 うまかったからのう、あのメシは」

「それはありえる」

 

したり顔で頷くトウジとケンスケに、昨日のアスカのはしゃぎようを見ているシンジも、そうかもと苦笑する。

 

「ま、昼メシには、腹空かせて来るさ。 …それより、今日はいよいよだなぁ!」

 

そう言うと、ケンスケは、食堂まで持ってきている自慢の一眼レフを嬉しそうに手に取った。

 

「ああ、そっか。 午後から、基地見学だったっけ」

「…なにがそんなに嬉しいんやろなぁ。 ワシには分からん」

「ははは…」

 

ケンスケは外野の声はまったく気にせず、懐から取りだした布で、丁寧にカメラボディを磨いている。

シンジはふと、基地内って撮影禁止なんじゃないのかなぁ…という考えが頭を過ぎるが、とても言える雰囲気ではない。

 

「それよりシンジ。今夜はちゃんと付き合うてもらうで。 ワシらより先に寝るの、絶対禁止や!」

「鈴原っ! またそんなこと言って…」

「……ごめん、今夜は…無理なんだ」

 

俯き加減に、真面目な顔でシンジがそう言ったので、トウジに手を振り上げかけていたヒカリも、それを見越して頭をガードしていたトウジも、ぴたっと動きを止める。

 

「無理て……なにがや?」

「うん……」

 

シンジは顔を上げて、レイと視線を合わせた。

紅い瞳が、静かにシンジを見返す。

 

「僕たち……夕方には帰るんだ」

「帰る…?」

「帰るて……どこへ?」

 

不思議そうな顔を見合わせるトウジとヒカリ。

帰るといえば、答えは一つしかないのに、あまりにも突飛なことで頭に浮かばないらしい。

 

「…NERVか?」

 

ひとり、真面目な顔で、ケンスケが言う。

その声には、シンジを気遣うような響きが混じっていた。

 

「……うん。実はそうなんだ。

 僕と綾波とアスカは、基地の見学のあと、夕方の便で第三新東京市に戻る」

「なんや、なんか向こうであったんか?」

 

ようやく、事態がのみこめて来たように、トウジは声を高くした。

 

「ううん。そうじゃないよ。

 最初から、2泊3日の約束だったから」

「そんな……」

「本当なら、来られないはずだったんだ。戦闘待機だからね。

 でも、ミサトさんが色々手を回してくれて」

「一生に一度の、修学旅行やぞ……」

 

信じられない…という顔で、シンジとレイを見る2人。

レイは相変わらずの無表情で、2人が驚いていることにも、気にした様子はない。

そしてシンジは、諦めた…というよりも、それが当たり前なんだ、という表情。

 

「でもね、こんなに楽しいなんて思わなかった。

 だから、来られただけで嬉しいんだ。…ね、綾波」

 

シンジが心からの笑顔を浮かべると、レイも小さく頷いた。

 

シンジは、本心を語ったつもりだったが、トウジもヒカリも、釈然としないようだった。

 

今まで、シンジやアスカたちが「チルドレン」で、エヴァに乗って戦っている…と聞いていても、今ひとつピンと来なかった。

それはまるで、繰り返し行われたシェルターへの避難訓練のようで、現実味に欠けていた。

だが、いま笑顔を浮かべているシンジを見ていると、それがいかに大変なことなのかが、実感として胸に迫ってくる。

もし、自分たちが同じ境遇だったのなら、こんなにも平気な顔でいられるだろうか……と。

 

大変なのね…と喉まで出かかった言葉を、ヒカリは呑み込んだ。

それは、当人たちにとっては、おそらく当たり前のことで、懸命に頑張っている人に向かって「頑張って」というのと同じ行為だと思ったからだ。

 

「もう、決まってることなんだろ、シンジ」

「うん」

「じゃあ、仕方ないよな」

「おい、ケンスケ…!」

 

言い募ろうとするトウジを、ケンスケは意外なほど真摯な表情で制した。

 

「大体、碇たちが納得して割り切っているのに、俺たち外野がぎゃあぎゃあ言うことじゃないだろ」

「それは…そうかもしれんけど」

 

ケンスケの言葉は一見、突き放したように聞こえるかもしれないが、下手に同情されるより、よほどすっきりしていた。

 

「じゃあ、残り少ない時間を目いっぱい楽しんだ方が得さ。 な、シンジ!」

「うん、そうだね」

 

場を気まずいものにしてしまったことを気にしていたシンジは、その一言に救われた思いがした。

 

「シンジ。 お前ら、お土産は買ったのか?」

「うん。一応、昨日のうちにね」

「じゃあ、昼の移動までの自由時間、海岸までいかないか。みんなでさ。 な、トウジ」

「お、おう」

「委員長も一緒にくるだろ?」

「え、ええ、そうね」

「綾波もシンジも、いいか?」

「うん」

「......(こくり)」

「よし、決まりだ。 じゃあ、シンジは惣流を連れてきてくれよな」

「うん、分かった」

 

それからの行動は早かった。

5人とも(レイですら)、あっという間に残りの朝食を平らげると、食器を片づけはじめる。

 

配膳室に重ねた皿を運ぶ途中、シンジはケンスケに耳打ちした。

 

「ありがとう、ケンスケ」

「…いいってことよ!」

 

ケンスケは、眼鏡の向こうで、ニカッと笑った。

 

 

 

 

111

 

 

 

 

 

シンジは、軽く外出用の支度を整えて、部屋を出た。

といっても、日除け用に、水色のパーカーを羽織っただけだったが。

沖縄の日差しは強い。

そのことは、修学旅行に来て、一番に実感したことだった。

初日に思い切り日焼けして、2日目の海では文字通り「痛い目」にあった。

こうして体で覚えた経験というのは、不思議と身になるものだ。

 

「ロビーで待ってるからな」

 

という男2人と階段のところで別れて、シンジは上階への階段をのぼった。

踊り場の窓から差し込む日差しは鮮烈で、目の前に片手をかざしても、まだ眩しい。

 

今日も暑くなりそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

コンコン。

 

控えめなノックの音。

アスカ、と声をかけようとして、思いとどまる。

同室の女子がいるかもしれない。

 

しかし、しばらくしても返事はなかった。

もう一度ノックしてみる。

 

コンコン。

 

…やはり、応えはない。

 

おかしいな……いないのかな?

 

首をひねって、わけもなく廊下の左右をのけぞりながら確認する。

そうすれば見つかるわけでもあるまいが。

 

ヘンだな…と、鍵がかかっているかどうか、ドアノブを回してみようと手を伸ばしたところで、唐突にドアが開いた。

 

「わっ……な、なんだ、いたんだ。 おはよう、アスカ」

 

ドアにぶつかりそうになって、慌てて飛びすさる。

しかし、アスカはまったく構うそぶりも見せず、じろりとシンジをにらんだ。

 

「アンタ…なに、その顔」

 

ドアを開けて、シンジの顔を見たアスカの第一声が、それだった。

思えば、最初から波乱含みだったといえるかもしれない。

 

「あ!…いやっ、これは…」

 

また笑われる!

マジックの跡はほとんど消えかけていたけれど、シンジは慌てて腕で顔をこすった。

相手がアスカだということもあって、自分の顔を隠そうとするのに必死で、彼女の顔色の悪さに気付かなかった。

 

「これは、トウジとケンスケが…」

「バッカじゃないの」

 

しどろもどろになるシンジに、突き放すような一撃。

吐き捨てるような言い方に、さすがにシンジも一瞬、顔色を変える。

 

「え……」

 

何を言われたのかよく分からず、アスカの顔を見る。

ふざけた調子はまるでなかった。

氷のように硬質な視線。

 

なにか怒らせるようなことを言っただろうか…

 

そう、思考しかけるが、畳みかけるようにアスカが切りつける。

 

「なによ」

「え…?」

「何か用なの」

「いや、あの…」

 

冷たい言い方だと、考える暇もなかった。

気圧されるように、シンジはアスカを誘いに来たことを口にする。

 

「あっそ。 あたしは行かない」

 

にべもなく言い放って、アスカはすぐにドアを閉めようとする。

次の言葉を待っていたシンジは、瞬間、断られたことに気付かず、呆けた顔で閉じかけたドアを見る。

思わず、手が伸びていた。

閉まりかけたドアを押さえる。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ。なんでさ。 みんなもう待ってるんだよ」

「知らないわよ」

「ちょっとアスカ、話を聞いてよ…」

 

閉じかけていたドアが、急に勢い良く開いた。

ガン!と頭をぶつけたシンジは、目の前がチカチカした。

 

「アンタ、何ひとりで浮かれてんのよ。 行きたきゃ勝手に行けば」

 

この時、シンジは、確かに浮き足立っていたかもしれない。

アスカはきっと喜ぶだろうと思っていた。

せっかくのケンスケのお膳立てを無にしたくないという思いと、どういう経緯があって決まったのかということも知らないのに、一方的に言い立てるアスカの物言いに、カチンときたのも確かだった。

ぶつけた頭を押さえながら、口調が強くなる。

 

「そ、そんな言い方ってないだろ! いつものアスカらしくないよっ」

 

その言葉に、今までようやく抑えていたアスカの声が、当たり散らすような怒鳴り声に変わった。

 

「何が嬉しいのか知らないけど、それを人にまで押しつけないで!」

 

バン!

 

叩きつけるように、ドアが閉まった。

暫く、あっけにとられ、閉じた扉を見て――――急速に頭に血が上った。

 

「あ……ああ、そう! 分かったよ!」

 

自分でも驚くほど強い調子の捨てゼリフを残して、シンジは大股で歩み去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんだよ、アスカのやつ!

 

完全に頭に血が上ったようで、シンジは駆け下りるような勢いで階段を降りた。

踊り場で向きを変えようとして、手すりを思い切りたぐり寄せるが、手がすべってたたらを踏む。

ああもぅっ!

 

ガン!

 

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ」

 

苛立って拳で手すりに八つ当たりすると、予想外の衝撃が来た。

思わず手を抱え込んで、痛みに耐える。

 

シンジは、ひどく情けない気持ちになった。

情けないついでに、煮え立つようだった気持ちも収まってくる。

痛みというのは、時に人を殊勝な気持ちにさせるらしい。

 

「はあ……どうして、こんなことになっちゃったんだろう」

 

知らず、ため息が漏れる。

ただ、みんなと一緒に遊びに行こうと、誘いに来ただけだったのに。

 

先ほどまでの勢いはどこへやら、のろのろと階段を一段、一段降りる。

みんなには、何て説明しよう…と考えて、余計に足が重くなる。

 

怒ったのなんて、久しぶりだった。

売り言葉に買い言葉というのは、さっきみたいなのを言うのだろう。

もちろん、最初からアスカの側に友好的な態度がなかったのは確かだが。

 

「アスカ……なんであんなに怒ったんだろう」

 

ここしばらく見たことのないような顔をしていた。

 

「昨日は、あんなに機嫌よさそうだったのに…」

 

そこまで考えて、ハッとした。

昨日のスクーバの時に見せた、アスカの笑顔が脳裏に浮かぶ。

そして、先ほど見せた、固い表情。

あれは、怒っていたんじゃなくて、苦痛に耐えている顔ではなかったのか。

 

アスカ、具合が悪いんじゃないか…?

 

『うん、同室の子に聞いたら、お腹空いてないからって… 』

 

「……!」

 

バカだ、僕は!

 

シンジは勢い良く身を翻すと、一段飛ばしで、降りてきた倍の速度で階段を駆け上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

コンコン!

 

「アスカ……ごめん! さっきは怒鳴ったりして」

 

息を切らせながら、ドアを叩く。

相変わらず、部屋の中から返事はない。

 

「アスカ?……アスカ!」

 

ノブに手をかける。

金属製のそれは、抵抗なく回った。

シンジは少し躊躇ったが、アスカの具合が悪いのではないかと、迷いを払う。

 

「入るよ、アスカ」

 

カチャ…。

 

部屋の中は、電気がついていなかったが、大きな窓から射し込む光のせいで、十分明るかった。

部屋に入っても、アスカから反応はなかった。

女子の部屋に無断で入ってしまったことに、さすがに気後れしながら歩を進める。

 

アスカは、ベッドの端に腰掛けていた。

水の入ったコップを手にして、前屈みに身体を折り曲げている。

部屋の中にシンジが入ってきたのに、気を払う様子もない。

 

「アスカ…」

 

呟くように呼びかけると、ようやくアスカは目線だけを上げた。 ひどく億劫そうに。

それで初めて、シンジはアスカの顔色がひどく悪いのに気付いた。

強張った顔は、やけに白っぽく、かさついていて生気がなかった。

シンジは慌てて側に駆け寄った。

 

「アスカ、だいじょぶ?」

 

アスカは目を細めて、顔をしかめた。

それは、先ほどと同じく怒っているようにも見えたが、ひどく苦しそうだった。

 

「……なにしにきたのよ」

 

憎まれ口も、それだけ言うのがやっとという感じで、アスカは再び俯いた。

さっきとは比べ物にならないほど、か細い声だった。

 

「大丈夫、アスカ!」

「……大きな声、出さないで」

「ご、ごめん」

 

眉間に寄せられたしわが、アスカの苦痛の大きさを物語っていた。

額には、脂汗で髪が張り付いている。

 

「つっ……」

 

ゴトン。

 

アスカがコップを取り落とした。

床に落ちてびしょ濡れになるが、割れなかったのは幸いというべきだろう。

 

「あ…」

 

咄嗟に、それを拾おうとかがみ込んだシンジのシャツが、ぐいと引っ張られた。

痛みを抱えている時、人は何かにしがみつきたくなるのが常だ。 それが物であれ、人であれ…。

右腕で腹部を抱え込むようにしたアスカが、左腕でシンジの胸板にしがみついていた。

 

「あ、アスカ…」

 

片膝を折りかけた不自然な格好のまま、シンジはあっけに取られたように動けなくなった。

見下ろすと、アスカの頭が見える。

いつもは艶やかな栗色の髪も、ひどく悄げて見えた。

視線をちらりと動かすと、予想外に細く小さなアスカの手が、自分のシャツを鷲掴みにしているのが目に入って、シンジは体を揺するわけにもいかず、アスカのつむじのあたりを見つめていた。

 

鈍いシンジも、やっとアスカの具合の悪い原因に気付いていた。

以前にも、何度か辛そうなアスカの姿を見たことがある。

以前といっても、それは随分前のことだが……。

あの時は、ただアスカの機嫌の悪さと剣幕に恐れをなして、できるだけ近づかないようにしていた。

アスカのそれは、他の人と比べても、特に重いらしかったと、今ごろになって思い出す。

 

シンジは、先ほど声を荒げてしまったことを、本当に済まないと思った。

 

「さっきはごめん、アスカ…」

 

アスカはそれには取り合わず、ただ、責めるように呻いた。

シンジは、先ほどのカッとなった気持ちはもちろん、後悔とか後ろめたさも忘れて、ただ、いたわる気持ちで、アスカにしがみつかれるに任せていた。

 

「アスカ…薬とか、もらってこようか。

 横になった方が、楽なんじゃない? …ほら、手伝うよ」

 

できるだけやさしく、ゆっくりと聞こえるように囁く。

 

「……ぅるさぃ…だまってて」

 

アスカは、返事をするのも億劫なようだった。

今は何を言っても気に障るだけのようだから、声をかけることもできない。

結局、今、自分にできることは、このまま少しも動かずにいることだけのようだった。

 

情けなかった。

ただ、それでも何もできないよりマシだろう。

こんなことで、アスカの痛みが少しでも和らぐのなら…。

 

アスカの痛み。

当然のことながら、男であるシンジには、それを想像することは困難だった。

 

歯痛みたいなものかな…。

 

考えかけて、あまりのバカバカしさに止める。

あんたになんか、分かんないわよ! と、頭の中のアスカが拳を振り上げて怒鳴っていた。

 

「…ぁんたになんか…わかんないわよ…」

 

急に、まったく同じことをアスカがぼそぼそと呟いたので、シンジはびっくりした。

考えていることがわかるのだろうかと、思わず顔を覗き込もうとすると、

 

「…バカシンジ…」

 

ぼそりと、アスカが言った。

シンジは何も言わないのに、あとを続ける。

 

「…バカじゃなきゃ、アホだわ……あるいはマヌケ」

 

ひどい言われようだと思ったが、アスカも気を紛らわせるために口走っているだけで、何を言っているのか、自分でも意識していないようだった。

その後も、何かぶつぶつと口の中で言っていたが、シンジには聞き取れなかった。

 

どれくらい、そうしていただろう。

ここに来た時間は覚えていないし、現在時刻を確認することもできない。

みんな待ってるかな…とぼんやり思ったのは、アスカの呼吸音が、最初よりずっと緩やかになってきて、少し油断していたせいかもしれない。

実際、初めは人を呼んできた方がいいんじゃないかというくらい、具合の悪そうだったアスカも、シャツにぶら下がるんではなくて、頭をもたれさせるくらいには、体の力も抜けてきていた。

髪の毛を通したアスカのおでこの体温と、口から漏れる小さな吐息が、胸の辺りにじんわりと伝わってくる。

 

その時、本当に不意に、アスカが身じろぎしたのだが、シンジは正直、それどころではなかったので、その小さな異変に気付かなかった。

無理な格好を続けていたせいで、足はがくがくしていたし、背筋がつりそうになっていたからだ。

それでも、よくもったという方だろう。 かつてのシンジだったら、途中で床に転げていたかもしれない。

 

唐突に、天気が快晴から土砂降りに変わるくらいの突然さで、アスカの態度が豹変した。

 

「!……放してよ」

 

と、もとは自分からしがみついてきたくせに、無体なセリフとともにシンジを突き飛ばした。

膝が限界に来ていたシンジは、抵抗する間もなく、格好悪く床にしりもちを付いた。

運悪く、そこはコップからこぼれた水が染みこんでいるところで、短パンがびっしょり濡れる。

それでも、シンジは何が起きたのか分からない、という顔で、しばらく茫然としていた。

ようやく我に返ったのは、アスカが小さく呻いて、ベッドの上に倒れ込んだからだ。

 

「アスカ…」

「…っ触らないで」

 

そろそろと伸ばした手が、その背に触れる前に、アスカの小さいが、はっきりとした拒絶の声。

シンジは、びくっと手を引っ込めた。

アスカは体を丸めて、まるでその頑なさを全身で表現しているかのようだった。

 

シンジにも、拒絶されたのは分かった。

なんというか、ひどい有り様だ。

最初から最後まで役立たずだった気がして、しゅんとなる。

ただ、頭の中の冷静な部分が、アスカの痛みの原因を考えれば、当然の反応だと言っていた。

こんな時に、男の自分にいられたのでは、ひどく決まりが悪いだろう。

痛みで朦朧としていた間は、それどころではなかったとしても。

 

シンジは、無言のまま、落ちたコップを拾い上げ、手早くこぼれた水の後始末をした。

 

「……何か、僕にできることない?」

 

それでも、そう聞いたのは、シンジの不器用さだったろう。

 

「…はやく出てって…!」

 

アスカは、シンジを見もせずに、吐き捨てた。

シンジは、一呼吸の間を置いて、それに従った。

 

アスカの背後で、ドアが静かに閉まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おっそいのう、シンジのやつ…」

 

ホテルのロビーにあるソファの手すりに腰掛けたトウジが、焦れたように天井を見上げる。

がったんがったんと、ソファを揺らす音。

 

「…ちょっと、鈴原! それやめなさいって言ってるでしょ。壊れたらどうするのよ」

 

その音に耐えかねたヒカリが、トウジに注意する。

先ほどから、この繰り返しである。

そのたびに、トウジはしぶしぶ止めていたのだが、またしばらくすると揺らしだす。

待っているのにも飽きたのか、トウジはボリボリと頭をかいた。

 

「まったく、うるさいのぅイインチョは…」

「なんですってぇ…」

 

ヒカリのこめかみに、スジが立った。

 

「なんや、やるかっ?」

 

退屈してるより、ヒカリとケンカしている方がマシだと思ったのか、トウジはどこか楽しそうに、カンフーっぽい構えをとる。

ヒカリの思考が、委員長オシオキモードに切り替わる。

 

「やれやれだな」

 

先日の一件以来、ちっとも進展のない二人のケンカ(ケンスケに言わせれば、じゃれ合い)を横目で見ながら、ケンスケは、我関せずとばかりに、カメラの調子を確かめている。

と、階段を駆け下りて、こちらへ走ってくるシンジの姿が見えた。

 

「おーい、シンジ!」

 

ケンスケが手を上げて声をかけると、ヒカリとトウジも気付いて、一時休戦する。

遅いでぇ、と文句を言うトウジに謝りながら、シンジは息を整えるのももどかしそうに、ヒカリを呼んだ。

意識的に、男二人から離れたところに歩いていくシンジとヒカリを、なんだなんだ見つめるトウジとケンスケ。

シンジの「綾波は?」という言葉だけが聞き取れた。

彼女は、部屋に帽子を忘れたと、戻っているところだった。

 

シンジは、自分から声をかけたものの、どう切り出して良いか分からないように、無意味な手振りを何度か繰り返した。

やがて、決意と羞恥に強張り、赤くなった顔で切り出した。

 

聞くうちに、ヒカリの目が、大きく見開かれる。

そして、彼女の顔も、やはりわずかに赤く染まる。

だが、やがてそれは収まり、真面目な顔でしばらく考え込んだ。

そして、一言二言、シンジに伝える。

うんうんと、確認するように頷き、今度は鳩尾の辺りを押さえる仕草をする。 ヒカリもうんうん、と頷く。

いくつかのやり取りのあと、シンジは深々と頭を何度も下げた。

ヒカリは慌てて、両手を小刻みにせわしなく振る。

 

もう一度、頭を下げて走り去るシンジの後ろ姿を見送って、ヒカリは吐息した。

正直びっくりしたが、さて男2人にどうやって説明したものかと考え込む。

が…。


「今のをど〜お思いますかぁ、解説の鈴原さん?」

「そーですなぁ…何やらずいぶんと、ええ雰囲気でしたなぁ」

「ふむふむ。やはりそう思われますか…いやぁ、そうですか」

 

ぷるぷると、2人に背を向けたヒカリの握りしめた拳が、小刻みに震え始める。

やがてそれは全身に伝染し、0.5秒で振り向いたヒカリは、持っていたポーチをトウジの顔めがけて投げつけた。

 

「ほげぇっ…!」

「この2バカコンビぃっ!!」

 

デリカシーのかけらもない男2人に制裁を加えて、ヒカリはふんっと背を向けた。

トウジは鼻頭を押さえて何やら抗議していたが、鈍感男にはいい気味だと思った。

 

そこでふと、お下げ髪の少女は顔を曇らせる。

 

「でも、大丈夫かなアスカ…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アスカはベッドの中で、体を丸めてうずくまっていた。

それで痛みが減るわけではなかったが、やせ我慢するには、この格好が一番だった。

今日一番だったさっきまでの痛みは峠を越していたが、鉛を呑んだような鈍痛が断続的に続いている。

 

部屋の窓から差し込む光が気になって、アスカは顔をしかめた。

昨日まで魅惑的だった沖縄の太陽も、今はただ、忌まわしいだけだ。

夏風邪をひいた時のように、身体の中は寒いのに、外側だけが異様に暑く感じる。

だが、肌に触ると、そこは意外なほど冷えていて、いやな汗が滲んでいるのだ。

陽光の当たっている部分の肌は、そんな感じでひどく不快だった。

カーテンを閉めたいと思ったが、窓際まで歩いていく気力が湧かなかった。

 

「ぅ……」

 

うらめしそうな顔で、アスカは呻いた。

 

シンジがいれば、と思ったのである。

出て行けって言ったからって、本当に出ていくことないじゃない…!

と、理不尽なことを考える。

だが、それは本心でもあった。

 

ひどい言い方をしたかな…という考えも、一瞬、頭を過ぎる。

 

しかし、あの時。

シンジの胸に顔をうずめて、痛みが次第に引いていった時。

はっと気が付いたときには、急に恐くなった。

なぜだか分からない。

だが、それは不快さに直結した。

だから突き放した。

 

「痛っ……」

 

とりとめのない考えが、頭の中を回る。

この日は、いつもこうだ。

今日は、せっかくの修学旅行最終日なのに。

夕方には、荷物をまとめて帰らなければならないのに。

シンジたちは、海岸に行ったのだろうか。

今ごろ、楽しくやっているのだろうか。

なのに私は、ベッドの中でうずくまって、みじめに苦痛に耐えている。

 

「…女だからって…なんで、こんな……」

 

呟いた瞬間、鼻の奥がツンとなって、アスカは余計に体を縮こまらせた。

 

コンコン。

 

三度、ノックの音が響いたので、アスカは正直動揺した。

まさか、戻ってくるとは思わなかったからだ。

どうしよう…と思っている間に、ドアが開いた。

 

「ちょっ……!」

「......入るわ、アスカ」

 

入ってきたのは、レイだった。

何しに来たのよ…とアスカが文句を言う暇もなく、静かにベッドに歩み寄ってくると、小脇に抱えていたたくさんのタオルをサイドボードの上に置いた。

そして、手に持っていたグラスを差し出した。

 

「はい、これ......」

「……なによ」

 

ジロリと、精一杯の抗議の意を込めて、下からアスカは睨みつけるが、レイは平然とグラスを差し出し続ける。

やりにくいこと、この上ない。

シンジと違って、レイは無口で無表情な分、静かな迫力がある。

これはシンジの差し金に違いなかった。

 

「……薬なんか、いらないわよ」

「薬じゃ、ないわ...」

 

アスカは最初、無視を決め込んでいたが、とうとう根負けしたように、のろのろと体を起こした。

そこへ、タイミング良く、レイが体の下にまくらを入れる。

ここに寄りかかれというのだろう。

アスカはしぶしぶ、そこに体を預けて、そっぽを向こうとするが、グラスから漂ってくる香りに気を取られる。

この香りは…。

 

「レモネードよ......温まるわ」

 

アスカの心中を代弁するように、レイはグラスを握らせた。

喉が乾いていた上、まさに飲みたいと思っていた物を差し出されて、つい受け取ってしまう。

 

「...ゆっくり飲んで」

 

それだけ言い残すと、レイはタオルを持って、さっさと浴室へと消えた。

完全にレイのペースに乗せられていることに憮然としながらも、アスカはレモネードをすすった。

 

「……ん!」

 

一口すすって、グラスに目を落とす。

てっきり、できあいのものかと思ったら、ちゃんとレモンを絞って、ハチミツを落としてある。

続けて、二口、三口とすするが、悔しいので、美味しいとは口にしない。

 

グラスの中のレモネードがなくなり、何も入っていなかった胃が、じんわりと温かくなってきた頃、レイが戻ってきた。

無言で、アスカから空のグラスを受け取ると、やおら、

 

「...そこに寝て」

 

と言う。

 

「あのねぇ…」

「寝て」

「………」

 

短いが、有無を言わさぬ口調。

アスカは、ぶちぶちと文句を言いながら、横になった。

腹の中では、シンジに対する文句が渦巻いている。

 

ずるい…。

 

レイが相手では、さっきのように怒鳴り散らしたり、追い返すことができないではないか。

ずるいやり方だ。

…バカバカバカバカ、バカシンジ!

 

「…ほら、これでいいんでしょう」

「...じゃあ、お腹めくって」

「……はあ?」

「めくって」

「なんで、そんなことしなくちゃなんないのよ!」

「.........(じっ)」

「…………」

 

レイには、なぜだか逆らえない。

シンジだったら、とっくにはり倒しているところだ。

アスカは仏頂面で、Tシャツをめくりあげて、おへそを出した。

 

「めくったわよ!」

「そう......」

 

レイは頷くと、アスカのお腹の上に、清潔な乾いたタオルを乗せた。

次に、浴室から持ち帰ってきた、しぼったタオルを広げる。

パンパンと伸ばすと、猛烈な湯気が立ち上った。

さして熱そうな素振りも見せず、レイはそれを4つに畳んで、乾いたタオルの上に乗せた。

 

「あ……」

 

ようやく、レイが何のために、お腹を出せといったのか分かった。

レイは一番上に、また乾いたタオルを乗せて、最後にお腹の辺り全体にタオルケットをかけた。

 

「.........」

「………」

 

乾いたタオルを通して、じんわりと、温かさが沁みてくる。

 

「.........」

「………」

「......熱い?」

「……あ、熱くはないわ」

「そう......」

 

5分ほどたって、少しぬるくなってきたかな…という頃、アスカが何か言う前に、レイがタオルを取り替える。

アスカは、何も言い返せない。

いつの間にか、体の中に抱え込んだ鉛玉が、ずいぶん小さくなっていた。

痛みは、まだ少しあったが。

悔しいので、アスカは目を閉じた。

 

同じことを3回ほど繰り返したあと、レイは、タオルを全部除けて、新しい乾いたタオルをアスカのお腹に置いた。

そして、鳩尾の辺りから下腹部までを、マッサージし始める。

 

「.........」

「………」

 

なんで、されるがままになっているんだろう…。

 

アスカは、不思議だった。

 

普通なら、自分で触るのも不快さを誘発することがあるのに、レイの手は、いやな感じがまったくしない。

なぜだろう。

レイには、澄んだ水のような清潔さがある。

それも、「病院の無菌室」のような清潔さではなく、「洗い立ての真っ白のシーツ」のような…。

その無垢さに、安らぎを感じている。

 

この子は、自分を裏切らない。

 

無意識のうちに、そう信じてしまう。

 

それを認めるのが恐くて、アスカはずっと目を閉じていた。

 

「......まだ、痛む?」

「………ちょっとね」

 

照れと感謝が、表情から飛び出しそうになって、アスカはわざとぶっきらぼうに言った。

 

「あんただって女なんだから、わかるでしょ」

「.........」

 

アスカは何気なく言っただけだったが、答えは沈黙だった。

 

「……?」

「......私には.....ないから」

 

 

 

血ヲ流サナイオンナ

 

 

 

「ないって……あんた、もしかしてまだ、ないの?」

 

レイは、あいまいに視線を動かして、答えなかった。

アスカは、答えがないことよりも、レイの表情が沈んだのを見て、気まずい表情になった。

誰でも、聞かれたくないことはあるだろう。

 

「……変なこと聞いて、悪かったわ……」

 

あさっての方を向きながら、アスカは謝罪した。

レイは、ふるふると頭を振って、それを許した。 そもそも、レイにアスカを責める気持ちなどないのだ。

アスカにも、それは分かった。

 

「……レイ」

「......?」

 

まだ、お腹をさすり続けてくれているレイに、アスカは、言いづらそうに口を開きかける。

だが、逡巡の挙げ句に出てきた言葉は、まったく正反対のものだった。

 

「……お、お節介なのよ…アンタもバカシンジも…」

「......ごめんなさい」

「……!」

 

レイなら、そう言えばそう答えるだろうとわかっていた。


その、あまりにも予想通りの答えと、わかっているのに思わず口走ってしまったことに、アスカは思いっきり顔をしかめて、頭の下から乱暴にまくらを引っこ抜き、顔に押しつけてそっぽを向いた。

これ以上しゃべると、どんどん自分がみじめになっていきそうで、アスカはたぬき寝入りを決め込んだ。

レイは、ゆっくりと、アスカのお腹をさすり続ける。

 

やがて、アスカの呼吸が規則的な寝息に変わった。

目を閉じているうちに、本当に寝てしまったらしい。

 

レイは、アスカが寝苦しくないように、そっと顔の上からまくらをどけると、はだけたTシャツを直し、そっとタオルケットをかけてやる。

そして、自分はベッドの横の椅子に腰を下ろすと、飽きることなく、アスカの寝顔を見つめた。

アスカはレイに負い目を感じたかもしれないが、レイには、むしろ嬉しかった。

 

半分だけ閉まったカーテンのむこうに、沖縄の青空があった。

今までに見たことがない、抜けるような青空だった。

 

ヒカリが、心配で様子を見に来た時にも、レイは身じろぎもせず、青い空を見つめていた。

アスカの手に、そっと手を重ねたまま。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……それじゃあ、学年のほとんどの子が、ご両親を?」

「ええ…お母さまを亡くされた子が多いようです。

 疎開で随分と生徒の数も減りましたし…A組ほどではありませんけど、うちのクラスも多いんですよ」

「そうですか…それは先生としてもご苦労が多いでしょう」

「い、いえ、それほどでも…」

「どうです、これからそこらでお茶でも…」

 

若い2−Bの担任教師は、ニヒルな感じの無精髭の男に詰め寄られて、わずかに身を引いた。

しかし、それほど嫌がっていないのは、その態度からもわかる。

 

「オホンっ!」

「きゃっ……あ、わ、私、仕事を思い出しましたので、これで…」

 

突然、咳払いの音とともに、生徒らしい少年がいるのに気付いた女教師は、そそくさと逃げるようにその場をあとにした。

 

「……なに、してるんですか」

「よぉ、シンジ君じゃないか」

 

ジト目を向けるシンジに、加持はまったく悪びれず、手を上げて見せた。

 

「……ミサトさんに、言いつけますよ」

「…やれやれ。 沖縄まで来ても、自由を満喫することはできないか」

 

加持は、大仰に肩をすくめてみせる。

 

「……加持さんて、もっと真面目な人かと思ってました」

 

憮然としつつ、シンジは、以前にも同じようなことを言ったことがあるような気がしていた。

 

「厳しいなぁ。 シンジ君が恐い顔をしてるのは……お姫様の機嫌が悪いせいかな」

「! ど、どうして知ってるんですか?」

「そりゃまあ、一応、お目付役だからな、俺は」

「はあ…」

「随分、落ち込んでるみたいだな。 良かったら、話してみないかい?」

「………」

 

 

 

「それは、淋しかったんだろ、アスカは」

 

ロビーの長椅子の両端に、シンジと加持は腰掛けた。

何かできることはないかと言ったら、出てってと言われてショックだったことを、ぽつぽつと加持に話すと、煙草の煙を天井に向かって吐き出しながら、加持は言った。

 

「え……でもそんな、淋しいなんて顔は…確かに、辛そうではあったけど」

「淋しいから、淋しい顔してるとは、かぎらないさ」

 

少しあきれたように、少しいたわるように、加持は言った。

言われてみると、思い当たる節があるのか、シンジは不覚という字をそのままお面にしたような顔をした。

 

『何が嬉しいのか知らないけど、それを人にまで押しつけないで!』

 

シンジは、まるで自分を呪っているような、思い詰めた顔をした。

 

別に、アスカの具合の悪いことが、彼のせいでもないだろうに。

だが、それがシンジという少年なんだろうとも、加持は思った。

今までの彼のやりようを見ていれば、それは分かる。

 

「…で、今はどうしてるんだい、彼女」

「あの、綾波に頼んで、付いていてもらってます。

 こういうときは、その、女の子同士の方が、いいんじゃないかって…勝手な考えですけど」

 

しどろもどろに、シンジは話した。

 

「そうだなぁ」

 

妙にしたり顔で、加持は吹き抜けの天井を仰ぎ見た。

 

「こういう時、男ってのは、だらしなくていけない」

「あの…すみません」

「いや」

 

ハハハッと、加持は笑った。

 

「シンジ君のことを言ったんじゃないよ。 一般的にってことさ」

「それはたとえば…加持さんも、ですか?」

「お、手厳しいなぁ」

 

加持が、情けない顔をつくって、それからいたずらっぽく笑って見せたので、つられてシンジも、ようやく笑顔を見せた。

 

「シンジ君は、アスカが好きなのかい」

 

加持の口調は、まるで好きな音楽を訪ねる時のように、のんびりとしていた。

予想通り、シンジは面食らった。

 

「え?! …い、いや、その…えっと…」

 

本当に分かりやすいなぁと、加持は内心、笑いをかみ殺した。

分かりやすすぎるから、アスカは時折、疑心暗鬼にとらわれるのかもしれない。

優しさを求める心の裏返しは、恐れだからな。

 

「ま、がんばれ、お若いの」

 

恋敵(?)である男性に、そう励まされて、シンジは複雑な顔ではぁ、と言うしかなかった。

 

「……ほら、噂をすれば、だ」

「え?」

 

その時、レイとヒカリを従えた(本当にそういう風に見えた)外出着のアスカが、階段を降りてくるのが見えた。

白っぽかった顔色は血色も戻り、歩く姿も、いつもの躍動感に満ちていた。

 

「…アスカ! もういいの?」

 

思わず聞いてしまって、アスカにギロッと睨まれた。

そんなことを大声で聞かれたくないだろう。

シンジは慌てて、両手で口を覆った。

 

「さっさと行くわよ」

「え……行くって、どこに?」

 

とぼけた発言を素でするシンジに、アスカのいつものフレーズが炸裂した。

 

「あんたバカァ?! 誘いに来たのはアンタでしょーがっ!」

「そ、そうでした…」

「自由時間終わりまで、あといくらもないわ。ぼけぼけぇっとしてないで、さっさと鈴原と相田を呼んできなさい!」

「は、はいっ」

 

背筋をピンっと伸ばして、シンジは大慌てで階段の方にすっ飛んでいった。

ヒカリが、ちょっと気の毒そうにそれを見送る。

そして加持は、わがままなお姫様のために車を用意すべく、笑いながら駐車場へと足を向けた。

 

 

 

 

 

加持の沖縄の足、レンタカーのバンでやってきたのは、海岸と名は付いているが、やはり崖のように切り立った海辺だった。

 

それでも、潮風に乗って、うち寄せる波しぶきが頬をかすめる。

 

白い砂浜はなかったが、十数メートル下の青い水面は、海底が透けて見えるほど澄んでいた。

 

昼前の日差しと、潮騒に包まれ、6人は切り立った海岸線を歩いた。

 

麦わら帽子が、風にはためく。

 

自然と、笑顔が弾ける。

 

海鳥の鳴き声が、それに唱和した。

 

どこまでも続く青と蒼の水平線は、水彩絵の具のように、はるか彼方で滲んでいる。

 

レイの手を取ったアスカが、振り返ってシンジにアカンベーする。

 

シンジは苦笑いを浮かべたつもりだったが、その表情はちっとも嫌そうではない。

 

「海はいいのぅ!」と大声でがなり立てるトウジを、もぅ…という顔で、それでも笑顔を隠しきれずに覗き込むヒカリ。

 

貴重なワンシーンを撮り逃すことのないよう、撮影に余念のないケンスケも、時折、堪えきれずに笑い出す。

 

サングラスをかけた加持が、バンに寄りかかるように、子供たちを見守っていた。

 

 

 

 

 

 

「加持さんも、早く入ってくださいよ!」

 

カメラを手にしたケンスケが、手を振って加持を呼んだ。

 

「俺もか…?」

 

シャッターを押すやつが必要だろうから、自分がやろうと申し出る加持に、

 

「ふっふ。 抜かりはありませんよ」

 

ケンスケは得意げに言って、三脚を取りだした。

 

「ほお、用意がいいなあ」

「カメラマンですからね」

 

まんざら冗談でもない顔で、ケンスケは手際よく三脚をセッティングしていく。

 

「ささ、早く入って下さい。時間なくなっちゃう」

「了解」

「相田、綺麗に撮らなかったらぶっ殺すわよ」

「まかしとけ」

 

 

真ん中で派手なポーズをとるトウジ。

少し恥ずかしそうに、その横ではにかむヒカリ。

端の方で無精髭のはえた顎をなでる加持。

静かに佇む麦わら帽子姿のレイと、彼女を促してVサインをつくるアスカ。

その横で、心からの楽しそうな笑顔を弾けさせるシンジ。

…セルフタイマーを仕掛けて駆けてきたケンスケは、トウジの横に滑り込もうして、見事に転んでいた。

 

 

 

 

パシャッ。

 

 

 

 

沖縄の太陽の下、7人だけの集合写真は、ケンスケが修学旅行中に撮った写真の中でも、一番の出来映えとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

加持は、腕時計に目を落とした。

 

時刻は、まもなく正午を指そうとしている。

 

「…そろそろ、だな」

 

一瞬、別人のような鋭い表情を閃かせ、加持は口の中で呟いた。

 

 

 

 

 

112

 

 

 

 

 

NERV本部棟地下 C−6レベル

 

 

 

 

「………」

 

個性の感じられない、特殊合金製のドアを前にして、ミサトは一瞬、逡巡する。

手の中のカードに、目を落とす。

 

不在中の職員の部屋に無断入室することは、プライバシーの侵害であり…

 

管理部による通り一遍の警句が脳裏を過ぎるが、それも長いことではなく、ミサトは顔を上げて、手にしたカードをスリットに通した。

モラリスティックな思考には、しばらく眠っていてもらおう。

 

ピーッ。

 

小さな電子音とともに、内外の気圧差から、空気が抜けるような音とともにドアが開く。

 

室内は、タバコの臭いに満ちていた。

職員に割り当てられるオフィスの中では、もっとも小さいものになるその部屋は、二、三歩進めば端に行き着いてしまうほど狭い。

主のいない室内に佇んでいることに、さすがに少し後ろめたいものを感じながら、一渡り視線をめぐらす。

 

正面には、OA用品の規格通りの長机。

その上には、ブックエンドも使わず、突っ込まれただけのファイルの束に小型のテレビ、端末、やけに大きなデスクライト…。

左右の壁際にはラックすら置かれず、殺風景な中、そこだけが存在感を漂わせている。

正面の壁に一枚だけ貼られている紙が、むしろ違和感を感じさせた。

それも、各部署の内線番号が書かれている単なるNERVの組織図で、ほかに貼るものがないから貼りました、というおざなりな感じだ。

あらかじめ予想はしていたが、本部内のオフィスに、ミサトの知りたいような物は何も置いていないようだ。

 

一応、端末の電源を入れてみる。

OS画面のあとに、パスワード入力が要求されたところで、ため息を付いて電源を切る。

パスワードを試してみるだけ労力の無駄な気がしたのだ。

 

やっぱり収穫は何もなしか…という、気のない表情で、それでも一応、ファイルをパラパラとめくっていたミサトは、ふと、デスクの隅に置かれた写真立てに目を留めた。

そして、たっぷり10秒間は、その写真を見つめる。

それがもし、自分の写真だったりしたら、あまりのわざとらしさに、ケッと悪態をついて終わっただろう。

だがミサトは、そんなものがあるのがにわかに信じられない…という顔。

 

色の褪せたその写真の中で、3人の男女が笑っていた。

 

ミサトは、思わず手を伸ばして、その写真立てを手に取った。

8年前の自分たちが、そこにいた。

 

 

 

 

―――――リツコが、自分に隠し事をしている。

 

その疑惑が、確信に変わったのは、JAの事件の時だ。

変えられていたパスワード。

自動的に停止したリアクターの暴走。

 

何者かが意図的に、あの人型ロボットを暴走させたのは明白だった。

何者か。

ずっと頭の片隅にひっかかっていたのだが、昨日のリツコとの会話で、それははっきりした。

マヤの言葉を思い出す。

最近、ますます非協力的になった戦自。

言葉を濁したリツコ。

 

今にして思えば、あの時田という技師との質疑応答は、かなり誘導的ではなかったか。

あの時は、珍しく彼女が感情的になっていると思っていたが…。

 

自分には知らされていなかった、それはいい。

自身の性格くらい、よく分かっている。

知らされていて、なおリツコのように振る舞えたとは思えない。

 

だが、ほかにやりようがなかったのか!

 

結果的に、対抗勢力に対するNERVの優位性は確保されたが、信用の失墜した戦自や、日本重化学工業側から買った反感と憎悪は、想像するに余りある。

 

リツコは現場での見届け人にすぎまい。

仕掛けを指示したのは、おそらく碇司令……。

 

事態が予測の範囲内を越えなかったからいいようなものの、展開によっては、半径数十キロにわたって放射能をまき散らしていたところだ。

自分たちの命を危険にさらされた第二東京の面々が、どういう気分になるか、わからないわけがあるまい。

 

やり方が危険すぎる。

わざわざ、反発を煽っているようなものではないか。

それとも、そんなものを意に介する必要がないほど、彼らは…自分たちは傲慢なのだろうか。

司令室での会話が、頭を過ぎった。

 

『司令は、まだ使徒が来ると、お考えですか』

『現在のところ、使徒再来を否定する要素は何もない』

 

嘘だと、直感的に思った。

司令は、使徒がまだ来ることを、おそらく知っている。

その理由は、見当も付かないが…。

 

「あんた一体、何が目的なの。 何を望んでいるのよ…」

 

ミサトは、写真の中のリツコに、問い掛けていた。

 

なぜ、彼女は何も話してくれないのだろう。

自分が気付いているくらいのことを、リツコほどの才媛が思い当たらないはずはないのに…。

 

昔から、自分のことを多くは語らない女性だった。

だが…。

互いに通じ合えたから……互いを必要だと思えたから、親友と呼べる間柄になれたのではないのか。

 

やがて、隣の男に目を移す。

今とあまり変わらない、軽薄そうな表情。

 

「あんたは、何のために帰ってきたの。 何をするつもりなのよ…」

 

呟いて、ミサトは手にしていたファイルを注意深く、元あった場所に戻した。

 

ふと気付く。

視線を上げる。

その答えは、目の前にあった。

 

NERVの組織図。

そこに、加持が所属している「特殊監査部」の文字はない。

実際、ドイツ支部時代、そんな名称の部署は聞いたことがない。

内部部局の一つですらない、総司令官付きの待遇。

「特殊監査」の文字が、やけに印象に残った。

 

ミサトは、写真立てを元あった場所に、静かに置いた。

ここに来た目的は、果たしたと思った。

もう一度、室内を見回して、入ってきた時と同じ状態になっているのを確認し、ミサトは部屋を出た。

色褪せた写真の中で、3人の男女が、屈託なく微笑んでいた。

 

 

 

 

セントラルドグマの第六層にあたるこのフロアは、実験場とデータセンターの集中する第五層と、隔離施設が多くを占める第七層の間に挟まれており、目立った施設も存在しない。

ロッカールームと空室が多く、この時間帯、滅多に訪れる者もない静まりかえった廊下に、ドアをロックする小さな電子音が響いた。

 

作戦部長であるミサトが持つセキュリティ・カードのレベルは5である。

加持のオフィスのレベルは3。

ロックナンバーを知っていれば開閉することは可能であるが、記録としては残る。

それを改竄することは、ミサトにも可能である。 それなりの訓練・経験を積んでいるのだ。

ただ、それでも加持は入室に気付くだろう。

ミサトは、この分野で、自分が加持に及ばないことを知っている。

 

だが、それでもいい。

気付かれるのは構わない。

それ自体が、彼への一種の警告になるだろう。

 

 

誰もいない廊下をエレベーターに向かって、靴音も立てずに歩き出した時、何の前触れもなく、すべての照明が落ちた。

 

 

 

 

 

 

C−3レベル 第一発令所

 

 

 

『浅間山の観測データは、可及的速やかに、バルタザールからメルキオールにペーストしてください』

 

 

 

 

「…これが、浅間山の地震研究所が精査を依頼してきたデータ?」

 

コンソールに向かうマヤの後ろから覗き込むような格好で、モニターに映った目の粗い、サーモグラフ風のモノクロデータに目をやるリツコ。

 

「はい。 前回の定期サーチで引っかかったみたいで。MAGIでの解析依頼が来ています」

 

マヤの早いキータッチの音とともに、連続写真と思われる映像が、順に切り替わっていく。

 

「…よく、わからないわね。こんな粗い画像しかないの?」

「地熱吸入プラントよりさらに下、深度1100あたりらしいですから、仕方ないですよ」

「1100!……よく見つけましたね」

 

隣のコンソールについていたマコトが、驚きの声を上げた。

通常、マグマ溜まり下1000メートルというのは、観測器が圧壊してしまう深度だ。

 

「あそこの耐熱バチスカーフは、開発中の最新型をメーカーから回してもらってるってやつだろ?

 設計限界じゃ深度1500までOKとか聞いたことがある。 眉ツバもんだけどな」

 

自分のマグカップからコーヒーをすすりながら、隣席のシゲルが言う。

それも当然で、プロダクションモデル用に開発されたエヴァ専用耐熱・耐圧装備ですら、限界深度は1400を想定して設計されている。

 

「ちょっと、止めて」

 

2人の雑談には加わらず、無言のまま、数秒おきに切り替わる画面を見ていたリツコが鋭い声を上げた。

 

「はい」

「2つ前の、B−23……影みたいなものが映ってた気がしたんだけど」

「B−23ですね…これですか?」

 

同じような配置のモノクロデータを凝視していると、目がチカチカしてくる。

リツコはわずかに目を細めた。

 

「右下のあたり、拡大してみて」

「はい…」

 

カチッ。

 

マヤの指が、キーボードにかかった瞬間……

 

 

ブヒュゥゥゥゥゥゥン………

 

 

目の前のコンソールだけでなく、発令所全体のモニターがダウンし、全ての照明、ケイジに連動しているパイロットランプ等が、一斉に消えていく。

 

マヤは、自分が押したキーにのせている人差し指に目を落とす。

 

「……………」

「……………」

「……………」

 

妙な沈黙が、発令所全体を包み込む。

 

ハッと気が付いたマヤが、おそるおそる視線を背後に振る。

 

「…………」

 

ああっ、無言でこっちを見ているセンパイの目が白いっ!

 

バッと、右を見る。

 

マコト。

 

「…………」

 

シゲル。

 

「…………」

 

なっ、なんで、みんなそんな目で見るの?!

 

助けを求めるように、最上部の席を振り返ったところをゲンドウと冬月にまでにらまれて、マヤは、ひぃっと肩をすくめる。

 

「わ、わたしじゃないですぅ……」

 

泣きそうな声で、マヤは主張した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「停電……?」

 

廊下の数メートルおきに配置されている、足下の誘導灯まで消えている。

ミサトは、いぶかしげに眉を寄せた。

 

「ありえないわね……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「駄目です、予備回線繋がりません!」

「バカな…!」

 

発令所は混乱と怒声が錯綜していた。

オペレーター席まで降りてきた冬月が、珍しく声を荒げて焦燥の表情を浮かべる。

 

「生き残っている回線は!」

 

しばらくして、アンダーフロアを走り回っていた女性オペレーターの一人が、手でメガホンを作って声を張り上げる。

 

「全部で1.2%、2567番からの旧回線だけです!」

 

スピーカーを通した全館アナウンスどころか、内線電話すら使用できない状態では、そうするしか情報伝達の手段がない。

報告を受けた冬月は、思わず口の中だけで舌打ちする。

 

「生き残っている電源は、すべてMAGIとセントラルドグマの維持に回せ!」

 

それを聞いて、各所からの報告を忙しくメモに書き留めていた青葉が、慌てて振り返る。

 

「それでは全館の生命維持に支障が生じますが――――」

「構わん、最優先だ!」

 

冬月は苛立ちを隠そうともせず、強く断じる。

この時、マヤ、マコト、シゲルの3人ともが、複雑な感情をそれぞれの表情で顕在化させていた。

 

『真実は、私たちの見えないところにあるのよ。たぶんね…』

 

昨日の今日だけに、否応なしにミサトの言葉が頭を過ぎる。

副司令の命令は、まさに彼女の疑念を裏付けるものではないのか。

 

「了解」

 

意図的に感情を排した声で、シゲルは命令を遂行した。

マヤとマコトも、それぞれの仕事に戻る。

発令所の電源は、いまだ回復の兆しを見せず、互いの表情を確認することすら困難なことに感謝する彼ら3人だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「7分か……」

 

ミサトは腕につけた時計をちらりと見て、フロアが闇に閉ざされてからの時間を確認する。

指を離すと、仄かな光源となっていたバックライトは消えるが、うっすらと文字盤は見える。

暗闇にも、だいぶ目が慣れてきたようだ。

 

「事故か、あるいは……。 いずれにせよ、ただごとじゃないわね」

 

NERVの電源は、正・副・予備と三重に用意されている。

それが同時に落ちて、いまだ回復の兆しも見せないというのは考えられない事態であった。

 

「こっちも、相変わらずか…」

 

支給品の携帯電話も、圏外となったままだ。 中継アンテナの電源も落ちているのに違いない。

 

「これはやっぱり――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ブレーカーは『落ちた』というより、『落とされた』と考えるべきだな」

 

発令所の最上段で、さして驚いた表情も見せず、ゲンドウが呟く。

それは、冬月への問い掛けというよりは、思考を整理するために声に出して確認したという感じだった。

濃い色のサングラスの奥の瞳が、煩わしげな色を湛えて揺れている。

 

「原因はどうあれ、こんな時に使徒が現れたら大変だぞ」

 

いつまでたっても回復しない照明に業を煮やした冬月は、どこに常備していたのか、ろうそくを取りだして火を付け始めた。

 

「……浅間山のあれは、どう思う」

 

声を低くし、顔を寄せて、ゲンドウに耳打ちする。

 

「まだ断定はできんが、使徒である可能性は高いぞ」

「…ああ、おそらく八番目のやつだろう」

「パイロットがいないぞ…どうするつもりだ」

 

ろうそくの炎の照り返しが、サングラスの表面に映って、ゲンドウの表情を隠す。

 

「いずれにせよ、この状態ではエヴァは動かせんよ。

 外部との通信が回復し次第、チルドレンを呼び戻す。 場合によっては、現場に直行させればよかろう」

「……それしかあるまいな」

 

冬月は、密かにため息をついた。

なぜこの男が、チルドレンたちが第三新東京市を離れることを許可したのか、いまだに理解できない。

 

いまさら、保護者らしいところを見せたつもりか?

 

(まさかな…)

 

自分自身の考えの馬鹿馬鹿しさに、冬月は苦笑した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これも、か……」

 

エレベーターのボタンを何回か押してみるものの、何の反応もない。

 

「どの施設も動かない。 致命傷ね、こりゃ」

 

電源をやられただけで、普段あたり前のように使っている施設が、まったくの役立たずになってしまった。

何しろ、監視システムはおろか、有線の非常回線すら繋がらない有り様だ。

自然光の差し込まない地下では、進む足取りさえおぼつかない。

 

「仕方ない、このフロアの非常階段の位置は…」

 

踵を返しかけて、ミサトはふと、動きを止める。

唐突に、少し前の記憶がよみがえる。

 

『ターミナルドグマだ。…意味は分かるな』

 

「………」

 

電気系統はいまだ回復しない。

セキュリティシステムも沈黙している。

 

危険な考えね…。

 

頭の片隅で、軍人としての服務規程が警鐘を鳴らしていたが、その時すでにミサトは、非常階段とは反対の方向、第3エレベーターの方に向かって歩き出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「このジオフロントは、外部から隔離されても、自給自足できるコロニーとして造られている。

 そのすべての電源が落ちることは、理論上有り得ない」

「誰かが故意にやった、ということですね?」

 

冬月は頷いた。

 

「恐らくその目的は、ここの調査だな」

「…復旧ルートから、本部の構造を推測するわけですか」

 

リツコが眉根を小さく寄せる。

 

「癪なやつらだ…」

 

冬月が吐き捨てた。

 

「MAGIにダミープログラムを走らせます。 全体の把握は、困難になると思いますから」

「たのむ」

 

ゲンドウの言葉に、颯爽と身を翻すリツコの背を見送って、冬月は軽いため息をついた。

 

「本部初の被害が、使徒ではなく同じ人間にやられたものとは。 …やりきれんな」

 

数瞬、間があった。

 

「…所詮、人間の敵は、人間だよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ターミナルドグマ。

 

NERV本部本館から深度4867メートルを境に、それ以下のレベルに、その呼称が与えられている。

大深度地下施設の設計・概念図にもそれは記載されている。

ただし、名称は「L.C.L.プラント」となっており、また、日本政府などに提出してある公式資料には、1000メートルより下部の施設は存在しない。

 

L.C.L.とは、言うまでもなくエントリープラグ内で使用されるオレンジ色の溶液のことであり、シンクロから生命維持まで、エヴァンゲリオンのセントラルシステムに不可欠のものである。

電荷することでその分子配列を変化させるという特殊な液体で、その製造方法は対外的にはおろか、NERV内部でもトップシークレットとされている。

したがって、通称「L.C.L.プラント」はレベル1、セクター2(最高同位レベル立入禁止区域)に指定されており、A級勤務者であり作戦部長であるミサトにも、立ち入りは許されていない。

これまでは、使徒迎撃の任の重さから気にとめている暇もなかったが、L.C.L.の重要度を考えても、B級以下の勤務者にはその存在すら極秘とされているのは大仰にすぎる。

使徒が執拗に第三新東京市を目指していることから考えても、ジオフロント、特にターミナルドグマには、L.C.L.プラント以外に隠蔽する必要のあるものが存在するのでは…と考えるのは、自然の帰結であった。

 

(そもそも、7次に及ぶ都市建設計画には、大深度施設について一切、触れられていない)

 

ミサトがNERV本部に赴任してきたのは、わずか数ヶ月前であり、第7次建設計画は最終段階を迎えていた。

先日調べたジオフロント整備計画にも、地下施設について触れられた個所はなかった。

 

(それだけ極秘裏に進められたということ? あるいは、武装都市計画より以前から……)

 

そこまで思考を進めたミサトの足が、ぴたりと止まる。

第3エレベーターは目の前だ。

予想通り、フロアの中でも中央部にあたるこの施設も、作動していないようだ。

それはいい。

この奥には、作業用の空間があり、さらに奥にはメインシャフト(中央大垂直溝)へとつながる通路がある。

その通路の間にある隔壁がわずかに開いており、その向こう側に人の気配を感じる。

 

人のことはいえないが、この非常時に、発令所へ向かおうとするならばともかく、暗闇の中、メインシャフトへと続く通路に足を踏み入れるような人間が、まっとうなNERV職員とは思えない。

 

「考えることは、一緒か…」

 

もちろん、口には出さずに呟いて、ミサトは足音も立てずに歩をわずかに進めた。

 

セキュリティシステムが死んでいるとはいえ、侵入してきたにしては、ここまで辿り着くのは早すぎる。

ジオフロントは、テロ対策のため、複雑怪奇な構造になっているからだ。

しかも、発令所やエヴァケイジではなく、この場所を選んだということは……

 

(潜入調査員、か)

 

ミサトは、懐のホルスターから、静かにUSPを抜いた。

 

 

 

 

 

113

 

 

 

 

 

沖縄 国連軍・新嘉手納基地

 

 

 

「ぁああっ!」

「おおっ!」

 

立派な軍帽をかぶった初老の人物を見つけたトウジが、指をさして大きな声を上げた。

その軍人も同時に気付いたらしく、両腕を広げて同じように声を上げた。

欧米人は、人に指さされるのをことに嫌うが、彼はよくできた人物らしかった。

 

「オッサンやないか!」

「そういう関西弁の君は…確か、スズハラ君だったな! 元気だったかね」

「おう! オッサンも相変わらず元気そうやな!」

「ふはははっ、当たり前だ。 若いもんには、まだまだ負けんぞ」

 

そう言うと、2人はまるで数年来の友人のように、喜色を浮かべてバシバシとお互いの背中を叩き合う。

引率の教師らが、唖然とした顔でそれを見ている。

 

「艦長! ごぶさたしてますっ」

 

先程まで、撮影禁止とされた基地内で、戦闘機や格納庫などを見るたびに、そちらに気を取られていたケンスケも彼に気付き、しゃちほこ張って、敬礼してみせる。

 

「おおっ、メガネの君は…そう、アシダ君!」

「…か、艦長、アイダです! 相田ケンスケ!」

「…ぅあっはっはっはっは! 冗談だよ。 君には、舵輪を握らせてやる約束だったな」

「〜〜っ、人が悪いなぁ、艦長も…」

 

大げさに肩をすくめて、情けない顔になるケンスケに、初老の提督は本当に愉快そうに笑った。

男たちの再会であった。

 

「元気そうだな」

 

ひとしきり3人で笑い合ったあと、艦長は少し居住まいを正して、シンジとアスカの肩に手を置いた。

 

「あの、お久しぶりです艦長」

「Guten Tag! Herr Admiral.」

 

シンジは、丁寧に、

アスカはあまり気のない素振りで、

それぞれ再会のあいさつをする。

 

軍帽の下の青い瞳に不思議な色を湛えて、艦長はじっと二人の顔を見つめた。

そして、ゆっくりと頷く。

 

「うむ……なによりだ」

 

言葉少なに、「なによりだ。なによりだ」と繰り返す艦長の肩に置かれた手は、大きく、温かかった。 

 

すごく、優しい目をしてるんだ……この人。 前に会った時は、わからなかったけど。

 

シンジは、自分より高い位置にある、海の男らしく日焼けした顔を見上げた。

 

ふと目を上げた艦長は、2人のすぐ後ろに佇む、物静かな少女に気付く。

 

「ん…この子は…?」

「あ、えっと、綾波です。綾波レイ。 僕やアスカと同じ……」

 

言いかけて、これは言っても良いものかと、口ごもるシンジ。

 

「……クラスメイトです」

「そうか」

 

しかし、艦長はそんなシンジの考えには気付かぬ風で、深く追究することもなく、同じようにレイの肩に、大きく厚い掌を置いた。

レイは、そんな初対面の人物を不思議そうに見る。

 

「よろしくな、フロイライン」

「......?」

「艦長…」

「ん? おお…すまんすまん。何しろ以前、アスカ君に、フロイライン(お嬢さん)と呼ばずに怒られたことがあってな!」

「艦長!」

「ぅあっはっはっは。 …よろしく、ミス・レイ」

「......よろしく」

「もう〜っ…!」

 

からかわれたアスカは、頬をふくらませた。

 

年を経た人間というのが、アスカは何となく苦手だった。

彼らの、目には見えない長く厚い人生経験の壁が、対照的に自分を子供に見せているように感じるからだ。

それはひどい言いがかりなのだが、「ずるいわよ…」と思っている。

 

「ね、ねぇ鈴原。 …この人、偉い人なんでしょ? 知り合いなの?」

 

「オッサン、オッサン」と呼び捨てたり、平気でタメ口をきいているトウジに、自分のことでもないのに気後れを感じてしまうヒカリ。

トウジの背中をつつくと、上目遣いに彼の顔をうかがう。

 

「お? おお、前にちぃと会うたことがあるんや。 顔はごっついけど、意外と話のわかるオッサンやで」

 

ヒカリは、ふ、ふーん…と、なんだか納得行かないような表情で呟く。

その一方で、自分の知らないトウジの一面に、なんとなくたくましさを感じてドキドキしてしまう。

 

「おや、そちらのお嬢さんは…」

 

目ざとくというか、艦長は、トウジの傍でかしこまるお下げ髪の少女に目をとめる。

そして、ヒカリが少年に向ける微妙な空気を鋭く感じ取り、ニカリと笑った。

 

「ほほう…もしかすると、鈴原君のsteady、かね? これはなかなか隅に置けんな」

「す、すてでぃ?!」

「えぇっ?! い、いえ、私は、その…あのぅ…そ、そんなじゃありませんっ!」

 

ヒカリは、あわてふためいて首と手を同時に振り、ハッと気付いて、トウジの方をおそるおそる見る。

しかし、当のトウジは、わけがわからん、という顔をしてこちらを見ていた。

 

「すてでぃ……ってなんや、イインチョ?」

「えっ?!……し、し、知らないっ。 少しは勉強しなさいよ、アホトウジっ!」

 

ばしっ!

 

「あたっ……な、なんでワシが怒られなアカンねん」

「ぅあっはっはっはっは!」

 

その間抜けなやり取りに、クラス中から笑いが巻き起こった。

 

「さあ、来たまえ。 あいにく施設内はお決まりの見学コースしか案内してやれんが、船の甲板に招待しよう。

 船上の海風は、ひと味違うぞ」

「船って、あのオーバー・ザ・レインボウですかっ?!」

 

喜び勇んで、ケンスケが艦長に詰め寄る。

 

「いや、あのデカブツは今、ドックでおねんね中だ。 “赤いお嬢さん”の舞踏会場になったものでな」

「??」

 

一堂が疑問符を頭上に張り付かせる中、事情を知っているシンジら数人だけが、苦笑いを浮かべる。

 

艦長は、自分たちが手も足も出なかったものが、子供たちの活躍で撃退されたことが楽しくてたまらないという風に、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。

むろん、旗艦を損傷したことを責めているのではなく、親愛を込めて、ジョークにしているだけなのだが。

 

「そう怒らないでくれたまえ、アスカ君。 あとで、君がいつも注文していたスペシャルパフェをおごろう」

 

アスカは憮然とした表情でそっぽを向いていたが、耳は艦長の言葉に反応し、明らかに「スペシャルパフェ」の響きに後ろ髪を引かれている様子が見て取れた。

そのアスカらしい、現金な愛らしさに、思わず、といった感じでシンジは笑みを弾けさせた。

 

 

 

 

 

114

 

 

 

「被害状況です」

 

コピー紙に、手書きの報告をまとめた青葉が、冬月にそれを手渡す。

 

「これまでに判明しているだけで、電線の物理的な切断が27個所、プログラム操作による巧妙な工作が16個所、発見されています」

「やはりな…」

「それと…本部棟のB−6、D−8入り口付近で、保安部が何者かと接触、小競り合いがあったようです。

 いずれも侵入は許していないとのことですが」

「どこまで信頼できるかな。…何しろジオフロントは広い。

 シェルター経由で侵入されたら、現状では察知のしようがないぞ」

 

冬月が眉を寄せて、今日何度目かのため息をついた。

 

「復旧の見通しは?」

 

侵入者の報告には拘泥せず、ゲンドウが問い質す。

 

「少なくとも8時間は…」

「それでは、遅い」

 

ぴしゃりと、言い放つ。

 

「外部との接触回線の復旧、エヴァの出撃シークエンスに関連する施設の電力調達を急げ。最優先だ」

「エヴァの…ですか?」

「当然だ。 今この時、使徒が現れたらどうする」

「はっ」

 

シゲルは素早く敬礼して、担当部署へ戻っていった。

 

「後手を引いたな」

「……ああ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

暗闇の中に、閃光のような衝撃が走った。

同時に、金属の合板を引き裂くような音が、耳元をかすめていく。

断たれた髪の何本かを宙に舞わせながら、ミサトは通路の反対側に転がり込んだ。

続けざまに放たれた銃弾が、リノリウムの床や壁に火花を散らす。

 

一回転して即座に態勢を立て直したミサトは、姿勢を低くしたまま、壁に背中を張り付けるように身を寄せた。

肘を引き、USPを胸元に引き寄せる。

 

「…M11とは、物騒なもん持ってるわね」

 

かつて、「CIAのおもちゃ」などと陰口を叩かれたイングラムM11だが、近距離における集弾性は、この状況下で無視できるものではない。

 

一体、どうやって持ち込んだのかしら…。

 

だが、ハンドガンでサブマシンガンに対処する困難さよりも、むしろそのことに頭が行ってしまう。

いかにM11が小型軽量とはいえ、ゲートを通る際に、携帯銃器として認められるはずがない。

 

これは、単独の犯行じゃないわね。

 

この停電も、何者かによる仕掛けであることがはっきりした。

それにしても、これだけの大がかりな妨害工作を事前に察知できなかったのか。

 

うちの保安部も案外、大したことないわね。

 

いつも尊大で、メンツばかりにこだわる諜報2課のやつらに、皮肉の1つも言ってやりたいところだ。

 

「おまけにナイトビジョンまで用意してるみたいだし……こりゃ、分が悪いわ」

 

ミサトは弾む息を軽く整えながら、奥の通路の様子に耳を傾ける。

じりじりと曲がり角から、顔の4分の一ほどを覗かせ、すぐに引っ込める。

 

「弾だって、そうあるもんじゃないってのに…」 

 

USPの装弾数は16。

出し抜けに、ミサトは身を乗り出して、牽制のため2発撃った。

反撃は、先ほどより、やや遅れて炸裂した。

壁が削られるような衝撃に、ミサトはヒュウと口に出す。

 

これで残弾は8。

すでに、半分を撃ち尽くしている。むろん、こんな事態は予測していなかったから、替えのマガジンなどない。

対する相手も、遭遇戦は想定していたにしろ、この時間、この場所での足止めは計算外のようだった。

行動を起こそうとして、出鼻をくじかれた、というところか。

 

「こっちが1人だと思って、なめてるわね」

 

反撃が遅れたのは、明らかに先に進んでいるからだ。

メインシャフトに出られれば、かなりの確率で逃げられるだろう。

 

「見てなさいよ…これ以上先には、絶対行かせないわ」

 

ミサトは、頭の中で、装甲隔壁の位置を確認した。

セキュリティは沈黙しているが、確か、手動で炸薬に点火して隔壁を閉める、非常スイッチがあったはずだ。

フロア構造は各階で異なるが、メインシャフト付近のつくりに大した差はない。

目標となる非常スイッチの位置を算出したミサトは、苦すぎる笑いを浮かべた。

 

「この通路の真ん中付近か……」

 

ミサトは、USPを両手で握って、額を押しつけた。

次の瞬間、再び通路に躍り出て、牽制の発砲。

反撃を待って、一気に駆け出す。

 

「南無三…!」

 

相手にナイトビジョンがある以上、こちらの動きは丸見えだ。

ただし、M11は毎分/1200発という速射性を持ち、24連のノーマルマガジンではあっと言う間、50連のロング・マガジンでも、気を抜くとすぐに弾切れになる。

それは、一種の賭けだった。

 

3歩走ったところで、ほとんど勘だけで、ミサトは右にステップして体を沈めた。

体の左側を、物騒な風切り音がすり抜けていく。

一度、右に行くとフェイントをかけてから、ミサトは一気に通路左側を駆け抜けた。

飛びつくように通路の途中にある壁面に取り付くと、デンジャーマークを示す黄色と黒の囲いのあるガラスケースを肘で叩き割った。

パン、と何かが弾ける音がして、重い振動が、通路全体を揺るがした。

瞬間。

やけつくような灼熱感を右上腕部に覚えて、ミサトは床に転がった。

 

 

 

 

 

 

 

115

 

 

 

 

そこは、白い部屋だった。

 

 

天井に据えられた幾つもの白色灯が、室内だけでなく、意識まで漂白するかのように。

ただ、時間だけが、等しく流れていく。

 

……彼女を除いて。 

 

 

 

少女は、背を丸め、膝を抱えて、ただ虚空を見つめていた。

その視線の先にあるのは、室内の白い壁ではなく――――

 

取り戻せぬ過去か……

閉ざされた未来か……

 

それとも…。

 

 

白い部屋の中で、彼女だけが取り残されていた。

 

 

すべては、あの日から止まったままだった。

光の翼が、氷の大陸を呑み込んだ、あの日から。

 

 

 

 

 

 

「……彼女は?……」

「……例の調査団のただひとりの生き残りです。 名は葛城ミサト……」

「……葛城? 葛城博士のお嬢さんか?……」

「……はい。もう、2年近くも口を開いていません……」

「……ひどいな……」

 

 

 

 

 

 

外界からの接触に対して、無反応だったわけではない。

食事を出されれば、手を付けることもあったし、排泄に他人の手を借りることもなかった。

 

 

 

 

 

 

「……それだけの地獄を見たのです。 体の傷は治っても、心の傷はそう簡単には癒えませんよ……」

「……そうだなぁ……」

 

 

 

 

 

 

他者との接触を恐れていたわけではなく……

 

 

 

なぜ、わたしはここにいるの

 

 

 

他人が信じられないというよりも。

 

 

 

 

なぜ、わたしは生きているの

 

 

 

 

誰よりも、自分が信じられなかった。

 

 

 

 

なぜ、父は死んだの

なぜ、他の人は死んだの

 

 

 

 

そう、考えるときだけ、彼女は膝に埋めていた顔を上げる。

その考えに至ったときだけ、彼女の瞳には、昏い光が宿るのだった。

 

 

 

 

なぜ、あの光はすべてを……

 

わたしを、消してくれなかったの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数年という、気の遠くなりそうな時間を経て、

彼女は、言葉を取り戻した。

 

だが、それは差し伸べられた温かい手のためではない。

優しい言葉のせいでもない。

そこには、ただ…。

 

 

 

白い闇は、確実に少女を蝕み。

 

言葉と引き替えに――――

 

確かに、「何か」を無くしていた……。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空気が淀んでいる。

 

「…暗いところは…好きじゃないわ」

 

息苦しさを覚えて、ミサトは目を瞬かせた。

一瞬、気を失っていたようだ。

この状況では、命取りになりかねない油断だが、ミサトはどこか放心したように、天井を眺めた。

 

右腕を走る激痛が、現実感を引き戻す。

止血はしたが、応急処置にすぎない。

運良くというべきか、弾は腕をかすめて抜けていた。

 

それよりも差し迫っているのは、現在の状況だった。

装甲隔壁を閉めることには成功した。

……退路をも断たれることと引き替えに。

わずか数十メートルの通路内の前後に立ちはだかった隔壁は、侵入者とともにミサトを閉じこめてしまった。

横に伸びる支道がいくつかあるが、いずれもすぐに行き止まる。

 

異常に気付いて、保安部が駆け付けるまで、侵入者が大人しく待っているはずはないから、選択肢は二つに一つ。

殺すか、殺されるか、だ。

ミサトは、両手の間にあるUSPを見下ろした。

右手が言うことをきかず、重心が定まらない。

 

「…連絡は取れない、助けも呼べない。真っ暗だし、おまけに暑くて息苦しい。 もう最低、ね…」

 

ミサトは、この場には不似合いな微笑みを浮かべていた。

 

だがそれは、恐怖に対する裏返しの感情に過ぎなかった。

 

今、ミサトは死ぬのが恐かった。

 

恐い。

 

恐くて、

寂しい。

 

ひとりぼっちは、寂しい。

 

なぜ、こんな風に思うのだろう。

死など、とうの昔に覚悟を決めたはずなのに。

一人になど、慣れているはずなのに。

 

ドイツ時代は、今以上にがむしゃらに生きていた。

昨日を顧みることもせずに。

だから、思い返してみたところで、感慨深いものなどないのだった。

あの頃は、他人を顧みる時間も、またその気もなく、端から見ても、はっきりいって薄情な人間に見えただろう。

だから、ドイツ時代を知るアスカが、今の自分のやりようを見て、「偽善的」と感じたとしても、それは仕方のないことだった。

 

そうだ、アスカ…。

あの子たちは、今ごろどうしているだろう。

 

『無茶、しないでくださいね…』

 

別れしなの、シンジの顔が脳裏を過ぎった。

 

死にたくない…!

 

ミサトは、今やただ一つの拠り所となったUSPを握り直した。

止血をした残りの布で、右手を固定する。

 

あと一発、か…。

 

「……!」

 

唐突に、電源が回復した。

暗闇に慣れた目が、幻惑される。

同時に、停電のせいで装甲隔壁が下りても沈黙していた警報が、けたたましく鳴り出す。

左腕でまぶしさから目をかばいながら、ミサトは今しかない、と思った。

迷いを断ち切るように、一直線の通路に飛び出す。

 

銃撃は、ない。

 

支道の一つに、銃を構えたまま躍り出る。

ポイントと同時に、引き金を絞り――――――。

 

「………エアダクト…か」

 

そこはすでに、もぬけの空だった。

天井付近の金具と通気口のふただけが、残されていた。

 

「ふ…ふふふ、ふふふふふっ…」

 

不意に、ミサトは発作的な笑い声を上げた。

安心したのと、拍子抜けしたのとで、膝を折ってへたり込みそうになる。

さっき固めた悲愴な決意は、一体、なんだったのか。

誰もいない行き止まりの壁に向かって銃を構えている間抜けさに、ミサトは自分であきれた。

無機質な警報が鳴り響く中、ミサトはゆっくりと両手を下ろして、エアダクトを下から覗き込んだ。

とうてい、今の状態で追うことはできそうになかった。

 

「……とにかく、発令所に行かなくちゃね」

 

やや放心したように、ミサトは呟いて、電源の戻った装甲隔壁を開けにかかった。

 

 

 

 

 

116

 

 

 

 

新嘉手納基地に停泊中の太平洋艦隊所属「オセロー」。

その船室のうちの一つに、2人の男の姿があった。

 

「お久しぶりです、艦長」

 

「ああ。…外務省経由で話は聞いておるよ。 まさか、君が来るとは思っていなかったがね」

 

多国籍の複合艦隊である太平洋艦隊の旗艦、オーバー・ザ・レインボウの艦長にして、艦隊総司令も務める白髪の老軍人は、待ち合わせの相手を振り返った。

 

「…加持君」

 

無精髭の男は、それにこたえて、わざとらしい敬礼をして見せた。

 

 

 

 

(つづく)

 


 

■次回予告 

 

浅間山火口で発見された黒い影。

予期せぬ停電工作のため、後手を踏んだNERVだが、負傷を押してミサトは現地へと飛ぶ。

果たして、発見される第八使徒。

しかし、事態は、ミサトの思惑とは異なった方向へと転がっていき…。

 

A−17の戒厳令下、夜の闇に不気味に光る火口へと、エヴァ弐号機が挑む。

 

 

次回、新世紀エヴァンゲリオンH Episode-22「マグマダイバー2」。

 

 

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(updete 2002/09/21)