X指定小説大賞参加作(オリジナル)

■ライク ア シングル(1)■

作・大場愁一郎さま

 

 

※はじめに著者からのお断り

 本作品はあくまでフィクションであり、登場人物と実在の人物とは一切関係ありません。

 『著者が主人公なのか?』と疑問を抱かれる方もいらっしゃるかと思いますが、本作品の主人公と著者とはまったくの別人です。事情により、HNをそのままとしてこの作品を投稿させていただいております。

 

 

 

 

 

「あれ?ね、大場くん…じゃない?」

「え?」

 繁華街の人混みの中であるにもかかわらず、その呼びかけが聞き取れたのは自分の姓を久しぶりに『くん』づけで呼ばれたから、そしてその声がどこか懐かしい、聞き覚えのある女性のものであったからだろう。黒のスーツに身を包んだ大場愁一郎は若干驚きの面持ちで背後に振り返った。

 呼びかけた張本人の女の子は…愁一郎の歩幅で五、六歩ほども離れたところで、どこかはにかんだ様子で雑踏の中に立ちすくんでいた。意識してなどいなかったが、どうやらほんの今し方すれ違った相手であるらしい。

 大概このようなシチュエーションでは、呼び止めた本人が他人の通行の邪魔になっているという事実に気付いていない場合が多い。そしてもし、これがチープなテレビドラマや小説なんかであったとしたら、呼び止められた側も通行の邪魔となるべく立ちすくんでしまうものだ。愁一郎も思わずそれに倣ってしまう。

「あ…駒沢ぁ!うわぁ、久しぶり!元気?」

「あはっ!やっぱり大場くんだ!うん、あたしは元気だよ!」

 仕事疲れや日常の鬱憤がありありと浮かんでいたのもどこへやら、表情をほころばせて歩み寄った愁一郎に、彼女…駒沢智秋もカーキ色のスーツの胸元で指を組み、嬉しさと懐かしさを綯い交ぜにして体現してみせた。慌てて人混みの中を駆け戻り、愁一郎の手を取って小躍りまではじめる。

こつんっ。

「あ…すみません…。」

 そんなはしゃぎようが密集状態の往来で容認されるはずもなく、智秋は罪もない見ず知らずの紳士に軽くエルボースマッシュを見舞ってしまった。振り返った中肉中背紳士の顔は、怒ってまではいないもののあきらかに場所をわきまえろと書かれている。智秋は慌てて頭を下げて非常識を詫びた。

「ははは、ぜーんぜん変わってないな、オデコと一緒で!」

「あ、まだ言う〜?大場くんだって生え際、上がってきてるんじゃないのっ?」

「ウソつけ、そんなハズねーよっ!」

「痛っ!なにすんのよ、もうっ…!」

 怒られてやんの、とばかりに愁一郎はブリーフケースを小脇に抱えなおし、智秋の額にコツン、とデコピンを見舞った。高校時代から変わることなく智秋の額は広めであり、そのくせヘアバンドで前髪を持ち上げていたりするものだから、たとえ目を閉じていたとしても額に命中させることができる。

 智秋はそんな愁一郎の振る舞いに、ぷぅ、と頬を膨らませてみせた。しかし懐古の微笑までは押し殺すことができなかったらしく、すぐさまかわいらしい上目遣いになって愁一郎を見上げ、彼の胸板に軽くゲンコを食わせた。二十五歳になった現在でも往年の名MFを思い起こさせる体格は鈍りも衰えもしていないようで、右手の拳は心地のいい弾力をもって跳ね返される。

「こうして顔合わすのって…オレ達の結婚式以来か?」

「…そういやぁそうね。ああ、もう二年ぶりなんだ。」

「せっかくこうやって会えたんだしさ、どっか寄ってかねぇか?どうせ予定、無いんだろ?」

「どうせって…フン!ど、う、せ、予定はありませんよ〜だ!」

 智秋は愁一郎の言葉に過敏に反応してコロコロと表情を変える。もっとも智秋のこんな性格には…良く言えば見ていて飽きない、悪く言えば疲れる性格には、愁一郎はとうの昔に耐性ができている。

 高校時代に二回も隣席どうしに巡り会ったとあっては、同じ異性友達と比較しても親密度が違うというものだ。ましてや人当たりのいい二人のことである。親密になるなというのが無理な相談だ。

「すねるなよぉ。じゃ決まり決まり!軽く飲んでこうぜ!」

「大場くん、いいの?浮気の始まりってことになっても知らないよ?」

「ばーか、ささやかな同窓会ってトコだよ!あんまりツッこむとオゴッてやらんぞ?」

「あははっ!じゃあ黙ってる!今月もうピンチだったんだぁ!」

 そう言うと智秋はポーチのストラップをかけ直し、無邪気な笑顔を見せて愁一郎の左腕にしがみついた。先程の会話にあったとおりで愁一郎は二年前から妻帯者であるが、親しくしていた智秋にこうされてはまんざらでもなく、されるがままで再び歩みを始める。

「まさかみさきのヤツ、近くにいないだろぉな?」

「あたし知らないよ?みさき怒らすと怖いんだから!あ、愚問かな?」

「愚問だよ。もう身に染みてわかってる…。」

 高校時代から付き合い始め、大学を修了と同時にゴールインしてしまった同い年の妻、大場みさき…旧姓辻ヶ谷みさきの顔が愁一郎の脳裏に浮かぶ。

 みさきの溌剌とした元気いっぱいの笑顔は最高の安らぎを与えてくれるが…怒った時の顔や悲しげな顔は最低最悪の不安を催させる。夫としての、愛する者としての生理現象であろう。

 これくらい浮気になんないよな?親友と旧交を暖めようとしてるだけなんだから…。

 心中の妻に弁解しておく愁一郎。

 遅くなるかも、とは言ってある。しかしその遅くなる理由までは告げていない。それがせめてもの言い訳材料にはなるだろう。昔の友達と飲んできた、と言えばウソはどこにも存在しないし、それが十分遅くなる理由となりうる。

 でも…まぁ…ゴメンね…。

 根が善人というか、尻に敷かれているというか…ともかく良心の呵責に苛まれた愁一郎は、心中で最愛の妻に陳謝した。

 

 愁一郎が誘ったショットバー『ヌーヴェル・バーグ』は繁華街のメインストリートから一本奥に入った通り沿いにある真新しいビルの地下にあった。

 照明は暗めだが不衛生さはなく、磨き込まれたカウンターと十個きりのシート、それとわずかな通路だけが客の利用が許される、こじんまりを極めたような店内だ。気怠くかけられているジャズのテナーサックスが大変よく似合っている。

「へえ…いい感じのお店じゃない。」

「へへへ、同僚と飲み歩いて気に入った店のひとつなんだ。メッチャ狭いんだけどさ、日本酒以外のアルコールなら大概あるんだよ。カクテルなんかもたくさんできるらしいんだ。ちなみに言っとくけど、メニューはないからな?」

「ほほぉ、本格的じゃん。」

 メニューが用意されていないということは、本当の酒飲み以外ご遠慮ください、と言っているのだと考えてもらってよい。自分のたしなむ酒ぐらいは覚えてから来い、ということなのだろう。

 それでも智秋は物怖じすることなく、それどころかこのショットバーの雰囲気がいたく気に入ったようで、きらきらと瞳を輝かせてあちこち眺めたりしている。

「とりあえずオレは…カカオフィズね。」

「あたしはカルーアミルク。」

 そうオーダーしてから二人はほぼ同時に顔を見合わせた。

「…せっかくこんな店に来てんのに牛乳はねぇだろ?」

「…他人のコト言える?なんでカカオフィズなの?黒のスーツにココアはないでしょ、ココアは!」

「好きなモン頼んじゃいけねぇのかよ?」

「あたしだってカルーアミルク、好きなんだもん!」

「…お待たせしました。恐れ入りますが、他のお客様へのご迷惑となりますのでお声は控えめに願います。」

 些細なことで言い争っているうち、いつのまにか声のボリュームが上がっていたらしい。かなり年輩のバーテンがふたつのカクテルグラスを差し出しつつ、二人をビジネスフレーズでたしなめた。

 客はカウンターの角で葉巻なんかをくゆらせている壮年紳士が一人いるだけなのだが、ここはあくまで酒を楽しむところなのだ。賑やかに談笑する場ではない。

 二人でバーテンと奥の客に頭を下げた後、愁一郎のほうからグラスを掲げ、小声で乾杯をささやいた。人なつっこい笑顔を取り戻した智秋もそれに倣う。

 そして学生時代のように、実りはないが軽妙なおしゃべりが始まった。

 

 ささやく程度の談笑は、気付けばもう一時間以上になっている。

 こうして二人きりで話をするのは実に高校以来なのだが、おしゃべり好きにブランクなどは関係ない。とりとめもないおしゃべりは途切れることなく続き、ふいになにかの拍子でそれぞれの仕事の話題になった。

「…市役所のほうはどう?相変わらず忙しい?」

「そうね。ま、市役所だし毎日が忙しくって毎日が同じ事の繰り返し。大場くんのほうは?先生、頑張ってる?」

「はは、まぁぼちぼちってトコ。可もなく不可もなし。はぁ、生徒に振り回されっぱなしで、気がつけばもう二十五だよ。イヤんなるよなぁ。」

「あ、それあたしも思う!ホント時間が経つの早くなったよねぇ!イヤだなぁ、そうこうしてるあいだに三十代突入しちゃう!ひゃあ、怖い怖い!」

 愁一郎は大学の教職課程を経た後で教職員採用試験に合格し、県立の普通科高校に勤務している。三年目となる今年度は、修学旅行のある二年生の担任を任せられていた。

 一方、智秋は高校を卒業後すぐに市役所に就職していた。それなりの資格を在学中に取得していたこともあり、今年で七年目のベテランは右へ左へ新米指導に忙しい毎日だ。

 やや大げさにかぶりをふった智秋はそっと目を伏せると、甘い香りを漂わせているカルーアミルクをコクンコクン喉を鳴らして気持ちよく飲み干した。彼女はこれで二杯目になるのだが、少々ペースが早いのでは、と愁一郎は先程から思っている。が、特別気にして声に出すことはなかった。会話が弾めば酒も弾んで当然、とも感じるからだ。

「そういや最近ゲームの方はどう?生徒とはそれっぽい話をしたりするんだけど…駒沢は相変わらずゲーマーやってんの?」

「…そうね、たまぁに勤務終わってから…若い子連れてゲーセン行ったりはしてるよ。でも家ではあんまりやらなくなったかな…。」

 智秋は高校時代、毎日のようにゲーセン通いをしていたほどのゲーム好きだった。

 コンシューマー機からパソコンまでほとんどのハードを所有しており、周りからもゲーマーと呼ばれるほどのゲーム好きで、しかも上手だったのだ。そんな智秋が沈み口調でロートルめいたことを言うとは、愁一郎には少々意外であった。

「ふうん、いよいよゲームも卒業かぁ?あ、さては男でもできたんだろ?」

「…ふぅ。」

 智秋はおどけてみせた愁一郎の言葉に即答を避け、グラスの中身を一息にあおってから小さく溜息を吐いたようだった。その表情は胸が痛むように儚げで…寂しさが瞳いっぱいに満ちていた。先程までの熱っぽいきらめきはいつのまにか消失している。

「ヘンなコト、聞いちゃった?」

「ううん、気にしないで。ちょっと、ね。寂しいなー、なんて。」

「そっか…。でもまぁ、ちょっと無理してでも笑ってるほうがデコオンナらしくていいよ!やっぱり笑顔が一番だもんな!」

「デコオンナ、かぁ…。あはっ、懐かしいなぁ…。」

 デコオンナ、とは愁一郎が高校時代、からかい混じりに智秋を呼ぶときに使用していた愛称のことである。智秋自身はその呼ばれ方を嫌がっていたのだから愛称とは言えないのかも知れない。

 高校時代はゲンコをふりかぶり、やめてよねーっ!と怒ったものなのだが…少し酔いが回っているせいか、智秋は懐かしむだけで反撃してはこなかった。静かに三杯目のカルーアミルクをバーテンに頼んだりする。さすがに気になる愁一郎。

「酔ってんじゃないだろぉな?さっきから見てるとペース早いし。」

「ううん…あの、ね?最近まで付き合ってたヤツは…あたしのオデコのこと、良いとも悪いとも、なーんとも言ってくれなかったな、なんて感慨にふけっちゃったの。」

「付き合って…」

 酒量をたしなめる気持ちでいた愁一郎は、智秋からの意外な言葉を聞かされて言葉を失ってしまった。失礼な話、智秋は彼氏イナイ歴年齢に同じなのだと信じて疑わなかったからだ。

 どこか心がさざめくが…それを気のせいと決めつけて、笑顔を浮かべなおす。

「あ、もう彼氏いるんだ。そりゃそうだよな、さすがに二十五だもんな!」

「ううん、過去形。ふられちゃったの。ここだけの話、結構親密な仲にもなってたのよ?」

 智秋は自嘲するような笑みを見せ、三杯目のカルーアミルクを口にした。憂いを秘めた横顔で、艶めかしさすら備えた唇がグラスの縁にキスしているのを見ると…許されざる背徳的な気持ちが愁一郎の胸の奥で沸き上がってくる。

 愁一郎はしばし、そんな智秋を高校時代の智秋と見比べていた。自分の知らない間にここまで大人の女性らしく振る舞えるようになっていたなんて…。

 それは成長?

 それとも付き合っていた男がそうさせたのか?

 自分にとってそれは是?非?

 それに…彼氏とは、親密な仲に…?

 そいつはこの悩ましい唇さえも独占していた、ということなのか…?

 そもそも自分は…今、彼女に対して何を考えている?

ころん。

 空になったカカオフィズのグラスの中で、氷がそう独り言を呟いた。それがきっかけで愁一郎の意識は現実へと引き戻される。自分でも不気味に思える感情を振り切るよう、ぽんぽんと智秋の背中を叩いてからゆっくり撫でてやった。

「そうなんだ…残念だったね。まぁ気にすんなって!地球上で男と女じゃ女の方が圧倒的に人口が…って、これはふられた男を慰めるときのセリフだよな…えと、えっと…と、とにかく気にするなよ!必ずそいつより素敵なヤツが現れるさ!」

「ありがと…嬉しいな。あいつは…そんな風なこと、どんな場面でも言ってくれなかったなぁ…」

 智秋の唇がきゅっとつぐまれ…次の瞬間、滑らかな頬のカーブを一粒の涙が伝い落ち、愁一郎の息を詰まらせた。その顔は今までに経験がないほど胸をしめつけ…ときめきとは違うせつなさを愁一郎の胸に刻みつけてくる。そしてその傷は自分の知らない智秋を前にして一層痛みを増し…いたたまれなくなってしまう。

「…駒沢、そろそろ出よう。」

 愁一郎は智秋の小さな肩を抱くようにして立たせると、カウンターに五千円札を一枚置いて店を出た。

 

 メインストリートの喧噪を向こうに聞きながら、愁一郎と智秋はサブストリートとも呼べる通りを肩を並べて歩いていた。智秋はつい今しがたまで腕にすがりついてすすり泣いていたのだが、ようやく落ち着きを取り戻すことができたらしい。左腕に寄り添った格好はそのままだが、いつの間にか泣きやんだ顔は前を見つめていた。

「落ち着けたか?」

「うん…ごめんね、急に泣いたりして…。」

 サブストリートとはいえ、裏路地というわけでもないから通りはネオンや照明でそこそこ明るく、人気はそれなりに多いし騒々しい。二人は互いに聞こえるよう顔を向けながら小声でささやき合った。

「気楽そうに言ってたからショック少なかったのかと思ってたのに…ビックリしたぞ?」

「違うの!悲しい涙じゃないの…ほら、子供のときに経験ない?いじめられたり叱られたりしてさ、誰かにかばわれたときに嬉しくって、有り難くって、申し訳なくって泣いちゃったコト。さっきのはその涙っ。」

「うむむ…オレは悪ガキだったからなぁ、いじめるほうだったんでよくわからん…。」

「もう…っ!なによなによっ!」

 同意を得られないことで智秋はやっきになり、愁一郎の左腕をつかみなおして強く揺さぶる。

「とにかく!さっきのはその涙なの!未練があるとか、後悔してるとかの涙じゃ絶対ないんだかんね、ちょっと、聞いてる?」

「聞いてる聞いてる、わかったわかった。」

「二回重ねるトコロが信用してなさそうっ!」

「いてて、やめろってば!袖がちぎれるだろーが!」

 ぎゅっと左腕にしがみつき、ひっぱりながらひねろうとする智秋。愁一郎は痛がってみせるものの、とりあえずは智秋の笑顔が戻ったことに少なからず安堵していた。少しは元気も回復しているようで、ほっと胸を撫で下ろしもする。

 大丈夫、まだ自分は智秋をわかっている。

 付き合っていたという男は智秋と親密な仲になっておきながら、自分よりも彼女のことを理解することができなかったのだろう。

 そんな事を考えるだけで、なぜか心が安らぐのであった。

「ところで大場くん?」

「あ…どした?」

 急にはしゃぐのを止め、すっかり七年前の調子を思い出したかのような声で智秋は愁一郎に呼びかけた。悩める女性の深い瞳もどこへやら、興味津々の両目は通りを満たしているまばゆいほどの電飾や照明を受けて若々しく輝いて見える。

「あかちゃん、まだなの?」

「あ…ああ。」

「みさきにはよく電話したりするんだけど?なんでできないのかな?もう二年でしょ?」

「う〜ん、なんでかな?オレに聞かれてもオレだってわかんねぇよ。」

 そうなのだ。愁一郎とみさきの間にはまだ子供がいないのである。

 結婚して二年目になるのだが、まだそれらしい兆しはみさきに訪れていない。高校時代から元気いっぱい健康娘だけあって生理も順調この上なく、もしかして、の期待すらさせてもらえない。

 両親や身内はもちろん、友達や職場の管理職からもまだかまだかと聞かれるのだが、聞かれてできるくらいなら苦労はしないのである。当人達はもちろん善処すべく努力はしているし、逆にそのぶん焦りもしている。

「してはいるんでしょ?まさかセックスレス?」

「まさかっ!もちろんしてるよ…って、こんなところでナニ言わせるんだよ!?」

 愁一郎は大声でプライベートな会話をしていることにようやく気付き、慌てて口許を押さえて声をひそめた。

 先程も述べたが、ここは大通りから一本外れただけの通りである。人気が少ないとは言えないし、まだまだ宵の口であるからそれなりの喧噪だってある。つまりは周りじゅうに話し声が聞かれてもおかしくないような状況なのだ。

 それでも智秋はあくまで他人事と思っているのか、気にするそぶりすらない。

「ははは、大場くんもみさきも、けっこう好きそうだもんね!」

「なんだよそれは!でかい声はもうやめてくれ…って、駒沢。お前もしかして、本気で酔ってるだろ?」

「ふふぅん?酔ってるついでに言っちゃうケド…」

「あ?」

 ふいに智秋は愁一郎の左腕を解放し、前に回り込んで立ち止まった。道をふさがれた格好の愁一郎はそのまま足を止めてしまうが、智秋の顔が耳まで真っ赤になっていることに今さらながら気付く。これは…酔っているのとは明らかにベクトルが違う紅潮だ。

「酔ってるついでに言っちゃうケド…大場くんのセックス、あたしが評価してあげよっか?」

「はぁ?なんだそりゃ?」

「だからっ…あかちゃんができないの、もしかしたら大場くんのやり方に原因があるんじゃないかなー、なんて思って?で、あたしが見てあげようかって…」

「見なくていい!大きなお世話だ!お前、自分がナニ言ってるかわかってるか!?」

 智秋の言葉に胸の奥がせつなく痛む。

 その痛みは理性をそそのかし、誠実さをたぶらかし…愁一郎を性欲に狂ったオスにしてしまおうと心に浸食してきた。軽く入ったアルコールもあり、危険な興奮に動悸すらも早まってくる。耳鳴りまで聞こえてきた。

 あからさまに狼狽えて叫んだものの…確実に意識は期待している。最愛の妻に対する不義への期待を…。

 そして智秋は、その期待に応えようとしているわけでもないのであろうが、暴走しきっていた。開き直りとも自暴自棄とも取れるように痛々しく叫ぶ。

「こんなヘンな気持ち…こんなイヤな気持ち、お酒のせいかもしんないっ。でもこの気持ち、もう耐えらんないよ!少しの間だけでいいから甘えさせて…!」

「酔ってるだろ。いや、絶対酔ってる!駒沢、お前相当酔っぱらってるぞ!」

「酔ってなきゃ言えないよっ!みさきを…親友を裏切るようなコトなんてっ!」

 そう短く叫ぶと、智秋は真っ直ぐ愁一郎の胸に飛び込んできた。スーツの襟を両手でつかみ、そのまま顔を埋めるようにうなだれてしまう。

 愁一郎は困惑して辺りに視線を走らせたが、ここはちょうど大手デパート裏口のバス停であり、幾組ものショッピング帰りとおぼしきカップルが自分達と似たような格好でたむろしていた。おかげで目立ちこそしなかったが、仲のもつれよろしく叫ばれてはどうにも気まずい。ただの酔っぱらいと見られていれば愁一郎としては幸いだが、とにかくこのまま放っておくと、弾みのついた智秋は再び泣き出してしまうかもしれない。

「駒沢…どうして…?昔はウジウジなんて絶対しなかったじゃんかよ…?」

「あたし、もう昔のあたしじゃないもん!あたしだって大場くんと同じ、二十五なんだよ?七年間…部屋の中でゲームばかりやってたわけじゃないんだから…!」

「駒沢…」

「大場くん、あたし寂しい…!あの頃には戻れないの、わかってる。もう七年も経ってんだもん…。でも、みんな離れてっちゃうよっ!友達も、こないだまでの男も、出会っても出会ってもみんなあたしから離れてっちゃう!あたし、悪いことしてるのかな…でもわかんないよ!なんにもわかんないまま、もう二十五になっちゃった…!もうイヤだよぉ…」

 智秋の声は、もう取り返しがつかないほどに頼りなく震えていた。そして誰かの名前…聞き取れはしなかったが、どうやら別れた男の名前だったのだろう…を恨み言のようにつぶやくと、肩を微かに震わせながらとうとうすすり泣きを始めてしまった。

 そうなのだ。

 七年間という時間はあらためて考えると想像を絶するほどに長く、そんな途方もない時間の中で変わらないものなど何もないのである。ましてや多感な女の子などはどれほど劇的な変化を遂げるか想像もできない。

 ショットバーで見せた憂い顔も、今の言葉の数々も、そして胸元を湿らせる熱い涙も…七年の間にしがらみに打たれ、傷つきやすくなった心がせめてもの安らぎを求める叫びに他ならないのかも知れない。

 自分の知らない間に、こんなにデリケートになってたなんて…。

 労ってあげたい、慰めてあげたい…そして、ひとときだけでも愛したい…。

 そんな気持ちが愁一郎の胸に募る。だが恋は愛に昇華し、そのすべてを辻ヶ谷みさきというたった一人の女性に捧げる誓いを立てたのではなかったのか。

 それでも…今はこの、触れればそれだけで粉々に崩れてしまいそうな智秋の支えになってあげたい。安らげる場所になりたい。

 妻の親友を救うことが…所詮は詭弁に過ぎないが、いけないことなのだろうか。

「駒沢…もう泣くな…。」

「おおばくぅん…」

 愁一郎の呼びかけに智秋は応じ、そっと顔を上げた。

 ヘアバンドで上げた前髪に、広めの額はあの頃と変わらない。しかし両目いっぱいに溜まっている涙は…頬に残っている涙の跡はあきらかに別人であった。無情の別れがもたらした無限の寂しさに怯えきってしまっている。

 あの明るさいっぱいの智秋を取り戻したい。

 別れた男のことなど、すっかり忘れさせてしまいたい。

 新たな恋を追えるだけの助走をつけさせてあげたい。

 愁一郎はそっと、しかし力を込めて智秋の身体を抱き寄せた。これから始まろうとしているひとときだけ、最愛のみさきのみに向けられていた愛情を智秋のためにも分けてやることに決めたのだ。智秋も遠慮なく愁一郎の背中に両手をまわしてくる。

 愛は無尽、と誰かが言っていた。本当に無尽なのだとしたら、少しくらい分けたとしても平気なのではないか。愁一郎は躊躇う自分をそう説得する。

「大場くん、お願い…ここでキスして…。」

 身体を解放された後で智秋は目を閉じ、そっと唇を開閉して愁一郎を求めた。歓喜と軽い錯乱で、周囲からの視線はすでに忘れ去っている。

 それだけ、今この瞬間…七年前に憧れた愁一郎の唇が欲しかったのだ。今はあの頃に負けないだけ唇が焦れったい。もしこのまま帰宅させられたとしたら、きっと玄関先でうずくまってオナニーにふけってしまうことだろう。

 それほどまでに身も心も愁一郎を求めていた。

 慰めの言葉を、優しい愛撫を必要としていた。

 取り乱しかねないほどに発情しかけていた。

はあぁ…。

 肺腑から吐き出された熱い吐息でおとがいが震える。薄く口紅の引かれた魅惑的な唇は、見間違えようもなく愁一郎からの抱擁を望んでいる。

 しかし愁一郎はその唇に人差し指をあてがい、智秋を現実に戻させた。愁一郎も緊張しているのか、乾いた唇を舌で潤わせる。

「駒沢…ここじゃあなんだから…その、どっかでオレのやり方、評価してくれるか…?」

「え…あ、う、うんっ!」

 はにかんだ愁一郎の言葉に智秋は涙を拭い、爽やかな笑顔を浮かべて力強くうなづいた。これから不倫を働こうとしているのに、まるでゲーセンか遊園地へデートにでも行くような清々しい笑顔である。

 気恥ずかしくて、照れくさくて、なにより後ろめたくて顔をそらしていた愁一郎であったが…その笑顔につられ、ついつい自分も微笑んでしまった。

「最初からその顔、してらんないのかよぉ?ウジウジされるとどうしていいかわかんなくなっちまうんだよなぁ…。ラクに行こうぜ、ラクに、な?」

「そうだね、ラクに行こう!でも…みさきにはもちろん秘密だよ?」

「みさき?誰だそれ?ちなみにオレは独身です。」

「あはは、ひっどーい!ライク ア シングルってヤツ?」

 愁一郎の白々しいおどけ方に智秋もすっかり和み、元気のいい笑声を二人の間で響かせる。だいぶ復調できた智秋の様子に、愁一郎もすっかりはしゃいでしまう。

「そうそう!じゃあそれらしいトコ、探すか?」

「うわ、なんか面白そう!遊べるゲーム探しにやっきになってた頃みたいだね!」

「そうか…なるほど、そうだなぁ…。」

 智秋のなにげない言葉で妙に感心する愁一郎。

 もちろんあの頃の気持ちで行けるのならすこぶる気持ちが落ち着くというものだ。しかしそれを認めてしまうと、精神年齢が成長していない、と指摘を受けることにもなりかねないのだが。

「じゃあ行こう!大場くん!」

「おいおい…ホントにお気楽だな!オレ達、一応不倫になるんだゾ?」

「前向きに考えようよ、人助け人助け!」

 

 

 

つづく。

 

■→次回へ

 

 

 (update 99/04/01)