< 高島秋帆(*a))の地を巡る歴史&グルメツアー > 企画書


1.日時: 5月20日(土)

2.集合場所:「高島平」(三田線)駅 西口 前 9:00AM集合 (「新高島平」駅の一つ手前の駅)
三田駅より約45分間で「高島平」駅に着く。

3.探訪コース
1) 徳丸ケ原記念碑 ; 徳丸ケ原公園 (高島平8ー24) で 高島平 (三田線) 駅より徒歩5分
↓ 天保12年( 1841)に高島秋帆が大砲の訓練を行った所である。
バスにて「松月院 (しょうげついん)」へ行く (バスの所用時間約 16〜18分間)
(国際興業バス) = 210円(1人)

往路
下赤塚駅行きバス(下赤03)
(四ッ葉町)下車
復路
高島平操車場行きバス
(赤塚8丁目)乗車
9時 15 40 11時 17 43
10時 5 30 55 12時 9 34

2) 松月院(しょうげついん)(*b)) 板橋区赤塚8ー4ー9にある。
イ) 境内に大砲の形をした大きな高島秋帆の記念碑が建っている。
ロ) 同じ境内の中に「宝物館」があり、中には大砲の玉や「調練図」などの
物が納められている。(入館料500円)
( 見学時間: AM10:30〜11:00に見学する。(ここの住職に予約))

地下鉄にて三田線「高島平」→「白山」駅  約20〜23分間
3) 高島秋帆の墓 白山駅より徒歩約5分
大円寺(曹洞宗、向丘1ー11ー3)に秋帆の墓(国指定史跡)がある。

4) 高島秋帆旧宅跡(*c))白山駅より徒歩約5分
慶応2年旧指ケ谷町133番地(白山1ー22)の屋敷で没した。
当時使用した井戸がまだ残っている。

5) 小石川植物園(東大理学部付属植物園)白山駅より徒歩約5〜8分
黒沢監督の゛あかひげ゛で有名になった小石川養生所があった所である。
入って見学に約30分〜1時間かかる。入場料330円である。

6) バーベーキュー大会会場(岩波さん事務所屋上)

岩波さんの事務所には、PM2:00〜2:30PMに到着予定。


*a):
高島秋帆の家は代々長崎の町年寄で、奉行直轄の砲台を預かり、対外貿易を管理した。
17歳で家を継ぎ、鉄砲方をを兼ねた。オランダ人について砲術を学び、多くの門人を教授した。
秋帆は、アヘン戦争で中国はイギリスに諸港を封鎖されたことをオランダ人から聞き、
「天保上書」を長崎奉行に建議し、洋式砲術の採用と海防の重要性を説いた。
長崎奉行から上書を受けた老中水野忠邦は、秋帆に西洋式調練を命じた
天保12年(1841)5月、場所は徳丸ケ原(板橋高島平)であった。
秋帆は、長崎から連れて来た門人を率いて赤塚村の月松院を本陣とした。
徳丸ヶ原の南隅の幕舎には監察使、幕使、各藩主が詰め、調練隊は西隅の幕舎に集合した。
周りの丘の上には、多くの見物人が集まった。法螺貝の合図とともに調練が始まった。
臼砲、榴弾砲、野戦砲などの大砲が、発射され、銃隊は各種の体形をとり一糸乱れず
見事な調練であった。
幕府は大筒四門を買い上げ、銀二百枚を秋帆に与えた。
幕府に認められた秋帆は、江川太郎左衛門らに砲術を伝授した。
江川太郎左衛門は伊豆韮山の代官で、反射炉を鋳造したり品川台場の施工など海防の
充実に尽くした。
しかし、秋帆の声望をねたむ幕史のざん言で10年間蟄居を命じられた。
嘉永六年(1853)ペリーの来航で国際情勢は急転し、秋帆は許されて講武所の
砲術師範役となり、具足奉行格となり、幕府の軍政の改革にも尽くした。
また長崎の町年寄として、オランダ人との接触も多く、世界の情勢にも通じており、
攘夷の無謀を説き、開国の必要性を幕府に建言した。

b):
松月院は、秋帆の徳丸ケ原調練のため本陣となった。
境内に秋帆顕彰記念碑があり、寺宝に「徳丸ケ原調練図」がある。
境内にあった古榎から、三遊亭円朝が、名作「怪談乳房榎」を書いたと言われる。
児童文学「次郎物語」の著者下村湖人の墓もある。

c):
彼は講武所の砲術師範役となり、小石川馬場近くの小十人町に住んだ。
幕末、彼の洋式調練は幕末を代表したものとなり、人々は競って学んだ。
この場所は秋帆の蟄居跡であり、のち秋本平十郎氏の住まいでもあった。
慶応2年1月、秋帆は明治維新を見ずして病没した。
昭和61年4月  文京歴史研究会
(ここに建てられたプレートによる)

 

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