世界の町から”長崎”を考える
レポーター:堀 憲昭



1)ヴェネチア紀行
・2001年10月6日「野間文芸翻訳賞」贈呈式>会場が17世紀に貴族館だった建物
・ヴェネチアの町全体が世界遺産>600年、700年前に建てられた建物>現在の観光資源
・泊まったホテルの運河を挟んだ向かい側のサルーテ教会が長崎と深い関係が
>サン・マルコ広場も長崎と深い、深い関係が(観光ガイドには1行も出ていない)>
・ときは1585年に溯る>(*『天正遣欧使節』)サン・マルコ広場、サルーテ教会、
ゴンドラにあふれる運河がそのまま残っている
・ヴェネチアは西暦800年、干潟に杭を打ち込んで街が始まる>地中海貿易の通商国家
として栄えガレー船が200隻も>共和政治、市民国家、文化の花が栄える>16世紀が
最後の輝き>そこに長崎から船出した少年が立ち寄った。

2)天正遣欧使節の足跡研究者
・1582年(天正12)4人の少年使節が長崎から出港、1590年帰国(8年5ヵ月)>伊東マンショ、
千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン>13歳、14歳の少年。中学生のころ日本を出て
大学生年齢で帰国>日記も教会の報告書も残る(村上直次郎博士の発掘)>ヴェネチア大学
のボスカロ教授が研究者(野間文芸翻訳賞選考委員)
・コース>リスボン着>スペイン経由イタリアへ>1585年3月ピサへ

3)イタリアに残した天正使節の足跡
・ピサ>フィレンツェ>ローマへ。トスカーナ大公は延べ3000人を随行させた
・ローマに近づくとグレゴリオ13世は騎兵2隊を派遣、一行はポポロ広場からローマに入る
>中浦ジュリアン発熱>イエズス会修道院へ。長崎を出て3年余>
・お土産は織田信長からの屏風「安土城とその城下町」>地図回廊展示された
・一行謁見から16日後教皇は死去>新教皇シスト5世の戴冠式に使節一行は呼ばれる
・1585年6月2日ローマを出発するまでチボリに遊ぶ(噴水で有名な別荘地)
・アッシジ(トーディもアッシジに似た古都)>一行はそのヴェネチアへ

4)4少年の運命
・使節4人の運命>伊東マンショは秀吉に謁見、天草でイエズス会にはいる>1613年、長崎の
学院で病死。原マルチノはマカオで病死。中浦ジュリアンは長崎、西坂の丘で処刑(穴つりの刑)
>日本にとどまって布教>ローマへの報告(千々石ミゲルは棄教して長崎に住む)
・長崎の歴史は出島以前のキリスト教の時代を見落としてはならない。

<参考資料>

《伊東マンショら日本使節の一行はヴェネチア大統領差し出しの豪華船に乗って多数の
ゴンドラとサン・マルコ広場を埋める群集に迎えられて徐行した。そして、対岸の
サルーテの修道院に落ち着き、その2日後、ドゥカーレ宮殿での華やかな大統領との
謁見式典に臨んだ。ヴェネチアは街をあげて一行を歓迎した。市内の商店は休日返上
で優良商品を飾りたてて祝った。》

《ピサといえば斜塔、斜塔といえばガリレオ・ガリレイ。使節が訪れたときは21歳で
フィレンツェに移り住んでいた。使節一行はヴェッキオ宮殿に起居するようにと
トスカーナ大公は命じる。宮殿前にはミケランジェロ作のダビデ像(1501年作)、
バンディレンツェのヘラクレスとカクス像(1533年作)の2つの巨像を見ている。
「花の大聖堂」は1436年に赤いクーポラが完成しているから使節一行も見ている。
使節たちは1週間の滞在期間に美しいルネサンス文化をすべて見た》
(松田毅一「天正遣欧使節」より)

《1585年3月23日土曜日、使節一行はグレゴリオ13世に謁見する。
発熱した中浦ジュリアンは医師に止められたが「パッパさまにお目通りかなえば
死んでも本望」と参加する。教皇はジュリアンを抱擁し、病気を治すことに専念する
ように忠告した。他の3人は日本の衣装をまとい、馬にまたがってヴァチカンへ向かう。
先頭には騎兵隊、スイスの衛兵、枢機卿、ローマ駐在各国大使、真っ赤な服装の教皇庁
職員、2人の大司教に挟まれてヴァチカンに向かう。教皇は3人を涙ながら迎えた。
3人は土下座して十字を切り、教皇の足に接吻した。》

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