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公開ご意見箱


「脱シナリオ系」について

99/07/19掲載(99/07/18初筆)

1.ご意見(たかけんさん)

 まず本題に入るその前に一つ言っておきたいことがあります。「恋愛ゲームZERO」のほとんどの文章に言えることなんですが、文末に「(笑)」を入れるのはやめてください。せっかく文章中でビシッと良いことを言っているのに文末に(笑)があると読んでいて一気にしらけてしまいます。「こいつ真面目に言ってるのか、それともギャグのつもりで言っているのか」という気分になってしまい、 文章の説得力が下がってしまいます。でも(笑)を文末に付けたくなる気持ちは分からないでもありません。見ると、(笑)は筆者の意見が強く出された個所の後についていることが多いようです。おそらく、「こんなこと書いちゃって読んでいる人が気を悪くしたりしないかな」という不安感から逃れるための免罪符として、端的に言えば、張り詰めてしまった雰囲気をなごますために(笑)を付けているのではないかと僕の方では推察しています。もしそうならこれは逆効果になっているといわざるを得ません。筆者の方もいろいろ考えた末に文章を書かれているのでしょうから、(笑)など付けずに自信を持って書かれればいいのです。その方が文章に説得力が出て、更に良い批評文になると僕は思います。(笑)は使うなとは言いませんが、時と場合を考えて文末に付けるようにしてください。

 前置きが少々長くなってしまいましたが、そろそろ本題に入りたいと思います。今回の「脱シナリオ系」の文章の中に気になる部分がありました。

当然だが、システムで面白くすると言っても初期の育成系などは古過ぎて話にならない。(笑)恋愛ゲームに狭義の「ゲーム性」はもはや求められてはいない。
という個所です。(ここでも「(笑)」が出てますね。)僕は「初期の育成系」である「ときメモ」こそ恋愛ゲームの最高峰だと考えています。というのも、「ゲーム」であるからです。

 昨今の恋愛ゲームを見ますと、「To Heart」を初めとしたシナリオを売りにするものがほとんどです。しかし、これで本当に良いのでしょうか?ゲームの本質とは製作者によって作られたシナリオを楽しむことなのでしょうか?僕は違うと思います。シナリオを楽しむだけだったらゲームじゃなくてもできます。小説、漫画、アニメ、ドラマ、映画、演劇…。これらのメディアでもシナリオを楽しむことができますし、またこれらのメディアのほうがシナリオを表現するのにゲームの何倍も長けていますし、その歴史による熟練性はゲームなんかの及ぶべくもありません。つまりシナリオを楽しむだけならゲームをやる必要はないのです。小説や映画の方がよっぽど能率的でお金もかかりません。他のメディアでもできることをゲームでやる必要はありませんし、やったとしてもゲームはそのメディアには絶対勝てません。かの「ファイナルファンタジー」は「映画に近いものを目指す」とか言ってますが、僕に言わせれば愚の骨頂です。いかに映画のような美麗なCG、壮大なシナリオを表現したとしても映画には絶対勝てません。映画界や小説界の人から見れば、「まあゲームにしてみればよくできてるな」くらいにしか思われません。このままではずっとゲームは「コドモの遊び道具」のままで文化的地位の向上は望めません。ゲームはゲームでしかできないことをやってこそ初めて意義があると僕は考えます。

 ではその「ゲームでしかできないこと」とは何なのか。それは「プレイヤーがゲームの中のキャラクターを自由に動かせること」です。これは他のメディアでは決してできないことです。なのに最近のゲーム、特に恋愛ゲームはこのゲームにしかない特色を放棄しているきらいがあります。そんなものをはたして「ゲーム」と呼べるのでしょうか?そんなものは「ゲームの形を取ったデジタル小説」でしかないと思います。冒頭で「ときメモ」が「ゲーム」であるというのはそういうことです。「ときメモ」には自由がありました。主人公を勉強ができるようにするのもスポーツマンにするのもプレイヤーの自由でした。自由があるからこそ、またシナリオの強い束縛がないからこそプレイヤーは自分で物語を想像/創造して楽しむことができました。このプレイヤーの想像/創造こそがゲームの醍醐味だと僕は考えています。

 例えば、恋愛ゲームではありませんが、「ドラクエ1」で「魔法使い」という敵キャラがいました。魔法使いはギラを使ってきてこちらのレベルの低い内は全然勝てないのですが、主人公のレベルが上がってこちらもギラを使えるようになると、「ギラ合戦」の末に倒せるようになるのです。初めて魔法使いを倒したときの喜び、また「ドラクエ3」でロマリアに抜ける長い洞窟の途中で薬草もMPも無く、HPも残りわずかという状態でモンスターから逃げまくり、洞窟を脱出し、フィールド上のテーマ曲が流れてきた時の安堵感、また2度目のカンダタとの闘いで子分は何とか倒したもののこちらも戦士以外は全員死亡し、戦士の残りHPも1。次の攻撃で倒さなければ負けるという状況で戦士が会心の一撃を出しカンダタを倒したときの感動。また「ダビスタ」でいつも善戦しながらもなかなか勝てないでもう年齢的にも限界が来ている馬がいて、引退レースと決めた有馬記念(野球で言えばオールスター+日本シリーズ÷2のようなビッグレース)で数々のライバルたちに競り勝ち優勝したときの達成感、また手塩にかけて育てた馬がレース中の事故で死んでしまったときの悲しみ、また「ときメモ」で清川さんを狙っていたときに虹野さんも出てきて、虹野さんの方も気になってしまい、三角関係になってしまったときの葛藤。

 これらはプレイヤーの想像力によって作られた物語で製作者によって与えられたものではありません。ですが、「FF」がどんな美麗なCGを駆使ししシナリオを盛り立てようとも、「To Heart」「同級生」がどんなに凝った感動的なシナリオを演出しようとも、この感動に勝ることはありません。言ってしまえば、作られた美は偶然の美に優ることはできないのです。「野球は筋書きのないドラマだ」とよく言われます。偶然によって作られた物語だからこそ感動できるのです。僕はこのかた野球漫画を読んで感動した事はありませんが、去年の夏の甲子園の横浜高校の試合は観ていて感動しましたよ。僕は神奈川県民ですから横浜高校を応援してみていたせいもあるでしょうが、準々決勝のPL学園との延長17回の死闘、8回裏から6点差を跳ね返し大逆転勝利をした準決勝の明徳義塾戦、松坂投手がノーヒットノーランを達成した決勝の京都成章戦。これらは誰かの手によって作られたのではなく、選手一人一人が持てる力を出した結果偶然できあがったドラマです。だから大勢の人が感動したのです。

 話が大分脱線してしまいましたが、ただ勘違いしてほしくないのは、僕はシナリオ系の恋愛ゲームが全く駄目だといっているわけではないということです。「FF」だってプレイしていて楽しめましたし、「To Heart」のシナリオ、特にマルチのシナリオはよくできていて感動ものでした。だけども、ゲームとしてそれでいいのかというとまた別問題です。マルチのシナリオは誰がプレイしてもああいうシナリオにしかなりません。それはゲームのやることではありません。小説や映画でやるべきことです。ゲームだったら100人の人がプレイすれば100通りの物語ができるようなそんな作りにするべきではないでしょうか。それこそがゲームの他のメディアにない特色なのだから。

 とはいえ、「FF」「To Heart」が人気を博している現状を見ると、ユーザーは自らの想像力を掻き立てるようなゲームよりもいわば映画のようなシナリオを提供してくれるゲームの方を好んでいる、というか想像力を放棄してしまっているような感があります。つまりプレイヤーの側が「製作者」になれるのがゲームの本質なのに「鑑賞者」になりたがっていると言えます。ユーザーには自分で物語を想像/創造する力がないのでしょうか。これは最近になって始まった事ではないのでしょう。自由度の高いRPGより「FF」のような一本道ストーリーのゲームが受け入れられるようになったときからそうなっていたのかもしれません。「面白ければなんだっていいじゃん」と言う人もいるかもしれませんが、このままシナリオ系の恋愛ゲームの勢力が大きくなっていくようなら進歩はありません。いやそれどころか、いずれ滅びます。

 最後にもう一度言います。

 シナリオを楽しむだけならゲームじゃなくてもできる。ゲームでやるからにはゲームでしかできないことをするべきだ。そうでなければゲームは滅ぶ。

※他のページとのフォーマットの統一のため、半角英数字等文意を変えない範囲で編集しています。

2.回答(秋風)

 (笑)について。これについては弁解の余地はありません。確かに恋愛ゲームZEROでは多用していますし、(笑)とか(^^;とかいうのを特に評論系の文章で嫌がる人が多いのは分かっているつもりです。どうしても微妙な部分において、あらかじめ「逃げ」を打っておくというのはついついやってしまうことです。ただ、私の場合はむしろ、性格的にかなりの冷笑家で皮肉屋なところがありますから、雰囲気をなごませるというよりただ皮肉を込めているだけということかもしれません。あるいは、「評論」という行動に対するスタンスそのものが違っているのかもしれません。

 「ゲーム」でしか出来ないことについて。これに関しては「ゲーム」という概念の捉え方の相違ということしかないでしょう。そもそも恋愛ゲームZEROでは、すでに2年ぐらい前から恋愛ゲームは「ゲーム」ではない、と言っています。「ゲーム」ではないのですから、そこに「ゲーム」的なものを求めるということはあり得ないのです。恋愛ゲーム、とゲームをつけているじゃないかと言われるかもしれませんが、それは今のところ他にこの形態を取っているメディアを表す通用している言葉がないからだけです。恋愛ゲームZEROではゲームではないという主張からいくつか代替案を出していますが、残念ながらそれは一般に通用している訳ではありません。

 そして、ノベルゲームは、本当にゲームでしか出来ないことをやっていないのでしょうか。シナリオがあって、絵と音楽があって、その「物語」を読み進めるためのマウスクリック(あるいはキーダウン)というインタフェースがあるメディアというのはゲームしかないのではないでしょうか。いや、そういう形態を取っているものを現在ゲームと呼んでいるからなのですが。私はむしろノベルゲームは十分「ゲームでしか出来ないこと」をやっていると思いますが、そうではないということならそれはやはり「ゲーム」に対する認識の違いということなのでしょう。また、それ以前に、ゲームと他のメディアの境界付けをすること自体がもう意味がなくなってきているのではないかという考え方もあります。

 想像・創造の場としてのゲームについて。ノベルゲームを読むという活動が、能動的な行為なのか受動的な行為なのか、そしてノベルゲームのインタラクティブ性ということは、このところしばしば議論になっている非常にクリティカルな問題です。一つの考え方として、ノベルゲームの「物語」およびそれを乗せるインタフェースそのものがインタラクティブ性を有しているのだというものがあります。それに、代表的なノベルゲームの「To Heart」「ONE」では、二次創作が数多く創られています。それは、作り手が与えた物語に対して受け手が何らかの新しい解釈を提示しているということであって、優れて能動的な行為ということができるのではないでしょうか。

 確かにノベルゲームでは、純粋にゲーム内における主人公の行動という点での自由度というのはほとんど失われてしまいます。これは、旧来の「ゲーム」的な考え方からすれば由々しき事です。しかし、受け入れなければならない現状として、今のユーザは自由度というのをそれほど望んではいません。彼らは面倒くさがりです。かつての「ゲーム」をのみゲームと呼ぶならば、「ゲーム」に向かない人たちが圧倒的に増えているのです。多数のユーザのニーズを満たすことがビジネスとしては必要ですから、そうした「ゲーム」に向かない人たちのための新しいゲームの形が生まれてくるのは当然の事でしょう。

 ゲームの終焉について。狭義の「ゲーム」にこだわってしまえば、危惧されているようにゲームはそれほど遠くないうちに滅ぶでしょう。四半世紀を経て、今一つの時代が終わりを迎えようとしているのです。そしてそれは、ユーザ、いや正確には「新しき民」自身が望んだことなのです。「ゲーム」が終わりを迎えようとしている時に、ノベルゲームが登場してきたということは決して偶然ではないと思うのですが、皆さんはどうお考えでしょうか。