黒血川
くろちがわ
壬申の乱(672)のとき、関の藤川の西岸に近江軍、東岸に吉野軍が布陣し、対峙していた。
『日本書紀』によると、七月の初め、近江軍の精鋭が玉倉部をつき、吉野軍がこれを撃退した。
これを機に吉野の大軍は藤川を超えて、近江の国へ進撃を開始した。
この時の激戦でこの山中川は両軍の血潮で黒々と染まったと言われる。
その後、川の名も黒血川と変わり、激戦の様子を今に伝える。
室町期の文学者で関白太政大臣でもあった一条兼良は次の歌を詠んでいる。
白波は 岸の岩根に かかれども
黒血の橋の 名こそかはらね
(関ヶ原町観光協会案内板より)
(1998.5.10)
バーチャル中山道に戻る