◆ まみむめも - 魔魅夢MEMO ◆ HOME
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昨日はひさしぶりに仕事を早めに終えて帰ったので、絵など描いていた。
掲示板の方でリクエストされた「ガラティア」の、習作では省略していた腕を描いたのだが、右腕がほぼできあがったところで別のレイヤーに移動しようとレイヤーパレットをクリックすると・・・・
このアプリケーションは不正な処理を行ったので・・・・
ひさしぶりに見たぜ悪魔の伝言(T_T)ぺいんた6〜
いつも1工程ごとにやっていた「Ctrl+S」(上書保存)コマンドを、最近エラーがおきないのでちょっとさぼったら、油断をみすましたかのように・・(T_T)(T_T)
腕は跡形もなく失われミロのヴィーナスに逆戻り。
ふと思ったのだけど、エラーが起きたアプリケーションを終了させる前に、「Print Screen」キーを押したらどうなるのだろう。トラップのレベルが低ければ、画面イメージがクリップボードにセーブされるのではないだろうか。できない確率が高そうだけど、駄目でもともと、今度ためしてみよう。
それよりなにより「Ctrl+S」
会社のエアコンが壊れた
外部のコンプレッサーが寿命らしいのだが、部屋はPCがごろごろしてるので、やたら暑い。早く直してくれないと仕事にならんぞ。修理が長引くなら家で在宅勤務にしたいものだ。
しかし私の生まれた頃は当然エアコンなんてものはなかったのに、みんながんばって高度経済成長してたのだから、文句を言ったら罰が当たるかな。当時はPCの熱なんてものもなかったけどね。
*
子供の頃の「暑かった記憶」というのが、思い出してみると意外なほど希薄なのはどうしてなのだろう。海とか虫獲りとかスイカとか楽しいことばかりで、つらかったのは、せいぜい寝苦しい夜ぐらいか。それも「蚊帳」を吊って寝る、あの不思議なワクワク感の方が印象深い。嫌なことやつらいことはどこかの片隅に押し込んで、楽しいことを見えるところに持ってきておく、有り難い心のメカニズムのおかげだろうが、逆に言うと記憶なんてあまりあてにならないということか。
*
私が「夏の暑さ」から一番連想する映像は、実際の記憶ではなく映画。黒澤明監督の『野良犬』(1949年)だ。
若い刑事の不注意から奪われた拳銃が使われて殺人が起きてしまう。犯人を必死で追いかける若い刑事(三船敏郎)と先輩の刑事(志村喬)二人の焦燥感を強調するように戦後まもない東京の夏のひたすらな暑さが描写される。開襟シャツに扇子を使いながら飄々と仕事をする志村喬にひきかえ、麻のスーツをぴしっと着て汗を流しながら懸命に捜査する三船敏郎の暑苦しそうなことと言ったらなかった。クライマックスシーンは照りつける太陽の下の草っ原での三船刑事と犯人(木村功)の追っかけっこ。二人の荒い息づかいとは対照的なピアノの音が、遠くの家から優雅に聞こえてくる。黒澤作品の中でも最も好きな1本。
暑さの描写なら野村芳太郎監督の『張込み』(1958年)も忘れられない。
こちらは逃亡犯人の立ち回りそうな昔の女のところで張込みをする刑事二人の話しだが、若い刑事は大木実、年配の刑事が宮口精二。二人が目的地に向かう列車がなにしろ暑そう。満員の人いきれで窓をあけても暑い空気が入ってくるばかりの感じが白黒の画面から迫ってくる。
どちらもリアルタイムではないが、映画館で見た記憶がある。早稲田松竹あたりで2本立てで同時に見たのかもしれない。
*
さてさて、冷房の効いた取引先にでも出かけるとするか。
選挙は終ったけど、山は動かないね。なんでもいいから今の首相だけは変わってほしかったのだが、それさえ駄目そうだ。いやあ、宇野首相の方がまだまし、と思わせる人がいたとは、自民党も人材豊富である。
選挙権を行使した日本人の過半数が森政権でいいと思ってるんだろうから仕方がないが、名も無き民は選挙の1票以外に政府を選ぶ意志を表示することはできないのだろうか。
実は選挙以外で政府を選らぶ方法はある、と思う。それどころか実践している人もたくさんいるはずである。ただしある程度のスキルと財力を持った人に限られる。
早い話、日本ではなく外国で生活している人々である。もちろん(日本の)会社の命令で海外赴任しているような人ではなく、自分の意志で外国で生活している人たちのことだ。
なーんだ、と思われるかもしれないが、「国=政府」を国民が料金(税金)を払って雇うサービス機関と考えれば、当然購買者である国民に選択権がある。この店(国)は高いばかりで空調は効いてないわ店員は気が利かないわ特定の客にばかりサービスするわとなれば、別の店へ行く(他国で税金を払う)のは不思議でもなんでもない。
しかし、そう簡単に外国で生活できるかというと、そうはいかないわけで、どんな国でも単なる難民はノーサンキューだろう。いい店(国)ほど敷居は高く、店にとってプラスになる(財力だけとは限らない)人材しか新たな客としては歓迎されないだろう。どの店も常連客の世話をするだけで精一杯なのだから。
それでも、すでに国家間の競争原理は働きはじめてるに違いない。私の知っている範囲でも、日本と東南アジアで会社を経営していて、税金を安い外国の方で払うため、1年の半分+αを海外で仕事している人が複数いる。
お客に「神の国であることを承知させる」つもりでいるような横暴な店主のいる店などは、いい客ほど離れていくだろう。
おそらく、これからの十年位で、科学や芸術の優秀な人材はどんどん海外へ出て行くようになるだろう。オリンピックなどもどこの国籍でメダルを取るなんて関係なくなるかもしれない。第二の千葉すずは最初からアメリカ代表を狙うだろう。
私のような英語はできないスキルはないって奴は「国家」のいいカモとして生きていかなきゃならんと思うと、くやしいけどね。
だから、そういう私みたいな人たちは、選挙で意志表示するしかないのだ。次は来年早々(だったかな)参議院選挙があるのだから、今度は寝てちゃ駄目だよ。
◇
リチャード・ニーリイ『
オイディプスの報酬』読了。
案山子(かかし)のこと。懐かしい映画をTVで見た。
1973年アメリカ。ジェリー・シャッツバーグ監督。主演はジーン・ハックマンとアル・パチーノ。
ハックマンは洗車工場経営を夢見るムショ帰りで故郷へ向かう大男マックス。パチーノは自分の捨てた妻子に会いに行こうとしている小男ライオン。道連れになった(マックスが強引に道連れにした)はぐれ物二人の目的地への旅。
主題はおおざっぱに言ってしまえば「友情」。気がやさしくジョークばかり言っている楽しい男ライオンは、実は妻子との人間関係を築けなかった夫失格男で人格は崩壊寸前。
マックスはすぐキレる自分勝手な大男だが、病気になったライオンに「俺はお前がいないと駄目なんだ。おれが信用できるのはお前だけなんだ」と、やさしさと気の弱さを露呈する。
大昔、映画ばかり見ていた時代に一度見てはいるのだが、当時の私には全然見えていなかったことが随分あるのに気がついた。
マックスは異常なほど重ね着をしているが、これは「傷つきやすい精神を防護する鎧」の暗喩なのだろう。後半酒場でいつも通り喧嘩をはじめようとするマックスにライオンが逆にキレる。マックスは喧嘩をやめてストリップの真似事を始める。1枚1枚シャツを脱ぎ捨て酒場中に大受けして、ライオンも苦笑してもどってくる。このへんからマックスとライオンの役割が逆転する。
二人の間の感情は「友情」なんだが、たぶんに「同性愛」的である。
途中、二人でぶちこまれた刑務所でライオンは先輩の受刑者にレイプされそうになり大怪我をする。マックスはその相手をボコボコにして復讐する。二人は「親友」であって刑務所の「おかま野郎」とは全然違うことを示唆するエピソードだと、昔の私は思っていた。
しかし、ライオンは女好きのマックスが女をくどこうとすると、邪魔(としか思えない行為)ばかりする。マックスもライオンとはずうっと道連れだが女とは「行きずり」の関係しか結ばない。
ライオンは実はミドルネームで、ファーストネームは「フランシス」でマックス以外はみなフランシスと呼ぶ。マックスがフランシスと呼ばないのは「女を呼んでるようで」イヤだというのが理由だ。「ライオンを女と見てしまいそうだ」と告白してるようだと思うのは、うがちすぎだろうか。
最初に見たときは「同性愛のほのめかし」は全然気がつきもしなかった。今回ピンときたということは、私もネットで随分勉強したということか。
それとも、超光速移動による過去への移動も、亜光速旅行による未来旅行と同じと考えれば『エネルギー保存則』との矛盾は生じないのだろうか。う〜む、やはり素人が考えるには無理がある難問だったか。
あとは定番のパラドックスについて愚考してこの項を終わることにする。
どうせ架空のことだが、時空の性質に今わかってる以外のことを付け加えないとして、「時間旅行ができる」を唯一の仮定とすると、どうなるだろう。
●親殺しのパラドックス
親を殺しても過去の自分を直接殺しても一緒だが、現在の自分に影響はあるのか。バックトゥザフューチャー的時間旅行観だと、その瞬間「殺した自分」も消えてしまうはずだ。つまり、過去で歴史を変えるとそこから先の未来も変わり、あたかも遠隔操作の如く未来から来た時間旅行者にも影響が及ぶ。
しかし、現在の時空の性質を変えないとすると、そうはならない。過去の自分を殺しても「未来の自分である」時間旅行者にはなにごとも起こらない。時間旅行に出発した時点で「元の未来」から切り離されているはずだからである。
だから、過去で自己殺人を行ってから未来にもどると「竹内某という人物は何年も前に何者かに殺された世界」が待っているだけだろう。自分は何者かというと、どことも知れないところからの闖入者でしかない。
●未来予知のパラドックス」
Yahooのオークションのタイムマシンの出品者への質問にこんなのがあった。
「数日後の日経平均(株価)を見てきて書きこんでください。的中すれば入札者殺到でしょう」
うまい手のようだが、実はこれはなんの証明にもならない。未来はニュートン物理学の時代に素朴に考えられていたように確定的なものではないのだ。
哲学者ラプラスが想定した、現時点の全宇宙の粒子の位置と運動量を正確に知っていて次の一瞬も永劫の未来も正確に予言できる「ラプラスの魔」。そんな魔物は存在できない、というのが現代の物理学だ。たしかハイゼルベルグの不確定性理論とかいうのだった。粒子を観察する行為自体が粒子に影響を与えるので正確な位置と運動量を同時に決定することはできない、というような理屈だと思ったけど、正確なとこを知りたい方は関係書を当たってもらいたい。
未来はある確率の範囲でしか予想できない不確定なものなのだから、たとえ未来を見てきて過去に行っても、また同じような歴史が繰り返すとは限らない。だから、時間旅行ができたら過去に行って競馬競輪株取引で大もうけ、というのはあきらめた方がいい。
●いままで時間旅行者が現れてないのが時間旅行不可能の証明
これもうまい理屈のようだが、「未来予知のパラドックス」と同じでなんの証明にもならない。未来には時間旅行が可能になる「かもしれない」。過去に行ってその時代の人々に会うかもしれない。そこからは「時間旅行者がやってきた歴史」がはじまるだろうが、時間旅行者が出発してきた「時間旅行者が現れなかった歴史」とは、もうなんのかかわりもない。
●私がタイムマシンを手に入れたら
未来を見たいとは、今現在は思わない。
過去に戻って未来の知識を元におおもうけ、とも思わない。
ただ単純に過去を見てみたい。
まずは、やはりジュラ紀と白亜紀に行って恐竜を見たい。
次に行きたいのは江戸時代の東京=江戸。
日本橋のたもとに立って行き交う人を一日ながめていたい。
怪しい奴と思われてすぐ自身番に引っ立てられそうだが。
(この項終わり)
◇
今日の衆議院選挙は史上最低の出足らしい。みな神の国首相に「寝ていてほしい」と言われて素直に寝ちまったか。お上に従順なお国柄は健在というところだ。
タイムマシンのオークションはどうなったんだろう。明日あたりだれか試乗するのかな。無事を祈るとともに、あまり派手に歴史を変えないようお願いしたい。
本のベストセラーランキングにマイケル・クライトンの『タイムライン』が入ってきたけど、どんなんだろう。
さて、昨日の続き。
「物質とエネルギーは相互変換可能だが、総量は常に一定である」というのが『エネルギー保存則』だ(専門家ではないので不正確かもしれないが)
別の時点からやってきた時間旅行者はあきらかに、この法則に矛盾する。
私が1年前に時間旅行すれば、到着した先の宇宙は突然70kg超も質量が増加することになる。出発時点では逆に減少する。これは既知の物理学の金科玉条である『エネルギー保存則』に反するのだが、たいがいのSFはこの点を意識的にか無意識にか無視している。
もちろん、この点を考慮したSFもあることはある。マレイ・ラインスターの『
第五惑星から来た4人』では、タイムマシンが現れる直前に小規模の爆発が空間に起こる。これは実は時間旅行してくる人の質量分あらかじめ現地の物質を旅行出発先の時点に送り込む「爆縮」だったのだ。タイミング的に同時じゃないとちょっとまずいんじゃないかとも思うが、アイデアとしては面白かった。
映画の方だとキャメロンの『
ターミネーター』では未来からターミネーターがやってくるとき爆発が起こっているようだけど、少しは意識してるのかな。爆発というより落雷という感じが強いので違うかもしれない。
爆発(物質の相互交換)させずに、この矛盾を解決する方法としてこんなのはどうだろう。物質とエネルギーは相互に変換可能なのだから、別次元から現れた物質(=時間旅行者)に見合うだけ周囲からエネルギーが失われればいいわけだ。時間旅行者の登場とともに周囲の気温がぐっと減って中心部は氷りつく。出発するときは温度があがって中心部は燃え上がる。なかなか劇的効果も高くていいと思うのだが、ひっそり出発するのには向かないな。かなり近所迷惑でもある。
たとえほんの一握りの物質でも狭い場所で全部エネルギーに変換すると地球を吹き飛ばすくらいになるだろうから、影響は距離の2乗に反比例して宇宙全体に拡がることにすればいい。もちろん、これはタイムマシンの「機能」ではなく未来に発見される「時空の性質」である。
それとも温度の上昇下降はエネルギーの損失利得とは関係ないのかな。エントロピーやらなんやらが関係してくると、物理の素人の私はお手上げである。もし、このアイデアを自分で書くSFに使おうなんていう奇特な人がいたら、物理学上の裏づけは自分で調べてください。もし執筆して売れたら些少でよいのでアイデア料を払っていただけると嬉しい。
(この項まだ続く)
◇
さて明日は投票日。与党大勝なんてことになると、いよいよ日本は財政破綻した神の国へまっしぐらだ。教育勅語なんぞが復活しないように投票所へ足を運ぶとするか。
時間旅行(タイムマシン)の実現性を考えると、どうも未来行きより過去行きの方が難しそうだ。どうせ架空のことに難易度もないもんだが、現実からの飛躍度の差と言い換えてもいいかもしれない。
今現在の私たちも一定速度で未来へ進んでいるわけで、時間旅行はこれをスピードアップしてやればいいわけである。一番簡単そうなのは人工冬眠だが、そこまで拡大解釈すると毎日眠るのも8時間後へのタイムスリップということになってしまうので、さすがにこれは除く。(私は休日は12時間はタイムスリップしてる、とか俺はイライラしていつも3時間しかタイムスリップできん、とか言う人がでてきても困るし)
次の手段は格段に難しくなるが、光に近い速度で進む宇宙船ができれば、これに乗ってちょっと銀河系をぐるっと回ってくればいい。例のアインシュタインの特殊相対性原理によるウラシマ効果ってやつで、数年の体感時間でもどってきた地球は何百年も経っているということになる。
亜光速宇宙船なんて、とても近いうちにできそうにはないが、少なくとも現在の物理学の延長線上と言って間違いはないだろう。
それに引き換え、過去への旅はとても難しい。光速に近づくと時間の進みは遅くなるのだから光速ではゼロ、超光速なら時間は逆行しそうだけど、現在の物理学だとまったく不可能でしょう。超光速粒子タキオンなんて言葉だけは聞いたことあるけど、理論上の存在であって、存在する根拠なんてないだろうしなあ。
話が進まないので、とりあえず方法は置いておこう。そのうちなにか見つかるかもしれない(笑)
ところがとりあえず出来ると仮定すると、過去行き時間旅行は未来行きに比べて、やたらパラドックスが邪魔をする。
「親殺しのパラドックス」だのなんだのの前に、まずはあの『エネルギー保存則』が立ちはだかる。
(この項続く)
Yahooオークションに出品された
タイムマシン(本物)。
色んなとこで話題になってるけど、こういうジョークは好きだなあ。いや、本人は本気なのかもしれないけど。
SFガジェットの中でも、もっとも実現不可能なアイテムなだけに、逆にアンドロイドとか不老不死薬とかいうより怪しさがシュールな領域にまで行ってしまって不快感がない。
「時間」という概念は考えれば考えるほど悩ましい難問で、それだけに時間を扱ったSFには名作が多いような気がする。それもタイムマシンものより超光速航法によるウラシマ効果などをうまく使ったのに泣かせるのが多い。『
スローガラス』とか『
終りなき戦い』とか、思い切り涙腺を刺激してくれる。
タイムマシンものだと、物語性の前に色々パラドックスが気になるので、いきおい作品もトリッキーなものになる。古典となってるアシモフの『
永遠の終り』やハインラインの『
夏への扉』などもとてもトリッキーなストーリーだ。
よくあるパターンにこんなのがある。
少年がタイムマシンで過去へもどって、正体を明かさずに両親の危機を救って、結果として二人の仲をとりもつ。 当然これはスピルバーグの『
バックトゥザフューチャー』のことだと思うでしょう。ところがこれとまったく同じ設定の手塚治虫の有名な作品があるのだ。少年の正体が最大の謎になってるので作品名は書けないけれど、当然映画よりずっと昔に描かれている。『
鉄腕アトム』にも『
ミクロの決死圏』の先駆けのような話があるし、やはり手塚治虫はすごい。
話はもどるが、タイムマシンって少しは実現性があるのだろうか?
(この項続く)
21億円でロシアの宇宙ステーション・ミールに1週間滞在する
宇宙旅行を体験できるらしい(
時事)。
切符を購入したのはNASA勤務経験もある60歳の実業家。
私は根っからの貧乏人なので、あまり金持ちを羨ましいと思ったこともないが、これはかなり羨ましい。夢を実現するのに21億かあ。全財産が22億でも惜しくないだろうな。(1億余る仮定にしてるとこが我ながらせこい)
ペプシコーラが公募した宇宙旅行は1千万円だが、さすがにスケールは小さい(
毎日)。
実際の飛行時間は2分半だというのだから、1週間21億の方が「宇宙を楽しめる時間」当たりの費用はかなり安い計算になる。
う〜ん、やはり金持ちの方がお得だ。
私にイメージとして刷り込まれている宇宙旅行は、アポロやスペースシャトルではなく、もちろんスターウォーズでもヤマトでもなく、やはりキューブリックの『
2001年宇宙の旅』だ。
1968年の製作初上映の映画だが、長らく「幻の名画」と化していて実際に見ることができたのは10年後の78年頃だった。再上映には、何年も連続でこの映画を「もあテン(もう一度見たい映画)」第一位に推し続けた「ぴあ」の読者の力も大きかったと思う。あの頃の「ぴあ」はちょっと知的で前衛で、俗っぽくなくて好きだったな。
あの映画のシーンのように、宇宙空間の亜真空の中でミールに腰かけて地球を眺めたら最高だろう。(狂ったコンピュータは困るが)
もちろん宇宙服内のウォークマンで聴くのは、「美しき青きドナウ」。
◇
クーンツ『ミッドナイト』(文春文庫)購入。
仕事から帰ると、父親からマンボウの刺し身が一皿届いていた。
平日はあまり呑まないのだが、これは一杯やらざるをえまい。
薄切りを湯掻いたものらしいが、これを酢味噌で食べる。
見かけは烏賊(イカ)のようだが、舌触りはしゃきっとしていてだいぶ違う。
貝類とも違うし、マンボウの味としかいいようがない。
これは癖になりそうだ、上野にいつも置いてある店があるらしいから、父に作り方を聞いて、今度買ってくるとしよう。
マンボウの奇怪な姿は良く知られているが、こんなに美味とは知らなかった。
体型は普通の魚を前半分で断ち切ったようだが、これは尾びれがないかららしい。背びれと尻びれが体の末端についてるのも普通と違う。
一番巨大なものは体長2.5m体重800kgに達するという。
マンボウの仲間にクサビフグといううやや細長い種類がいて、ハワイの伝説ではアジ類の王様だと言い伝えられている。
クサブフグが海中に姿を現わすと、臣下であるアジやカツオは影をひそめてしまうという。
「マンボウ」というひびきもなかなか悠揚せまらざるところがあって貫禄を感じるではないか。
土曜日息子が九州への修学旅行から真っ黒になって帰ってきた。かるかんだのカステラだの土産物をみんなでぱくつくがなかなか買い物はうまいじゃないか。
写真も1日で出来あがってきたが、男子校なので色気のないことおびただしい。 しかしちゃっかりバスガイドのおねーさんとツーショットを撮っていて、これがなかなか可愛い(もちろんおねーさんの方)
息子が風呂に入ってる間に早速こっそりスキャナーで取込んで、Photoshopで写真加工のお勉強。二人の間が30cmは離れてるので5cm位に近づけ、遠近感が狂ったのでおねーさんを少し拡大。ついでに少し細くしてあげる。笑いながら見ていた妻と娘が背景に点在する観光客(ほとんど息子の同級生)がめざわりだというのでスタンプツールで消す。
盛り上がっていると突然背後にタオルを腰に巻いた息子が出現し「なにしてるんだよ」。
女子バレーボール日本対アルゼンチン戦を見ていると、妻がアルゼンチンの選手の下着はみなTバックなのを発見。
私「え、なんでわかるの?」
妻「お尻の上のところに三角形に浮き出てる」
私「おー、ほんとだほんとだ」
娘「なんでそんなの着る必要があるんだ?」(勝負パンツと勘違い?)
妻「動き易いからじゃない」
私「うむ、昔、日本の男がふんどしをきゅっと締めて気合いを入れたのと同じだよ。きっとアルゼンチンの彼女たちも控え室でみんなでTバックをきゅっと引き上げて気合い入れてオーッと叫んで出場してくるのに違いない。ウンウン」
妻「・・・・・・」
娘「普通、そこまで考えるか?」
最後の娘のセリフはあきれてるようにも聞こえるが、本当は感心してるのに違いない。いや、あまりに見事な発想に尊敬されてしまったかも。
前の日記で言及した桑田次郎は、実は子供の頃もっとも好きな漫画家だった。
当時、いわゆるSF漫画(「科学冒険漫画」と言ったね)は手塚治虫や横山光輝、藤子不二雄、石森章太郎といったところが全盛だった。彼らの作品ももちろん好きだったが、桑田次郎の漫画、というより絵、というより線は、他の作家にはないスマートさシャープさ流麗さがあって、子供の私にも魅力的だった。線そのものに妙なエロスを感じていたものだ。
その手塚的でもなく劇画的でもない描線は、真似したくても真似しようがない独特のものだ。アシスタントにも困ったようで、後継者もいなかったようだ。
同じクールで高度な大友克洋の線が大量のエピゴーネンを産み出したのとはえらい違いだ。大友克洋の線自体、メビウスの影響を受けていることは有名だけど、桑田次郎の線はどういう風に産み出されたのだろう。
最近、見かけないなと思っていたら、こんなとこで見つけた。
桑田二郎の世界 「孔雀明王」なんて、なんとなく片鱗は残っているような気がするが・・・・
これは
私の知っている桑田次郎ではない!◇
Yahooオークションでフランスのコミック作家Serpieri(なんて読むのか知らない)の『
CREATURE』を購入。以前「Heavy Metal」で見て好きになった、グロティスクな世界を美しいペンの線で描く作家。
Yahooで注目トピックにされてるので知ってる人もいるかもしれないが、ひさびさに面白いツリーを発見。
「ナメクジ」はワープするって知ってます? ナメクジの前に大きな水たまりなどあるとナメクジはワープすると聞いたことがあるのですが。
水たまりの手前で、だんだんナメクジの姿が薄くなってきて、ついに姿を消してしまうそうです。
今度は水たまりの反対側からだんだん姿をあらわすそうです。
超能力、都市伝説、思い出話、SFおたく話、トンデモ仮説・・・・なめくじ(蛞蝓、Slug)一つで、これだけ色んな話題が出てくるものなのだね。
一番旧いナメクジの記憶は、薄暗い風呂場の羽目板にいた奴だ。子供の目だからか、とても大きく見えたが、なぜか角の下の部分に猫のような顔があった気がずっとしていた。もう少し大きくなってからじっくり観察したが、もちろん顔などついてるのは一匹もいなかった。
昔は川沿いの土手の土を掘り返せばいくらでもいたものだけど、最近はほとんど見かけない。と、思っていたら、先週ベランダの花の土についているのを発見。ちゃんと割り箸で挟んで処理したが、ナメクジに恐ろしい寄生虫がいることを上記のトピックではじめて知った。素手でやらなくて良かった。
トピックではワープとテレポーテーションの違いというのも話題になっていた。どちらもSF用語で似たようなものだが、ワープは宇宙航法、テレポーテーションは超能力と、分野(?)が違う。
テレポーテーション、テレパシー、テレキネシスなんて用語がポピュラーになったのはいつごろからなんだろう。
私が最初に「超能力」という言葉を知ったのは、
桑田次郎(8マン!)の漫画「
エスパースリー」からだと思う。たぶん30年以上昔の漫画だが、3つの超能力を持つ超人が主人公で、なぜか月光仮面のようなコスチュームをまとっていた。
あいまいな記憶だが、それぞれの超能力の名称は四文字熟語に訳されていて、テレなんとかという原語(?)は使っていなかったように思う。
●
精神感応=テレパシー
●
観念動力=テレキネシス
●
官能移動=テレポーテーション
「官能移動」などは「色んなとこが気持ちよくなるのか?」なんて誤解しそうだが(私だけか)、なかなかわかりやすくていい感じではないか。
「ナメクジが官能移動する」と考えると、ちょっとイヤだが。
ガッツ石松以来のライト級での世界王座奪取、しかも鮮やかなKO勝ちとくれば、最近低迷気味の日本ボクシング界では間違いなく快挙だ。
しかし、史上4人目の二階級制覇と単純に言われるとちょっと違和感を感じる。かつてフライ級とバンタム級を制したファイティング原田と、畑山や井岡を同列に論じるのは納得いかないなあ。
だいたい原田の頃は一階級にチャンピォンは(当たり前だが)ただ一人。現在のWBA、WBCのように王座認定団体が分裂してはいなかった(IBFだのWBOだのはこの際置いておく)。
しかも当時の階級は11階級のみ。世界チャンピォンと名乗れる選手は11人しかいなかったわけだ。現在では全部で17階級に細分されている。それぞれの階級に二人ずつチャンピォンがいるから全部で34人。原田が制覇した旧フライ、バンタムの範囲だけで10人いる。単純計算だと原田の二階級制覇は畑山の3倍以上難しかったということになる。別に畑山の偉業を否定したいわけではないが、チャンピォンの価値というものが、昔と今ではかなり違うのはあきらかだ。
スポーツの結果については「結局残るのは記録だけ」とか「記録より記憶に残る方が価値がある」など色々言われるが、少なくとも記録の数字づらを鵜呑みにするのは危ない=情報としては正確性に欠けることはたしかだろう。
笑える例では、昔プロレスで「二千勝の鉄人」という触れ込みのメキシコのチャンピォンが日本に来たことがあったが、「二千笑」の間違いではと思うような実にしょっぱい(下手な)試合をしていた。
コワもてな例なら、先月、船木誠勝を絞め落として強さを誇示したヒクソン・グレイシーの「四百戦無敗」なども怪しさ一杯の記録の代表である。本人以外に「「四百戦」の中身を知る人間はいないところなど、宮本武蔵の「六十余度まで勝負すといえども勝利を得ざるということなし」(五輪書)に通じるところがある。
もちろん宮本武蔵のように伝説上の人物なら、もっと凄い記録の持ち主はいくらでもいる。塚原卜伝(ぼくでん)などは「真剣の試合十九度、軍(いくさ)場に出ること三十七度、矢傷六ヶ所の他は切傷突傷一ヶ所も被らず、倒した相手二百十二人也」というのだから凄まじい。
しかし記録はどうあれ、現在人口に膾炙しているのは卜伝より圧倒的に宮本武蔵なのは、ひとえに吉川英治の「宮本武蔵」の力だろう。文学恐るべし。創作恐るべし。極真空手のマス大山伝説もかなりの部分を梶原一騎の「空手バカ一代」に負っていることは間違いあるまい。
ボクシングの凄い試合を見た時など、どんな映画や小説の格闘シーンも空疎に感じるものだが、長い時の流れでの勝負となると、創作の力も捨てたものではないということか。
それとも「感動の風化」の無常を悲しむべきか。
NHK-BS。
最初の公開のときはもちろん、TVでも何度も見たけど、試合終了のゴングがなったところで、いつも目頭が熱くなってしまうのは、われながら単純だとあきれてしまう。映画らしい映画が持つ力には弱いのである。
スタローン自身の骨太の脚本。貧しいチンピラの愚直な日常を描く前半が特にいい。試合後のインタビューに答えずエイドリアンの名だけを呼び続けるラストなんて、書けそうでなかなか書けないと思う。
それが『ロッキー4』だとソ連(昔そういう国があったのさ)相手に偉そうな大演説をぶっちゃうんだから、同じシリーズとはいえ、品も格も違う。やはり1作目につきる。
◇
クライブ・バーカー『
ラスト・ショウ』読了。血の本シリーズ最終巻。
6月7日の続き。
さて、WEBの入り口に時としてある「ここは18歳未満禁止」表示。あれってなんの意味があるのだろう。
訪れた少年少女があの表示を見て素直に帰る、とはまさか思っていないだろう。いざというとき(ってなに?)の責任回避?特定サイトアクセス禁止システムへの情報開示?
どの意味だとしても「18歳」で区切ること明確な理由があるのだろうか。WEB管理者独自の判断ではなく法律上の規定を援用してるだけというところだろう。年齢を明確にしていない「アダルトオンリー」などの場合も「アダルト」は法律上の「成人」を指すと考えてほぼ間違いあるまい。
もちろん「18禁表示」が悪いと言ってるわけでも考えてるわけでもない。うっかり不愉快になる人がいる危険を考えれば、事前にどんなコンテンツがあるかという情報は必要不可欠だろう。
しかし、個人の問題に立ち返ったとき、自分の絵を特定の年齢(あるいは法律上成人)以上にのみふさわしいと自分で決めるときの根拠ってなんなのだろう。だいたい裸体や陰毛は人間の成長を阻害するのだろうか。
私の子供たちは父親が下手くそな裸体画(ときとして陰毛付き)を描いているのを日常見ている。「親の裁量権」というより「個人の裁量」のうちだと思っているからだけど、裁量は責任を伴うのであって、子供がなにか事を起こせば非常識な親(私だ)の責任は逃れられないところだろう。まあ、私の絵なんぞはそんな大層なもんではないから大丈夫か。
というわけで、なんだか結論が出ないままにこの項を終わる。なにかやばそうな絵を描こうとしてぐちゃぐちゃ考えてるな、と推理したあなた。
当たってます。
◇
クライブ・バーカー『ウィーブワールド』Yahooのオークションで購入。
評判の『朗読者』、書店店頭では品切れらしい。先週ジェイブックで一緒に注文しておくのだった。
昨日の続き。
最近の続発する少年犯罪のおかげで少年法については色々マスコミやネットで意見・情報が飛び交っている。いまさら私が屋上屋を架すこともないが、要は18歳とか14歳で一律に適用する法を決定し、量刑も制限するというやり方が妥当かどうかということだろう。
もちろん人間は一律に成長しないし、「更生の可能性」も年齢に正確に比例するのではないのだから、司法の専門家たる裁判官が社会的変化などすべての要因を判断し「裁量する」のが本来のあり方だろう。だからこそ法律家は力量が求められるし、オープンな過程で選ばれなければならない。
トルシェ監督と千葉すず選手に話をもどすと、「選択権者」自身がオープンに選ばれ面子や権限より本来の目的を果たすに真摯な人々であることが明らかなら、彼らの「裁量」もおのずと尊重されるだろう。現状はもちろんそうではない。当然、「明確な基準」が必要だし、それがいやだったら選考過程を完全オープンにするしか、選手観客マスコミを納得させるすべはない。
こう考えてくると「少年への量刑」を裁判官(陪審制が導入されれば陪審員)の「裁量」に完全にまかせてしまうことが、良い選択かどうか難しくなってくる。理不尽な判決を下す裁判官に対し国民がNOと言える体制ができていないと、裁判官の裁量権を増やすことは国民に対する危険が増すことでもある。これは司法の独立性を侵すということではない。逆に行政にNOと言えない司法にNOということで、独立性を保証するということだ。アメリカが陪審員制を維持しているのには、このへんの理由もあるのだろうか。
さてさて、自分でも良くわかっていない事柄を強引に書き進めてきたのには、理由がある。
自分のWEB(の一部でもいいのだが)に「18歳未満閲覧禁止」と掲げることの判断について迷っているところなのだ。もちろん今現在の自分のページではなく(とっくに危ないと思う人もいるかもしれないが)将来のことだが。
なんだか竜頭蛇尾な展開で申し訳ないが、私にとってはまさしく「裁量権」と「明確な基準」の問題なのである。 (さらに続く)
◇
クライブ・バーカー『
マドンナ』(集英社文庫)読了
あまりサッカーは詳しくないが、フランス戦の善戦はめでたい。トルシェ監督には2002年ワールドカップまで居直って指揮をとってもらいたいものだ。別にトルシェのファンというのではなく、日本サッカー協会の対応が気に入らないからなのたけど。
千葉すずと水連もそうだが、日本の「組織」を牛耳る人々にとっては「組織のためになる」能力より「主張しない、自分達に従順な」資質が優先するのだね。その憎きトルシェの首を誰が切るかで牽制しあって先送りにしてるさまは、もう凛々しさや潔さと対極にあるとしか言えない。
そういう「支配こそ快感」の組織人が武器とするのが「裁量権」である。オリンピック代表を決める「明確な基準」を公表せず「裁量の余地」を残すことが、選手へプレッシャーを与え、選ぶ側の支配力を強めることは言うまでもない。
中学や高校における「内申書」、大相撲横綱審議会における「横綱の品格」、警察における「わいせつ基準」なども同様の「支配力」という側面を持っている。
反対に「裁量の余地なく」「明確な基準がある」ことが、逆に問題かなと思える事柄もある。
「少年法」の「年齢」がそうだ。(この項続く)
めろんパーティのオフ。このメンバーのオフはなぜかいつも晴れで暑い。
メンバー翡翠さんがオーサリングを手がけた紹介ソフトが運用されてる
国際子ども図書館へ。
国会図書館の付属施設で5月6日にオープンしたばかり。まだ半分は工事中。
神社本庁とでも書いた方が似合いそうなおおげさな看板はどうかと思うが、重厚な建物と真新しい内装はなかなか素敵だ。さすがに休日なので子供連れで一杯。翻訳の歴史展をやっていたが、アリスのタイトルが「愛ちゃんの不思議な旅」なのは笑った。中身は当然旧仮名遣い。
挿し絵に記憶がある懐かしい本もいくつか。「エミールと探偵たち」「ドリトル先生アフリカ行き」「海底二万哩」。
「海底二万哩」は一時日本でも人気が高かったフランスの画家ベルナール・ビュッフェがモチーフにしていたし、シュールレアリズム画家ポール・デルボーの作品にも「地底旅行」の主人公リンデンブロッグ教授が登場する。フランス人にとってジュール・ベルヌは特別な作家なのかもしれない、などと思う。
上野の喧騒を離れ谷中の街をご案内し、ちょっと変わった店でお茶しながら、メンバーのCGやムービーを使った音楽教室の発表会のビデオ等を拝見する。自分の絵がプロジェクターで映し出されているのを見るのはまた違った気分。
日暮里駅前の中華料理店で食事。小籠包と鮑のクリーム煮以外は味はもう一つだった。
参加メンバーには、暑い中たっぷり歩いてもらい、本当にお疲れさまでした。
NHK教育「国宝探訪」。今週は平安時代の「地獄草子」。
褪色し傷んだ画面をコンピュータで再現していたが、ソフトはPhotoshopだった。以前見たダヴィンチの「最後の晩餐」はパッとしなかったが、今回の再現は見事。蘇った鮮やかな地獄図は実に生々しく、人間を臼で挽く鬼や炎を吹く怪鳥など迫力十分。国宝展で見た絵巻物類は褪色がひどくてあまり面白いものではなかった。私のような素人はこういう再現された画像の方が楽しめそうな気がする。CD-ROMが出ないかな。
再現画面を見た荒俣弘がひと目で「これは五行の色ですね」と指摘していた。さすが大博物学者。
五行は古代中国人が惑星運行を元に作り出した世界解釈の記号体系で、はやりの風水の元の元。ギリシャ神話や聖書の知識が西欧文学のベースなら、東洋文学のベースになってるので、知っといて損はなさそうだけど、奥も深そう。覚え書きとして基礎の基礎の基礎の組合わせだけでも書いておく。
(参考:中野美代子『中国の妖怪』『西遊記』岩波新書)
方角 | 惑星 | 色 | 霊獣 |
---|
南 | 火 | 赤 | 朱雀 |
北 | 水 | 黒 | 玄武 |
東 | 木 | 青 | 蒼龍 |
西 | 金 | 白 | 白虎 |
中央 | 土 | 黄 | |
やはりは西は虎なのだね(笑)
「玄武」の正体はガメラか?ってのは「ガメラ3」にあったな。
とすると「朱雀」はリトラか?と言うのはマニアックすぎるか。
中学生の娘の学年弁論大会とやらを拝聴しに行かされる。
テーマが「輝くとき」なんだから立派な意見ばかりで文句のつけようがない。「私がむかつくとき」なんてのにしたら面白いのではと思うけど、ま、子供は本音は吐かんよね。
◇
ジェイ・ブックで頼んだ本が届く。リチャード・パワーズ『
舞踏会へ向かう三人の農夫』(みすず書房)、荻原規子『
空色勾玉』(徳間書店)、ダン・ゴードン『
死んだふり』(新潮文庫)、ヘレン・マクロイ『
ひとりで歩く女』(創元推理文庫)。
クライブ・バーカーの『
死都伝説』と『
ヘルバウンド・ハート』は品切れ。うーむ、Yahooオークションで気長に探すしかないか。
研修医のミスで男児が寝たきり状態に 心停止状態になってるのに、機械の故障と
思いこみ機械の調整ばかりしていて、15分も脳に酸素が血液が行かない状態になっていたそうだ。
研修医と言っても、仮にも医者なら機械より先に患者の様子を見ないだろうか?
本人にも言い分はあるだろうけど、医者に向いてない人としか思えない。
どうせマスコミは「デジタル世代は」とか「ヴァーチャル世代」はとか、書くのだろうが、この例ばかりは否定できないなあ。ある意味バスジャックより慄然とさせられる事件。
私もメールのやりとりだけで仕事が済んでいくのが快適なのは否定できない。自戒。心して人に会わねばいけないとは思うが、面倒なのは確かですな。
私の好きなTV番組「ER(緊急救命室)」によれば、アメリカで医者になろうとする者は、一般大学4年終了後、メディカルスクール4年、インターン1年を経てやっとレジデント(研修医)だそうだ。
件の研修医は26歳だそうだが、アメリカだと30歳位になってる勘定だ(飛び級があれば別だが)その差はちょうど最初の「一般大学」の部分に該当する。
ここで4年間きちんと自分が医者になりたいかどうか考えるか否か、大きな違いだろうと思う。
民間まかせの保険制度とかアメリカの制度がすべていいとは思わないが、こうしたところの差が国全体では大きな差になりそうで気持ちよくはない。
昨日はひさしぶりに深夜まで仕事。
昔は毎日続いても平気だったのに、今では思考力鈍ることはなはだしい。
うう、「ERV」も「恐竜家族」も見られなかった。
TV番組で必ず見るのは「新日曜美術館」とこの二つだけだというのに。
今日は「少年法とWEBの18禁表示について」なんぞ書きたかったのだけど、明日以降に延期。
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Yahooオークションで買った本が届く。
クライヴ・バーカー『
ダムネーション・ゲーム』(扶桑社ミステリ文庫)、K・H・シェール『
オロスの男』(早川書房)、ディーン・R・クーンツ『
デモン・シード』(集英社文庫)
全て絶版本なので辛抱たまらず買ってしまったが、未読本がまた増えてしまった。しばらくは本の購入はしないぞ・・・・っと。
新しく日記のページを設置。
毎日書くとは到底思えないので「メモ」などという名称にしたところが、我ながら奥ゆかしい。
掲示板とのすみわけをどうするか、今後の課題だけど、まあ書いて行くうちに方向性が見えてくるでしょう。
このような日記形式書込みに対応できるように、掲示板スクリプトの「リードオンリー」の動作を改造。
どちらかというと、スクリプトを作るためにこのページをはじめたような気もしてきた。
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