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30代の男性が障害保険加入後の遺伝子診断で遺伝病が判明したために保険金支払いを拒否された。(7月30日朝日新聞)
男性は「最先端の医療を受けた人間だけが損ををしてしまうのは理不尽だ」と主張している。米国ではクリントン大統領が「遺伝情報で差別してはならない」と、ことあるごとに発言しているそうな。わが森首相は・・遺伝子診断のなんたるかも知らぬのだろうなあ。
それはともかく、これは遺伝子診断の是非というより、もう「保険」という制度が現代及び未来に整合しなくなってきているということではないのか。「保険」は「未来はわからない」ことを前提に存在している制度であり商行為だ。自分が一生交通事故に無縁なことが確実なら自動車保険に入る人はおるまい。同様に遺伝子診断で将来かかりそうな病気がわかるなら、保険の掛け金を払うより遺伝子治療や予防にお金をかけた方がいいに決まっている。
年金もそうだが、みんながやってる制度だからと考えなしに一律に払っていればいい時代はもう終わったということだろう。んなこといいながら、私も年金はだらだらと払い続けているけどね。
同じ紙面に載っているプリンストン大学の分子生物学者リー・シルバー博士へのインタビュー記事も面白い。ゲノム解読、遺伝子操作の将来性と問題点を人類史の観点から語っている。「遺伝子強化」の誘惑は止められない強力なものだ。しかし誰もが受けられるものでない以上、貧富の差が今以上拡大し、固定的なものになる可能性が強い。「日本や欧米は社会民主主義的な価値観が強いので社会の利益のため遺伝子強化をやめようというばねが働きうる」しかし「米国ではそれは社会主義的な発想として拒絶されるだろう」
でも米国人がみんなスーパーマンになっていったら、日本も欧米もやらざるを得ないだろうなあ。スーパーマン競争というのもなんだかおぞましいが、意外と、米国は自由競争でユニークな突出した超人を作り出し、日本は均質な政府推奨型超人を歩止まり良く量産して、結局今と変らないということになるかもしれない。
同じく今日付けの朝日の読書欄で紹介されている『不平等社会日本−さよなら総中流−』という本でも、貧富の固定化、「階級」の顕在化が指摘されているらしい。それが遺伝子レベルで拡大されれば、未来永劫、階級は固定化されるだろう。日本国内だけでなく、世界でも日本人の階級は下流の上くらいに落ち着きそうだ。
まあ、貧乏人の子は貧乏人というわけだ。江戸時代と変らないが、違うのはマスメディアによって、仮想的な欲望だけは常に刺激されていること。一生涯貧民階級であることが確定的な自分、に納得できない若者が荒れるのも、無理はない。
◇
前回の日記で柳瀬尚紀氏の訳書が間違っていることをメールで指摘された(サンキュ)ので、即訂正して証拠湮滅(笑)。当日記の管理者メニューは校正機能がついているので、オンラインで直せるのだ。フリーCGIページに近日公開。
今日のTVチャンピオンは「段ボールアート王選手権」
ひさしぶりに、面白いネタだった。
ダンボールで人が乗れる舟を作るという破天荒な決勝戦も、優勝したプレシオザウルス(水棲恐竜)を筆頭に傑作ぞろいだったし、予選の黒いSLなんて芸術品と言っても過言ではない。
印象的なのは、出場者(40代前半の男性が多いが20代の若者も)がみなそれぞれに「いい顔」をしていること。
街で見かける「いやな顔」が一人もいない。
どんなのが「いやな顔」かと言うと、最近だと収賄で逮捕された中尾元建設相。「おれは寝てないんだ」などと名言を吐いたどこかの社長さんは、「いやな顔」というより「みすぼらしい顔」かな。
まあ、私もあまり顔のことは言えないので、自戒をこめて。
◇
柳瀬尚紀『
広辞苑を読む』(文春新書)読了。著者の柳瀬尚紀は、あの「フィネガンズウエイク」の訳者。
猛暑でしおたれたベランダの花に水をやっていて思い出した出来事。
しばらく前になるが、平日妻が一人でいると若い女性が尋ねてきたそうな。「ベランダの花を見せてください」と言うのだが、見知らぬ人なのでいかにも唐突である。話を聞いてみると彼女は大学で園芸を専攻している学生で、都市の一般の家庭での園芸の実態を調べているらしい。向かいの高層団地の上の方の階から、うちのベランダが目にとまったので見せてもらいにきたという。その様子がいかにも素直なので、妻も快く自慢にもならぬ小さな花壇を見せたらしいが、喜んで観て帰っていったというから、貧乏な下町のささやかな園芸のサンプルにはなったのだろう。
「かわいくて素直でとってもいい子だったわよ」と妻は花壇をほめられたせいもあって褒めあげていたが、息子の嫁にはちと早すぎるぜ。「でもちゃんと今時の子らしく綺麗にしてたわよ。美人だったし」・・おいおい、また来るように言っとけよ。
で、炎天下のベランダでふと思ったのだが、尋ねていった先で男が出てきたらどうするのだろう。日中で綺麗な花が置いてあるからといって男の一人住まいの可能性がないとは言えないだろう。
・・・・花を探す美しい女子大生が、花に埋もれたようなベランダを見かけて、そのマンションの一室を訪れるとドアを開けたのは影のうすい若い男。
一瞬躊躇したが室内からただよう花の香りにさそわれて、用件を話す。男も迷ったようだが結局部屋の中に入れてくれる。ベランダだけでなく部屋の中も珍しい花で一杯。中に日本では育たないとされる珍しい種類もあった。恍惚とするような濃厚な香りを楽しんでいた彼女の背後から男が声をかける。「なかなか、うまく育たなくて苦労するけど、たまにあなたのような人が訪れてくれるので、なんとかなってるのですよ」奇妙な男の言葉に振り返った彼女の見たものは・・・・
う〜ん、べたべたな妄想・・・・反省しよう。
◇
『ES細胞』読了。→レビュー。
炎天下に草むしり。あまりの暑さに15分で切り上げたが、シャワーを浴びた後のビールのうまいこと。真っ昼間呑みながらしたためるWEB日記というのも、また乙なもの。
絵も描きかけがあり仕事もいささか忙しいというのに、こういうときにサイトのリニューアルなんぞをむらむらとしたくなる悪いくせ。もちろん、一朝一夕にはできないので、現状分析を兼ねて人様のところをのぞいてみる。
さすがなんでもありのネット界。みなさん、色んなポリシーで作ってらっしゃる。最新技術つかいまくり豪華絢爛フラッシュばりばりMIDIがんがんなところから、端正シンプル必要最小限なことしかしないとこまで。どこがいい悪いではなく、どこまで技術を取入れるか、デジタルな世界にアナログな判断を迫られるところが悩ましい。
W3C推奨のHTML4.X準拠(なんでもスタイルシートで指定しろって奴ね)のみが正義と割り切っちゃえば簡単だけど、実際には自分のとこ見に来てくれる(可能性のある)人のブラウザで見られなきゃ話にならないし、その条件を満たしながらも、レイアウトの美しさは追求したいし、正解はなかなかでるものではない。
一応、次のような基準を考えてみる。
●ブラウザはIE、NNともにバージョン4以上を基準にする。
●スタイルシートを最小限取入れてみる。
●アクセスの自由度、メンテがし易さを考えフレームを使う。
●GIF画像はできるだけPNG形式に置き換える。
●作品以外できるだけ画像は使わずテキストだけで処理する。
みんな「できるだけ」で「必ず」でないとこが私らしい。
他にも、漢字コードはなにがいいか、とかわりきれない悩みは沢山ある。それなのに「ネット社会のデジタルにしか考えられない若者たちは・・・・」などと論評されたらかなわないよなあ。
(私は「若者」ではないが)
ひさしぶりにじっくりと双眼鏡で月を観察したが、月蝕の影のせいで月が球体であることが強調されてなかなか感動的だった。月に映っているのが地球の影であることは、理屈でわかってもなかなか実感できないものだ。手を振ってる自分の影でも見えると実感できるのだろうが。
さて、昨日の月蝕は妙に赤くて火星のようだったが、赤い月で思い出したのが、月の出自にまつわる中国の神話。漢民族ではなく匈奴の伝説のようだが、こんな話。
大昔、まだ夜空にはなにもなかった頃、突然大空に月が出現した。ごつごつとした炭の固まりのような月は赤銅色に燃え上がって人々から夜をうばいさり、人もけものも暑さに苦しんだ。
国一番の狩人は自慢の弓矢で月を射落とさんとするが、矢は届かずむなしく地上に落ちてくる。新たに強弓を作るが、弓の張りに耐えられる弦がない。落ち込む狩人に、その妻が自分の長い黒髪を切ってさしだす。「これをお使いなさい」。
勇躍狩人は矢を天空に放つと見事に月に命中。表面の燃える岩が消し飛ぶが、まだ炎は静まらない。狩人はここぞとばかり手持ちの矢を次々と放つ。矢が尽きた時、月の表面は綺麗に削れ、なめらかな鏡のような円盤が青白く冷たい光を投げるばかりとなっていた。空一杯にはじきとばされた月のかけらは、いまや星々となってまたたいている。
やっと暗さの戻った夜道を喜び勇んだ狩人が家路を急ぐ。出迎えようと狩人の妻が家の外に出たとたん、妻の体は宙に浮き、月に向かって吸い寄せられるように天の高みに消えてしまった。呆然とする狩人は、月のおもてに妻の面影を認めるとただ泣き伏すのみ。
妻を失い毎日泣き暮らしていた狩人だったが、ある夜天空から妻の呼ぶ声が聞こえたような気がして表に出るとその日は満月。月中の妻は狩人の姿を認めると髪をほどきはじめた。弓を作るために切った黒髪ももう伸び、その先端が夫の目の前におりてくる。狩人は妻の黒髪をしっかり握るとそのまま月に登っていき、二度と地上に帰ってくることはなかった。
月の表面に見える影は、もちろんなかむつまじく暮らす狩人夫婦なのである。
「インターネットの世界は便所の落書(のようなのが多い)」とは筑紫哲也キャスターの名(迷)言だが、ならば私がいままで見た便所の落書きの最高傑作を紹介しておこう。
採取場所は八重洲地下街。
汲み取り便所というのは怖いもので、油断していると下からスルスルと胃カメラが上がってきて、肛門から入り込んで胃の中を撮影されてしまいます。対策としては、のどに指をつっこんで胃カメラを吐き出してしまうという手がありますが、このとき下で撮影している奴を尻から吸い込んでしまい、後で出産しなければならなくなるのがちょっと面倒です。
ちょっとどころでなく面倒だと思うけど、これに出会ったときは、拭くのも忘れ(やや誇張あり)あわてて手帳を取り出して書き写した。
便所の落書きもなかなかでしょ?筑紫さん。シュールなのはお好みではないかな。(おすぎとの映画対談より類推)
夢は五臓の疲れだとは古人の言。昼間の抑圧されていた無意識が抑圧が弱くなる睡眠時に現れるのだといったのはフロイト。
話がそれるようだが、SFによく出てくる
不老不死の実現方法にこんなのがある。クローニングで作った肉体、または良くできたアンドロイドボディを用意する。次に、ある時点の脳の状態を電子的に(か生化学的にか)コピーしておく。本人が死亡したら、用意しておいた代替ボディの脳にコピーした記憶を転写して覚醒させる。代表的な作品ではクラークの『
都市と星』の未来都市ダイアスパーの住民が日常的に使っている。
これは厳密には不死とは言えないと思うがどうだろう。たしかに友人知人から見れば死者が蘇ったのと同じだし、再生された本人の意識も連続した人生を生きているように感じるだろう。しかし再生される前の本人の意識は死んだ時点で終わっているのではないだろうか。前の存在の生存中にも複製は存在できるはずであり、それを死後におこなったところで、生の復活にはなりえないだろう。
デカルトの言った「我思うゆえに我あり」の
我=
存在は肉体の脳に固く閉じ込められている。かといって完全に物質依存ではないのは、30年前の自分と現在の自分では、構成している原子がほとんど入れ代わっているということからもあきらかだ。
やはり「存在(意識)の連続」が重要なのだろう。
眠ると意識は途絶える。眠って目覚めるのは、もしかしたら死んで生まれ変わるのかもしれない。それを防いでまがりなりにも連続性を保つのが、「夢」の役割なのかもしれない。
以上、妄説。
もっと「存在」をソフトウエア的にとらえるなら、多重人格の一つの人格が消えるとき、そいつは死んだのだろうか。
暑い日が続くと私は
ヤモリになる。
蜥蜴に似た爬虫類で、「家守」という名の通り昔は良く家の天井あたりで見かけた。先ぶくれのした独特の指の腹側が吸盤になっていて板壁や柱にぴたっと張りついていたものだ。
現在、私の家のベッドは壁際に寄せている。熱帯夜などには、夢うつつに体が涼を求めて冷たい壁側に寝返りを打つらしい。そのまま壁に張りついたように手も足も壁に押し当て眠っているようだ。朝起きると、妻が「またヤモリになってたよ」と笑う。
別にヤモリになった夢は見ていないが、いつか気がかりな夢からさめるとヤモリになっているかもしれない。そして家族は私を置いて楽しげに出かけていくのだ。
また、ヤモリになる季節がやってきたようだ。
昨日の続き。かつて見た水に関連した夢を記しておく。
風に吹かれる夢 海で小さなゴムボートに乗っている。なぜか日傘をさしている。突然海上を風が吹きはじめ、傘が風を受けてボートは滑るように走り出す。傘を動かすと方向も変えられるが、大きくは変えられずどんどん沖に出てゆく。怖くはなく楽しい気分である。周りが海ばかりになってしまったので、傘を操ってなんとかどこかの海岸にたどりつく。元の浜辺の方角はわかっているのだが、遠い。ボートは乗り捨て国道沿いに歩き続けるが、どうしてもたどりつくことができない。
ファンファン大佐に会う夢 真夜中の暗い街を歩いている。目的地はあるのだが道がわからない。路地は入り組み、街中に水路があり霧が深い。目の前の水路に突然霧の中から潜水艦が現れる。潜水していたのが浮上したのか浮上したまま進んできたのかはわからない。ハッチが開き、いかにも船長らしい格好をした男が上半身を出す。ちょっと岡田真澄に似ている。彼が道を教えてくれる。
鮫に追われる夢 海辺の浅瀬に入ると遠くに鮫の背びれが見える。みんなあわてて逃げだす。私も砂浜をなぜか波打ち際に沿って逃げるが、妙に切迫感がない。鮫は巨大な
撞木鮫(で15m位はありそうだ。肌は青白い。海がいつのまにか水路になり、アラビアンナイトに出てくる宮殿のような場所に来てしまう。鮫は水路をときどき跳びあがりながらやってくる。宮殿はオープンな造りで水路が内部にまで入り込んでいて薄暗い。人は見当たらないが、
鰐(がうようよいる。鰐の背中は茶色で腹は黄色い。鰐たちは突然やってきた鮫に敵対する素振りをするが、はるかに巨大な鮫に片端からバリバリと食われてしまう。私は恐怖も感じずただ傍観している。
◇
「ES細胞」について興味を持って本を読みはじめたが、昨日から日経産業新聞でも関連した連載が始まり、出たばかりの本の内容が早くも旧くなっていることに驚く。バイオの世界の進歩のスピードは一時の情報デジタル技術のようになってきた。クローンを凌ぐほど面白いのに、題材にしたSFの話を聞かないと思ったけど、これでは作家の方がついて行けないのも無理はない。
しばらくぶりに奇妙な夢を見た。
前半は食通連の席に連なって、なにやらゲテモノっぽい料理をご馳走になる(味は覚えていない)。場所は座敷でみな和服である。
後半、突然海辺で胸当たりの深さの水に入っている。(前半の宴席は海に近い旅館だったのかもしれない)目の前に座布団くらいの大きさの海亀が何頭も泳いでいる。なぜか色は山吹色に近い黄色である。つかまえようとすると、甲羅の後ろにある穴から海水を噴射して跳び上がる。目測7〜8m位の高さ、距離もそれくらい飛んだだろうか。「海亀って跳ぶんだあ」などと呑気に感心していると、他の海亀も一斉に跳び始める。最初の奴ほどではないが、それでも3〜4mくらいのジャンプを繰り返してみるみる沖に消えてゆく。
私は水棲生物の夢を見ることが多く、これまでも鯨、鰐、撞木鮫なんてとこが登場した。それも夢の中では実際のものよりはるかに大きいことが多い。海亀も以前、真っ黒な鋼鉄のような甲羅を持つ、家ほどの大きさの亀に海底で出会う夢を見たことがある。亀の首の部分が顕著なら、フロイト的な解釈で男根の象徴なんだろうけど、いつも甲羅の方が印象的なのはどういう意味なんだろう。
◇
ディーン・R・クーンツ『
デモン・シード(完全版)』(創元SF文庫)購入。くーっ、長らく絶版だったのをYahooオークションで手に入れたばかりだぜ。しかも完全版とは・・・・なんというタイミングであろうか。無神論者の罰当たりは時としてこういう目に会うのであった。
暑いので人込みを避け、緑陰の多い谷中霊園を抜け、国立博物館の平成館へ『国宝平等院展』を観に行く。
鳳凰より梵鐘よりなにより『
雲中供養菩薩像』五十二体が圧巻。
通常ならご本尊を取り巻く高みにあって、はるかに見上げるようにしか見られないのを、今回の展示では目の高さで間近に見られるのだからちょっと見逃せない。
ほとんどが楽器を奏でる天人の姿で現わされているので、普通の仏像と比べて顔もポーズも表情豊かである。楽器の種類も豊富でどうやって弾くのか見当つかないものもあり、その分演奏する手指の格好に変化があって見てて楽しい。表情も歌っているかのように口を開けているのもあり、眼も開いてるの閉じてるの半眼のと色々である。ポーズも舞を舞っているように足をあげてたり正座あり胡坐あり。
なよやかなボディライン優美な腰つき、恍惚とした表情と相まってなんだかセクシーでさえある。
別棟の『
法隆寺宝物館』もついでに寄ってみる。こちらは人もまばらで見やすい。照明を落とした暗い室内の古拙な菩薩像は心落ち着く。こういうのこそ「いやし系」だと思うのが、別にいやされたくもないのでデフォルメされた形を純粋に楽しむ。
◇
大朏博善『
ES細胞』(文春新書)購入。
「ES細胞」は「クローン羊」ほどは話題になっていないが、クローン以上の世界を変えるほどの可能性を秘めた発見らしい。この話題は明日以降。
私には珍しくタイムリーな読書。
ベストセラー上昇中のベルンハルト・シュリンク『
朗読者』を読了。
本来なら「あやかし書房」の方に書くのだが、読み終わったばかりでどうにも胸がしめつけられるようでたまらない。楽になりたくてここに書いてしまう。
舞台はドイツ、15歳の少年が36歳の独身の女性と関係し恋に落ちる。二人にはすぐに別れが訪れるのだが、女性は少年にも誰にも明かしたことがない秘密を持っていた。
ミステリ的読み方をする私の悪い癖でその秘密はすぐ分かってしまったが、秘密そのものは話の半ばすぎで明らかになってしまう。それでも、先の展開は全然読めない。
ナチの戦争犯罪も係わってくるのだが、小説自体は声高に告発するのでもなく姑息に擁護するのでもない。淡々とした描写が主人公の静かな回想で綴られているのに、なぜか胸しめつけられどきどきしてしまう。
後半は少年(もう少年ではないが)の、女性への関わり方が書かれ、ラスト近く女性の少年への反応が書かれるが、女性の胸の裡は謎のままである。どうも内容を詳しく説明できないので自分でもじれったいが、読む人によって何通りもの読み方・解釈がある小説だと思う。
私にはコミュニケーション、主人公二人の関係が人間同士の関わり方の「距離」の問題を描いてるようで、その点いかにも今日的な小説に思えた。
題名の「朗読者」は主人公の少年のこと。朗読することが、彼の彼女へのコミュニケーションの手段だったのだが、なぜなのかは、本書を読んでください。
少年と著者は世代も職業も一致するのだが、自伝的要素はどのくらいあるのだろう。
いかんなあ、また、せつなくなって、目がうるんできちまったよ。
そして、小説ラストの方に出てくる刑務所長と同じく、私も少し怒っている。
という電車内のアナウンスも最近はあまり聞かなくなったような気がする。これみよがしにでかい声で使う人も滅多に見かけないし、うるさいだけなら、買い物に出かける(複数の)おばさんたちや夜アルコールの入った(複数の)おじさんたちの方がよほどやかましい。
私が気になるのは、街中で携帯電話やヘッドフォンを使う人たちは、外界からの情報(音)をシャットアウトしていて、不安ではないのかということだ。
これが野生動物だったら聴覚を妨げられて外に出されたら不安で不安で仕方あるまい。都会の人間だっていつ暴走したクルマがつっこんでくるかも知れず、かっぱらいに体当たりされるか知れず、天から電波が来てるおかしな奴が突然刃物を奮って暴れだすか知れないのだ。環境音が聴きにくい状態の人は、危険に遭遇した時に回避する能力が小さくなってるのは間違いあるまい。だから私は、ヘッドフォンで耳をふさいで街中を歩いている人を見ると、その勇気にいつも感服してしまうのである。
◇
倉木麻衣のパクリの件はどうやらダウンタウンの浜田が謝罪する方向で落ち着くようだが、そんなことは関係なく今週号の週刊文春の「考えるヒット」で近田春夫が倉木麻衣と宇多田ヒカルの「音」の比較について書いている。バラエティ番組の「失言」と比較すればプロの意見ぽくてずっと面白いが、「関係筋」からはまた無視されるのだろうなあ。
今日は芸能スポーツ面より
倉木麻衣の事務所浜田雅功に抗議。
ダウンタウンの浜田がゲスト出演していた宇多田ヒカルに「倉木はおまえのパクリやと思う」と発言したことについて、ということだけど、これってとっくに近田春夫が週刊文春に書いてたけどねえ。それも「バッタモン」という、より過激な表現で。
まあ、雑誌=近田とTV=浜田では一般への影響力に天地の差があるから仕方ないか。ファンクラブの掲示板でもやかましいことになってるけど、事務所の人もファンも、ダウンタウンの番組は見ても週刊文春は読んでないのね。無視された近田春夫と文藝春秋の立場は・・・・
◇
ウインブルドンはひいきのヒンギスがビーナスに負けてしまった。1セット目見たとこで今日はだめだなと思ったけど案の上だった。う〜む、天才マルチナ・ヒンギスもウイリアムス姉妹、ピエルスのようなサイボーグやヘヴィー級のダベンポートには、勝てんのか。今回は加入していないWOWOWではなくNHKBSの中継なのに楽しみが減っちまったよ。
将来などなにも考えず、その日その日の楽しみに生きている(かに見える)中学生の娘に「お前、将来、栄養士なんてどうだ」などと言ってみると
「おとーさん、うちの学校の栄養士の先生はすっごい爆乳だよ」ときたもんだ。(話をそらすのに父親の弱点を狙った話題を繰り出すんじゃないよ)
のせられて「胸が大きくなるのにはどんな栄養取ったらいいか聞いてみろ。説得力あるじゃないか」と言ってしまった私の負け。もちろん「おとーさんが言ってたとは口が裂けても言うんじゃないぞ」と釘はさしといたけど、大丈夫だろうな。
まあ、牛乳たくさん飲みなさいとでも言われるのが関の山だろう。
雪印乳業のチョンボのおかげで牛乳全体の売り上げが落ちているらしいが、お隣の中国では牛乳ブームだそうな。
平均身長で日本に抜かれたのが気に食わないから牛乳飲んで巻き返そうという理由だと聞いたが本当だろうか。元々
乳製品を取らないお国柄ではあるらしい。
オリンピックなど見てると中国人の方が大きそうだが、これは人口が多いからで、小さい人もたくさんいれば平均は下がるから不思議ではないな。
日本人が身長が伸びたのは牛乳のおかげだとされてるらしいが、どこからそういう話になったのだろう。
オランダやドイツの方が中国より平均身長は高いだろうけど、白人国に負けるのはいいのだろうか。いいのだろうね。
少なくとも日本人があまり好かれてないのだけはよくわかる。
女子アナは
初々しさとかわいらしさがトレンドって、まあ目くじら立てるようなことではないかもしれないが、アナウンサーはまずニュースをちゃんと読めることでしょ?
あまり初々しい医者にはかかりたくないし、初々しいコックの料理も食べたくないはずだ。女子アナだけは、とちっても変な日本語使っても、いやむしろ、とちったり変な日本語を使うほど初々しくて可愛らしいと人気が出るのは、プロとして恥ずかしいことだと思うけどなあ。軽薄な芸能マスコミや視聴者がちやほやするならともかく、天下のNHKがメインで使ってはいかんでしょう。
NHKの加賀美幸子御大のような聞いてる者が安心できる声・技術を大切にしてもらいたいものです。小宮悦子のような読色兼備ならもちろん言うことない(決して好みで言ってるわけでは・・・・)
美女である属性は鼻の下の長い中年オヤジとしては、歓迎こそすれ決して忌避するものではないが、美人作家、美人漫画家、美人写真家、あたりまえだけどまずは作品だよね。
それを属性だけで売り出そうとした例に、昔
椎名桜子なんて「自称作家」がいた。(美女であるかどうかは賛否あるところだろうが)たちまち「ゴーストライター疑惑」が出て叩かれて消えうせてしまったけど、
こんなとこにいた。今度は「水中写真家」か・・はああ。
「叶姉妹」が出てきたとき、まず連想したのがこの「椎名桜子」だった。売り出し方に顕著な類似性を感じたものだが、椎名桜子の場合は嘘でも中身らしきものが必要だったが、「叶」の方はドーナツのように属性だけを膨らましてまだまだしぶとく生き延びそうだ。
ふと思ったのだが「美女」とか「美人」ってそろそろ死語だろうか?
叶姉妹も売り文句は「美人」ではなく「ゴージャス」だし。
東武美術館『河鍋暁斎・暁翠展』。きょうさい・きょうすいと読む。父娘。
色っぽい「地獄太夫」の見事な衣装の群青と朱。「百鬼夜行図」の野放図で愉快な線描。やはり画集で見てるのと実際に観るのは全然違う。特に「百鬼夜行図」こんなに大きな絵とは思わなかった六曲一双のダイナミックな図。
妻の死に顔を写生したという「幽霊図」。表装がわざわざつぎはぎになってるという遊びが面白い「貧乏神」。
男たちが大筆を持って墨を付け合う公家の珍しい遊びを描いた「墨合戦」の人物表現動きの表現の技術は、漫画を描こうなんて人には垂涎ものではなかろうか。
妻のお気に入りは「美人観蛙戯図」。艶っぽい美人のリアリティと彼女の眺める鳥獣戯画のようなファンタジックな蛙たちの対照が面白い。
しかし、これはいいと思ったのはほとんど「福富太郎コレクション」。暁斎の収集家だということは知っていたけれど、キャバレー太郎、さすがの眼力。
諸星大二郎『
西遊妖猿伝』14、15、16巻読了。
第二部「河西回廊編」が終了してしばらくはお休みということらしい。といっても玄奘三蔵はやっと大唐国の国境を超えて西域に足を踏み入れたばかり、まだ沙悟浄も牛魔王も出てきていない。この『西遊妖猿伝』と『
カムイ伝』だけは最後まで読みたいものだ。『
カラマーゾフの兄弟』にならんことを祈る。
『西遊記』は日本人の大好きな物語らしく随分漫画化もされている。手塚治虫の『ぼくの孫悟空』から『ドラゴンボール』まで。小池一夫・小島剛夕版もあったし藤原カムイも描いてた。しかしなんと言ってもこの諸星版は最高に面白い。第10巻「人参果之巻」11巻「与世同君之巻」、あの不老長生の秘薬=赤ん坊状の果物「人参果」の話をこれほどオリジナルな感動的な物語にしたてられるのは、この作者ならではだろう。
線が泥臭いので、一般的な意味ではうまい絵とは認識されていないだろうが、絵はうまい。特に魔的に「巨大なもの」の描写力はちょっと類を見ない。『西遊妖猿伝』の後半では、動き=映画的な追っかけっこのアクションにとことんこだわっているのがまた見物。
今、単行本が出版されたら文句なく買う漫画は諸星大二郎だけとなってしまったが、COMでデビューした頃から見てるので、なんだか思い入れ深い。一番最初は一人地球に行き残った男がコインがなくて自動販売機があっても飲み物を得られない、というような短編で片隅に載っていた。
そのころのCOMの投稿欄をながめていると時々面白い名前に出っくわす。
「いずみやしげる(18歳)」ってのはあの「泉谷しげる」だな。『とつぜんじ』というなかなかシュールな作品で、つのだじろうが高く評価しておりました。懐かしや。
◇
リチャード・ニーリイ『
心引き裂かれて』読了。
ベルンハルト・シュリンク『朗読者』(新潮社)、澁沢龍彦『新ジュスティーヌ』(河出文庫)購入。
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