04/04/27(火) 千夜千冊のポオと元号の効用 04/04/25(日) 魔術師 04/04/22(木) 結・人質3邦人解放 04/04/21(水) 続々・人質3邦人解放 04/04/17(土) アルジャジーラの女(ひと) |
04/04/16(金) 続・人質3邦人解放 04/04/15(木) 人質3邦人解放 04/04/11(日) スター誕生 04/04/06(火) 情報倉庫 04/04/03(土) バルタン星人はなぜ美しいか |
2004/04/27(火)[本]千夜千冊のポオと元号の効用
大団円も見えてきた『松岡正剛の千夜千冊』は第972夜。昨日は手塚治虫、本日はポオということで、連日目がはなせません。
特に今日のポオ語りは秀逸だが、特筆したいのは、年代を表すのに元号を使っていることだ。
この天稟の詩人ポーの表現界に向けての出発は文政9年(1826)の17歳に始まっている。
他の日にはそんな書き方はしていないようなので、筆者はポオをレビューするために意識して使っているのだろう。意図はどうあれ、これはわかりやすい。ポオの生きた時代の日本は江戸文化の爛熟期。海を隔てて鶴屋南北や瀧沢馬琴が健筆をふるっていたことが、なんの説明がなくてもすんなり脳内で結びつく。
現代日本で公文書の日付表記に元号を優先しているのは、ソフト屋としては七面倒くさい限りであり、とっととやめてほしいものだが、歴史として記憶に残ったものはそれでいい。無味乾燥な数字と違って漢字はイメージを喚起する力がある。たとえば「嘉永」という字面だけで、「文明開化の音がする」ような気がするではないか。
結局、ポオは嘉永2年(1849)に、わずか40歳で意識を失って昏倒したまま死んだ。黒船が浦賀沖にやってくるのは、まだちょっと先のことである。
2004/04/25(日)[映]魔術師
『魔術師』(イングマル・ベルイマン監督)DVD鑑賞。
ベルイマンは大好きな監督だ。コンプリートとはとうてい行かないが『沈黙』『処女の泉』『野いちご』『夜の儀式』『叫びとささやき』『ペルソナ』『冬の光』といった代表作はなんとか見てきた。なつかしき岩波ホールや名画座たち。って岩波ホールは健在か。最近全然行ってないなあ。
ただ、映像やイメージ、緊迫感といった部分はたまらなく好きなのだが、テーマは神学的で深遠にして難解、正直理解力が追っつかないのを背伸びして見てました。
その中でこの『魔術師』は平易で娯楽性に富んでいて、しかしベルイマンらしさも神学的テーマも抜け落ちていない、稀有の一作。実は私が今まで見てきた中で一番好きな映画である。学生の頃にはじめて見てから、名画座にかかってるのを見つけるたびに三回は映画館で見ている。それでも最後に見てから25年ぶりくらいなので、細部は忘れていた。やはり面白かったなあ。これから何度でも見られるかと思うと嬉しくてたまらない。DVD様々である。
19世紀のスウェーデンが舞台。荒野を旅回りの魔術師一座の馬車が行く。超能力を持つ科学者というふれこみの座長。助手の美青年。太っちょで口の達者なマネージャー。媚薬作りと占い専門の老婆。馬車の御者の若者。たった5人のうらぶれた一座だ。途中で死にかけのアル中役者を拾った上に車内で死なれてしまうというトホホな状態で巡業地のある街にやってくる。一行は領事の館に招かれるが、そこで領事・警察署長・医者という当地の名士たちに尋問される。どうやら彼らは近代科学を信奉し、怪しげな魔術師一座に悪意を持っているようだ。下層階級として蔑み、化けの皮をはがそうとしているのですね。
一座は無理矢理館に泊まらされ、翌日街の名士たちの前で魔術を披露することになる。賓客ではなく食事は館の召し使いと一緒に台所で取らされるという屈辱的扱いだ。それでも一行のうちマネージャーと御者は館の色っぽい女中たちとねんごろになり、老婆の媚薬の効き目か?艶笑喜劇を繰り広げる。座長と助手はそんな騒ぎにはくわわらないが、座長には領事の妻が、助手には医者が誘惑をしかけてくる。そんなてんやわんやの翌朝、魔術師一座の興行の幕が開く……
この後、魔術師たちとブルジョアたちのオカルティックな戦いはなかなか見物。優勢劣勢がなんどもくるくると入れ代わる。特に医者と座長がサシで対決する屋根裏部屋のシーンが秀逸。特撮や血糊がなくとも心理劇だけで迫力というのはちゃんと出るのだね。ラストも意外とさわやか?ですっきりします。
座長のフォーグラ博士にマックス・フォン・シドー、助手の[男装の麗人=女装にもどるとどきっとする美しさ]アルマンにイングリッド・チューリン。傲慢で高慢な医者にグンナール・ビョルンストランド。由美かおるの若い頃に良く似た色っぽい女中にビビ・アンデルセン。いずれもベルイマン一家の名優名女優たちだ。
モノクロの画面が美しい。1958年の作品だと考えると保存状態の良さに驚く。数年しか違わない小津安二郎の作品が痛みまくっていたのとは大違いだ。
*
その他最近買ったDVD。『ヤング・フランケンシュタイン〈特別編〉 』、『ファントム・オブ・パラダイス』、『ポーキーズ』。3点とも税込898円の特別セール品。
ベルイマンのDVDも随分出ているのだ。見ていないのもたくさんあるので欲しいのだが、ちと高いよなあ。どうせ読めやしないのだが、英語版がないかとさがして見たが、アメリカではあまり出ていない。少なくとも『魔術師』は見当たらない。ベルイマンに関しては日本は先進国なのだね。
と思ったらイギリスでは結構出ていた。『魔術師』は16ポンドだから約3,000円。日本のアマゾンだと5,040円、楽天のい〜でじ!!シネマでも4,130円だ。う〜む、どこがデフレなんだ?日本ももう少し下げてくれい。
2004/04/22(木)[時]結・人質3邦人解放
今回の件に関しては、事件そのものより、自分も含めて世間(日本)の人々の反応の方に興味があった。元人質やその家族に感じるこの気分はいったいなんなのか、私は頭が悪いので、もやもやしつつはっきり言葉にならなかった。はっきりさせるために新聞やネットや、日頃こういうことに怠惰な私にしてはまめに意見・記事をあさってみたのだが、もう一つよくわからない。
しかし、これが一応一番自分にはすっきりくる説明かな、というのを見つけた。日付にNAME指定がされてないようなので、少し多めに引用する。これでこの話題は(なにもなければ)当ページでは終了。
唐沢俊一の裏モノ日記(2004/4/16の後半)
10時のNHKニュースでイラク人質事件続報を見る。嬉々とした表情でいるところがまた、腹がたつ。彼らをいまだ弁護している人々は、とにかく現政権が自衛隊を派遣したことが憎くて、それに反対している彼らを英雄視しているのだろうが、結果 を見れば現政権は彼らの命を救ったことで点数を稼ぎ、(略)結果として、彼ら三人の行動は利敵行為にしかなっていない。一番、彼らに対し怒らなくてはならないのは、自衛隊撤退派の人々のはずだ。それが、これまた“情に流され”て、“平和のために尽くしたのに世間から非難を受ける哀れな若者たち”みたいな扱いをして、一般大衆との乖離を深めている。どこまで純情(馬鹿と同義)なんだろうと呆れる。
(略)
高遠さんという人の家は資産家だそうである。なればこそ、三十いくつにもなった娘に、就職も嫁入りもさせもせず、イラクの少年たちの養護に熱中させておけるので あろう。今井くんのイラク入りとて、自分で稼いだ金で行っているのではよも、なかろう。支援者たち、つまりは人の金で行っているわけである。彼らは恵まれた 環境・恵まれた位置にいて、ドラマチックな非日常の世界の中に身を置いているのである。それをブラウン管のこちら側から見ている者たちは、日常の中に縛りつけられていて、指をくわえて見ているだけだった。彼らの活動がマスコミで伝えられるたびに、人々は、自分たちと彼らの間の“差”を思っていたはずである。彼らの“善意”“ボランティア”という金看板に、表立って誹りを投げつけるわけにはいかないが、心の底のどこかで、必ず“へっ、いいご身分だよ、稼ぎもせずに自己満足できる活動をしているんだから”というそねみ、ねたみがあった筈である。NGOの人々は、そこに今まで、まったく気がつかないでいた。自分たちの活動は崇高なもの故に、世間から善意を持って見られているはず、と思いこんでいた。今回、人質になった人のうち、郡山さんを除く他の二人は、まさにそういう妬みの目を受けるに、あつらえたかのように格好な二人であった。いわば“タマが悪すぎた”。おまけに家族の言動が、これまた世間知らずでありすぎた。今回の彼らに対する悪罵の嵐は、言ってみれば日常の、非日常に対する復讐だったと思う。
2004/04/21(水)[時]続々・人質3邦人解放
あまり、政治的な話題は好きでないのだが、一回書いてしまったのでもう少し。
「肝心なのは自己責任の原則」「喜ばしいが教訓も少なくない」読売新聞社説。
政府・与党内には、救出費用の一部の負担を本人に求めるべきだという議論もある。これは検討に値する。独善的なボランティアなどの無謀な行動に対する抑止効果はあるかもしれない。(4/19)
国際社会は、新生イラクの建設へ、改めて結束を図る必要がある。日本も、自衛隊を派遣し、人道復興支援活動を展開している。人質事件に左右されることなく、国際社会の一員として一層の責任ある役割を果たさなければならない。(4/16)
「イラクの人質事件――解放の喜びと新たな不安」朝日新聞社説。
政府の懸命な努力に加え、人々の窮状を助けようとイラク入りした3人に共感する人々やNGOの世界への訴えが、様々なメディアを通じてイラク社会に伝わったことも役だったのかも知れない。
それにしても、報道機関に政府が全面退避を呼びかけざるを得ないほど危険度の高い国に、自衛隊を派遣する条件である「非戦闘地域」が今なおあると言えるのかどうか。緊迫の度を増すイラクの実相を見れば、そのことも真剣に考え始めなければならない。(4/16)
どちらも脅迫によって自衛隊を撤退させるようなことはするな、というのは一致している。しかし同じなのはそこだけで、あとは見事に真反対だ。簡単にいうと読売は自衛隊派遣賛成で人質ボランティア非難。朝日は自衛隊派遣反対で人質ボランティア擁護。この2紙だけでなく、マスコミやネットの喧々囂々のいずれもだいたいこの組み合わせに色分けできるようだ。程度の差、主張の強弱があるにせよ、いわゆる右翼と左翼だ。自衛隊派遣賛成で人質擁護派(どちらかというと私はこれ)とか、逆に自衛隊派遣反対で人質非難派という意見にはめったにおめにかかれない。私はさびしい。
日本以外なら、ちゃんと次のようなコメントもあって、ふと安心できる。パウエル国務長官のインタビューの紹介ページから孫引き引用。
全ての人は危険地域に入るリスクを理解しなければなりません。しかし、危険地域に入るリスクを誰も引き受けなくなれば、世界は前に進まなくなってしまう。彼らは自ら危険を引き受けているのです。ですから、私は日本の国民が進んで、良い目的のために身を呈したことをうれしく思います。日本人は自ら行動した国民がいることを誇りに思うべきです。また、イラクに自衛隊を派遣したことも誇りに思うべきです。彼らは自ら危険を引き受けているのです。たとえ彼らが危険を冒したために人質になっても、それを責めてよいわけではありません。私たちには安全回復のため、全力を尽くし、それに深い配慮を払う義務があるのです。彼らは私たちの友人であり、隣人であり、仲間なのです。
政治的配慮があるにしろ、日本が褒められたら嬉しくないわけがない。ついでにフランスのル・モンドも褒めている。こちらはやや皮肉を感じるが。なんにしてもアメリカでもフランスでも、少しでも対日印象、対日本人印象がよくなるにこしたことはない。イラク人の対日印象もまだ破局的なとこまではいってないようだし。こちらも好印象をうまいこと残して、ひっそり撤退できればそれに越したことはない。
なんといっても、日本及び日本人はは中国韓国北朝鮮といった隣国から嫌われたり妬まれたりしている。将来もめごとが起る確率は高いだろう。そのときアメリカをはじめとする第三国がどちらにシンパシーを持ってくれているか。今回の事件や自衛隊派遣のどの局面が未来の国益にかなっているか、単純に左右の論理では測れない気がする。もちろん私などではとうてい見当もつかないが。
2004/04/17(土)[時]アルジャジーラの女(ひと)
昨日書いたアルジャジーラのアラビアンナイト風アナウンサーは、早速ネットに画像があがってました。みんな、目のつけどころは一緒というか何というか。
濃厚なフェロモンを、上の写真はハァ〜ッと、下の写真はフゥ〜ッと、まき散らしているようではないですか。
いい悪いは別にして、かの地で女性は黒布で顔を隠すという風習が生まれたのも、納得させられる気がする。
2004/04/16(金)[時]続・人質3邦人解放
(元)人質の家族には「日本政府の自衛隊派遣こそ事件の原因」と主張した人がいるそうだ。理屈はあっているようだし、私も自衛隊派遣に全面的に賛成しているわけではない(他に選択肢はなかったとは思うが)。それでも、あの家族(と元人質)の様子には違和感がある。
ネットでは『自己責任』とか『自作自演』とか言葉が一人歩きしてる感がありますな。自作自演の可能性はなきにしもあらずだろうけど、自己責任については私自身は人に厳しく指摘できるほどの自信はない。私が感じた違和感はそんなご大層なものではない。
身内が山(といっても本格的高山ではないが)で遭難したことがある。もちろん、入山禁止勧告が出てるような危険な山に入ったわけでなく、単純に道に迷っただけだが。
親戚や友人もたくさん駆けつけてくれたが、やはり一番働いてくれて実際に救出してくれたのは地元の警察の人々だ。(発見したのは私だが、警察の協力がなかったら山に入ることも連れ帰ることもできなかったろう)
まあ、元々は警察に親近感など持ってないし、今でも地元の交番は肝心なときに人気がないのが業腹だ。それでも遭難騒ぎのときには感謝以外の気持ちはまったくなかったし、今でも足利署の方向には足を向けては寝られません。(その節はありがとうございました)
右翼か左翼かとか関係なく、今回のようなことがおきたら、身内をさらって死を代償に脅迫する犯人を憎悪し、たとえそれが仕事とはいえ懸命に救出活動してくれている当局には感謝する、というように心が働くものではないだろうか。救出活動の最中に「山道や道標を整備していなかった地元の責任を追及」したりはしない。
尊敬すべき(と私は本当に思っている)ボランティア活動にいそしむ人々にしては、その反応は人として変だ。それとも政治的に活動している人にとっては、あれが普通なのだろうか。あまりにも非政治的な私にはとうてい理解不能です。
2004/04/15(木)[時]人質3邦人解放
最初は「イラクのためと思って活動してきた人がイラク人に殺されるのか!」と思って慄然、暗然としたものですが、いまや解放されたと聞いても岡本喜八の『大誘拐』を連想するぐらいで、特に感慨もなくなってしまった。
どうも、釈然としないことが多すぎる。まあ、何年何十年かするうちに今回の事件の真相もあきらかになることだろうけど、そのころには「歴史」だね。
なんにしても、イタリヤ人人質は殺されてしまったし、日本人もまだ二人不明のままだし、手放しに喜べる心境にはなかなかならない。
*
アルジャジーラの女性アナウンサーはアラビアンナイトの登場人物のようでしたな。濡れたような切れ長な眼。バラの花びらのような厚い唇。スーツでマイクに向かっているより、薄物をまとって魔法の絨毯で飛んでる方がお似合いである。
2004/04/11(日)[劇]スター誕生
青山劇場『スター誕生』にて生仲間由紀恵を見る。
加藤茶が「ちょっとだけよ」をやれば、諸星和己も突然ローラースケートで走り回る。美術も一級。満員の観客を満足させるためならなんでもやるプロフェッショナルで贅沢なエンターテインメント。エノケンや美空ひばりのミュージカル映画を思い出させる演出脚本は、ラサール石井。才人である。
ラスト近く三人の主演女優がそろって歌う場面では、それぞれ、仲間由紀恵(顔も声も美しい)は女優、今井絵理子(映画やTVで見るよりずっといい)はミュージカル、島谷ひとみ(う〜ん、細い)は歌手、という印象。
しかし一番キャラが立っていたのは、「私鉄沿線」を唄いながら立ち回りをしたROLLYでした。
2004/04/06(火)[電]情報倉庫
ハードディスクを買った。Seagate製の200ギガバイト。DVDのバックアップに使うつもりだ。
もう20年近く前になるが、仕事で金融機関向けに、PCに光ディスク装置を付け、過去の帳票データを収めて検索印刷できるシステムを作ったことがある。索引データを収めるためにハードディスク装置も付けたのだが、当時40メガバイト(ギガではない)で40万円した。単純計算で1メガバイト当たり一万円である。1ギガだと一千万円だ。(メーカー方式の1ギガ=1000メガとして)
今回の私の買い物は税込みで1万5千円弱だった。1ギガ75円だ。18年前に200ギガ分のハードディスクをそろえたとしたら、必要な金額は実に20億円である。13万分の1に値下がりしたわけである。
電卓がはじめて登場したのが1965年、もう40年も昔だ。価格も10万円以上はしたはずだ。今は100円ショップでも売っている。それでも1000分の1、ハードディスクの値下がりぶりには遠く及ばない。
容れ物がいくら大きくても、情報は量より質が肝心。テキストデータなら国会図書館級の情報をすべて個人のPCに収めてしまうことも可能だ。しかし、大いに売れている大容量ハードディスクのほとんどは、映画データやTV番組の録画データを収めることに使われているのだろう。
だけど、それでもかまわない、と思う。やはり良いものほどたくさんコピーされる(はず)。複製が多いものほど未来に生き残っていく確率は大きくなる。
たとえばギリシャ悲劇。「王女メディア」や「オイディプス王」などの傑作が現代文学や映画や思想に大きな影響を与えていることに疑問の余地はないだろう。しかし現存する原典は、大量に創作されただろう作品のほんのほんの一部分だ。なにしろ媒体は粘土板なのだ。ほとんどが割れたり埋もれたりして永久に失われてしまったことだろう。それでも現代にまで残った数編は抜きんでた傑作だったろうと言われている。傑作なればこそたくさん粘土板が複製され、現代まで残ったであろうからだ。(ちょっと論理が怪しいような気もするが)
現代にもどって、あるコンテンツが天下の傑作として国家ライブラリに大事に保管されたとする。それでも、その時々の国家や企業の都合でどんな運命にみまわれるかはわからない。しかし、どんな時でも一般社会の個々人の下に存在する複製の方はしぶとく生き残るのではないだろうか。
だから、DVDにプロテクトをかけたり、そのプロテクトを外して複製するのは個人利用でも犯罪だなどとぬかす輩はくそくらえだと思ってしまうのだ。少なくとも小津安二郎のフィルムをあんなひどい保存状態でしゃあしゃあとしていられるような日本映画界などには言われたくない。複製を許さないのなら、未来永劫絶対に絶版や品切れになどするのでないぞ。
2004/04/03(土)[本]バルタン星人はなぜ美しいか
小林晋一郎『バルタン星人はなぜ美しいか―新形態学的怪獣論―』(朝日ソノラマ)読了。
ウルトラマンシリーズは誕生以来、数多くの傑作怪獣を生み出した。歯科医師と特撮ファンの2つの顔を持つ著者が、熱い思いをこめて語る「怪獣賛歌」。
私と著者はほぼ同年代。もちろん元祖ウルトラシリーズを(熱狂して)見て育った世代だ。しかし、私が成田享デザイン、高山良策造型の真価を思い知ったのは、後年、東急ハンズに買い物に言ったときのことだ。
模型売り場のショーケース。ダースベイダーをはじめとしたスターウォーズシリーズやエイリアン、ETといったミニチュアが並ぶ中、ひときわ、というか圧倒的に造型的にキャラが立っていたのはカネゴン、ガラモン、バルタン星人といったウルトラ怪獣たちだった。その存在感は明らかに他を圧していた。細部を排したミニチュアだったから、特に形態的パワーの違いがあからさまになっていたのかもしれない。
本書はそのへんの感覚を微にいり細にわたって、特撮マニアである著者が語り尽くした同好の士にはこたえられない好事家本だ。私にはやはりQ、マン、セブンの元祖三部作が興味深かった。ウルトラマンの模様のデザインと桑田次郎のエイトマンのデザインとの類似性の指摘などはわが意を得たりという気分にさせられた。いまやその絵柄の後継者もほとんどいないが、桑田次郎の絵の独自性先進性はいくら強調してもし足りない。
他にも、ウルトラセブンの「八つ裂き光輪」のルーツをタツノコプロのアニメ「宇宙エース」に求めるところなど、当たっているかどうかはともかく、リアルタイムに見た世代としてはニヤニヤさせていただいた。
「帰ってきたウルトラマン」以降の昭和のシリーズは私は見ていない。思い入れがないせいか、やはり成田享がはなれてしまったからなのか、紹介されている怪獣たちのデザインは元祖三部作に比べて格段に落ちる。ウルトラファミリーたちのデザインも角がついたりゴテゴテするばかりでチープきわまりない。
それが「ティガ」以降、平成になってからのシリーズは面目を一新する。成田享デザインを見て育った世代が最前線になることで旧シリーズに比肩する造型が生まれてきたというわけだ。もしかしたら成田享デザインは日本にとってすごい財産なのかもしれない。
*
著者の小林晋一郎氏はは思い入れが強烈なせいか、日本の(成田享の)怪獣デザインの独自性、屹立性をハリウッド映画などと比較して、しつこいほど強調する。しかし、それ以前の海外のアートでも見るべきものはもちろんある。
たとえば、左上は1940年代のスペースオペラ『生け捕りカーライル』シリーズの挿絵でエド・エムシュウィラーという画家が描いた宇宙生物たちだ。どうです?ウルトラQっぽいではないですか。
左下は有名なエド・カーティアの『星間生物圏』(1951年)。こちらはウルトラセブンっぽい。というより現在のハリウッド映画のクリーチャーたちがカーティアデザインの影響を強くうけているのがよくわかる。
(参考『図説異星人―野田SFコレクション』)