75

 

 

 

「エエぇぇぇーーーーーーーーーーっっ??!!」

 

 

葛城邸、食後の憩いのひととき。

楽しいお茶(&お酒♪)の時間の静寂を引き裂きまくって轟いたのは、惣流アスカ・ラングレー嬢の悲鳴混じりの叫び。

叫んだ拍子にガタンと勢い良く立ち上がったため、椅子がガッターン!と後ろに倒れる。

 

そのすぐ側で、麦茶をコップから、ペンギンらしからぬ器用さで飲んでいたペンペンは、慌てふためいて、向かいのレイの膝の上へと避難する。

さすがに動物だけあって、最も安全な場所がどこだか、よく分かっているようである。

 

飼い主であるミサトの膝は、普段は安全なのだが、彼女が酔っぱらってくると、その安全性も信頼できなくなってくる。

膝の上から床に振り落とされるなどというのは、まだマシな方で、彼女が泥酔時には、晩酌の相手をしろと絡まれたり、芸をしろと大車輪のごとく振り回されたり、あげくの果てには、気分が悪くなって、こみ上げてきたモノが思わず…。

……。

というわけで、酒を手にしている時は、ミサトの膝には決して上がらない。学習能力の高い温泉ペンギンである。

 

アスカの膝はというと、初対面からして第一印象が最悪だったためか、退化しているはずの野生の勘が「ここには座ってはいけないっ」と激しく警告する。

まだ試したことはないが、これからも試してみたいとは思わない温泉ペンギンである。

 

また、一見、最も安全と思われるシンジの膝には、意外な落とし穴がある。

…そう。

唐突に、アスカの攻撃の巻き添えを食らう時があるのだ。

加えて、ミサトに絡まれる可能性もドン、さらに倍。

この家において、もっとも愛されている証拠であるかもしれないが、代わってもらいたいとは思わない温泉ペンギンである。

 

それに比べて、レイの膝の上は安心だ。

彼女はとても優しい。いつも、とさかのついた頭を優しく撫でてくれるのだ。

おまけに、なんだかあったかくて、いい匂いもする。…ちょっとおマセな温泉ペンギンである。

 

 

閑話休題。

 

 

「修学旅行に行っちゃ、ダメェえ〜っ??!!」 

 

アスカの素っ頓狂な声を聞きながら、シンジは「ああ、やっぱりそうなのか…」と、目の前に座るミサトを見やった。 

使徒がいつ襲来するかわからない以上、作戦部長であるミサトが戦闘待機を命じるのは当然だ。

そう、当然…。

 

 

「そ」

「どうして!」

「戦闘待機だもの」

 

 

しかし、シンジは自分が意外なほど落ち込んでいるのを自覚していた。

過去を顧みれば、行けないことは分かっている。

いや、分かっていた。

でも…

もしかして、行けるってこともあるんじゃないか。

無意識のうちに、そういう思いがあったのかもしれない。

また、自覚はしていても、その事実を目の前に突きつけられた場合とでは、衝撃の度合いも異なるだろう。

 

「そんなの聞いてないわよっ!」

「今、言ったわ」

「誰が決めたのよ!?」

「作戦担当の私が決めたの」

 

アスカは凄い剣幕で迫るが、ミサトは涼しい顔だ。

これは状況不利と察したアスカは、攻め方を変える。

 

「……ひっどぉい、ミサトぉ…こんなに期待してるあたしに、修学旅行行くなだなんて…

 それでも血の通った人間なのぉ?!」

「……ど、どこで覚えたのよ、そんな言い回し」

 

瞳にウソ涙をいっぱい溜め、両拳を握り合わせてさめざめと訴えるアスカの姿に、ミサトはぞぞっと寒いものを感じて汗。

 

「ほら、レイだって残念で残念で仕方ないって顔してるじゃないの…」

「.........」

 

ミサトの隣でペンペンを撫でていたレイは、いきなり話題を振られて、顔を上げてアスカを見た。

……その口には、大判のしょうゆせんべいがくわえられている。

シンジが用意したお茶請けだ。

さきほど、それを一枚手に取り、かじろうとしたところでペンペンが乗っかってきたため、そのまま口にくわえていたのである。

その愛らしくもオマヌケな姿に、アスカ、シンジ、ミサトの三人は唖然として口を開けている。

 

パリン。

 

「(もぐもぐもぐもぐ.........)」

かりっぽりっぱりっ……。

 

聞くからに香ばしそうな音が、静かな室内に弾ける。

 

ご......くん。

 

そして、レイは少し困ったようにシンジを見た。

 

「......ごめんなさい。こういう時、どんな顔をすればいいか分からないの」

「は、はは…」

 

シンジは、何と答えて良いかわからず、ひきつった笑みを浮かべた。

 

「ほ、ほら…レイもああ言ってるわ!」

「そ、そぉ…?」

 

完璧に毒気を抜かれた顔で、気まずい顔を見合わせるアスカとミサト。

こういう時は、互いに深くつっこまないのが、人情というものだろう。

 

 

 

ところで現在、アスカはレイの家に寝室を置いている。

 

アスカがレイと同居すると言い出した時には、シンジもミサトも驚いたものだが、その理由の一つとして、ドイツから届いたアスカの第二弾の荷物が、葛城邸の彼女の部屋には、どうやっても収納不可能な量だったことが挙げられる。

…かくして、綾波家の処女地は、アスカの荷物に大半を占領されることになる。

だが、レイはそんなことをまったく気にした様子はなかったし、むしろそれを歓迎するふしすら見られた。

 

シンジやミサトにしても、このアスカの「変心」は、嬉しい驚きである。

アスカが葛城邸に住み、レイだけが隣に一人ということになれば、彼女が疎外感を感じる可能性がある。

もしかすると、考えすぎかもしれない。

事実、以前のレイであれば、まったく気にしなかったに違いない。

だが、今変わりつつあるレイだからこそ、そういうところを大事にしたいシンジだった。

 

もっとも、2人の生活空間の大半は葛城邸であることは変わらない。

食事をとるのも葛城邸だし、食後の時間を過ごすのも葛城邸においてだ。時間があれば、入浴だってすませてしまう時もある。

また、くちくなったお腹と、風呂上がりのけだるさに、眠りの園に誘われた時は、アスカの部屋はそのままになっていたし、レイがミサトと一緒に寝ることも、珍しいことではなかった。

 

そんなわけで、綾波邸はほとんど「寝るための場所」となっていたが、レイには不満などなかった。

 

 

 

「なに黙りこくってんのよ、シンジ。フォローしなさいよ、あんたバカァ?!

 この程度で、一生に一度しかない中学の修学旅行、棒に振る気ぃ?」(ひそひそ)

「そ、そんなこと言ったって…」(ひそひそ)

「.........?」

「もう一押しよ!ミサトの単純バカを言いくるめるくらい、お茶の子さいさいなんだから」(ひそひそ)

 

 

「…全部、聞こえてるわよ」

 

ミサトは、缶ビールを口に当てたまま、ジト目でアスカを睨んだ。

 

「あ、あぁら、なんのことかしら?」

 

アスカは、ひきつった笑みで誤魔化そうとするが、もう遅い。

ミサトはジトッ…と、しばらくアスカを睨んでいたが、不意に表情を改めて、

 

「…そんなに修学旅行、行きたい?」

 

と訊いた。

 

「行きたい、行きたい!」

 

アスカは即座に反応し、ばしんとテーブルを叩いて身を乗り出す。 

ミサトは、はぐらかすように、ふいっと横を向くと、やはりビール缶を口元に当てたまま、横目でアスカを見る。

 

「…修学旅行って、何日間だったっけ?」

 

当然、そんなことは分かっているだろうに、ミサトはわざわざそう訊く。

 

「5泊よ! 5泊6日!」

「5泊かぁ〜…」

 

目だけで天井を仰ぐと、ミサトは思わせぶりに呟く。

 

「…その半分、2泊3日だけなら、行かせてあげてもいいわよ」

「えぇ〜…2泊3日だけぇ〜?!」

 

「……えええぇっ?!」

「......?」

 

「イヤならいいのよ、アスカ。イ・ヤ・な・ら」

「む、むぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜……………………………………し、仕方ないわね」

「仕方ないぃ〜?」

「わ、わぁ〜い、うれしいなっ、たった半分でも行けて!」

「素直でよろしい」

 

アスカは、敗北感から、ミサトに見えないように「チッ…」と舌打ちした。 

 

「…………あれ、どったの、シンちゃん?」 

 

ミサトは、驚いたように立ち上がって、口を開けたまま固まっているシンジの顔を見やる。

シンジは、ミサトに声をかけられてからも、しばらくぴくりとも動かなかったが、やがてはっと気付いてミサトを見た。

 

「い、いえ…その、修学旅行、行ってもいいんですか?」 

 

いったんは「行けないんだ…」とがっくりしたが、それが当然の結果でもあったから、心は落ち着いていた。

それだけに、ミサトの提案は、まさに寝耳に水。予想外のさらに外。

第一、もし第3新東京市を離れたらどうなる…?

使徒は?

以前の記憶からすれば、浅間山で第八使徒が発見されるのは、まさに修学旅行中のことだったはずだ。

 

「?シンちゃん、行きたくないの?」

「い、いえ…そ、そういうワケじゃありませんけど…。

 …その…念のためにお聞きしますけど、僕たち3人ともですよね?」

「そうよン。…だって、誰か一人だけお留守番、なんてことになったら、置いていかれる子が可哀想じゃない」

「で、でも、もし僕たち全員がここを離れている間に、使徒が来たりしたら…」 

 

ダン! 

 

なおも言い募るシンジに、アスカがもの凄い力でその襟首をひっつかむと、部屋の隅まで引きずっていって、壁に押しつける。

 

 

「アンタ、せっかくミサトが行ってもいいって言ってるんだから、余計なこと言うんじゃないわよぉぉぉぉぉぉっっ!

 行きたくないわけぇ、アンタはっ?!」

「い、いや、そういうわけじゃないんだけど…」

 

 

アスカの剣幕にたじたじになりながらも、シンジは参ったなぁ…と考えていた。

それに…女性陣は三人とも風呂上がりなため、Tシャツ一枚といった刺激的な格好をしている。 

そんなに迫られると、違う意味でも「参る」シンジである。

 

 

 

「…ま、シンジ君の心配ももっともだけどね。一応、対策は考えてあるわ。

 それに…まだ行かせてあげるって決まったわけじゃないし」 

 

ずどどどどどっ……ダン!

 

「どういうことよっ、ミサト!!

 今、2泊3日なら、行ってもいいって…?!」

「『行かせてあげてもいい』…っていったの。まだ、行ってもいいとは言っていないわよン」

 

涼しい顔で言うミサト。

 

「くっ……何か条件があるってワケ」

「ぴんぽぉん♪ さすがはアスカ、察しがいいわね」

 

アスカは、こみ上げる怒りをぐっと抑えながら、炎の燃えさかる瞳を上げた。

 

「……で。 その条件って、なによ」

「それはねぇ…」

 

 

 

 

 

 

 

  


Episode-17「修学旅行へ行こう!(大人たちの都合)」


 

 

76

 

 

 

 

 

前夜 NERV本部発令所

 

 

 

 

「修学旅行?」

 

トポトポトポ…とコーヒーメーカーから注がれる液体が、小さなネコマークの入ったマグカップに注がれていく。

手元のファイルに目を落としたまま、マグカップを取ったリツコは、温かいコーヒーの湯気をあごに当てた。

 

「……こんなご時世に、暢気なものね」

 

あまり気がない調子で答えて、リツコは一口、ブラックのままのコーヒーをすする。

ミサトは、ちらりとリツコの横顔を伺って、あさっての方向を向いた。

 

「こんなご時世だからよ。…せめて、あの子たちには、こんな時くらい羽を伸ばさせてあげたいわ」

 

何気ない口調で言う。

 

パサッ…。

ずず…。

 

………。

 

リツコがファイルをめくる音が数回、響いた。

 

 

 

『試作プラグは弐号機に固定。エントリーテストを開始してください』

 

静かな発令所内には、作業アナウンスだけが流れている。

 

 

 

だが、そこで違和感に気付いたリツコは、マグカップから顔を上げて、ミサトを見上げる。

 

「ちょっと、まさかあなた…あの子たちを行かせるつもりじゃないでしょうね」

 

そのまま、うやむやのうちに済ませてしまいたかったミサトは、「ち…気付かれたか」と、内心の舌打ちを隠しながら、何気ない調子で返答する。

 

「そうよ。 いけない?」

 

できるだけ刺激しないように言ったつもりだったのだが、リツコには通用しなかった。

 

「いけない…って、

 あなたねぇ、ミサト。今がどんな時だか分かっているの?」

「分かってるわよ」

「いつ使徒が攻めてくるかもわからない状況で、チルドレンがここを離れるなんて…許可できるはずないでしょう。

 あの子たちは、戦闘待機中のエヴァのパイロットなのよ?」

 

リツコの言いようにカチンときたミサトは、ムッとした顔で体ごとリツコの方へ向く。

 

「いいじゃないの、5日や6日。これまでだって、訓練スケジュールや実験スケジュールに一週間以上の空きがあったことなんてザラでしょ」

 

実際、戦闘待機とはいっても、シンジたちは通常、学校に通っているわけだし、ミサトの言うとおり、スケジュールがガチガチに詰まっているというようなことはなかった。

 

「それとこれとは、話が別よ」

「どう違うのよ」

「違うったら違うんです!」

「とにかく!

 作戦部長として私が正式に許可します」

 

初めから、ミサトは3人に修学旅行へ行ってもらうつもりだった。

普段、この街に釘付けにされているばかりで、ろくな自由時間もない。

戦闘になれば、体調が悪かろうが、最前線へ出て戦わせなければならない。

そんな過酷な毎日を半強制的にやらせている側の大人としては、たった一度の修学旅行くらい、行かせてやりたいと思うのは当然の心情だ。

 

「ダメよ!

 最悪でも、レイは本部に残してもらいます。

 スケジュールのない日にだって、使徒はやってくるのよ。

 そんな時に、チルドレンが全員出払ってました、じゃ笑い話にもならないわ」

 

ミサトは思わずカッとなった。

 

冗談ではない。

実をいえば、レイにこそ、修学旅行に行ってもらいたいのだ。

この1月余り、彼女と一緒に暮らしてみて、レイがあまりにも無知なことを知った。

いや、専門的な分野に関しては、驚くほど造詣が深いのだが、一般常識的なこと、たとえば、年頃の女の子が知っていてしかるべきことを彼女は全くといっていいほど知らない。

情操教育が、まるでできていないのだ。

 

先日、ふとしたことからミサトは、以前、レイが住んでいたマンションに足を運んだ。

解体寸前の一人の住人もいないコンクリートの建造物。

愕然とした。

レイは、こんなところで今まで暮らしてきたのか。

あの日、シンジがレイを隣に住まわせると言った時の、決然とした瞳を思い出す。

ミサトは恥じた。

これまで、そんなレイの状態すら知らなかった自分を。

そして、怒りを覚えた。

そんな所に住んでいたのは、彼女の責任であるはずはない。

一体、司令や身元引受人であるリツコは、どう思っているのか。

問いつめてやりたいと思った。

碇司令には、シンジのこともあって、一言申し立てたいところもある。

が…それは、止めた。

何故だか、そうした行動は状況を悪化させるような、予感めいたものを覚えたからだ。

とかく、司令には一般論の通用しないことが多く、ミサトは上司でありながら、彼が苦手である。

 

現在、住居の関係上、レイの保護責任はミサトに移っている。

それならば、あえて波風を立てるのは得策ではない。自分の全霊を挙げて、彼女を保護すれば良い。

 

たまには、第3新東京市以外の風景を見せるのは、彼女の感受性を豊かにするだろう。

それでなくとも、同じクラスの仲間や、シンジとアスカとともに旅行をすることは、彼女にとってプラスになりこそすれ、マイナスになることなどあり得ない。

…失語症に陥った、かつての自分が経験したことでもある。

 

「作戦部長として却下します!

 レイはここのところ出撃の連続で、かなり疲れが溜まっています。

 ここらでのリフレッシュが必要とみとめます」

 

きっぱりと、ミサトは言い切った。 

 

それは、技術部か医療部の範疇じゃないの…と思いつつ、リツコは冷たい笑みを浮かべた。

 

「…それじゃあ、シンジ君には残ってもらっていいのね。彼は、第5使徒との戦いから、ほとんど戦っていないのだから」

 

このコチコチ頭がぁ〜っ!

 

ミサトとリツコは、顔を突き合わせてにらみ合った。

 

「それじゃ、意味ないのよ!

 誰か一人が置いてかれたんじゃ、可哀想じゃないの!」

「〜〜〜っ」

「〜〜〜っ」

「〜〜〜っ…」

「〜〜〜っ…」

「……葛城一尉。

 あなた、変わったわね」

「!」

 

不意に、リツコの口調が変わった。

感情のこもっていない瞳が、ミサトを捉える。

 

「以前のあなただったら、決してそんなことを言い出さなかったと思うけど」

「……どういう意味。赤木リツコ博士」

「あら…言わなくては分からない?」

「………」

 

一瞬、切れるほどに張りつめた空気が、二人の間を流れた。

互いに名前で呼び合わないのは、感情が高ぶっている証拠である。

また、職務上の対立があったとき、私情を挟まず、処理する場合の、それは二人の癖だった。

険悪な視線が、宙で交錯する。

聞いてはいけないことを聞いているような気がして、周囲の人間は凍り付いていた。

 

「…まあまあ、二人とも。ちょっと頭を冷やせよ」

 

大胆にも緊張の糸をぷっつんと切って落としたのは、相も変わらずお気楽な加持の声だった。

いつからそこにいたのか、加持は片手を制服のズボンに突っ込んだまま、ひらひらと手を振っている。

 

「どうかな、二人とも。

 …中をとって、アスカたちには日程の半分だけ楽しんでもらうってのは?」

 

半分…?

 

ミサトは、加持の言ったことを頭の中で素早く計算する。

半分でも2泊3日。なんとか妥協できる線だ。

ミサトとしても、2日ということならば、申請はしやすくなる。

 

「ナイス、加持! あんたもたまには良いこと言うじゃない!」

 

ミサトは思わず、普段のいざこざも忘れて、上手いフォローを入れた加持を褒める。

だが、リツコは加持の顔を一瞥しただけで、肩をすくめた。

 

「ダメよ。

 2日だろうが5日だろうが、その間に、もしも使徒が来たらどうなるの」

「だが、可能性は低くなる」

 

ミサトはぐっと言葉に詰まるが、加持は冷たくあしらわれても、気にした様子もない。

 

「あくまで可能性の問題でしょう。

 人類が滅亡した後じゃ、責任を取るどころじゃないのよ?」

「う〜〜〜」

「ふーむ…」

 

ミサトは、何と言い返してやろうかとヤキモキするのだが、いい答えは見つからない。

加持は、相変わらず無精髭の生えたあごを撫でて、天井を見上げたりなんかしている。

 

「要するに、リッちゃんとしては、使徒の攻撃があった場合に、チルドレンがすぐに駆け付けられれば問題はないわけだ」

「……まあ、そういうことね」

 

何かひっかかる物を感じながらも、リツコは頷いた。

それを確認した加持は、得たりとばかりにニヤッと笑う。

そして、なんでもない顔で、とんでもないことを言い出した。

 

「それじゃあ、有事の際にはUNの戦闘機ででも送迎してもらえばいい。

 F16でもF22でも、Su-27でもよりどりみどりだ。

 30分もあれば、第3新東京市まで戻ってこられるだろ」

「な゛っ…」

 

あまりといえばあまりな大胆発言に、リツコは「はうぁっ」と口を開けて固まり、さすがのミサトも、ぽかぁん…と口を開けて茫然としている。

 

「あ、あんた…時々、すごいコト言うわね」

「そ、そんな無茶なこと、できるわけないでしょう。

 大体、どこにそんな馬鹿げたミッションを引き受けてくれる軍がいるっていうの」

 

顔を引きつらせるミサトに、なんとか冷静さを保とうとするリツコ。

だが、加持はそれらをものともせずに、指を一本、立ててみせた。

 

「それがあるんだなぁ。

 沖縄といえば…葛城。いいコネがあるじゃないか」

「へっ…?」

 

加持にウインクされて、一瞬、間抜けな顔で自分を指さすミサト。

しばらく、頭の中の記憶を検索していたミサトは、ぴーんと閃いた。

 

「……ああっ、なるほどねっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

沖縄・新嘉手納港 ドック内オーバー・ザ・レインボウ

 

同 国連軍宿泊施設

 

 

 

 

「ハーックションッ!!」

「どうしました、艦長。お風邪ですか?」

「……いや、妙な寒気がしてな」

「南国とはいえ、夜風には気をつけないといけませんな」

「うむ…」

 

 

 

 

 

再びNERV本部発令所

 

 

 

「全日程、つまり5泊6日の半分、2泊3日が終わった時点で、何もなくとも第3新東京市に帰還。

 有事の際には、国連軍太平洋艦隊が誇る高速戦闘機で送ってもらう。これなら問題あるまい?」

 

加持がリツコにウインクしてみせると、ミサトもうんうんと、したり顔で頷いた。

リツコは、あきれたわ…という風に顔を手で覆って、天井を見上げる。 

 

「…チルドレンの護衛はどうするつもり?

 ココを離れるとなれば、監視態勢にも限界があるわ」

「そこはそれ。一人残って、護衛が分散するよりは効率がいいはずよ」

 

だったら、残ってくれるのが一番いいんだけど…と、リツコはため息をつく。 

 

「そして、お目付役が一人、同行すればカンペキよっ!」

 

ぐぐぅっ…と両拳を握るミサトを横目で見て、リツコはすっかりぬるくなったコーヒーをあおった。

 

「……ミサト。

 あなたまさか、作戦部長まで第3新東京市を離れるなんて、非常識なこと考えてないでしょうね…」

 

ジロリと睨まれて、一瞬、ミサトが石になる。

 

「…や、やぁ〜ねぇ! そ、そんなバカなこと、考えたこともないわよぉっ。

 もうっ、リツコったら何言ってるの…」

 

……考えてたわね、あれは。

 

リツコは、「なぁ〜んのことやら」と笑って誤魔化す、ミサトのこめかみを伝う、一筋の汗を見逃さなかった。

 

「んー…と、それじゃ……マヤちゃんなんかどう?」

「!!」

 

ああっっ……葛城一尉っっっ!!!(キラキラキラキラキラキラキラ…☆)

 

発令所を眺め回したミサトが指名すると、それまで完全に話の外にいると思っていたマヤが、目に星を瞬かせながら、しゅばっと椅子を回して向き直った。

この時、マヤにはミサトが天使のように見えたという。

二週間にも及ぶ、残業残業残業残業残業残業残業残業残業…の毎日。

このところ、ろくに家にも帰っていなければ、洗濯だって満足にできていない。

昼間のお日様を最後に拝んだのは、一体、いつのことだったかしら…。

そんなすさんだ生活に、突然、差し込んだ救いの光…!

ああっ、沖縄、2泊3日旅行!!

 

両手を組み合わせて、すっかり気分は「めんそ〜れ沖縄」、夢見るような瞳で妄想を繰り広げているマヤに、次の瞬間、絶望の一言が下された。

 

「…ダメに決まってるでしょ。

 第一、この子に護衛任務なんて、務まると思う?」

「それもそうか…」

 

ガーーーーーーーーーーーーーーーン!!!!

 

その衝撃は、100万ボルトにも等しかった。

期待させるだけさせておいて、一気に地獄に突き落とされてしまったマヤは、すっかり燃え尽きてしまった様子で、椅子にもたれかかった。

 

そんな……そんな……センパイ…あんまりです(しくしくしくしくしくしく…)。

 

「ん〜…っと、じゃあ他には…」

 

ミサトが口にした瞬間、

 

『オレですオレ!葛城さんっ、オレなら護衛も超オッケーっスよ!』

『俺ですよ俺!やはり護衛には危機判断能力は不可欠でしょうっ!』

『いいえ、私がっ』

『いや、僕が!』

『それはわたしこそがっっ!』

 

…という、鋼鉄をも溶かしそうな、熱い視線が、各所から注がれたのだが。

 

「…言っておくけど。

 発令所のメンバーを連れて行くのは不可能よ。彼らには、仕事が沢山あるんですからね」

 

リツコの先回りした一言が、彼ら全員を床にめり込ませるほど沈ませた。

 

『沢山…って…たくさんって…』

『こ、この上、まだ沢山あるんですか…』

『ああ…私の沖縄が…』

『赤木博士…わたしはあなたを許しませんっ』

 

「う…うー…そ、それじゃあ…えぇ…と」

「みんな暇じゃないのよ。いい加減、あきらめたら?」

 

ことごとく選択肢を潰されたミサトは、指差そうと上げた手のやり場に困りながら、キョロキョロと周囲を見回す。

 

「ああ!」

 

ミサトの発した大声に、そろ〜りと、発令所を忍び足で出かかっていた加持の足が、ぎくりと止まる。

 

きゅぴーん☆

 

「ふっふっふ…かぁじぃ?」

 

福々しい目で、加持を呼ぶミサト。

ぎぎぎ…と軋むような音を立てて振り返った加持は、精一杯の笑顔を向ける。

 

「な、なにかな、葛城…」

「あんた行きなさい。」

 

もはや、至上命令に等しい一言。

 

「……お、俺か?いや、残念だけど、都合が…」

「何言ってんの!あんたが言い出しっぺなんだから、責任取んなさいよ。

 どーせ、暇を持て余してんでしょ!」

「お、おいおい、俺だってちゃんと仕事くらいあるよ…」

「ほ〜お…、どんな仕事がいつ、どこで詰まってるか、ここで言ったんさい。

 いつも、発令所ぶらぶらしてるだけのくせに」

「いや…あのな?…俺もう、有給使い果たしちまってるし…」

「そんなの、あんたの自業自得でしょ。

 大体、子供たちとあんたの給料、どっちが大事だと思ってんの?!」

「…いや…金もないと生活できんしなぁ」

「(ギロリ)」

「わ、わかった…行きます」

 

はぁ……。

 

二人の漫才を見ていたリツコは、疲れたようなため息をついた。

 

「…それはそれとして、ミサト。

 例の実験はどうするつもり。

 言っておくけど、このテストはあなたが催促していたものよ。そのおかげで、みんな何日、徹夜してると思うの?

 いまさら、シンジ君たちが修学旅行だからって延期…というのでは、済まなくてよ」

 

「うっ……」

 

リツコの言葉よりも、発令所全体から寄せられる、半ば怨念のこもった視線の数々に、ミサトは硬直する。

 

「…だ、大丈夫。

 修学旅行は3日後からよ。明日中に準備を済ませて、明後日、一日で実験を行います」

「ふぅん…一日で、すべての実験を完了できるの?

 エントリーテスト、疑似シンクロテスト、シンクロテスト、連動試験、乗機を戻しての個別シンクロテスト…

 全部できたとしても、次の日にはへとへとよ。修学旅行どころじゃないんじゃないかしら」

「な、為せば成るわ…」

「あらそう。

 じゃあ、チルドレンたちの説得と、司令へのスケジュールの申請もあなたに任せるわ。

 それと、言うまでもないことだけど、実験の数値が芳しくなければ、追試よ。

 …修学旅行はお預けね」

 

しれっと冷たくあしらって、もはや他人事のように、リツコは新しいコーヒーをカップに注ぎ始めた。

 

オニ……。

 

ミサトは、チルドレンたち(主にアスカ)の説得と、司令の許可に至る困難さを思いやって、深々と、途方に暮れたようなため息をついた。

 

 

 

…以上が、ここまでに至る経緯である。

 

なお、アスカの説得方法については、ミサトが(嫌々ながら)加持を拝み倒して、授けてもらった策であった。

初めから「2泊3日だけ」と言ったならば、アスカは決して納得しなかったであろう。

まして、修学旅行前日にハード極まる実験に付き合わせる…などという条件を飲むはずもない。

そこで、あらかじめ「修学旅行には行かせない」と伝えておいて、「条件付きで行かせてもいい」という妥協案を提示する方法を採った。

案の定、アスカは意地になって、その妥協案を飲む。

 

ちなみに、ミサト、リツコともに気付かなかったが、加持自身も同様の手口によって、堂々と沖縄行きを手にしている。

ああした提案をすれば、ミサトが自分を指名するだろうことは、分かっていた。

こうして、加持は「嫌々ながら」沖縄行きに、シンジたちの護衛役として同行することとなった。

そんなことはおくびにも出さないが、彼自身、沖縄行きには理由があるのだった。

 

 

 

 

77

 

 

 

修学旅行前日

 

第1回 ダブル・エントリー試験

 

被験者 惣流アスカ・ラングレー

同 碇シンジ

 

 

 

 

「まさか、またコイツをあたしの弐号機に乗せることになるなんて…ぶつぶつ…

 我慢、がまんよアスカ…。これもすべては修学旅行のため…ぶつぶつ…」

 

「あの…アスカ。 ぶつぶつ言って、どうしたの?」 

 

まるで、念仏でも唱えているかのように、目の前で揺れているアスカの髪を見ながら、シンジは彼女の後ろから声をかけた。

 

「…だぁっ、うるさいわね!

 精神集中してるんだから、あんたは黙ってなさいよ!」

「……はい」

 

完全に据わっているアスカの目を見たシンジは、冷や汗を垂らしながら、「黙っているのが吉」と判断し、大人しく口をつぐんだ。

 

 

弐号機、試作複座エントリープラグ内。

それぞれ、赤と青のプラグスーツに身を包んだアスカとシンジが、前後のパイロット・シートに体を固定している。

 

前後といっても、アスカの乗る前席は通常どおりだが、シンジが腰を落ち着かせているのは、いかにも取って付けたような補助席といった雰囲気だ。

その後席は、将来的にはダミーシステム用の大容量ディスクが搭載されるであろうスペースを流用して設置されているが、実際にそれを一度、目にしているはずのシンジも気付かなかった。

また、システム用ディスクドライブの席下への移設に関しては、主として予算不足のために、今回は見送られている。

そのため、後席のパイロット・シートは、普段、座り慣れている初号機の操縦席と比べて、いささか心許ない作りをしている。

もっとも、第6使徒戦で、アスカのシートの裏にへばりついていたことを思えば、かなりマシな方だろう。

 

なお、後席のコントロール系は非常時を除いてオミットされており(そうでないと、操作が混乱する)、その代わりに、同調用のレバーが、前席から繋がる形で配置されている。

 

「…いい、シンジ!

 これはすべて修学旅行のためなんだからね。

 いい数値を出さなかったら、承知しないわよ!」

「わ、わかってる」

 

両手の指をポキポキと鳴らして、闘志を燃やしているアスカの剣幕に押されながらも、シンジは頷いた。

 

シンジとしても、まさか再び弐号機に乗ることになるとは思わなかったのである。

 

 

  

 

「ええーーーーっ、『だぶる・えんとりぃ』?!

 …ナニよ、それはぁ」

 

「条件」を聞いた途端に、嫌な顔になったアスカに、ミサトは指を一本、ピッと立ててみせる。

 

「読んで字のごとくよ。アスカとシンちゃんが、一緒に弐号機にエントリーするの。

 『オーバー・ザ・レインボウ』の時と同じように」

「なんでそんなコトしなきゃなんないのよ?!」

「…二人には、言ってなかったわね。

 あの戦闘の際、アスカとシンジ君が同調して、使徒の口を開けさせたでしょう?

 その時、弐号機のシンクロ率、スゴイことになってたのよ」

「エ?!」

「…そうなんですか?」

「ええ。二人とも、乗ってて分からなかった?」

「いえ、別に特には…実際にコントロールしていたのは、アスカですし」

 

前半は嘘だった。

実際には、シンジはシンクロ率が急上昇したのを体感している。

嫌でも分かるようになってしまったのだ。

あの、最期の戦い以来…。

 

アスカの意識と同調した瞬間、見たことのない女性の顔が脳裏を一瞬過ぎり、響き合うように神経が研ぎ澄まされ、弐号機の出力が上がったのを覚えている。

それはどこか、第14使徒との戦いのさなかで感じた、おぼろげな母ユイの感じと似ていた気がする。

 

言葉の後半に関しては本当だ。

シンジが弐号機とシンクロできるといっても、それはあくまでアスカのシンクロがあってのことで、彼女が搭乗していなければ、シンクロどころか起動すらさせることはできないだろう。

第6使徒との戦いで、一時的にコントロールを代わったこともあったが、それも、アスカがシンクロしていたからである。

 

「……それって、シンジが一緒に乗ったから、シンクロ率がアップしたってこと?」

「そうともいえるし、そうでないとも言えるわね。リツコは、相乗効果って分析してたわ」

「ソウジョウコウカ…?」

「バカねぇ、アンタ。

 要するに、複数の原因が重なって、個々に得られる結果以上になることよ」

「そう。つまり、初号機にシンジ君とアスカが乗っても、同様の効果が得られるかもしれない。

 或いは、レイとシンちゃんでも、アスカとレイでもいいんだけどね」

「はいはいは〜い!それならアタシ、レイとがいいな」

 

得たりとばかりに、元気良く右手を上げてみせるアスカ。

自分の名前を呼ばれたレイが、チラリとアスカを見る。

 

「あたしの弐号機に男は乗せたくな〜い。ばっちぃもん」

 

最後のセリフを思いっきり嫌そうな顔で吐き捨てて、ぺいぺい、と手を振る。

 

「ば、ばっちぃ…って。

 アスカ、そりゃ言い過ぎだわよ。……シンジ君、泣いてるわよ」

 

余りにも正直なアスカの言いっぷりに、ミサトは汗ジト。

ちらりと、机の上で「ずぅ〜ん…」と重くなっているシンジの肩を見やる。

 

「エェ〜っ、だって考えてもみてよ!いっしょのLCL吸ったり吐いたりして、呼吸すんのよ?!

 ばっちぃジャン!」

「う゛、う゛ーん…それは確かに、言われてみれば…」

「……いーんです……どーせ、僕はバイキンです…」

「じょ、冗談よ、冗談。シンジ君。

 アスカ、悪いけど今回は弐号機にシンジ君と搭乗してちょうだい。

 試作プラグの規格が合うのは、弐号機だけなのよ」

「私は.....」

「レイは、今回は単独で定期テストをやってもらうわ」

「ハイ」

 

わずかに残念そうに、レイは頷いた。

 

「ええぇ〜…なんでレイとじゃいけないの?!」

「仕方ないのよ。比較できるデータがあるのは、実際に先日ダブル・エントリーをしたアスカとシンジ君なんだもの。

 …それに、3人で相互にテストするとしたら、一体、何回やらなきゃいけないと思う?

 一つのテストにつき3回…じゃない、イニシアティブを考慮すると6回ね。

 一人あたり6×4=24回…さらに個別のシンクロテストが加わると…

 修学旅行。…終わっちゃうわよ?」

 

指折り数えはじめるミサトに、アスカはついに腹をくくった。

 

「ぐっ……

 わ、わかったわよ!やりゃいいんでしょ、やりゃあ!

 もう、こうなったら、ダブルでもトリプルでも、なんでもやってやるわよ!!」

 

 

 

「…二人とも、準備はいい?」

 

プラグ内を映すモニターには、いつもと違い、二人分の数値が並んでいる。

 

『あ、はい。いつでもどうぞ』

「アスカ?」

『…さっさと始めてよ。まだまだ、先は長いんだから!』

 

実験を統括するリツコの問い掛けに、モニターの中から二人が答えた。

実験の量の多さを皮肉るアスカの言葉に、しかし、横で見ているミサトはそ知らぬふりをしている。

 

「…ご機嫌ななめね、アスカ」

「やる気満々でしょ? 張り切ってるのよ。修学旅行がかかってるから♪」

 

振り返ったリツコの皮肉もさらりとかわして、ミサトは、モニターの中のシンジの顔を見た。

開き直って、鼻息の荒いアスカに比して、シンジの方はいつも通り、変わらぬ表情で後席に座っている。

 

「…シンジくん、あまり乗り気じゃないんだって?」

 

ミサトの斜め後ろにいた加持が、そんなミサトの顔を覗き込む。

 

「そういうわけじゃないわ。ここを離れるのが、不安みたい

 さかんに、使徒襲来を気にしてたわ。

 …心配性なのよ、あの子」

 

あなたが楽観的すぎるのよと、ミサトの呟きを耳にしたリツコが、胸中で愚痴をこぼす。

一方の加持は、「ほぅ…」と、なんとなくあごを撫でている。

 

ミサトとしては、そうしたシンジの心配は、最初の戦い、それに続く第4使徒との苦闘がトラウマになっているのではないかと心配している。

そして、その原因の一端を作ってしまった側の人間として、責任を感じてもいた。

無論、ミサトは知る由もなかったが、シンジの躊躇は、実際に起こりうる未来に対しての根拠ある不安が元なのであるが。 

 

「とにかく、すべてはこの実験の結果次第ね。

 さっきやった疑似プラグでのテストでは、芳しい成果が出ていないようだけど…」

 

ミサトは、む〜…とリツコの背中を睨む。

 

だが、リツコも、言うほどこの実験に興味がないわけではない。

いや、むしろミサトよりも遙かに興味がある部分もある。

それは、シンジだ。

彼のデータは、ここ最近ろくに取れていない。

初号機がリペア中だったのだから仕方のないことだが、戦闘中に得られたデータとしては、第5使徒とのものが最後で、リツコとしては不満がある。

DNA判定までして、シンジが本人であることは確認済みだが、それでも、一科学者として、E計画担当責任者として、彼の変化には、看過し得ないものがあるのだった。

 

「では、実験を開始します」 

 

リツコの指示に従って、マヤをはじめとするオペレーターたちが、エヴァ弐号機の起動シークエンスを進めていく。

キータッチの音が、静かな緊張感に満ちた第7ケイジ直轄制御室に響き渡る。

 

「エントリープラグ注水」

 

 

 

エヴァ弐号機 エントリープラグ内

 

 

足下から、LCLが満たされていく。

時間節約のため、前の疑似プラグ試験から半乾きのままのプラグスーツがLCLに浸されていく様子に、アスカはため息をついた。

 

視界が一瞬、黄色くなったのを確認して、シンジは肺に残った空気を押し出した。

入れ替わりに、LCLが肺を満たす。

気管を液体が出入りする感覚は、未だに気持ちの良いものではない。

 

ふと、シンジは、目の前を漂うアスカの栗色の髪を見る。

………。

 

「(確かに…この前は意識してなかったけど。アスカと同じLCLを吸ってるんだよな…)」

 

思わず、昨夜のアスカの指摘を思い出し、なんとなく赤面しそうになるシンジ。

 

「(ギロッ)」

「(びくうっ)」

 

すると、まるでその考えを見透かしたように、アスカが前席から振り返り、鋭いにらみを利かせた。

 

「…ヘンなこと、考えんじゃないわよ」

 

頬を膨らませ、半眼で睨むアスカの形相に、シンジはこくこくと頷き返した。

 

 

 

そんな二人のやり取りをよそに、起動準備は進む。

 

「主電源接続」

「全回路動力伝達」

「第二次コンタクトに入ります」

「A10神経接続開始…」

 

 

その時、エントリープラグ内のシンジは、わずかに身じろぎした。

 

先ほど、エミュレートプラグでのシンクロテストでは感じられなかった、自分たち以外の存在を感じる。

 

やっぱり…そうなのか。

 

 

「思考形態は日本語を基礎原則としてフィックス」

「初期コンタクト、問題なし」

「双方向回線、開きます」

 

 

『エヴァンゲリオン弐号機、起動!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

およそ3時間後…。

 

「二人とも、お疲れさま。連動試験はここまでにしましょう」

 

リツコは、手元のファイルとモニターの数値を見比べて、サラサラとファイルに追記する。

 

『つ……次は、なんなの』

 

モニターから、わずかに掠れたアスカの声がする。

 

…立て続けに5回の起動、シンクロ実験をやらされ、畳みかけるように1時間にわたる連動実験をこなし、さすがのアスカも疲れを隠せない。

肉体的な疲労は少なくても、精神にかかる負担は相当なものだ。

 

ほとんど意地になっているアスカに、リツコは手にした鉛筆を振って見せた。

 

「複座での実験はこれで終りね。あとは、それぞれの乗機に戻っての通常のシンクロテストをやってもらうわ」

 

それを聞いたアスカは、モニターの中で勢い良く顔を上げた。

やたっ、とやる気を取り戻す。

 

『もう、シンジ乗せなくていいの?

 …それじゃ、LCLちゃんと入れ替えてねっ。

 あ、洗浄も忘れないでやってよ!』

 

嬉々として、リツコに注文を付けるアスカに、ミサトは顔を引きつらせた。

 

「む、むごいわ…」

 

モニターの中で、シンジが涙の海に溺れている。

 

「ま、まさに、父親の入浴後に風呂のお湯を入れ替えさせる娘のごとし…ですね」

 

その様子を見ていたマヤが、こちらも引きつった顔で、こめかみに汗を伝わらせる。

 

「あ、哀れね…」

 

さすがのリツコも、不憫なシンジの扱いに涙を誘われていた。

 

立ち直れるかしら…あの子。

 

 

 

 

「ん〜……っっと」

 

ぐっと背伸びをしたミサトは、ふと思いついたように、マヤとモニターを覗き込んでいるリツコを見やる。

 

「あれ…そういえば、レイは?」

 

モニターの1つを見ると、先ほどまで弐号機の実験と平行して進められていた、零号機による定期試験は、作業が終了し、エントリープラグも排出されている。

 

「…あの子は定期試験が終了したから、先に上がらせたわ」

 

リツコが、モニターから顔も上げずに答える。

先ほどまでの実験の結果が、よほど気になっているのだろう。

 

「ふーん…」

 

適当に相づちを打って、辺りを見回したミサトは、後ろにいたはずのお調子者の姿が消えているのに気付いた。

やれやれと、ため息をつくミサト。

退屈になって、いつの間にか出ていったようだ。

 

「えーと。…あたし、ちょっちお手洗いに」

「…さっさと済ませてきなさいよ」

「ハイハイ」

 

 

 

 

78

 

 

第3エレベーター前

 

 

空調の音だけが、静かに聞こえている。

 

第7ケイジでは、引き続き実験が続けられているためもあり、この時間、この空間は、ほぼ無人に等しかった。

 

カツ…。

 

乾いた靴音が、無人の廊下に、やけに大きく響き渡る。

 

プラグスーツ姿のレイは、目を上げて…そこに、碇ゲンドウの姿を見出した。

 

一瞬…ほんの一瞬、細い体が硬直すると、レイの顔から、全ての表情が消えた。

否、レイにはそうすることしかできなかった。

透明度の低いサングラスの向こうから、ゲンドウの瞳が見つめている。

 

「調子はどうだ。レイ」

 

その声がレイに伝えたのは、乾いた印象だけだった。

 

「......ハイ。問題ありません」

 

以前のままに、抑揚のない声で答えながら、ゲンドウから向けられる視線が、もはや凍り付くような恐怖でしかないことに、レイは愕然としていた。

かつて…そう、ほんの一月前、温かいと感じた言葉が、今は砂のように脆かった。

たった数時間前まで、そこにあると信じていた絆が、目の前にはなかった。

 

碇ゲンドウの見つめる先。

その先に、自分の姿が映っていないことが、否応なしに分かってしまう。

彼が求めるもの。

自分に求められる役割が、厳然とそびえている。

 

第5使徒と戦う前のレイであれば、気づき得なかったであろう事…。

ゲンドウが変わったのではない。

自分が変わったのだ。

それは、ある種、身を切るような痛みをレイにもたらした。

 

「ターミナルドグマだ。…意味は分かるな」

「..................ハイ」

 

レイの返答は、ゲンドウが考えていたよりも、1秒ほど遅かった。

 

ゲンドウの言葉がもたらすものが、氷針となって、レイを刺したのだ。

その言葉は、レイを1月前の自分と対面させる。

冷たく、凍り付いた瞳をした自分が、ゲンドウにダブって見えた。

 

ゲンドウは、レイを一瞥すると、背を向けて歩き出した。

レイがついてこないことなど、微塵も思っていない。

 

レイは、わずかに遅れて後を追いながら、心を凍り付かせるよりほかなかった。

そうしなければ、すべてを見透かされてしまう気がした。

もはや、彼の意のままにならぬ、自分を。

 

足取りは、ひどく重かった。

一歩、歩みを進めるたびに、これまで進み来た道を戻っていく気がする。

こころに満ちていた温かいものが、消えていくような気がする。

 

表情を凍り付かせたその裏で、レイは助けを求めていた。

 

アスカ......

碇君......!

 

だが、声は決して届かない。

二人は、実験の最中だ。

 

…よしんば、この場にアスカとシンジがいたとしても、ゲンドウの正式な命令を拒否することは不可能だっただろう。

 

これまで、第5使徒戦後、レイには必ず、シンジ或いはアスカが張り付いていた。

それはシンジの意志だったのだが、今回のことは、それに業を煮やしたゲンドウが、ダブル・エントリーの実験を逆手にとって、レイを孤立させたという見方もできるかもしれない。

 

いずれにしても、司令たるゲンドウの命令は絶対である。

正当な理由でもない限り、逆らうことなど不可能なのだ。

それを思えば、今回のやり方は、穏便な方だったともいえる。

 

ともかくこれは、シンジが現在の道を歩き始めて以来、初めての敗北だった。

後に、シンジがこの事実を知ったとき、少年は知ることになる。

レイの理不尽な運命を取り除くためには、父との対決が、不可避であることを。

 

 

ターミナルドグマへと降りるエレベーターの中で…

レイは、これから向き合わなくてはならないであろう「現実」に、身震いしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人影が、壁を背に立っていた。

 

その先にいるのが、碇ゲンドウと綾波レイであることに気付いた瞬間、人影は歩みを止めていた。

息を殺し、聴覚を研ぎ澄ます。

声は聞こえない。

仕方なく、人影は顔の角度を微妙に変え、通路の向こうをのぞき見た。

通路の影になっているため、あちらからは見えないはずだ。

 

こちら側からだと、レイは背を向けており、ゲンドウの顔ははっきりと見えた。

人影は唇を読む。

 

ゲンドウは、わずかな単語だけを残して、背を向けた。

しばらく遅れて、レイが続く。

 

た・ー・み・な・る・ど・ぐ・ま…

 

「…ターミナルドグマ?」

 

口には出さずに呟いて、ミサトは静かに踵を返した。

 

 

 

79

 

 

 

 

濃紺の空を茜に染め上げた綺麗な夕焼けが、街を包んでいた。

 

昼間の灼熱の熱気を孕んだアスファルトから、水蒸気のような「もや」が揺らめいている。

消えゆく陽炎を目の端に捉えていたトウジは、ふと目を上げた。

  

「……お。

 なんや、イインチョやんか」

「あ……鈴原…」

 

朱に染まった商店街を背景に、お下げ髪の少女が、驚いたように目を見開いた。

 

トウジは、右手に持っていたコンビニの袋を肩に担ぐと、オッスと左手を上げてみせる。

ヒカリは、わずかに顔を俯かせると、両手で買い物袋を前に持ち、「オッス…」と小さく返した。

 

「買いモンか?」

 

ネギやらレトルトの箱らしき物が詰まった買い物袋を目にして、トウジが言う。

見れば分かるのだが、ヒカリは律儀に答えた。

 

「うん……明日からしばらく家空けちゃうでしょ?

 作り置きできる物以外は、冷凍食品とか、簡単に作れるもの買い込んでおかないといけないから…」

 

聞かれてもいないことを答える。

 

「…飯の支度は、イインチョが全部やっとんのか?」

「う、うん…ウチ、お母さんいないから…

 あは、コダマお姉ちゃんも、ノゾミも家事はてんでダメなのよね。

 いつも、練習しなさいって、言ってるんだけど…」

 

トウジは、片方の眉だけを下げて、ヒカリのそばかすの浮いた顔を見やった。

 

「そうか。イインチョのところも、オカンがおらへんのやったな…」

「鈴原も…?」

「ああ。ウチはお父ンにお爺ィ、それに妹のユキだけや。

 …男所帯やけんど、味にはうるさいんやで。

 ワシが作ったモンがマズイと、容赦なくドツカれるんや」

「す、鈴原がお料理するの?」

「お。バカにしよったな、イインチョ。みくびったらアカンで。

 ワシの作ったカレーだけは、お父ンもお爺ィも、文句は言われへんのや!」

「へ、へぇ…」

 

何気ない会話。

ここで出会ったのは、ほんの偶然。

それなのに、今まで知らなかったトウジのことを今日はこんなにも知った。

それだけで、ヒカリは意味もなく嬉しかった。

 

顔までも染める夕陽のせいだろうか。

或いは、夕闇の迫る直前の不思議な空気のせいか、普段なら考えられないほど穏やかな気分で、ヒカリは、拳を固めて力説するトウジの横顔を見つめる。

 

「…ま、ユキが帰ってくれば、もっと違うんやろけどな。

 男3人がかりでも、小学生の味付けにかなわんのやから…

 やっぱ、男は料理じゃ、オンナには勝てへんねやろか」

「あら、でも碇君はお料理、上手じゃない。

 女の私でも、舌を巻くくらい」

「…シンジは特別や。

 アイツは、料理の鉄人やで」

「うふふ…そうね」

 

ヒカリは笑って…会話が途切れた。

昼間の熱を含んだ生暖かい風が、半袖のヒカリの腕を撫でた。

 

「妹さん…早く退院できるといいね」

「ありがとさん」

 

トウジは素直に、静かな笑みを浮かべた。

その静かさに、ヒカリはドキリとする。

普段のトウジからは想像できない、大人っぽい表情だった。

 

トウジは、わずかに表情を改めると、何かを思いだしたように、ヒカリに向き直る。

 

「……せや。

 イインチョ。ちょっと聞きたいことがあるねん」

「えっ…」

「あのな…」

「う、うん」

「………」

「………」

 

ドキ、ドキ、ドキ、ドキ……。

 

心臓の音が、早鐘のように鳴っているのが、自分でも分かる。

顔が赤くなっているんじゃないかと、ヒカリは心配になった。

だが、心を落ち着かせようとすればするほど、頬が熱くなる。鼓動が早くなる。

 

「………」

「…あぁ、やっぱり………なんでもあらへん」

「そ、そう…」

 

肩透かしをくったヒカリは、ホッとしたような、残念なような、微妙な表情をした。

トウジは、それには気付かないようで、いつものニカッという笑いを口元に刻む。

 

「じゃあ、ワシはこれで」

「あ!鈴原…」

「?なんや」

「あ……………」

 

思わず呼び止めてしまったが、後がまったく続かない。

さきほどの鼓動がぶり返してきたヒカリは、自分でも分からないままに、怒ったような口調で言っていた。

 

「あ、明日、いつもみたいに遅刻しないでよね」

「わかっとるワ」

 

肩をすくめるトウジ。

 

「い、いつも、先生に怒られるの、私なんだからね」

「へー、へー。そら、悪かったのう」

 

んばぁ〜っと舌を出して、トウジはヒカリを挑発するように顔の横で両手を動かした。

 

「な、なによその返事は!

 鈴原っ、待ちなさいよ!」

「…ほな、サイナラー!」

 

ぺんぺん、とコンビニの袋を持った手で、ジャージの尻を叩く真似をして、トウジは小走りに去っていく。

 

「もうっ、バカトウジ!!」

 

ヒカリは、それまでの緊張をすべてぶつけるように、思い切り、そう叫んでいた。

 

「また明日な、イインチョ!」

「………………もうっ」

 

会えば、最後には喧嘩にしかならない。

それが、自分たちなのだ。

 

自分から、わざわざそのきっかけを作っているような気もする。

 

バカだな、私…。

 

思ってはみるものの、そんなやり取りさえ、幸せに感じてしまう今のヒカリだった。

 

 

 

 

80 

 

 

 

どさっ。

 

一日中、人気の無かった葛城邸に、ようやく住人が戻ってきた。

彼らは、電気がついたのを確認したかどうか、靴を脱ぐのも面倒くさいという緩慢な足取りで玄関を上がると、普段の3倍は時間をかけて、のたのたとリビングにたどり着く。

それだけで重労働です…というように、だらりと両腕を下げた少年少女は、先を争うように、ソファに沈没した。 

 

「……疲れたぁ……」

「……だっらしないわね……バカシンジ」

 

糸の切れた操り人形のように、へたり込んだまま、シンジは背もたれに頭をのせて、天井を仰いだ。

偉そうなことを言っているアスカも、首に力が入らないのか、両手両足を投げ出してうなだれたまま、ぼそぼそと呟いた。

 

カチ………………カチ………………カチ………………

 

 

互いに喋る気力もないのか、壁に掛けた時計の針が時を刻む音だけが流れる。

家人の帰宅を感知したホームシステムが、オートでエア・コンディショナーの風を運んできた。

 

 

カチ………………カチ………………カチ………………

 

 

「……綾波…は……?」

「……この時間なら……もう隣で寝てんでしょ……」

「……そ…か……」

 

ふと、いつも横にいるはずの、もう一人の少女がいないことを思い出したシンジが、スローモーションのように、アスカの方へ首を傾ける。

「先に上がった」と、リツコから聞いていたアスカは、億劫そうに答えた。

 

 

カチ………………カチ………………カチ………………

 

 

「……でも、よかったね……」

「……なぁ…にが……?」

「……修学旅行…これで、いけるでしょ……」

「……ぁあ…あとは…明日…空港に行くだけ……シンジ…ちゃんと、起こしなさいよ…」

「……ぅん……」

 

 

カチ………………カチ………………カチ………………

 

カチ………………カチ………………カチ………………

 

 

「……どうして……」

「……ぁ…ん……?」

「……どうして…弐号機……乗せてくれた…の…?」

「……決まってんじゃん……修学旅行のため…よ」

「……そっか……」

「……そうよ……」

「……でも……うれしかった」

「…………」

「…………」

「…………」

「……うれしかった……」

「……ばっか…みたい……」

 

シンジは、小さな微笑みを浮かべていた。

 

眠りの園に半分、足を突っ込んでいる二人は、とうとう力尽きたように、ゆっくりとソファの中央部にずり落ちた。

互いの肩と頭で支え合うような態勢になるが、もはや体を戻すのも億劫なのか、アスカは身じろぎしない。

 

さら……。

 

シンジの顔をアスカの柔らかい髪がくすぐった。

 

「……ぁ………………アスカのにおいがする……」

「………ぶ…ぁか……何が…においよ……ヘンタイじゃない…の……」

「……そういう…言い方………ひどい……よ……………………………すー……」

「……くぅ……すー………すー……」

 

  

やがて、静かな2つの寝息が、ソファで重なった。

 

 

 

 

 

NERV本部発令所

 

 

 

ギッ…。 

 

「ふう……」

 

トントンと、データ用紙を揃えたリツコは、椅子の背に寄りかかり、天井を仰いだ。

シンジやアスカほどではないにしろ、一日中、実験の指揮を執っていたリツコも、かなり疲れていた。

目や肩に疲労を感じる。

 

「なぁによ、リツコ……まだ不満なワケ? あの子たちの修学旅行行き」 

 

自分の椅子に、前後逆に腰掛け、冷めかけのコーヒーをちびりちびりやっていたミサトが、リツコの背を見やる。

発令所内には、彼女らを含め、必要最小限の人員しか残っていない。

連日、激務が続いていたが、今日の実験を終え、ようやく半数を定時に帰宅させることができた。

…もっとも、初号機の修復作業にあたっているスタッフは、未だに作業を続けていたが。

 

リツコは、キュッと音を鳴らして椅子を半回転させると、ミサトに向き直った。

 

「違うわよ。…もう、それはあきらめたわ」

「そ。…へへ、これでリツコのお墨付きね」

 

にひひ、と満足そうに笑うミサトに、リツコは肩をすくめた。

 

「まさか、本当に一日で終わるとは思わなかったわ」

「なぁに言ってんの。実際に監督してたのは、リツコじゃない」

「それは、そうなんだけれどね。

 …正直、驚いたわ。今日の結果には」

 

言いつつ、リツコは手元のファイルに目を落とした。

弐号機本体にプラグを挿入してのシンクロ・データだけが、他と異なる数値を示している。

 

疑似プラグでのダブル・エントリー実験…シンクロ率68%。

 

「疑似プラグでの実験と、試作プラグでの実験の数値が違いすぎるわ」 

 

試作プラグでの弐号機本体によるダブル・エントリー実験…シンクロ率92%。

92%!

アスカのこれまでの最高数値が82%であるから、これは驚異的な数値といえる。

だが、疑似プラグでの実験では、むしろ平均値よりも低いのだ。

この際、シンジは「異物」とみなされている可能性が高い。

それらから導き出される可能性は…。

 

「…おそらく、鍵はA10神経ね」

「A10神経…」

 

A10神経。

脳のドーパミン神経の一つ。

「記憶」や「認知」、「運動の遂行」といった高次の脳機能、そして「不安」や「恐れ」、「幸福感」や「快感」などの情動と関係が深いと言われている。

 

「…確かぁ、A10神経って、『愛情』を司る神経とも言われてるんだったわよねぇ…

 ということはぁ…」

 

むふっ、とミサトは笑いを漏らした。

 

「シンちゃんの愛が、アスカに届いたってことぉ?」

 

リツコは、「あきれたわ…」という顔で、ジロリと親友の顔を見やった。

 

「バカねぇ……マンガじゃあるまいし」

 

そう答えて、リツコは不意に表情を改めた。

シンジのシンクロ率の高さ。

そして、今回のダブル・エントリーでの実験結果。

そこから、一つの仮設が導き出される。

 

…彼は、エヴァ本来のシステムを、シンクロの仕組みを理解しているのかしら。

 

「…もう一つ、驚くことがあるわ」

 

そう言うと、リツコはプリントアウトの一部をミサトの前に回した。

 

「これ…アスカのシンクロテストの結果ね。通常のプラグに戻しての…」

 

シンクロ率は、83%。

 

「あら、アスカ凄いじゃない。また、自己記録更新ね」

 

果たして、凄いのはアスカかしら…。

リツコは自問する。

 

「ね、ね。これって、やっぱりシンジ君と一緒に乗ったのが、関係してるのかしら」

「……まだ、はっきりしたことは言えないけれど。

 可能性としては、あり得るわね」

「なにか、コツでもあるのかしらね…。

 アスカとしては、複雑なところね」

「………」

 

エヴァの操縦に「コツ」などというものはあり得ない。

強いて言うならば、操縦者の精神によって大きく左右されるということだ。

 

ダブル・エントリーで得られた結果、安定を示すハーモニクスの数値が、アスカの平均値よりもかなり上回っている。

弐号機からすれば、単なる「補助要因」、ヘタをすれば「異物」と捉えられておかしくないシンジが、なぜこれほど高い安定性をもたらしうるのか。

 

それは、やはり……コアの存在に気付いているからなのか。

 

「……まあ、実験としては、興味深い結果を得られたわ。

 でも、この運用方法は、あまり実戦向きではないわね」

「なぜ?」

「単純に、数の問題よ。

 3体のエヴァが完調ならば、それぞれ搭乗して3機で戦った方が、効率がいいわ」

 

リツコの言には一理ある。

どちらかといえば、限定戦向きの運用法といえるだろう。

現在、初号機がオーバーホール直前にあるが、これが戦列に戻れば、シンジは初号機に乗った方が戦術の幅も広がる。

 

「…ま。

 実戦はともかく、訓練の一環としては、考えてみる余地はあるわね。

 ダブル・エントリーをこなすことで、個人のシンクロ率が上がるのならば、試してみる価値はあるわ」

「……アスカのプライドが許すかしらね」

「……プライドじゃ、エヴァは動かないわ」

 

リツコは笑ったが、ミサトの言葉には、かなり深い意味が込められていた。

 

「さてと……私もそろそろ帰らせてもらうわ。今日はさすがに疲れたし…」

「あら、もう歳なんじゃない、ミサト?」

「……よぉく言うわ。人のこと言えるの?」

「ふふふふ…」

「んっふっふっふ…」

 

「……たまには、家帰ってゆっくり休みなさいよ、リツコ」

「忠告は、ありがたく受け取っておくわ」

「……じゃ、ね」

「お疲れさま」

 

 

 

 

 

 

レイは、暗闇の中を歩いていた。

 

 

行くべき場所が見つからない。

 

LCLの水槽…。

揺れる自分…。

 

 

「アナタ、ダレ…」

 

「アナタ、ダレ…」

 

「アナタ、ダレ…」

 

「アナタ、ダレ…」

 

「アナタ、ダレ…」

 

「アナタ、ダレ…」

 

「アナタ、ダレ…」

 

「アナタ、ダレ…」

 

 

 

 

ワタシ.........

ワタシ.........

ワタシハ.........

 

 

 

上昇を続けるエレベーター内は、照明の光に照らされていたが、レイには暗闇しか見えなかった。

 

 

チ……ン。

 

 

不意に、到着階を告げる電子音が響く。

 

…目的の階には、まだ少しある。

 

レイは、重い視線を上げて、エレベーターのドアを見つめた。

 

 

プシュ。

 

 

「.........!」

 

「あら………」

 

少女の良く知る人物が、目の前で手を振っていた。

 

その顔を見た瞬間…

 

レイは、今まで抱いたことのない衝動に駆られていた。

 

 

 

……逃げ出してしまいたかった。

 

一体、何から逃げるというのだろう。

 

ただ、この場所にいることが辛かった。

 

今の自分を見られることが、悲しかった。

 

レイは、俯き……

 

 

 

 

 

 

「…………レイ」

 

 

 

 

 

だが、ミサトの声は、限りなく優しかった。

 

逃げ出すよりも強い衝動が、レイの背中を押す。

 

温かい、声…。

 

 

 

 

プシッ…。

 

 

 

 

レイの背後で、エレベーターのドアが閉じた。

 

無人のエレベーターが、上昇を続けていく。

 

「............」

 

ミサトの優しい眼差しに見つめられて、レイは戸惑った。

 

先に上がったはずの自分が、なぜこんな時間まで、ここにいるのか。

 

聞かれれば、答えられない。

 

でも……この人に、嘘はつきたくない。

 

どうすれば…。

 

どうすれば…。

 

 

 

……だが、ミサトはいつまで経っても、何も聞かなかった。

 

ずっと、そこでレイが来るのを待っていたかのように、手を差し伸べる。

 

温かい腕が、レイの体を包んだ。

 

「……ほら。 そんな顔してたら、シンちゃんやアスカが心配するわ」

「.........」

「……帰りましょ。 私たちの、家へ」

「.........」

 

ミサトの胸に顔を埋めたまま、レイはただ、頷くことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……夜の闇に、自動販売機の光だけが、ぼんやりとした視界を浮かび上がらせている。

 

男は、小銭を投入して、いつも嗜んでいる銘柄のボタンを押すと、落ちてきたシガレットのケースを拾い上げた。

早速、包みを破ると、スーツの懐から年代物のジッポーを取りだし、ゆっくりとした手つきで火をつける。

 

………。

 

赤い小さな灯がともり、紫煙が漂った。

 

「3日か…」

 

一服する男の横で、細身のシガレットを選んだ女が、やはり落ちてきたケースを拾い上げる。

 

男は、まるでその声が聞こえていないかのように、無言のままだ。

ただ、ゆっくりと紫煙をくゆらせる。

 

「……その間、少しでも保安諜報部が手薄になるのは好都合だ」

 

女は、独り言を呟くように、男の可聴域ぎりぎりの声を発する。

 

「予定通り、その間に決行する。貴方も、その方が都合がいいだろう」

 

男は、吸い差しのシガレットをアスファルトの上に放り、丹念に火をもみ消した。

 

「では、手はず通りに…」

 

女は、シガレット・ケースをジャケットのポケットに仕舞うと、ただの通りすがりのように、停めてあった車に乗り込んだ。

静かなアイドリング音が上がり、やがて排気音が遠ざかっていく。

 

「…ご苦労なこって」

 

それを見送って、男は人ごとのように呟いた。

彼女は彼の同僚であり、同じ任務を帯びた者同士である。

だが、彼にとって、それは味方と同義ではない。

 

「さて、どうするかな…」

 

ふと、シンジとミサトの顔を脳裏に思い浮かべて、加持は、ぽりぽりと頬をかいた。

 

 

 

 

 

 

 

様々な思惑が交錯し……第壱中学校修学旅行の前夜は更けていった。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

エヴァンゲリオンHおまけショート(17.5話)

 

「ただいま〜…あら?」

レイとしっかり手を繋いだミサトが玄関をくぐると、まだ居間の明かりが点いていた。

もうとっくに二人は寝ているだろうと、小声で帰宅を告げたミサトは小首を傾げた。

そして、すぐ側に寄り添うレイと顔を見合わせる。

「シンちゃん、アスカ?」

リビングに入ったミサトが見つけたのは、仲良くヨダレを垂らしながらソファに沈没する二人の姿だった。

「あちゃー…ま、仕方ないか」

ぽりぽりと頬を掻くミサトの横で、レイは静かに腰を落とし、二人の寝顔をじっと見つめた。

安心しきったように眠る二人。

その顔を見ていたレイの顔に、穏やかな表情が戻る。

無意識のうちに、二人の手に掌を重ねているレイを見やって、ミサトは静かに微笑んだ。

「このままじゃ風邪ひいちゃうわね。明日…じゃなくてもう今日か、修学旅行なんだものね。

レイ、二人を運ぶの手伝ってくれる?」

レイはミサトを見上げ、こくりと頷いた。

その後、二人をそれぞれの部屋に運んだ二人は、いつものようにミサトの部屋で眠りについた。

「んが…むにゃむにゃ…」

レイは、例によって寝相の悪いミサトの腕と胸の間にしっかりと挟まれて、それでも、その腕の中から逃れようとは思わなかった。

ミサトに抱かれた温もりが、今日という悪夢を忘れさせてくれた。

 

Episode18へつづく。

 

 

 


■次回予告 

 

めんそ〜れ、沖縄。

 

修学旅行で訪れた沖縄にも、セカンドインパクトの傷痕は、まざまざと残されていた。

本島が半分沈んだ海岸で、シンジたちは何を思うのか…。

 

…ところで、修学旅行にはお約束が付きもの。

初日から、さっそくその「お約束」をやらかしてしまったのは…。

 

次回、新世紀エヴァンゲリオンH Episode-18「沖縄でポン」。

 

 

Lead to NEXT Episode...

Back to Before Episode...

 


 ご意見・ご感想はこちらまで

(updete 2001/03/13)