81

 

 

 

 

綾波レイは困っていた。

 

「.........」

 

今の彼女にとって、世界は90度、真横に傾いている。

 

なんだか分からない物で一杯になった棚も、

以前と比べれば、だいぶ堆積物の少なくなった畳の床も、

ここだけは、いっこうに片付く様子のない古めかした机も、

ビール缶と化粧水のビンとペットボトルが一緒くたに上に載ったステレオスピーカーも、

今どきめずらしい、金属製の“ばち”がベルをかき鳴らすタイプの目覚まし時計も…

 

目覚まし時計......

......午前5時50分。

 

普段と異なった光景を何となく眺めていたレイは、当初の目的を思い出した。

ボーっとしている間に5分が経過してしまっている。

 

「ミサトさん......」

 

レイは、彼女に90度の世界を強制している人物、葛城ミサトの名前を呼ぶ。

 

「んごー…ぐが………んふ」

 

…返ってきたのは、豪快なイビキだけであった。

 

「ミサトさん......」

 

めげずに、レイは再度、呼びかける。

再度といっても、すでに10数回目なのであるが。 

 

「んふふ〜……すべすべぇ…」

「.........」

 

綾波レイは、非常に困っていた。

首をがっちりと極められているため、動こうにも動けないのだ。

前屈みになって両手両膝を畳につく…という不自然な格好のまま、レイは下から力いっぱいミサトに抱きしめられている。

なぜに、そのような体勢になっているかといえば、起こそうとして声をかけたところ、寝ぼけたミサトに捕まったのである。

振りほどこうとすればできないこともない…かもしれないのだが、合わせたほっぺにすりすりと頬ずりされると、なんとなく切り出せない。

 

「ミサトさん......朝」

 

困ったので、非常手段に出ることにした。

わずかに自由になる右手を動かして、ミサトのわきのあたりをまさぐる。

 

わさわさ。

 

しかし、相変わらず首の角度は90度を保ったままなので、視界が確保できない。

大体、この辺だろうと当たりをつけたところは、彼女の豊満な胸であった。

 

むにむに。

 

「あうん」

 

なにやら、みょーな声を上げて、いやんいやんとのけぞるミサト。

 

「??」

 

予想したのと違う反応に、レイは首を傾げる(すでに90度傾がっているが)。

おかしい。

 

碇君は、これで笑い出したのに......。

 

もにもに。

 

「あふん」

 

もみもみ。

 

「あはん」

 

………。

結局、ミサトが薄目を開けたのは、さらに5分が経過してからだった。

 

「ミサトさん......朝」

 

ようやく、ヘッドロックからはなんとか抜け出したレイ。

ミサトは、まだとろーんとした目で、焦点が合っていない。

 

「ん〜……眠ぅい…」

「ミサトさん......」

「ん〜……レイ…もちょっとだけ、寝かせて…ぁあふ」

「ミサトさん......時間」

「ん〜…何時ぃ?」

「午前5時55分」 

「なぁんだ…まだ、早いじゃない……きのう遅かったの…」

「今日......」

「ふぁ?」

 

その時、コンコンとふすまをノックする音が聞こえて、男が入ってきた。

 

「レイちゃん。起きたかい、葛城は……って、

 …苦労してるみたいだな」

 

こく。

 

今度は腰にがっちりとしがみつかれたレイを見て、男―――加持はため息をついた。

 

「ミサトさん......今日......修学旅行」

「ふぁ?修学………」

 

レイのお腹に顔を埋めたまま、そこまで呟いたミサトは、あーっ!と声を上げて、布団から跳ね起きた。

 

「ちょ、ちょっと、レイ?!」

「ハイ」

 

答えるレイは、すでにきっちり制服姿だ。

ちなみに、第壱中学校の沖縄修学旅行の集合時間は午前6時に空港ロビーである。

 

「い、今……ごっ…5時55分?!」

「やっと起きたか。…しっかし、相変わらずの寝相だなぁ、葛城」

「は?……ぎゃあーっ!!か、か、か、加持ぃ??!!」

 

三度、叫び声を上げたミサトは、ぐわばっと毛布をひっ掴んで、ほとんどはだけられたネグリジェの胸元まで引っ張り上げる。

 

「ど、ど、どうしてアンタがここにいんのよっ!!」

「どうしてって、俺は護衛役として同行するんだが…。

 …決めたのは、葛城だろう?」

 

今さら、恥ずかしがる間柄でもあるまいに…と思っているのかどうか、加持はポリポリと頭を掻きながら言う。

 

「そ、そうだったわ……んなこと言ってる場合じゃない!

 加持、アンタなんでもっと早く来ないのよ?!」

 

ミサトがジロリと睨むと、加持はハッハッハと爽やかに笑って見せた。

 

「俺も寝坊した口でね。いやぁ、まいったまいった」

「この、役立たずーッ!!」

 

ガコッ!

 

抜く手も見せずに閃いたミサトの手からぶん投げられた目覚まし時計が、加持の顔面を直撃する。

 

「イテテテ……おーい、ひどいな」

 

加持があごをさすりながら起き上がった時には、すでにミサトは着替えを終えていた。

恐るべき早業である。

 

「レイ、アスカとシンジ君は?」

「......まだ寝てます」

「どうにかして叩き起こして」

「ハイ」

「おいおい、どうするんだ?」

「…決まってんでしょ。集合時間に遅れたぐらいで、修学旅行は終わったりしないのよ…」

 

ほとんど鬼気迫るミサトの形相に、加持はたら〜りと汗をたらす。

 

「まさか…」

 

そのまさかだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「うーん……ねむーい。なによぉ…」

「ふぁ……なんですか、ミサトさん…」

「.........」

 

10分後。

早朝のマンション前で、PRVのV6エンジンを何度もふかし、近所迷惑をまき散らしながら、アルピーヌ・ルノーA310改がコンフォート・マンション敷地から飛び出した。

半分、眠りの園に足を突っ込んでいたアスカとシンジは、後付けされたフルハーネスのシートベルトで無理矢理固定された後部座席のシートに叩きつけられる。

いかにミサトが改修を加えたとはいえ、乗車定員を完全にオーバーしたルノーの車内は、狭いというよりきつい。

シンジとアスカをほとんど抱えるようにして後席に沈み込んでいた加持は、長身が災いして、天井に思いっきり頭をぶつけた。

 

「ぅいっ…!」

「ぐぇっ…」

「.........」

「あたっ…くぅ〜〜…お、おい、葛城、お手柔らかに、な?」

「…しゃべると舌噛むわよ」

 

スコン。

 

思い起こせば数カ月前、シンジを最初に迎えに行った時と同じ型のレイバンのサングラスをかけたミサトは、ギアを一段上げた。

 

「……。

 ふっふっふっふ…久しぶりに、腕が鳴るわ」

「か、葛城?」

 

ひじょーに、イヤな予感を覚えた加持は、ミサトの運転する車に久しぶりに乗ってしまったことを激しく後悔した。

チラリと両横を見ると、すでにシンジとアスカは気絶している。

 

タラ……。

 

「行くわよーーーーっ!!!」

「おわあっ」

 

 

そして、恐怖の早朝ドライブが始まった。

 

 

 

 

 

 

 

  


 

 

Episode-18「蒼い海を前に」

He recognized them. : growth


 

 

 

 

 

82

 

 

 

目が覚める瞬間っていうのは、どこか不思議な感じだ…。

 

どこか、違う場所から帰ってくるような、みょうに現実感がぶり返してホッとするような、そんな感じがする。

 

昔の僕は、目が覚めるたびに、タメ息をついていたような気がする。

なぜかはわからない。

たぶん、目が覚めて、朝が始まっても、「どうせ、いいことなんか何もない」と、醒めた心のどこかで、そう思っていたからかもしれない。

実際、次の日の何かを楽しみに眠りにつくということは、全然といっていいほどなかった。

 

ただ、今ごろになって思い出すのは、まだ母さんがいた時のことだ。

温かくって。

そのころは、目を覚ますのが楽しみだったような気もする。

僕の記憶にある母さんは、いつも優しく微笑んでいてくれたから…。

 

…といっても、そうだった、と思いこんでいるだけのことかもしれない。

まだ、3歳だったころのことだもの…。

 

最近の僕は、目を覚ますと、朝の献立とお弁当のおかずのことを考えていることが多い。

そう考えると、何かおかしくって、笑ってしまう。

 

お弁当か…。

あれ、そういえば、今日は朝ご飯はどうするんだっけ…。

今日は修学旅行で、お弁当はいらないはずだけど。

そうだ、ミサトさん、僕がいない間、ご飯の支度はだいじょうぶかな…。

 

 

 

 

「ん…」

 

目を開けると、綾波が、ちょっと心配そうな顔で僕を覗き込んでいた。

ぼんやりしている時に母さんのことを思い出していたせいか、一瞬、その表情が重なってドキリとした。

 

「碇君......平気?」

「う、うん…大丈夫」

 

反射的に答えながら、ここは一体、どこだろうと辺りを見回す。

車の天蓋と、窓からは見慣れない景色が見えた。

 

まだ半分、夢の中にいるようで、なんとなくぼーっとして考えがまとまらない。

寝起きは割といい方だと思っていたんだけどな…。

後で聞いたら、ミサトさんの運転する車で、空港まで10数分のドライブを終えた直後だったということで、

 

「いやはや、車に乗って冷や汗かいたのなんて、久しぶりだよ」

 

加持さんは、無理矢理、狭い車内に乗っていたのがこたえたのか、しきりに肩を回しながら苦笑いしていた。

それは、かなり控えめな表現だったと思う…。

現に、加持さんをはさんで僕の反対側に座っていたアスカは、目を覚ました(僕と同じで気絶していたらしい)とたん、「キモチワルイ…」といって、青ざめていた。

顔色は普段と変わりない綾波も、足取りはどこかフラフラして頼りなかった。

僕は、ほとんど最初から気を失っていたみたいで、ちょっとふらついたけれど、それくらいで済んだのはラッキーだったみたいだ。

アスカにそう言ったら、頭を叩かれた。

 

痛いよ…。

そう言い返そうと思ったのだけど、アスカがあんまり気分が悪そうにしているので、黙って背中をさすってあげたら、少しびっくりしていた。

そうしているアスカは、驚くほどしおらしくて、普段からは想像できないくらい小さく見えた。

よくよく考えれば、昨日は朝から、さんざんハードな実験を夜中までこなしたのだから、その翌朝に、ミサトさんの運転でシェイクされたのでは、いくら運動神経のいいアスカだって、たまらないに違いなかった。

僕がアスカより平気なのは、昨日、ほとんどサポートに回っていたからだろう。

そうやって、アスカの背中をさすっていると、僕は先日来のドキドキがぶり返したようで、なんというか、その、やましい気持ちがして落ち着かなかった。

女の子の体って、どうしてこんなにあたたかくて、やわらかいんだろう…。

そんなことを考えながら。

 

 

 

車を降りて顔を上げると、空はどんよりと曇っていた。

もっとも、そのおかげで僕たちは、修学旅行の飛行機に乗りはぐれずにすんだらしい。

コウロジョウノテンコウフジュン…のために、予定が大幅に遅れているのだと、加持さんが説明してくれた。

 

セカンドインパクト以来、日本には、以前あった四季がなくなり、夏がその大部分を占めるに至った。

それは主に、地軸の移動と、南半球の地殻変動による海流の移動にともなうものらしい。

そのため、日本周辺の気候図も大きな変化が見られ、熱帯性低気圧、つまり台風の発生する場所やその進路にも多大なる影響を及ぼしたという…。

 

これは、みんな学校の授業の受け売りだ。

つまり、きょう僕たちが修学旅行に置いていかれなくて済んだのも、現在、近畿地方を北上中の台風のおかげというわけらしい。

台風、と聞いて、アスカはゲッという顔をしたけれど、目的地である沖縄の天気は晴れだということを聞くと、ほっとしていた。

そっか…そういえば、二日目のスクーバダイビングを楽しみにしてたっけ。

僕は…あんまり、楽しみじゃないんだけど。

 

「…ごめんね。まさか寝坊するなんて」

 

一足先に、手続きを済ませてきてくれたらしいミサトさんは、しきりに恐縮していた。

あんまり申し訳なさそうにしているので、なんだかこっちの方が悪い気がしてくる。

起きられなかったのは、僕たちも同じなんだし…だからさ、アスカ、そ、そんなに睨まなくてもいいんじゃないかな。

 

「(ギロリ)」

「〜〜〜〜〜っ」

「……もう、ずぇ〜〜〜ったい、ミサトの車には乗らないんだから!」

「……うぅ。アスカのいけず」

「知らないわよっ」

 

そう言い捨てると、アスカは自分の荷物を持って、どすどすと肩をいからせて、空港の中に入っていった。

 

「アスカ、気を付けて行って来るのよ!」

 

というミサトさんの声も、聞こえていなかったみたいだった。

 

「やぁれやれ……ご機嫌ななめね、アスカは。

 でも、っかしいなあ、手加減したつもりだったんだけど…アスカ運動神経はいいはずよねぇ」

「あれで手加減してたのか…」

「ミサトさん、そういう問題じゃないです」

「.........」

 

この人は、本当に分かっているのかな…と思ったけど、深く突っ込むのはやめておいた。

じゃあ、どういう問題なの?と聞き返されたら、たぶん、答えに困っただろうから。

 

「さて、と。あなたたちも、そろそろ行った方がいいわよ。ロビーにみんな集まっていたから」

 

ミサトさんはそう言うと、足下にまとめて置いてあった僕たちの荷物を手渡してくれた。

荷物は、おとといのうちから揃えていたもので、揃えておかなかったら大変だったろうと、その時思った。

つくづく、準備は早めにしておくものだと、僕はなんだか真面目に考えていた。

 

「じゃね、レイ。風邪なんか引かないようにね」

「ハイ......」

「楽しんで来なくちゃ、ダメよ」

「......?ハイ」

 

ミサトさんは、綾波の制服の襟元を直してやりながら、あれこれと言い聞かせていた。

それは、なんていうか、ミサトさんは気を悪くするかもしれないけれど、全然知らない人が見たら、若い母親と娘…そんな風に見えたかも知れない。

少なくとも、血も繋がっていない、ただの職場の上司と部下…という風には、誰も思わないだろう。

僕は、素直に頷きを繰り返している綾波を見ていた。 

 

綾波に旅行バッグを持たせると、ミサトさんは不意に表情を変えて、なんとなく切り出しづらそうに咳払いをした。

視線を合わせないようにしながら、加持さんの方を向く。

 

「アンタ…護衛役なんだから、しっかりやってよね。不本意だけど、他に人がいないから任せるのよ」

「ハイハイ。不祥、加持リョウジ、微力を尽くしますです」

 

加持さんが敬礼してみせると、ミサトさんは、すごくおっかない顔で睨んでいた。 

僕は、ちらりと横目で加持さんの表情をうかがってみた。

加持さんは、軽く腕を組んで、いつものように小さく笑っていた。

それは、不真面目なようにも見えたし、わざとそう装うことで、ミサトさんをからかっているようにも見えた。

 

「そうだ、みやげ何がいい?」

「……いらないわよ、あんたのお土産なんて」

「そう言うなよ。…そう、泡盛なんてどうだ?」

「泡盛っ?!」

 

ミサトさんの反応が、あまりにも自分に正直でおかしかったので、僕はぷっと吹き出した。

ミサトさんは少し頬を赤らめて、コホンとわざとらしく咳払いを繰り返した。

 

「あんたね、遊びに行くんじゃないのよ」

「はいはい」

「くっくく…」

「な、なによぉ…シンジ君まで」

「いえ、すみません…ぷっ」

 

ミサトさんは耳まで赤くなって、ぷくっと頬をふくらませた。

僕と加持さんは顔を見合わせ、こらえきれずに笑い出した。

綾波だけは、よく分からないみたいで、きょとんとしていた。

 

ミサトさんは、本当に加持さんが苦手みたいだった。

僕の知らない、学生時代のミサトさんと加持さんも、こんな風だったのかな。

 

僕は、男女のことなんて、まるで分からない子供だった。

 

「頼んだわよ」

「ああ、分かってるさ」

 

だから、二人が短くそう言い交わした時、その間に通った空気に気付かなかった。

ミサトさんを見る加持さんの、その瞳に込められた、小さな真摯なものに気付かなかった。

 

「じゃ、シンジ君もね、気を付けて」

「あっ、はい」

 

ミサトさんは、ポンと僕の肩に手を置くと、優しく笑ってくれた。

 

「いってらっしゃい」

 

その時、僕は答えることを忘れていた。

ミサトさんの言葉と、その表情が、ある記憶と重なっていた。

 

『いってらっしゃい』

 

それは、デジャ・ヴュというには、あまりにも生々しい記憶だった。

深い、深い藍色の瞳が、僕を見つめている。

鼻腔をくすぐる、血の臭い。鉄の味。

 

あの時の光景が頭を過ぎって、僕は急に不安になった。

 

「あ…ミサトさん!」

 

返事のない僕に、ちょっと首を傾げて、ルノーのドアに手をかけたミサトさんの手を、僕は思わず握りしめていた。

 

「?」

「あ……」

「どうしたの、シンジ君」

「いえ…」

 

呼び止めてはみたものの、何を言っていいのか分からなかった。

それは、根拠のない不安で、話せるはずもなかった。

 

「あの……僕がいなくても、ご飯、ちゃんと食べてくださいね」

「あ、あははー、だ、だいじょうぶよ、シンちゃん」

「これは、シンジ君に一本取られたな、葛城」

「うっさい」

 

二人のやり取りを聞きながら、僕は考えていた。

確かに、第八使徒は、この修学旅行中に発見されるだろう。

だけど、それはまだ、ほんの胎児の状態のはずだ。

だから、不安はない。

ないはずだ。

でも…。 

 

「あの…やっぱり、僕、残りましょうか」

 

絶対ということはあり得ない。

僕がそう言うと、ミサトさんと加持さん、それに綾波まで驚いた顔をしていた。

 

「う〜〜ん…あたしって、そんなに信用ない、シンジ君?」

 

情けない顔で、ミサトさんは言った。

 

「い、いえ、そんなんじゃ…」

 

僕はあわてて首を振った。

半分、演技だったのかもしれない。ミサトさんは笑うと、僕の背中をばしんと叩いた。

 

「それじゃ、今さらそんなこと言わない、言わない!

 しっかり楽しんで来なさい。修学旅行だって、立派な学生の本分よ。

 ほら、レイに不安そうな顔させちゃ駄目じゃない。

 アスカだって、今日のために昨日、あんなに頑張ったんだから、がっかりさせちゃダメよ」

 

僕は、小さく揺れている綾波の紅い瞳を見て、もう一度、ミサトさんを見た。

僕は頷いた。

 

「はい。わかりました」

 

ミサトさんは、「よし」という顔で、満足げに頷いた。

 

「でも、無理しないでください。

 気を付けてください…ミサトさん」

 

僕は、ミサトさんの手を離す前に、そう言っていた。

たぶん、みんな怪訝な顔をしたと思う。

確かに、それは唐突だったと思うけれど、その時の僕には、そう言うしかなかった。 

 

その予感ともいえない不安が、半ば当たっていたことを知るのは、もっと後になってからだ。

 

 

 

 

83

 

 

 

 

『JANボーイング217便は天候不順のため現在、搭乗を見合わせて…』

 

『AL3の加藤様、加藤様…お電話が入っております。至急、国際線カウンターまで…』

 

『BA118便ロンドン行きは、まもなくのご搭乗となります…』

 

 

ミサトさんのルノーを見送って、空港内に入ると、別世界に来たようにひんやりとした空気を感じた。

早朝とはいえ、第三新東京市の気温はきょうも30度近く、むしむしとした暑さから解放されて、僕たちは一息ついた。

こもったようなアナウンスの響く、わずかなざわめきに満ちた空港内の雰囲気はどこか独特で、僕は意味もなく、辺りを見回していた。

 

入ってすぐに、加持さんは、

「搭乗までぶらぶらしてくる」

と言ってロビーとは反対側の方へ歩き出した。

 

僕が、どこへ? と聞くと、「ヤボ用さ」と、ひらひらと手を振った。

その時、僕は、加持さんが護衛として同行するということを思い出した。

今回の旅行にともなって、加持さん以外にも、護衛と監視を兼ねた保安諜報部の人たちが多数、同行するらしい。

たぶん、その打ち合わせにでもいったのかも知れない。

第三新東京市にいる間は、NERVという厚い壁に守られているけれど、一歩外に出れば、僕たちはかなり微妙な立場にある。

普段、あまり意識しないから、つい忘れてしまいがちだけれど。

…保護され、監視されているという、そのことを。

 

視線を感じて振り向くと、手荷物の入ったカバンを提げた綾波が、僕を見ていた。

制服姿でそこにたたずむ綾波は、違和感なく一人の女子中学生だった。

 

「行こうか」

「ええ......」

 

僕はなんだか嬉しくて、綾波を促してロビーに向かった。 

キャスターのついた旅行カバンが、ごろごろごろ…と音を鳴らしているのが、なんだかいつもと違う感じだった。

 

 

 

国内線の出発ロビーは、国際線の方と比べて、ずいぶん小ぢんまりしていた。

僕が制服姿の一団を見つけるのと同時くらいのタイミングで、「おっ!」という声が聞こえた。

 

「遅かったやないか、シンジ!来ないのかと思ったで」

 

白いカッターシャツに黒いズボン、めったに見かけない制服姿のトウジが、大きく手を振っていた。

とにかく、一発でトウジとわかるところがすごい。

普段のジャージ姿よりずっと大人びていて、その方がかなり格好いいんじゃないかと思った。

 

「まったく…乗る飛行機が遅れたから良かったようなもんの、完全にチコクやで、チコク!」

 

これは罰金もンやな…と笑うトウジに、僕は照れ笑いを浮かべながら近づいていった。

NERV関係の事情で遅刻することはあっても、寝坊して遅刻するというのは初めてのことだったから、ちょっと恥ずかしかった。

 

「…偉そうに何言ってるのよ、鈴原ッ!」

 

すると、後ろの長椅子に腰掛けていた洞木さんが、立ち上がってトウジの耳を引っ張った。 

 

「イテテテテッ…な、なにすんねんイインチョ!」

「鈴原だってしっかり遅刻してきたんじゃないの。昨日、あれほど言ったのに!」

「カ、カンニンやで! 昨日はコウフンして、よう寝れんかったんや」

「もうっ」

「ヒカリ、急に立ち上がんないでよぉ…」

「あっ、ごめんアスカ」

 

先に来ていたアスカは、洞木さんの肩に寄りかかってうたた寝をしていたらしく、まだ眠そうな目をこすりながら文句を言っている。

 

「…まったく…なんでこないキョウボウなんじゃ、ウチのイインチョは」

「なんですって…もう許さないわよ。鈴原、待ちなさい!」

「おおっと! もう、耳はカンニンや」

 

また始まった洞木さんとトウジの追いかけっこに、クラスのみんなから笑い声が上がった。

僕もいつの間にか笑っている。 隣を見ると、綾波も小さく笑みを浮かべているような気がした。

 

「アホらし…」

 

瞼を半開きにしたアスカは、言ってカクンッと頭を垂れた。

 

「おはよう、碇くん」

「よお、碇。今日は重役出勤か?」

「オッス」

「あ、お、おはよう、みんな」

 

僕たちのクラス、2−Aは、疎開などでだいぶ数を減らしていたけれど、それでも男女あわせて22人いる。

制服姿の輪の中に入ると、色々な人が声をかけてくれた。

こんなことは、昔の自分からは考えられないことで、僕はなんとなく、くすぐったいものを感じながら、でも嬉しくて、あいさつを返した。

 

「あー…これで全員揃いましたかな。

 碇君、綾波さん、搭乗にはまだかかるようですから、手荷物以外の荷物を預けてきなさい」

 

担任の歴史の先生が、メガネのずれを几帳面に直しながら、そう言った。

 

「あっ、ハイ。

 貸して、綾波。一緒に持っていくよ」

「......ありがとう」

 

荷物を受け取ると、綾波は自然な動作で輪の中に入って、アスカの隣に腰を落ち着けた。

まだ、綾波に声をかけるクラスメートは少なかったけれど、あいさつをされれば、綾波はきちんと返していた。

それがそっけなく感じられるのは、まだ慣れていないせいだろう。

女子の中には、まだ偏見を持っている人もいるみたいだけど、その様子を見ていると、それは時間が解決してくれるような気がした。

 

 

 

 

 

 

カウンターに荷物を預けて戻ってくると、アスカは綾波の肩に頭を預けて、完全に熟睡していた。

よっぽど疲れてたんだな、アスカ…。

僕は、自分でも気が付かないうちに、その無防備な寝顔に見とれていた。

 

「ヨッ…なにじっと見てんだ、シンジ?」

「うわっ」

 

突然、背後から声をかけられて、僕は飛び上がりそうになった。

胸を押さえながら振り向くと、カメラを片手に持ったケンスケが立っていた。

 

「おんやぁ〜」

 

ケンスケは、僕の視線の先を目で追って、にやりと笑った。

そ、その目はなんだよ、ケンスケ。

 

「誰を見てたんだ。 綾波か?…それとも惣流かぁ?」

「なっ、ち…」

 

ケンスケはメガネをキラリと光らせると、僕に詰め寄った。

詰め寄られた僕は、急速に顔に血が上るのがわかった。

 

「いやぁ〜…碇はお目が高い。

 やっぱり絵になるもんなぁ、あの二人のツーショットは。

 ほら、見てみろよ。普段、気の強い惣流の意外な寝顔!こりゃヒット間違いなし。

 男連中、みんな見とれてるぜ」

 

アスカばかり見ていたから気が付かなかったけど、確かに、クラスの男子はチラチラと、あるいは凝視するように、アスカを見ていた。

 

「………」

「…碇」

「………え?」

「いま、お前、すごいおっかない顔してるぞ。 気付いてる?」

「えっ?!」

 

僕は慌てて、両手で顔を撫でた。

お、おっかない顔なんてしてたかな…。

 

「なるほどねぇ〜…」

 

ケンスケは、やけに悟ったような顔で、うんうん頷いている。

 

「な、なんだよ」

「いやはや、そうか」

「だ、だから、なにがさ!」

「写真撮っておこうと思ったけど、やっぱりやめとくよ。

 …ヘタしたら、碇にぶん殴られそうだからな」

「な゛…」

 

僕は再度、真っ赤になっていたと思う。

頭がかあっ、となってしまって、よく覚えていない。

 

「ち、違うよっ、べ、別にそんなんじゃ…!」

「碇って、結構、顔に出やすいタイプだな」

「だから違うってば!」

「いやいや…」

「ケンスケ…!」

「……」

「……!」

 

 

 

 

 

 

 

さんざんケンスケにからかわれて、僕は出発前から疲れた気分で、ロビーの一角にある椅子の一つに腰を下ろした。

 

「はぁ…」

「ふぅ…」

 

「えっ」

「あっ」

 

一緒に隣からもため息が聞こえて、顔を上げると、同じように疲れたような顔の洞木さんと目があった。

 

「お、おはよう、碇君」

「えっ」

「あいさつ…まだ、してなかったでしょ?」

「あ、うん…そうだね。 おはよう」

 

なんとなく気まずくて、僕たちは顔を見合わせて「あはは…」と笑いあった。

どことなく、乾いた笑いだった。

 

「……また、やっちゃった」

「トウジのこと?」

 

周りに誰もいないのを確かめてから聞くと、洞木さんは僕をちらっと見て、恥ずかしそうに頷いた。

 

「だめなのよ、私。…いつも、普通に話しかけようとするんだけど、どうしても、その、上がっちゃって。

 気が付くと、喧嘩になってるの。

 どうしてこうなっちゃうのかしら…はぁ」

「うーん…」

 

僕は考え込んだ。

もちろん、考えたからといって、いい答えが見つかるわけじゃなかった。

 

「鈴原も、すぐ挑発的なこと言うし…だから、私もつい、かっとなっちゃって」

「うん…。

 でもさ、トウジも別に、本気で言ってるわけじゃないと思うけどな」

「ん…それは、わかってるんだけど」

「………」

「………」

「…鈴原、誰か好きな人いるのかな…」

「えっ?」

 

思いがけない問い掛けに、僕はちょっと驚いていた。

洞木さんは、少しうつむき加減に空港の床を見つめていた。

 

トウジの好きな人…?

 

考えてみたけれど、心当たりはなかった。

昔の思い出をたぐり寄せてみても、トウジが特別親しくしていた人は思い浮かばない。

もちろん、僕はトウジの生活のすべてを知っていたわけじゃないから、僕が知らないだけということもあるけれど。

 

この時、僕がミサトさんのことを思い浮かべなかったのは、たぶん、トウジやケンスケのそれが、洞木さんの言う「好き」とは別のものだと思ったからだと思う。

もし、トウジが本気でミサトさんのことが好きなんだとしたら、たぶん、なんというか、あんな風に悪ノリしたような、軽々しい態度はとらないんじゃないかと思えるから。

 

「いないと思うけど…僕の知ってる限りは」

「そう…」

 

特別、根拠があって言ったわけじゃないけど、洞木さんは少し安心したみたいだった。

 

「…トウジってさ、そういうの鈍いところあるから、伝えたいことは、はっきり言わないと気付かないんじゃないかな」

 

鈍い僕が言うことじゃないけど、僕は言ってみた。

 

「うん…そうなんだけど」

 

洞木さんは、俯きながら、もごもごと口ごもった。

 

「私も、碇君みたいに素直になれたらな…。

 私って、口うるさいのに、いじっぱりで頑固だから」

 

頭を自分で軽く小突いて、洞木さんはえへ、と笑った。

その顔が、ひどく切なそうで、僕は見ていてはいけないような気がして、目を逸らした。

 

「鈴原って、どんな子が好みなのかな…」

 

洞木さんの呟きを聞きながら、僕は、最初にトウジのことを聞いた時のことを思い出していた。

 

 

 

 

 

「洞木さんは、トウジのどんなところが好きなの?」

「えっ?!」

 

昼休みの校庭でベンチに腰掛けて、僕が聞くと、洞木さんは真っ赤になって俯いた。

そのまま数分…。

 

「ご、ごめん。別に、無理に言わなくても…」

 

あんまり言いづらそうにしているので、そう言ったら、洞木さんは長い沈黙のあと、消え入りそうな声で言った。

 

「…やさしいところ」

 

ああ…。

洞木さんは、本当にトウジが好きなんだ。

その時、僕にはそう思えた。

 

「そっか」

「うん」

 

それは、上辺だけを見ていたらきっと分からない、トウジの本質だと思うから。

 

 

……じゃあ、僕はどうなんだろう。

洞木さんは、「碇君みたいに素直に」って言ったけど、僕だって、その…アスカに気持ちを伝えたことなんてない。

ただ、前よりもずっと素直に、アスカに向き合えるようにはなったと思う。

それだけでも、すごい進歩かもしれない。

 

正直言って、僕は今の状態にけっこう満足していた。

アスカと一緒にいて、他愛のない話をしたり、ちょっとした口げんかをしたり。

それだけで十分すぎるほどで、その先…たとえば…告白する…なんていうことは、考えたこともなかった。

僕に、その資格があるかどうかも分からない。

 

でも、もし……僕が……好きだって言ったら、アスカはどんな顔をするだろう。

また、バカって言われるのかな。

たぶん、そうなるだろうな。

 

 

(アスカは、どんな人が好みなのかな。……アスカが好きになる人って、どんな人だろう)

 

いつのまにか僕は、そんなとりとめのないことを考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

「……ンジくん?」

 

「シンジ君?」

 

物思いからさめると、隣に加持さんの顔があった。

 

低いエンジン音が響いて、機体がバスに乗っている時のように、小刻みに揺れる。

みんな席について、タキシング(地上を滑走路に向かって走ること)が始まっていた。

 

「……どうした。俺の顔に、何かついてるかい?」

 

思いがけず、僕は加持さんの顔をじーっと凝視していたらしい。

加持さんは、なんとなく居心地が悪そうに、無精髭の生えたあごをなで回していた。

 

「あっ、すみません。なんでもないんです…」

「?」

 

滑走路に侵入するためのカーブに差し掛かったらしく、体が横に引っ張られる。

僕は、あわてて両手を振った。

 

加持さんを挟んだ通路の向こう側に、アスカと洞木さんが見えた。

アスカは、眠ったことですっかり調子を取り戻したみたいで、売店で買ったパックの牛乳をストローで飲んでいた。

その飲みっぷりは、とても花も恥じらう乙女のものとも思えない。

目は半眼で、鼻の穴が少しふくらみ、傲然と胸を反らしながら、ずごごっと吸い込む。

……百年の恋も冷めそうな横顔だった。

 

「ぷっ」

 

僕は、なんだかたまらなくおかしくて、思わず吹き出した。

そこで、アスカとばっちり目が合う。

 

「ちょっと…なに、人の顔見て笑ってんのよ!」

 

ま、まずいっ。

 

「な、なんでもないよ、アスカ。あははっ」

「なんでもないはずないでしょ。何よっ」

『大変お待たせいたしました。ご搭乗機、まもなくの離陸となります』

「くっ」

 

アスカは、ベルトを外して、こっちへ来ようとしたみたいだけど、フライアテンダントのアナウンスが聞こえて、やむなく断念したみたいだった。

メインエンジンがフルスロットルの音に変わり、機体の揺れが大きくなる。

 

「……あとで覚えてなさいよ、シンジ」

 

アスカの低〜い声に、背中にひやっとするものを感じながら、僕は目線を逸らして窓の外に目をやった。

加速が大きくなり、クラスメートの中から「わぁ…」という声がいくつも上がった。

 

 

結局、僕たちの乗るJANボーイング217便は、定刻の3時間遅れで、第三新東京国際空港を飛び立った。

次第に機体が上昇していくのを感じながら、僕はようやく、修学旅行に来たんだという実感が湧いてきて、いやが上にも胸が高鳴るのを感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

84

 

 

 

 

 

「はーあっ…」

 

そう言って、ケンスケは、荷物も肩から下ろさないまま、畳の床に倒れ込んだ。

 

「ナニ情けないタメ息ついとるんや、ケンスケ。だらしないな」

 

初日から疲れとって、どないするんや、とトウジは旅行用の大きなスポーツバッグを投げ出すと、どすんと畳にあぐらをかいた。

僕も荷物を置くと、一通り部屋を眺め回した。

 

8畳ほどの部屋の中央には、四角い大きなちゃぶ台。背もたれのついた木製の座椅子が4つ。

入って右手には床の間があって、なんだかよくわからない壺と、日本間には不釣り合いな額縁がかけてあった。

反対側には押し入れ、その前の角にはテレビ。

入り口の正面にある次の間は障子で仕切られ、2畳ほどのスペースにテーブルとチェアが置かれ、さらに奥の窓から、沖縄の夕陽が差し込んでいた。

 

「そんなこといったって、空港で待たされるわ、出発が遅れてスケジュールはめちゃめちゃになるわ…」

 

ケンスケは、和室の天井を見上げながら、指折り数え始めた。

 

「おかげで、撮影スケジュールがすっかり狂ったよ。参ったなぁ…」

「…って、タメ息ついとるんはそっちかい」

 

トウジのツッコミを聞きながら、僕も苦笑していた。

だけど、ケンスケは今回、カメラの腕を買われてか、出発前から集合写真や記念写真に引っ張りだこで、肩からさげたカバンの一つは、フィルムがぎっしり詰まっている。

この旅行中に、一体、何枚撮るつもりなんだろう。

 

でも、ケンスケの言うとおり、確かに、出発の遅れはあとあとに響いた。

まず、沖縄に着いてからとる予定だった昼食が機内食に変わった。

これがなかなかの不興だったらしくて、みんなはブーブー文句を言っていた。

…もちろん、アスカが文句を言わないはずはなくて、鶏おこわのようなご飯を一口食べた途端、

 

「まずい…」

 

と言って、スプーンを放り出した。

そして、おもむろにこちらへ歩いてくると、僕のお菓子をよこせと迫った。

 

「お菓子なら、自分のを食べればいいじゃないか」

 

と言ったのだけど、やっぱり無駄で、

 

「いいから、よこしなさい!」

 

と言って、全部持っていかれた。 とほほ…。

それがさっきのお返し…というわけでもないのだろうけど、今朝は朝ご飯も食べていなかったから、きっとお腹が空いていたんだと思う。

だけど、ご飯の代わりにお菓子じゃ、体に良くないと思うんだけどなぁ。

 

僕の前の席の綾波は、南瓜の挽肉あんかけの挽肉だけを、器用に延々と取り分けていた。

アスカに食べるよう言われてはいるものの、綾波はまだ、肉が苦手らしい。

 

僕は、それでも一通り箸をつけた。

確かに、あんまりおいしくないような気はしたけど、アスカも一口ずつくらい食べてみればいいのに。

…たぶん、どの料理も油を使いすぎているのが原因のような気がした。

さんざんロビーで待たされて、のどは乾き気味、お腹は減っている…という条件では、これはちょっとしつこいんじゃないかと思う。 

 

デザートのコーヒーゼリーだけはおいしかった。それだけ食べていた人もいたくらいで。

隣を見ると、加持さんは平気な顔ですべてを平らげていた。

FAに頼んだコーヒーを悠然と傾ける姿を見ていたら、僕の視線に気付いたのか、加持さんはいたずらっぽく笑った。

 

「俺たちのガキの頃は、食い物に注文つけられる時代じゃなかったからな…」

 

だから、葛城の料理でも食えちゃうんだな、これが。

加持さんは、そう言って冗談めかして笑ったけれど、僕は恥ずかしくて、同じように全部食べた。

僕が、加持さんの境遇に思いを致すことができたのは、曲がりなりにも、食べるものがなくて、血の臭いに吐き戻しながら、LCLをすすったあの時があったからだと思う。

それを忘れないことが、大事なんだろうと思えた。

少し、胃にもたれはしたけれど。

 

 

 

 

 

空港を出ると、やっぱり沖縄は暑かった。

一年中が夏、といわれるようになった今、第三新東京市も暑かったが、これは別物だ。

でも、その日射しはなぜか爽やかで、異境の空と、これからの出来事を思わせて、どきどきした。

 

振り返ると、空港の「めんそーれ」の横断幕を背景に、綾波が、つばの広い麦わら帽子をかぶるところだった。

 

「どうしたの、それ」

 

僕が聞くと、

 

「......ミサトさんが、かぶりなさいって」

 

紅い瞳に白い肌、色素の薄い綾波は、日射しに弱そうだ。

それを心配したミサトさんが、持たせたものらしかった。

綾波は、小走りにアスカに近づくと、同じものを差し出した。

 

「あら、レイ、似合うじゃん。

 …これ、あたしの?」

 

綾波はコクリと頷いた。

蒼い瞳に白い肌、ドイツと日本のクォーターであるアスカも、日射しにはあまり強そうに見えない。

それを苦にしているところは、見たことがないけれど。

 

綾波から、リボンのついた麦わら帽子を受け取ったアスカは、いつものヘッドセットを外すと、さっと頭の上に乗せて、くるっと一度、回って見せた。

 

「どう?」

 

それは、綾波に向けられた言葉だったのだけど、僕は思わず見とれて、気付かない間に頷いていた。

幸か不幸か、アスカは気付いていなかったけれど。

制服姿に栗色の長い髪、麦わら帽子と雲一つない青い空のコントラストは、一枚の絵画のように鮮やかで…。

 

「おっ、アスカ、似合うじゃないか」

 

加持さんの声。

 

「ホントッ、加持さん」

 

嬉しそうなアスカの声。

その時の僕は、我ながらろくでもない顔をしていたと思う。

 

「どうだい、シンジくん?」

 

そんな僕の気持ちを知ってか、加持さんは僕をうながす。

僕の視線の先で、アスカがくいっとあごを反らした。

僕は、反射的に答えていた。

 

「うん…似合うよ、アスカ。綾波」

 

彼女は、綾波の腕を取ると、空に突き上げるようにして、笑顔を弾けさせた。

 

「あったり前でしょ!」

 

どきん。

 

そこにいるのはアスカ。

いつものアスカのはずなのに。

 

綾波をひっぱって、洞木さんのもとへ走るアスカの背を追いながら、僕は、急速に顔が熱くなるのを感じていた。

加持さんが自分を見ていることにも、気付かなかった。

これって、きっと沖縄の日射しが強すぎるんだ…。

 

 

 

 

沖縄空港を出た新国際通りで、僕らはバスに乗り込んだ。

沖縄には天候の関係上、電車がない。

時間の都合上、初日のスケジュールは大幅に繰り上げられることになり、遊びの要素を含んだ場所の見学はすべてカットされた。

ガイドさんの声をよそに、みんなからブーイングが巻き起こった。

 

 

 

 

 

85

 

 

 

 

県庁所在地であり、空港のある沖縄市を出た僕たちは、沖縄本島を南に下り、最南端の町、宜野湾市へと向かった。

 

そこには、平和祈念資料館がある。

事前学習によると、それも元々は糸満市にあったらしい。

 

その糸満市は、もう存在しない。

 

かつての県庁所在地、首里城という史跡のあった那覇市も、今は海の底だという。

 

沖縄県は、セカンドインパクトによって、その姿を大きく変えた。

石垣市のように、隆起によって面積の大きくなったところもあるが、沖縄本島は、宜野湾市中部を境に以南が海の底へと沈んだ。

現在の日本地図しか知らない僕たちには、とても信じられないような話だった。

 

立派な建物を想像していたのだけれど、宜野湾市の平和祈念資料館は、想像とは随分違った。

それは、資料館とは名ばかりの小さな建物で、1階のホールは、僕たちの一クラスが入っただけで、窮屈になるくらいの大きさしかなかった。

 

20世紀最大の戦い、太平洋戦争。

日本で唯一、住民を巻き込んだ戦いとなった沖縄戦の悲惨さを忘れぬよう留めた、数々の遺物。

それらはほとんどが、セカンドインパクトのために海の底に沈んだ。

戦争の愚かしさと、沖縄の受けた仕打ち、それらを後世に伝え残すために、政府援助など望めないこの時勢に、それでもこの建物は建てられたという。

 

壊されればすぐに修復され、ヘタをすれば1月もして、以前とまったく変わらない姿に戻っている。

使徒迎撃要塞都市、第三新東京市。

より、現実的でないのは、どちらの街なんだろうか…。

僕たちが普段、日本でもっとも恵まれた場所に暮らしていることを、思い知らされる事実だった。

 

正直、セカンドインパクトの悲劇すら直接には知らないような僕たちには、太平洋戦争というのは、実感の湧かない過去のものだった。

たけど、そこで聞いた講話は、過去を知らない僕たちにとっても、胸に迫るものだった。

 

そのおじいさんは、80歳を越しているということだったけれど、かくしゃくとしていて、言葉もしっかりとしていた。

かつての戦争も、そしてセカンドインパクトの時代をも生き抜いた、実際の体験者だった。

「語り部」であるその人の表情は終始、穏やかで、口調も淡々としていた。

 

沖縄戦全体の経過から、血生臭い戦場の様子、実体験に基づく学徒兵の戦い…。

飛び散る血肉と臓物、うじの湧いた傷口、爆音と悲鳴、断末魔。暗闇と不安、焦燥。

 

おじいさんの穏やかな口調が、語られる話の生々しさに反して、余計に僕たちの想像力を駆り立てた。

それが、現実に起きたことなのだという確かな衝撃が、僕たちの胸を過ぎった。

 

女子の中には、うつむいて、時折、嗚咽をもらす人も少なくなかった。

男子の中にも、トウジのように、わけのわからない怒りに、落ち着かなげに足をゆすっている人も多かった。

そんな中で、明かな怒りを露わにしていたのはアスカだった。

 

真っ暗な壕の中で一生懸命けがをしている人の手当てをし、ウジ虫をとったり、手足を切断するときに体を押さえたり…。

僕らと変わらない年齢の少女たちで構成された、ひめゆり隊。

玉砕を強要され、しかし、それが強要されたものだということにも気付かずに死んでいった数知れぬ学徒隊。

狂気としか思えない、元兵士など日本軍の意思を代弁した元軍関係者らの独走によって、多くの子供、老人、女性が巻き込まれて死んでいった集団「自決」。

本土のために、捨て石にされた沖縄戦…

 

聞いている内に、ついに我慢ができなくなったのか、アスカはいきなり立ち上がった。

 

「なんで、そんなむちゃくちゃな命令に、ハイ、そうですかって従うわけ?!

 安全な場所から、そんな命令するやつらの方が、よっぽどタチが悪いじゃない!

 そんなやつらのために、なんで死ななきゃならないのよ!」

 

「語り部」のおじいさんをはじめ、みんなも唖然としてアスカを見ていた。

 

アスカは本気で怒っていた。

肩が小刻みに震え、よく見ると、目尻に小さく涙が滲んでいる。

それは、悔し涙なんじゃないかと、僕には思えてならなかった。

 

アスカの言葉は、識見のある大人たちから見たら、当時の事情も知らない子供じみた反論だと思うかも知れない。

だけどそれは、どんなに子供じみていたとしても、僕たち全員の今の気持ちを代弁するものだった。

だから、誰からもアスカをなだめるような声は上がらなかった。

そしてたぶん、それが本当のことなんじゃなかっただろうか。

 

正直、アスカがそんなに感情的になるというのは意外だった。

クラスのみんなにとっても、そうだったんじゃないかと思う。

 

…たぶんアスカは、おじいさんの話を自分たちの今の境遇とダブらせたんじゃないだろうか。

そして、そう感じたのは、アスカの変化であるかもしれなかった。

 

幼い頃からの教育、訓練。

14歳。

エヴァ。

使徒。

戦争。

 

それはきっと、かつての学徒兵の姿に似ていたと思う。

そして、第三新東京市は、沖縄と似ていた。

 

僕は、最後の日のことを、再び思い出していた。

戦自によって、次々に殺されていくNERVの人たち。

アスカの弐号機と戦自の戦い。

そして、エヴァシリーズとの殺し合い。

あれは、間違いなく戦争だったから。

欺瞞と悲しみに満ちた…。

 

 

「チュラカーギー」

 

不意に、「語り部」のおじいさんの隣に座っていた、やはり同じ歳くらいのおばあさんが呟いた。

 

「チム、ヂュラサン」

「え…?」

 

それは沖縄のことばで、アスカはもちろん、僕たちにも何と言ったのか分からなかった。

 

「綺麗な子だと言ったんですよ。心の綺麗な、優しい子だと」

 

「語り部」のおじいさんが、穏やかな口調で訳してくれた。

おばあさんは、とても優しい目で、にこにことアスカを見ていた。

 

「えっ…ぁ……の……どうも

 

アスカは恥ずかしそうに身を縮めると、ストンと椅子に座った。

その顔はほんのり赤くて、おばあさんの顔が見れないみたいだった。

 

アスカはこれまで、綺麗、可愛いという賞賛は、幾度となく受けてきたと思う。

だけど、年を重ねたおばあさんに、こういう風に言われたことはなかったに違いない。

それは、僕のイメージする「おばあちゃん」の像そのもので、たぶん、もしかしたら、アスカにとってもそうだったのかもしれない。

気恥ずかしくて、こそばゆくて…そして、あたたかい。

そんなアスカを見るのも、初めてだった。

 

「語り部」のおじいさんは、穏やかな表情のまま、語った。

 

「私たちは、確かに愚かでした。

 多くの仲間たちが、皇民化教育によって自分たちの真実を見る目を奪われ、

 戦争を疑うことすらできずに、戦争に加担させられ、棄てられていきました。

 だから、そのことを反省して、私たちは平和祈念資料館を作りました。

 訪れる人々に、その過ちを伝えていこうと思ったのです。

 そしてそれは、今も変わらない

 セカンドインパクト…。

 大災害によって、当時の写真や遺物、それらがみんな失われても、語ることはできるから。

 たとえ、私たち老人が死んでも、語り継がれていくでしょう」

 

「語り部」のおじいさんも、そして、おばあさんの顔も、とても穏やかで、曇りの一点もなかった。

そのたびに、僕たちは恥ずかしさを刺激されてやまなかった。

 

沖縄は本土と違って、武士階級が成立せず、武士道にあたるものがなかった。

武士道でいう、死を美徳とする考え方、自決を名誉とするような考え方は、沖縄にはなかった。

沖縄では、一族の血筋をたやさないことを大切に考えるので、自ら命を絶つことは許されない行為と考えられている。

それを、日本の侵略戦争を「聖戦」と信じこませ、天皇のために命を捧げることを当然のこととして育てたのは、本土の人間なのだ。

 

そういったことを、沖縄へ来る前の授業で、僕たちは知っていたから。

沖縄の人たちは、純粋な被害者なのだ。

それなのに、こんなに穏やかに、何も知らない僕たちに語って聞かせてくれる。

胸の奥が熱くなった。

 

 

 

 

講話の後で、おばあさんが、いくつか琉歌を披露してくれた。

 

 

別りてぃん互に 御縁あてぃからや 糸に貫く花ぬ 散りてぃ退ちゅみ

(たとえ別れることがあっても、きっとまた、お会いできることでしょう。糸に貫かれた花が散らないように、お互いは縁で結ばれているのだから)

 

 

静なり澄みり 常に身が心 波立たん水どぅ 影や映る

(心はいつも平静で、澄み切った状態でいたいもの。波の立たない水面がもの影を映し出すように穏やかな心こそ、ものごとを正しく判断できるのだから)

 

 

思童しかち、今る思知ゆる、昔わん守たる、人ぬ情き

(愛し子をあやして今思い知ったよ、かつて自分をあやしてくれた人の情けを)

 

 

もの悲しいような、切ないような旋律に、

涙が出た…。

 

 

 

「戦争は人間が起こすものです。

 セカンドインパクトは、確かに悲惨なものでしたが、戦争よりはましだったかもしれませんね…」

 

 

 

この人たちは知らない。

セカンドインパクトが、人為的に起こされたものであることを。

そして、今また、サードインパクトが目論まれていることを。

 

利用する者、される者。

ゼーレ。

 

やりきれない。

僕が、明確にその存在を知覚したのは、この時が始めだった。

 

 

 

 

 

『あら、生きていこうと思えば、どこだって天国になるわよ。

 だって、生きているんですもの。幸せになるチャンスはどこにでもあるわ』

 

 

 

 

母さん…。

 

第14使徒戦で初号機に取り込まれた時、聞こえた声。

覚えているはずのない、言葉。

 

母さん…。

 

じゃあ、なぜ、

なぜ、母さんは初号機に残ったの…

 

 

 

『この子には、明るい未来を見せておきたかったんです』

 

 

 

 

あれが、母さんの望んだ未来なの…?

何もない、みんな死んだ…

いま、ここにいる人たちの命も、希望も、想いも、何もない…

すべてを失ってまで、生き続けなきゃいけないの?

 

分からないよ、

母さん…!

 

 

 

 

 

86

 

 

 

 

 

 

目の前に、紅い海が広がっていた。

 

なにもない、

生きるもののいない、海。

 

寄せては返す、

血の色のナミ。

 

むきだしの大地には、なにもない、

焼けただれたような色の土。

 

突き立った、何かの建物の残骸、

墓標のような。

 

ここにはもう、セミの声も聞こえない。 

 

 

 

一体、どれくらいたったんだろう…。

 

 

 

僕はずっと、空腹感を覚えていた。

 

食べるものは、もちろんなにもない。

 

目がかすむ…。

 

そろそろ、限界だ。

 

僕は、うち寄せるナミを見つめる。

 

………。

 

どうしようもない。

 

手にすくう。

 

紅い海からすくわれたその水は、僕の手の中で、黄色く濁って見えた。

 

イヤダ。

 

血の臭い。

 

ごくりと、のどが鳴る。

 

僕は、ぎゅっと目をつむって、それを口にした。

 

口の中に広がる、鉄の味。

 

イヤダ!

 

無理矢理、流し込むように、鼻で息をしないうちに飲み込む。

 

「!」

 

うぐっ…

 

「げえっ…げほっ…えっ……ぅ」

 

胃壁が収縮して、受け付けない水を吐き出す。

弱り切った胃が、拒絶反応を起こしているみたいだ。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」

 

チャプ…

 

っ…

 

ごくっ…

 

「!」

 

うぐっ…

 

「げえっ…げほっ…えっ……ぅ」

 

何回、吐いたか分からない。

とりあえずの空腹が満たされるまで、僕はそれを繰り返した。

そうしなければ、明日にも死ぬだろう。

 

今日も、誰もいなかった。

毎日、少しずつ、

どれくらい散策を続けただろう。

 

足が、鉛のように重い…。

 

やっぱり、

ここには、もう、

誰もいないんだ…

 

何度、味わったかわからない絶望感。

 

僕は、急に不安になって、駆け出した。

 

ボロボロになった靴が、黒く変色した土を蹴って、ジャリジャリと嫌な音を立てる。

 

 

 

戻らなきゃ…

 

戻らなきゃ…

 

アスカのところに…!

 

 

 

戻ってみたら、誰もいなくなっている。

それは、いつも見る悪夢。

 

走って、走って…

転んでは砂にまみれる。

 

やがて、ごみ溜めが見えてくる。

僕が拾い集めてきたごみ。

テントというには、あまりにも不細工なボロきれの集まり。

 

僕はそこへ、転がるように駆け込んだ。

不安で、

不安で、仕方なかったんだ…。

 

…できるだけ清潔な布をかき集めてできた寝床の上に、アスカは横たわっていた。

いつもと変わらず、その目は開かれたままだ。

時折、瞳の粘膜が乾燥に耐えきれなくなるのか、まばたきをする。

僕は、アスカの細い腕をとって、脈を診た。

 

僕はほっとする。

 

「アスカ」

 

アスカは何も答えない。

視線すらも動かさない。

 

それでも…僕はほっとする。

そして、背中合わせの恐怖に絶望する。

 

「アスカ…」

 

僕の視界の中で、アスカの細い輪郭が、次第にぼやけていく。

 

いつまで、こうしていればいいのだろう。

いつまで、こうしていられるのだろう。

 

たった、ふたりで…。

 

 

チャリ…

 

 

首から提げた、ミサトさんのペンダントが、小さな音を立てた。

 

 

 

ザ………ザザ……………ン………ザー…ン……

 

ザ………ザザ……………ン………ザー…ン……

 

 

寄せては返す波の音だけが…

 

この世界に残された、最後の変化だった。

 

 

 

 

 

 

 

87

 

 

 

 

「シン……」

 

何気なく、シンジの背後から声をかけようとしたアスカの口の動きが止まった。

アスカは、覗き込んだ先にある横顔に言葉を失っていた。

 

それは、いつか見たことのある、表情。

あの日、夕暮れの公園で、見た…。

 

 

 

 

目の前に、蒼い海が広がっていた。

 

どこまでも続く、水平線。

 

透明度が高いせいか、その底に沈む町並みが、やけにリアルに見えた。

かつて、リゾートホテルだった高層建築が、ところどころ海面に突き出しているのが、遠くに見える。

かつて、飛行場の滑走路であったものが、途中から断ち切られるようにぷっつりと途切れていた。

 

そこは、「宜野湾断崖」と呼ばれていた。

セカンドインパクトがもたらした傷痕。

 

「セカンドインパクトによる海面上昇と、局所的にもたらされた地殻変動のため、沖縄本島の南半分が海の底に沈んだのです。

 そして、宜野湾市以北の隆起した大地が、このような切り立った崖をもたらしたというわけです」

 

ガイドの声は、それが仕事であるとは思えないほど、淡々として、

それだからこそ、ここに起こった惨劇の凄まじさを、子どもたちの胸に強く残した。

 

それは、恐いくらいに澄んだ青だった。

 

心ここにあらず、といった表情で、水平線を見つめていたシンジが振り返った。

 

「!」

「………」

 

シンジは、アスカを見つめていた。

アスカにとっては、やけに長い沈黙に感じられた。

 

シンジの瞳は、いつもと同じようでいて、どこかすがるようで…

そこにアスカがいることを、見つめることで確かめているような、

そんな感じだった。

 

「な、なによ…」

 

不意に、沈黙に耐えきれなくなったアスカは、上目遣いに、シンジに非難がましい視線を送った。

じっと見つめられて、思わず胸元を隠すような仕草をしたのは、彼女も思春期の少女だということだろう。

 

「ううん…

 ごめん、なんでもないんだ」

 

シンジは、穏やかに微笑んだ。

 

「フ、フン…」

 

アスカは、鼻を鳴らして踵を返した。

ヒカリの姿を見つけて歩み寄る。

その後ろ姿は、まるで逃げるようだった。

 

 

うち寄せる静かな波が、岸壁をゆっくりとなめていく。

 

 

「……あのころ、私は根府川に住んでましてね…」

 

担任の老教師が、聞き慣れた口調で、いつも授業で話す内容を繰り返した。

 

詠嘆調のその言葉は、しかしこの時、聞いている生徒たちの胸に迫るものがあった。

それはおそらく、セカンドインパクトをの時代を経験した者だけが語れる、そんな雰囲気を持っていた。

 

「…どこも、ひどい有り様でした。

 世界規模の干ばつや洪水、火山噴火、異常気象…

 その後にきた経済恐慌、民族紛争に内戦。

 たった一つの隕石が、それまでの日常をすべて粉々にしてしまった。

 

 あれから15年――――

 わずか15年で、私たちはここまで復興をとげることができました。

 これは、まさに皆さんのお父さんやお母さんの血と汗と涙の結晶、

 努力の賜物といえるでしょう。

 

 しかし――――

 本州から遠く離れ、物資もろくに届かない沖縄の人々の苦労は、いかばかりだったでしょうなあ……」

 

老教師と地元出身の年輩のガイドは、彼らにしか見ることのできないものを見ているのかもしれなかった。

 

セカンドインパクトの真実を、シンジたちチルドレンは知っている。

巨大隕石のくだりを聞いたアスカは、わずかに眉を寄せたが、何も言わずに、口をつぐんでいた。

青すぎる海を見つめて呟く老教師の横顔は、誰も口をはさんではいけないような、不思議な気配を纏っていた。

 

だが、そのアスカでさえ知らない。

 

南極で発見された「使徒」。その調査中に起きた原因不明の大爆発。

予想されるサードインパクトを未然に防ぐ、そのために存在する彼女らの使命。

 

――――それすらも、欺瞞でしかないことを。

 

 

「美しい海だ………

 本当に」

 

老教師の呟きに、気配を感じてシンジは振り向くと、レイが側に立っていた。

 

「綾波…」

 

レイは、海風に帽子をさらわれないよう、左手を添え、青と蒼のコントラストをぼぅっ…と見つめていた。

 

「..........」

「この先に街があったなんて、信じられないや…」

「..........」

「ひどいよね…」

 

レイは、黙って海を見つめていた。

風の中に、強い潮の香りが混じっている。

そのにおいを嗅ぐように、胸に風を吸い込んだレイは、呼気とともに呟きを漏らした。

 

「でも.......海は、綺麗」

 

レイは、囁くように続けた。

 

「とても......」

 

シンジは、レイの顔を見直した。

 

レイは、シンジの視線を感じたが、視線は前を見据えていた。

わずかな沈黙の後、

 

「あの街を出たの、初めてだったから......」

 

レイの表情は、穏やかだった。

ただ、広がる海が、綺麗だと感じた。

 

『楽しんで来なくちゃ、ダメよ』

 

ミサトの言わんとしたことが、この時、シンジにはわかったような気がした。

 

「そうだね。でも…

 明日から、もっと色々と見れるよ、きっと」

「ええ......」 

 

 

 

 

 

「ちょっ…ヒカリ、大丈夫?」

「う、うん、ごめん。ちょっと、フラッとしただけだから…」

 

足下のおぼつかないヒカリを、アスカが支える。

 

余り顔色が良くなかった。

何事に対しても真面目な彼女には、先ほど体験談は辛いものがあったのだろう。

それに、だいぶ傾いてきたとはいえ、沖縄の日射しはまだまだ強かった。

少し気分が悪くなっても当然だ。 

 

「なんや…イインチョ、帽子持っとらんのかいな」

 

ちょうど横を通りかかったトウジが、2人の姿を目にとめる。

 

「う、うん。日射しをちょっと甘く見てたみたい…」

 

少年に恥ずかしいところを見られたくないのか、ヒカリは俯き加減に答えた。

 

ふむ…。

トウジは、自分の頭の上に乗っている物体を見上げた。

手に取らず、視線だけを上に向けて見上げたので、目が三白眼、口がへの字の、へんな顔になる。

 

「…これ、良かったら貸したるワ」

「え……」

 

ヒカリは、思いもかけないトウジの申し出に、どんな意図があって言ったんだろう…と、彼の顔をそっと覗き込む。

トウジは別段、照れている様子もなかった。

ただ、純粋にヒカリの調子の悪さを心配している。

ヒカリは、少し寂しい反面、なんとなくホッとした。

それが、トウジという少年だったから。

 

「ほとんど新品や。汚くはないで?」

「う、ううん、あの、ありがとう」

 

ヒカリは慌てて、差し出されたそれを受け取った。

一瞬、手元のそれに目を落としてから、照れくさそうに頭にのせる。

 

白と黒、シマシマの野球帽をかぶった制服姿のヒカリは、まるで、甲子園のベンチに座っている女子マネージャーみたいだった。

 

「鈴原……アンタ、ほんっとにセンスないわね」

 

アスカが、じとっとした目で、トウジを睨む。

 

「ほっとけ!」

 

悪態をついて、トウジは顔を逸らし、鼻息とともに腕を組んだ。 

 

 

ザ………ザザ……………ン………ザー…ン……

 

 

波の砕ける音とともに、海風が吹き上げるしぶきが、ひんやりとした感触を頬に残していく。

 

トウジは、目の前に広がる海を見ていた。

 

「………」

「………」

「戦争は、アカン」

「え…?」

 

ヒカリは、少し恥ずかしそうに俯いていたが、トウジの呟きに顔を上げた。

 

「戦争は、アカンのや」

 

トウジは、生真面目な調子でそう繰り返した。

 

野球帽のつばに手をかけながら、その真剣な横顔を覗き込んだヒカリは、やがて、ゆっくりと頷いた。

 

「うん…そうだね」

 

アスカは、黙ってその場を離れた。

やれやれ、という気分だった。

何気なくシンジの姿を探すと、レイと並んで、なにやら話しているのが見えた。

 

ふぅ。

 

アスカは、自分でも気付かぬうちに、小さなため息をつくと、うーん、っと伸びをして、海を見やった。

海など、珍しくもなんともなかった。

ドイツから日本への航海では、いやというほど目にしてきた。

 

だが、いま、目の前にある海は、それとはなにか違う気がした。

そんな気がしただけかもしれない。

でも、アスカは、その青さが嫌いではなかった。

 

 

 

 

88

 

 

 

 

  

シンジの記憶は、あの最後の日に近づくほどに薄れていく。

 

自分を外界から閉ざし、逃げていた以前の自分。

あの頃は、日々がとても希薄で、

1週間が1日のように。

あるいは、1日が1週間のように、

なにもない日常だけが、連なっていく。

 

今となっては、それが悔やまれてならない。

自分を取り巻く人々の言葉を、思いを、心に留めておいたならば。

理解しようと努めたならば…。

 

あの日のことだけが、やけにくっきりと脳裏に刻まれている。

 

ミサトが語ってくれた、セカンドインパクトの真実。

アダム。

リリス。

使徒。

そして、ゼーレ。

 

その遠大で、大きすぎる力、計画。

 

自分にできることとは、なんだろう。

あらためて自問する。

 

これまでは、以前よりも上手く進んでいる。

…そう、信じたい。

だが、それはおそらく、ごく身近なことにすぎない。

シンジの知らない、考えも及ばないどこかで、「計画」はゆっくりと進んでいる。

 

僕はエヴァに乗り、使徒を倒すことができる。

使徒を倒して、

使徒を倒して…

倒したらどうなる?

最後の使徒を…

第17使徒を

カヲル君を…

その後は…?

 

『君と同じ。仕組まれた子供、フィフスチルドレンさ』

 

それすらも、あらかじめ決められていることでしかないのか。 

 

エヴァシリーズとの戦い…。 

サードインパクト。

あの後、みんなは…。

父さんのやろうとしていることは…。

そして、母さんの望んだものは…。

 

わからない…。

記憶は希薄で、レイとカヲルのくれた記憶は断片的だ。

だが、自分の経験した結果だけは、確かに知っている。

 

知識が、そのまま役立てられるとは限らない。

だが、知ってしまった以上、見て見ぬふりはできなかった。

絶対に。

 

「セカンドインパクトか…」

 

呟いて、シンジは、ぎゅっと眉を寄せた。

 

「世界中が、こんな有り様だったんですか…?」

 

いつのまにか、隣に来ていた加持に、シンジはたずねる。

ほかの生徒は、次々にバスの方に戻り始めている。

戻ろうとしないシンジが気になって来たのだろうか。

 

加持は、火の点いていないタバコをくわえたまま、目の前に広がる海に目を細めた。

 

「そうだな…」

 

加持の目が、一瞬、別人のように険しくなったような気がした。

 

「俺が知っているのは、自分のことだけだ。他人の苦しみまで分かるとは言わない。

 だが……」

 

加持は、タバコを口から取ると、強く握りつぶした。

 

「あれは地獄だった。

 そして、それは終わっちゃいない。……今も、な」

「………」

 

シンジは、黙って加持の顔を見つめていた。

たぶん、加持のそんな言葉を聞いたのは、初めてのことだった。

 

少し喋りすぎたか…と、普段の表情に戻った加持は、シンジの顔を盗み見た。

今度は、彼が押し黙る番だった。

 

シンジが浮かべていたのは、真剣で、真摯で、そして、深刻な表情だった。 

 

そして、シンジは口を開いた。

「S2機関……ってご存じですか、加持さん」

 

加持の目が、細められた。

S2理論。

西暦2000年、南極でセカンドインパクトが起きる直前の一時期、識者の一部で噂となった非常識な理論。

セカンドインパクトの真相が闇に葬られた現在では、それを知る術は非常に限られる。

ゼーレとの繋がりがあり、なおかつ、裏の事情を探っている加持ならばこそ、耳にしたことのあるものだが。

一介の中学生が知るはずものない言葉だったが、エヴァに最も近い彼らチルドレンならば、耳にしたこともあるのかもしれない。

 

「…スーパーソレノイド機関。

 かつて、南極調査隊のリーダーを務めた、葛城博士の提唱した理論だな」

 

葛城、という言葉に反応して、シンジは加持を振り返った。

 

「……葛城?」

「そうだ……あいつの父親だよ」

 

シンジは目を瞠った。

その表情の変化を見ながら、加持は奇妙な安堵感を抱いてもいた。

当然ではあるが、彼には、知っていることと、知らないことがあるようだ。 

それは、少なくとも、彼がまっとうな交渉相手になるということである。

 

「使徒はS2機関で動いている。…以前、リツコさんが言っていたのを聞いたことがあります」

 

確かに、以前、それらしきことを聞いた記憶がある。

それが、いつだったかということについては、記憶が曖昧ではっきりしない。

だが、加持は、わざわざリツコに確かめたりはしまい。

非常に稚拙ではあったが、シンジにも、それくらいの計算が働いた。

 

S2機関と使徒については、現在、その解明が進められているところである。

ほかならぬ彼自身の手によって倒された第4使徒。

完全破壊に至らず、原型を留めたコアは、現在、NERVドイツ支部に運ばれている。

それは、弐号機の本部委譲を交換条件に行われ、その裏工作には、加持自身が一役買っている。

だから、S2機関そのものについて、驚くことは何もない。

加持が興味があるのは、なぜ、シンジがそのようなことを言い出したのか、である。

 

「…これから先、S2機関のエヴァへの搭載実験が、アメリカで行われる可能性があります」

 

それは、あまりにも唐突だっただろう。

荒唐無稽といってもいい。

シンジとしては、ない知恵を絞っての言い回しであったのだが。

 

S2機関のエヴァへの搭載が計画されているのは確かであるが、それがどこで行われるかなどということは、実は、この時点では、まだ論議すらされていない。

もっとも、現在、エヴァ六号機以降の予算承認をしぶったアメリカが、参号機と四号機の建造権を交換条件に、各国と裏取引を繰り広げている最中である。

その事実を知っている者であれば、アメリカは同様に、S2機関の優先的搭載を主張するであろうといった予想を展開させることも可能だろう。

本来、使徒のコアを研究する目的は、その技術転用にあるのだから、今後、エヴァへの搭載は当然、視野に入れられるはずだ…。

 

…と、このように、結果を「正」に導くために、都合の良い推論を展開するのは、実は危険である。

加持は、それをわきまえていた。 

重要なのは、「シンジが」「自分(加持)に対し」「動的に情報を与えた」ということである。

これは、何を意図しての発言なのか。

自分に対して、何を要求しているのか。

そこを間違えるわけにはいかなかった。

 

実際、加持は、初めてのシンジからのアクションに、興味津々だった。

だが、敢えて加持は、「なぜ、そう考える?そんな事実を知っている?」などという、ありきたりなリアクションはしなかった。

 

「…で?」

 

その答えは、最も単純で、そのくせ最もシンジを悩ませた。

どこまで話していいものか、見当がつかない。

疑われている、という先入観が、思考を堂々めぐりの迷路に入り込ませてしまう。

いっそのこと、すべて話してしまえば楽なのだろうが、その場合、事態がどのように転んでいくか、見当もつかない。

 

だが、彼の手には余る、エヴァ四号機の事故と、NERV米第二支部の消失。

1人で抱え込んでおくには、重すぎる未来図である。

せめて、起こりうる可能性の1つとして、加持には早めに知っておいてほしかったのだ。

 

「S2機関は、使徒のコアは、危険です。

 …危険です。 そう、思います」

 

結局、シンジには、そんな中途半端なことしか言えなかった。

 

「危険、か…。 なるほど」

 

加持は、よれよれになったタバコを口にくわえ直した。

 

シンジが思わず拍子抜けするほどだったが、彼のリアクションは、それだけだった。

だが、加持の頭の中では、様々な情報と、これからの予定表が、凄まじい勢いで更新されていった。

シンジのニュースソースが一体、どこにあるのかというのは、もちろん興味のある問題だったが、それを追及したところで、彼が喋るとも思えなかった。

話す時がくれば、自分から話すのだろう。今日のように。

 

少年がまったくの虚言を述べているという可能性は、まるで頭になかった。

あるいは、妄想癖があるだけなのかもしれないが。

 

ともあれ、シンジの発言は、加持の今後の行動に微修正を施した。

それは、真実であれば有意義な情報であり、彼が沖縄に来た本来の目的についても、有効活用されるはずであった。

 

「なにしてるんですか〜、加持さん!」

「おお、悪い悪い」

 

わずか数分の会話だったが、シンジは1日分疲れたような気がする。

加持と駆け引きする、などというのは、まったく不可能なことのようだった。

 

「行こうか、シンジ君」

 

振り返って、ノンキに言う加持は、さっきのやり取りなど、なかったかのような顔をしていた。

 

 

 

 

(つづく)

 

 


 

■次回予告 

 

 

淡い想いを抱きながらも、一向に進展する気配のない、少女の恋。

彼女が密かに想いを寄せる相手は、未だ、彼女の視線に気付いていなかった。

 

さて。

 

修学旅行には、お約束というものが付きものである。

そして、それは大抵、起こるべくして起こるのである。

当人が望むと望まざるとに関わらず…。

 

 

次回、新世紀エヴァンゲリオンH Episode-19「キスと関西弁」。

 

 


 

謝辞:

冷夢さん、カスタニエルさん、橘川篤志さん、satoshiさん、Suzakuさん、ひでじさん、K1さん(漏れがあったらすみませんっ)

メールにて、沖縄・修学旅行についての情報を頂いたみなさまにお礼申し上げます。

 

参考:

戦争体験記「泣く子は」/宮城恒彦

日本の現代史と戦争責任についてのホームページ

琉球新報

・日刊OkiMag

マピオン内沖縄県のページ

沖縄県庁ホームページ

Logosの旅内「那覇ことば」

琉歌ぬ御庭

沖縄県平和祈念資料館

Yahoo!沖縄の宿泊施設

沖縄仮想商店街ゆんたく

・その他、沖縄修学旅行の思い出を綴ったページの数々

 

 

拙い文章ではありますが、沖縄に散った人々に捧げます。

 

 

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(updete 2001/07/24)