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『ONE』 〜視点の問題を中心に〜

 本論は「ONE卒業文集プロジェクト」(http://onegraduate.tomangan.org/)による「ONE卒業文集」 2001年 2月12日初版第1刷、「Blight Season 8」 にて初売)に初出の原稿を恋愛ゲームZEROに掲載に当たり改訂したものです。(2001/03/11)

 ONE卒業文集第2版制作につき改稿しました。(2002/06/08)

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2001/03/11初版、2002/06/08最終更新

 『ONE』(注1)において最も注目されることは、恋愛ゲーム(注2)中において「永遠の世界」という世界を設定したことと、2つの世界を交互に描き出していく、という特徴的な表現方法にある。

 後者の方法によって書かれた小説で、『ONE』に先行するものとして『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』がある。この小説は、全38章から成り、『ハードボイルド・ワンダーランド』と題された1つのストーリーが奇数章に、『世界の終り』というもう1つのストーリーが偶数章に交互に描かれていく。前者は現代を舞台とした冒険譚で、後者は決して外に出ることのできない壁に囲まれた中世的な香りのする異世界の中での話である。ストーリーが進むにつれ、後者の物語は、前者の物語の主人公が頭の中で描き出した「意識の核」を老博士によって再構成し、主人公の頭の中に回路として固定したもの、という説明がなされる。しかし、その説明によって全ての物事がきれに回収されるわけではなく、どこかに亀裂や混沌が残されたまま話は進み、『ハードボイルド・ワンダーランド』の最終章において主人公は眠るように意識を失い、『世界の終り』に引き込まれていく。

 つまり、『世界の終り』の物語は、主人公の脳内に固着されていた物語、であると同時に、主人公が『ハードボイルド・ワンダーランド』の物語を通過した後に陥る世界でもある。時系列順に並び替えれば、『ハードボイルド・ワンダーランド』の後に『世界の終り』が続く、という構成も可能であった。しかし、その相互の世界に掛かる橋のように、「頭骨」「ペーパークリップ」といった物によって媒介がなされ、2つの世界が平行に描かれる点に説得力がもたらされている。

 それでは、『ONE』ではどのような描写がなされているであろうか。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に見られるような章立ての構成はなされておらず、あくまで家・学校を中心とした毎日の生活がベースとなっている。この生活の側で「真っ赤に染まる信号」からの連想により、永遠の世界側の「夕日に赤く染まる世界」と移っていく場面は、「赤い」という道具だてによってリンクされているものの、その他の場面では、大抵折原浩平(注3)の帰宅後や就寝前後の部分で挿入されており、特に必然性のある挿入箇所となっているとは言えない。ただし、注目すべきは、ヒロインとの固有のストーリーに移行する前の段階で「永遠の世界」が顔を出す場面では、常にその前にある生活において浩平は1人である。この点には留意すべきであろう。

 また、ゲームの冒頭においてはいきなりこの世界が立ち現れており、「…そこにいま、ぼくは立っていた。」という言葉より、この場面がこの世界に初めてやってきた瞬間であることが推測される。この冒頭の場面を読む限り、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』における考え方と同様に時系列で並べ替えれば、毎日の生活から各ヒロインのストーリーに入った後に浩平が消え、冒頭部の「永遠の世界」はBGM「遠いまなざし」が流れるエンディングの後に立ち現れるという構成が成り立ち得る。この点ではその小説と同様に「永遠の世界」の位置づけがなされていると言えるだろう。

 さて、そうすると「永遠の世界」は確固とした1つの世界として立ち現れてくるべきところなのだが、その描写はあまりにも抽象的で、描写も極めて限定的である。この辺りに、この世界を持ち出したことに対する不満やわかりにくさによる否定的感触を持つ向きがある。そこで、もう少し丁寧に「永遠の世界」について見てみよう。

そしてその世界には、向かえる場所もなく、訪れる時間もない。
(12/1(火)就寝後)(注4


ずっと、動いている世界を止まっている世界から見ていた。
一分一秒がこれほど長く感じられることなんてなかった。
もどかしいくらいに、空は赤いままだったし、耳から入ってくる音は、変わり映えしなかった。
違うな…。変わるはずがないんだ。
進んでいるようで、進んでいない。メビウスの輪だ。
あるいは回転木馬。リフレインを続ける世界。
(12/4 下校時)

これらの描写を見る限り、「永遠の世界」においては、時間の流れが存在しないことが示されている。ところが、佐分利氏の論考『自分を現実からデリートしないために』(注5)によれば、「永遠の世界」における矛盾点を以下のように指摘する。

 果たして風が、時間の凍結された思い出の中に吹くでしょうか。
 風は、時間の中で空気が流れることによってはじめて存在し得るものです。だから、折原浩平は「世界の外側にいてそれを感じ取るのが難しい」というのです。風を感じ始めたとき、実はその世界はすでに「永遠に時間の止まった世界」ではなくなり、時間が流れ出すことを意味します。このテキスト、本来は「快方」つまりハッピーエンドに向かうものだけに現れるべきだと、そう思います。
 風を感じる、ということは、流れる時間の中で吹いたり止んだりする風を感じるということです。思い出の中の風は、本物の風ではなくそれを身体ごと「感じる」ことはできません。風の記憶も、やはり時間が止まったものです。
 風を感じ取れるような状態であれば、いつでも明日はやってくるのです。

「永遠の世界」が「凍結された思い出」なのかどうかといった点など、深く追究すると問題と思われる部分がないわけではないが、「永遠の世界」が有する動的な部分に関する鋭い指摘は、この世界に関する理解に重要な示唆を与えてくれるものである。氏が指摘した部分は、先に引用した部分よりそう離れていない位置にあり、以下のように描かれている。

(ねぇ、たとえば草むらの上に転がって、風を感じるなんてことは、もうできないのかな)
(ううん、そんなことはないと思うよ)
(そうしてみたいんだ。大きな雲を真下から眺めてさ)
(だったらすればいいんだよ。これはあなたの旅なんだから、好きなことをすればいいんだよ)
(でも、どうしたらいいんだろう。ぼくはいつも見える世界の外側だ)
(まだ、難しいのかな。あたしは感じられるよ。草の匂いを帯びた風が)
(やり方を教えてくれよ)
(うーん……じゃあ、手伝うよ)
彼女が僕の背中に回って、そして両腕で僕の体を抱く。
(いい?)
(あ、うん…)
(雲が見えるよね…)
すぐ耳の後ろで声。
(見えるよ)
(ゆっくりと動いてるよね)
(そうだね。動いている)
(あれは、何に押されて動いてるのかな)
(風)
(そう、風だね…)
(風は、雲を運んで…ずっと遠くまで運んでゆくんだよ…)
(…世界の果てまでね)
(………)
草の匂いが、鼻の奥を刺した。
それは風に運ばれてきた匂いだ。

(きたよ…風…)
(そう、よかった)
(でも、もう少し手伝っていてほしいな)
(うん、わかったよ)
もう少し、抱かれていたかった。
世界の果てまで届くという風を感じながら。
(12/14 下校後)

この場面では、風の存在のみならず、草の匂いや雲といったものまで含めて、時の流れ、動きというものを強調している。これが誤謬による誤りとは考えにくい。

さらに、

つまりは僕は、自分の立場をわきまえてこの世界を選んだのだと。
それはこの世界を蔑んでいることになる。
彼女を含むこの世界を。
…気づいているだろうか?
この僕の猜疑心に。
(12/18 就寝前)


空虚は、ぽっかりと胸に空いた穴。
もう失うこともない。
それが完全な形なのだろうか。
なにも失わない世界にいるぼくは
なにをこんなにも恐れているのだろう。
(12/21 帰宅後)

これらにより、自分で選んだはずのこの世界に対して疑問を持ち始め、その揺らぎが大きくなっている。これもまた、最初にほのめかされた「永遠の世界」の固定性とはかけ離れている。

 さて、このような揺らぎがどこからもたらされているのだろうか。これまでは純粋に「永遠の世界」における描写からのみ考えていたが、ここからは毎日の生活の側との関係を探りつつ、永遠が揺り動く根拠を探ることとしよう。まず、一般的な理解として、毎日の生活において特定のヒロインとの絆が獲得されたとき、浩平は「永遠の世界」から脱して帰還する、という構造がある。しかし、それならば何故「永遠の世界」が毎日の生活の内部に挿入されつつ進行する形式を取らなければならなかったのか。その点については、先に述べた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』同様、2つの世界が相互に影響を与え合う点をテクスト構成の面から示す意図であったというのが自然な考え方であろう。毎日の生活の中に挿入され、交互に描かれることにより、相互の世界の力学的影響が、その構成から想起されるからである。

 また、前記小説におけるもう1つの外形的特徴は、「世界の終り」の物語は、前者の物語の主人公が頭の中で描き出した「意識の核」を老博士によって再構成され、主人公の頭の中に回路として固定されたものであったという点である。それは脳内にある回路と言うよりは、あくまで1編の物語と言うべきもので、壁に囲まれた小さな世界でありながら、細部にわたってそこに生活する人々の営みや、この世界を成り立たせている鍵となる一角獣の生活について詳細な描写がなされていた。この点は『ONE』における「永遠の世界」と大きく異なる点である。

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、2つの世界の関係は、あくまでものや歌、現象のレベルで関係づけられるだけであって、もう一つの世界を見いだす人が存在するわけではない。あくまでほのめかすことと、別世界があることを信じるという点のみである。しかし、『ONE』においては「(つまり、あっち側の一部だったってことがわかるんだ)」「ずっと、動いている世界を止まっている世界から見ていた。」等の言葉により、あくまでもといた世界というところを立脚点として、自分がそことは異なる世界にあって、それを眺めている、という構成となっている。その視点の位置は「空の向こう」という高い位置にあって見下ろす格好になっている。これにより、外部にあるパラレルワールドのようにも見ることができる。

 このような「永遠の世界」における特徴的な描写は、世界を一つひとつ構成していくという描写ではなく、抽象的なほのめかしによるという地点に留まるため、この点において不備であるという見方がなされることが多い。しかし、これはあくまで作者の戦略ではなかろうか。

 毎日の生活側における日々の営みにより、同時・平行して描写の進む永遠の世界も次第にその世界が揺り動かされていく、という仕掛けで書かれているのは先の分析のとおりである。選択によって「永遠の世界」の描写に変化が現れることこそないものの、同時並行的な描写は、プレイヤーの選択によってその姿を変えていく日常生活の世界から影響力を照射されることにより、「永遠の世界」が揺り動かされ、変化していくという可能性を示しつつストーリーが進行していくことを形式から示すものである。そして、特定の選択によって「絆」が形成されることによって、永遠の世界から浩平は帰還を果たすという構造を取るわけだが、その部分においては、特に具体的な描写がなく、ほぼ1年後に浩平はヒロインの元に帰還を果たす。この点においては説得力がなく、明確な根拠も示されない。しかし、我々は1つの世界が形成され、そして、その中においても、もがき苦しんだあげく、その世界を捨て去って元の世界に戻る、という一つの運動について目の当たりとすることになった。

 果たして、この一連の運動はなんであったのだろうか。「永遠の世界」での「ぼくはいつも見える世界の外側だ」という言葉には、自分自身の廻りには確固として見える世界が築かれていないという意味にも読めてしまう。もちろん、その視点の位置は確保されているわけだから、そこに世界が存すると外形的に読みとってもよいのであるが、やはり「世界」の存在というにはあまりに弱いものがあるだろう。そのため、ここではあくまで「視点位置の確保」という点に留まるだろう。

 浩平が確保したこの視点は、全てを俯瞰し、全てを見通せる神の視点とでも言うべきものである。しかし、その視点は先の分析により、自分自身から物事に対する直接的感触を確かめ、また、感じ取ることができない世界である。この視点がもたらされた経緯については、拙論『身体的関係性と経験』(注6)により、人の経験がどのように受け取られるか、ということに関する考察から、以下のように結論づけている。

浩平のいる世界が反転し、「永遠に変わらない状態が続く世界」へ導かれるのである。逆の言い方をすれば、浩平が『「永遠の世界」に旅立った』のではなく、『浩平の世界に対する見方のように世界が組み替えられた』といった方が正しいと考えられる。

世界のかたちとは、人と人との共存・共生のかたちである。それが惰性によって固定化・画一化されるとき、経験は均一になり、別の(あり得る)可能性、それに向かう意志は失われる。均一の経験・変化の消滅した固定化された世界は、時間軸上のどこで切っても同じ光景しか現れない。だから、先に引用した「永遠の世界」での光景が立ち現れる。

つまり、浩平の得た視点は、浩平自身の物事に対するスタンスであり、ものの見え方の一つである。だから、あくまで浩平自身の身体より外部に出ることはできず、浩平自身の内部に別のインナースペースが立ち現れたように感じ取ることもまた可能である。

 しかし、先の例で見たように、「永遠の世界」の内部においても、世界は確固とした一枚岩のものではなく、毎日の生活からの影響を受けて揺れ動くものであった。つまり、毎日の生活の中にあったとき望んだとおりの世界が生まれ、そのように世界が組み替えられたとしても、それに安住できずに元に戻ってきてしまった、という見方はできないだろうか。

 そのヒントとなるのは傍観者としての浩平の態度である。まず、みさおの病室において、「ちちおや参観日」をしたとき、

「しゃ、しゃべっちゃだめだよぉ…おとうさんは…じっとみてるんだよ…」
「あ、ああ…そうだな」
………。
「うー…はぅっ…」
苦しげな息が断続的にもれる。
ぼくはみさおのそんな苦しむ姿を、ただ壁を背にして立って見ているだけだった。
「はっ…あぅぅっ…」_
なんてこっけいなんだろう。
こんなに妹が苦しんでるときに、ぼくがしていることとは、一番離れた場所で、ただ立って見ていることだなんて。

この場面において、浩平はみさおの苦しみに対して何もしてやることができなかった、ということを感じ、他者性の発端を垣間見ることとなった。また、長森シナリオに入った後の場面で、

休み時間になると、屋上に続く階段に腰掛け、その前を横切ってゆく生徒たちを長く眺めていることが最近多かった。
それはシニカルに今の自分を見つめる行為だった。
なにをしてるんだろう、と少し冷めた風に、自分を嘲笑してやる。
そして実際、一体何人の顔見知りがオレの目の前を抜け、そして目を合わさず過ぎてゆくのだろう。
まるで置きざりにされたその気分を味わい、それが現実であると痛感して、また笑うのだ。
始業間際の校門で。
昼時の学食で。
放課後の通学路で。
オレは立ちつくし、そして流れてゆく生徒たちの中に身を置く。
それは早送りするビデオテープの映像の中心に居続ける自分というものを彷彿させた。
時間の対比。そして孤独感。
流れては過ぎ去ってゆく。

というものがあった。この場面では、浩平が人から忘れ去られていく過程において、自分のことを自分から離れた視点において眺めるという傍観者の地点を確保したように描かれている。これらのように、傍観者とも呼べる地点の確保は、「永遠の世界」のみならず、毎日の生活のなかにおいてもふとしたきっかけにおいて行われており、一つの確固とした地点に視点は位置しない。世界はざわめきに満ちており、その中で振り子の運動のように当事者と傍観者との地点を行き来しているのが我々の持つ視点の存在であると言えるのではないだろうか。私たちにとってそれは、至極当たり前のことである。それに初めて気づいたのがこの時期であるということである。

 しかし、浩平と長森との間柄においては、「永遠の盟約」によって得られた分かちがたい軛が存在し、それによって上記のような視点が確保されることを遅らされたという経緯が想像できる。それは、『ノルウェイの森』における直子とキズキの、

「私たちは普通の男女の関係とはずいぶんちがってたのよ。何かどこかの部分で肉体がくっつき合っているような、そんな関係だったの。ある時遠くに離れていても特殊な引力によってまた元に戻ってくっついてしまうような、そんな関係だったの。
(上巻 P.232 l.7-9)

という関係に擬することができるだろう。そうであるならば、浩平は「永遠の世界」とそこからの帰還によって、世界のありようを見定めるきっかけとなる出来事を経験してきた。しかし、そうすると長森についてはどうであったのだろうか。もちろん、浩平を待ち続けている間、長森には彼女自身の苦悩があったのは事実であるが、その場面をもう一度丁寧に読み直すことによって、長森自身が世界に対する同定の仕方についてどのように捉えたのか見てみることにしよう。以下は浩平が消え、1回目のエンディングが流れた直後からの引用である。

わたしは普通に生きていた。
それまでと同じように日常を生きることを努めた。
もちろん…色んなところで無理はでてくるけど…
でも前向きでいたいという姿勢は守りたかった。
ふと悲しくなるのはどうしてだろう。
どうしてなんだろう。
季節のうつろいは緩やかで、いつまでも同じ時間にいるような気がする。
でもちゃんと進んでいる。
同じ季節にわたしはいない。
一歩づつ、あの日から遠ざかっている。
あの日探していたものと、今探しているものは違うし、見ている風景も別だ。
すべてがうつろいゆく。
留まっているのは思い出だけだ。
色あせない思い出…
その中に身を投じれば、わたしは辛くなる。
激しく、心が震えてしまう。
「あっ…浩平っ…」
「おぅ、長森」
「はっ…あはっ…」
「どうしたんだ?」
「ううん、すごく悲しい夢を見てたんだよ。すごくイヤな夢だったよ」
「そうか。それは可哀想になぁ…」
「…よし、じゃあ、今日はおまえのために一日時間を割いてやるか」
「ほんとっ?」
「ああ。一日遊べばきっとイヤな夢だって忘れられるだろ?」
「うんっ、おつりがくるよっ」
「よぅし、いくかっ」
「うんっ、いこっ」
たくさんの幸せのかけら。
ビー玉のように輝く小さな幸せのかけら。
浩平と集めるんだ。
一緒に集めた幸せは、ふたりの共有する幸せ。
どっちの角度から見ても、それは幸せなんだ。
「ね、浩平」
でも、それのほうがイヤな夢だったことに気付くとなにもかもを失った気さえする。

 単純にさらりと描かれているように思えるが、非常に疑問が残る文がここには存する。このなかの、「でも、それのほうがイヤな夢だったことに気付くとなにもかもを失った気さえする。」という最後の文である。これの直前には引用のとおり、今は消え去った浩平との夢を見ていることが描かれている。大切な人であり、一緒にいたいと願う浩平との夢の中での邂逅がなぜ「イヤな夢」なのだろうか。これを解決するには、

一緒に集めた幸せは、ふたりの共有する幸せ。
どっちの角度から見ても、それは幸せなんだ。

の2文に特に着目する必要がある。ここで「ふたりの共有する」幸せとは、浩平と長森の間において対等で、均質で、公正なものである。彼らの間柄とは、本当にかくも美しく、理想的なものであっただろうか。浩平は長森を避け続けたあげく、別人に襲わせようとして、やっとそのときになって、本当に長森のことが好きだったことに気づいた。そのとき強姦未遂の場となった学校の教室は、人の顔すら判別できないほどの暗闇で、浩平と長森の間を結ぶ回路は、繋いだ手だけであった。そのとき浩平は手から伝わる感触だけから、自分の本当の気持ちを見いだした。暗闇という効果がなかったら、浩平はこの気持ちに気づいたかどうか怪しい。しかも、この前の部分に選択肢があり、長森が繋いできた手を振りほどかない限りこのルートには入らないことも考え併せると、ここの手の感触は相当に重要なものであることがうかがえる。

 この例においては、浩平が視覚を失っていることが重要である。シニカルに自分を眺める視点、いつものように幼なじみの惰性系として長森を見る視点、その両者を失い、特定の感覚が強化されて気づく気持ちというのは、感覚において均質なものであるとは到底言えまい。浩平側の行為に不足と過剰があり、長森側にとっては危機でしかないはずの上記事件において、それでも浩平を追いかけ、「浩平でないとダメなんだよ」という台詞を吐く。この間柄に対等性や均質性が存在するだろうか。むしろ、上記の浩平や長森の感覚は不条理と見なされることであろう。しかし、理屈では納得のいかないことであっても、それは彼ら自身から湧きだし、彼ら各々が文字どおり身をもって思い至ったのである。そこには、整合性や対等・均質・公正・共有といった、後付けの理由など不要なのである。

 「どっちの角度から見ても」という視点についても、横断歩道で浩平のことを見ない長森は、その真意は

長森「また逃げられないように、知らん顔してたんだよっ」
長森「すぐにも走って…正面から抱きしめたかったけどっ…ぐっと我慢してっ…
長森「ぼろぼろ泣きだしそうだったけどっ…ぐっと堪えてっ…」

というところにあったとしても、浩平にとってはそう受け取られず、

他人同士だから。
他人とは、黙ってすれ違うものだから。

という誤解をもたらすことになる。それゆえ、このときの二人の行動は「どっちの角度から見ても幸せ」ということにはならない。お互いが互いに相手の気持ちを考えて行動したとしても、それは常にかみ合うわけではなく、すれ違いや反発を招くことがあるのは当然のことである。そのような人間の営みによる不条理を無視して、非常に滑らかで形の整った上記にある互いの姿は、かえって整合性が取られすぎており、不自然である。その点から鑑みるに、この言葉が表す浩平との夢の世界は、2人がまだ未分化であった頃の出来事としてあり、それを思い起こして「イヤな夢」と表現している方が正しい。つまり、このような昔の浩平との関係を払拭できずにいることこそが、長森にとっての「永遠の世界」たる軛であったと考えられる。

 そのため、ぬいぐるみに話しかけることは、長森にとって過去の浩平との関係を払拭するための鍵となっていることに注目しなければならない。そのぬいぐるみは浩平の吹き込んだ言葉を喋るのだが、その内容が浩平の押しつけがましいお願いばかりで満たされているものである。それを聞くことによって瑞佳は、浩平との「永遠の盟約」という束縛から離れ、浩平を対象化しつつ自己をも対象化してゆく。そして、そのような視点を持ちながらもやはり浩平を想う気持ちが続くとき、浩平が帰還するのであろう。そのような心の動きは、同じように見えて、同じでない。その点を季節の移ろいを取り入れて表現したのが

季節のうつろいは緩やかで、いつまでも同じ時間にいるような気がする。
でもちゃんと進んでいる。
同じ季節にわたしはいない。
一歩づつ、あの日から遠ざかっている。
あの日探していたものと、今探しているものは違うし、見ている風景も別だ。

という言葉である。それまで「永遠の盟約」という求心力でのみ支えられていた2人が、対象化という遠心力と、同一化という求心力の両方の力を得て、その力が可変的に動き、二人の距離も揺れ動くことがあってこそ、相手を見いだすことができるようになったというのが、『ONE』において、視点の揺らぎと世界の揺らぎを起こす仕掛けによってもたらされた地点なのではないか、と考える。そうであるならば「永遠の世界」は、確固とした世界を構成しないことにより、人間の揺れ動く視点を巧みに表現・描写したものとして捉えることができるであろう。

注1 『ONE』 本論においては『ONE〜輝く季節へ』((株)ネクストン/Tactics,1998年)を上記のように略記する。(→戻る

注2 恋愛ゲーム 秋風碧氏によるゲームの分類。恋愛要素を持ち、シミュレーション・アドベンチャー・その他の形式を持つゲームの総称。詳細はhttp://www5.big.or.jp/~seraph/zero/以下を参照のこと。(→戻る

注3 折原浩平 『ONE〜輝く季節へ〜』主人公のデフォルト名。ゲーム中においては名前を変更することも可能であるが、主人公の存在感と特異な世界観等に鑑み、あくまで一個のキャラクタとして尊重すべき立場から、デフォルト名を使用する。以下浩平と略記する。(→戻る

注4 (12/1(火)就寝後) この引用箇所における時間標記は、あくまで毎日の生活側のストーリーにおいてどの部分に挿入されているかを示したものである。ゲームのステータス画面に現れる標記は、あくまで「--月--日( - ) --時--分」である。以下、「永遠の世界」の場面等、日時の標記のない場合はこれに従うものとする。(→戻る

注5 『自分を現実からデリートしないために』(佐分利"戯れ言遣い"冬紫晴 著) 『ONE〜輝く季節へ〜評論集』(杏代舎,1999年)より(→戻る

注6 『身体的関係性と経験』 『Piece of Destiny』(Seraphim's,2000,CD-R)所収の評論による。(→戻る

参考文献・webページ等

(評論)
三浦雅士 『考える身体』 (NTT出版,1999年)
鷲田清一 『現象学の視線 分散する理性』 (講談社学術文庫,1997年)
船木 亨 『メルロ=ポンティ入門』 (ちくま新書,2000年)

(小説)
村上春樹 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 (新潮社,1985年)
村上春樹 『ノルウェイの森』(講談社,1987年)

(同人関係)
杏代舎 『ONE〜輝く季節へ〜評論集』(1999年,同人誌)
Seraphim's 『Piece of Destiny』(2000年,CD-R)

(webページ)
恋ZERO http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/
iMAKi's(現CLOSED LOOP) http://isweb12.infoseek.co.jp/diary/imaki/


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