Research
SNOWとデザインパターン
恋愛ゲーム学補講 第33講
2003/09/18初版,2003/09/22修正
※この文章にはSNOWのネタバレが多々含まれていますので、これからプレイを検討されている方は十分にご注意ください。
1.SNOW〜AIRを越えて
3週間ほど前に、SNOWを読み終えた時の当初の印象は、とてもよく出来ているが、その既視感ゆえに今ひとつインパクトに欠ける、というものだった。しかし、OP/ED/挿入曲やBGMを繰り返し聴きながら(特に曲は気に入ったものが多かったので)物語を反芻する中で、どこかこれだけ完成度の高い作品をそれだけの印象で通り過ぎてしまっていいのだろうかという思いがありアンインストールすることなく残していた。それが決定的にインスパイアされたのは恋ZEROでも度々論文を掲載させて頂いているthen-d氏のD.C.〜ダ・カーポ〜論である「失われた"Fine"を求めて」(同人誌即売会で発表,2003/09/22現時点ではインターネット上では未公開)がきっかけだった。
then-d氏はそこで和歌・連歌に見られるような「本歌取り」や能の「本説」という考え方を提示する。「テクストとは無数にある文化の中心からやってきた引用の織物である。」(「テクストの快楽」)とし、「作者の死」を説いたのはロラン・バルトであるが、成熟期を迎えた恋愛ゲームが既存の恋愛ゲームの文法や構造を踏まえて作られるのはむしろ当然という訳である。ちょうどフェアリーテール花月組の「鏡の中のオルゴール」やぱんだはうすの「メルティ・メルヘン」が古い御伽噺をベースとしたパッケージを売り出しているのも偶然とは思えない。
先行する作品を意図的・自覚的に「引用」して新たな作品を生み出す表現方法としては3つある。すなわち、then-d氏の言う「i)本歌取り」と、「ii)パロディー」と、「iii)パクリ(盗作)」である。「i)本歌取り」は「和歌で、古歌の語句・発想・趣向などを取り入れて新しく作歌する手法。新古今時代に盛んに行われた。」(大辞林第二版)とあるように、読者(あるいは聞き手)が多くはその当時の古典である先行作品をすでに知っていることを前提として、先行作品の世界を踏まえて新たな世界を作り出すことで深みを出す手法である。一方「ii)パロディー」は「既成の著名な作品また他人の文体・韻律などの特色を一見してわかるように残したまま、全く違った内容を表現して、風刺・滑稽を感じさせるように作り変えた文学作品。」(大辞林第二版)とされ、しばしば同時代の作品に対するある種の風刺の性格を持つ。しかし、i)、ii)ともそこには読者が先行作品を知っているという前提があり、また作り手の先行作品に対する一定のリスペクトが存在している。これらに対して、「iii)パクリ(盗作)」は何ら新しい趣向が加えられていない悪意的なものを言う。これは単に先行作品と読者に対する侮辱であり、プロのクリエイタとして決して許されない行為であるのは言うまでもないだろう。
SNOWは確かに先行するKanonや特にAIRの影響を強く受けた作品である。画面構成しかり、OPムービー構成しかり、メニュー画面推移(冬→夏→冬→春)しかり、フラグ管理(現代→過去→現代')しかり、キャラクタデザイン(龍神-翼人,澄乃-名雪/観鈴,etc.)しかり、シナリオ展開しかり。しかし、それが少なくないユーザの感想として語られる「パクリ」に当たるかと言えば決してそうではない。流用しているのはキャラクタデザインのパターンであったり、シナリオデザインのパターンであったりするが、それらによって最終的に描こうとしている世界観や物語は、土方氏が指摘するように、AIRのそれとは全く違う方向を向いているからだ。
状況的にも作り手自身が類似性を隠そうともせずはっきりと「似せている」と言い切れるのは「パクリ」という負い目がないからであり、2003年の時点において読者が古典として誰もが知っていることを前提とできるのは1999年のKanonや2000年のAIRぐらいである(ErogameScape−エロゲー批評空間参照)。SNOWはAIRやKanonの「パクリ」というよりはむしろ、大枠としては「本歌取り」的であり、細部で「パロディー」的に合わせ技として活用していると言うべきだろう。当初の構想ではSNOWは完全な「パロディー」が目的だったようなのでどちらかというと一部に名残が残っているということだろうか。例えば、OP内では「ただ…もう一人の私がいる、そんな気がして」というAIRの意味深な名台詞に対して、「あんまんは命の源だよ〜」などと軽く肩の力を抜かせてみる、といった具合である。
ではこの「本歌取り」によって生まれた効果は何か。1つには「安心感」である。SNOWは非常に「先の読みやすい」物語だが、これはネタバレシナリオである「Legend編」をプレイ全体のかなり早い時点に持ってきていること(1ヒロインシナリオを読み終えた時点で読めるようになる)とともに、既存作品のキャラクタ/シナリオデザインをふんだんに盛り込んでいることも大きい。恋愛ゲームのごく初期から「ときめきメモリアルですでに高い好感度が得られると分かっている選択肢を嬉々として選ぶプレーヤ」が揶揄されたように、本質的に、恋愛ゲームにおいては、意外性よりも安心感の醸成の方が重要であることを、SNOWの作り手はよく分かっている。また、「安心感」ということには「先が読みやすい」ということと同時に、「話が分かりやすい」ということも含まれる。例えばAIRでは「Summer編」の「Dream編」「Air編」との非連続性が読み手を惑わせるが、SNOWの「Legend編」からは他ならぬ生き証人が2人も現代に残っているため、その連続性が極めて明快である。
こういった徹底してユーザ側に立った「安心感」「分かりやすさ」は読み手をしばしば置いてきぼりにする自慰的なAIRとは対照的であるが、それだけではなく決定的な差がシナリオライタの世界観(世界の見方)に存在する。AIRでは「そら」という人でない世界に関与できない視点を持ち込んで、執拗に無力感と世界に対する諦念を読み手に植えつけようとするが、SNOWでは、しぐれシナリオに見られるようにプレーヤキャラクタの主体的な行動によって輪廻を断ち切りヒロインは救われるし、ハッピーエンドかどうか分からず難解とされるAIRのエンディングに対して、SNOWのラストを締めくくる桜花シナリオには悲しみを乗り越えながら地に付いた家族の幸福を掴んでいく(時にはバカップルぶりすら展開する)等身大のハッピーエンドを用意する。曽我氏はこれを
SNOWとは澄乃の言葉を借りれば「こうして,みんなとずっと一緒に,面白おかしく生きていこうね.」という物語であり,この世を捨てたものじゃないとする彼らの強い意思が伝わってくる.
と書いている。そこでは作り手の世界観の違いは明らかだ。
中でも、AIRの(最後の「Air編」の)ラストが「さようなら」で終わるのに対し、SNOWで通常最初に迎えることになる澄乃シナリオおよび最後の桜花シナリオのラストが「おかえりなさい」で受け止めるのはまさに「本歌取り」の妙味だろう。言うまでもなく、プレーヤキャラクタに対しての「おかえりなさい」であり、同時にプレーヤに対しての「おかえりなさい」であるということである。意地の悪い見方をすれば、「お前らいい加減エロゲーやめろよ」とユーザを突き放し、路頭に迷わせたAIRに対して、KanonやAIRに深くコミットしてしまうナイーブなユーザが、そう簡単に厳しい現実に復帰できるはずがないとみて戻るべき場所を示したのがSNOWであり(何だかんだと言ってもエロゲーを買ってくれないことには会社が潰れてしまう訳で。)、ピュアで切ない純愛ストーリの中に仕込まれたStudio Mebiusなりの毒であるとも言えよう。いずれにしてもここに至ってはユーザの感想でしばしば見られる、「AIRやKanonをプレイしていなかったらもっと楽しめたかもしれない」というのはもはや全くの逆であり、「AIRやKanonをプレイしていることを前提としている」というのが正解なのである。
このように、SNOWはKanonやAIRのキャラクタデザインやシナリオデザインをパターンとして敷衍するものの、異なる世界観と物語を提示することで、AIRを越えて着実に次の一歩を踏み出している。SNOWにはまだまだ筆力に改善の余地があるし、率直に言って、私自身麻枝准の奇形的な世界観に惹かれる人間の1人ではあるものの、SNOWはその優れたグラフィックや音楽、演出効果と相まって、2003年を代表する高水準の恋愛エンターテイメントを実現していると言える。
2.デザインパターンという考え方
さて、前項ではSNOWに見受けられるキャラクタデザインやシナリオデザインのパターンについて触れた。以前にストーリの4レイヤモデルでキャラクタについては属性の組み合わせで、物語についてはストーリビルディングブロック(物語要素)の組み合わせによって構成され、その組み合わせの妙を引き出すのがシナリオライタの仕事である、ということを書いたが、このように、高度に物語が重層化・複雑化してくると、あらかじめユーザに受けのよい属性の組み合わせやストーリビルディングブロックのチェーンをパターン化する、という類型化をもう1段階進める動きが出てくるのは自然なことである。例えばSNOWで再三適用されている「擬似的な別離」→「再会」というイベントチェーンはONEの頃から多用され終盤を盛り上げる手法の中でも定番中の定番である。このような汎用性の高いパターンを「(キャラクタ/シナリオ)デザインパターン」と呼ぶことにする。
SNOWに対するユーザの反応ではKanonとAIRを足して2で割っただの3で割っただのと言う否定的な意見がしばしば見受けられたが、上記のようなデザインパターンはSNOWに限らず要求される物語深度が深くなるにつれて、SNOWのようにあからさまに見える形にするかどうかはともかくとしても、どんどん広く適用されていくものであると考えられるし、ただそれだけによって世界観や物語の魅力が失われるものでもない。パターンを表面だけ見て似ているからと端から拒絶するのは勿体ないし何より楽しむためのゲームの目的から外れている。斜に構えて類似点ばかりに注意するのではなく、心を開いて積極的に楽しもうという意識も必要なのではないだろうか。大切なのは減点主義から加点主義に発想を転換することである。
バルトは「テクストは(無数の作品が読者に蓄積され解体され再構成されていくことで)読者の中にのみ収束する」とした。2001年の「君が望む永遠」も、2002年の「D.C.〜ダ・カーポ〜」もそれぞれのやり方でKanonやAIRからの脱却を試みたが、2003年のSNOWがAIRを越えて一歩を踏み出したように、ユーザも今また、一歩を踏み出していくことが求められているのである。
3.参考文献
- then-d「失われた"Fine"を求めて(D.C.〜ダ・カーポ〜)」
- 土方時雨「SNOW」
- 曽我十郎「R.S.T.(内日記)」
- 早稲田大学現代文学会「作者の死−読者の復権」
(2003/09/24追記)
例のStudio Ringはその「ストレートさ」に笑わせて貰ったが、その意味では「メビウスの輪」は表側だと思って辿っていくと裏側になって元のところ(の裏側)に戻ってくるという物理構造になっている訳で、AIRとSNOWの関係を想起させる。本文では一歩を踏み出している、とは書いているが、見方を変えれば元の場所に戻ってきた、と言うこともできなくもない。では一体どこに? こんなところにも各所で繰り返し久弥直樹の影が噂される理由があるのかもしれない。
いずれにせよ、AIRで「2度と来るな」とぶっちゃけてしまったがゆえに(KEYの次回作とされる)CLANNADが難産になってしまった、とはthen-d氏の弁だが、SNOWは別ブランドの形でAIRに対して出されたVisual Art'sの「答え」であるとも言える。CLANNADが出るとしたら一体どんな展開が行われるのか、これでますます興味深くなった。
また、本文執筆時点では調査不足で知らなかったが、東方教主氏の「SNOWはどうして」が同じような指摘をされておりより詳しいのでこちらも参照して頂ければ幸いである。