第七話Aパート

作・ヒロポンさま

 


 

2月12日(なんでもない日)

 

 

その瞬間、じっくりと煮込んだスープのように凝縮された過去の記憶が、アスカの脳裏をかすめていった。

 

 

 

 

「…………辺りは真っ赤だったわ。どんどんと温度が上がっていって、ママが乗っていたロボットの体がミシミシって音を立てて………ママは正直、もう駄目だ。ここで死んじゃうんだって思ったわ」 

「……そっ、それでどうなっちゃったの?」 

「うん、それでね。ママが、もうおしまいだって思ったときに………シンジが、パパが………自分の危険も省みずに飛び込んできてくれたの。溶岩の中にしずんでいくママの乗ったロボットの手をギュッて掴んで引っ張りあげてくれた。それで、ママは助かったのよ」

「パパ、すごぉぉぉぉぉぉい」 

「ふふん、凄いでしょ………。ユイカのパパはねぇ、普段はとっても、ボケボケっとしてたけど、いざって時は、ほんっっっっっっっっっっっとうに、頼りになったんだから」

「パパ、カッコ良かったんだ」

「そうよぉ、ユイカのパパ、とってもカッコ良かったのよ。ユイカはパパの事好きかな?」

「うん、ユイカねぇ、パパの事大好きぃ」

 

 

 

 

 

−…………もしかして、あれって洗脳だったのかしら………

 

一口では言い表せない感情を胸に秘めて、アスカは、そんなことを考えた。

なんだか煮え切らない顔の彼女の目の前には、色違いのパジャマを着込んだ中学生のカップル………もとい、夫と娘が佇んでいた。二人は、ダイニングテーブルを前にして、お互いにはにかむような視線を絡ませあっている……………ように彼女には見えた。そう感じた瞬間に、不確かだったアスカの心は、はっきりとした不機嫌へと手際よく収束していった。

むすっと可愛く拗ねるアスカの前で、二人の距離が縮まっていく。そして……

 

「おやすみなさいパパ」

 

朱に染まった頬。長い髪をさらさらと首元で揺らしながら、ユイカは顔をシンジに近づけて、チュッとその頬にキスをした。

 

−娘にキスされて、なぁにでれでれしてんのよ!バカシンジ!

 

「おっおやすみ」

 

なんて、どもりながら言っている夫の事を睨み付ける。

そんなアスカの様子を知ってかしらずか、ペッカペカの肌を紅潮させた娘が、幸せそうな笑顔を浮かべながら、彼女のほうに近づいてきた。

そのいかにもな、笑顔に、アスカの顔も緩んでしまう。

ユイカは、ちょっとだけ伸びをするようにすると、アスカの頬にも、ちゅっとキスをした。

 

「おやすみなさいママ」

 

昔感じた乳臭さが、シャンプーの匂いに少しだけ混じっていた。

 

「おやすみ」

 

アスカは、覚えず優しい声でそう返す。

そのままシンジの横を摺り抜けて、自分の部屋に戻っていく娘の背中を見送った後、アスカは、夫−碇シンジに剣呑な視線を投げかけた。

 

 

 

 

 

でれでれでれ

 

可愛い顔をだらしなく緩めながら、ユイカはベットの上に思いっきりダイビングした。

 

ぼふっ

 

「んふふふふふふふふふふ」

 

父親に甘えるときの母親と同じようにのどの奥で笑う。ダイビングしたときに少しだけパジャマの上着のすそがめくれて、縦長のかわいらしいお臍が顔を覗かせていた。

あのペンギン騒動(?)の二三日後から、ずっとこんな日々が続いている。

想いに気づいて、ぐすぐすと悩んでいた姿は、いつの間にやらはるかかなただ。

きっかけを作ったのは、やっぱりというか、なんというか、加持ミユキだった。

話は、あのペンギン騒動の直後にさかのぼる。

 

 

 

 

 

「いい、ユイカ。オカマちゃん銭湯に行くの法則よ!」

「はぁ?」

 

いつもの昼休み。屋上で交わした会話。すべてはこの間抜けなやり取りから始まったのだった。

困惑するユイカをよそに、ミユキは得々とその法則とやらを説明した。

 

 

 

その説明を要約すると以下のようなものだった。

 

 

 

当たり前のことだが、オカマちゃんは男が好きである。

でも性別は男で、姿形も男。

だから、オカマちゃんが銭湯に行くと男湯に入る(入らないこともあるかもしれないけど))。

男湯。男好きのオカマちゃんから見れば、そこはまさに天国なのだ。見渡す限りさまざまな形の男の尻が立ち並び、ぶらぶらした物も、そりゃあ、もう、見放題。

こうして、オカマちゃんは、自分の姿が男であるがゆえに、得をしてしまうのだ。

 

 

 

「……………つまり、ユイカ。あんたの立場は、銭湯におけるオカマちゃんと同じ事なのよ」

「はぁ?」

 

そもそも、オカマが銭湯の男湯に入れることでそんなに喜ぶものなのか、ユイカには得心いかなかったし、なにより目の前の親友がどう言うつもりでこんな話をしているのか、まったくもって彼女には理解しがたかった。

 

「鈍いわねユイカ」

 

ユイカの様子に、わざとらしくあごに人指し指をあてて、勝ち誇ったようにミユキが言った。

 

「いい、ユイカ。あんたは、シンジさんの娘なのよ。そして、立派なファザコン娘であるあんたは、シンジさんのことが好き」

「立派なファザコン娘ってなによ」

 

ミユキの指摘にほほを真っ赤に染めながら、ユイカが不満の声をあげる。「そりゃぁ、私はパパのことが好きだけど……」などと小さい声でぶちぶち言てったりする。

 

「まあ、とにかくよ………。ここまで言ったらわかるでしょユイカ。あんたはシンジさんの娘なんだから、いろんな面で恵まれているのよ!」 

「恵まれてる?」

「そう………あんたはシンジさんの娘だから、ひとつ屋根の下で暮らせる。四六時中シンジさんのそばにいて、シンジさんのいろんな姿が見られる。それどころか、娘なんだか、おはようからお休みまでのチュウも自由自在。ユイカが望めば、お風呂に一緒に入ったって、添い寝してもらったって、全然まったく不自然じゃないのよ!」

 

どこまで本気でどこまで冗談なのかわからないが、最後にはこぶしを握り締めて力説するミユキの姿を、ユイカはただあきれてみていた。

 

−もしかして…………私の想いを、慰めてくれているつもりなんだろうか……

 

そんな感慨も、自分の理屈に満足そうにうなずくミユキの姿の前では、かすみのように消えてしまう。

 

「頭痛い………」

 

遠くの空に目をやって、彼女はあきれたようにつぶやいた。

 

 

 

ミユキの話はいつもそうなのだが、惑星のそばをかすめる巨大隕石のように、ものすごい勢いで核心のそばをすり抜けていく。

まあ、なにはともあれ、印象には残るのだ。

 

−まあ、ミユキの言う法則とやらはおいとくとして………って、そもそもあれって法則なの?………まあ、いいや……とにかくそれはおいとくとして、おはようと、おやすみのキスくらいは、してもおかしくないんじゃないかなぁ………ママだってしてるし………

 

このように、帰宅するころには、ユイカはすっかりその気になっていた。

 

「あっ、あのね……お休みの前にパパとママにキスしちゃ駄目かなぁ」

 

ほほを赤くして上目遣いでお願いしてきた娘に、シンジもアスカも抗ことができなかった。

こうして、先ほどダイニングで行われた光景が、この家の日常として定着してしまったのであった。

 

 

 

 

 

時間を元に戻す。

 

 

 

「んふふふふふふふふふっパパのほっぺ、今日も柔らかかった」

 

ユイカは、年頃の娘らしからぬ怪しげな発言をして、目の前にある枕に顔をうずめた。

そのまま柔らかい枕に顔をぐりぐりしながら、足をパタパタさせる。

ユイカは、シンジの照れた顔が好きだった。小さいころ見ていた写真の中の男の子が、目の前にいて、自分のことを意識して頬を赤く染めている。

世間で言う父親というものがいったいどういうものなのか、親友であるミユキの父親−加持リョウジを通して以外知ることはなかったけれど、今自分が持っている父親への気持ちと、世の娘たちが持っている父親への気持ちが、ちょっとだけ違っていることをユイカは知っていた。

 

でも、いいのだ。ずっと写真の中や母親の思い出話の中にしかいなかった父親が、いつでも手の届くところにいてくれる。毎晩寝る前に、少しだけ顔をこわばらせて、自分のキスを待っていてくれる。

ユイカにとっての父親は、つまるところそう言う存在なのだ。

 

最前の光景に取り留めない思考を絡ませていたユイカの顔が、何かを思い出したかのように、ふっと上がった。枕の中に口元をうずめながら、茶色の髪のしたにある優しげな瞳で、ベットサイドにある机を眺めやる。

きちんと整頓された机の隅には、14年前のシンジの写真とペンギンのぬいぐるみがベットの方に向けておかれている。そして、その先、机の真中あたりに赤い包装紙できれいにラッピングされた小さい箱がちょこんと置かれていた。

枕に埋もれていたユイカの顔が少しだけ上がる。彼女は、笑いをこらえるように口元をひくひくさせながら、そのままベットに手をついて体を起こした。

起きあがる一連の動作の中で、シンジの写真の横にあったペンギンのぬいぐるみを手元に引き寄せて膝元におく。少しほうけたような視線は、今度はドアに張ってあるカレンダーに注がれていた。

 

2月。その月の中ごろ。14日の所に、赤い色でくるっと丸印がつけられている。

その丸印を見て、ユイカの口元に再びだらしない笑みが浮かぶ。柔らかそうな頬に、乱れた茶色の髪がはりついていて、笑った拍子にその数本が、再び肩に流れていった。

 

「そうよ。私はパパの娘だもん。だから、バレンタインにパパにチョコをあげたって、全然不自然じゃないんだから」

 

いつのまにか、すっかりミユキの言った事に、感化されているユイカ。誰も突っ込みを入れるもののいない部屋の中で、彼女はごろんとベットにひっくり返った。

 

白い天井。見なれた部屋の中。

蛍光灯の光を反射する茶色の瞳には何が映っているのだろうか。

 

「パパ、大好きぃ」

 

自分の言葉に、白い頬をほんのりと赤く染めて、ユイカは、手元にあるペンギンのぬいぐるみをぎゅっと抱き寄せた。

 

 

 

惣流ユイカ14歳。

 

三つ子の魂百まで

 

 

 

 

 

 

 

娘が幸せに浸っていたちょうどその頃、父親と母親は寝室でもめていた。

 

「だから、そんな顔してなかったって」

 

情けないシンジの声が、寝室の空気を揺らす。

 

「ウソよバカシンジ!あんた、ユイカにキスされて、でれでれしてたじゃない」

 

眉根を寄せて、ジトッとシンジをにらみつけるアスカ。間接照明の与える陰影が、一種異様な凄みを与えている。

 

「それはだって………」

「だって、なによ?」

 

あとずさるシンジに追いすがるように、アスカが言葉をかぶせた。シンジの真後ろには、二人がいつも寝ているベットがある。

アスカとしては、そんなに本気で攻め立てているわけではないのだが、しどろもどろのシンジの反応を見ていると、なんだかちょっと悲しくなってきてしまう。

そのまま歩みを進めてシンジの後ろに回りこむと、ベットの上にチョコンと座り込む。

 

「……最近シンジってば、ユイカばかりに優しくしちゃってさ……」

 

アスカは、上目遣いに言って、夫のパジャマの裾をくいっと引っ張った。シンジも座ってよぉ、青い瞳がそう言っている。

 

「拗ねないでよアスカ」

 

奥さんが不機嫌モードから、甘えん坊モードに変わったのを見て取って、シンジはほっと息をつくと、要望どおり彼女の隣に腰掛けた。その時、さり気なく手を握ったところなどは、シンジの慣れを感じさせる。

 

「誰のせいよぉ」

 

少し甘えるように、少し拗ねたように、複雑でそれでいて単純なアスカの表情を、シンジは美しいと感じた。

普段のアスカは、自分の美しさを大胆に太い線で描きあげる。自信に満ちた瞳の強い輝き。己が意思を主張する手の動きと、こぎみよい足元の大きなストライド。無造作な動作が描く放物線が彼女の印象を形作る。

でも、今のアスカは違う。髪の先からつま先まで、シンジの前に立つアスカは、いつもより細く柔らかい線で描写されている。慎重に繊細に、自然が自分に与えてくれたラインを意識した動き。シンジだけに見せる、女としてのアスカの形。失いたくない、誰にも渡したくないその形。

シンジは、拗ねるアスカの顔に優しく口元を寄せると、おでこ、鼻の頭、くちびるの順にキスをしていく。

 

「……………ユイカに感謝しなきゃね」

 

シンジは、まつげを振るわせるアスカの首筋に頬を寄せて、つぶやくように言った。

 

「?」

 

すっかり機嫌を直して、うっとりと目を閉じていたアスカが、問いかけるような視線を夫の横顔に向けた。

 

「前に、アスカ、言ったよね。……………ユイカがいなかったら、僕のこと忘れてたかもしれないって」

 

言いながら、シンジはアスカのパジャマのボタンを一つ一つ外していく。

小さい衣擦れの音がするたびに、アスカの白い肌が少しずつあらわになっていく。美しい女の肢体がシンジの独白を誘っていた。

 

「たまに怖くなるんだ………もしユイカが生まれてなかったら、どうなってただろうって。…………僕がいない14年の間にアスカは別の人と………。もし、そうなっていたら、アスカもユイカもいないこの世界に帰ってきた僕は、いったいどうなってたんだろうって………そんなこと考えると、たまらなく怖くなるんだ」

 

アスカのパジャマはすっかりとはだけられ、シンジの手は裸になった果実の上に添えられていた。すべらかな肌の感触は、いつまでも変わらないように彼には思えた。柔らかく、それでいて張りのあるふくらみの先端が、シンジの手の中で徐々に硬く尖っていく。

 

「そんなことを考えてたの。馬鹿ねぇ」

 

所有権を主張するように自分の体をまさぐりつづける少年の頭を、アスカは優しく抱きしめた。

 

「私の生涯で、男はあんただけって前に言ったじゃない…………」

「じゃあ、どうして?」

 

−どうして、あんなこと言ったの?

 

落ち着いた色の瞳で、シンジが問いかける。

 

「…………完璧なものが欲しいのかも…………本当は、そんなこと考えること自体無意味なのにね」

 

部屋の隅にうずくまる一片の陰を見つめながらアスカが言う。その口元には、苦笑にも似た複雑な感情の残滓が絡みついていた。

 

「なんにしても、今が……幸せだからかな…………」

 

アスカは、一瞬の思考を引き剥がして、自分のことを見上げるシンジの顔に視線を這わせた。触れなくてもその感触を体が覚えている。いつだって、目の前にいて、確かめることができる。

 

「シンジが帰ってくる前は、どうしてシンジなんだろう、なんて考えなかったもの……ユイカのこととシンジを元に戻すことだけで、頭が一杯だった。いつも過去を振り返るのが怖くて、必死になって走ってばかりいたもの…………だから、今になって、シンジがいなかった時のこと振り返ってるのかもしれない…………」

 

いつしか二人は、重なり合いながらベットに横たわっていた。ベットの先、開け放たれたカーテンの向こうには、都会の明かりを浴びて白ずむ夜空が広がっている。静かな夜の雰囲気が、二人の鼓動を早くする。毎度のことなのに、どうして、いつもこんなにどきどきするのだろうか。そんなことを二人は同時に考えていた。

 

「もしかしたら、なんてないよ。僕とアスカは、僕とアスカだけだ」

 

先に、もしかしたらを口にした夫が、自分に言い聞かせるようにそう言った。確かめるようにその手は、アスカの体を這い、彼女のパジャマの下をゆっくりと引きおろしていく。

 

「そうね………アタシはアタシだけ、シンジはシンジだけ………」

 

脱がされる感覚。シンジを助けるように体を浮かせながら、アスカが答える。

 

「アスカは誰のもの?」

 

最後の布一枚になったアスカの美しい体に、シンジの視線が注がれる。芸術品のようなたたずまいは、彼の視線を浴びて淫蕩な気配を帯びていく。

 

「ぁ」

 

体の毛穴の一つ一つが開いていくような不思議な性感に、アスカは知らず息を継いだ。

一拍おいて、自分の体を視姦する少年の体を胸元に掻き抱いく。

 

「…………シンジだけのものよ………シンジはぁ……アタシだけのもの」

 

途切れ途切れの物言いが、シーツの上をゆるゆると滑っていった。

そのまま彼女は、くすりと笑うと、されるがままになっているシンジの首筋に、ゆっくりと唇を這わせる。そして…………

 

「ちょっと、アスカ………首は駄目だってぇぇぇぇぇぇ」

 

今までの淫蕩な空気を吹き払うように、シンジがあげた抗議の声を、アスカはいたずらな輝きをともした視線一つで黙殺した。

 

「しぃらない」

 

首筋につけられた唇が、その薄い皮膚を、思いっきり吸い上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

−同刻

 

 

 

シンジ達の住むマンションの近くにある公園。その公園の南側にある商店街の十字路を東に行くと、小さな山を切り開いて開発した大きな住宅地に行き当たる。近くにモノレールの駅があることから、都心で働く人々が多く住んでいるこの住宅街の一角に、霧島マナの家はあった。

山際にある木造2階建ての、ごく普通の住宅がそれだ。

時刻は午前2時。辻辻に立てられた街灯が、琥珀色の光で、付近を照らしている。真夜中の住宅街は多くの

人の気配をはらみながらも、シンと張り詰めたような夜の静寂の中にどっぷりと沈んでいた。たまに遠くで、犬の鳴き声がする以外物音一つしない。

そんな寝静まった付近の家々の中で、霧島家の二階にだけこうこうと灯かりがともっていた。

 

 

 

「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 

吐き出された長い長いため息が、フローリングの床の上で重っ苦しく渦を巻く。

霧島マナは、若鮎のようなしなやかな肢体をシーツの海にぞんざいに投げ出して、白い天井をぼーーーっと眺めていた。

ここ2週間近く、夜はずっとこんな感じだ。

最初はなにかの気の迷いだと思っていた。いわゆる色恋沙汰に関しては、人一倍興味があって、人様のことには興味津々首を突っ込んでいたりしていたのだが、まさか自分自身が、こんな状態になってしまうとは…………。

気がつけば、ひとつのことだけを考えている。

気がついたら、一人の少年の面影が頭の中をかすめている。

 

 

「「そう、好きなんだ」」

 

 

日中の残滓の残る青い空の下で、碇シンジはそう言って笑ったのだ。うすくけぶるような、なにか透徹した笑み。とても同年代に思えない、落ち着いた雰囲気を持った瞳の色が、とても印象的だった。

 

 

「…………碇君」

 

 

つぶやいた後、はっと我にかえってあたりを見まわす。誰もいるはずもないのに……。

マナは、また一つため息をついた後、茶色の頭髪に覆われた頭をぶんぶんと左右に振った。

 

「ああっ、もう……………らしくないらしくないらしくないぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ」

 

しんとした夜の空気が、ふるふると震える。マナは、声が吸い込まれていくような感覚に、自分でもびっくりして、途端に黙り込んで、ベットの上で体をすくませた。

壁に掛かった時計の音がやけに大きく聞こえる。

胸にあったのは、漠然とした後悔の念だった。

 

「付き合っている人いるの?なぁんてこと聞いちゃったもんなァ。もう、ぱれぱれだよねぇ…………………」

 

その質問をユイカに発したのは、もう2週間近く前のことなのに、一人でいるとついつい思い出してしまう。こんな所もいつもの自分らしくなくって、マナの心を戸惑わせる。

 

「ああああっ、もう、あたしってば気のまわんない女だわ。なぁんで、あんなストレートな質問しちゃったんだろぉ」

 

そもそも、その後の一連の行動―やたらシンジに話し掛ける。シンジのことをずっと目で追っているなどなど−で、マナの気持ちは、周囲の人間にばればれなのだが、本人は、そんなことよりもユイカに質問してしまったこと、一事だけを気にしていた。

鋭かったり鈍かったり、アンバランスな認識は、彼女の心の状態を如実に表している。

ユイカに聞いたのは、彼女がシンジと近しいことを多分に意識していたからだ。答えを聞いたとき、マナは、自分でもびっくりするくらいショックを受けた。

 

「……………付き合っている娘がいるんだよね」

 

憮然とした表情で質問に答えたユイカの顔が脳裏に浮かぶ。

その表情の意味は簡単に読み取れた。

 

「きっと、ユイカも碇君のことが好きなんだ…………」

 

呟くように言って、マナは、ベットの上でごろんとうつ伏せになった。

 

「………ユイカもこんな思いしてるのかな」

 

目の前には、薄い萌黄色のシーツ。少しだけ声がくぐもって聞こえた。耳から入ってくる自分の言葉に、ぐっと胸が締め付けられる。

 

−こんな思いって、どんな想い?

 

少しだけ、もしかしたら、ちょっとだけ、自分に酔っているのかもしれない。そう思うと、少しだけ気持ちが楽になったような気がした。

 

「ぷっくっくっ」

 

思わず笑いがこみ上げてくる。

 

「そうよね……そうよ………こんなの私らしくない………」

 

そう言って、マナはむっくりと起き上がった。

 

「あさってはバレンタインだもんね。………ユイカが碇君のこと好きだって、彼女がいたってかまわない」

 

快活な表情が顔に浮かぶと、細い手足にまで、生気が宿っていく。

 

「よぉぉぉぉっし!とにかく、攻めるべしっ!マナァ、ファイトぉ!」

 

ベットの上でぐっと体をそらせると、マナはそのまま後ろに倒れこんだ。

 

再び、天井を眺め見る瞳は、力強い光彩を放っている。

 

「………そうと決まれば、寝よ寝よ」

 

枕もとのリモコンをぴぴっと押すと、優しい闇が、部屋を包んだ。

シンとした夜の空気。

一人存在を主張する時計の秒針が、10周したかしないかのうちに、マナはあっさりと眠りの世界に滑り落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

第七話Bバートにつづく

  


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