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スペイン大好き1998年7月15日から28日の記録

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1998年8月28日作成

2001年03月25日更新

1998年7月15日〜7月21日 (7月22日〜7月28日)

1991年11月に、初めてパラで飛んでからのひとつの夢だった「海外でのフライト」を実行しました。それ以上に妻が希望していたのです。私としては、今のホームエリアである岩屋でのフライトの方が魅力的でしたが・・・。1998年715日にスペインに向けて旅立ちました。このページでは、私がスペインで経験した事や、感動した事を皆様にお伝えしたいと思います。題して「スペイン大好き」

1998年7月15日(水)
大阪伊丹空港発成田空港行きJAL152便は、835分発です。前日に会社のロッカールームにパラザックを始め、大きな荷物を運び込んで置きました。デジタルビデオカメラとパスポートだけを持ってモノレールで山田駅から伊丹空港に行きました。伊丹空港でアムステルダム経由マドリッド迄チェックインして貰いました。今回は、全部予約出来たので、安心です。大量の荷物に係りの人も驚いていました。152便は定刻に出発しました。成田迄の区間は、エコノミークラスだけですが、アサインされた座席は、ビジネスクラスの座席でした。ラッキー!

妻とは、成田で待ち合わせていました。妻は、次男に成田空港迄、車で送って貰っている筈です。私は、国内線の到着口から国際線の出発ロビーへ移動して行きました。「お父さ〜ん」と言う声に振り向くと妻が荷物番をしていました。次男が国内線の到着に迎えに行っているそうです。私は、伊丹でマドリッド迄チェックインしていましたが、妻は、私と一緒にチェックインしようと待っていたようです。次男は私の荷物が多いので大変だと思い、迎えに行っていたとのことでした。国際線のチェックインは結構時間がかかるものです。チェックインが無事終わり食事でナもしようかと言ったら、次男は、「帰らなければならないから・・・」と言ってさっさと帰ってしまいました。

食事が終わって出国手続きをしました。ロビーに旅行傷害保険の自動販売機が並んでいます。最初からこれを利用して保険に入るつもりでした。保険には色々な種類があります。死亡保険を低いのにしておくと掛け金が安いと言う事を知っていましたので、死亡保険を最低の額にしました。それでも、7000円もします。二人分で14000円です。掛け捨てですから、戻っては来ません。一瞬「どうしようか?」と思いましたが、妻の「安心だから掛けておきましょう」の一言で掛けました。後になって思うと、海外旅行に出かける時は、迷わずに保険に加入しておくべきだとつくづく思いました。

成田からの便は、アムステルダム行きJAL411便1130分発です。今回は、運良くビジネスクラスに乗れました。飛行機の中では、「タイタニック」の映画が上映されました。私は、この映画を見るのは3回目です。何回見ても感動します。個人用のテレビ゛で気兼ねなく見る事が出来ました。食事は、チョイスで、洋食と和食から選ぶ事が出来ます。私達は、和食を選びました。チーフパーサーは「流石ですね。日本発の飛行機では、素材が良いですから、和食を選ばれる方が賢明ですヨ」と言ってくれました。確かに美味しかったです。でも、ステーキも捨てがたいと思うのですが・・・。「このワインはとても美味しいですヨ」と言って高級なワインを薦めてくれました。確かに美味しかったのですが、とても萪沢な気がしました。

アムステルダムには、定刻より30分早く、現地時間で16時15分に到着しました。ここからJAL413便に乗り換えてマドリッドへ向かいます。飛行機を降りたらJALの制服を着た背の高い女の人が出迎えてくれました。日本語がとても上手な人でした。彼女に言われたゲートC14に行って待ちました。出発は、19時10分です。約3時間の待ち時間です。飛行機の中でずっと映画を見ていたので、少し眠くなりました。それと、これから行く、異国へ少し不安を感じていました。

アムステルダムからマドリッド迄は、JAL413便と言うフライトですが、KLMオランダ航空の飛行機で運航されます。JALのスチュワーデスも乗っていません。勿論、日本語は通じません。KLMの客室乗務員はとても親切です。笑顔を絶やさずにニコニコと接してくれました。小さなB-737-400と言う飛行機ですが、とても快適でした。これもビジネスクラスでした。フリードリンクなので、遠慮しないで赤ワインを貰って飲みました。飲み終わったらすぐにパーサーが来て、「もう1本如何?」いやあ、KLM大好きです。マドリッドへの空路、虹が見えましたが、丸い形をしていました。マドリッドへは、定刻より少し早く、21時40分に着きました。バゲジクレームで無事に全部の荷物を受け取りました。マドリッドの空港では、パスポートのチェックもバゲッジのタグの確認もありません。他の旅客の後をついて行ったら、到着ロビーの外に出てしまいました。随分と簡単な入国だなあ。これでいいのかなあ。

松島さんの姿を探してキョロキョロしましたが、見あたりません。私は、松島さんに逢った事がありません。顔も知りませんでした。松島さんは、私のホームページを見ていて、多分、私の顔を知っていると思いますが・・・。それにパラザックを持った日本人夫婦は、私達だけしかいません。きっと見つけて声をかけてくれる筈だと確信していました。早着した事をすっかり忘れていました。定刻より30分以上も早く着いたのですから、無理もありません。少ししたらニコニコ笑顔で松島さんがやって来ました。丸い顔のとても好感が持てる人でした。一目で松島さんだと分かりました。

レンタカーを今日から借りる様に予約していたのですが、「疲れている所で運転して事故を起こしてもつまらないでしょう」と言う松島さんのアドバイスで明日から借りる事にしました。レンタカー会社のカウンターで流暢なスペイン語で交渉する松島さんに感心しました。凄い! ペラペラです。私と妻には、何を話しているのか全然分かりません。

松島さんの車で、松島さんの家に向かいました。「今日は、遅いので私の家に泊まって下さい」と言う松島さんの言葉に甘える事にしました。空港から約15分の所に松島さんのマンションがあります。どこをどう走っているのか、全然、検討がつきません。左ハンドルの右側通行は、当然としても、今は、日本では少なくなったマニュアルシフトです。「明日からのレンタカー大丈夫かなあ」

松島さんは、明日からデュッセルドルフへ急に出張に行く事になったそうで、私達と一緒に行く事が出来ないと残念がっていました。それより、私としては、初めての国で、果たして無事にピエドライタ(日本語ではピエドラヒタと読むのだと思いますが、スペイン語の発音ではHは発音しないそうで、このページでもピエドライタと書きます)へ行き着く事が出来るか不安でした。

松島さんの奥様は、ドイツ人です。スザンネと言います。とても美人で賢明な人です。日本語は、ペラペラです。ドイツ語は勿論、英語、スペイン語、フランス語も出来ると言うのですから感心します。私はと言えば、日本語と英語が少しと韓国語が少しです。北海道弁と東北弁、そして、インチキ臭い大阪弁も出来るでえ、と言ったらぶたれそう。

シャワーを借りて汗を流してから、ビールをご馳走になりました。「旨い!」ビールをいただきながら、スペインのパラ事情を松島さんから伺いました。スペインでは、エリア料金は不要で、テイクオフもランディングも余り決まっていないらしいです。技能証も余り重要視していなくて、あくまで個人の責任でフライトしているそうです。無線は、通常、144MHZの無線機を使用しているらしいですが、周波数の幅が日本より広いので、日本製の無線機だと通じない事が多いそうです。明日から行く、ピエドライタは、マドリッドから西に約130km位の所にあります。日本でピエドライタの位置を地図で確認しようとしたのですが、私が持っていた地図では分かりませんでした。アビラの近くと聞いていたのですが、ピエドライタは小さな村なので、日本で売っている地図には、載っていない様です。松島さんに、ピエドライタ迄の行き方を手書きの地図を描いて貰いました。途中の特徴的な目印がとても分かり易く、この地図はとても役にたちました。

24時過ぎに松島さんは、「明日から出張に行く準備がありますので、これから会社に行って来ます。明日は、ゆっくり出発して下さい。スザンネが空港迄案内しますから」と言って、会社に行ってしまいました。なんと忙しい人でしょう。こんな夜中に会社に行くなんて。私達のお世話の為に忙しい仕事の合間に時間を作ってくれた事を知り申し訳なく思いました。でも、旅の疲れが出てぐっすりと眠ってしまいました。

1998年7月16日(木)
昨夜、窓を開けていたら涼しくて、朝方は、寒い位でした。日中はとても暑いそうです。8時30分に起きて、スザンネが用意してくれた朝食を食べました。スペインのコーヒー、エスプレッソをご馳走になりました。とても濃くて美味しいコーヒーです。松島さんのお子さんは、二人です。恵美(エミ)と仁奈(ニーナ)です。エミが私達と一緒に朝食を食べました。ニーナは、もう学校へ行ったらしいです。エミはと言うともう夏休みなのですが、夏期スクールがあるのですが、今日は、寝坊したので行きたくないとゴネていました。寝坊の原因は、私達が昨夜、深夜、お邪魔した事にも原因があるかも知れません。ラ・ムエッティの佐古さんと私達が共同で持って来たお土産に、エミもニーナも大喜びでした。ニーナは、ソーメンを弁当に持って行ったそうです。日本食が大好きの様です。

食事後、私はスザンネの車に乗せて貰い、空港のレンターカーカウンターに連れて行って貰い、レンタカーを借りました。車を見てビックリ。私達夫婦だけで乗るには大きいシトロエンのジャンピーと言うワンボックスカーでした。荷物が多いから便利ですが・・・。スザンネが心配そうに「大丈夫?」と聞いて来ました。「何とか・・・」「右側通行ヨ。右・右と言って走って下さい」と注意を受けました。マンション迄、スザンネの車の後をついて行きました。スザンネの運転はとても上手です。スピードもビュンビュン出します。力がないこの車でついて行くのがやっとです。マンションについて、待っていた妻と一緒に荷物を乗せて出発です。昨日、松島さんから教わった道を何度も確認しながら行く事にしました。分かり易い所迄、スザンネが送ってくれる事になりました。あ〜あ、安心。途中のガソリンスタンドでスペインの道路地図を買いました。そこのガソリンスタンドでスザンネとお別れです。再度、M40への出方A6、N110への道ををスザンネに教わりました。スザンネは、笑いながら「大丈夫よネ」と言って送ってくれました。ありがとう。

妻に運転させて、私がナビゲーターをすれば便利ですが、妻の運転では不安が大きい。仕方なく、妻に地図を見る様に言いました。最近、老眼が進んでいる妻にしては、苦痛の地図でした。おまけにスペイン語の地図です。今、どこを走っているかを知る迄に時間がかかりましたが、一旦、現在位置が分かれば、後は、ずっと地図の上と道路標識を見比べて行きます。昨日、松島さんが描いてくれた地図の方がとても分かり易く便利でした。A6と言う高速道路の81と言う出口は、マドリッドからの距離を示しているそうです。だから、81kmの所にあるのです。なんと分かり易いのでしょう。81から左折してアビラ方面に行くN110に入ります。N110に入ればピエドライタ迄は1本道です。途中、アビラの市内で工事の所があり、分かり難いので、と松島さんが描いてくれた地図を見ながら行きました。松島さんの言う通りに、城壁があり、道が曲がっていました。凄い! 描かれたとおりだ!

アビラを過ぎて暫くは、砂漠地帯です。1本道です。120km/hr位のスピードで走っていると後ろから来た車がビュ〜ンと追い抜いて行きます。マドリッドを出てから約2時間、疲れたので、道脇に車を止めて休みました。写真やビデオを撮りました。行く先の方に山並が見えます。ピエドライタはあの先でしょうか。N110に入ってから車の数が少なくなって走り易くなりました。いつも車に乗るとすぐに眠る妻も、眠らずに周囲の景色を眺めていました。やはり、日本で見る景色とは違い、雄大です。

目印の大きな木があり、ピエドライタの村の中に入りました。今日から泊まる宿は「グラン・ドゥケ」と言うオスタルです。オスタルと言うのは、ホテルより少し格が下ですが、大衆的な宿です。噴水の近くにあります。昨日、松島さんが電話で予約してくれました。なにせ、オスタルでは、殆ど英語は通じません。スペイン語でなければ、用がすみません。チェックインしてくれたお兄さんは、英語が少し出来ると言っていましたが、サンキューとイエス程度。

荷物を部屋に入れて一息ついたら、もう飛びたくて仕方がない妻を連れて出かける事にしました。近くにMAXCOOPと言うスーパーがあります。そこで水と食料を買おうとしたら、ドアが閉まっています。おじさんが出て来たので、聞くと「午後2時半から5時迄はクローズ」と言うのです。シェスタです。二階にレストランがあったので、そこで昼食を食べて、水を買いました。一番安い食事を頼んだのですが、ステーキが出て来ました。昼からこんなにご馳走を食べて贅沢だなあ、と思いながらも全部食べてしまいました。

松島さんに教わったとおり、テイクオフへの道は、石垣の所を左折して真っ直ぐです。途中にメインランディングがありました。大きな吹き流しがあり、とても広い芝生のランディングです。GPSに位置を覚えさせる為に寄りました。ピエドライタには、ロールアウトの仲間が来ています。ロールアウトの周波数で呼びかけて見ました。まさか応答はなかろうと思っていたのに「大久保さん、藤木です。今、どこですか?」と懐かしいコンペティターの藤木さんの声が聞こえました。これには、私と妻もビックリ。藤木さんは、クロカンに出て途中でピエドライタの外れに降りてしまったそうです。早速、回収に行く事にしました。妻をランディングに待たせて藤木さんを探しに行きました。N110をアビラ方面に走ってすぐに道ばたにいる藤木さんを発見しました。藤木さんを大会本部の近くで降ろしてランディングに戻りました。ランディングでひとりのフライヤーがいて、テイクオフ迄乗せて欲しいと言って来ました。GPSは位置をなかなか認識してくれないので諦めて、そのオランダ人のフライヤーを乗せてテイクオフに行きました。走り始めたらすぐにもうひとりのロールアウトの仲間のHさんの声が無 線からしました。テイクオフにいるらしいです。今日、選手がふたり空中接触して墜落して事故が発生したそうです。その為、今は、テイクオフがクローズになっていて飛べないと言っていました。オランダ選手にその事を伝えました。途中でスペイン選手が手を上げていたので乗せました。

テイクオフに着いてレストランの小屋のほうに行くとHさんとアントニオ石川さんが座っていました。アントニオさんは、グラナダ在住の日本人です。「こんにちわ」「初めまして」アントニオさんの奥さんのエミさんは、昨年の女子スペインチャンピオンだそうです。凄い人と知り合えました。さっき乗せたスペイン選手がやって来て、アントニオさんと話しをしていました。アントニオさんが「この人が車に乗せてくれてありがとう、と言っています」と通訳してくれました。なんと義理がたいこと。さっきの「グラシェアス」で充分だったのに。

テイクオフでは強風が吹き荒れていました。そして、ヘリが3機来ていて、まだ、現場検証は続いている様です。アントニオさんにGPSの位置データを聞きました。インプットして暫くして、やっと認識出来ました。景色を眺めながらエリアオープンするのを待ちました。5時過ぎに何人かのフライヤーがテイクオフしました。風も収まりました。オープンになった様です。アントニオさんがエキスパートで飛ぶらしいです。私達も早速準備しました。妻が飛ぶのをビデオ撮影しました。少し風が強めなので、なかなかテイクオフ出来ないフライヤーが多かった様です。妻は、ゆっくりと準備しました。妻が無事に飛んでから、私もテイクオフしました。私が飛んでいる姿を撮影してくれる人はいません。弱いサーマルとリッジで久しぶりのフライト、スペインの初回のフライトを満喫しました。エリアは広くて雄大です。木がないので、墜落したら痛そうです。妻は、メインランディングへ向かって飛んで行きました。私は、車を運転する必要があったので、30分位飛んでからトップランしました。まあ、初日なので、これ位飛べれば満足です。

メインランディング迄、車を降ろしてHさんと妻をピックアップしました。大会本部の前を通って、日本選手や藤木さんが宿泊しているオスタルの近くに行きました。車から降りて藤木さんに挨拶していたら、扇沢さん、蔭山さん、武尾さん達の日本選手が来ました。今日の夕食は、村外れにあるレストランで食べようと言う事になり、9時過ぎに待ち合わせました。飲み放題、食べ放題で1500ペセタだそうです。妻は、「9時ってどう言う事?」と聞いて来ました。現地時間で午後9時の事だったのですが、あまりに明るいので夜だと言う認識がなかった様です。「夜、9時過ぎ迄フライトしているんですヨ」と松島さんが言っていましたが、本当だったんです。

オスタルに戻ってシャワーを浴びてから出かけました。レストランは、まだ空いていました。外のテーブルに陣取ってオーダーしました。少しふくよかなお姉さんが注文を取りに来ました。覚えたばかりの「セルベッサ」と言って先ずビールを頼みました。持って来たのは、ビールではなくてパンでした。通じなかったのではなくて、どうも、最初にパンを持って来るのが順番の様です。すぐにビールが来て、「乾杯」う〜ん、旨い! 料理のオーダーでは何を言っているのか分かりません。そしたら、オバサンが手を合わせて横に振りました。魚が泳いでいる様なのですぐに、魚料理と分かりました。次に両方のひとさし指を頭の上に立てて「モウー」これは、牛だ、そう、肉料理の様です。最後は、「ピヨピヨ」言いました。鳥料理です。皆、分かってしまいました。食べ放題なので、少しずつ全部の料理を頼みました。ビールの次は、ワインです。ワインも飲み放題です。意地が汚い私は、たらふく食べて、たらふく飲みました。隣りの席にフランス人のグループが来ました。やはり、スペイン語が分からずに「ピヨピヨ」「モウー」と繰り返していて通じていました。万国共通です。フランス人の中 に少しだけ英語が分かる人がいて話しが通じました。彼らは、選手ではなくて報道陣らしいです。テレビ局の人達と言っていました。とても愉快な人達でした。店の主人が酒を持って来ました。少し飲んだらものすごく強いウォッカの様な酒です。フランス人は、主人の言う通り、キュイと全部を一度に喉に流し込んでしまいました。妻も真似してやっていました。フランス人は「奥さんがしているのにお前は出来ないのか?」と言っていました。「出来るさ」と飲んで見せました。拍手がおきて、主人が又、コップにつぎました。今度はコップになみなみと・・・。それも一気に飲んでしまいました。喉の奥を熱いものが流れ込みました。あ〜あ、知〜らない。

食事が終わって、皆と分かれてオスタルに戻りました。シャワーを浴びて眠りました。夜中に頭がガンガンと割れる様に痛みました。

1998年7月17日(金)

朝、頭痛がします。起きられません。二日酔いです。あの強い酒が原因です。とても、飛べる状態ではありません。11時過ぎに外の道でHさんの呼ぶ声が聞こえました。妻が「起きられないので先に行っていて下さい」と伝えていました。それから3時間位熟睡しました。少しは楽になったので、スーパーに買い物に行く事にしました。妻は、飛びたいと言うので買い物をしてからテイクオフに上がる事にしました。スーパーでオレンジとか飲み物とかいろいろ買い込んだのですが、価格は日本の半分以下でした。

気持ち悪いけれど我慢して(妻の為!)テイクオフへ車を走らせました。テイクオフに着いたらとても良い風が入っていました。でも、今日の私には、とても飛ぼうと言う意欲は起こりませんでした。妻は、ゆっくりと準備をしました。スペイン人のフライヤーが大勢立ち上げをしています。でも、なんか、クロスの立ち上げが巧く出来ていません。何度も失敗している人が大勢いました。テイクオフ前でダイナミックなマヌーバーをしていたフライヤーがトップランしました。見事なトップランでした。きっと有名な選手だとと思います。

妻ものんびりした準備が終わってテイクオフしました。テイクオフ前のリッジサーマルを使ってソアリングしています。前に出たら沈んでしまいました。「駄目だあ。浮かない」と無線で言っています。「無理しないでランディングに向かって」と言ったら下の方でしつこく回しています。見ているとレベルキープしています。しつこくセンタリングしているうちに徐々に高度を獲得して来ました。30分位センタリングしていたらとうとうトップアウトしてしまいました。しつこさには呆れました。でも、今日のサーマルは弱い様です。殆どの人が高度を失っています。その中で妻だけが、しつこくセンタリングして上げています。高く上げていましたが、やはり、サーマルが弱くてランディングに向かいました。私は、ずっとビデオを撮りました。

ランディングに車を降ろして妻を迎えに行きました。Hさんから無線が入り、「又、テイクオフに上がるなら乗せて下さい」と言って来ました。メインランディングから少し外れた所に降りたらしいです。「待っていて下さい」と言ってランディングに向かいました。ランディングては、妻が、楽しいフライトを喜んでいました。私はと言うとムカムカする胸の中を我慢していました。ランディングに大きなテントが張ってあり、その下に仰向けに寝転がりました。辛い時間です。「もう、ワインなんか飲まないぞ」と思いました。飛びに来たのに私は、どこを飛んでいるのやら・・・。

30分程、休んでからHさんを探しに行きました。すぐに見つかり、乗せて一緒にテイクオフに向かいました。今日のヨーロッパ選手権は昨日の事故が原因で中止になっていました。その為、選手達はフリーフライトをしていました。テイクオフへ上がる車の中からルーピングしているのが見えました。凄い迫力です。豪君のルーピングも凄いですが、ビデオと違って実際に見ると感動ものです。ビデオを構えたら、終わってしまいました。

テイクオフへ行く途中に水場があります。山の上には、どこにも川がないのにとても冷たい水が流れています。選手達は、ここでウェイトの水や飲み水を入れていました。テイクオフには、大勢の人達がいました。ギャラリーも沢山います。妻とHさんがフライトの準備をしている間、私は、テイクオフからビデオ撮影をしました。胸のムカムカはまだおさまりません。辛いものです。

昨日と同様、少し強めの風がテイクオフに入っていました。やはり、クロステイクオフを何度も失敗している人がいました。その中で妻は、一発で立ち上げてテイクオフ成功して飛んで行きました。Hさんはと言うとスペイン人と同様にクロスで失敗をしていました。「こんなに失敗して、今日は、止めた方がいいかなあ」と言っていました。このフライトの前に2000m以上上がったと喜んでいたHさんでしたが・・・。何本か立ち上げに失敗してついにテイクオフして出て行きました。私は、ビデオカメラを回し続けました。テイクオフ前のリッジを利用して飛んでいます。そのうちにテイクオフ前のまだ高度が低い状態で旋回を始めました。「危ないなあ」と思っているうちに再度旋回をしたところ、テイクオフの小屋のうしろに流されて行ってテイクオフのずっと後ろに落ちてしまいました。「なんだ?」と思った瞬間、「墜落したんだ!」そばにいたスペイン人のふたりが大声を上げながら走って行きました。私も墜落した所に急いで行きました。Hさんは、テイクオフの駐車場の後ろの鉄条網の中の岩場に横たわっていました。スペイン人が身振り手振りで「足が両方駄目」と言っていました。見ると 左足首がぐんにゃりと曲がっていました。「折れた?」 
丁度そこに警官のパトカーが来たので、止めて貰いました。英語が少し分かるスペイン人に通訳して貰い、事情を説明して救急車を手配して貰うように依頼しました。無線で、藤木さんに連絡がつきました。藤木さんは、「これからそちらに向かいます」と言いました。20分位して藤木さんが来ました。聞くと、藤木さんは、アビラ迄飛んで行き、戻ってきたそうです。そして事故の事を無線で知って飛んで戻ってトップランしたとの事。凄い人です。救急車には、藤木さんが同乗してくれる事になりました。妻は、私の無線で事故を知り、すぐにメインランディングに降りたそうです。私は、藤木さんとHさんのグライダーを畳んで車に入れてから車を降ろしました。海外での事故、最悪の状況です。でも、何とかしなくては!
スペイン語に堪能なアントニオさんを探そうと、武尾さんに同行して貰ったのですが、不明でした。仕方なく、妻と二人で救急車行ったアビラの病院へ向かいました。病院の医師も英語が通じません。やっとひとり英語を喋る医師が来て、容態を聞きました。日本に帰るかここで治療するか決める事と手術する承諾が必要と言う事、保険の承認が必要と言うような事を言っていました。両足が動けないので日本へ帰国するにも大変な事だと思いました。(その後、Hさんは、マドリッドの病院に移り、更に7月下旬に、日本に帰国して、現在は、自宅近くの病院で治療の日々を送っています。)

1998年7月18日(土)
朝から夕方迄、アビラの病院へ行き、治療の方針とか、保険会社との連絡とか色々な事をしました。アントニオさんもバイクで駆けつけてくれて、病院との通訳をしてくれました。マドリッドの松島さんと電話でやりとりをして、日本帰る飛行機の手配等もしました。でも、土日が入って、更に、日本では、「海の日」の休日が続くために保険会社との連絡がうまく出来ませんでした。海外傷害保険の場合は、すぐにアクションをとってくれるらしいと聞きました。今回は、クレジットカード付属の保険との事でなかなか手続きが面倒のようです。いらいらする時間が続きます。でも、相手があっての交渉事ですから仕方がありません。
昼食を食べに外へ出たら、日本人が乗った車を見ました。見ると川地。加賀山、近藤さんのPWC出場の日本選手でした。クラクションを鳴らして、車を止めて合流しました。一緒に昼食を食べに中華料理店に行きました。アントニオ石川さん、藤木さんとPWC出場の面々が顔を合わせました。
アビラの病院を出たのは、夕方、18時を過ぎていました。ピエドライタへの道、雷と雨が凄かったのです。スペインに来て、初めての雨です。滅多に降らないらしいですが、こんなに凄い雨も珍しいようです。
ピエドライタに戻ってから、妻とテイクオフに上がって見ました。「ひょっとしたら飛べるかも知れない」と淡い期待を持って行ったのですが・・・。まだ飛んでいるフライヤーがいます。私達も、「飛ぼうか」と話しをしているうちに、テイクオフでは、フォローになってしまいました。これで諦めがつきました。昨日の墜落現場を妻に説明してビデオ撮影をしました。一瞬の出来事が夢のようです。
夕食は、藤木さんとレストランでしました。私達が食事をしていたら、騒々しい連中が入って来ました。イタリア選手です。一番華やかなのがジミーパーチャーでした。ジミーに「一緒に写真に入って」と言ったら、ニコニコして「Sure!」と。

1998年7月19日(日)
不完全燃焼のような気持ちでピエドライタを去る事になりました。オスタル・グランドゥケを後にしました。今日は、マドリッドに戻る日です。初日に飛んだ、たった1本がフライトの記録でした。仕方がありません。でも、苦いけれど良い経験をしたものです。朝、藤木さんと妻とピエドライタを後にしました。途中、アビラの病院にHさんを見舞って行く事にしました。昨日よりは、顔色が良くなり、元気な姿を見て安心しました。「頑張ってネ」と言い残して、私達は、マドリッドへ向かいました。
マドリッドの市内は、流石にピエドライタとは違って分かり難い道です。松島さんのマンション迄行くのに迷ってしまいました。電話して迎えに来て貰いました。松島さんの家には、広島「神ノ倉」の人達がいました。マンションのプールで泳いだりして楽しんでいました。午後から、フライトに出かける事になりました。松島さんに言わせると「すぐ近く」のラ・ムエラと言うエリアです。松島さんの運転は、高速で凄いスピードです。力がないレンタカーでついて行くのが苦しいほどです。ラ・ムエラは、マツダ車のポスターになったエリアです。鹿児島の上床牧場を思わせるような広大なテイクオフがあり、ここへのトップランは、まるで通常のランディングのような感覚です。ここでトップランが出来たと言っても岩屋山では無理やな。
それにしても暑いエリアです。35度以上はあるでしょう。裸の人が多いのが目に付きます。女性もブラジャーひとつで平気です。リッジとリッジサーマルのエリアです。少し強めの風の方が良い様です。私は、1本目、サーマルには入りセンタリングしていたら外してしまい、ランディングから遠く離れた川の側に降りました。そこから道へ出るのが大変でした。草がボウボウと生えている所をかき分けて、汗びっしょりかいてやっと出ました。ランディングに向かおうと思いましたが、川があるので無理でした。道を歩いていたらテイクオフへ行くと言う車が止まってくれて「乗れ」と合図。「グラシェアス」車の中では、セルベッサをまわし飲みしています。私にも、薦めてくれました。「グラシェアス」冷たいビールが喉を通りました。「旨い」
1本目の屈辱を晴らす為に、再度テイクオフ。今度は風が強めなのでお得意のリッジソアリングで斜面を舐めるように飛びました。千葉の磯根崎で飛んでいた頃を思い出しました。リッジサーマルで結構、高度を取れました。でも、エリアを離れて飛ぶ習慣がない私は、同じ場所を飛んでいました。藤木さんはと言うと、少し高度を上げるとずっと先迄、足を延ばしています。そして、高度が下がると渋い中を戻って来て、また、高度を取っています。凄い人です。妻も感心していました。ケチケチした飛びをしている自分が少し嫌になりました。でも、若くないし、確実な飛びがイイか。1時間飛んだところでトップランしました。いやあ、楽です。広いテイクオフのどこにでも降りられます。機体をたたんでから、テラスがある小屋に行き、皆と一緒にセルベッサを飲みました。フライトの後のセルベッサは、喉ごし爽やかです。40度近い気温ですが、テラスの日陰では、涼しいです。そこで飛んでいる人達を見物しながら飲むセルベッサの旨いこと。本当に幸せ!  妻は、只、ひとり飛んでいます。私は、気がついたら2本目のセルベッサを手にしていました。ここの人達は、フライトの後にセルベッサではなく、水の代わりにセルベッサと言う感じです。飲み終わったら「さあ、飛ぶぞー」とテイクオフしています。日本のエリアでは、禁止事項ですネ。
今日は、日本人会主催のマドリッド盆踊りがあり、松島さんはその準備の為に先に戻りました。私達も後で合流する予定です。私は、セルベッサを飲み過ぎたので、飛ぶのは諦めて、しかも帰りの車の運転も藤木さんにお願いしました。一体、何しに来たの?
盆踊りの会場の日本人学校までの道は、また、分かり難かったのですが、何とかたどりつきました。日本人会の盆踊りと言うから、日本人だけかと思っていましたがとんでもない。スペイン人の方が多かったです。やぐらの周りに踊っている人も日本人に並んでスペイン人が上手に踊っていました。私も負けずに輪の中に入りました。私が踊っていたら、スザンネが入って来ました。踊るのは楽しいですネ。そう言えば私は、若い頃、会社のダンスクラブに所属していた事がありました。ダンス部の人達が練習しているのを見ていたら、ダンスの先生が「ちょっと、あなた、男性が足りないので入りなさい」と半ば強引に入れられてしまいました。盆踊りと社交ダンスを同列に置く事自体不自然かも知れませんが、踊りの世界では相通ずるような気がします。
踊りとセルベッサと寿司、満腹でした。夜、遅くまで太鼓の音と民謡がマドリッドの街に流れていました。昼間のフライトとセルベッサ、そして、夜は、盆踊りとセルベッサ、盛りたくさんの出来事に、皆、疲れて夜は、ゆっくりと休みました。

1998.年7月20日(月)
昨夜の疲れもなんのその、皆さん、早起きです。私は、寝坊が大好きです。そんな私も8時30分に妻にたたき起こされました。スザンネが全員の分の朝食を準備してくれました。「わあー、大変!」広島の人達が7人、藤木さんと私達夫婦、それに子供達、スザンネと松島さんは、たいへんでした。順番にテーブルに着いて食事しました。スザンネが「今日は、人数が多いからエスプレッソが出来ないの。ごめんネ」と言いましたが、今日のコーヒーも美味しい。スザンネは「日本では、エスプレッソの道具なかなか手に入らないから買っていけば」と薦めてくれました。帰りに買いたいと思います。

いよいよ今日は、グラナダへ向けて移動です。松島さんの車と私のレンタカーに分乗して出発しました。グラナダまでは、500km近くあります。松島さん運転の車は、親の仇を打ちに行く様な凄いスピードで飛ばしています。レンタカーは、力がなくて上り坂にかかると80km/hrがやっとです。無線で「少し速度を落として下さい」と依頼しました。でも、他の車も凄いスピードで飛ばしています。高速道路とは言え、スペイン人はよく飛ばすなあ。
道の両脇の地面に緑色の樹木が生えています。それは、凄い数です。松島さんに聞いたら「オリーブの木」だそうです。砂漠地帯に生えているオリーブです。お花畑が見えたと思ったら、それは、ゴッホの絵にでもありそうな「ひまわり」の群生でした。黄色の花が一面咲き誇っていました。
夕方、やっとグラナダに到着しました。今夜だけ街中のホテルに宿泊です。アルハンブラ宮殿が見える街の中心にあるホテルマシア(Macia)です。ホテルにチエックインして汗を流してから、市内巡りをしました。グラナダに来たからには、有名なアルハンブラ宮殿を見ないと。でも、今日は、時間が遅いので閉館まで時間が余りありません。そこでアルハンブラ宮殿の見学は、明日の朝と言うことになりました。松島さんの提案で市内を散策しました。アルシンド通りと言うのがホテルのすぐ裏にありました。石畳みの道を歩くと古代のグラナダに触れるようでした。古い建物が多く、歴史を感じました。ビーチサンダルで歩いたので少し疲れました。グラナダは観光の街です。歩いている人の多くは、観光客です。アルハンブラ宮殿を望める公園に行くと、そこには、世界各地から集まって来た観光客で賑やかでした。カスタネット売りのおばさんがいて、実演して売っていました。おもちゃの様な観光みやげと本格的なカスタネットが並んで売っていました。松島さんがその中の本格的なのをひとつ買いました。今思うと私も買えば良かった なあ、と後悔しています。カスタネット売りのおばさんは、その昔、フラメンコの踊り子だったらしいです。声をつぶしてしまって止めたらしいです。名前はカルメン。

夕食は、21時過ぎに出かけました。全員の希望でシーフードを食べに行きました。21時からオープンですから、呆れます。日本では考えられません。食事は、レストランの外にテープルが出ていてそこでします。テラスですが、外の方が涼しくて快適です。先ず、セルベッサで始まり、次にヴィーノです。サングリアと言うのが、ワインのカクテルと言うのでしょうか、ワインをベースにしてジュースとか、果物がたくさん入った飲み物です。店によってミックスの度合いが違うらしいです。これが又、飲み易くて美味しいのです。ジュースの様な味ですが、実は、結構、アルコールが強かったりして・・・。料理は、松島さんにお任せでオーダーして貰いましたが、海産物がとても美味しくて、特に海老とイカが美味しかったです。ハモンイベリコと言うハムは、どんぐりを餌として育てた豚で作ったハムだそうです。これは、日本への輸入は許可になっていないので、現地で食べるしかないそうです。う〜ん、美味しい!
可愛い女の子がおじいさんと私達のテーブルに来て何か言っています。どうも、感じから「この人達は、ハポネスだ。おまえは、ハポネスを見るのは初めてだろう。良く見なさい」と言っているようでした。可愛い女の子は、おじいさんに言われて私のほっぺにチュッをしてくれました。女の子は照れて去って行きました。スペイン人って人なつっこくていいなあ。
最後は、ホテル前の店でアイスクリームを買って食べてグラナダの初日が暮れました。

1998.年7月21日(火)
ホテルマシアの朝食は、地下のレストランでバイキング方式です。スペインのコーヒーエスプレッソで目が覚めました。
昨夜の予定どおり、朝、一番でアルハンブラ宮殿の見学に行きました。早い時間から観光バスがたくさん来ていました。門から離れた所の駐車場に車を止めました。入り口には、行列が出来ていました。30分位待ってチケットを買って入場です。アルハンブラ宮殿は広くて細かく見ていたら3日位かかっても全部見切れません。私達は、観光が主目的ではないので、ざっと流して歩きました。約4時間かけて全体を歩きました。何百年も前にこの様な建築物を建てた権力者の事を思いました。民衆の犠牲の上で成り立った文化だと思いました。「アル」と言う接頭語は、アラブの意味だそうです。アルシンド通りを歩いた時もそう言えばアラブの雰囲気がありました。15年ほど前に仕事でカイロに出張した事がありましたが、あの時に感じたアラブと同じ感じでした。アルハンブラ宮殿の中は、当然、観光客だらけです。日本人も大勢いました。昨日の夜、帰りに会った日本人の夫妻と又、会いました。私達の事を覚えていて「空を飛ぶ人達ですよネ」と声をかけられました。歩き疲れてアルハンブラ宮殿を後にしていよいよシェラネバダに向かいます。宮殿からすぐ近くにセネスのランディングがあります。グ ラナダのパラショップのドラコ(Draco)でアントニオ石川さんと奥さんのエミさんに会いました。これからグラナダで色々とお世話になります。セネスのランディングを確認しました。砂埃がボウボウと上がる道ばたにあります。川がすぐ側を流れています。ランディングはとても広く整地されていました。
先にシェラネバダのホテルに入るか、それとも先に飛ぶか、相談しました。全員、飛びたいと言う意見で早速、テイクオフに移動しました。途中で水を買いました。この暑さでは、水ないと日干しになってしまいます。セネスのテイクオフは、標高1200mです。ランディングが750mですから、標高差は、450mですが、とてもエリアが広いので、もっとスケールが大きい様な気がします。

テイクオフ下の道に車を止めて歩き始めました。アントニオさんの車に何人か乗れると言うので、「か弱い」女性が乗せて貰いました。ところが、スリップしてドライブシャフトを止めているブラケットが変形してしまいました。なんてついていないんでしょう。「か弱い」女性が乗ったからではないと思うんですが・・・(^-^) アントニオさんは、車のレッカー移動と修理に時間をとられてしまいました。テイクオフには、スペイン人のフライヤーが10人位いました。「オラ」と言うと「オラ」と応えてくれます。が、その後は続きません。何を言われても「オラ」
テイクオフの風は、やや強めです。今日のコンディションは、雲底が4000mだそうです。テイクオフ上空1000m位の所が逆転層になっているらしいです。工藤さんと藤木さんがテイクオフしました。初めてのグラナダですが、聞いていたよりサーマルは弱い様です。エミさんもテイクオフしました。なんか風が落ちて来て、テイクオフの少し下に藤木さんがトップランしました。倉田さん、土本さんもテイクオフ。正子も準備していましたが、なかなか出ないので、私が先にテイクオフしました。サーマルはとても弱くてちょっと油断すると沈下してしまいます。弱いサーマルを拾って前の尾根で上げました。そこは、風が両方から来ている様で、サーマルが集まって来ていますが、荒れていました。妻は、私が上げている所に来ましたが、荒れているので「降りま〜す」と言って離れて行きました。私は、しつこくセンタリングして高度1972m迄上昇しました。これ以上は、どうあがいても上がりませんでした。逆転層らしいです。それを突っ切ればもう後は、どんどん上がるらしいですが、怖いです。時々、荒れた気流の中に入ってバサッと潰れます。すぐに修正出来ますが、やはり、ビクッとします。1時間22分 のフライトでテイクオフにトップランしました。後で考えたら、何もトップランする必要はなかったのです。車を移動するドライバーは、ランディングに降りていたのですから。テイクオフは風が強くて降ろすのに苦労しました。足が着いた途端にキャノピーがあおられてそのまま引きずられてしまい、嫌と言うほど、きつく叩き付けられました。岩にヘルメットが当たり、一瞬目が眩みました。長袖の肘の部分が破れて血がにじみ出ていました。袖をめくって見たら、肘の部分の皮膚が剥がれて出血していました。頭はクラクラするし、立てませんでした。「大丈夫ですか?」小脇さんが助けに来てくれました。綺麗なトップランをイメージしていたのに・・・。後で、藤木さんに「トップランは危険だから、必要な時以外はしない方がいいですヨ」と言われました。確かにそうです。ファッションでトップランするなんてしない方が良いです。あ〜あ、痛〜い!
私が痛がって休んでいたら、土本さんと松島さんが風が弱くなったスキに綺麗にトップランして降りました。私が、引きずられるのを見て、「今は、ヤバイ」と思ってトップランを止めて様子を見ていたらしいです。なんて頭が良い人達なんでしょう。
今日一度も飛んでいない小脇さんが飛ぶことになりました。風は、少し強めですが、私が降りた時より大分おさまっていました。クロスで立ち上げて松島さんがサポートしましたが、うまく行かず、結局、正面から立ち上げて無事に出て行きました。穏やかなフライトをラブリーさん(小脇さんの愛称)は楽しみました。その頃、セネスのランディングには、羊がうじゃうじゃやって来ました。テイクオフから見ていると小さな生き物がゴソゴソ動いているのが見えます。ランディングにいる工藤さんから、「新しい吹き流しを付けたから良く見えると思います」と無線が入りました。鯉のぼりの吹き流しです。ラ・ムエラにも鯉のぼりの吹き流しを立てて、スペイン人の関心をかいました。無事にラブリーさんがランディングして全員が飛び終わりました。ランデイングにいる工藤さんから、「飛んで降りたら」と言う誘いがありましたが、その頃にテイクオフは、フォローとなってしまい、準備していたスペイン人のフライヤーもキャノピーをたたみ始めていました。

私がトップランの時に頭と肘を強く打ったと小脇さんが妻に言ったらしく、心配して妻は、テイクオフへの車に乗って戻って来ました。私は、痛かったけれど、我慢して「たいしたことないさ」と強がりを言っていましたが、右後頭部のたんこぶがとても痛かったです。
ホテルがあるところ迄、車で30分位です。ホテルは、とても綺麗なリゾート風の造りです。部屋が多いので、私と妻で一部屋を借りました。シャワーで汗を流してから少し一休み。夜、PWCの開会式と歓迎レセプションがあります。皆で集まって移動しましたが、どうも場所が分からずにウロウロしました。結構、長い距離を歩いてようやく着きました。でも、一向に始まる様子がなく、集まっている人達も外で、ビールを飲みながらおしゃべりをしています。「9時に始まる、と言ったら、まあ、10時だと思った方がイイですよ」と言われて「なるほど」
始まる迄、お腹が空いたので、近くのバルでハンバーガーを食べました。昼の暑さは、何だったの、と言いたい位、とても寒いです。

会場の店に行くともう、呼び物のフラメンコが始まっていました。私は、デジタルビデオで一部始終を撮影しました。間近で見るフラメンコはとても迫力があります。踊っているふたりのうちのひとりは、アントニオ石川さんの妹のサリータさんです。(石川あや子さん)

以前、伊勢丹会館にある「エル・フラメンコ」でフラメンコを見た事がありますが、あの時の印象とは違い、生き生きとした踊りでした。ジプシーの伝統的な表現だと思います。身体中の血が沸き上がる感じと言うのでしょうか? 踊りの合間に、観客を引き入れて、一緒に踊ったりとても楽しい雰囲気です。私は、1時間以上も撮影したでしょうか? 果たして照明が位中で映っているか心配ですが・・・。それよりも心配していた電池切れが先に来てしまいました。でも、その時は、フラメンコは、終わっていました。
疲れが感じたので、妻と先に部屋に戻る事にしました。でも、お腹が空いたなあ。もう、どこも開いていません。部屋に戻って、お菓子を食べて眠りに着きました。

この続きは、1998年7月22日からのページで読んで下さい。

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