雑記林花或木
[2001/01]
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(2001/01/28)狗神 / 弟切草

 角川映画。狗神は死国と同じ作者の、御当地ホラー、しかもまた四国である。なんとなく妖しげな雰囲気は充分で、狗神の謎もなかなか面白い。でも死国のようなおどろおどろしい気味悪さは無い。

 弟切草はゲームソフトを映画化したらしいが、ゲームソフトは知らない。まさにゲーム感覚な映画であり、なんともうさんくさいシナリオであるが、独特なカラーリングが楽しめた。そういう意味では風変わりでチャレンジャーな作品である。

狗神 / 弟切草:オフィシャルサイト

(2001/01/27)初大雪

 なんか積もってるぞ、こんな日は家から出ないでのんびりするのがよいのだが、不幸にも土曜出勤日である。それも20時過ぎまで帰れないのだ。朝方の降りはそれほどひどくなかったが、2年前に札幌でやむなく買った滑りにくい靴を履いて出勤した。時がたつにつれて社屋の窓に叩きつけるような風と共に去りぬ、いや、去らん。風と共に四方八方上から下から大粒の雪が舞い踊ってきた、おいおい、帰れるんかよ? 電車止まらんか? と心配になるが、当番仕事なので早めに帰れないのである。わんさかわんさか積もっていく。夕方になると止んだ。ああ、よかった。またしばらくすると雨が降り出した。ああん、やだなあ、また風も強くなってきた。うへぇ。20時半、帰途に着く頃は横風に雨つぶて。足元はぐっちゃぐちゃ。滑らないからいいけれど歩きにくいし寒い。なんちゅう情けない土曜日であったことか。まあしかし電車はちゃんと動いていた。横浜近辺は10センチ前後積もった。こんなのですごいとか言ったら、みこ@山形や、宏美@札幌に「しょぼいぜ!」とせせら笑われそうだが、都心ではこれで充分だ。交通網も人間も雪に弱い。新幹線は待ってましたとばかりに運休してしまうし、次の日の新聞には転倒死傷の記事が載る。ちなみに御殿場の実家に電話してみたら50センチくらい積もったと言ってた。途中で雪かきしたら、後でまた、かいた分だけ降ったと言ってた。東名高速も止まってた。こりゃあなおさらうんざりだ。

(2001/01/21)ダンサー・イン・ザ・ダーク

 ビヨークの音楽によるミュージカル映画、主演もビヨーク。貧乏な上に視力がどんどん衰えていく運命を背負った母親セルマの、気の毒な人生を描いた映画である。映画のオープニングシーンは3分30秒のブラックアウトである。何も映っていないスクリーンに音楽だけが流れている。ダークとは目が見えないセルマのことであり、それをオープニングイメージにしている。ふと、何も映らないことを判っていながら画面を見続けることの空しさを感じ、目を閉じた。あまりにも変わった出だしなので、映像上の故障ではないと注意書きまで書いてあった。

 ひさしぶりにミュージカル映画を見た。ビヨークの好演で確かに感動的な映画ではあるが、タモリじゃないけど、ミュージカルって何かこう変な気分になってしまう。工場で、街中で、いきなり踊りだされると見ているほうが照れてしまう、というかなんというか。さっきまで言い争っていた同士がクルクル回ったり飛び跳ねたり。敵も見方も輪になって踊る。しまいにゃ死人も踊りだす。シリアスな場面が一転、ダンスホールに早変わり。感動しそうになっていた気分に休憩が入ったような妙な感覚である。それでもいい作品はいい。別にミュージカル嫌いというわけでもない。この映画では、ダンスシーンはセルマの空想ということになっている。だからダンスでは何が起こってもさしつかえない。労働者達が作業服のまま踊りまわるという違和感は悪くない。そういうわけで、この映画のいちばん好きな場面は貨物列車の荷台の上のダンスシーンだ。あれはなかなかいかすぜ。

ダンサー・イン・ザ・ダーク:オフィシャルサイト

(2001/01/20)アヴァロン

 退廃した近未来、人々はコンピュータによる仮想バトルに明け暮れている。ヘッドギアをつければそこは戦地、現実と見まごうばかりの臨場感の中で必死に戦い、クリアすると賞金が得られるのだ。歴戦の女戦士アッシュもそんな世界に身を置くつわものだった。アッシュに近づく謎の挑戦者、戦いに敗れて廃人になってしまう人々などが、アッシュの心を惑わせる。いったいこの先に何が待ち構えているのか。

 押井守監督作品、日本の映画だが、全編ポーランドで撮影されたそうで、日本の面影などこれっぽっちもない。色あせた町並みが独特の情感を醸し出していて面白い。いったいなぜ色あせているのか。何度も映される路面電車のシーン、同じ人々が乗り、同じことを繰り返している映像。手抜きかと思わせるようなシーンが結末への伏線なのかもしれない。

アヴァロン:オフィシャルサイト

(2001/01/14)レッド・プラネット

 50年後、人口の増加で危機に陥った地球人は、火星への居住を目論んで調査船を派遣する。しかし太陽フレアによって調査船は損傷し、クルーは火星への脱出を余儀なくされる。はたして彼らが火星で見たものは?

 スリルのあるアドベンチャー映画であるが、科学的にリアリティ?重視の映画なので、クリビツテンギョウな魑魅魍魎は登場してこない。なんとなくシチュエーションは昨年公開されたピッチブラックに似ているが、バケモンを期待するならピッチブラックのほうがいいだろう。エイミーという動物型ロボットがスナイパーに早代わりして、クルーを翻弄させる。こいつがいないとスリル半減という重要なキャラである。ピッチブラックで連行されてきた犯罪者みたいな役柄である。女性キャプテンがボーマン船長というのは笑わせる。ただ、ストーリーはほとんど予想できてしまい、意外性が足りない。

 マーズアタックみたいなホゲタラな火星もあれば、ミッション・トゥ・マーズのような夢多き火星もあり、この映画のような、さもそれっぽい火星もありで、結局火星ってまだまだ謎だらけなのだなあ。本当に火星に人間が住み始めたら、冥王星人来襲の映画とかが流行るのだろうか。

レッド・プラネット:オフィシャルサイト

(2001/01/07)ポストカプセル郵便

 1985年の俺から2001年の俺に手紙が届いた。オーロラの彼方から届いたわけではなく、筑波科学万博の記念郵便である。1985年8月12日の消印で封筒に60円切手が貼ってある。当時のちょっと懐かしい写真と共に、便箋の裏表に、当時の社会情勢や自分の状況がこぎたねえ字でずるずると書かれている。いったい誰が書いたのだ? 俺だ!

 つくば博には弟と妹を連れてクルマで行った。あっちも見たいこっちも見たいと大騒ぎする年の離れた弟をだまくらかして、なるたけ空いてる外国館ばかり入っていた暑い夏を思い出す。思えば大阪万博の時は俺自身がワクワクしてたいへんだった。2時間も並んでようやく入れた東芝科学館だけでも大喜びだった。帰ってきても万博の本を毎日眺めて、ああ、ここも見たいここも見たい、もう一度行きたい行きたい、テレポーテーションができたらどんなにいいだろうなどと夢想していた。万博は子供にとってはまさに夢空間であった。大人になると夢よりも疲れが多くて、あっちでドリンクこっちでドリンク、飲んでばかりでなおさら疲れたつくばの夏。

 手紙によると、その頃NECのPC6001MK2を持っていたらしい。ぜんぜん役には立たなかったが。人気スターは中森明菜、石川秀美、小泉今日子、堀ちえみ、岡田有希子(-人-)、菊池桃子、斎藤由貴、田原俊彦、近藤まさひこ、チェッカーズ、サザンオールスターズ、ネーナ、シンディーローパー、マイケルジャクソン、ワム、サモハンキンポー、チョーヨンピル(^^;; 中曽根康弘首相、ロナルドレーガン大統領、ゴルバチョフ書記長。流行り言葉は根アカ、根暗、マル金、マルビ。イランイラク戦争、銭湯260円、映画1500円。DAT(デジタルオーディオテープ)が来年華々しく登場する、と書いてあるが、あれはどこいっちゃったのかな? 横浜のニュータウンでフォーミュラ1開催か?とあるが、それは無かった。ジョンレノン5周忌、ハイソカーブーム。投資ジャーナル、豊田商事摘発。スタートレック、エイリアン、ET、グレムリン、ゴーストバスターズ、ジェダイの復讐。ルーカスの予言では2001年に9部作完結だったんだけどねぇ・・・

 この手紙は恵比寿のアパートで書かれたものだ。そのアパートは多分もうないだろう。日本筒井党(筒井康隆ファンクラブ)に入っていたらしい。その党はもうない。この手紙が着くまでに最終戦争がなければいいが、と書いてある。幸い最終戦争も恐怖の大王も降って来なかったが、バブルがはじけたまんまやんか。当然この頃にはインターネットなんてものが流行るとは露ほども思いつかなかったし、実際に役に立つパソコンでこんな文を書くとは夢にも思わなかった。

 自分宛以外に当時の友人2人にも出しておいた。ひとりはけっこう近くに住んでいて昨日電話が来た。もうひとりは遠い所だがメールが来た。彼には昨年不幸があって賀状を控えていたにもかかわらず、16年も前の俺から賀状が行ってしまうという、どうしようもない不手際でいかんともしがたかったのである。しかし、一緒にカナダで同じホストファミリーの家にお世話になった奴だし、昔を懐かしんでもらえたようでよかったのかな。

 16年前の手紙といえば、本来なら、すっかり忘れていて届いて驚くというのが筋なのだろうが、印象深いイベントだっただけにこの16年、ぜんぜん忘れていなかったというていたらくなのだ。さあ来年の正月に届くぞと、再認識してしまった自分が情けないような新世紀初雪の夜はふけてゆく。初雪や、ああ初雪や、寒かろう。

(2001/01/01)新世紀の幕開け

 新世紀あけましておめでとうございます

 こんな挨拶もう100年もできないぞ

 激動の20世紀などと言われるが、19世紀だって18世紀だって激動だったに違いない。その100年間という歳月に、さまざまな喜びや悲しみ、驚くべき進歩を遂げてきて、今がある。ただ、今ほど情報伝達手段が整っていなかったために、そういった変化を全世界がリアルタイムで享受できなかったかもしれない。二度の世界大戦を乗り越えて発達してきた文明社会に、これ以上の劇的な変化などあるのだろうかと思うかもしれないが、無いわけがない。

 世紀末に駆け込みで話題になったDNAやクローン技術が今後の人類にもたらすであろう大変動は、人間そのものの存在意義にまで及ぶものではないだろうか。倫理的にどうであるなどという議論を容易く葬り去り、自動的に走り出してしまうだろう。既に確立してしまった技術は誰にも止めることはできないのだ。

 人類はまだ宇宙に飛び出したばかりだ。いつでも見える月に降り立っただけだが、そこをねぐらにしようと目論んでいる。別の星や宇宙ステーションで暮らして生産拠点にしようとしている。SFの世界の話ではない。タイムトラベルのような未知領域の分野と違い、技術力でなんとかなってしまう分野であるから、100年も待たずともそれは実現するだろう。休暇にモルジブに避暑に行くのと同じくらい簡単に宇宙旅行が一般的になるだろう。宇宙にも住民票や出生届が必要になる。それは21世紀の出来事である。今日から始まる21世紀の仕事である。

 数十年後、人間は飛行機のようなものを使わずに空中を行き来しているかもしれない。羽が生えるわけではない。浮遊可能なスーツを着ているのだ。これも技術力でなんとかなる。そうなれば街中の雑踏とはおさらばだ。人間は前後左右に加えて上下にも移動できて、通勤経路は上昇300メートルみたいなことにもなるかもしれない。

 遠からず我々はこんなふうにパソコンに向かって書き物をしなくなるだろう。今は楽しいネットサーフィンだって、パソコンで眺めて「あ、落ちた・・・」などと騒いでいられるのも今のうちである。情報機器が身体と常時一体化してしまえば、もう、ネットに「アクセスする」「繋がらない」などという言い回しは古語になってしまう。それはすばらしいことでもあるが、そうなった時に「繋がらない」状態が発生したら、それは命にかかわることかもしれない。

 人間は物理的人体も含めて、どんどん変化して行くだろう。拒むことはできない。変化せざるをえない。たかだか100年では恐竜や半魚人みたいな人体にはならないだろうが、もし今、目の前に100年後の人間が現れたら、我々はその違いに目を見張るだろう。恐れるかもしれない、嫌悪するかもしれない、あるいは喜ぶかもしれないが、少なくとも日常会話が通じないのは間違いない。今、1900年の人間を見ても、それなりに驚くだろうが、それは着物や立居振舞に驚くくらいのものだろう。しかし科学技術の長足の進歩が我々にもたらすはずの変化は、今の人類の想像をはるかに越えているだろう。

 100年前の人にとっては夢物語だったはずなのに、我々は毎日空を飛んでいるのだから。100年後、あなたと談笑しているその人が、人間なのかロボットなのか、あなたには見分けがつくだろうか。


CREATE:01/01/2001 by Kiyoharu Otake

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