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経済学が人をいらだたせる理由

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ダイヤモンド・オンラインで、「なぜ、「経済学者」は嫌われるのか?」という記事が出ていました。

はてなブックマーク - なぜ、「経済学者」は嫌われるのか? ――実は「利他的」な経済学者が伝えたい、 経済学の「2つの醍醐味」 第1回 大阪大学教授 大竹文雄【前編】|おかねは「論」より「感情」で動く!

説明の仕方の問題(偉そう)とか、モデル化する際にこぼれ落ちるものが大きいといった指摘があり、これらも理由としてあるのだろうと思いますが、socioarcは、経済学あるいは経済理論に基づく言説が、人々をいらだたせる最も大きい理由が、もう少し別のところにあると考えます。それはつまり、経済学は、「どのような社会が望ましいのか」という本来、価値観に基づくべきものを、価値中立であるはずの科学的な理論の中にしばしば無自覚的に内包しているから、というものです。

端的な例を挙げると、例えば「格差は経済成長に不可欠である」といったものです。(→独り56-格差社会はいいことか?)

確かに、世界各国のデータを分析すれば「格差は経済成長に不可欠である」というのは正しいのでしょう。ただ、「どの程度の格差が社会として許容されるのか」という社会正義に関わる価値観は、本来、それとは別にあるはずのものです。人によっては、経済成長率は低くても良いから、結果平等な社会が善いと考える人もいるかもしれません。「格差は経済成長に不可欠である」という説明には、半ば無自覚的に、経済成長は平等よりも優先すべきものである、という価値観が含まれていると言えます。というよりも、この例に限らず、経済学は大体において、経済成長が全てに優先すると考えているかのようにも思えます(もちろん、「経済成長は七難隠す」は正しいとは思いますが)。

経済学はまた、元記事にもあるように、インセンティブや需要と供給といった基本的な概念を敷衍することによって、様々な社会的な事象についても説明が可能であり、「○○経済学」という言葉の多さ(→経済学 - Wikipedia)に象徴されるように、学際的な広がりがあります。人間はそこまで合理的ではない、という反論に対しても、行動経済学というアイデアを持ち込むことによって、ある種の「合理性」のうちに説明することができるようにもなっています。経済学は、経済システムのみならず、社会システムについても、「どのような社会が望ましいか」ということが人々の間で合意されているのであれば、その社会に近づけるような政策・制度設計を行う上では、優れた議論の枠組みと知見を提示してくれると期待されます。

その一方で、「どのような社会が望ましいか」ということ自体を議論することには向いていませんし、人々に説くことにも向いていません。むしろ、議論の枠組みを提示するのはサンデル教授のような政治哲学や倫理学だったり、あるいは過去の人類の歴史に学ぶ歴史学だったりするでしょうし、人々に社会のあるべき姿を伝道するのは、政治家、宗教家、起業家といった、学問ですらないのかもしれません。

経済学者は、経済システムや社会システムのありようを分析し、もし仮に「あるべき姿」が共有されているのであれば、政策・制度設計に対して適切なソリューションを提案する、システムアナリストもしくはシステムアーキテクトのような存在であると考えます。しかし、どのような社会が望ましいのかというビジョンを示すことについては、また別の役割が必要なように思うのです。

Posted: 2013年04月28日 00:00 このエントリーをはてなブックマークに追加
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