05/01/28(金) 脳とダーウィン 05/01/20(木) コフィン・ダンサー 05/01/17(月) 報復 05/01/16(日) 張形と江戸をんな 05/01/10(月) 国芳・暁斎展 05/01/09(日) ダフニスとクロエー |
05/01/07(金) 水木しげる展 05/01/06(木) 武蔵忍法旅 05/01/05(水) 夏目家の食卓 05/01/03(月) 悪魔の発明/ほら男爵の冒険 05/01/02(日) 私的年間ベスト10【2004】 |
2005/01/28(金)[本]脳とダーウィン
女刑事もののレビューはあと三冊残っているのだけど、ちょっと一休み。1月9日に書いた購入予定本のうち実際買ったのは結局『進化しすぎた脳 中高生と語る「大脳生理学」の最前線』のみ(売れているらしい)。一緒に「脳」つながりで『脳男』も買ってしまった。こちらは乱歩賞受賞のミステリー。どちらも読了、どちらも面白い。特に前者はへーっ、ほーっ、う〜むなどと声をたびたび発してしまうくらいの面白さ。レビューはおって。
今は以前買った『ダーウィニズム論集』を読んでいる。最近のではなく『種の起源』が発表された直後の論争の抜粋集。当時の大騒ぎが伝わってくるようでなかなか面白い。おさめられた論考の中に『進化しすぎた脳』の中で力説されていた文章とリンクしているかのように思えた一節があったので引用してみる。
まず、トマス・ハクスリ「ダーウィン氏の著作『種の起源について』が生物的自然現象の原因に関する完全な学説として占める一についての批判的検討」(1863)から
私は、ヒトと下等動物の間の構造的差異は性質も大きさもきわめていちじるしいもので、たとえダーウィン氏の見解がいかに正しくてもこの特別の変化が起ることなどとても想像できない、と主張する人たちの意義に対する反論に努力してきました。(略)
ヒトがまさにヒトであるようにヒトを成り立たせつくっているものは、なんでしょうか。それはヒトの言語能力だとはいえないでしょうか。言語は人に経験を記録する手段を与え、それぞれの世代を先行の世代よりいくらかずつ賢くし、宇宙の確定された秩序にいっそうよく合ったものにさせます。ヒトを人たらしめる――過去を見また未来を見て、いくらかぼんやりした意味でですがこの驚嘆すべき宇宙の働きを理解する――そのものは、そしてヒトを全野生動物の世界から区別させるものは、経験を記録する言語能力でなくてなんでしょう。(略)その機能的差異は、われわれの現在の研究手段では全く検知しえないものでありうる構造的差異に依存するものだということを、私はいうのです。
次に『進化しすぎた脳』の第四章から。
人間は声を自由に操れるようになった。「咽頭」……人間はほかの動物と違って咽頭を持ってるでしょ。咽頭を持ったがゆえに、言葉をしゃべれるように脳が再編成されて、今僕たちは言葉を自由に操っている。これはとても大きな影響を脳に与えた。なぜかというと、言葉というのはコミュニケーションの手段としてあるだけじゃなくて、つまり、信号としてあるだけじゃなくて、人間が抽象的な物事を考えるのに必要なツールになったんだ、そういう話をしたね、つまり、意識とか……「クオリア」という言葉を覚えているかな、覚醒感覚ね。ああいった抽象性、いわゆる「心」を生みだすのは「言葉」」である、という話になった。極言すれば心は咽頭がつくったともいえるんだ。
前者は後者より140年以上も前のものだ。それだけの時をへだて分野も違いながら、両者の文章が呼応しているようではないですか。たまたま私が同時期に読んだだけかもしれないけど、そうだとしても、こういうのに出会うのが本読みの醍醐味の一つであると思います。
2005/01/20(木)[本]コフィン・ダンサー
ジェフリー・ディーヴァー『コフィン・ダンサー』(文春文庫/上下)読了。
映画化され話題を呼んだ『ボーン・コレクター』に続き、四肢麻痺の科学捜査専門家リンカーン・ライムを主人公としたシリーズ。ベッドから一歩も動かずスーパーコンピュータなみの頭脳で犯人を追い詰めていく異色捜査官の本作における敵は、その刺青から「コフィン・ダンサー(棺桶の前で踊る死神)」と呼ばれる殺し屋。大陪審で大物武器密売人に不利な証言をする予定の証人を消すために雇われた彼によって、民間航空運輸会社の社長兼パイロットがその毒牙にかかり、彼の妻が次の標的に。大陪審まであと2日。追う者と追われる者の息詰まる勝負の行方は…。
前作『ボーン・コレクター』もなかなか傑作だったが、そのレビューで私は次のように書いている。
唯一不満なのは、やはり動機の稀薄さかな。きちんと説明されているようで、犯罪行為を産み出す必然性を納得させる描写が不足していることは否めない。ミステリーの犯人が「天から声を聞いて殺人を行う」タイプが主流になって以来の構造的欠陥だとは思う。動機以外の小説としての要素が良すぎるのでなおさら気になるのかもしれない。そんな些細な欠点など全然帳消しにしてしまうのが、アメリア・サックスとリンカーン・ライムの心理のドラマだ。
今回の印象はちょうどその逆だ。アメリアとライムの恋愛感情も相変わらずつかずはなれず、じれったいくらい徐々に深まってはいくのだが、全然本作の本筋ではない。アメリアは自分の一瞬の躊躇で同僚を犠牲にしてしまい、全編を通じて悔いを噛みしめながら捜査に没頭するのだが、それすらあまり印象は深くない。
そのかわり、今回は犯人側の行動と心理がじっくり書きこまれている。冷静沈着、決して自分の痕跡を残さない謎の殺し屋は、あのリーンカーン・ライムと互角の頭脳戦を繰り広げるプロフェッショナルでありながら、しかし頭の中では常に(架空の上官と)会話をし続ける電波な奴でもある。彼にとって他人は自分の仕事のために利用する存在でしかなく、一時の潜伏先を確保するためだけに孤独な女をナンパしてちゃちゃっと殺してしまう。
しかし、利用しようと途中で拾ったホームレスとかすかに心が触れ合い、内面をちらりと明かしたりする。殺し屋の印象が殺人マシーンから殺人を職業にしてしまった人間に微妙に変わっていく。このへんから私は捜査チームではなく、この殺人者の方に感情移入してしまった。読んでいくうちに彼の精緻な犯罪が成功することを期待するようになってしまったのだ。標的となる人物もななかなかユニークでそれなりに魅力的に書きこまれているにもかかわらずだ。
もちろん「虚々実々の罠また罠」や「驚愕のどんでん返し」なども色々あるのだが、この孤独な殺し屋の描写だけでも、私には前作より本作の方が点が高かったのでありました。
2005/01/17(月)[本]報復
ジリアン・ホフマン『報復』(ヴィレッジブックス)読了。
太陽の街フロリダは、キューピッドに怯えていた――それは若い金髪美人ばかりを狙い、何日も被害者をいたぶったあげく、生きたまま心臓をえぐり出して殺す連続殺人鬼の名だ。
捜査は難航したものの、偶然、キューピッドが捕らえられる。やり手と評判の女性検事補、C・Jが担当することになったが、法廷で犯人の声を聞いた彼女は愕然とした。それは今なお悪夢の中で響く、12年前に自分を執拗にレイプした道化師のマスクの男の声だった! こいつを無罪放免にしてはならない――恐怖に震えながらも固く心に誓うC・Jだったが、次々と検察側に不利な事実が発覚しはじめ……。
「全国の書店員が熱狂!」「P.コーンウェルも裸足で逃げ出す」と帯の惹句は大変なさわぎだ。私はコーンウェルの検屍官シリーズがさほどの傑作だとは思わないが、それでも本書の方が上とはいいがたい。
前半はとても面白い。女性検事補が毅然として告発せねばいけない相手が、自分を過去にレイプした相手とわかったときの驚愕。憎悪せねばならないのにまず感じるのは圧倒的な恐怖だ。なんとか自分がこいつを絶対に有罪にしてやると決意しても、自分が被害者であることがわかれば担当検事からはずされてしまうジレンマ。自分を慕ってくれるやり手の刑事にも真実をうちあけられず、しかも決定的な証拠を挙げることのできない焦燥……。
とっくに犯人がつかまっているのにじわじわ怖さを感じさせるストーリーテリングのうまさはなかなかのものだ。このあと事態は急変、二転三転、意外な展開で読者を飽きさせないのだが……
いかんせん、後半面白くなってきたところで逆にいやな予感がしたとおり、いかにもなハリウッド映画的展開になっていく。ヒロインが凶悪な犯人の罠にはまり絶体絶命ハラハラドキドキ、ってやつですね。
それがいけないわけではないが、あまりに予想通りだとしらけてしまう。最近のアメリカのミステリ作家は自作が映画化されることを前提に作品を書くのかね。それともハリウッド映画的展開がもう血肉と化しているのだろうか
もう一つ、ヒロインがレイプによって受けた心の傷、いわゆるPTSDを強調しているわりに、あまり躊躇もなく担当刑事といい仲になってしまうのはなんだかうすっぺらな印象でした。もうちょっと葛藤してよ!
2005/01/16(日)[本]張形と江戸をんな
田中優子『張形と江戸をんな』(洋泉社新書)読了。
目次
1.欲望の発露(錦の袋にはいった「女の性」女の性欲と張形文化 ほか)
2.快楽の追及(奥女中の性を描いた『床の置物』数字をめぐるおかしさ ほか)
3.開放感の伝播(性愛の先進地・上方の張形・京に遅れをとった江戸の張形 ほか)
4.好事家の世界へ(変貌する張形の用途・女のマスターベイションを描く文化 ほか)
浮世絵や古川柳でおなじみの「
西洋では女性には性欲がないという神話が支配的だったが、日本にはマスターベイションのタブー視がなく、女性の性欲についても肯定的だった。その証拠が浮世絵に描かれたあまたの張形である。
というのが著者の主張だ。私も江戸文化や浮世絵を愛するものではありますが、あまり西洋文化と比較して江戸文化の優位性を強調するのもどうかなあ。江戸時代だって張形に限らずセクシュアルな画像は公的には禁止されていたわけだし、西洋でも「女性に性欲がない」というのはたてまえにすぎなかったのではないか(参考→度会好一『ヴィクトリア朝の性と結婚』中公新書)。
しかし気になるのはそこだけで、本書中で紹介されている多くの浮世絵の図版と解説は文句なく楽しい。テーマが淫具と自慰なのだから写真やリアルな絵などだったら下品になってしまうところだが、浮世絵の飄逸な線だとそうならないところが不思議だ。
同じ張形がモチーフでも、上方(西川祐信)だと現実の具体例をカタログ化したように実用的で、江戸(菱川師宣)だと想像上の使用例をストーリー化するといった違いがある、というのも面白い。ただし最初はとにかく関西から流行し江戸に伝播したらしい。このへんも現在の風俗産業の流行と同じだね。
◇
ここのところ、女刑事(検事)もののミステリを続けて読んだので、明日から順次感想を挙げたいと思っています。『報復』『コフィン・ダンサー』『凍える牙』『花散る頃の殺人』『鎖』。
2005/01/10(月)[美]国芳・暁斎展
東京ステーションギャラリーに『国芳・暁斎展』を見に行く。
横幅17メートルという河鍋暁斎の「新富座妖怪引幕」が圧巻。これを見るだけで入場料(800円と安いけど)の元は十分に取れる。その他、暁斎の「地獄太夫と一休」「枯木寒鴉図」、歌川国芳の「宮本武蔵と巨鯨」「勇婦於松」等有名どころはしっかり押さえているリーズナブルな展覧会だ。お勧め。
私が一番引かれたのは暁斎の「文読む美人図」。三回見に戻ったが、唐輪髷に結い上げ低めに帯を締めた堂々たる立ち姿をじっとながめていると動悸が速くなってくる。妖しや。
*
図録は普通。それにしても先日買った「大水木しげる展」の図録はすごい。二千円とはとても思えない充実ぶり。水木しげるの好きな人には絶対のお勧め。(会場以外で買えるかどうかは知らないが)
2005/01/09(日)[本]ダフニスとクロエー
ロンゴス『ダフニスとクロエー』(岩波文庫/松平千秋訳/挿画ボナール)読了。
エーゲ海に浮かぶ美しい島レスボスの自然に囲まれて育った山羊飼いの少年ダフニスと羊飼いの少女クロエー。春の田園に芽ばえた幼い恋は、やがて二人をはぐくむ自然と季節とともに移りゆくにつれ、しだいに成熟した愛へと深まっていく
ゲーテが激賞したというギリシャ古典小説の傑作だけど、一時は「岩波文庫唯一のエロ小説」と言われてました。(今はサドなんかも入っているから唯一ではなくなってしまった)
このころ(二〜三世紀)の物語でありがちな「ひと目会った瞬間に恋に落ちる」ようなご都合主義な展開でなく、二人の成長とともに徐々に恋愛感情がはぐくまれていく様子が丁寧に描かれている。
接吻もし、ときには抱き合いもするのだが最後の一線が越えられない。こわいのでもなんでもなく「やり方がわからない」のだ。
長老が(遠まわしの)「性教育」をしてくれたり、二人とも羊飼いと山羊飼いだから羊の「しかた」を見て推理したりするのだが、人が教えてくれたのと山羊のしかたでは「向きが違う」ので二人は大いに悩み、結局どうしてよいかわからない。
上の絵はシャガールの連作『ダフニスとクロエー』のうち「フィレータースの教え」。性教育を実地に試しているところですな。もちろん、小説中には行為の詳細な描写はない。
結局、ダフニスを見初めた熟女がセックスの手ほどきをしてくれる(このへんもグローイングアップ系の映画では定番の展開ですね)のだが、それをクロエーにどうもちかけていいかわからない。
そんなこんなでもたもたしている二人には、他の男に横恋慕されたり海賊にさらわれたり色々な試練がのしかかる。クロエーだけでなくダフニスまで男色漢に迫られる。このときのダフニスが相手をとがめる科白が面白い。
牡山羊が牝山羊に乗るのはあたりまえだが、牡山羊が同じ牡に乗るのは誰も見たものはいない。牡羊でも牝でなしに牡を相手にすることはせず、鶏だって牡が牝のかわりに牡とつるむことはない。
古代ギリシャでも同性愛はあまりほめられた話ではなかったようだ。(キリスト教と違い犯罪というわけではないようだが)
まあ、なんだかんだあっても最後はめでたしめでたし二人は末長くしあわせに暮らしましたとさで終わる。
古代ギリシャの風俗やいかにも牧畜社会らしい食べ物の描写が楽しい。ヘシオドスの『仕事と日々』あたりと併読すると面白いと思います。
◇
今朝の朝日新聞の読書欄で気になった本をメモ。いつもは読みたいと思うのはあまりないのだが、今日は大漁。時間もスペースも小遣いも厳しいのでこのうちどれを購入するか熟考するとしましょう。
2005/01/07(金)[美]水木しげる展
江戸東京博物館に『大(Oh!)水木しげる展』を見に行く。
なにより、絵がうまい。漫画や紙芝居以外のタブロー絵画もずいぶん出ていたが、特に風景画がうまいしご本人も好きなようだ。天才少年画家といわれ、極貧の中、自力で正規の美術教育は受けていたようだ。
展示されていた自伝漫画によれば戦地で片腕になったときのエピソードがすごい。手術した軍医は元々は目医者。麻酔もろくな薬もなく、ただ斬り落としてリバガーゼをあててておくのみという治療。腕を失いマラリアに罹って半死半生の身でなお、腹だけはやたらに減っていたという。
水木しげるや、今は漁師をやっているらしい白土三平や(この二人に限ってかもしれないが)ガロ系の巨匠の基本的な画力と生命力は、同時代の他の漫画家よりどうも上のようだ。
図録と画集『妖怪道五十三次』まで買ってしまいちょっと散財。『五十三次』は本当に版木を彫って刷り上げた、53枚組14万円のセットもあったがさすがに手がでません。
2005/01/06(木)[本]武蔵忍法旅
山田風太郎『武蔵忍法旅』(ちくま文庫)読了。
ちくま文庫が独自に編んだ『山田風太郎忍法帖短編全集』の第8巻。半分が未読、半分が既読。
当然、未読の方が新鮮なはずなのだが、やはりそれまで他の短編集に収録されていないというのはそこまでなのか、既読の三編の方が面白さも(再読なのに)奇想の新鮮さもかなり上である。
例えば「近衛忍法暦」。もちろん奇天烈な忍法を使う忍者が活躍するのだが、その忍法によって露になる秀吉の朝鮮出兵の動機が秀逸。実際にこんな気持ちで秀吉は出兵を決意したのではなかろうかと思わせられる。身もふたもないリアルさに中高年としては微苦笑をさそわれた上に慄然とさせられたりする。
未読だった中では「彦左衛門忍法盥」がちょっと面白い。旗本奴が現われはじめた江戸初期を舞台に昭和の戦前派戦後派をパロディにした怪作だ。「下馬棒(げばぼう)組」「呑堀(ノンポリ)組」「放屁(ヒッピー)組」などという言葉遊びがさすがに旧さを時代を感じさせるが、ラストに至って、むしろ書かれた70年代より、21世紀の今現在の状況の方が呼応しているような気になってくる。
いつもながらの感想だが、いつの世も人間は変わらない、ということでしょうか。
◇
北杜夫『マンボウ恐妻記』(新潮文庫)購入。
2005/01/05(水)[映]夏目家の食卓
TBS『夏目家の食卓』
宮沢りえは美しく可憐で本木雅弘には品がある。久世光彦の演出はさすがで、市川昆の『吾輩は猫である』よりずっと面白い。年末年始で見た番組では一番の収穫。
◇
D.H.ロレンス『黙示録論』(ちくま学芸文庫)、マイク・アシュリー『SF雑誌の歴史 パルプマガジンの饗宴』(東京創元社)購入。
2005/01/03(月)[映]悪魔の発明/ほら男爵の冒険
『悪魔の発明』はジュール・ベルヌ原作。潜水艦を駆使する悪の伯爵が強力な爆薬を発明した科学者を拉致してアジトの火山島に連れていく。一緒にさらわれた助手の青年が同じ囚われの身の美女を味方につけて悪人たちの野望を挫こうとするのだが……
まあ、ストーリーはどうでもいい。全体の映像がベルヌの『海底二万理』の挿絵のような銅版画のイメージで造られている。背景の海や山はもちろん船や城やインテリアまでも細密な水平線が引かれた銅版画なのだ。その銅版画を背景にして実写の人物が動き演技をする。銅版画風の海と実写の波が合成されていたり、アップになった小道具大道具にまで銅板を模した線描がひかれている凝りようだ。
『ほら男爵の冒険』はさらにファンタジー度夢想度がアップしてゼーマンらしさが堪能できる。月に到着した宇宙飛行士をファンタジー世界の住人が出迎える。シラノ・ド・ベルジュラックやほらふき=ミュンヒハウゼン男爵だ。ほらふき男爵は宇宙飛行士と共に地球にもどり冒険の旅に出る。トルコ兵千人を倒してとらわれの姫を助け、海賊と大魚に呑まれて世界の海を一周し、旧友の戦争に参戦して大砲の弾丸に乗って宙を自在に飛行する。その間、宇宙飛行士とお姫さまの恋を争い、三人でまた月にもどっていく。
描写もお話しも奇想天外奇妙奇天烈。空想幻想の世界を視覚化するのには、CGなどを駆使して徹底的にリアルさを追求する方法が今は主流だけど、ゼーマンのようにリアルにはほど遠いが、徹底的に見る人の脳の空想力幻想力妄想力を刺激していく方法もあるのだよね。こちらの方法はよほどの天才がやらないとただのショボい映像で終わってしまうだろうから、決して主流にはなりえないだろうけど。
*
帰りはほど近い六本木ヒルズのライトデコレーションをおのぼりさんよろしく見学して帰途につく。
2005/01/02(日)[本]私的年間ベスト10【2004】
あけましておめでとうございます。
今年最初の本欄は昨年読了本のベスト10です。あまりアクチュアルなラインナップでなくて申しわけない。
次点が二冊。
ここにちらほら書く以外ほとんど読了記書いてないけれど、書くのをあきらめたわけではない。メモ程度は書いているので今年こそまとめたい、と例年言ってるなあ。
昨年の読了本はざっと50冊弱。一昨年に比べざっと二割減ですな。読書もそろそろ量より質に転換する時期、なんてことはいいたくないので、今年は読書量も巻き返したいと思います。