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ロストジェネレーションと麻枝准の時代

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昨年、「永遠の現在」(2008/08/17)に寄稿させていただいた原稿です。1年以上前なので、今となっては古いというかどうかというところもあるでしょうが、そのまま転載します。ご笑覧ください。

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ロストジェネレーションと麻枝准の時代 (初稿: 2008/06/29)

【社会現象としてのロストジェネレーション】
「ロストジェネレーション」は、今年(2007年)始めに朝日新聞によって、バブル崩壊後の「失われた10年」に就職を迎え、正社員になることが難しかった超就職氷河期世代(1972年頃~1982年頃生まれ、2007年現在25-35歳)を指す言葉として使われている。香山リカが「貧乏クジ世代」(*1)と呼んでいるのと同じであり、1900万人が該当するという。原義とニュアンスが違う(*2)とか高給取りである新聞記者からの上から目線がイヤだ(*3)とかいった話もあるが、伝えたいニュアンスは分からなくもない。

実際、「いざなぎ超え」とされるゆるやかな景気回復と、団塊世代の引退、少子化が重なり、都市部では労働力不足の中で、新卒が空前の売り手市場とも喧伝される一方で、ほんの数年前に就職を迎えてしまったがために正社員になることができなかったり、希望する仕事に就けなかった若者は少なくない。政府は「再チャレンジ」を政策として掲げているものの、肝心の採用する企業側が新卒を重視し、特に職歴のない転職者に厳しいため、既卒者の雇用が進んでいるとは言い難い。35歳を境として転職市場や派遣採用の門戸が急速に狭くなるため、10年後には、ロストジェネレーションの世代が社会にとって大きな負担になっている可能性は高い。

単に就職難であったということばかりでなく、この世代、特に男性はまた、「生き方」のロールモデルを見失い、とりわけ自信を失っている世代でもある。バブル崩壊後の不況によって、日本型終身雇用・年功序列が崩壊し、リストラの嵐が吹き荒れる中で、必死に会社にしがみつく父親の後ろ姿を見て育てば、父親をロールモデルにすることは困難であろう。また、女性の社会進出や恋愛観の変化によって、家庭や男女関係にも変化が訪れている。見合い結婚は7%台にまで落ち込み(*4)、恋愛からあぶれた人たちが救済されるチャンスは極めて限定的になっている。もちろん、結婚情報サービス会社で出会ったカップルを含めればこの比率は高まるかもしれないが、情報サービスで知り合った後は一般の恋愛プロセスを経るため、恋愛的な魅力が人生のパートナーを見つける上で重要になっているという意味では変わらない。十分な仕事に就けず、特定のステディなパートナーを持たない人が増える中で、非婚化が進むのは必然である。

【ロストジェネレーションの作家】
1975年生まれの麻枝准は氏自身がちょうどこのロストジェネレーションの世代に当てはまるということになるが、麻枝の読者もまた、その大半がロストジェネレーションに当てはまることになるだろう。しかも「道に迷った」という意味では、麻枝の読者は単に世代論を超えて特にこの言葉が適切かもしれない。そして麻枝准という作家は、このロストジェネレーションの時代にこそ生まれた存在ではないかと考えている。

その物語は作品を重ねるごとに少しずつ変化している。初期の『MOON.』『ONE』『Kanon』は、読者が感情移入する対象として主に(主人公でなく)ヒロインのトラウマや別れ・喪失を描く事で読者にカタルシスをもたらすことを最大の特徴としており、通常の映画・ドラマ・ゲームの物語であれば娯楽が娯楽として完結し、娯楽の時間が終われば気持ちを切り替えられるものが、しばしば日常生活にも影響を与えてしまうようなある種の圧倒的リアリティと深い共感を呼び起こす物語を一貫して創出してきた。麻枝の描くヒロインは恋愛ゲームキャラクタの記号的な特徴とともに、必ずと言って良い程生きる事そのものへの不器用さを持っており、自信を持てず人間関係にナイーブなロストジェネレーションの文学青年の心を捉えることに成功したのである。「きみもひとり 僕もひとり みんなが孤独でいるんだ この輪の中でもう気づかないうちに」(「Little Busters!」)に通じるような、恋人・友人と一緒にいてさえ「ひとり」を感じてしまう心性と言えるだろうか。

【2つの恋愛ゲームユーザ層】
さて、『ONE』で注目され『Kanon』で大ブレイクしたKeyはいわゆる「泣きゲー」のブームを生み出し、他のブランドからも似たコンセプトを狙った様々な作品が登場した訳だが、一方で、その後の恋愛ゲームの主流はKeyのそれとはかなり異なっている。

具体的には、「鬱ゲー」と呼ばれた『君が望む永遠』(2001年)を転機に、『D.C.~ダ・カーポ~』(2002年)を始めとするキャラクタ萌えゲー、それも性描写が1キャラクタで複数回登場する、「萌えエロゲー」が主流となり、2007年の今に至るまでそれが続くことになる。これは同じ土俵で競争するのを諦めたという事もあるかもしれないが、1つには、市場のニーズ自体が変化したのではないかと見ている。具体的には、異性に興味を持ち始める小学校高学年の頃から、すでに(『同級生』(1992年)、『ときめきメモリアル』(1994年)などを走りとする)恋愛ゲームというジャンルが確立していた、言わば「恋愛ゲームネイティブ」(*5)層が18歳となり、美少女ゲームの主要顧客層になったことがその理由ではないかという仮説である。

ロストジェネレーションの恋愛ゲームユーザは、異性に興味を持ち始める頃には、美少女ゲームこそ存在するにしてもまだ普及してはおらず、一般に、最初は普通の恋愛およびその挫折を通過してから恋愛ゲームに触れていると思われる。そのため、恋愛ゲームに対して、「現実の恋愛でなく恋愛ゲームをプレイしている」ことに幾分かは後ろめたさが存在していた。その点、麻枝のように、村上春樹の匂いを感じ、小説に近い深い読みと考察に耐えうる作品は、「自分はあくまでも物語として読んでいるのだ」といった「自分への言い訳」がしやすいことが「利点」だったのではないだろうか。今となっては懐かしい美少女ゲームユーザ内における「エロ派」「シナリオ派」の対立も、「シナリオ派」の「エロゲー」に対する落ち着かない感覚が恐らく根底にあった。それが行き着いたのが『CLANNAD』『Little Bustters!』の一般作化なのだろう。

しかし、新しく出てきた「恋愛ゲームネイティブ」層は、初めから、もしかすると恋愛以前に恋愛ゲームや萌えゲーに接しているため、ゲームのキャラクタに、性的なものを含む恋愛的な感情を抱く事についてより親和的であり、後ろめたさを比較的感じにくいと思われる。むしろ、モテ系であれば屈託なく現実の恋愛と、恋愛ゲームの萌えキャラを並列に楽しむことができるだろう。あるいは、全く逆に、子ども時代から恋愛ゲームにどっぷり浸かっているために、現実世界における恋愛への未練がない人すらいるかもしれない。「萌えエロ」の全盛は、こうした層が主要顧客層になったことでもたらされたものではないかと考えるのである。

【そして終わりなき日常が残される】
一方、『Kanon』に続く『AIR』では、生きることの不器用さが極限に行き着いた観鈴の過酷な運命、「そら」として傍観することしかできない諦念が印象的だが、そのラストでは、then-d氏の「私的AIR論 恋愛ゲームを遠く離れて」(2000年)で、そうした過酷な運命や諦念を物語の中で閉じるのではなく「プレーヤ自身にバトンを渡す」形を取っていることが指摘されている。

このような物語の終わりの後に示される暗示によって、我々は『AIR』の世界から離れて旅立つことになるのだが、そのとき我々はこれが残したものとともに、終わりのない道への第一歩を共に踏みだしているのだ、と考えられよう。そしてこの我々自身が歩みだしたという感覚は、この作品からバトンを渡された、という心境に例えられるであろう。

つまり、「次はあなたの番ですよ」ということになろうが、こうしたタイプの表現は『下級生』(1998年)のように同時期に一部見られるものの、萌えゲー全盛時代になってからは余り見かけないものである。更に、続く『CLANNAD』では主人公が父親になり、家族を持つ話が丁寧に語られるが、これもまた他の萌えゲー作品とは一線を画している。仕事、結婚、育児、そして家族と、それを通じた人間的成長といったテーマは、社会人経験が少し重ねられたユーザが増える中で、仕事でこそ『はるのあしおと』『SA・NA・RA・RA』『120円の春』など一部の作品で見られるもののの、結婚や育児を真正面から描こうとするものは稀である。結婚、育児といったイベントは、人が他人の人生に対して責任を負っていくものであり、しばしばそれを回避してきた読者にとっては、率直に言って目を逸らしたい話題ですらあるかもしれないからだ。

必ずしも血縁に依らない家族のあり方は麻枝が『Kanon』『AIR』の頃から繰り返し書いており、氏の家族観に通じるものであろうが、『CLANNAD』ではバッドエンド分岐においてよりはっきり分かるように、プレーヤをかなり意識した書き方をしている。

じゃあ、俺は…
大人になった俺も…家族なんて持たずに暮らしていくのだろうか。
その時の俺は、どんな俺なんだろう。
……。
ああ、思い描くだけで面倒だ。
どんな責任も負いたくない。
気楽なままで居続けたい。
ずっと、ひとりだったら、それもいい。

ここでは、ロストジェネレーション(特に1975年生まれの麻枝より上、『CLANNAD』が発売された2004年には29-32歳)であれば、年齢的に普通なら家族を持っていてもおかしくないプレーヤに対して、より踏み込んだ「バトン」を意識していると思われる。これはプレーヤを楽しませようという一般的な恋愛ゲームのマーケティング視点からでは考え難く、「鬱アニメ」として一部で有名な(*6)『耳をすませば』にも通じるものがあるし、ある意味ではより残酷ですらある。思春期の主人公たちの『耳をすませば』が、大人になってからはいくら鬱になろうともはやどうしようもないのに対して、『CLANNAD』が提起する、新たな家族を作って行くという話は、今まさにロストジェネレーションが直面し、そして今後も直面し続けるものであるからだ。

もちろん、ここでも「恋愛ゲームネイティブ」層は、『CLANNAD』をそれほど屈託なく楽しめるのかもしれない。多層的に楽しめることが、作品が名作たり得る条件であることは確かだが、作品が本来持つ強度を十分に味えるのは、どちらかといえば麻枝と同時代のプレーヤではないだろうか。麻枝は『Little Busters!』を最後に、シナリオから引退するとされている。新しい「恋愛ゲームネイティブ」層の登場の中で、麻枝准はその役割を終え、そしてロストジェネレーションには、ただ終わりなき日常が残されるのである。

_______________________
*1 「貧乏クジ世代―この時代に生まれて損をした!?」PHP研究所, 香山リカ, 2005。

*2 【海難記】 Wrecked on the Sea (http://d.hatena.ne.jp/solar/20070104#p1)。

*3 バリカタBlog (http://masabon.tea-nifty.com/barikata/2007/01/post_0437.html)。

*4 国立社会保障・人口問題研究所 第12回出生動向基本調査 (http://www.ipss.go.jp/ps-doukou/j/doukou12/doukou12.asp)。

*5 筆者造語。ネットやケータイを小さい頃から当たり前のように使いこなしている若者を指して「デジタルネイティブ」と呼ぶのを参考にした。

*6 描かれる日常的な恋愛のあまりのリアリティに、本来、学生生活はああいうものではなかったのか、それに比べて自分の青春は…と鬱になる一部の人たちが続出したとされる。ARTIFACT@ハテナ系 - 再び『耳をすませば』を観て自殺 (http://d.hatena.ne.jp/kanose/20051213/mimisuma)など。

Posted: 2008年09月15日 00:00 このエントリーをはてなブックマークに追加
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