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読書日記 2000/01-06

2001年06月

オトラントの城」  ホレス・ウォルポール (井出弘之訳/国書刊行会)

あらゆる小説形式が発見されたという十八世紀の英国で生まれた、ゴシック小説の始まりともホラー小説の原点とも言われる名作ロマン。

悪夢を見て本書を三日間で書き上げたという著者のホレス・ウォルポールは当時ホイッグ党の国会議員で父親は首相というエリート作家。

歴史的作品であるだけに古色蒼然たるところはもちろんあるが、骨太の物語はなかなか力強い。古城、地下道、暴君、彼の従順で貞淑な妻、美しい二人の姫、実は高貴な出自の百姓の若者、王位乗っ取りの陰謀、三角関係、不吉な伝説・・・・ゴシック小説らしい要素は全てそろっている。細やかな心理描写や情景描写はないが、その分シンプルでスピーディだ。物語のつぎ目つぎ目に出現しては消える巨大な兜、篭手などの巨人のパーツが無気味である。骸骨の顔の修道僧の幽霊は現れるし、このへんはホラーの元祖の面目躍如たるところだ。

ドラマのクライマックスは唐突であっけなく、ストーリー展開は現代の小説と比べるといかにも未熟である。しかしこの直後に出現する怪異のクライマックスはちょっとすごい。部分部分しか姿を見せていなかった大甲冑が城を破壊して出現するのだ。まるで「大魔神」である。

こういう小説を読んだときの面白さは、当然現代小説の面白さとは違うわけで、中世人の心理や行動は不可解だったりするのだけれど、「面白さの芯」みたいなものは伝わってくる。RPGの設定やストーリーなんて、現代小説より本書をはじめとするゴシック小説などの古典的世界から直接影響を受けているような気がするがどうだろうか。

心とろかすような」  宮部みゆき (創元推理文庫)

パーフェクト・ブルー』に続く、元警察犬で今は探偵犬、ジャーマン・シェパードのマサを語り手にしたミステリー。

犬ではあってもマサの語りは、まさしくハードボイルド探偵のものであって、年輪といささかの疲れた「男」を感じさせて渋い。

飼い主である蓮見探偵事務所の姉妹、加代ちゃんと糸子ちゃんを助けるマサの情報源は街の動物たち。犬、猫、カラス、彼らは全て人間語(もちろん日本語)を理解でき動物同士は会話できる設定になっている。英語なまりのハシブトカラスや、居眠りばかりしているセント・バーナード犬のじいさんなど彼らの個性の書き分けが面白い。

五編の中短編が収められているが、書き下ろしの『マサ、留守番をする』が力作。珍しく探偵事務所の面々が台湾旅行へでかけることになり、留守番をおおせつかったマサが出会う2年前のペット殺し事件の影。犯人と目されている少年の父親が殺され、事件の意外な犯人があきらかになり、せつない結末がやってくる。弱いものに向かう人間の残虐性と世相の先行きを犬であるマサは憂うる。

宮部みゆきは登場人物を実に魅力的に書く。犬好き犬嫌いにかかわらず、この小説を読んでマサを好きにならないでいるのは難しい。

夜の旅その他の旅」  チャールズ・ボーモント (小笠原豊樹訳/早川書房)

先月古本屋で見つけた1969年の版。いつか買いたいと思っているうちに絶版となってしまった「異色作家短編集」のうちの一冊だ。

収録の短編はバラエティに富んでいる。いわゆる奇妙な味の短編や、ミステリー、艶笑、ホラー、SF、オカルト、ジャズやカーレースを題材にしたムード小説。飛び抜けた傑作もないが、駄作もない。平均点よりやや上のの面白さというところか。

白人町に越してきた黒人一家の恐怖を描いた「隣人たち」がシンプルだが面白い。意外なしかしハートウオーミングなラストがいかしてる(死語?)。

中には懐かしきTV番組トワイライトゾーン(私の世代にはミステリーゾーン)の原作になった作品もあるし、所収の「淑女のための唄」は私もTVで見た記憶がある。トワイライトゾーンは後年映画化されたりTVでも新シリーズができたりしたが、やはり最初のモノクロームでミステリーゾーンとして放映された頃の作品が一番面白い。思いこみで言っているのではなく、再放送されたミステリーゾーンを録画したテープがいくつかあって、今見返しても面白い。

その面白さの背景には、ボーモントや「異色作家短編集」の面々の骨組みのしっかりした作品群があったのですな。

しかし「異色」というくくり方がいかにも時代を表わしている分類だ。商品名としてもあまりいいとは思えないが、やはりこの手の小説を「奇妙な味」と名づけた乱歩はさすがである。

異色作家短編集」は現在新版になっているらしいが、惜しいことにスタージョンの『一角獣・多角獣』が再版されていない。なんてこった。

「こころ」はどこで壊れるか」  滝川一廣 (佐藤幹夫編/洋泉社y新書)

滝川先生は練達の臨床医らしく、地に足のついた言葉で、マスコミ情報の「常識」を否定し、私の蒙をひらいてくれる。少年犯罪は実は激減している?はたして本当に子供たちは昔よりキレやすくなっているのか?

なかなか売れているらしく、色々なところで紹介されているので、あらためて内容の説明はしない。私が面白いと思ったところ、今回の大阪の事件と関連しそうなところを紹介しよう。

今回の犯人に対しては精神鑑定が行われ、「人格障害」あたりの結果が出そうだが、その「人格障害」についての卓抜な説明が本書にある。

正統精神医学では人間の「こころ」は本来合理的であるという近代市民社会の人間観(中略)「近代的個人」というフィクションをそのまま共有している学問です。(中略)異常な行為ほど(中略)病的な現象とみなさざるをえません。すると異常で論外な行為ほど責任は問えないことになります。(中略)それがつきつめられたら「法的責任」なる近代概念そのものが崩壊に瀕します。そこに網み出されたのが「人格障害」の概念だった(中略)精神病でなくとも状況次第ではオーダーを大きくはずれた非合理な行為をなすことがありうるのだとして、行為の異常性と法的な問責性を切り離した

ちなみに「人格障害」という訳語も問題で原語は「Personality disorder」=「標準をはずれた個性」だ。他にも「ボーダーライン」とか「ADHD」とかマスコミに良く出てくる「精神医学用語」があるが、これはすべてアメリカのDSMという診断マニュアルに基づいた診断名だという。それももともと診断より統計が目的でつくられたもので、しかもアメリカ独自の事情を考慮してアレンジされているらしい。

マスコミに登場する先生方が、ただこのマニュアルに適当にあてはめてコメントをされているとは思いたくないが、このへんのことを知ってお言葉を聞くと、また味わい深さが増すのも確かだ。

このように本書は平易だが結構辛辣で、私のような素人には眼からうろこが落ちるような記述がたくさんある。明日も、もう少しだけこの本の内容から紹介してみたい。

*

しかし、精神障害者の犯罪に対し「差別せずに」普通の人と同じ基準で法律を適用してはなぜいけないのだろう。

社会が弱者として精神障害者をケアしなければならないというのはもちろんだが、それと法律は別問題ではないのか。

法の下には誰もが平等なはずだし、「法を知らなかったというのは免罪理由にはならない」というのは法治主義の大原則であるはずだ。であれば「心神喪失で法律違反しているか判断つかない」状態でも、結果としてなされた犯罪は、きちっと法律で裁かれるべきだと思うがなあ。病者は刑罰より治療というのはわからなくはないのだが、私を含め少なくない人が口に出さないが心の奥で思っているのは、「本当になおるの?」ということだと思う。理不尽な疑問だというのはわかってはいるのだが。

イワンのばか 他八編」  トルストイ (中村白葉訳/岩波文庫)

読了本をまとめて記述。レビューは追って。

平賀英一郎『吸血鬼伝承』(中公新書)、小島貞二編『艶笑落語名作選』(ちくま文庫・定本艶笑落語2)、『井上ひさし『珍訳聖書』(新潮文庫)、リチャード・ニーリイ『殺人症候群』(角川文庫)、筒井康隆『魚藍観音』(新潮社)、井上章一『キリスト教と日本人』(講談社現代新書)。

ゴッホの遺言」  小林英樹 (情報センター出版局)

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは言うまでもなく日本人にも人気のある大画家である。私も大好きだ。

「ひまわり」や「麦畑」や「糸杉」や「星月夜」などの数々の名作が思い浮かぶが、鋭い視線の自画像も印象深い。そして忘れられないのが、負傷した耳を布で覆い毛皮の帽子をかぶった自画像だろう。みずからの耳を切り落としそれを娼婦に送りつけ、晩年は精神病院に入院し、最期は狂気の発作によるピストル自殺を遂げた狂人にして天才・・・・。

日本人だけでなく世界中の人々に刷り込まれている、そのようなゴッホ像に、本書は変更を迫る。しかもその「誤解」の原因は単に世間の無理解だけでなく、ゴッホに親しいある一個人の「思惑」によるところが大であり、一種の「陰謀の結果」であったというのだ。

まず著者は、いままで(今でも)ゴッホの作品だと信じて疑われていない一枚のスケッチの真贋に疑義を呈する。

著者は画家である。「スケッチ」の真贋の分析も「犯罪学」ではなく「画家の眼と論理」をもってなされる。この贋作に対する、ゴッホの作であるにはあまりにも致命的な欠陥の指摘の数々は、ちょっとでも絵を描く人、特に私のような下手の横好きには耳の痛いことはなはだしい。ネット上の罵倒掲示板の比ではないよ。それだけに絵を描いている人にためになることは請け合う。痛いが面白い。

その説得力のあること、読み終わったあとでは、何度見返しても問題の絵は贋作にしか見えない。その数々の欠点が幾多の専門家の眼を逃れていまだにゴッホ美術館の重要収蔵品として守られているのは不思議なほどだが、これはやはり著者の説明の力であろう。一般人は、先入観なしに見るどころか最初から権威ある場所に飾られていて「真物である」という先入観で見るのだから、まず凡人には疑いを持つなど無理なことである。著者の慧眼こそ驚くべきだろう。まあ、専門家は怠慢を恥じるべきだろうが。

刑事コロンボ古畑任三郎は見事な論理で完全犯罪の針のごとく小さな矛盾を暴きだすが、最初に犯人にめぼしをつける根拠は、往々にして論理を超越した「勘」のようだ。もちろん「勘」自体、経験・知識・論理が無意識のうちに働いた結果なのだろうが、著者が贋作に最初に持った違和感は、名探偵たちの「勘」と同一のものだろう。そしてその勘がさししめすところを第三者に納得いくように綿密に検証していく過程も、まさしく名探偵の業だ。本書が下手な推理小説よりずっと推理小説的である由縁である。凡百のミステリーの及ぶところではない。実際本書は、第53回日本推理作家協会賞の「評論その他の部門」を受賞している。

さて、手段と機会はわかった。次は当然、贋作した犯人はだれか?そしてその動機は?となるわけだが、ここから話は冒頭のゴッホの自殺の真相、それは狂気が原因か?という方向に向かって行く。著者は、今度は大量に残されているゴッホの書簡を分析していく。あきらかにされるゴッホの魂。著者の筆はゴッホへの同情に偏りすぎているきらいはある。しかしこの時代にいれられなかった、時代をはるかに超越した天才の苦悩を思うと、われら凡俗の徒、その魂の崇高さに心うたれ、その痛ましさに目頭が熱くなるのを禁じ得ない。

「贋作の犯人」「自殺の真相」そして「ゴッホの遺作はどの絵か」という本書で呈示した三つの謎のどれにも、著者はきちんと答えを出して筆を置いている。

その全てに対して全面的に首肯する必要はないとは思うものの、少なくともゴッホは「気が狂って自殺した」のではないし、ゴッホの絵は「狂気の産み出した」ものではない。本書を読むとそれだけは納得せざるを得ない。

天才の業を狂気の産物として矮小化したり、逆に一般人とは隔絶した世界のものとしてあげ奉る、どちらも思考停止という意味では同じである。まずは、謙虚にゴッホの絵を見てみたい。

オランダは遠いが、ひろしま美術館にも本書でキーになっている一点が所蔵されている。行けばいつでも見られるのだろうか。

2001年05月

模倣犯」  宮部みゆき (文藝春秋社/上下)

もちろん評判に違わぬ傑作である。

ネットでも雑誌でも数多あるレビューで必ず強調されるごとく重厚長大な分量にまず圧倒される。二段組千五百頁超、原稿用紙にして3551枚だそうな。

ただ、だらだらと長いだけではない。むしろ長さ=量にこそ意味がある小説だと思う。

東京下町の公園のゴミ箱から発見された人間の手首に端を発する連続殺人事件。遺族をからかいマスコミを挑発して楽しむ陰湿残虐な犯人。

「はやり」のサイコサスペンスであるには違いない。このジャンルには重厚長大さと緻密な描写なら本書にひけをとらない、たとえばローレンス・サンダースの『魔性の殺人』のような傑作がたくさん存在する。おおむねそれらの「物語」は「犯人」と「探偵(警察等)」に焦点があてられ、犯行の「動機」と「手段」とその「解明の過程」が綴られる。それがいままでのミステリーであった。(「動機」がクローズアップされたのは松本清張以降であり、近年はやりの「動機」が「狂気=サイコ」である)

しかし、それらの名作ミステリーが書き落としてきたこと、書かないできたこともまたたくさんある。その最たるものは被害者とその家族に残される傷の深さだろう。『模倣犯』ではたくさんの人が殺される。もちろん被害者すべてに家族があり、彼ら遺族の心理や行動の描写に多くの頁がさかれる。事件に偶然遭遇し目撃しただけの人々、彼らにも人生が存在することを確認するかのようにその性格や経歴が詳しく書きこまれる。警察に寄せられる投書の数々にも一章がさかれる。短い投書の文面から、事件がマスコミを通じて影響を与えた人々の心が見えてくるかのようだ。事件のルポを書いて名をあげようとするジャーナリストも重要な登場人物だ。警察にも捜査班や鑑識班だけでなく、資料整理専従の後方部隊「デスク」が存在する。

作者はそれら「事件の周辺」をすべて書こうとしているかのようだ。「犯罪を(可能な限り)全体として書くこと」を宮部みゆきは志ざしたように思える。

例をあげる。

犯人?の母親が入院する外科病棟。ここにたまたま同時に入院している中年の女性の視点から、犯人の母親と犯人の友人の姿を描く章がある。語り手の女性は(ラストでちょっぴり顔を出すが)この章にしか登場しない。それなのにそれなのにその人間観察、外科病棟の描写のリアルなこと。全体の中では地味な章ではあるが、本書の面白さを構築している典型的な「部分」だと思う。

重厚だ、長大だ、と言い過ぎたかもしれない。大丈夫です。作者はさすがに当代きっての文章の手練れである。長さが心地よく感じるほど、読み終わるのが惜しくなるほど読みやすい。悪魔のような犯人がどうなるか、ラストがあっけないのが残念だ。もうちょっと粘ってほしかったとは思う。

そのかわりというわけではないが、最後に被害者の遺族の一人が言い放つ犯人への啖呵(たんか)が素晴らしい。背筋がぞくぞくっとして、ここまで読んできてよかったと眼がちょっとうるっとしてしまった。宮部みゆきならではのカタルシスがここにある。

2001年04月

なぜ人を殺してはいけないのか新しい倫理学のために」  小浜逸郎 (洋泉社新書)

この言葉は、昨年来もっとも気になる質問として、多数の知識人・一般人が色々話題にし、色々な発言をしてきた。

私も自分なりにちっぽけな脳味噌で考え、色々な意見や解説を読んだり聞いたりしてきたつもりだったが、本書ほど明快できちっとした論考ははじめて読んだ。

私が掲示板で書いた意見などは「一見いい答えに見えながら不十分な答えの例」としてばっさり両断されてしまいました。恥ずかしや。

「不十分」の意味は「人を殺していけないことを説得するには」不十分だというのではなく、倫理学的に論理をきちっとつきつめておらず、理論として不十分だということなので、納得せざるを得ない。

ぼんやりしていた頭の中がクリアになった気分。

本書のカテゴリーは副題にもあるとおり「倫理学」だし、プラトンやキルケゴールも出てくるが、決して難解ではない。現代人が「ふと疑問に思いながらも積み残してきた」疑問について著者はじっくりと解答をさぐっていく。右にも左にもかたよらないバランス感覚と論理性は読んでいて小気味いい。表題以外の本書で取り上げられている「問」は次のようである。

最後の二章が白眉。

最後に著者の前書きを少し引用する。

 人は成長し成熟し老いていく途上で、初めの素朴な難問のパターンに何度も出会うことを経験するだろう。そしてそれらが少しも解決されていないことも。(中略)

もしあなたが、それらの問いを不問に付したまま生き続けることに多少とも寝覚めの悪い思いを味わうなら、

本書を読んでみるのも一興でしょう。

取引」  真保裕一 (講談社文庫)

2001年03月

人名の世界地図」  21世紀研究会編 (文春新書)

リリエンタール(百合の谷)」「ゴールドスタイン(金の石)」という美しい苗字の人がいたら十中八九ユダヤ人である。なぜわかるのか?

かつてユダヤ人は姓をもつことを禁じられていた。時代によっては「話のわかる領主」が姓を売ることもあったが、すぐユダヤ人とわかるように植物名と金属名しか使わせなかった。

ことほどさように「人名」も世界では、日本人の「氏名」の概念をただ外国語におきかえただけ、とはいかないようだ。ヨーロッパ、ロシア、中国、アジア、アフリカ、本書に登場するたくさんの「姓」「氏」「名」のエピソードには人類の歴史が集約されている。

小説や漫画、特に外国人が登場する作品を書こうなどという人は必読の本といっていい。かっこいい外人の殺し屋につけた名前が、かの地の人が聞くと「権太郎」とか「甚兵衛」みたいだった、などという失敗をしなくてすむ。

日本人は自由に親が名前を考えてつけるし、結構ユニークな命名も許される(悪魔くんなんて例外もあったが)。しかしキリスト教圏ではかつては教会に命名してもらっていたし、現在でも限りある人名リストから選ぶ傾向が強いらしい。その結果、同じ家や親戚に同じ名前の子が大勢いるということになり、区別するためにつけられたのが「愛称」だという。親しさの表現や略称だと思っていたが実用的な理由があったわけだ。

当然、人気のある名前ほど区別の必要が増え、たくさん愛称があるということになる。一時は英国女性の25%を独占していた名前「エリザベス」にはリズ、ライザ、リサ、エリザ、エルシー、イライザ、ベス、ベッツイなどと愛称が数え切れないほどある。

日本の武家では「信長殿」と本名を呼ぶことは滅多にない。「上総介(かずさのすけ)殿」という「呼び名」や「右府(ゆうふ=右大臣)殿」などの役名を使う。

この「実名忌避」の習慣はなぜなのだろうと思っていた(のに調べはしなかった)のだが、本書を読んで疑問が氷解した。

アジアで顕著らしいが、人を呼ぶとき(特に幼児期)は実名ではなく愛称、それも動物や身体の部分などの奇妙な名前を使うことが多いという。実名を聞かれたくない相手は、「他人」ではなく「精霊」や「悪魔」などの「死や病気をもたらす者」なのだ。彼らに個人を特定されないため、子供が産まれたのを気づかせないための「知恵」だったのだ。その習慣が実名をを呼ぶことを忌む感覚として残ったのだと思われる。

拓哉だ大地だ翼だ彩花だ、と好きな名前を好きにつけられる現代日本は、その点では自由で平和な良い国だと思う。いっそのこと戸籍制度なんてものをなくせばさらに完璧だと思うのだが。

世界史年表・地図」   (吉川弘文館)

B5横サイズの見開きの横軸に地域、縦軸に年代を取った年表。他に各年代の大雑把な世界地図が載っている。

地域は当然年代によって少しずつ変るが、ヨーロッパを西・中央・東に分けたくらいの区分で分けられている。日本は一番右列だが、最初の頃はほとんど真っ白だ。

前からこんな年表がほしかったのである。はなから世界史が苦手な上、色々な国の物語を読んだりしても、同じ頃日本はどの時代だったのか皆目わからない。たとえばサド侯爵が監獄に入っていたのは日本だと何時代?たぶん江戸時代だろうとは思うがそれ以上は見当つかない。

だいたい隣国中国でさえ、「西遊記」の時代、「水滸伝」の時代、日本はどんな時代だったか全然わからない。戦国の剣豪が出てくるTV時代劇で弁髪の怪剣士と戦うシーンがあったから、日本の戦国時代は中国だと「明(みん)」か、というようないい加減な認識しかないのだ。

知らなくてもどうということはないといえばそうなのだが、何年か前、山田風太郎のある短編を読んで考えを改めた。名探偵ホームズが活躍する時代のロンドンを舞台に、ホームズが謎の東洋人に出遭うのだが、この黄色い滞在客の正体が(日本人なら)誰もが知っている日本人なのだ。この人の履歴からして、実際にホームズに出会っても不思議はない(もちろんホームズは架空の人物だが)のだが、この二人が地球上の同一時間に存在していたことに気が付いた山田風太郎の慧眼には恐れ入る。

最近ではこの手の「発見」が売りの小説も結構あるようだが、風太郎のこの短編をもって嚆矢とすることに間違いあるまい。

外国の小説を読んだり映画を観たりしたあと、この年表を開けば、なにか面白い発見がありそうではないか。

あってほしい。

黒い蜘蛛」  ゴッドヘルフ (岩波文庫)

スイスの国民的作家の代表作。怪談、と言っていいかどうか、悪魔小説の古典である。

冒頭は、怪談らしからぬ実にのどかな十八世紀スイスの農村のお祭りの情景から始まる。

お祭りといっても、ある一家の子供の洗礼式に村中の人を招待してのパーティなのだが、珍しい儀式の内容や愉快な村人たち一人一人の心理の流れや、宴のいかにもうまそうな料理や、描写は巧みで、読んでいて愉快な気分になってくる。

ところが招待客の一人が、その家の一本だけ黒い旧い柱について長老にたずねたときから、話の様相が一変する。老人が話し始めた柱の由来。これがなんとも恐ろしい悲劇だったのだ。

昔々、村が圧政者の無理難題に苦しんでいたとき、一人の流れ者が現われ村を超自然的力で救ってやろうともちかける。ただし条件があった。これから村に生まれてくる子供を一人「洗礼前に」ゆずってほしいというのだ。村人たちは恐れおののき、男の申し出を無視して黙々と苦行にいそしむのだが、ついに一人の女が悪魔と取引をしてしまう。

この後に展開する村人たちと悪魔との心理戦争はなかなかすさまじい。心理描写や恐怖描写は素朴だが力強く面白く読める。題名の「黒い蜘蛛」がどんな形で現れてくるのか。蜘蛛ぎらいの人は読まない方がいいかも。

話が一段落ついたあと、後日談とエピローグがあるが、このへんは教訓的でつまらない。前半だけで十分に面白い。

ちょっと感じたのは、一神教の国の怪談の化け物は絶対的悪として描かれるのだということ。多神教の国の怪談の化け物はたたったり恨んだりはするが、「絶対的悪」という感じはしない。いまさらかもしれないけれど、こういう少し旧めの素朴な悪魔物語など読むとあらためて違いを感じてしまう八百万の神の国の私。

蛇女の伝説」  南條竹則 (平凡社新書)

こんな私だが、一応「解説本を読むより本編を読むべし」を読書方針としている。しかしこの著者は年代が近いとこもあるのだろうが、どうも切り口や語り口に惹かれて読んでしまう。本書も冒頭からアニメ映画『白蛇伝』(東映動画長編第一作)の話ときてはたまらない。

唐の白娘子とギリシャのラミア、東西にまたがった異類婚姻譚「蛇女物語」の探索。青年が美女に出会いわりない仲となるが、ひょんなことから女の正体が知れ、蛇の化身と知れるが、女がしつこかったり男が優柔不断だったりして別れることができない。しかし女の正体を見抜いた高僧の神通力で蛇は退治されたり封じ込めらりたりする。青年はわが身を恥じて出家して落着。という大要の話が東洋、西洋どちらにも存在する。

著者はそれぞれの伝説の変遷を紹介するが、独立に発生した話ではなく、どこかにルーツがあり東西文化の流通の過程で伝播したと仮説をたてる。探索は中国、ギリシャを越えインドやコーカサスにまで及ぶ。残念ながら材料不足のようで決定的証拠は出ないし論証も不十分に終わる。本書もまだノートの段階に過ぎないようだ。でも話は面白い。

なにより蛇女伝説は魅力的だ。蛇は神話学的には大地母神の化身なのだそうだ。一神教の男性原理の支配に対する、土着の多神教の母性原理による抵抗のようではないか。

巻きつかれてみたい。

奇憶」  小林泰三 (祥伝社文庫)

タイトルは「奇妙な記憶」の略なのだろうか。

バーカー的グロティスクな想像力と純SF的論理性が共存する不思議な作風の作家の、ちょっと毛色の変わった書き下ろし中篇。

主人公は順調だった大学生活をさしたる理由もなくドロップアウトし、定職にもつかず、親にもみはなされ、自分をごまかしながら、ただただ生き続けている。そんな主人公を見捨てずつきあってくれるたった一人の友人に話すのは、「月が二つあった」という幼児期の記憶だ。

この奇妙な記憶につながる並行世界の可能性が本書の「純SF的論理性」の部分だが、むしろ、主人公が自堕落な生活をおくり続ける自分を正当付ける論理の方が「超論理的」で面白い。

「グロティスクな想像力」も、奇妙な月や鬼や妖婆が出現する悪夢より、執拗なまでのダメダメな日常の描写に、より発揮されている。

この「ダメダメな日常」は妙にこわい。

現在の自分はこんな生活はしていないし、主人公ともだいぶ性格が違うと思う。それなのに、ほんのちょっとの違いですぐここまで落ちてしまうような「身近な」恐怖感がある。それどころか「こんな生活はしていない」と思っているのも、見た目や表面的意識だけのことで、ある意味、この主人公と非常に近い精神生活をおくっているのではないか、などと不安にかられてきたりする。

小林泰三、SF的発想だけでなく、こういう日常の些細な恐怖感をすくいあげるホラーも書けるとは。う〜む。

殺人交叉点」  フレッド・カサック (平岡敦訳/創元推理文庫)

久しく絶版となっていたミステリー史上に名高い傑作の再版。

女たらしの青年が、誘惑しようとした女に抵抗されて殺害し、自分も傷を負って死んだ・・かに見えた事件だったが、実は二人を殺した犯人は別にいた。時効直前の10年後、真相を知るという人物が被害者の青年の母親と犯人との前に現れ、取引を持ちかける・・・・

なにゆえの「傑作」かと言えば、「驚愕のラスト」の見本のようなメイントリック。私も警戒していたのに、まんまとひっかかった。叙述上のトリックで驚かせてくれるところが途中にもう一箇所あるし、脅迫者の脅迫方法もなかなか斬新だし、犯人と母親の交互の独白体も効果的だし、ミステリーとしては申し分なし。

併載の『連鎖反応』も、ちょっと古めかしいがブラックまではいかない皮肉なユーモアが好ましい中篇。結婚が決まったのに愛人に妊娠を告げられた気弱な男の、身勝手な論理による殺人計画が笑わせる。

表題作には「最近ではもう珍しくなくなったトリック」という書評が多かったが、いまだに古典的トリックをこねくりまわした「本格派」ミステリーが多い(復活した?)という方が問題ではないのかな。昔の人がこれだけ見事に書いているのだから、現代の作家にはパズルのようなトリック「だけの」ミステリーはいまさら書いて欲しくないな。

こんなサプライズエンディングの傑作(それ以上ではないが)がなぜ長らく絶版だったか、なぜ最近になって復刊したか、最近のミステリー事情を象徴的に表しているではないか。

やっと少しは本を読むようになった息子が、私の本棚をあさって持っていったのは『ブラッドベリは歌う』。「?」と思ったが、案の定あまり面白くなくて進んでいない様子。ヘミングウェイの名前も知らずに「キリマンジャロマシーン」を読んでもなあ。

「最近読んだのでは何が面白かった?」と聞くと、ハインラインの『宇宙の戦士』。それならと『戦闘マシーンソロ』(新潮文庫)と『エンダーのゲーム』(ハヤカワSF文庫)を選んでやる。これなら面白いだろう。

娘の方はそろそろ星新一も飽きてきたらしいので、こちらには宮部みゆきの『ステップファーザーステップ』。そのうちだまして、なにか怖いのを読ませてしまえ。ケケケ・・・・

人獣怪婚」  中勘助他 (ちくま文庫・猟奇文学館2)

いかにも私ごのみの題名だが、中身はタイトルの字面ほどグロティスクではない。

以下は収録作品。括弧内は相手の動物。

阿刀田高「透明魚」(魚)。作者らしいストーリーで、雰囲気と女性描写はいいが、結末があまりにも見えすぎ。

岩川隆「鱗の休暇」(蛇)。一番「らしい」怪奇談。泉鏡花の世界のようだが、もちろんあれほどの香気はない。

村田基「白い少女」(白蟻)。これもありきたりの展開だが、ラストのスペクタルなシーンはなかなかすごい。たぶん映像化したら陳腐だろうが、文章で読むと実に怖い。

香山滋「美女と赤蟻」(赤蟻)。濃厚なエキゾチズムの漂う一編。色香ただようエキゾチック美女の描写は本アンソロジー中随一。

宇能鴻一郎「心中狸」(狸)。本書では一番ユーモラスな一編。作者はもちろん「あたし感じちゃったんです」の宇能先生だが、さすがは芥川賞作家、うまい文章のうまい小説です。

澁澤龍彦「獏園」(獏)。遺作『高丘親王航海記』の中の一編。もちろん名作中の名作だが、これを「人獣婚」だというのは、いくらなんでも無理ではないかな。

中勘助「ゆめ」(猿?)。作者の有名な『銀の匙』(岩波文庫)の愛読者なら、あの砂糖菓子のような少年の日の思い出の作者が、と驚くかもしれない。でも私は同じ作者の『』(岩波文庫)が大好きなので、このアンソロジーにはまことにふさわしい人選だと思う。「ゆめ」はあまりたいしたことないが『犬』はすごいよ。

皆川博子「獣舎のスキャット」(豚)。これは「獣婚」ではなく、ずばり「獣姦」。姉弟の屈折した憎悪の描写が秀逸な力強い一編。

他の収録作家は赤江瀑(鯨)、眉村卓(宇宙人)、椿實(鶴)、勝目梓(インコ)。

この「猟奇文学館」シリーズは他に『監禁淫楽』と『人肉嗜食』がある。あまりにエグイとやだなあと迷っていたが、本書位の鬼畜度なら許容範囲。購入する方向で検討中。

2001年02月

バカのための読書術」  小谷野敦 (ちくま新書)

ここまではっきり「バカ」と言われると、さすがに腹が立つ。こういう場合たいがいの著者は「バカには自分も含まれる」という書き方をするものだが、この著者はそういうスタンスはとらない。それでも読み進められるのは、ほら、なんといっても著者は「もてない男」なのだから、少々バカ呼ばわりされても、許してやろうじゃないかという気になるからである。実際、内容は面白いし。

著者が想定する「バカ(=読者)」とは

学校は終えてしまって、しかしただのベストセラー小説を読んで生きるような人生に不満で、けれど難解な哲学書を読んでもわからない

人たちだ。

うむ、人生に不満というほどではないが、哲学書が皆目わからないというのはしっかり私にあてはまる(名前倒れ)。

そういう「バカ」は何を学問の中核として読書に臨んだらいいか、著者の結論は「歴史」である。哲学や数学、自然科学は細分化精緻化しているので、バカには荷が重いそうだ。やれやれ。

では、実際に何を読んだらいいか何を読んだらいけないか、は実際に本書を読んでもらうこととして、面白いのは著者の思い切ったもの言いである。本邦初と銘うった「読んではいけない本ブックガイド」なんてものまであって、ちゃんと実名を挙げている。

小林秀雄のほとんどすべて・・・・日本の評論文を非論理的にした最大の元凶
河合隼雄「昔話と日本人の心」・・・・なんら学問的意味のない思いつきエッセイ。
ユングのすべて・・・・オカルト。
中沢新一のすべて・・・・いんちき。

ね、一刀両断という感じで爽快でしょ。まあ、これは「バカには廻りくどい言い方ではわからん」ということで、わざと断定的に言ってくれているのかもしれないが、わかりやすくて安心感があるのはたしかである。

こういう啓蒙書のたぐいとして、本書の良いところは「難しすぎる本」を取り上げないことである。著者が何度も言及しているが、この手の本の執筆者であるインテリは、読者より同類のインテリの眼が気になるらしい。歴史を学ぶのに司馬遼太郎塩野七生の小説を読めなどとは言えないし、まして「マンガ日本史」なんてとんでもない、というわけだ。

しかし著者に言わすといまどきの若者の無知無関心さは、啓蒙するのになりふりかまっている場合ではないらしい(著者は現役の大学の先生)。小説だってマンガだって映画だって大河ドラマだって、歴史の輪郭をつかむのに利用するに躊躇する必要はない、というわけだ。

若者ではないが、私も世界史なんてとんとわからないものなあ。ナポレオンって実際何した人?って聞かれても答えられないし。

まずは息子の教科書でも借りて読んでみるか。

一夢庵風流記」  隆慶一郎 (新潮文庫)

本の運命」  井上ひさし (文春文庫)

まずは著者である作家井上ひさしの蔵書の量に驚いてもらおう。その数、十三万冊。もちろん自宅の床が抜けた経験あり。

なにしろ著書『吉里吉里人』がベストセラーになった時期には月五百万円分も本を購入していたという。今でも五十万円は買っているというから、十三万冊にも納得できるというものだ。

いくら作家が生業とはいえ、なぜこれほどに本を集め続けたのか。やはりご両親の影響は大きいようだ。特にご母堂は不思議な方のようで、本書では片鱗がうかがわれるだけだが、この方の半生というのもなかなか興味深い。

著者の本との最初の出会いから付き合い方、そして別れまでがユーモラスに語られているが、中でも「井上流本の読み方十箇条」が面白い。「事典はバラバラにしよう」「栞は一本とは限らない」「ゆっくり読むと速く読める」「ツンドクにも効用がある」といった逆説のようで逆説でない「知恵」には瞠目させられる。私も同じようにしていたのは一つだけ。「戯曲は配役して読む」。

十三万冊の蔵書は今は著者の手元にはない。芸能マスコミをも騒がした著者の離婚騒動の際に、古書店や自治体や色々なところが蔵書に食指をのばしたらしいが、売却したわけではない。本たちの運命と「生かされ方」については、本書を読んでいただきたい。

侯爵サド」  藤本ひとみ (文春文庫)

ドナスィアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド侯爵。

この歴史的人物にはどうにも抗しがたい魅力があるらしく、澁澤龍彦は『サド侯爵の生涯』『サド侯爵の手紙』などの多くの評伝を書いているし、あの三島由紀夫にも『サド侯爵夫人』というサドの謎めいた人間像に迫ろうとした傑作がある。藤本ひとみは本書で両御大とはまた違ったサド像を提示してくれる。

シャラントン精神病院に収容されていた晩年のマルキ・ド・サドは著作にいそしみ、患者達を演出して自作の劇を上演したり、時には少女娼婦を自室に呼んでお楽しみにふけったり、なかなか放縦な生活を送っていた。そんなサドに多大な興味を持ち庇護している理事長クルミエ。彼はサドを患者として病院で永続的に治療していきたいと願っている。対して院長コラールはサドは治療不能な犯罪者であり牢獄に送るべきだと主張する。サド自身は不正に罪に陥れられた正常人である自分に自由を与えることを求めている。

小説は法廷ミステリーの形式で、この病人か悪人か常人かの三者の論理の争いを克明に描いていく。コラールはサドの悪行を証言を揃えて次々と暴きたて、サドは悠々と抗弁し、クルミエは精神分析の手法を駆使してサドの深層心理を明るみに出す。この分析がなかなか読み物で本書の白眉である。

この膠着した戦いのキーパーソンとなる女性が登場し、彼女はコラール、クルミエどちらにとっても切り札になると思われたのだが・・・・

あまりに論理的にすぎると思われた展開がラストにいたって、サドらしい悪魔的な爆発を起こし一気に炎上する。その起爆剤になるのがかの謎の女性である。

しかし、多数の登場人物のなかで一番謎めいているのは、サド侯爵自身でもキーパーソンの女性でもなく、やはりサド侯爵夫人、ルネ・ペラジーだ。

藤本ひとみには『侯爵サド夫人』もある。

読む楽しみはつきない。

歴史if物語」  井沢元彦 (廣済堂文庫)

レビューするほどの内容ではないが、こういうテーマでの最大の命題はなんといっても「織田信長がもし本能寺で死ななかったら」だろう。(本書の「歴史」は日本史のこと)

伝えられる信長の合理性(神仏あの世を信じないこと)や、先見性(鉄砲の重視)は、どう考えても同時代の中世人のメンタリティとはかけ離れているように思える。まさしく異人の印象。

もしかしたら、織田信長の正体は未来からやってきたタイムトラベラーではないだろうか。「本能寺の変」は歴史の改変を防ぐために時間公安警察が明智光秀をそそのかして起こしたものではないのか。それ以前には信長が生き続けて成し遂げる「大国・日本」の歴史があり、さらにそれ以前には、信長など生まれてもこなかった、今よりももっとぬるい歴史があったのかもしれない。

・・・・なんて、もう誰かの小説でありそうだな。

織田政権がずっと続いたら、現代日本の標準語は、もちろん名古屋弁・・・というのは清水義範『金鯱の夢』だった。(こちらは豊臣政権だけど)

フレームシフト」  ロバード・J・ソウヤー (早川SF文庫)

期待はずれ。

一応、遺伝子操作をメインテーマとした「SF」で、ネオ・ナチを悪役に設定することで、彼ら(や世間一般)の遺伝子による差別という「優生学思想」を告発する内容になっている。

ソウヤーらしいいかにもSFらしい道具立ては今回はほとんど出てこない。テレパスは登場するが、半径10m以内の人が頭にうかべた「言葉」を読み取れるだけなので、ほとんど勘のいい人という程度で、作劇的必然性はなきに等しい。

致命的だと思うのは、メインアイデアの「遺伝子に仕組まれた秘密(これがフレームシフト)」が単なる「大発見」であって、ストーリーに全くからまないこと。これではSFとは言えないでしょう。

意欲作であることはわかるが、唐突な活劇シーンとか、どうもちぐはぐな筋運びで、失敗作と言わざるを得ない。

「遺伝子に仕組まれた神の仕掛け」というのが、私の大嫌いな発想なので、見方が辛くなりがちではありますが。

2001年01月

あやし〜怪〜」  宮部みゆき (角川書店)

いまやホラーはブームのようだが、もともと日本には文芸としての「怪談」の伝統がある。

雨月物語』の上田秋成、『牡丹灯篭』の三遊亭円朝。明治期の小泉八雲岡本綺堂。昭和に入って江戸川乱歩横溝正史などの伝奇的怪談。現代でも都筑道夫阿刀田高半村良と名手はたくさんいる。

その連綿と続く怪談の伝統の中で最高の書き手は?との問いに、おそらく読み手の半分以上は岡本綺堂を挙げるだろう。

現在、その綺堂の衣鉢を継げる第一人者は、宮部みゆきだろうと私は思う。それほどに端正な怪談の短編集。

舞台はほとんどが江戸時代の商家。そこに暮らす奉公人や女中の出会う怪異の数々。その怪異の原因である曰く因縁がはっきりする話もあり、ただもやもや不可思議な気分のままに終わる話や、果たして本当に超自然的現象があったのかわからない話もある。

もちろん、宮部みゆきの小説である。ただ超自然現象やお化けが書きたかったわけでも、どろどろした怨念話、因縁話を書きたかったわけでもあるまい。

綴られるのは、現代では失われてしまった江戸時代の日常、きびしい商い道を歩んでいく商家の明け暮れ。そこで一日中きりきりと働く奉公人の生活。奉公することだけが生きる方法であり与えられる教育の全てであり、喜びも悲しみも全て奉公の中にあった。

そんな彼らの心がゆれたとき、時として怪異が現れる。怪異は明確な姿をとるときもあれば、日常の微妙な違和感にすぎないこともある。

その違和感の描写がなんともうまい。この微妙な筆の冴えた味わいが、宮部みゆきの怪談を読む醍醐味だとつくづく思う。

収録の短編の中では「安達家の鬼」が秀逸。女中上がりの商家の嫁が姑から聞かされる一風変わった思い出話。怪談噺が人生そのものの「噺」にいたる絶妙な一編だ。

宮部みゆきの別の怪談噺のミニレビュー→幻色江戸ごよみ

祈りの海」  グレッグ・イーガン (山岸真訳/早川SF文庫)

はじめてSFなるものに触れたとき、タイムマシンや銀河連盟、ガジェトそのものよりも、そのガジェットが産み出すめくるめくビジョンにくらくらしたものだ。

その頃の感覚、SFを読む興奮をひさしぶりに思い出させてくれた1冊。

内容を紹介することが、即ネタばれになる短編ばかりなので詳述できないのが、もどかしいが、共通するのはなんらかの形でアイデンティティの問題を扱っていること。と言っても小難しい議論で煙にまかれるなんてことはない。

冒頭の「貸金庫」の主人公の設定もすごいがその正体があきらかになるところなんて、もう。「ぼくになること」や「誘拐」は『順列都市』の世界とつながる切れ味鋭い短編。「繭」や「百光年ダイアリー」も凡百の長編に匹敵する内容。

アイデンティティとなると当然宗教の問題もかかわってくるが、さすがイーガンは逃げてない。表題作や「ミトコンドリア・イヴ」は宗教や信仰がテーマで、しかも良質のエンターテインメントでもあるという奇跡のような短編だ。

現代SFの最良の果実の一つであることは間違いない。やはり「読むべし」でしょう。

ファニー・ヒル」  ジョン・クレランド (中野好之訳/ちくま文庫)

おそらく世界で一番有名なポルノ小説。原題『一娼婦の手記』。もちろん、無削除版。

18世紀半ばの出版以来、最近まで正規ルートでは読めなかった筋金入りの発禁本だが、今読んでみると、性行為の描写も過激な表現ではなく、むしろ典雅とも言える文体で書かれている。

ヴィクトリア朝時代のポルノは時代的風俗描写が興味深く、聖職者・教職者の悪徳暴露なんて側面も面白くて結構好きなのである。『もてない男』の著者の小谷野氏も散々「おかず」に使ったという『ペピの体験』(富士見ロマン文庫))なんてとこが代表だ。(原題『ヨゼフィーネ・ムッツェンバッヒェル』。ペピの作者と言われているフェリックス・ザルテンはディズニー映画『バンビ』の原作者)オーストリアの下町の描写や坊さんや先生たちの堕落ぶりが面白い。

比べると、このファニー・ヒルの物語の舞台はほとんどが娼館で、娼婦たちの生活が愉しく優雅に描かれるリアリティのない夢物語である(ペピ・・がリアルだというわけではないが)。セックスシーンも微に入り細を穿つ描写だが、これまたリアリティには欠け、詩的でさえある。あきらかにこの詳細な性愛シーンが売り物だけに、あからさまな性描写に慣れてしまった現代人には面白い小説とは言い難い。

珍しいのは男性の同性愛の描写があること。出版当時のイギリスでは同性愛は死刑にも該当する犯罪であり、無削除をうたっていてもこの場面だけ削除している版も多い。作者のクレランドも男色者と非難されて多くの人々から忌避されたらしい。

18世紀のイギリスだったら、やおい描写も命がけだったのにね、栗本先生。

順列都市」  グレッグ・イーガン (山岸真訳/早川SF文庫上下)

90年代はSF冬の時代だったそうだが、なんだこんな凄い作家、作品があったじゃないか。私がSFならなんでも読むということをしなくなって(できなくなって)随分たつが、そんな浮気で怠け者の読者をおいてSFは着実に進歩していたのだ。独りイーガンに限ってかもしれないが。

人間の人格や記憶などの情報をスキャンしてコンピューターにダウンロードし、仮想空間で走らせることが可能になった21世紀半ば(もうすぐだ!)。金持ちは自前のサーバーで、そうでない者もネットの余剰計算能力を時間借りして、死後も電脳空間で「コピー」として生き続けて行くことが当たり前になっている。そのコピーたちに、たとえ電脳空間が破壊されても、それどころか宇宙が消滅しても存在し続ける方法を提案する男が現れる。彼は女性SEのマリアに、一つの惑星全体と知性体に進化する有機体の設計を依頼する。計画の動機にも成功の可能性にも半信半疑のマリアだったが、余命のない母にスキャンを受けさせる資金を得るため依頼を承諾する・・・・

一口でストーリーを説明するのは至難の業で、特に主人公たちが人工宇宙オートヴァースに旅立つまでの第一部はストーリーも錯綜し、読みやすいとは言い難い。アイデアの根幹をなす「塵理論」の論理のアクロバットにはとても歯が立たなかった。同じように架空理論からのアクロバティックなシミュレーションが売り物のホーガンの『創世紀機械』(創元SF文庫)と比較しても難解さが際だつ。しかもイーガンはワンアイデアストーリーでエンターテインメントを構築するような作風ではない。

第二部に至ると、オートヴァースの住人たちが永遠に生きようとし、宇宙を造りあげてそこに生命を発生させ思うがままにしようとすることは、死後の世界=天国を造りみずからが神になろうとすることを指しているのだな、とおぼろげにわかってくる。

しかし主人公たちの創造者たらんとする企ては創造物である人工生命たちとファーストコンタクトしようとしたとき、皮肉にも創造物に否定される。

デジタル化された人格による不死というアイデア自体、SFでは旧い題材だと言っていい。私が読んだだけでもクラークの『都市と星』やプラットの『ヴァーチャライズド・マン』なんて傑作がある。 不死とはちょっと違うけどサイバーパンクと言われる諸作品はまさしく電脳空間に「ジャックイン」した意識たちが主人公だ。しかし本書ほどに、ありとあらゆる角度から、このアイデアにアプローチしつきつめた作品はなかっただろう。その思弁性は『惑星ソラリス』のレムを、その謎めいて仕掛けいっぱいのストーリーは『非Aの世界』のヴォークトを想起させる。そしてその先人たちより本書が進化していることは間違いない。

続けてイーガンの短編集『祈りの海』を読んでいるが、こちらはさらに傑作です。本当に「SFでしか書けない話」の数々。ロボットや宇宙人や最新科学情報が出てくるだけで、ストーリーや人間描写は普通小説やファンタジーやホラーと全く変らない「SF」に飽きたむきは、「イーガン読むべし」と断言しておこう。(ただし「順列都市」より「祈りの海」からの方がとっつき易いと思います)

一つだけ、『順列都市』のヒロインであるところのマリアさんだけは好きになれないなあ。なんでああいつもイライラして意味もなく攻撃的なんだろう。いくら思弁的SFでも、もう少し魅力的な主人公にしてほしかったところだ。せっかくラブシーンもあるというのに。

もてない男」  小谷野敦 (ちくま新書)

予想外に面白かった一冊。もてない男のぐち話や滑稽な生態などを期待するとちょっと違う。あくまでテーマは文学であって「欲望を遂げられない男の文学史」である。その証拠に巻末の索引は「もてない男一覧」ではなく、作家作品の一覧である。ただし、そこかしこに散見する著者のもてる男へのうらみつらみはなかなかリアルである。(身につまされるともいう)

錆びる心」  桐野夏生 (文春文庫)

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