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読書日記 2001/07-12

私的年間ベスト10【2001】

本年読了本のベスト10です

  1. 祈りの海  グレッグ・イーガン
  2. ゴッホの遺言  小林英樹
  3. 模倣犯  宮部みゆき
  4. 語り手の事情  酒見賢一
  5. 一九三四年冬−乱歩  久世光彦
  6. 族長の秋  ガルシア・マルケス
  7. チャタレイ夫人の恋人  D.H.ロレンス
  8. 侯爵サド  藤本ひとみ
  9. なぜ人を殺してはいけないのか  小浜逸郎
  10. ボトムズ  ジョー・R・ランズデール

 次点.「こころ」はどこで壊れるか  滝川一廣

 あくまで、私が今年読んだ本が対象、当然はるか昔に出版された本もある。

なんらかのかたちでレビューを書いたり書名だけでも挙げた読了本が61冊、レビューが書けずに待機中が7冊あるので、68冊。さっぱり更新しなくなってしまった読了記、来年早々にはちゃんとまとめたいと思います。

鬼が大笑い?

2001年12月

殺戮の野獣館」  リチャード・レイモン (大森望訳/扶桑社ミステリ文庫)

リチャード・レイモンはあの怪作『浴槽(バスタブ)』(アンソロジー『喘ぐ血』所収)の作者で、お下劣悪趣味ホラーの巨匠として有名。

解説者(風間賢二)の『モラルのないクーンツ』という表現が言いえて妙だ。本国アメリカよりイギリスで人気が高いというのも、なんだか納得できる。

本書も「鬼畜なホラー小説」の代表作としてよく名前が出る。

冒頭、「野獣館」と呼ばれている屋敷で惨殺事件がおきる。この家には昔から謎の野獣が出没するという噂があり、実際に代々の居住者が襲われ命を落としている。今では現在の持ち主の老女が事件と噂を逆手にとって、惨劇を蝋人形で再現した恐怖の館として経営している。老女自身もかつて家族を「野獣」に殺されている。

ヒーローは元特務機関の腕きき。昔、「野獣館」で友人を殺された男に野獣退治を依頼されている。

ヒロインは美人の人妻。この夫というのが極わめつけの鬼畜野郎で、実の娘をレイプした罪で服役している。こいつが釈放されたと聞き、母娘は逃避行に出る。

逃亡先の街でヒーローに出会い、二人は恋に落ちる。しかし鬼畜夫は鬼畜な所業を繰り返しながらヒロインを追いつづけ、野獣館でも次々と殺人が起こる。

いったい「野獣」とはなにものなのか?

ラストはかなり意外性がある。ひく人と爆笑する人にはっきり分かれると思うけど、私はもちろん爆笑派。伏線らしい描写もあるにはあるが、こうくるか。

「鬼畜ホラー」を人にすすめるのは人間性が疑われそうだが、むしろ「底抜けおバカどHホラー」とでも呼んだ方がいい。そういうのが好みの人(だけ)にはお奨め。

ボトムズ」  ジョー・R・ランズデール (大槻寿美枝訳/ハヤカワノベルス)

ボトムズとはテキサス東部の低湿地帯のこと。

時は1930年代。アメリカにもやはり貧乏な時代があったのだと今さらながら気付かせられる時代の、さらに未開拓な田舎町が舞台だ。

治安官を父に持つ十一歳の少年ハリー(彼が主人公で語り手だ)が妹トムと、森の奥で黒人女性の惨殺死体を発見する。過去にも同じ手口の殺人が起きていたが、当時は黒人が殺されても事件にはならなかったのだ。黒人に偏見を持たないハリーの父は犯人をつきとめようと奮闘するが、シリアルキラーもサイコキラーも、ましてプロファイリングなどという言葉も全く存在しなかった時代に捜査は難航する。しかもハリーの父を「黒人びいき」と非難する街の白人たちは、捜査を妨害し、老いた黒人を犯人としてリンチしようとする。

そんなとき、ハリーとトムの強い味方ジューン祖母さんがやってくる。

本書は素晴らしいミステリーだ。しかもホラーがかったミステリーなのだが、読んでいる最中、とくに前半はミステリーであることを感じさせない。なにしろハリーの父は超人的な探偵にはほど遠いし、科学捜査はおろか、村には警察組織さえもない。ミステリーらしい捜査場面が書かれないかわり、美しい自然描写、緻密な生活の描写、骨太な性格描写、ミステリーとは直接関係ない部分が素晴らしいのだ。

今より貧しいが地味も人心も豊かだった時代が彷彿としてくる。そのかわり女性は男性とは全然違うもので、黒人は人間扱いされていなかった。それどころか、黒人を人間扱いする白人(ハリーの父)は仲間から人非人扱いされる。奴隷開放から何十年も経っているのにだ。

登場人物も魅力的だ。個性豊かな黒人たちや、主人公ハリーはもちろん、不器用だが誠実なハリーの父がいい。妻や子に対する姿勢が実に理想的(だが臭くない)父親であり男だなあと思わせる。美しい妻(ハリーの母)のかつての恋敵なんてのも登場して心理描写はきめ細かい。

大嫌いな沼マムシにでっくわすと有無を言わさず散弾銃をぶっぱなす「肝っ玉かあさん」ジューンはまるで『ラピュタ』の女盗賊のようだ。

リアルな描写がある反面、幻想的な場面もある。ハリーとトムは死体発見時に森で伝説の怪人「ゴートマン」に出会い、殺人犯は彼だと信じこんでいる。何人目かの犠牲者は竜巻に吸いあげられた男が「空中」で発見する。

ラスト近く殺人鬼の手は主人公たちに迫り、映画ばりのサスペンスフルなクライマックスになだれこむ。そしてあきらかになる犯人の正体。

といっても、犯人はさほど意外でもなく、やはり本書の真骨頂はそこにいたるまでの前半の描写にある。

エピローグとして登場人物のその後が語られるのは『アメリカン・グラフィティ』以来の映画ではよくある手だ。しかし、語り手がいまや老人となったハリーであり、すべては彼の回想として語られるだけに、時の経過が胸に迫るものがある。ラストの二行は泣かせます。

キス・キス」  ロアルド・ダール (開高健訳/早川書房異色作家短編集)

ダールの読後感はスレッサーとはだいぶ違う。四十年も前の作品集なのに、全然旧びた感じがしない。スレッサーほどストレートでなく、もっと皮肉でひねったプロット。独特の視点と雰囲気はダールだけのもので、ダール以後、模倣者も追随者らしき作品が出なかったのも納得だ。

殺人も題材になっているが、どの作品も本当に恐ろしいことは具体的には書かれていない。これから起きること、または起こったが隠されていたことが遠まわしにほのめかされるだけで、クールに終わってしまう。血しぶきあふれる描写より想像力を刺激される分、深い怖さが身にしみる。

定石的だが魅力的な「女主人」、ちょっぴりSF風味で残酷な「ウイリアムとメアリィ」、皮肉なハッピーエンド「天国への登り道」といったところが私の好みだった。。

ほしぶどう作戦」は土の匂いのするどたばたコメディで、他の収録作とちょっと味が違うがこれも面白い。

ダールのもう一つのミステリー短編集『あなたに似た人』(早川書房)を読んだのは、もう二十年も前のことだ。名高い「」と「南から来た男」は、やはり妖気ただようほどの傑作でした。『キス・キス』の読後感にはそのときほどの新鮮さはない。しかし、読む順番が違っていたら逆だったかもしれない。

そんなことも思った、ある意味なつかしい一冊。

2001年11月

うまい犯罪、しゃれた殺人」  ヘンリー・スレッサー (高橋泰邦他訳/ハヤカワボケットミステリ)

原題は”A Bouquet of Clean Crimes and Neat Murders”。なんかおしゃれですね。

うまい犯罪しゃれた殺人というと、なんだかヒッチコックの映画のようだが、いかにも本書はアルフレッド・ヒッチコック監督が自分の番組(懐かしき『ヒッチコック劇場』)で映像化したスレッサーの作品から、さらにお気に入り17編を精選した短編集だ。

ヘンリー・スレッサーは星新一や阿刀田高といった本邦短編ミステリやショートショートの巨匠たちが、絶賛する短編の名手だ。わかりやすい文章。意外なオチ。小粋なストーリー。ミステリー味のO・ヘンリーといった趣がある。

しかし、なんといっても1960年代の作品。「ひねりのきいたオチ」もいささか古めかしい感はまぬがれない。どこかで読んだような気がしたり、展開の予想がついたり、おちがあまり意外ではなかったりする。逆にいうと現代の短編ミステリーやショートショートが、スレッサーのスタイルや発想からかなり影響を受けているということだろう。それらを先に読んでいるので、当然「元祖」の新鮮さはうせてただ素朴な感じを受けててしまう。

それでも「処刑の日」や「二つの顔を持つ男」あたりのラストは見事だ。気持ちよいだまされかたでした。

旧き良きミステリーの時代の雰囲気を味わうにはなかなかの一冊。ハヤカワボケットミステリであることが、ミステリを濫読した昔を思い出させて、良いのだね、これが。

チャタレイ夫人の恋人」  D.H.ロレンス (伊藤整訳/新潮文庫)

私の世代にとって『チャタレイ』といえば「発禁本」の代名詞であった。

完全版が新潮文庫で出たのが数年前。本国英国の裁判所が無削除版を承認してから実に三十六年後のことだ。

私も本書は有名な発禁本という認識だけで、三年前に著者ロレンスの短編集を読むまではさほど興味があったわけではない。その短編集『乾し草小屋の恋』に収められた緊迫感のある恋愛小説たちはなかなかのものだった。ならば名高き「チャタレイ」はどんなにすごかろう、と思うのが人情ではないか。

結論からいうと(まあ予想どおりだが)「性愛描写」という点では全然まったくすごくはない。表現は上品、描写される行為は優しさに満ち、なんでこれが発禁なのだと首をかしげるばかりだ。

英国の炭坑地帯の若き領主が戦争で下半身不随になって帰ってくる。彼の妻コニーは車椅子生活となった夫の世話をしながら平穏な生活を送っていたが、いつか使用人の森番と通じてしまう。

というストーリーから連想される、欲求不満の上流夫人の不倫小説、では全然ない。だいたい主人公の人妻は森番と出会う前に何回か夫の友人との情事を経験している。その情事の相手たちと、森番はなにが違うのか。

「階級」が違うのだ。

貴族階級であるチャタレイ卿や、コニーの姉は、妻であり妹であるコニーが自分たちと同じ階級の男と関係することには(観念的には)さほど抵抗はない。しかし森番はいけない。彼らは貴族である自分たちと同じ人間ではないのだ。コニーとの関係で、彼らが自分たちの生活に影響を与えることなどとうてい受け入れることはできないのだ。

英国でも一度は発禁処分をくだされている。性愛描写よりは、実はこの貴族階級の女が労働者階級の男と不倫をするという題材がショッキングだったのかもしれない。

森番メラーズはいかにもな「逞しい男」ではない。白い肌のきゃしゃな体つきの寡黙な男だ。深く誠実に物事を考える男性だ。三島由紀夫の『愛の渇き』の未亡人に懸想される下男が、サチュロスのような純朴な野生の若者なのとは、対照的である。

コニーが森番を愛したのは、最初は「異質なもの」に惹かれたからなのかもしれない。しかし夫より森番に心が傾いていったのは、彼が「立派な人間」だからだろう。彼に出会う前のコニーの「火遊び」のエピソードも、相手の貴族階級の男たちをメラーズと対比させることで、夫だけが対象であるよりずっと対立の効果をあげている。このへんの心理描写はロレンスの読みどころだ。

小説は階級社会と人間性の対立という視点ばかりではなく、つめこみすぎと感じるほどロレンスの思想・思索が盛り込まれている。はらはらどきどきするような展開はないが、じっくり書込まれた心理の流れを楽しむことができる小説らしい小説だ。

チャタレイ夫妻と森番の三人の他に、もう一人重要な登場人物がいる。後半、チャタレイ卿の世話に雇われるボルトン夫人だ。看護婦をしていた「教養ある労働者階級」である彼女の性格設定がなかなか面白い。彼女が加わることで、単純な三角関係が、複雑な四角関係に変化し面白さも増している。

私のいちおし小説『三つの小さな王国』もすべて四角関係の物語だった。四角関係は面白さのキーワード、なのかな?

ミステリーのおきて102条」  阿刀田高 (角川文庫)

ナポレオン狂』や『冷蔵庫より愛をこめて』などの短編ミステリーの名手で、エッセイの名手の著者が、ミステリーの楽しみについて書いたエッセイ。

当然、エッセイそのものも期待通りの内容だが、読書案内として刺激を受ける部分が大きかった。最近の新作より古典的名作が多く取り上げられている。クイーンクリスティヴァンダインといったいわゆる巨匠の代表作や著者の作風にも通じる「奇妙な味」の一群だ。そのへんは私も少しは読んでいるつもりだったが、読み落としてるものが結構あった。

思わずロアルド・ダールの『キスキス』とヘンリー・スレッサーの『うまい犯罪、しゃれた殺人』をネット通販で注文してしまった。

ミステリ好きが、夜寝る前に少しずつ読むなどに最適の一冊。

「原発」革命」  古川和男 (文春新書)

なぜか、SFガジェットでは「超エネルギー」ものに弱い。例えばハインラインなら『宇宙の戦士』などより、『光あれ』という短編が好きだ。いかにも60年代あたりのハリウッド映画に出てきそうなナイスカップルの科学者が「光と電気を高効率で変換する」発明をするが、電力会社に邪魔される、という話。余談だが映画化するならブルース・ウイリスアンジェリーナ・ジョリーを希望。

そういう私でも、原子力発電が人類の究極のエネルギーとはとうてい思えない。広島・長崎の虐殺を思えば、そこまで遡らなくとも東海村で何が起こったかを知れば、原発に諸手を挙げて賛成出来るはずがない。

しかし、原発反対派の「クリーンエネルギー=太陽熱や風力で電力需要がまかなう」という主張も、短期的にはとうてい現実的ではないだろう。電気の恩恵に浴した都会人が夜明けとともに起き日没とともに寝る生活に戻ることもできまい。それも選択肢のひとつだとは思うが、少なくとも私にはできそうもない。

技術的ブレークスルーによって、クリーンエネルギーで人類の需要がまかなえる日もくるだろう。しかしそれまで化石燃料を燃やしつづけていれば、地球は人類が居住できない星になってしまう。それまでは原子力でやっていかざるをえない。しかし、現行の原発は不経済かつ危険(暴走する、テロの標的になる)であるので、より効率的で小型で安全な原発を開発せねばならない、というのが、本書の主張だ。

原発は都会もしくはその近郊に作らねばならない、というのも目からウロコの発想だった。小型で安全、核燃料の入換えが不要なら、たしかに遠方に作って送電でロスするのは無駄以外のなにものでもない。

実はそういうことが可能な革命的な原発の技術は(つめなければならない点があるにせよ)すでに存在しているのだという。トリウムを核燃料とする溶融塩核反応炉がそれだ。現在運用されているウラン235軽水炉やプルトニウム増殖炉は固体燃料を使うがトリウム溶融塩炉は液体燃料であることが特徴だ。

液体であることその他の特徴による利点は、煩雑で、とてもここで説明できるほど理解できていないので、ここでの説明は勘弁してもらう。興味ある方は本書をご一読ください。

それほどいいものなら、なぜもっと大々的に開発が行われていないのかという疑問がわく。実はトリウム反応炉からは核兵器にしやすいプルトニウムなどの超ウラン元素がほとんど生成されない。増殖されるのはウラン233、232でこれはガンマ線が強すぎて軍用として向かない。そのためアメリカでは(多分日本でも同じ理由で)注目されなかったらしい。やはり、政治・行政にとっての「原発」とはそういうものなのだね。

もちろん、溶融塩核反応炉にも欠点はある。強力なガンマ線を発生する物質が生成されるという点について、著者は「テロリストにも持ち出せない。事故をモニターしやすい」長所として挙げているが、正直、近所には住みたくない。

著者は長年、原子炉研究をしてきた方だ。専門家の弱点なのか、こちらが素人すぎるのか、さらりと書いてあっても、「やっぱり不安だな」と思う部分もずいぶん見受けられる。ただ技術的解説はかなりくわしく書いてあるし、現行の原子炉を純粋に「化学プラント」と見ての長所短所という視点も新鮮だ。これ以上詳しいと、とうてい私ではわからないので、解説としてはちょうど良かったかなというのが、正直な感想。

天狗風」  宮部みゆき (講談社文庫)

超能力を持ったおきゃんな町娘が主人公の捕物帳『霊験お初』シリーズの第二作。

捕物帳というジャンルは一種のユートピア小説だと思っている。現代人の理想郷としての江戸の町と「よき庶民」という幻想を体現した登場人物たち。四季の匂いの濃い風物の中で巻き起こる情緒豊かな事件。今回の事件は若く美しい娘ばかりが行方知れずになる「神隠し」。犯人はどうも常人ではなく「もののけ」らしい。

前作に引き続き、お初の兄、寡黙な御用聞きの六蔵は御用に精を出し、六蔵の妻およしは一膳飯屋を切り回し夫を助け優しくたくましい。お初の彼氏?与力の家をドロップアウトして算学の道に進んだ古沢右京之介は、なんとか頑固な父と折り合いをつけたようだ。彼とお初の関係は細やかだがなかなか進展しないのもお約束だ。お初の特異な才能と性格に目をかけてくれる元南町奉行根岸肥前守の庇護もあり、お初は周囲の人の善意に囲まれながら、江戸の庶民を震撼させる怪異に挑む。

キャラが良くて話もうまい。小説としてエンターテインメントとして文句のつけようはない。捕物帳の醍醐味もしっかり堪能させてくれる。

しかし「捕り物=ミステリー」と「超能力=SF」さらに「もののけ=ホラー」という異なるジャンルを融合するという実験的趣向についてはちと疑問。その点では前作『震える岩』の方が怪異性を押さえてうまくバランスがとれていたと思う。本作ではファンタジー的な派手な見せ場が増えた。その分ミステリー的人間ドラマとの違和感を感じてしまう。

しかし、これは私の時代劇好きの嗜好に影響を受けた感想である可能性が大だ。ファンタジーの部分の主役、もののけと敵対しお初と共闘する「しゃべる猫」テツの魅力は際だつものがある。ファンタジー好きの方はどんな感想を持つのか聞いて見たい。

2001年10月

愛の渇き」  三島由紀夫 (新潮文庫)

残念ながら三島由紀夫の良い読者ではない。いままでに読んだのは『仮面の告白』『鏡子の家』『青の時代』『午後の曳航』。あとは耽美なSF『美しい星』と戯曲『サド侯爵夫人』『近代能楽集』だけ。『金閣寺』も『憂国』も『潮騒』でさえも読んではいない。

それでも、たまに三島の流麗きわまりない美文を読むのは楽しい。

舞台は戦後まもない田舎町。浮気に苦しめられた夫と死別した悦子は、夫の父親に勧められるままに義父の別荘兼農園に見を寄せる。まもなく義父の愛人同然となり、義弟夫婦や義妹親子と同居生活を続ける。彼らは有閑階級であり、退屈なしかし安逸な田園生活を送っている。夜ごと舅の骨ばった手の愛撫を受ける悦子は、人生を諦観しているようだが、実は園丁の三郎の若々しい肉体と純朴な精神に惹かれている。

描写される日本の農村の風景は緻密だが、これをイギリスあたりの田園、荘園領主の館におきかえてもなんら違和感は感じられないだろう。さすが文豪三島、洋の東西を問わぬ普遍的な人間性を鋭く描き出している・・・・というのとはちょっと違う。

隠棲しながらも偏屈な支配欲と早世した息子の嫁への欲望に執着する老人。自分が知識階級であることを精神のよりどころにしている生活力が皆無な次男と彼を盲目的に尊敬する妻。夫には浮気され、その老夫に庇護される屈辱的な生活を受け入れることで逆説的に自我を守ろうとするヒロイン。

いずれもよくできた人物造形だが、いかにも人工的な感じはまぬがれない。ヒロインに懸想される若き園丁とその恋人の女中の「自然児」ぶりも、純朴というよりむしろ、神話の世界のパンやサチュロスたちのような象徴的な印象をうける。人工的、象徴的であるために、東洋の背景にも西洋の背景にも違和感なく配置できるように感じられるのだろう。

緻密な三島の頭脳が創り出した、精巧な細工物のような物語世界。それはいままで読んできた三島作品全てに共通した感想だが、本書は一見、土俗的な世界に繰り広げられる人間悲劇の姿をしているので、なおさら人工的繊細さが目に立ったのかもしれない。

もちろん、「人工的」というのは貶しているのではない。

三島ならではの舞台劇のような緊密なストーリー構成と、逆説的な心理の展開は「人工的」であるがゆえに美しい。

舞台となる村の名前は「米殿村」と書いて「まいでんむら」と読ませているが、実際の地名ではないだろう。どこか外国の地名に当て字しているのか、それともなにか地名にこめた暗喩などがあるのだろうか。

大修院長ジュスティーヌ」  藤本ひとみ (文春文庫)

フランス革命の時代の女性を主人公にした三編の中編集。

性を抑圧されていた女性にとってフランス革命とはなんだったのか。貴族の特権をくつがえす階級闘争としての革命が男性の原理なら、女性にとっての革命は男性優位社会の終焉=女性性と人間性の開放という、女性原理的意味があったのだろう。「人間性」には抑圧されていた女性のセックス=性愛も、もちろん含まれる。

表題作の「大修院長ジュスティーヌ」は、当時の宗教的権威から見ればあきらかに「異端」である「性愛を肯定する」女子修道院が舞台である。その実態を暴きに異端審問官である修道士とその弟子がやってくる。ちょっとスターウォーズのジェダイの騎士の師弟を連想させるが、果たして修道院はダークサイドなのか。ダースヴェイダーならぬ妖艶な女子修道院長に誘惑される見習い修道士。彼女とエリート修道士の対決は革命によって意外な結末を迎える。

ミステリー仕立てでドラマチック。その後の見習修道士の思い出語りという構成がラストで効果をあげている。

侯爵夫人ドニッサン」の侯爵夫人の夫はただただ快楽原理に忠実な有閑貴族。その宿願は花の都で死ぬまで道楽に耽りたいということだ。当然妻子の行く末などにはなんの興味もない。残された母子は館を守り二人だけの小宇宙を作って暮らしていたのだが、革命の嵐は館のある村にも吹き荒れ、暴徒に全ての権利を奪われそうになった母は「女の武器」を使って切り抜けようとする。その直後、ひさしぶりに館に立ち寄った侯爵を意外な結末が迎える。

田園を舞台に近親相姦や両性具有のモチーフを散りばめた耽美的な一編。

娼婦ティティーヌ」のヒロインは貧しいお針子。幼いとき年上の友人が輪姦されて発狂するのを目撃するという心の傷を持っている。家族のため生活のため娼婦となり売れっ子となるが、男に頼らずだまされず、やがて自ら娼館の管理者となる。娼婦として大成功した彼女はしかしトラウマのためか、性愛の歓びを感じたことはなかった。そんな彼女の心の空虚さを革命の悲劇が襲う。ラストにはほのかに心暖まるものがあるが、そのキーマンは『侯爵サド夫人』にも登場する精神病医フィリップ・ピネルだ。

道具立ては三編の中で一番地味だが、半生がちゃんと書かれているせいか主人公は一番魅力的。

いずれも著者らしい官能性が全編にただよう。そのエロティシズムの塩梅がちょうど私好みで、藤本ひとみがやめられない。

忍法創世記」  山田風太郎 (出版芸術社)

唯一、著者生前に刊行されていなかった長編忍法帖なのだから、まずファンとしてはありがたいとしかいいようがない。ありがたや、出版芸術社。

戦国時代、江戸時代がほとんどのこのシリーズとしては珍しく室町時代、足利三代将軍義満の時代が舞台になっている。いまだ柳生に剣法現れず、伊賀に忍法芽吹かぬ頃に、いかにそれぞれの種が蒔かれたか、剣法縁起・忍法縁起というべき魅力的な設定で、出来も決して悪くない。

それがなぜ今まで刊行されなかったのか。作者が失敗作と極めつけたからとか、三種の神器の争奪戦という内容がまずかったからとか諸説紛々だ。私には、この小説の発展形として最後の忍法帖柳生十兵衛死す』が書かれてしまったからだと思うのだがどうだろう。少なくとも、失敗作ではないが、著者の忍法帖としてはまず平均的面白さだろう。かといって各誌の書評で持ち上げているほど(忍法帖中では)「傑作」まではいかない。

山田風太郎の作品はほとんど、忍法帖は短編も含め、ほぼ全部読んでいると思うので、これでもう新しい忍法帖が読めないのかと思うと、さすがに淋しいなり。

ここで追悼の意もこめて、私のお気に入り忍法帖を挙げてみたい。つつましくベスト5。

風来忍法帖

山田風太郎の小説といえば忍法であり奇想であるが、実は登場人物の魅力にきわだつものがある。この風来忍法帖にはもちろん忍者も出てくるが、主人公は七人の香具師(やし)たちだ。このすばしこい寅さんみたいな破天荒な連中が口八丁手八丁で悪夢のような風魔一族を手玉にとるさまは実に愉快にして痛快。強姦輪姦お手の物の彼らが意外な純情さを発揮して命を懸けて護るのは、孤立無縁で城を守る純真可憐、麻也姫様。豊臣軍を向うにして戦いぬくこのお姫様がまた凛々しくてかっこいいのだ。

笑い陰陽師

いまや陰陽師といえば晴明だが、こちらの陰陽師果心堂は泰平の時代に仕事がなくなって仕方がなく辻占いをしているという情けない忍者の頭領だ。そこにもちこまれる相談は抱腹絶倒のセックスがらみのものがほとんど。これを果心堂が奇天烈な忍法で解決するのだが、たいがいはどうも解決したような雰囲気にならない。最後に果心堂の美貌の妻が夫の裏返しのような忍法で本当に解決する。というのがパターンなのだが、果心堂が折りにふれ開陳するシニカルな哲学が笑わせる。

柳生忍法帖

著者と主人公柳生十兵衛のフェミニストぶりが面目躍如たる一編(この場合のフェミニストは田嶋陽子とか上野千鶴子とかではなく昔ながらの「女に優しい男」の意味)。ヒロインは悪の藩主に夫や肉親を惨殺された七人の美女。敵は悪魔的武芸の達人集団「会津七本槍」。いかに十兵衛は自ら手を下さずして手弱女(たおやめ)たちに本懐を遂げさせるのか。幾度の死闘の末に会津七本槍を一人ずつ倒し、ついに会津藩主を追い詰めた彼らの前に立ちふさがるのは、不死の魔人芦名銅伯。うーん、手に汗握ります。

おぼろ忍法帖』(『魔界転生』)

2ちゃんねるやYahooの格闘技系のBBSでは「タイソンがK1に出たらどうなるか」とか「木村政彦と小川直也はどっちが強いか」などという話題が飽きずに繰り返されている。昔なら「「塚原卜伝と千葉周作はどっちが強いか」というところか。時代劇や剣豪小説が娯楽のメインだった時代からの伝統だ。

本書では、切支丹残党の魔忍法「魔界転生」によって、死せる剣豪たちが魔人となって蘇る。宮本武蔵、荒木又右衛門、柳生如雲斎、宝蔵院胤舜・・という歴史上の大達人を迎え撃つのは山田ワールドのヒーロー柳生十兵衛。まさに時代劇ファンの夢の対決だ。この小説は時代劇上の剣豪たちのヒエラルキーを予備知識(というより思い入れか)として持っていないと、本当の面白さは感じられないかもしれない。

忍びの卍

風太郎忍法帖では敵対する二つの忍者集団がトーナメント方式で殺しあうという設定が多い。忍法は一人一芸なので人数が増えれば当然「忍法」の数も多い。一作につき十〜二十というところか。それが本書では、伊賀甲賀根来の三集団の三つ巴の戦いなのだが、代表選手は各一人。なのでメインの忍法は三つ(細かいのは他にもあるが)。しかしその分一つの忍法についてじっくり書かれている。基本技から発展技そして組合わせ技と、読み手の予想をはるかに越えていく。

じっくり書かれるのは忍法だけでない。それを使う忍者も三人だけということもあって、丁寧に個性が描写されている。なかでも宮本武蔵の弟子の重厚な忍者、筏織右衛門がいい。沈鬱な顔して使う忍法はというと、魂を自分の精液に乗せて交合した女人に乗り移る「任意車」という奇天烈なもの。乗り移っていられるのは精子の寿命の約一昼夜。精子が女体中で死に絶えると魂も本体に戻るというのが妙に科学的?だ。忍法のナンセンス度、虚々実々の駆け引き、そしてラストのどんでん返しは忍法帖中一二を争う傑作であることは間違いない。

以上、自分の好きなもののことを書くのは楽しいね。おたくで結構。

あと山田風太郎の特筆すべきは文章のうまいところ。「巧い」や「上手い」より「旨い」という感じか。特に「」という形容詞をわざとらしくなく使えるのは山田風太郎唯一人だと思っている。まさしく「大」作家だ。

*

山田風太郎について詳しく紹介しているファンサイト→雑読雑感

昨日私の書いた「京極本が分厚くとも分冊しない理由」についても書いてありました。あれは著者の意向だったのね。

したたるものにつけられて」  小林恭二 (角川ホラー文庫)

当代一の才人小林恭二の自薦恐怖小説集。

江戸時代のある村を舞台にした民話風小説「流れる」が絶品。川の上流から少女の死体が一つ流れてくる。そこから始まる異様な展開は、陳腐な言い方だが想像を絶する。これほど「書かれていない部分」への想像力を喚起する物語も、まあ類い稀だろう。

著者お得意の歌舞伎の世界に材を取った『田之助の恋』と『葺屋町綺談』もこわい。実在の役者を主人公にして、ここまで空想を広げられるものなのだね。

あとは中国歴史もの、SF風、小味なショートショート風とバラエティに富んでいるが、なかで私のお気に入りは表題作『したたるものにつけられて』。ちょっぴりエロティックでちょっぴりとぼけた奇妙な味が捨てがたい。

やはり小林恭二はおすすめです。

族長の秋」  ガブリエル・ガルシア・マルケス (鼓直訳/集英社文庫1994年)

著者はあの『百年の孤独』でノーベル文学賞を獲得したコロンビア出身の作家。

小説の舞台は中米の架空の独裁者国家。

娼婦の母から生まれた一介の孤児が、軍隊に入り、あくどい手段で昇進を重ね、ついに一国の大統領となる。奇行悪行だらけの治世は百年を越え、母や妻子に先立たれ、孤独と奇病に苦しみ、それでも奇行をくり返す。彼に仕える人々は死と陰謀の中で緊張に満ちた日々を送り、民衆は伝説と化した彼を人間以上のなにかとあがめ、大統領の館の庭には彼の「奇跡の手」で癒されようとレプラ患者がさまよう。

猥雑でリアルな描写と、猥雑でかつ夢のような超現実的な描写が混在する。これがいわゆるラテンアメリカ文学お得意の「魔術的リアリズム」というやつだろうか。

冒頭、大統領府に踏みこんだ人々が荒れ果てた館の中で大統領の死体を発見する。物語はここから過去にさかのぼるのだが、そこはマルケス、尋常の語り口では物語を進めない。

文庫版320頁、たいした厚さではない。しかし読みでは軽く二倍はある。なにしろまったく改行がない文章がびっしりと続くのだ。会話は地の文に呑みこまれカギ括弧「」もない。それだけではない。文章は基本的に独白体だが、誰の独白と明記されずに次々と語り手が変化する。時間も空間も自在に移動し、過剰なまでの饒舌体で、独裁者の生涯と治世が描き出される。

尋常のリニアな語りに慣れた身には、最初はたしかに読みやすくない。が、ラテンのリズムに乗せられると、めくるめくような物語にぐるぐるぐると巻き込まれ、気持ちよい。日本の小説では(皆無ではないけど)なかなかない神話的な豊壌感を味わえる。

本書以外のラテンアメリカ文学、そう読書量が多いわけではないが、読んで損はないと思うのを幾つか紹介しておこう。

一番とっつきやすいと思うのはマルケスの短編集『エレンディラ』(ちくま文庫)。最近新訳が出たばかりの前述のマルケス『百年の孤独』(新潮社)とマリオ・バルガス・リョサの『緑の家』(新潮社)は必読。網羅的なものならボルヘスコルタサルも収録されている『ラテンアメリカ怪談集』(河出文庫)が読みやすいと思うが、例によって絶版かも。

2001年09月

侯爵サド夫人」  藤本ひとみ (文春文庫)

前作『侯爵サド』のレビューの最後で、私はこう書いた。

多数の登場人物のなかで一番謎めいているのは、サド侯爵自身でもキーパーソンの女性でもなく、やはりサド侯爵夫人、ルネ・ペラジーだ

で、本書になるのだが、ルネの物語には三島由紀夫の『サド侯爵夫人』という大先達がある。三島版は戯曲、こちらは小説だが、目に立つ共通点がある。

まず最大のキーパーソンであるサド侯爵自身が登場しないこと。

主要な登場人物がルネと彼女の母親モントルイユ夫人であること。

といっても三島版では、やはりサドの存在は大きい。ルネが夫サドと自分との関係の真実を探るのが大テーマであって、モントルイユ夫人はあくまで脇役である。

本書、藤本版ではサドのありようはあまり問題にならない。やはり前作でサドについては書いてしまっているので、読者には了解事項ということなのだろう。逆にクローズアップされるのがルネとモントルイユ夫人の母娘関係だ。簡単にいって本書は、ルネが母の桎梏から逃れて自分を回復できるかどうかという物語である。

そのルネを助けようとするのが施療院の若き助任司祭フィリップ・ピネルだ。その手法は精神分析医療そのままで全然聖職者らしくない。それもそのはず、このピネルは実在の人物(Philippe Pinel,1755-1826)で、近代精神医療の父とまで言われる人なのだね。ピネル記念病院なんてのまであるらしい。ビセートル病院の初代医長として患者を鎖から解放したり、史上初めてサイコパスについて研究したり、小説の探偵役としてはもってこいの人物だ。

ピネルのルネ救済の旅はもちろん簡単にはいかない、モントルイユ夫人にルネを奪い去られたり苦難の連続だ。そして最後にルネと夫人とピネルの対決になり、クライマックスはそれなりに盛り上がる。恋愛小説、心理小説としては十分に面白いが、しかし、三島版はもちろん、前作と比べても薄味で、ちょっと物足りない。

ただ、ピネルを助ける幼なじみ、「社交界一の伊達男」ギベール伯爵のキャラクターが面白い。彼とピネルが和解する幼き日のエピソードは、クライマックスよりはるかに感動的だ。ここだけで☆(つけてないけど)一つアップの価値は十分にある。

余談だが、『サド侯爵夫人』の舞台を大昔に見たことがある。ルネは小川真由美、モントルイユ夫人は南美江という配役でしたな。小川真由美は当時三十代前半、若く美しかった。華やかさも演技力も申し分なかったけど、なぜかまばたきが多いのがうっとうしかったのを憶えている。

夢の通い路」  倉橋由美子 (講談社文庫)

倉橋由美子の読者にはおなじみだが、著者には「桂子さん」という女性を主人公とした一連の小説がある。『夢の浮き橋』から『交歓』まで四編の長編小説だ。知的で刺激的幻想的な倉橋ワールドの中核的な作品群だろう。

ヒロインの桂子さんは大学生から未亡人になり、出版社を経営することになる知的なご婦人で、周囲には知性教養にあふれ機知に富んだ男女が大勢いる。平明で格調高い文体の中に皮肉や風刺が隠されていて、私の大好きなシリーズであります。

本書は「桂子さん」シリーズの外伝ともいう短編連作集だが、他の長編よりさらに幻想的空想的な色合いが濃い。

夜も更けて犬も夫君も子供たちも寝静まった頃、桂子さんは化粧を直して人に会う用意をする。

桂子さんが会う人は、この世の人ではない。すでに鬼籍に入った死者たちである。

ただの死者ではない。まずは西行法師。彼は死者を蘇らせる修法を心得ていたというからいかにもであるが、続いて歌人の藤原定家、和泉式部に紫式部。外国からは「血の貴婦人」エリザベート・バートリ。実在した人間ばかりではない。かぐや姫に光源氏、ギリシャ悲劇のヒロイン、かのメディーアーまで登場する。

そうそうたるメンバーだが、彼らはみな、桂子さんの魅力に蠱惑されてこの世ならぬ場所からやってくるのだ。そして桂子さんと知的に交感し、性的に「交歓」する。汗の匂いのしない植物的なエロティシズムが美しい。

ラストで彼らが一同に会する「紅葉狩り」が圧巻。遊び心のある文章が楽しい。

あまり私の小賢しい感想など、書く余地はないなあ。この豊かな気分になる小説を読んで楽しんでもらいたい。

しかし、倉橋由美子の著作は現在ほとんどが絶版で、手軽に読むことができない。比較的容易に手に入るのは『大人のための残酷童話』(新潮文庫)と『反悲劇』(講談社文芸文庫)くらいか。悲しいことだ。

R.P.G.」  宮部みゆき (集英社文庫)

著者初の文庫書き下ろし、ということで読みやすい短めの長編。『模倣犯』の「デスク」武上刑事と、『クロスファイア』の「おばさん刑事」石津ちか子が共演する(二人は旧知の仲で石津刑事は武上刑事のマドンナだったらしい!)。それぞれの前作の登場人物にちらりと言及するサービスもあるのだが、もちろん、二作を未読でも本書を読むのになんの支障もない。

建設現場で中年男性の刺殺死体が発見される。三日前に殺された女子大生と被害者の男は関係があったらしい。もう一人、男と関係があった「A子」が疑われるが、捜査の過程で被害者の男がネット上で「擬似家族」を作っていたことが明らかになる。警察は「擬似家族」たちを呼び出し、男の「本当の」妻と娘に面通しをさせる。

この面通し中の武上刑事と「家族」の会話と、隣の部屋でマジックミラー越しに彼らを見る被害者の娘と石津刑事の会話が、小説の大部分を占める。会話の中から被害者と家族と擬似家族のありようが徐々に明らかになっていく。

『火車』でも『理由』でも『模倣犯』でも、そして本書でも、著者の大きな関心は「家族」にあり、家族を中核とした人間関係に対する洞察力が、「小説のうまさ」になっているのだな、と思う。

もちろん「家族のあるべき姿」なんていうお説教が前面に出るようなことはない。なによりミステリーとして面白い。冒頭からラストまでほぼ24時間、ほとんど警察署内部だけで展開する物語を、異様な緊張感が支配する。登場人物の表面上の会話の裏に、なにかが隠されていることが読者にひしひしと伝わってくる。

物語はだいたい予想していた通りの展開をたどるが、ちゃんと推理小説的カタルシスもあって、満足の読後感。ネットのヴァーチャルな人間関係についても一方的な書き方はしておらず、肯定否定両方の見方が登場人物によって披瀝されるから、安心だ。

読んでいて「ああ、これは芝居にしたら面白いだろうなあ」と思っていたのだが、「あとがき」にアガサ・クリスティの戯曲を意識したということが書いてあった。

もし芝居で上演するのならラストで(以下ネタバレ)警察官の制服に着替えて出てきて仕掛けがわかるというビジュアルな演出をしてもらいたい

清水義範の解説が楽しい。著者のリクエストに応じて「ある作家」の文体模写で(全部ではないが)書いているのだ。さすがパスティーシュ作家。

一九三四年冬−乱歩」  久世光彦 (新潮文庫)

本書は小説の形式で書かれた江戸川乱歩の評伝である。

描かれる時間は題名のとおり1934年の冬の四日間足らず。小説の開始早々、乱歩はすでに麻布の外国人向けのホテルに逗留しており、最後までこのホテルとその周辺から出ることはない。それだけの時間空間の中に、乱歩の七一年の生涯と四十年の作家人生が浮かび上がる。

二十八歳のとき名作『二銭銅貨』でデビューした乱歩は、『心理試験』『パノラマ島奇譚』等の傑作を次々と発表し文壇の寵児となる。しかしその後いきづまり、連載執筆中の『悪霊』を中断したまま(何度目かの)失踪をする。

小説はこの失踪中の出来事という設定なのだが、もちろんすべて著者久世光彦の創作である。しかし、綿密緻密な調査の末に書かれたのであろう乱歩の姿は、細かい癖にいたるまで細密に再現され、「大乱歩」と呼ばれた大作家の人物像がリアルに生き生きと浮かび上がってくる。

小説中の架空の人物として、謎めいた美青年の中国人ボーイや、同宿の探偵小説マニアの美貌の米国人の人妻が登場する。大乱歩は彼らと心なじみ心乱され妄想にふけり、はなはだ忙しい。その姿はいささか滑稽であり、微笑苦笑、ときには爆笑をさそう。

滞在中の乱歩はもちろんただ遊んでいるだけではない。妄想にふけりながら新作の執筆をする。私が本書を読みながら読み終わるのが惜しいような気持ちにさせられたのは、この小説中小説『梔子姫(くちなしひめ)』の魅力が大きい。いったいどんな小説なんだ?とお思いだろうが、ここは乱歩以上に乱歩らしいエロティックで美しい小説だ、とだけいっておこう。

それにしても「乱歩が書いたかもしれない小説」を全編書いてしまう久世光彦の自信と筆力には恐れいる。十分「乱歩自身会心とする傑作」になっていると思う。少なくとも私は満足しました。

乱歩のホテルの日常の部分と『梔子姫』の部分が交互に書かれるのだが、クライマックスに近づくにしたがって、日常の出来事と執筆内容がシンクロしていき、二つの部分の切り換えのリズムがテンポアップしていく。あたかも乱歩の息づかいが聞こえてくるかのようだ。

乱歩好きには絶対おすすめの一冊。

2001年08月

人肉嗜食」  中島敦他 (ちくま文庫・猟奇文学館3)

監禁淫楽』『人獣怪婚』と続いたシリーズの悼尾を飾る本書は、ラストにふさわしい秀作ぞろい。カンニバリズムは多くの作家の琴線に触れるものがあるのでしょうなあ。

普通に考えればグロティスクきわまりない行為のはずだが、そこは文学者、ネットに氾濫する悪趣味サイトのような(よく知らんけど)露悪的な作品はない。人肉食が妙にうまそうだったり、エロティックだったり、悲哀に満ちていたりする。

村山塊多「悪魔の舌」。発表は大正三年という人肉食小説の先駆的作品。素朴だがそれだけに迫力がある。作者は夭折の天才作家にして画家。

生島治郎「香肉シャンロウ。中国料理と中国美人の描写は手馴れていて美味そうだが、やや通俗的で物足りない。中国料理と中国美人と人肉食なら、山田風太郎の『妖異金瓶梅』という傑作があるのだが。

小松左京「秘密タブ。狂気とファンタジーがないまぜになった奇妙な味の一編。夫に食べられることを悲しそうに承知する妻が哀切きわまりない。しかし小松左京にはもう一編強烈なカニバリズム作品があるので、そちらを選んで欲しかったな。なんといっても自分自身を食べる話なのだからすごい(題名失念!)。

杉本苑子「夜叉神堂の男」。語りの見事な怪談噺。食人の呪いにとりつかれたのが美形の寺小姓だというのがエロティック。

夢枕獏「ことろの首」。怖くて愉快な民話的ファンタジー。筒井康隆の『熊の木本線』を連想させるといえば雰囲気をわかってもらえるかもしれない。

牧逸馬「肉屋に化けた人鬼」。唯一ノンフィクション。実話の主人公の方が、他の創作作品のだれよりも食べた人数が多いのだから驚きだ。しかも職業は「肉屋」なのだから当然・・。

山田正紀「薫煙肉ハムの中の鉄」。マッドマックスばりの設定は魅力的なのだが、登場人物の心理がもうひとつピンとこない。文章もうまくないが、アクションシーンだけはなかなかいい。まさしく「食うか食われるか」である。

宇能鴻一郎「姫君を食う話」。本書及び本シリーズの白眉といっていい傑作。冒頭のモツ焼き屋のグルメ描写のうまそうなこと、女体美描写の精緻なこと、好いてはならない女人に恋着した武士のマゾヒスティックな哀切さ。いずれも谷崎潤一郎を彷彿とさせる素晴らしさだ。しかも、本書で唯一食人シーンがない作品だというのがまたすごい。

他の収録作品は中島敦「狐憑」筒井康隆「血と肉の愛情」高橋克彦「子をとろ子とろ」

縛りと責め」  濡木痴夢男 (河出文庫)

ハサミ男」  殊能将之 (講談社ノベル)

 いや、これは面白かった。

才色兼備の美少女が、喉にハサミをつきたてられて惨殺される事件が連続し、正体不明の犯人はマスコミによって「ハサミ男」と呼ばれる。

まず、小説は「ハサミ男」らしい「わたし」の平凡な日常の描写からはじまる。「ハサミ男」は一人の少女=樽宮由紀子の身辺調査をしている。どうやら彼女が次の犠牲者候補らしい。精緻な観察、周到な準備のうえに「ハサミ男」がまさに犯行に及ぼうとしたとき、「ハサミ男」は樽宮由紀子が喉にハサミを突きたてられて殺されているのを発見する。だれかはわからぬ「ハサミ男の模倣犯」に先をこされたのだ。

このあと、真犯人をさがす「ハサミ男」の章と犯人を追う刑事たちの章が、交互に語られていく。

新人ながら刑事たちの個性の書き分けなどなかなかうまい。アメリカ仕込みのプロファイリングを駆使するキャリア刑事に対する、たたきあげノンキャリア刑事の反応なども、紋切型にならずキャラクターに応じて書き分けられている。

「ハサミ男」は典型的なサイコなシリアル・キラーであり、小説中で何度も自殺未遂を繰り返す。しかもそういう行為を皮肉る「医師」という別人格を持つ多重人格者でもあるらしい。

だが、「ハサミ男」はサイコものにありがちな、病的な攻撃的・反社会的人格には書かれていない。「ハサミ男」自身の人間観察は冷静であり、仕事などの社会生活は普通すぎるほど普通である。

もちろん「ハサミ男」は殺人者であり、自身の行った殺人について一切の反省の念を持たない。一般人には理解できない「心の闇」の持ち主であることには間違いない。

それでも、その描写はあまりにも自然であり、「ハサミ男」が特別の存在ではないことを暗示しているかのようである。

このように本書はサイコキラーものとして十分な魅力を持っている。

ところが本書の後半には、「意外な犯人」の解明と、驚天動地の展開、そして「奇妙な味」のラストが待っているのだ。

本格ミステリーファンにこそ、おすすめの一冊であります。

ライブ・ガールズ」  レイ・ガートン (風間賢二訳/文春文庫)

風俗嬢が実は吸血鬼、という男性には戦慄の設定のエログロ・スプラッタパンクホラー。

とはいうものの、えぐさなら『ハンニバル』の方が上だなあ。美貌の風俗嬢に魅せられて吸血鬼にされてしまう優柔不断な三流出版社員や、彼をしたう同僚の女性、吸血鬼になった義兄に姉を殺されたジャーナリスト。吸血鬼側も主役のアニアという美女だけでなく、銀髪のレズビアン吸血鬼や、地下室に住むヤク中の血を吸って変形してしまったグログロ吸血鬼など、魅力的(?)なキャラクターはたくさん出てくるのだが、どうもどこかでみたようなイメージで、新鮮さを感じられない。

読んでいるときはそこそこ面白いのだが、読後なにも残らない。それは仕方ないにしても、クライブ・バーカーの圧倒的なビジュアルイメージのような独特の魅力には欠けるといわざるをえない。

まあ、伝説的なスプラッタパンクのカルト的傑作というので、期待が大きすぎたのかもしれない。訳出が早ければ新鮮だったかもしれないイメージも、ハリウッド映画などで使い尽くされてしまったという面もあるだろう。一般的ホラーエンターテインメントと考えれば水準以上。

しかし、ホラーに限らずヴァンプ的キャラクタは黒髪が多いね。アメコミのヴァンピレラも見事な黒髪だし。

2001年07月

夜の姉妹団」  スティーブン・ミルハウザー他 (柴田元幸編訳/朝日文庫)

今度はほとんどが90年代に英語圏で書かれた、ばりばりの現代小説のアンソロジー。

しかし、どんなジャンルかというと、これが困ってしまう。ミステリーやSFやファンタジーやホラーではない。かといって恋愛小説とか心理小説とか、いわゆる「リアルな」小説かというと、そうでもない。

収録されている作家は12人だが、いくつか紹介してみよう。

スティーブン・ミルハウザー「夜の姉妹団」

ある町の少女たちが、毎夜数人ずつ出かけていき真夜中に帰還する。ある種の秘密結社が存在するらしく、彼女たちは行き先もなにをしているかも、絶対にあかさない。大人たちは乱交・サバトなど憶測をたくましくし、噂にまどわされ、ただただ困惑する。沈黙を守りつづける少女たちだったが、ある日彼女たちの一人からの「告白」が町の新聞社に届く・・・・

レベッカ・ブラウン「結婚の悦び」

田舎町に新婚旅行にやってきたカップル。二人きりになりたい新妻だが、次々と夫の友人が訪れ、パーティがはじまってしまう。二人の結婚式の映画が上映され、さらなる来客でごったがえし、パーティはいつ果てるともなく続いていき、やがて幻想的な色合いさえ見せてくる・・・・

スチュアート・ダイベック「僕たちはしなかった」

50年代のシカゴの恋人たち。「僕たち」は一日じゅうキスをかわしていた。それでもなぜかどうしても「やれなかった」苦いような酸っぱいような甘いような思い出・・・・

ラッセル・ホーバン「匕首を持った男」

これは完全にファンタジー。ボルヘスの作品の舞台に出かけた作家は、骸骨の美女やら弟やらに会い、はてはみずからの臆病な過去にまで出会い、おとしまえをつけねばならなくなる・・・・

ルイ・ド・ベルニエール「ラベル」

本書中、一番ユーモラスな一編。キャットフードの缶詰のラベルのコレクションにはまった男が、貧窮の末に発想の大転換で危機を脱する・・・・

ウィル・セルフ「北ロンドン死者の書」

「私」は町を歩いていて、突然死んだ母に出会う。母はもちろん幽霊だが、妙にあっけらかんとしている。「私」は母とお茶を飲みながら「死者の生活」について聞き出すのだが、その実態たるや・・・・

・・・・どうだろう、面白さが少しは伝わっただろうか。

編訳者柴田元幸の好みの小説、という以外共通性がないと言っていいだろう。しかしこの訳者の訳書で失望したことはないので、選択眼は信頼している。

本書収録の短編すべてにある種の共通の味わいは感じるのだが、言葉にするのは難しい。

中国怪奇小説集」  岡本綺堂 (光文社文庫)

岡本綺堂といえばもちろん『半七捕物帳』だけど、怪談の名手でもある。同じ光文社文庫に収められていた『白髪鬼』などの短編集は秀作ぞろいだが、残念なことに現在は絶版のようだ。

本書は、日本文学が古来多いに影響を受けてきた中国の怪奇小説を、綺堂が名文で紹介した短編集。原典は六朝時代の『操神記』から清の時代の『閲微草堂筆記』まで15種。おそらく万の単位の数の話の中から、綺堂が約220編を厳選して訳出している。

1つの話が1頁に満たないのが多く、ストーリーで読ませるというようなのは少なく、ほとんど伝説集である。それだけに素朴な味わいだが、よく知っている日本の古典(例えば八犬伝)の原型らしき話もあり、それなりに面白い。

昭和十年の初刊行時には『支那怪奇小説』というタイトルだったらしい。戦後になって「支那」ではまずいので「中国・・・・」に変えて再刊したというわけだが、このへんの軋轢はなにも最近の石原都知事の支那発言ばかりではないようだ。解説に綺堂自身が昭和13年に書いた随筆が収録されている。

この頃の新聞雑誌をみると、支那人は自国を支那と呼ばれ、自分らを支那人と呼ばれるのを頗る不快に感じるというようなことがしばしば伝えられている。(中略)外国人が支那をチャイナといい、かれらをチャイニーズというに就いては、かれらは別に何とも感じないが、支那という漢字がよくないというのである。(中略)支那という名称を支那人がひどく嫌うというならば、日支親善の建前から考えても、なんとか改正するのも好かろうかと思われる。

しかし、このあと綺堂は「本当に支那という二字は悪い意味なのだろうか」とみずから支那の語源を調べてみる。すると支那は(始皇帝の)「秦」の転音であり、中国古代においても使われていたことを台湾の文献から見つけ出す。かくて綺堂は結論する。

支那という字が悪いなどというのは俗説で、我々は遠慮なくかれらを支那人と呼び、かれらの国を支那と読んで差支えない。それが日支親善に支障を来たそうなどとは考えられないのである。

これを読むと、「支那シナ」と連呼した石原都知事の感覚が戦前に通底していることが良くわかる。しかし、両者を比べると綺堂の論の方が昭和の文学者石原氏より説得力があるように思うのだが、どうだろうか。

まあ、当の中国人自身が不快だといってるのだから、いくら理屈をふりまわしても、しかたがないことだと思うけどね。

語り手の事情」  酒見賢一 (文春文庫)

これは好きだなあ。形而上的ポルノ、ではなくポルノグラフィを題材としたメタ小説とでも言えばいいか。文章は上品、設定も人物造形も品があって、全然えぐいところはない。

舞台はビクトリア朝イギリスのとある館。住人は寡黙な主人と三人の若いメイドと、「語り手」。館には妄想にとらわれた人間が次々と訪れる。彼らの物語を、語り手である「私」が、文字通り物語っていく。

第1章の妄想は、少年アーサーの童貞喪失。

メイドとか女家庭教師はもう心底から淫乱で、いつも発情していて、男とあれば手ぐすね引いて待っている吸精の毒婦のはずなんだけどなあ

しょうがない小僧だが、彼の妄想の対象は「語り手」に向かう。「語り手」は彼の「妄想」の力不足を指摘するが・・・・。

第2章の妄想は、女装趣味の紳士の変身願望。「語り手」の導きで、紳士は妄想の力によって女性へ変身するが、妄想の暴走はとどまるところを知らない。

第3章の妄想は、粗野な「冒険家」のSM奴隷の虐待。対象に選ばれたのは新入りの若いメイド。

首輪付きの革製の衣装は後の世に言うボンデージ・ファッションというものです。乳房から肩まで露出し、股刳りの深い革のガードル、紅潮した肌から少女らしい芳香が匂い立ち、部屋中に満ちました

・・・・垂涎の展開だが、話はSMエロ小説のようには展開しない。男の妄想の脆弱性が暴露され、メイドは大変身し、想像を絶する奇想天外な結末がやってくる。「冒険家」の謎の連れの正体が秀逸。

このように物語のキーワードは「エロス」や「セックス」より、「妄想」であるようだ。「妄想」の物語中のポジションは、映画『スターウオーズ』の「フォース」のようだと言えばいいだろうか。

物語中の最高の「妄想」の使い手は他ならぬ「語り手」である。その活躍ぶりは単なる語り手であるより、やはり「主人公」にふさわしい。しかし「語り手」は名前も性別も判然としない存在で、かたくなに「主人公」であることを拒否し「語り手」であることに固執する。

しかし第4章に至って、「語り手」にその立場の改変を迫る人物が登場すると、微妙に「語り手」と「物語」の構造が変化して行く。そして最終章には、なかなか感動的でファンタジックな結末が待っている。

作者自身、あとがきで「メタ・フィクションなどではなく恋愛小説である」と断言しているが、私には、凡百のエロ小説よりずっとエロチックな感興を得られた「良い小説」でありました。

悪魔の中世」  澁澤龍彦 (河出文庫)

著者みずから「若書き」と評する初期のエッセイ集。たしかに、後年のものより文章が硬いような気がする。「中世」と時代を限定したためか、いつもの時空を自在に飛翔する澁澤風連想の妙もいささか影をひそめている。

しかし、逆に言えば、1979年の刊行時、著者30歳そこそこでこの博覧強記ぶりは、やはり驚嘆に値する。しかも著者みずからはしがきに記すとおり、「悪魔学」は「まだだれも手をつけていない領域」だったのだ。今では「悪魔」関連書は読みきれないくらい出版されているが、卑俗なオカルト趣味が大半で、本書のような「ちゃんとした」悪魔の図像学の書で、しかも手に入りやすい良心的な本は、いまだに少ないのではないだろうか。

収録されている悪魔の図版は数多いが、そこは文庫版、細部が判別しがたいほど縮小されている上、活版なので陰影の細かいニュアンスも飛んでしまっている。まあ、本書はサムネイル集と思って、気になる絵は大きい画集で捜せばよい、ということでしょうな。

ワニと龍」  青木良輔 (平凡社新書)

児童書を除けば本邦初のワニの本だそうだ。

著者は日大の農獣医学部を出た爬虫類両生類の専門家だが、話題は生態学や分類学だけでなく、龍の起源(もちろん「それはワニだ」というのが著者の主張だ)についての象形文字の変遷まで及び、なかなか幅広い。

しかし、どうしても地味な動物であることは否めない。骨格やまぶたによる詳細な分類の話など、図解が少ないこともあって、正直、私には少々退屈であった。

むしろ面白かったのは「自分は動物嫌い」と公言する著者の皮肉たっぷりの文体の方だ。

どうも著者は、ワニと同時代を生きていて絶滅した「敗者」である恐竜が、ワニより遥かに人気があることが気に入らないらしい。「現在も恐竜が生き残っていたら、ほとんどの人は、迷惑なデカいトカゲくらいの意識しか持ちえなかったに違いない」などと、恐竜好きの気持ちを逆撫でするようなことを書く。

それだけではなく「恐竜本は嘘ばかり」と、ディノニクス類を槍玉に挙げる。例のジュラシックパークで有名になった「殺戮マシーン」ヴェロキラプトールだが、従来殺戮用の危険な武器とされていた後脚の長大な爪は、人間の薄い皮膚ならともかく爬虫類の鱗に覆われた強靭な皮膚を裂くには役に立たない。爪は元々皮膚の変形したもので、歯のエナメル質ほどの硬度は持てない。ディノニクスの歯はそれほど発達してはいない。ゆえに肉食であることは間違いないが「殺戮マシーン」にはほど遠い。

では長大な爪はなんのためのものか。著者は指の構造はつかむためのものであり、ディノニクス類は樹上性だったと推理する。説得力豊かに恐竜ファンの夢を破壊して、悦にいる著者の顔が見えるようだ。

こういう動物本は、最後に人間による環境破壊について言及し、自然保護の重要性を主張するのが定番だが、さすがに皮肉屋の著者はここでも一味違う。野生動物保護のため絶滅危惧種を動物園で累代飼育して子孫を残そうという「ズーストック計画」に対し、「淘汰という人の領域ではないものを侵している点ではバベルの塔の話が思い起こされる」と疑念を表明する。

ワニの飼育技術は他の動物に比べ、かなりの水準にあるらしい。それは古来からワニの皮革が珍重されてきたからでもある。「皮肉なことだが、ワニの種の保全が皮革業界がもたらす経済的支援に負っていることも見逃すことはできない」という著者の「皮肉」な指摘は、感情的な自然保護論では見えない部分を明らかにしてくれるのはたしかなようだ。

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